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 1.

 暑い……。
季節はどうやら夏らしいから、暑いのは当たり前といえば当たり前なのだけれど、それだけではどうにも納得のしようがない暑さ。少なくとも、僕は今までこんなに暑い夏を経験したことがない。
 見上げた先。じりじり、と音が聞こえてきそうなくらいに揺らめく太陽は、いつも僕が見ているそれよりも、幾分大きく見える。
ワイシャツの首元をぱたぱた、とやりながら、今度は周りを歩く大勢の人たちを目で追った。せわしなく、せかせかと動く人たち。人はこんなに早く歩くものなんだ。
熱気と湿気が不快に混ざり合って頭を揺らす。スーツのサラリーマンも、厚化粧のおばちゃんも、やけに短いスカートの高校生も、みんな歪んで歪んで、うわ、なんだか気持ち悪くなってきた。もしかしたら、さっきのあれ(・・・・・・)の後遺症なのかもしれない。
人の波を避けるように、僕は道の端に腰を下ろした。ため息を一つ。
「はぁ……」
 まさかこんなところだとは、思ってもみなかった。背中を丸めて、相変わらずせかせかと歩きゆく人の波を眺める。みんなが向かう先には巨大な建物。あれがどうやら、駅らしい。秘密基地か何かの入り口のように、僕には見えた。だって僕の知っている駅と言えば―いや、今はそんなことはいいや。
 ショルダーバッグを開けて、写真を取り出す。そこに写った女の子は、あらためて見てもかわいいと思った。少なくとも、僕の周りにはいないタイプ。
 大きなポニーテールがスポーティな印象。確か、バレーボールをやっているんだっけ。
くりっ、と大きく開かれた目が、真っ直ぐカメラに向いたその写真を眺めながら、すでに頭はどうやってこの子に会おうかということを考え始めていた。思っていた以上に、順応性が高いらしい僕。
とは言え、右も左も分からないことだらけ。手がかりと言えば―僕は写真をくるり、と裏返し、そこに斜め書きされた彼女の名前をつぶやいてみた。
「鳴平(なりひら)、マイ」
 これだけを頼りに、彼女を見つけ出さないといけないらしい。もう一度ため息。この数分で感情の起伏が随分と激しいな、なんてことを考えながら、とりあえず僕は立ち上がった。いつまでもここにこうしていたって、向こうから出てきてくれるわけがないからね。
 とりあえずどっちに向かおうかと思ったところで、僕の前を横切った女の子。駅から出てきたらしい彼女のブラウスの首元に赤いリボンが見えた気がして、僕は駆け足で一度彼女を追い抜いた。三〇メートルくらい走ってから、いかにも道を間違えたかなぁ、といった挙動で振り返る。先ほどの彼女はちょうど一〇メートルくらい先にいた。ゆっくりと、すれ違うときに彼女の格好を確かめて、背中で見送ってから、僕はもう一度、鳴平マイさんの写真を取り出した。
 夏以外の季節に撮られたものらしく、上着こそ羽織っているものの、今すれ違った彼女の首元にあったリボンと同じものが、写真に写ったマイさんの首元にもあった。と、いうことは。
 僕は小さくガッツポーズを作る。
 まさかこんなにもあっさりと手がかりがつかめるとは思ってもみなかった。いつだったか読んだ探偵小説のことを思い出す。まるで自分がその主人公になったような、多少の高揚感。
 と、浮かれてる場合じゃない。僕が何とかしないと、マイさんは―
 大急ぎで写真をしまい、暑さと興奮とで汗ばんだ額を右腕でぬぐうと、僕はもう一度振り返り、マイさんの通う高校に向かうのだろう彼女のあとを、追いかけた。


    ※


 世の中の人みんなが敵に見えることってある? わたしにはある。……ううん、正確に言えば、あった、かな。
 もう何年も前のこと。今はそんなこと考えてる余裕ないし。それに、今は充実してるし。
 ……なんてことを考えてること自体、まだ吹っ切れてない証拠だよね。そう、ホントは全然吹っ切れてないんだ、わたし。
 地元の高校じゃなくて、わざわざこんな遠くの私立に来たのだってそう。強い学校でバレーがやりたいから、なんて言い訳だよ。ここならみんな、わたしを「庄司(しょうじ)」って呼ばないって、そう思ったから。ただそれだけ。
お父さんのこと、忘れたいわけじゃない。だけど、覚えていることが辛いなら、忘れちゃったほうがいいじゃん。
 ……これも言い訳。ここではみんなわたしを「鳴平(なりひら)」って呼ぶけど、家族の話になったらすぐに分かることだもん。わたしにはお父さんがいなくて、みんなにはいる。忘れられっこないんだよ。当たり前だけどさ。
 ときどきね、月に一回くらい、こんなことを延々と考えてるときがあるの。何もしていないとき、急に頭をよぎることが多いかな。今日がちょうどその日だったみたい。
午後二時。授業時間。だけど別に先生の話を聞いてないわけじゃないよ。今日はみんなお待ちかねの期末テスト最終日。そして、今はその最後の教科、英語の時間。比較的得意な教科だから、思いのほかさっさと片付いて、徹夜気味の頭を休めようとうつ伏せたところにいつものこれが頭をよぎったってわけ。
 ナチュラルハイってやばいよね。いつもよりもいろんなことがぐるぐる頭ん中を回ってる感じ。文字通り輪をかけて、っていうの?ほら、これも余計だよ。こんなこと考えるより、せっかく残った貴重な一〇分間を睡眠にあてたいわけよわたしは。嫌でも毎月考えるじゃん、今じゃなくてもいいじゃん、寝させてよっ!
 キーンコーンカーンコーン。
「はい、それじゃあ後ろから答案集めてぇ」
 化学担当のおじいちゃん先生の間延びした声に、わたしは盛大に目の下が黒くなった顔を上げた。席は窓際。昼の日差しがじりじり、と暑い。
 自信アリの答案用紙を回収係に手渡す。おじいちゃん先生は熱心に読んでいたニュートンをようやく閉じ、集めた用紙の枚数を確認すると、いつも通り背中を丸め、無言で教室を出て行った。
 教室がざわつき始める。ここ数日間ご無沙汰の穏やかな空気。わたしも一度大きく伸びをして、首をぐるり、と大きくまわした。高校の期末テストからの開放感がこれほどのものとは思わなかったよ。
「マイ、どうだった……?」
「英語は得意なのよん」
さっきのおじいちゃん先生以上に背中を丸め、だらり、と両腕を垂らしながら近づいてきたフミ―久沢文香(ひさざわふみか)―に、重たいまぶたを何とか動かしてウインクをしてみせる。
「ちぇー、聞くんじゃなかった」
「数学はフミの方が得意じゃん」
「まぁそうかもしんないけどさー。あー、もういいや。寝たい」
「酷い顔んなってるよ」
「あんたに言われたくないわー!」
 そう言って互いに目の下のクマを指差して笑い合う。
 笑ってる。わたし、今はちゃんと笑えてるよ。


 
 ミンミンいってるから、多分ミンミンゼミだと思う。
 夏なんだなぁ、なんて考えながら、小学校の自由研究で、昆虫の標本を作ってくる男の子が毎年一人はいたことを思い出す。
 一日の最も熱い時間。太陽からの熱とアスファルトから照りかえす熱のはさみうち。プラス湿気。さらに無風。
この街に来て、初めての夏。
「夏のセミがこんなにうっとおしいもんだとは思わなかったよ……」
 いつもの帰路、その両脇にまばらに立つ、緑に茂った木。見上げた葉と葉の間に一匹セミを見つけて、わたしはうらめしげに呟いた。
「いやんなるわこの暑さ…」
 そう言って乱暴にリボンをほどき、二つ目までブラウスのボタンを開いたフミの、白い首元が覗く。
「ずっと住んでるのに?」
「これは、慣れようがないっしょ……」
 右手で一つにまとめた亜麻色の長髪で、フミは首元をあおいだ。
 熱が粘度を伴って体中にへばりつく感覚。確かに、これは無理だわ。
「そうかもねぇ……」
 二人して目を細めながら太陽を見上げる。寝不足の目に日差しがあまりにもきつくて、わたしはたまらず目をしばたかせた。
「なんかさぁ、二人とも元気無いね?」
 久々に口を開いた背後の彼。わたしとフミがほとんど同時に振り返って睨みつけると、若干見上げる高さにあるその顔が、三〇度くらい右に傾く。「どうかした?」って言いたいんだと思う。
「なんであんた、そんな平気そうな顔してるわけ……?」
 相変わらず束ねた髪の毛で首の後ろをぱたぱたやりながら、フミはヒロ―天野(あまの)大貴(ひろたか)―にそう問いかける。
 じっとり、と汗ばんだフミの顔に一度目を丸くさせたヒロは、まるで秋口の涼しさを一人だけ先取りしたかのように、文字通り涼しげな顔で言葉を返した。
「ああ、だって、昨日はちゃんと寝たからね」
 バリバリのスポーツマンにも関わらず、そんなイメージからはかけ離れた爽やかフェイス。わずかに覗いた歯に日差しが反射して、白い光が照り返す。ハミガキ粉のCMにでも起用してもらえそうなその笑顔は、けれどフミにはお気に召さなかったようで。
「そこじゃないわよっ!」
「うふぁ、なにふるんふぁほー」
 両の拳で思いっきり顔を挟みこむっていうこの光景も、もうずいぶん見慣れたもんだ。
 さぞかしおモテになるだろう、いわゆるイケメンの部類に入るヒロではあるけれど、この数か月の付き合いの中で浮いた話は聞いたことがない。多少の天然っぷりが問題なのか、あるいは日常茶飯事のフミとのこのやり取りのせいなのか。(ちなみにフミは年下好みらしいから、ヒロのことは全く眼中にはないそう)
「なんなの、その涼しそうな顔? しかも昨日はぐっすりなわけね? そうなのね?」
 ものすごい顔で縦にこくこく、と首を振るヒロ。だからそれ、火に油だって。
 顔を扁平させられながらも、根が正直なヒロはさらに何の嫌味もなくこんなことを言ってしまうのだ。
「だっへもう、しへん範囲ばっひりだったから」
「ほほぅ……、それはそれは、良かったわねぇ」
 こっちからは見えなかったけど、フミがさぞかしすごい顔をしていたであろうことは想像に難くない。
「いふぁふぁふぁふぁっふぁ!」
 むぎーっ、と思いっきり両の頬をつまんでその勢いのまま離す。ばちん、って音が聞こえてきそうなくらいにそれはもう思いっきり。
ああ、小学生の頃こんな遊びしたなぁ。ついでにまた思い出しそうになった余計な事は、頭の片隅に無理やり追い払う。
「あたしよりいい点数だったらただじゃおかないわよっ!」
 ただでは済まないらしいことが決定いたしました。
 それはともかく、鼻息荒く振り返り、足早に先を行くフミの顔は、今度はやけに晴々としていた。ストレス解消の方法があるのはいいことよね。それが他人に迷惑のかからないことだとなおいいけど。
「そんなぁ…」
 両手で赤くなった頬をさするヒロがちょうど隣に並んだところで、わたしは少し高い位置にある彼の肩をぽん、と軽く叩いてやった。
「申告は適当にしといた方がいいよ」
 そうしてヒロは小さくこくん、と頷いたものの、実際は正直に報告してひどい目にあうんだろうなぁ。
「ともかく、これでようやく夏休みねっ!」
正面に視線を戻すと、一オクターブも高くなった声でそう言いながら、普段から大きな瞳を一段大きくして満面の笑みを作るフミ。何かを思いついたときの顔。
「マイは夏休みどうするの?」
「どうするって、部活じゃん」
 依然うんざりするような暑さに生返事を返すわたしに、さっきまで隣で暑さにぐったりとしていたはずのフミが、らん、と瞳を輝かせながら続ける。ちなみに後ろ歩き。
「いいじゃん少しくらいさぼったって。でさ、海行こうよっ!」
「海?」
 その響きが脳内に広いビーチを喚起させる。そういえば、海なんて何年と行ってない。
「新しい水着、買ってもらったの。せくすぃ~なヤツ」
 あー、なんとなく意図するところが分かってきちゃったぞ……。
「高校生の夏休みって言ったら、ひと夏のアバンチュールって相場は決まってるじゃない?」
「それ、アバンチュールって言ってみたいだけでしょ」
「それでそれで、年下の男の子を引っ掛けてさ」
 無視ね。
「いや、年下って中学生じゃん……」
「夕暮れの浜辺。寄り添う二人。なんやかんやあって……、いや~ん!」
 はい聞いてない。
 実際のところ、フミは美人だ。羨ましいくらいのスタイルにつやっつやのロングヘアー(バレーやってるのに)。仮にモデルやってます、なんて言われても全く違和感がない。むしろそこらのモデルよりよっぽどモデルらしいんじゃないだろうか。特に腰のくびれがやばいのよこの子は。
 海は確かに行きたいけれど、フミと並んで歩くことを想像すると、若干気持ちもしぼんでくる。左手に持ったバッグでお腹を隠しながら、気づかれないように、人より硬い腹筋をつまんでみた。うーん、なんとも鍛えられた我が肉体。もうちょっとくらいふくよかな感じになってくれてもいいわよ……。
「ねっねっ、行こうよー、マイー」
 駄々っ子みたいに駆け寄って、わたしの腕を掴むフミ。
「あーつーいー、はーなーれーろー」
 ぶん、と大きく振った手に追従して、フミも動く。
「行くって言うまで、離さないわよー」
 完全にイタズラっ子の目でじゃれつく彼女をじとー、って見つめて、いつものように大きくため息。
「やったー! 海うみ~!」
 わたしが折れるときの合図。
 フミは、さっきまであんなに暑い暑い言っていたのが嘘みたいに、軽快なステップを披露してくれた。頼むからやめて。見てるだけで暑い。
「あの――」
 久々に口を開いた隣のイケメンを仰ぎ見る。物欲しそうな視線は先行くステップ女の背中に刺さる。
「――俺は誘ってくれないの?」
 絶妙な角度に傾けた、サワヤカな笑顔。見る人が見ればなんともツボに入りそうなもんだけれど、一拍遅れて振り返った相手は、誰あろう年下趣味のフミなので。
「え、なんで?」
 よく見る光景パートツー。フミちゃんのばっさり口撃。
「なんでって、と、友達じゃん」
「えー、だってヒロ、なんか目がエロいもん」
「エ、エロくないっすよっ!」
 なぜ慌てる。
「絶対いやー。あたしのボディが目的でしょ」
 わざとらしくそう言って、両腕で身体を抱きかかえるフミ。胸おっきいなくそう。
「鳴平もなんとか言ってよー」
 一〇センチも高いところから懇願の視線を向けられて、わたしは適当に頷いた。
「いいんじゃないの、フミ?」
「やよー。そんなでっかいのが隣にいたら、ヤングたちが逃げちゃうじゃん」
 そう言ってくるり、と振り返ったかと思うと、フミはもう一度、今度は何かを思いついたときの悪戯っぽい顔でこちらに向き直った。
「まぁそうねぇ、大貴の中学時代の後輩を連れてくるってんなら、考えてあげなくもないわ」
「こんなとこまで連れて来れるわけないじゃん……」
 いつものことながら小さく頬を膨らませて、うらめしそうにフミを睨む。そんな彼は西の方の出身。そりゃあ後輩君たちもわざわざこんなところまで来るまいよ。
 彼の心底困ったような表情に大きく一度鼻を鳴らして、フミはなんとか妥協案を出してくれた。
「しゃーないなぁ。そんかわり、逆ナンタイムの間は別行動だからね。君たちはそっちで仲良くやっててよ~」
「え、べ、別に俺そんなつもりじゃ……!」
「あんたね、誘っといてそりゃ無いんじゃないの?」
 なぜか慌てるヒロを横目に、そんじょそこらの女優なんか目じゃない笑顔を浮かべたフミを、今度はわたしが睨みつける。わたしだって、その、せっかく行くんだし、ちょっとした出会いがあるかもしれないじゃん?
「というわけで、ヒロも可愛い子探せばいいよ」
 そういってわたしは彼の背中をばん、と叩いてやった。初対面の相手ならばっちり落とせるさ。
「いや、だから、俺は別に……」
「なるほどね。誰が一番アバンチュール出来るか、勝負ってわけだ」
 にやり、と唇をつり上げるフミ。だからあんたアバンチュールって言いたいだけっしょ。
「よしゃ、それじゃマイも早速水着買いに行こう!」
「え、いいよまだ着られるのあるし」
 よくぞ引越しの荷物に水着を入れていたもんだ。四月のわたし、偉い。
 けれど、それを聞いたフミはわずかに目を細め、右手の人差し指を小さく一往復させながら「ちっち」と漏らす。
「どーせスクール水着みたいなもんだろー?」
「むっ……」
 言葉に詰まる。確かに、そんな感じのものではある。
「そんなんじゃ、一部のまにあな方しか寄ってきませんよ」
 下から体を寄せてきたフミを見下ろして、「じゃあどんなのがいいのよ」と言うと、
「お嬢さん、あたしたちは花の高校生ですよ?セパレートにしましょうや」
「せ、セパレート……?」
 いわゆる、ビキニというやつですか!
 自分がそんなものを着ているところを想像して、不覚にも顔が熱くなる。
「マイちゃんは、案外いいカラダしてますからなぁ」
 じろじろ、と低い姿勢から見上げる格好のフミの頭頂部に手刀をお見舞い。とう!
「オッサンか!」
「痛い」
「まぁいいわ、着てやろうじゃん」
 多少の照れと、同じくらいの期待を誤魔化しながら、わたしはふん、と鼻を鳴らした。
「んじゃ、れっつショッピング!」
 フミは満面の笑みを浮かべると、チョップを喰らった場所をさすりながら走りだした。見てるだけで暑い。ついでに眠い。だけど、この際そんなことはどうでもいいや。汗をかくのには、どうせ慣れてる。わたしも首のリボンをするり、とほどき、乱暴にバッグに突っ込むと、彼女の後を追いかけた。
「ちょっと、俺は?」
 後ろからもテンポの早い足音。首だけで振り向いて笑ってみせる。
「ヒロのも選んであげるよっ!」
「ホントに!?」
 そう言って笑ったヒロの顔には、さすがに小さな汗の粒が浮かび始めていた。
 足音と、セミの声。
 わたしたちが海に行くまで、君たちは生きていられるのかな。
そんな考えがふっ、と頭をよぎる。
寿命で? それとも小学生に標本にされて?
別の木の葉と葉の間に、また一匹セミを見つける。
視線の端を流れていった、必死に鳴き続けるその姿を見て、ほんの少しだけ、この声が許容できるような気がした。



 隣駅から通うフミを途中まで送り、寮に戻る頃には、陽も傾いて暑さも幾分和らいでいた。
右手にはバッグと一緒に小さなビニール袋。中身は生まれて初めてのセパレートの水着。もう何度目か分からないけれど、わたしはそれを目の高さに持ち上げて、袋越しにうっすらと見えるシルエットを眺めた。
「楽しみだねっ」
 さすがに眠い。けれど、気分は上々。声が普段よりも高いということには、自分でも気がついている。
「そうだね」
 同じく上機嫌と分かる声が、頭の上から降りてきた。わたしのよりも少し大きめのビニール袋を掲げて眺めるヒロ。
男子寮の門が近づいてきて、わたしたちはほとんど同時に袋を下ろした。
「それじゃ、またあとで」
「おう」
 そう返し、軽く手を振って門をくぐるヒロの背中を見送ると、わたしも一〇メートル先にある女子寮の門へと向かう。
うちの学校の寮はなんともおかしな造りをしていて、男子寮と女子寮をつなぐように、共通の施設―食堂や談話室―が備えてある。ヒロがまたあとで、と言ったのは夕食時に顔を合わせるからだ。
 じっとり、と汗ばんだ肌に張り付くブラウスを、一度指で引っ張る。わずかに風の流れが生まれたものの、指を離せば次の瞬間、再びぺたり、と不快な感触が肌を包む。
「うへぇ……」
 とにかく一度シャワーを浴びよう。そう考えて、寮の敷地に足を踏み入れようとしたときだった。
「鳴平マイさん」
 後ろから名前を呼ばれて、わたしは一瞬考えた。
 ヒロじゃない。聞き覚えのない声。どこか幼さの残る響きのよう。
ゆっくりと振り返る。五メートルほど先に立っていたのは、その声に感じた通り、男性と呼ぶよりは、男の子と呼ぶのがしっくりとくるような少年。
 沈黙。
夏特有のBGMが、再び耳に流れ込んできた。
首をわずかに傾けて彼を眺める。顔立ちの幼さや、半そでのワイシャツから伸びる腕の細さ。当時の同級生の様子を思い返して、中学一、二年ではないかと当たりをつける。
 それにしてはおかしい点が一つ。彼の身につけている制服が、わたしの通う高校のものだということ。
いや、何歩か譲ってそこには納得してみようか。発育って人によって結構違うもんだし、高校生でもこのくらいの男の子はいるのかもしれない。うん、そう考えてみてみれば、わたしより一〇センチも小さい彼がなんとなく高校生に見えてきた。
じゃあ次。彼はいったいナニモノで、わたしに何の用なのか。それについてもわたしが聞くより早く、先に彼の方が口を開いた。
「僕、あなたを助けに来たんだ」
 ホワット?
 え、今なんて言った?
 表情に出ていたらしい。一瞬困ったような顔を作り、彼はもう一度繰り返す。
「マイさんを、助けに来ました」
「どゆこと?」
 疑問、っていうほど明確に問い返したものではなく、ただぽつり、と漏らした一言。だけど、どうやらこの一言が彼にとっては聞きたかった言葉らしい。きり、と幼い表情を一度引き締めると、今度はさっきよりも重い調子で、彼は言った。
「五年後、あなたが死ぬ運命を変えるために、僕はここに来ました」
 視線を交錯させたまま、傾けた首をさらにほんの数度傾ける。
 ホワット?
 ミン、とひと際大きな声を最後に、BGMがやんだ。



「ごちそうさまっ!」
「はいよ、おそまつさま」
 おばちゃんに食器を返し、適度に膨れたお腹を叩く。
 やっぱりシャワーでさっぱりした後のご飯は最高だわ。
 ウチの寮のご飯はおいしい。これは正直当たりだったと思う。ちなみに今日のメニューはとろろそばとカレーライス。夏バテ対策メニュー第一弾だそう。
 さて、と。
 振り返ると、相変わらずの光景が目に入る。一緒に食事をしたいつものメンバー――今日は一様に眠そうな目をしている――に先に戻ってもらうように促して、わたしはまだカレーライスを半分残したヒロの対面に腰掛けた。
「食べてあげよっか?」
「いいよ、ゆっくり食べてるだけだから」
 さっきまでヒロの周りを囲んでいた男子はすでに部屋に引き上げてしまったようで、いつも通り、残ったのは彼一人。ホント、人は見た目じゃ分かんない。わたしが彼に最初抱いたイメージそのままだったとしたら、ヒロはもうカレーの皿を五枚は重ねていないといけないんだから。
「そういやさ」
 そうそう、面白い話題があったんだ。ヒロと別れてから女子寮の前であった出来事を話そうと思ったわたしだったけれど、食堂の隅に置かれたテレビを眺めながら、ナマケモノが食事するみたいにゆっくりとスプーンを口に運ぶヒロの様子を見て、なんとなく続きを言い出しにくくなった。
 これまたゆっくりと咀嚼をしながら、「なに?」っていう視線を向けるヒロに、わたしは小さく首を振り、「ん、あとでいいや」と言って立ち上がった。
 明日、フミも交えて話そう。
「うん」
 頷いた彼に軽く手を振って、食堂を後にする。
 大きなテレビが備え付けてある談話室からは、男女数人の笑い声がこぼれていた。知った声もあったから一度は混ぜてもらおうと考えたものの、途中でに聞こえた「問三の答えはさぁ――」の一言で、方向を変えかけた足が再び進路を元に戻す。
いろんな意味の満腹感。眠気がじわじわと頭を侵食してくる。ご飯の前に昼寝でもするんだったよ。わたしはそのまま談話室の前を足早に通り過ぎた。
やけにモダンな雰囲気の照明が備え付けられた渡り廊下を抜けて女子寮へ。これ以降はいたって普通の簡素な建物。ちなみに男子寮も同じ造り。中央と両端の内装の違いには疑問を抱くものの、入学から何カ月か経った今この時に、取り立てて考えるべきことでもないわけで。
 最優先事項は、そう、寝ること。
 二階奥の自室にたどり着くなり、わたしは部屋着であるジャージの下を脱ぎ捨てた。きれいに揃えるなんて作業も最早もどかしく、足元も見ずにスリッパを脱ぎ、部屋の一番奥に横たわるベッドに側面からダイブした。
 ぼふ、と気持ちのいい音が響く。ひんやりとしたシーツに顔をうずめて、うつ伏せたまま動きを止めると、意識ってやつがゆっくりと頭の中を回転して、散っていくのが分かった。
 今、八時半くらいだっけ。七時に起きるとしても、うん、十分な睡眠時間。
 にしても、暑い。
 右腕だけを上げて、片側の窓を全開に。
 昼間と比べればいくらかマシと思える程度の温い風が吹き込んで、むき出しになった首と腕を撫でた。
 今日日エアコンくらい、あっても良いと思うよ……。
 あと少しで意識が消える、そう自覚した直後。
 コツン。
 硬質な音が響いて、身体がぴくん、と反応するのが分かった。
 コツン。
 さっきよりも大きな音。
 飛びかけた意識、集合。
 気のせいだよ。そう言って片付け、ころん、と寝てしまうには、意識さんははっきりとしてしまっていた。悔しいことに。
「なによぅ……」
 腕の力で上半身を起こすと、窓ガラスがちょうど正面にある。ようやく数ミリ開いた目で見ると、眠そうな顔の見知った女の子がそこにいた。失礼ね。いくらなんでもこんなブサイクじゃないわよ。
 コツン。
「わっ!」
そんなセルフ突っ込みの最中だったから、ってわけじゃないけれど、これにはさすがに驚いた。わたしの顔が映ったそのちょうど中央、ちょうど鼻の辺りに、何かが飛んできて、落下したんだ。
 反射的に引いてしまった身体をゆっくりと窓ガラスに寄せて、下を眺める。
暗い敷地。数メートル離れた場所に立つ街灯の明かりが無ければ何も見えなかったわけで、そこに見覚えのある姿を認めてしまったのは、運のツキ。
 彼にとって。
「マイさ~ん……」
 小さな声が、網戸越しに聞こえてくる。
 さてと、わたしの安眠を妨げた罪は、いかにして償わせてあげようかしら。
「ねえアンタさ、ここ女子寮なんだけど」
 網戸を開いて街灯に照らされた彼を見下ろし、敵意を込めてそう言った。
 さっきはともかく、こんな時間に女子寮に忍び込んでおまけにわたしの眠りまで妨げるとは、さすがに笑い話じゃ済まされないぜ少年。
「よかった。見て欲しいものがあるんだ」
 話を聞けよ。
 はっきりとした表情までは見えなかったけれど、声音から判断するに、多分笑顔。
「あんたね、いい加減に――」
 「――しないとケーサツ呼ぶわよっ!」わたしが用意した言葉を叫び切るよりも、彼の動作の方が早かった。
「これっ!」
わたしよりも大きな声で叫ぶと、彼はショルダーバックからそれを取り出し、二階の窓――つまりわたしに向かってぐっ、と突き出した。
 何かを握りしめているのが分かる。ひも状の何か。突き出した勢いで、その先に垂れ下がったモノがゆれた。街灯を反射して、淡い光の軌跡を小さく描く。
 なぜか、わたしはそれに目を奪われた。
 ううん、なぜか、じゃない。わたしには、確かにそれ(・・)だってことが、分かったんだ。だってそれは、わたしとお父さんの、たった一つの繋がりだから。
 ゆれが収まると、そこには小さなアクセサリ。暗い上に遠目だったけれど、見間違えるはずがない。数字の8をかたどった銀のネックレス。
 ふつ、と頭に血が上るのが分かった。
 しょーもない冗談で気を惹こうとするなんてのはまだ許せる。実際、さっきまで笑い話にしようと思ってたくらいだ。
 だけど、これはやりすぎだぞ少年。
君が盗んだのは、わたしの、何よりも大切なモノだ。
「あんた! ちょっとそこで待ってなさいっ!!」
「うんっ!」
 一瞬のうちに返ってきたその声は、すでに背中で受けていた。乱暴にジャージのズボンだけを履きなおし、わたしは廊下に出た。暗さに慣れた目が眩しさを訴えたけれど、頭に上った熱にびっくりしたのだろうか、瞳孔はすっ、と閉じてくれる。
 寮内がいつもと比べてやけに静かなのは、テスト疲れで眠ってしまった人が大半。特にいつもと変わらない睡眠で乗り切った数少ない成績優秀者は、談話室で今回の出来についてでも語り合っているんだろう。
 そんな静かな廊下だから、ぺたぺた、という足音がやけに響く。わたしの心中を再現するならば、ずんずん! といったところなのだろうけど、あいにくそんな気の利いた――あるいは無駄な――機能は当寮には搭載してございません。床に触れる素足がひんやりしたけれど、頭に上った熱をクールダウンさせるには、足の裏はあまりに離れすぎていた。
 割り当てられた靴箱からサンダルを掴んで外に出ると、変わらずぬるい風が体を撫でる。室内よりはいくらかマシな程度。
左方向に曲がると、建物に遮られていた街灯が姿を現した。数メートル離れたところに、彼を見つける。
 右手には、しっかりとネックレスを握りしめたまま。
「それ、返してくれる?」
 分かってる? わたし、今かなり怒ってるよ。
 一歩近づくと、夕方見たものと同じ、彼のまだ幼い顔が、ほんの少しだけ困惑の表情を浮かべるのが見えた。
「うーん、この場合は、いいのかなぁ……」
 そう呟きながら小さく首を傾げた彼に、わたしはさらに一歩近づいた。土の地面にサンダルのこすれる、ざっ、という音が、街灯の低い作動音に混ざる。
「でも、うん――」
 一人何かに納得したような素振りを見せて、
「――マイさんには信じてもらわないといけないから、とりあえず、渡すよ」
 そう言うと、今度は彼の方からゆっくり近づいて右手に握ったネックレスをすっ、と持ち上げる。それはわたしのちょうど目線の高さ。
「渡すも何も、あんたがとったんでしょーがっ!」
 8の部分を掴んで引っ張ると、ネックレスは思いのほかするり、と、わたしの手に移った。
そして、彼の見上げる瞳を睨みつける。
「次やったら、ホント承知しないから」
 告げて、部屋へと引き返す。
 不快な湿気が怒りに熱を帯びた身体にまとわりついて、余計に不快感。
 寝る。寝て全部リセット。
 怒りにまかせて思いっきり部屋のドアを叩きつけたりしない程度には、理性は残ってる。後ろ手にぱたん、とドアを閉めて照明のスイッチを入れると、わたしは確かな明かりの下で握りしめたネックレスを眺めた。アクセサリの裏側、ちょうどラインが交差する部分に小さく刻まれた、S・Kのイニシャル。それを認めてから、机の引き出しを開ける。
 右の二段目。一番奥。
「へ……?」
 そんな間抜けな音が、喉から抜けていくのが分かった。
 あるはずのないものが、そこにあったから。
 右手に握ったネックレスと、まったく同じ(・・・・・・)、ネックレス。
 取り出して、裏返す。そこには、右手に握ったものとまったく同じ角度で刻まれた、S・Kの文字があった。
 わずかの思考の後、フラッシュバック。
 あいつ、夕方会ったとき、なんて言ってた?
 そう、明日フミとヒロに話して、笑いのネタにしようと思ってたやつだ。
 あなたを助けに……。
 もっと後だ。
 五年後、死ぬとかなんとか。
 えっと、そう、その後。
確か――
「マイさん!」
 開いたままの窓から飛び込んできた、彼の声。近づいて見下ろすと、当然ながら彼はまだそこにいて、笑顔でこちらを見上げていた。
「信じてくれた? 僕――」
 ああ、そうだ。思いだした。
 ――未来から来たんだ。
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ローソン先生 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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