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愛しの彼女となじみの彼女

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 三.愛しの彼女となじみの彼女

 ちちち、と、聞きなれた音が遠くに聞こえる。
(…ああ、鳥の声だ)
 まぶた越しに、朝の光が差すのが分かった。
(あれ、昨日はいつ寝たんだっけ…)
 次第に頭が覚醒していく。
 ゆっくりと目を開いた。
 最初に視界に入ったのは、ぼやけた天井。気のせいか、いつもよりも高い気がする。
 何か太腿のあたりに重みがあることに気がついて、橙也はゆっくりと頭を起こした。
誰かがいた。
腕。その上に乗っているのは頭。うつぶせになっているので、顔は見えない。少なくとも、自分の頭でないことは分かる。
(そりゃそうだ…)
 辺りを見渡す。頭の上には机。左には本棚、ドア。足の方向にはクローゼット。間違いなく、いつも通りの自分の部屋。
 右側に、ベッドがあった。
(ああ、だから天井が高いのか)
 なるほど、自分は床(ゆか)に寝ていたらしいと、橙也は理解した。
(どうして…?)
上半身を起こす。身体にかけられていた毛布が重力に従って落ちた。
背中がわずかに痛い。カーペットが敷いてあるとはいえ、それはそうだろう。
 視線を下に移す。落ちた毛布を持ち上げると、確かにそこには人の頭があった。
「ああ…」
 もう何度かまばたきをすると、ぼやけた視界がはっきりとする。
「雛(ひな)、風邪引くぞ」
 パジャマ姿に薄手のカーディガンを背中にかけただけのその肩を、橙也は軽く揺すった。
「ん、うぅ…」
 吐息のようなものが漏れる。
 一度頭を後ろに向けて、首を伸ばした。机の上の置時計は六時半を指している。特に急ぐ必要は無さそうである。
「雛、起き―」
 黒髪。
「―ああっ!」
 思い出して、叫んだ。
「え、何、遅刻!?」
 がつん、と頭が揺れた。
 鈍い痛みを感じて、橙也はあごを押さえつけた。
「あいったぁ…!」
 彼の頭の下でも、ほぼ同様に、両手で頭頂部を抱え込む姿があった。
「ご、ごめん、雛…」
 あごを押さえて仰け反りながらそう言うと、彼女―柚代(ゆずしろ)雛(ひな)―は、目を潤ませながら、兄の顔を睨みつけた。
「もう…、びっくりしたじゃないのよぅ!」
「だから、悪かったって。おあいこ…」
「ん!」
 橙也が言い切る前に、雛は押さえていた手を外し、彼に向かって頭を突き出した。
「な、なに…?」
「んーっ!」
 今度は頬を膨らませながら上目づかいに視線を向ける。頭をさすれ、ということらしい。
「ああ、はいはい…」
 こうなるともう聞かないということを橙也はもちろん知っている。しぶしぶ、あごにあてていない方の手を雛の頭に乗せると、軽く左右に動かした。
「んー…♪」
 何やら頭を振りながらご満悦な様子の雛である。
「も、もういいだろ…」
 一〇秒ほどそうして、橙也は頭に乗せた手を離した。
「えーっ!」
 案の定、雛は顔を上げて橙也を睨みつける。
「ほら、もう痛がってないじゃないか」
「うっ!」
 そう狼狽して、「しょうがない…」と呟きながら、雛は身体を起こした。
「一晩中、見ててくれたのか?」
「あ、そうだよ!おにい急に大声あげるもんだから、びっくりして入ってきたら、変なメガネかけたまま倒れてるんだもん」
 そう言って、雛は心底心配したという様子で橙也を見つめた。
「ご、ごめんごめん、すごいリアルなゲームでさ…」
 こう言ってから、橙也はしまった、と思った。
「え、あれゲームだったの?めずらしいじゃん、いつの間に買ったの?」
「ああ、その、サヤに強引に押し付けられたんだよ…」
「あー、サヤちゃんのか。ふーん…。でも、今度から気をつけてよ」
 けれど、雛はそれ以上興味を示す風でもなく、そう言って立ち上がった。
 橙也は彼女に聞こえないように、小さく息を吐いた。
「あ、それで、ゲーム機は?」
「ん」
 雛の指差す先、ベッドの上に視線を向けると、確かにそこには、あのメガネのような機械とアタッシュケースが置いてあった。
「さて、と、六時半か。ご飯の準備するねー」
「…母さんは?」
「あれ、言わなかったっけ?昨日は二人とも帰ってきてないよん」
「ああ、それでか…」
 帰りが遅くなるどころか、両親共に帰ってこない日も柚代家には割と多い。昨日もご多分に洩れずということだったらしい。
 橙也は改めて、一晩中自分に付いていてくれた妹を見上げて言った。
「ありがとうな、雛」
「んー、別にー」
 橙也を見下ろしながら、口元に笑みを作る。どこか猫を思い起こさせるその表情は、彼女がご機嫌なときの印である。
「おにいはシャワーでも浴びてきていいかんねー」
 そう言って、後ろ手にドアを閉めると、雛は軽快な足取りで階下に降りて行った。
 その足音が小さくなるのを待って、ゆっくりと、雛の頭をなでた掌を橙也は眺めた。
 ゲーム内でのこととは言え、まおをこの手に抱きしめた、その感覚を思い出してしまったのである。
「大善寺さん、温(あった)かかったなぁ…」
 自分がそんなことを呟いていたのを数瞬後に自覚して、顔が熱くなる。
冷却する意図だろう。橙也は思い切り頭を振って息を吐きだした。
「ちょっとまてよ…、今日どんな顔して大善寺さんに会えばいいんだ…?」
 現実的な思考に切り替わり、橙也の頭はパニックになった。
(そうだ…、あんな雷を落とされたのだって、僕が無理やり抱き締めたから…!?)
「ノオオオオオオオオオオオオッ!」
 両手で頭を抱えて叫ぶ。
 どたどたどたっ!と階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
「おにい!?」
 壁越しに雛の声。
「ああ、いやなんでもないっ!」
「ホントに?大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫!机に足の小指ぶつけただけっ!」
「あー、あれ痛いもんねー」
 そう言って、雛は階段の途中で引き返して行ったようである。
 橙也は大きく息を吐きだした。
「風呂入ろ…」
 もっそりと立ち上がり、クローゼットから下着を取り出すと、橙也は部屋を後にした。

 今日は昨日とはうって変わって暑かった。
最高気温は二五℃と言っていたか。朝八時、すでにワイシャツが身体に張り付くのを感じて、橙也はブレザーを右腕に抱えながら通学路を一人歩いていた。
 熱いシャワーを浴びても憂鬱な気分はなりを潜めることはなく、この晴れ渡った空とは対照的に、橙也の胸中にはもくもく、と暗雲が渦巻いていた。
「はぁ…」
 結局、道中二〇回ほどのため息をついて、橙也は教室へとたどり着いた。
 結局その日は授業など頭に入るはずもなく、ただひたすらに時間が消化されるのを待ち、四限終了のチャイムが鳴り終えると同時に、橙也は教室を飛び出した。
 ひとまずはまおに、昨日のことを謝罪しようと考えたのである。
 一年生の教室は三階、二年生は二階である。階段を降り、金治の教室へ。何人かがちらほらと教室から出てくるところだった。
 橙也は後ろ側の開いたドアから教室をこっそりと覗いてみた。
(いた…)
 まおの席は窓際の一番後ろ側。四限で使用したらしいノートやら教科書やらを、とんとん、と揃えて机に仕舞うところだった。
 それを確認して、橙也は一度ドアにもたれかかると、目をつぶり、深呼吸をした。
「よしっ…!」
 呟いて目を開くと、正面には見知った笑顔があった。
「よっ!」
「うわぁっ!」
 反射的にのけ反った体が背後のドアに強くあたり、がたん、と音を立てる。廊下を歩く生徒達が一様に振り返った。
橙也は「どうした?」とでも言いたげな金治の腕をつかむと、三階の踊り場まで引っ張った。
「びっくりさせないでくれよ…」
「そんなこと言われても。あ、まおに用だった?」
 にやり、と笑いながらそう問いかける金治に、橙也は小さく頷いた。
「んだよ、それなら早く行ってこいよ」
「もういい…」
「どうして?」
「勢いがというか、なんというか…」
 タイミングを逃したことで、すでに先ほどまでの勢いはなりを潜めてしまっていた。
「お前ねぇ…」
 苦笑いを浮かべながら、小さくため息をつく金治である。
「どれ、久しぶりに一緒に飯でも食うか」
「え…?」
 金治の急な提案に、橙也は顔を上げた。
「お兄さんが相談にのってやろう。それとも、先約ありか?」
「ううん、ないけどさ…」
「それじゃあ決まりだ。弁当?」
「うん…」
「じゃ、俺はパンでも買ってくるから、先に行っててくれ」
 そう言って右手をひらひら、と振りながら、金治は購買に向かって行った。
 さすがにこれからまおに会うのもためらわれたので、橙也は言われた通り、教室に戻って弁当を取り出した。
 幸い、もう一人の幼なじみの姿はない。
 すぐに教室を抜け出して、屋上へ向かった。金治と昼食を取るときはいつもここである。
 遮るもののない日差しが直に降り注ぎ、橙也はわずかに目を細めた。
 辺りを見渡して、まだ空いている場所を探す。常連の顔が三〇ほどあったが、それでも場所には全然余裕がある。ただし、日陰になった場所には概ね先客がいるようだった。
 諦めていつもの場所―ちょうど校舎中央のフェンス際(ぎわ)―に腰を下ろした。
(上着は置いてくるんだったかな…)
 今朝の予報通り、今年初めてと感じさせる暑さが肌を焼く。ネクタイを軽く緩め、上着を脱いで脇に置いた。
 コンクリートは白色のためか、下からの熱はそれほどでもない。腰を下ろしたお尻がわずかに温かいと感じる程度である。
 弁当を広げ始めたところで、ちょうどビニール袋をぶら下げた金治が現れた。ワイシャツ姿。ブレザーは置いてきたらしい。
 駆け寄って橙也の正面に腰を下ろし、パンの包みを開いてパックの牛乳にストローを刺す。
「「いただきます」」
 二人同時にそう言って、昼食を口に運び始めた。
「今日は、雛ちゃん弁当だな?」
「正解。よく分かったね」
「卵焼きの巻き方が可愛らしいんだよ」
 弁当箱の隅に二つ並んだ卵焼きを眺める。彼の言うとおり、母の卵焼きは豪快、雛のは繊細といった感じなのだが、それにしても余所の家のそれを見分ける友人に、橙也は「へぇ」と息を漏らした。
「そんで、あのあと何かあった?」
「むぐ…」
 金治の言葉に、ごはんを喉に詰まらせて、橙也は胸を強く叩いた。
「ああ、悪かった悪かった。ゆっくり食え」
 ひとまずあたりさわりのない会話をしながら昼食を終えると、二人はどちらからともなく立ち上がって、フェンスに身体をもたれかけさせた。
 校庭にも強い陽の光が差し、白く輝いている。
 数秒の無言の後、橙也は先に口を開いた。
「…あのさ、金治は最初から、大善寺さんが魔王だってこと、知ってたの?」
「そりゃ、アユガイがそう言ってたからな」
 橙也の脳内に小さな女子高生の姿が浮かび、ため息をつく。
「それじゃあ…、いくらゲームだからって、金治は大善寺さんのことを傷つけられる?」
 まおに向かって剣を振り下ろす金治の姿を思い返して、橙也は彼の横顔に問いかけた。
「んー」
 残った牛乳をすすりながら、金治は上目づかいに何事かを考えている様子だったが、足元のビニール袋にパックを落とすと、口を開いた。
「じゃあお前は、他の誰かも分かんねーやつに、まおをやりたいのか?」
 それを聞いて、橙也は一度開きかけた口をゆっくりと閉じた。
「俺はさ、最初に説明聞いた時、頭にきたよ。ゲームで婚約者決めるなんてふざけてるってな。でもさ、よく考えてみると、それもあいつくらいの家なら仕方がないのかなって思った」
 空を仰ぐ金治の次の言葉を、橙也は待つ。
「だから、逆に考えることにした。あいつが自分からあんなことしてるのは、どっかの知らない誰かに攻略されたくないからだって。
 ま、だからっつって手を抜いてほしいとは思わないけどな。ライバルもいるわけだし」
 向けられた視線。
「昨日の約束は、もうこれで終わりか?」
 このゲームをクリアするのは、絶対に俺かお前、な。
 そう言った金治の笑顔と、今の彼の真剣な顔が重なって、橙也は首を振った。
「そうじゃないけどさ…!」
「だったら今さら、うだうだ言ってんじゃねー、よっ!」
 そう言ってばしん、と思いっきり橙也の背中を叩いた金治の顔は―
「痛っ!」
 ―いつもの悪戯っぽい笑顔に戻っていた。
「だーいじょうぶだって。昨日のあいつ、見たろ?あれで案外ノリノリなんだから。ゲームとは言え、女の子と本気でケンカしたなんていい思い出になるだろ?」
 そういえば、と昨日のゲーム内でのまおの様子を思い返す。
 その他諸々の出来事に上書きされてしまっていたが、よくよく考えれば、あのまおの様子、特にしゃべり方などは、普段の彼女と比べるとそれは驚くべき変化だった。
「残るはあなたたちだけね。トウヤ、カネハル。だっけか」
 全然似ていない声マネを披露する金治である。
 そう言えば、まおに下の名前で呼ばれたのは初めてだったな、なんてことを、橙也は考えた。
「ひょっとするとあっちが本性だったりしてな。俺はそれでも全然ありだけど」
 そう言って笑う金治に、
「確かに、あっちの方が会話には困りにくそうかも」
 橙也もそう返すと、二人で小さく笑い声を上げた。
「さてと、それでは和んだところで―」
 金治が言うのと同時に、背後に足音が聞こえて、橙也が振り返ろうとしたときだった。
「―ゲストに登場していただき―げふぅっ!」
「かねは―うわっ!」
 二人の間に影が割り込み、金治の身体がフェンスに押し付けられる。ほぼ同時に、橙也も同じ状態になった。
 軽く痛む胸に手をやり、押さえながら左を向くと、そこにあったのは、幼なじみの見知った横顔だった。
「なーに二人してこそこそ話(ばなし)してんのよっ」
 ちょうど小さく風が吹いて、緩くパーマのかかった亜麻色のショートヘアが後ろに流れる。
 「ん、ん?」なんて言いながら、左右交互に好奇の視線を向ける彼女に、橙也と金治は同時に小さく息をはいた。
「お前かよ…。サル、男同士の話に割り込んでくんなっつー、のっ!」
 金治は笑いながら早口にそう告げると、首に巻かれた彼女―武島(たけしま)紗(さ)弥(や)―の左腕をほどいて距離を取った。その直後、「サルって言うなっ!」という盛大な叫び声と同時に、紗弥の左足がぶぉん、という音を伴って空を切る。
「うおっとぉ!」
 間一髪、上半身を仰け反らせて頭を狙ったその蹴りを回避すると、金治はさらに一歩バックステップで紗弥との距離をとり、「白!」と言ってにやり、と笑った。
 蹴り上げた左足を戻し、右足を軸にして一本足の構えを取る紗弥だったが、金治の一言に一拍遅れて両足を揃えると、まだ下降しきらないスカートの裾を両手で押さえつけた。
 その勢いで背中側が薄くめくれ上がり、橙也は慌ててあさっての方向に視線を走らせた。
「キンジ、あんたねぇ…」
 憎々しげにそう言って、俯けた顔を再び金治に向ける紗弥の背中から、橙也はわずかに距離を取った。
 彼女が動物だったら、髪の毛がぶわ、と逆立っているのではないだろうか。いつもながらに橙也がそんなことを考えていると、金治が後ろ向きに駆け出したのを合図にして、紗弥も彼を追って走り出した。
「まてえええぇぇっ!」
「誰がっ!」
 屋上に残った顔にもすでに見なれたイベントである。駆けまわる二人の様子に、そこらじゅうから「やっちまえー!」だの「自業自得だー!」なんていった、主に紗弥寄りのエールが多数寄せられる。
 三分あまりの全力鬼ごっこは、ほぼ同時にギブアップした二人によってドローとなった。
 よろよろ、と橙也の正面まで戻ると、二人は同時に倒れ込んだ。
「お疲れ様」
 大きく息をしながら仰向けに寝転がる二人に、橙也はそう声をかけた。
「あぢー…。サヤ、お前なんか飲み物買ってこいよ」
「なんで、あたしが、買って来なくちゃなんないのよっ…!」
 ブラウスのボタンを一つ外し、ぱたぱた、とやり始めた紗弥の胸元から視線を逸らして、橙也は尋ねた。
「サヤ、よく分かったね」
「んー、だって昼休みいないっていったら大体ここでしょ」
「にしたってお前、ちょっとは空気読めよな」
「キンジに言われたくないよーだ」
「あ、俺がいつ空気読んでないって?」
「大体いっつも」
「んだと?」
「なによ?」
 寝転がりながら相変わらずそんなやり取りを続ける二人に背を向けて、橙也は空を眺めながら小さく笑った。
「心配してきてあげたのにさ、そうやって邪魔にするかな?」
「心配って、俺?」
「あんたのワケないでしょ」
「痛ぇ!」
 紗弥の正拳が炸裂したらしい。低い音が後ろから聞こえた。
「トーヤ、あんた今日ため息多いよ」
「……そうかな?」
 いきなりの紗弥の一言に、間が開いたことに気づきながらも、橙也は答えた。
「気付いてんじゃん」
「………」
 紗弥の言うとおりだった。今日の自分はため息が多い。
 これも、恋(こい)煩(わずら)いというのだろうか。とにかく橙也にも、その自覚はあった。
「ま、別に無理に聞こうとは思わないけど、さっ」
 とん、と軽い音がして、背後で紗弥が立ち上がったのが分かった。
「相談できることなら、相談してくり」
 どこか冗談めかしながらそう言う紗弥を、橙也は振り返った。
 彼の目線とほぼ同じ高さにある、彼女のつり上がった瞳が目に入った。笑みを作り、頷こうとした橙也だったが、それよりも先に、驚くべき人物を紗弥の背後に見つけて、彼の視線はそちらに流れた。
 その人物の影が、横になった金治の顔に差したのはほぼ同時だったらしい。寝ころんだまま頭をそちらに向ける。
「お、来たな」
 紗弥も背後を振り返ると、視線の先にいた人物の名を呟いた。
「えっと、大善寺、さん?」
 立っていたのは大善寺まおだった。
 紗弥の問いかけに特に返答をするでもなく、視線は足もとの金治に向いている。
いつも通りの調子で一言、
「来た」
と呟いた。
「おー、悪(わり)ぃな。橙也がなんか、話があるんだって、さ」
 そう言って一度橙也に笑みを向けると、金治は再び頭上のまおを仰ぐ。
「あ」
 そう漏らして、今度は視線を紗弥に向けると、
「おそろい」
と言って笑った。
 一番早くその意味に気付いたのは橙也だろうか。顔を赤らめながら、「か、金治っ!」と叫ぶ。わずかに遅れて紗弥も気付いたようである。
「キンジ…」
 つか、と三歩、金治に近づくと、彼の鳩尾に、強烈なストレートを叩き落とした。
「死ねっっ!」
「ふぐぅっ!!」
 カブトムシか何かの幼虫のように、体を丸めてぴくぴく、となった金治を見下ろして、紗弥は満足そうに頷いた。
「正義は、必ず勝つ」
その様子を全く動じることなく眺めていたまおだったが、金治の微弱な動きが止まったのを見て、視線を正面の橙也に向けると、彼に一歩近づいた。
「なに?」
「へ…?」
「瀬良(せら)くんが、あなたが呼んでるからって」
「あっ、と…、そのですね…」
 これに反応したのは紗弥だった。
「なに、トーヤ、大善寺さんと知り合いなの?」
 橙也の隣に駆け寄って、小声でそう言う。
「あー、うん、まぁ知り合いというかなんというか…」
 煮え切らない様子の橙也を、眉間に皺を寄せながら覗きこむ紗弥。
 いつも通りの無表情で、橙也を見つめるまお。
 二人の視線を受けて、右往左往する橙也である。
「用事がないなら、これで」
 そう呟いてまおが右足を引いたのを合図に、とうとう覚悟を決め、橙也は口を開いた。
「あの、大善寺さん!」
 この一言に、まおは半身になった姿勢から、顔だけを再度橙也に向けた。
「昨日は、すいませんでしたっ!」
 上半身を九〇度折り曲げる、ほぼ最大限の謝罪を表す角度。
 ぐっ、と目をつぶって、まおの言葉を待つ。
 すぐ隣に立つ紗弥から、何事かといぶかしがる気配が伝わってくる。
 七秒ほど経って、頭の上から声がかけられた。
「いい」
 確かにそう聞こえて、橙也はその格好のまま、顔だけを上げてまおを見た。
「別にかまわない」
 許してもらえた…。
誰が見ても一目で安堵と分かる表情を浮かべながら、橙也はゆっくりと身体を起こした。
「わたしの方こそ、昨日はちょっと張り切りすぎた。痛かったでしょ?ごめん」
「大善寺さんが謝ることなんて…!悪いのはまだ慣れていない僕なんですから…」
 俯くまおに一歩近づくと、橙也は力強くそう訴える。ほどなくして、まおは「そう」と言いながら、ゆっくりと頷いた。
「また今夜、頑張って」
「は、はい…!」
 そう言って、時折風に揺れる長い髪を押さえながら遠ざかるまおの背中を、彼女が校舎に消えるまで、橙也は見送った。
 そうして大きく安堵の息を吐きだした、次の瞬間だった。
 背筋に悪寒を感じて、橙也は振り返った。
「へぇ、そういうこと…」
 俯き、低い声でそう呟く紗弥に異変を感じ取って、橙也は恐る恐る彼女に声をかけた。
「さ、サヤ…?」
「ふーん、慣れてないと痛いわけ…」
「ど、どうしたの…?」
「それで、今夜も頑張る、と」
 そこまで聞き終えて、ようやく橙也にも紗弥の考えているらしいことが理解できた。
「ち、ちがっ!サヤ、勘違いしてるぞ!」
 慌てて両手を伸ばし手を振る橙也だったが、髪に隠れた彼女の瞳に、赤い光が宿るのを見て、彼はとうとう一歩、足を引いてしまった。
 これが、紗弥にとっては一連の発言を事実と捉える引き金になってしまったらしい。
「どの辺が勘違いなのか、お子ちゃまなあたしにも詳しく説明して欲しいもんだわぁぁぁぁぁぁっ!!」
 現代の鬼は、ここにいた。
 その日の昼、「恐ろしい叫び声が聞こえた」という噂は、またたく間に近隣住民の間に広まったとか、広まらなかったとか。
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ローソン先生 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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