瀬名春日から「会社を辞めようと思うんです」と言われた彼の上司はただ一言「そうか」とだけ言った。
一ヵ月後の退職が決まり、その間に引継ぎなどを済ませると残りの一週間は特にやる事もなく、ぼんやりと過ごした。
その間彼を引きとめようとしたのは入社した時から面倒を見てもらった羽田太陽だけだった。
「お前、本当に辞めるのかよ」
「はい」
「高校卒業してから三年続いてるんだから、続けようと思えば続けられるだろ。なんか辞める理由とかあるのか? 今の上司が気に入らなかったか? 仕事がうまくいかないとかあったのか?」
まるで怒っているようなその口調に、しかし彼はいつものように淡々とした口調で答えた。
「いえ、そういう事じゃないです。ただ、辞めたくなったんです」
「しゃらくせえ」
名前の通りいつも活力に溢れている太陽は、この時もその口癖を出した。その口癖は到底手に負えない面倒な問題があったりするとよく聞かれたものだが、彼に向けて口にしたのはこの時が初めてだった。
春日はなんとなく謝った方がいいような気がして「すみません」と頭を下げたが、太陽はそれを見て深々と溜め息を吐く事しか出来なかった。人の話はよく聞くし、言われた事をテキパキとこなす男ではあるが、殆ど自己主張をする事がなく、誰かと積極的に打ち明けようとするでもなく、その割に一度本人がこうと決めてしまうとなにを言っても聞かない頑固なところを持っている事を知っていたからだ。きっと自分がなにを言っても彼が「やっぱり来月からも働きます」と言い出すとは到底思えなかった。
「辞めてからどうするんだ」
そう尋ねると、春日は「まだ決めてません」とだけ言った。
「なにかあったら連絡してこいよ」
と言う太陽の事を彼はいい先輩だったと思っているが、果たして自分から連絡するかどうかは分からなかった。それ以外の人達は、彼に対してなにも言ってこなかったし、もしかすると彼が来月からいなくなると言う事自体を知らなかったのかもしれない。だがそうだとしても彼にとってそれは大した問題ではなかった。
退職日いつもと変わらない様子で「お疲れ様です」と挨拶した時も、返ってきたのは背中を向けたままの短い返事だった。
社宅へと帰る途中ふと明日からはもう働かないのだ、となんとなく思い、今までの事を思い出してみようとしたが、どんな仕事をしていたかは明確に思い出せるものの、一緒に働いていた人達の事となると輪郭がぼやけてしまったように曖昧なものだった。思えばこの三年間で友人といえるようなものが新たに増えた記憶などないし、休日の思いでもたまに太陽に呼び出されようやく家を出る程度だった。
(もう、羽田さんと遊ぶ事もないかもしれないな)
彼が思ったのはそれだけで、数日中に出る事になって殆どの荷物を実家へと届けがらんとした部屋へと戻ってくると、彼は床に腰を下ろし、小型のミュージックプレイヤーから音楽を流した。引っ越す日に捨てる予定の折りたたみ式の上に置かれてある煙草を取り火をつける。
流れている音楽はどこがサビなのか分かりかねる、抑揚のないただひたすら静けさだけを強調しているようなものだった。
彼はそれを殆ど聞き流しながら、ゆっくりと昇っていく煙をゆっくりと追いかけて、ぼんやりと天井を見つめていた。
(これからどうなるんだろうか?)
きっと、どうにもならない。
そんな結論が浮かんだ。
なにをしても、きっと昨日までの自分と同じ日常が待っている。
世界に溢れている選択肢は、だけどなにを選んでもありふれた回答へと導くだけだ。
灰皿へと落とす前に崩れてしまった白い灰が、床へと零れ落ち、春日はティッシュでそれをすくうと部屋の隅に置かれていたゴミ袋へと放り込んだ。
(なら、大丈夫)
そう。彼はそれでいい。
彼にとって、ありふれた回答は、幸せだ。
黒崎奈菜はふしだらな生活を好む。
その日珍しくバイトのない日に早起きをした彼女は、ベッドから芋虫のように這い出ると着ていた下着を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる事にした。朦朧としたままタイルに腰を下ろすとそのままそこで寝てしまいそうになる。彼女はまぁ、それはそれでいいかと思いながら、目を閉じたまま器用に体を洗った。
「あーあ」
ぼんやりと呟きながら、部屋へと戻り、煙草を探したがちょうど切れてしまっていた。軽く舌打ちをしながら今度は財布を捜すと、コンビニに行こうとサンダルを引っ掛けた。
近所にあるコンビニに着き「ハイライト一つ」と言うと「年齢確認出来る物はありますか?」とどうやら新人らしい中年の女性にそう言われる。馴染みの店員は今日は休みのようだった。面倒くさいと思いつつ彼女は素直に財布から免許証を取り出し、店員はそれを覗き込んだ。
二十一歳だと言う事が分かると、店員はそれ以上なにも言わずハイライトを一つ取りバーコードを読み取り「二百九十円になります」と言い、奈菜は黙ってその料金を払うとそれ以上の店員の言葉を聞かず、さっさと煙草を取り店外へと出た。
「眩しー」
降り注ぐ陽射しに手を掲げながら目を細める。時計を見ると午前十一時過ぎで、彼女にとってあまり好きではない時間帯だ。若干急ぎ足でアパートへと辿り着くと、彼女は年老いた中年男性のように深々と溜め息を吐くと、玄関の前の軽い段差で腰を下ろし、煙草の封を開けて一本取り出した。
そうやって玄関前で煙草を吸うのが彼女の習慣で、そうやってぼんやりとしながら煙草の煙や、風景をなんとなく見ているのが彼女は好きだった。
いつもはそれになにか特別ななにかが付随してくる事はない。吸い終えた煙草を足元の排水口へと落とし部屋へと戻るのだが、煙草が半分くらいになったところで目の前に広がる駐車場に数台の車がやってきた。部屋の数と同じ駐車場が設けられているが、あまり使われていないその駐車場にその車が止まる。彼女はそれを見ながら煙をふうと吐き出した。
一台はトラックで、彼女は引越しのようだ、と思うのと同時に作業服に身を包んだ数人の男性がトラックから降りてくる。そのトラックの後ろにいた荷台の車も開いているスペースに適当に車を止めるとドアが開いた。
「結構、便利そうな場所じゃん」
「そうだね」
降りてきたその二人をちらりと見やる。
(……隣人としては)
作業員が自分の部屋の隣のドアを開けようとしているのを見ながら、
(まぁ、悪くない)
そんなふうに思った。
憂鬱サンライズ
「あとで飯奢れよな」
「分かってる」
数少ない高校時代の友人である小栗冬馬のちゃかすような言い方に、春日は短い返事を返した。そのそっけなさは時として他人に誤解を与える事があったが、もう慣れてしまっている冬馬はそれ以上なにも言わず満足げな表情を浮かべると彼の後へと続いた。
冬馬は作業員に荷物の確認を簡単に済ましながら部屋へと入ろうとアパートへと近付き、そのすぐ傍に座っている女性に気がついた。正確に言うとやってきた時からそこに人が座っている事に気がついてはいたのだが、自分と同年齢の女性だと認識したのはこの時が初めてだった。
「こんにちはぁ」
彼女の脇を通り過ぎようとするとそう声をかけられた。
振り向いて見る。少し細くなった目と、薄く開いた唇が微笑んでいるらしい。
「こんにちは」
「私、隣に住んでる黒崎奈菜です」
「そうですか。瀬名です。よろしくお願いします」
「瀬名さん」
「はい」
「名前はなんて言うんですか?」
馴れ馴れしいんだな、と思ったが悪印象を持たれるよりはマシかもしれない、と彼は思い「春日です」と素直に名乗り、かるく頭を下げると今度こそ部屋へと入った。
「可愛い子じゃないか」
「そうだね」
「それだけかよ。相変わらず冷めてるなぁ」
後ろから着いて来た冬馬が呆れたように呟く。
「別に隣に住んでるからってなにかがある訳じゃない」
「いや、分からないね。ああいう女は結構簡単に――」
「瀬名さん、荷物ですけどここらへんにまとめて置いたんでいいですか?」
「はい、それでお願いします」
そうやって会話が中断されたが春日はまるで気にしないように受け答えすると、冬馬に背を向けたまま積まれていくダンボールの開封作業を始めた。冬馬はやれやれと肩をすくめたが、諦めたように手伝い始める。
荷物と言っても大した量ではない。彼は元々そんなに物を持つ性格ではなく、生活に必要なものだけを持って来ていただけだった。部屋の間取りは1DKでロフト付きではあるものの特別広い部屋ではなかったが、荷物を出しても比較的広々と感じられた。
「なぁ、これからどうするんだ、お前」
「これから?」
「また新しい仕事探すのか?」
「どうかな。まぁ、貯金があるからと言っていつまでも働かないわけには当然いかないね」
作業員が帰り、ある程度荷物を出して休憩を取ると冬馬がそう尋ねてきた。
「けどしばらくはのんびりしようと思ってる。一ヶ月もとは言えないけど」
「まぁ、お前仕事ばっかりしてたしな、いいんじゃね?」
うんうんと頷く。
だが春日はだからと言ってなにをしたものだろう、と口にはしないもののふと考えていた。
仕事ばかりしていた。
正確に言うと、仕事以外特にしたいものがなかった。そしてその仕事すらやらねばならない状況だったからやっていただけで、実際のところこうやって自分を束縛するものがなくなっても、だからと言って開放感に包まれると言う事は決してなかった。
自由と束縛は相反しているものではなく、ひょっとするとお互いの中に内包しているものなのかもしれない。束縛があるからこそ、人は自由を愛する事が出来るし、行き過ぎた自由と言う奈落に落ちないためにはきっと幾許かの束縛と言うものは必要なのだ。
「たまには泊めてくれよな」
「別にいいよ」
片付けが済み、帰り際の彼の台詞にそう言う。
「手伝ってくれてありがとう」
「いいよ、気にすんなよ」
玄関の前で靴を履いているとそう言われ冬馬は小さく笑った。
冷めていると昔からよく言われている男だが、そういう感謝や優しさはちゃんと持ち合わせている男ではあり、決して無感情無感動と言う訳ではなく、春日のそう言うところが彼は好きだった。
部屋に一人になり音楽をかけながらマルボロを吸っていた。
新しい生活と言っても特に感慨深いものはなかった。
ふと空腹を感じ、時計を見ると夕食にちょうどいい時間になっており、コンビニに行こうとドアをくぐった。
適当な弁当と飲み物を買い、部屋へと戻ってくると先ほどはいなかった奈菜が今朝と同じ場所にすわり、同じように煙草を吸っていた。
「あ、どうも」
奈菜が小さく頭を下げ、煙草の煙を吐き出した。春日は軽く会釈だけをして部屋へと入ろうと思ったが「よかったら座りません?」と声をかけられた。断っても良かったが、断る理由が特に見当たらなかったのでコンビニの袋だけ手を伸ばしていたドアの向こうへと置いてくると彼女の隣に腰を下ろした。
「春日さんって煙草吸います?」
「吸います」
「じゃあ、吸っていいですよ」
それを決めるのは君じゃなくて僕のはずなんだけどな。
だがその一言に押し付けがましさや不快感は感じなかった。
苗字ではなく名前で呼ばれた事も唐突ではあるが気にしなければどうと言う事もない。
「じゃあ」
「仕事ですか?」
「え?」
「引越し。お仕事でこっちに引っ越してきたのかなって」
「仕事辞めて、引っ越してきたんです」
「あぁ、そうなんですか。じゃあ今はフリーター?」
「そうです」
「じゃあ、私と一緒だ。何歳?」
「二十一」
奈菜は「へー同い年なんだ」と少し意外そうな声を出した。彼の振る舞いを見ているともう少し上だろうとたかをくくっていたのだが、よくよくその表情を見ると確かに自分と変わらないように思えた。
「じゃあ、お互い敬語やめてタメ口でいこっか?」
その提案に春日は特に抵抗なく「いいよ」と言い「じゃあ私の事も奈菜でいいから」と言う彼女の言葉にも頷いた。
「あーこの時間になると落ち着く」
「そうなの?」
「私朝って苦手なんだよね。さっき私死にそうな顔してなかった?」
そう問われるものの、春日は今朝の彼女がどんな顔をしていたのかよく思い出せなかった。正直にそう言うと彼女は「ほんと? よかったー」と笑い、不快に思われるだろうか、と言う春日の思いは杞憂に終わった。
奈菜はまるで鼻歌でも歌いだしそうな楽しそうな表情でふと視線を遠くへとやり、春日はなんとなくその先を追ってみる事にした。
そこに広がる景色は彼にとってどうと言う事もないもので、特になにかを思うこともなかったのだが、それを黙ってみている奈菜の様子を見てみると、なるほど、彼女はそれを見ていて楽しいのだろう、と思えた。
「で、春日君はこれからどうするの?」
「さぁ、けどなにをしても、特別なことはないと思うよ」
「特別かぁ」
奈菜はその言葉を繰り返し「あはは」と笑った。
「特別って確かに難しいね」
「そうだね」
「まぁ、でも考えようによっちゃなんでも特別になるかもね」
まるで世間話でもするようにそう言う。
実際彼女はそう思っているのだろう。
「そうだね」
なので、春日も似たような調子でそう返した。
実際、彼自身は特別な出来事など起ころうが起こらまいがどうでもいいのだ、と言う事は言う必要はないように思えた。
「分かってる」
数少ない高校時代の友人である小栗冬馬のちゃかすような言い方に、春日は短い返事を返した。そのそっけなさは時として他人に誤解を与える事があったが、もう慣れてしまっている冬馬はそれ以上なにも言わず満足げな表情を浮かべると彼の後へと続いた。
冬馬は作業員に荷物の確認を簡単に済ましながら部屋へと入ろうとアパートへと近付き、そのすぐ傍に座っている女性に気がついた。正確に言うとやってきた時からそこに人が座っている事に気がついてはいたのだが、自分と同年齢の女性だと認識したのはこの時が初めてだった。
「こんにちはぁ」
彼女の脇を通り過ぎようとするとそう声をかけられた。
振り向いて見る。少し細くなった目と、薄く開いた唇が微笑んでいるらしい。
「こんにちは」
「私、隣に住んでる黒崎奈菜です」
「そうですか。瀬名です。よろしくお願いします」
「瀬名さん」
「はい」
「名前はなんて言うんですか?」
馴れ馴れしいんだな、と思ったが悪印象を持たれるよりはマシかもしれない、と彼は思い「春日です」と素直に名乗り、かるく頭を下げると今度こそ部屋へと入った。
「可愛い子じゃないか」
「そうだね」
「それだけかよ。相変わらず冷めてるなぁ」
後ろから着いて来た冬馬が呆れたように呟く。
「別に隣に住んでるからってなにかがある訳じゃない」
「いや、分からないね。ああいう女は結構簡単に――」
「瀬名さん、荷物ですけどここらへんにまとめて置いたんでいいですか?」
「はい、それでお願いします」
そうやって会話が中断されたが春日はまるで気にしないように受け答えすると、冬馬に背を向けたまま積まれていくダンボールの開封作業を始めた。冬馬はやれやれと肩をすくめたが、諦めたように手伝い始める。
荷物と言っても大した量ではない。彼は元々そんなに物を持つ性格ではなく、生活に必要なものだけを持って来ていただけだった。部屋の間取りは1DKでロフト付きではあるものの特別広い部屋ではなかったが、荷物を出しても比較的広々と感じられた。
「なぁ、これからどうするんだ、お前」
「これから?」
「また新しい仕事探すのか?」
「どうかな。まぁ、貯金があるからと言っていつまでも働かないわけには当然いかないね」
作業員が帰り、ある程度荷物を出して休憩を取ると冬馬がそう尋ねてきた。
「けどしばらくはのんびりしようと思ってる。一ヶ月もとは言えないけど」
「まぁ、お前仕事ばっかりしてたしな、いいんじゃね?」
うんうんと頷く。
だが春日はだからと言ってなにをしたものだろう、と口にはしないもののふと考えていた。
仕事ばかりしていた。
正確に言うと、仕事以外特にしたいものがなかった。そしてその仕事すらやらねばならない状況だったからやっていただけで、実際のところこうやって自分を束縛するものがなくなっても、だからと言って開放感に包まれると言う事は決してなかった。
自由と束縛は相反しているものではなく、ひょっとするとお互いの中に内包しているものなのかもしれない。束縛があるからこそ、人は自由を愛する事が出来るし、行き過ぎた自由と言う奈落に落ちないためにはきっと幾許かの束縛と言うものは必要なのだ。
「たまには泊めてくれよな」
「別にいいよ」
片付けが済み、帰り際の彼の台詞にそう言う。
「手伝ってくれてありがとう」
「いいよ、気にすんなよ」
玄関の前で靴を履いているとそう言われ冬馬は小さく笑った。
冷めていると昔からよく言われている男だが、そういう感謝や優しさはちゃんと持ち合わせている男ではあり、決して無感情無感動と言う訳ではなく、春日のそう言うところが彼は好きだった。
部屋に一人になり音楽をかけながらマルボロを吸っていた。
新しい生活と言っても特に感慨深いものはなかった。
ふと空腹を感じ、時計を見ると夕食にちょうどいい時間になっており、コンビニに行こうとドアをくぐった。
適当な弁当と飲み物を買い、部屋へと戻ってくると先ほどはいなかった奈菜が今朝と同じ場所にすわり、同じように煙草を吸っていた。
「あ、どうも」
奈菜が小さく頭を下げ、煙草の煙を吐き出した。春日は軽く会釈だけをして部屋へと入ろうと思ったが「よかったら座りません?」と声をかけられた。断っても良かったが、断る理由が特に見当たらなかったのでコンビニの袋だけ手を伸ばしていたドアの向こうへと置いてくると彼女の隣に腰を下ろした。
「春日さんって煙草吸います?」
「吸います」
「じゃあ、吸っていいですよ」
それを決めるのは君じゃなくて僕のはずなんだけどな。
だがその一言に押し付けがましさや不快感は感じなかった。
苗字ではなく名前で呼ばれた事も唐突ではあるが気にしなければどうと言う事もない。
「じゃあ」
「仕事ですか?」
「え?」
「引越し。お仕事でこっちに引っ越してきたのかなって」
「仕事辞めて、引っ越してきたんです」
「あぁ、そうなんですか。じゃあ今はフリーター?」
「そうです」
「じゃあ、私と一緒だ。何歳?」
「二十一」
奈菜は「へー同い年なんだ」と少し意外そうな声を出した。彼の振る舞いを見ているともう少し上だろうとたかをくくっていたのだが、よくよくその表情を見ると確かに自分と変わらないように思えた。
「じゃあ、お互い敬語やめてタメ口でいこっか?」
その提案に春日は特に抵抗なく「いいよ」と言い「じゃあ私の事も奈菜でいいから」と言う彼女の言葉にも頷いた。
「あーこの時間になると落ち着く」
「そうなの?」
「私朝って苦手なんだよね。さっき私死にそうな顔してなかった?」
そう問われるものの、春日は今朝の彼女がどんな顔をしていたのかよく思い出せなかった。正直にそう言うと彼女は「ほんと? よかったー」と笑い、不快に思われるだろうか、と言う春日の思いは杞憂に終わった。
奈菜はまるで鼻歌でも歌いだしそうな楽しそうな表情でふと視線を遠くへとやり、春日はなんとなくその先を追ってみる事にした。
そこに広がる景色は彼にとってどうと言う事もないもので、特になにかを思うこともなかったのだが、それを黙ってみている奈菜の様子を見てみると、なるほど、彼女はそれを見ていて楽しいのだろう、と思えた。
「で、春日君はこれからどうするの?」
「さぁ、けどなにをしても、特別なことはないと思うよ」
「特別かぁ」
奈菜はその言葉を繰り返し「あはは」と笑った。
「特別って確かに難しいね」
「そうだね」
「まぁ、でも考えようによっちゃなんでも特別になるかもね」
まるで世間話でもするようにそう言う。
実際彼女はそう思っているのだろう。
「そうだね」
なので、春日も似たような調子でそう返した。
実際、彼自身は特別な出来事など起ころうが起こらまいがどうでもいいのだ、と言う事は言う必要はないように思えた。