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「山に惑う」

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 山に入るのに何の覚悟も持たず、街を歩く延長の気分でいた。スニーカーを履いていけばいいだろうと。長袖を着ていればいいだろうと。

 山桜があまりに咲き誇っているのに呆れて、見物人の数が疎ましくなり、賑わう方を避け、渓谷沿いに歩いた。傍らに流れる河で子供らがはしゃいでいる。自分も昔はあちら側に居た、河原を石伝いに上流へと向かい、岩から川面へ飛び降り、掴めもしない魚を追いかけた。今の時代も子供らは変わりなく、意味の通らないことを叫んでは弾けるように遊んでいる。そこには時の流れもなく、彼らのうちの一人は幼き日の自分であるかもしれないと、錯誤はしないが想像はした。

 河辺にも僅かながら桜は咲いており、散った花びらが魚の一種のように川面を流れていくが、風流のただ中にいる者らに自覚はないようで、腹が減った、魚おらん、あれは鳥やろが、といった、どれも寝言と変わりないような言葉を響かせている。

 落石注意の看板を二つ三つ過ぎ、今は使用禁止になっている吊り橋を過ぎ、店員と商品のない崩れかけた売店を過ぎた。行く者も帰る者もいなくなり、少し離れてしまった河の方からも人の音はしない。
 そろそろ潮時だ。これ以上進んでは引き返せなくなる、そう思いつつも、元来た道を戻ることが億劫なばかりに、惰性で歩を進めた。
 山に上がる道が現われ、しめた、これで逆回りに帰ることが出来る。知らない道を知り、見たこともないものを見ることが、と深く考えもせず期待に胸躍らせて飛び込んだ。始めの内は人の手の入っていた階段状の道は、次第に獣道に変わっていった。
 なだらかな坂道がだらだらと、途方もなく長く続いていた。もうこれ以上登れない、というほどの勾配ではない。誘い込まれているのだと薄々感づいてはいた。
 疲れて眠ってもまだ登っていた。日が暮れ、朝が来て、靴が脱げてもまだ歩き続けていた。そうして山から抜けられなくなっていた。

 どの道も山の外へは繋がっていないので降りることは諦めた。慣れてしまえば食えるものはいくらでもあり、困ることは少なかった。口を開けていれば虫が入ってきたのでそれを食った。堅い木の実も毒のある植物も、死が惜しいわけでもないから食えた。幸か不幸か軽い下痢以上の苦痛に襲われることもなく。

 山道では時折熊などとすれ違い、軽く会釈して通り過ぎるようになった。馴染みの輩も出てきて、時折天気の話などもするようになり、甥っ子の行方が知れぬのだと、相談を受けたこともある。彼の甥っ子らしき子熊を食った覚えはあったが言わないでおいた。熊の方でも自然の掟と、さほど真剣に嘆いている風にも見えなかった。

 もうこのまま山に馴染み、獣として生きようと思っていたところに、人の女が踏み迷ってきた。私と同じように山道を延々と登ってきたらしき彼女の服は裂け、血が滲み、うぅうぅと叫びながら既に狂ってしまっている様子だった。言葉のなり損ないの中に、時折聞き覚えのある音が混じった。あれは鳥やろが、という声で、あの時河原で遊んでいた少女の一人らしいと見当がついた。既に少女と呼べぬその体つきを見て、自分は何年の間山中で惑い続けていたのだろうかと、今さらながら呆れてみる。忘れていた下心が呼び起こされ、助けるためと理屈をつけて私は彼女の身体を支えた。しかし彼女は木の枝を拾い、無闇に振り回し、私の頬に穴を開けた。騒ぎを聞きつけた獣どもが、どこか義務めいた様子で彼女を襲おうとしたが、私は手を振りやめさせた。今では甥の死因を知っている熊もその中にいたが、人のように誰かを恨む感情は彼には宿ってはいない。

 しばらくは身振り手振りで、狂った女に食い物の採り方や危険な道を知らせてやったものの、女は常に狂った笑顔を絶やさず、辺りを傷つけて回るばかりだけだったので、やがて崖から落ちて死んでしまった。

 それから何十回かの冬が過ぎると、次第に山は削られ、道も獣道から人道へと様変わりし、あれほどいた獣たちもほとんど見ることがなくなっていた。山に遊びに来る人どもの声がすぐ近くに聞こえ、懐かしき河も眼下に見ることが出来た。歳を取り過ぎ、互いを枕にして眠ることもある仲になった昔馴染みの熊が、お前は人なのだから降りればいいだろ、と語りかけてくる。お前が山に入ってきたから、人の足で道を刻んだから、ここも人のものになってしまった、と恨み言の響きは伴わずに言う。

 帰りたいならあの時引き返していた。街から山へ、気紛れな一歩を踏み出した時から、自分は世間と切れるつもりでいたらしい。今さら分かってどうなる、という自嘲の感情は熊には伝わらない。
 ならば襲うぞ、と、獣道と人道の境に居た若い女を、熊は一薙ぎで殺した。無惨に放り出された女の足を見て、頬の傷に触れる。あの女に似ている、と思う。いや、今の目には女はどれも似たものに映る。
 食うか、と聞く熊に首を振り、山の奥へと向かう。歳を取るとともに肉への興味は薄れた。食える野草を探すために俯きながら山道を歩く。踏み、惑う。

(了)
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