集団ロンリネス
――あーあ、いいよなぁ、願い叶えてもらえる奴は。
――つってもさぁ、どうせ普通の人だろ? 叶える事にも限度があるだろ。
茜はふぅ、と溜め息を吐いた。掲示板の存在を知ってから彼女も何度か権利を得ようとしているのだが、いつも出遅れてしまっている。掲示板を表示しているモニターはそんな彼女を嘲笑うようにぶうん、と小さな音を立てていた。
だがもしその権利を得たとして一体なにを頼むのだろう。
スクロールしていた画面が一番下まで到達し、ピタリと止まる。
(私、なにもないな)
さして広くもない部屋の床には彼女が食べたスナック菓子の袋や、読みかけの漫画が開かれたまま放り投げられていて散らかり放題となっている。それを片付けるのは彼女の母親なのだが、それは彼女が学校に行って部屋にいない時に限られている。本当はそれも気に食わないのだが自分では片付ける事が出来ないのでそれは諦める事にしている。母親に見られて困るようなものなど結局このパソコンの中だけでそれにロックをしておけば――そもそもパソコンに弱い母親は起動しようともしないだろうが――彼女の陰部に母が触れる事もない。
しかし、そこに触れたと言って、母親が一体どのような反応をすると言うのだろう。
彼女はきっと泣いて喚くだろうと思っているのだが、それは彼女が自分がやっている事はきっと他人からすれば理解されない事だろうと思っているからなのだが、だが、一体今の彼女のやっている事が、他人にとって、そして自分にとってなんの意味があると言うのだろう。
茜は退屈そうに頬杖をしながら、あてもなくキーボードを叩く。
(なにかないかな。面白い事)
彼女の願い事とは、結局のところ、自分がなにを求めているのかを教えてもらおうとしているのかもしれない。
学校にやってきても彼女の憂鬱は依然として晴れない。
「なぁ、清春」
「なに?」
最近不機嫌そうな様子の彼に、声をかけた透がたじろいでいた。彼女はあの能天気そうな男がなにをそんなに苛立っているのだろう、と机に座ったままそちらを見やる。彼は自分でも自分の違和感に気がついているようで、はっとしたように「わりぃ」と言うとむやみに舌打ちを繰り返した。透はどうしたものかと肩をすくめながら、それでも携帯電話を弄りながら彼の隣で、俺、ちょっと気になってる子がいるんだよなぁ、と彼女にとってどうでもいいような事を話し始め、それと同時に彼女もそちらへの興味を失った。
彼と同じように携帯電話に触れる。ネットに接続し、新しいページを開いては戻り、また新しい検索を始める。
見つからない。
楽しい事。
彼女のすぐ傍でマナーモードに設定していないらしく、着信を告げる音が鳴り響いていた。茜は全く非常識で、学校と言う共同生活を送る以上最低限の礼儀は必要だと思っている。彼女はそれを騒ぐ事無く静かに過ごし、誰の意識にも写らない事でこなしていると思っている。そしてその着信音に面倒くさそうな顔をしながら――どうやらメールのようだ――ディスプレイを見て、返信する事無く机の中に再びしまった怜の事をバカな女だと思い、そして少々苛立ちを感じる。
自分と同じように他人の意識に介入しない、そのくせ自分の存在は黙っていても誰もが意識している。自分と少し似ていて、それなのに正反対の彼女の存在が茜には酷くわずらわしいものに思えた。
(……生きる価値がないのは……)
彼女は以前思った事を、もう一度思う。
(彼女のような人だろうか。それとも私だろうか)
窓の外を見やる。よく晴れた日で、教室にも届いていた陽射しを直接見てしまい、彼女は目を細め運動場の方へと視線を逸らす。身近な休憩時間だからか運動場に人影は見当たらない。なんとなく、そこに自分のイメージを存在させようとしてみる。まず、運動場の真ん中にポツンと立っている自分。その次に片隅の日陰の部分に腰を下ろしている自分。引かれた白線を無視して、好き勝手に走り回っている自分。どれもピンと来ない。そして最後に彼女は校舎からそう離れていない場所でうつ伏せになっている自分の姿を想像する。ピクリとも動かず、一言も声を発さず、呼吸すら行われず、抜け殻のように横たわっている自分。それにほんの少しリアリティを感じるものの、一体その自分はどんな表情をしているのだろうかと考えると、あまり上手く想像する事が出来なかった。
もう一度携帯電話が音を立てた。
机の上で、先程の自分の想像のような格好で机に顔をつけていた怜が「あぁ、もう」とでも言いたそうな顔で、それでもちゃんと携帯を取りその画面を見る。茜はそんなに携帯がなるのがわずらわしいなら電源を切ってしまえばいいのに、もしくはそんな顔を浮かべてしまうような相手ならはじめから番号やアドレスを教えなければいいのにと思う。ふと今自分は嫉妬しているのだろうか、とネット接続する事が本分になりつつある自分の携帯電話を思わずぎゅっと握り締めていた。
(……馬鹿げてる。本当に)
彼女なんて、私にとって、なんの価値もない人生を歩んでいる人間の典型じゃないか。
それでも、価値などないと思う彼女に価値を見出し、彼女を求めている人間が存在していると言う事を、あの着信が証明しているように思わされる。そして自分を必要として、連絡をしてくる人など、今の彼女には思い浮かべる事が出来なかった。
(そうじゃない。私が望むのはそんな人生じゃない)
彼女はそれを振り払うように首を小さく振る。間もなく休憩時間が終わろうとしていた。茜は忘れるように教科書を取り出し机の上に広げる。同じようにノートを広げ、綺麗に整列している神経質そうな自分の字を見て、それの上にペンをぐちゃぐちゃに走らせ、すべて塗りつぶして、真っ黒になったそれを破り咲いて、この窓から放り出し、風に飛ばされている紙切れ達を見送る事が出来たら少しは気が晴れるだろうか。きっと、馬鹿げている。それを行ったとしても、それは結局自由でも、本能でもなく、たんなる自暴自棄な自分が無茶な事をやりたいと願い、それは無茶な行いだろうと言うような事を冷静に行い、虚しくなるだけだった。
チャイムが鳴ったが教師はまだやってこず、その間に怜が鞄を取って立ち上がった。周りの生徒がその様子を見て「あぁ、帰るんだ」と言うような顔をする。チャイムが鳴り終る頃には彼女の姿は教室から既に消えており、遅れた事をまるで気にするでもない様子の教師は、彼女がつい先程までいた事など知りもしない様子で黒板にチョークでガリガリと音を立て始め、茜はそれを追いながら、いつもと同じようにペンをノートに走らせた。
恵子と話す頻度が最近少なくなっていた。彼女がインする頻度が減ったのが原因で、彼女は「ちょっと家の用事が忙しくて」と言ったり「家族で出掛ける事が最近多くて」とも言い、また「旦那がパソコンばっかりするなってうるさくて」と言う。茜はそういう事情なら仕方ないよね、と彼女に努めて明るい返事を返すようにしている。本当はもっと彼女と話したいと思っているのだが、そう彼女に請う事で彼女が機嫌を損ない、もう話せなくなるかもしれない、と言う恐れがあるためでもあった。
その日珍しくインしていた彼女を見かけ、メッセージを送ると若干の間を置き反応が返ってきた。
――久しぶりだね。
――うん、って言っても私は結構インしてるんだけどね。
はは、と茜は苦笑を零す。
――最近恵子さんなにしてたの?
――そんな特別な事はしてないよ。のんびりしてる。
――へー、そっかぁ。それでも主婦って忙しそうだもんね、子供もいるし。
――まぁねぇ、茜ちゃんは?
――私は相変わらずですねぇ。
やっぱり彼女と話すのは楽しい。
茜は毎日彼女と話す事が出来ればなぁ、と思いながら前回彼女と話してから見たテレビや、サイトの話をしばらく続けながら、机の上に広げてあるポテトチップスを一枚口に運んだ。先程母親が夕飯だとドアの向こう側から告げてきたが、彼女はそれを無視していた。
――ねぇ、茜ちゃんってさ、最近なんか楽しい事とかあった?
そう聞いてきたのは、特にどうと言う事もないタイミングのように茜には思えた。なので「あんまりないですね」と深く思慮する事無くそうキーボードを叩く。
――そっか。
ややあって、そう返ってくる。
――どうかしたんですか?
――ううん、ちょっとこっちも最近楽しい事があまりなくって。
――そうなんですか? 私、恵子さんは幸せな暮らししてるとか勝手に思ってましたけど。
――はは
はは。
それにどのような思いが込められているのか、茜には分からない。酷く簡潔で、ディスプレイに表示されたその二文字は酷く乾いているようにも見えたし、それともそれは考えすぎで単なる苦笑のようなものなのかもしれない。
なにか言わなくては。
――ははって。
――うん、まあ、普通よ、普通。
――でも、普通が一番って言うし。
ほっとしながら、彼女はもうこんな話はしないほうがいいのかもしれない、と思う。しかし自分から言わなくても彼女が切り出せば、そうやって表示された文字達を無視する事も出来ないだろう。
(……私はなにか、間違った事を言ったのだろうか)
茜は次々と浮かんでは消えていく文字達を追いながらそんな事を考えた。もしかすると彼女はもっと違う言葉を必要としていたのかもしれない。もしそうなら、いつもは自分が彼女に励まされる事も多いのだが、そのときは自分が彼女を励ましてあげることが出来るかもしれない。
茜はふぅ、と吐息を吐いた。
もっと彼女の言葉を注意深く聞いていればよかった。そうすれば彼女の悩みに触れてあげる事が出来たかもしれないのに。
そう思ったが、どうでもいいような会話がしばらく続き、ふと話題が途切れた時、恵子がそろそろ家事をしないといけないと言い、落ちてしまった。茜は物足りなさを感じながら、誰もいなくなった部屋にそれでも「またね」と書き込むと、自分以外誰も読むはずがないそれに対し、もう一度「またね」と言うと、マウスを動かし、その部屋を閉じた。
――つってもさぁ、どうせ普通の人だろ? 叶える事にも限度があるだろ。
茜はふぅ、と溜め息を吐いた。掲示板の存在を知ってから彼女も何度か権利を得ようとしているのだが、いつも出遅れてしまっている。掲示板を表示しているモニターはそんな彼女を嘲笑うようにぶうん、と小さな音を立てていた。
だがもしその権利を得たとして一体なにを頼むのだろう。
スクロールしていた画面が一番下まで到達し、ピタリと止まる。
(私、なにもないな)
さして広くもない部屋の床には彼女が食べたスナック菓子の袋や、読みかけの漫画が開かれたまま放り投げられていて散らかり放題となっている。それを片付けるのは彼女の母親なのだが、それは彼女が学校に行って部屋にいない時に限られている。本当はそれも気に食わないのだが自分では片付ける事が出来ないのでそれは諦める事にしている。母親に見られて困るようなものなど結局このパソコンの中だけでそれにロックをしておけば――そもそもパソコンに弱い母親は起動しようともしないだろうが――彼女の陰部に母が触れる事もない。
しかし、そこに触れたと言って、母親が一体どのような反応をすると言うのだろう。
彼女はきっと泣いて喚くだろうと思っているのだが、それは彼女が自分がやっている事はきっと他人からすれば理解されない事だろうと思っているからなのだが、だが、一体今の彼女のやっている事が、他人にとって、そして自分にとってなんの意味があると言うのだろう。
茜は退屈そうに頬杖をしながら、あてもなくキーボードを叩く。
(なにかないかな。面白い事)
彼女の願い事とは、結局のところ、自分がなにを求めているのかを教えてもらおうとしているのかもしれない。
学校にやってきても彼女の憂鬱は依然として晴れない。
「なぁ、清春」
「なに?」
最近不機嫌そうな様子の彼に、声をかけた透がたじろいでいた。彼女はあの能天気そうな男がなにをそんなに苛立っているのだろう、と机に座ったままそちらを見やる。彼は自分でも自分の違和感に気がついているようで、はっとしたように「わりぃ」と言うとむやみに舌打ちを繰り返した。透はどうしたものかと肩をすくめながら、それでも携帯電話を弄りながら彼の隣で、俺、ちょっと気になってる子がいるんだよなぁ、と彼女にとってどうでもいいような事を話し始め、それと同時に彼女もそちらへの興味を失った。
彼と同じように携帯電話に触れる。ネットに接続し、新しいページを開いては戻り、また新しい検索を始める。
見つからない。
楽しい事。
彼女のすぐ傍でマナーモードに設定していないらしく、着信を告げる音が鳴り響いていた。茜は全く非常識で、学校と言う共同生活を送る以上最低限の礼儀は必要だと思っている。彼女はそれを騒ぐ事無く静かに過ごし、誰の意識にも写らない事でこなしていると思っている。そしてその着信音に面倒くさそうな顔をしながら――どうやらメールのようだ――ディスプレイを見て、返信する事無く机の中に再びしまった怜の事をバカな女だと思い、そして少々苛立ちを感じる。
自分と同じように他人の意識に介入しない、そのくせ自分の存在は黙っていても誰もが意識している。自分と少し似ていて、それなのに正反対の彼女の存在が茜には酷くわずらわしいものに思えた。
(……生きる価値がないのは……)
彼女は以前思った事を、もう一度思う。
(彼女のような人だろうか。それとも私だろうか)
窓の外を見やる。よく晴れた日で、教室にも届いていた陽射しを直接見てしまい、彼女は目を細め運動場の方へと視線を逸らす。身近な休憩時間だからか運動場に人影は見当たらない。なんとなく、そこに自分のイメージを存在させようとしてみる。まず、運動場の真ん中にポツンと立っている自分。その次に片隅の日陰の部分に腰を下ろしている自分。引かれた白線を無視して、好き勝手に走り回っている自分。どれもピンと来ない。そして最後に彼女は校舎からそう離れていない場所でうつ伏せになっている自分の姿を想像する。ピクリとも動かず、一言も声を発さず、呼吸すら行われず、抜け殻のように横たわっている自分。それにほんの少しリアリティを感じるものの、一体その自分はどんな表情をしているのだろうかと考えると、あまり上手く想像する事が出来なかった。
もう一度携帯電話が音を立てた。
机の上で、先程の自分の想像のような格好で机に顔をつけていた怜が「あぁ、もう」とでも言いたそうな顔で、それでもちゃんと携帯を取りその画面を見る。茜はそんなに携帯がなるのがわずらわしいなら電源を切ってしまえばいいのに、もしくはそんな顔を浮かべてしまうような相手ならはじめから番号やアドレスを教えなければいいのにと思う。ふと今自分は嫉妬しているのだろうか、とネット接続する事が本分になりつつある自分の携帯電話を思わずぎゅっと握り締めていた。
(……馬鹿げてる。本当に)
彼女なんて、私にとって、なんの価値もない人生を歩んでいる人間の典型じゃないか。
それでも、価値などないと思う彼女に価値を見出し、彼女を求めている人間が存在していると言う事を、あの着信が証明しているように思わされる。そして自分を必要として、連絡をしてくる人など、今の彼女には思い浮かべる事が出来なかった。
(そうじゃない。私が望むのはそんな人生じゃない)
彼女はそれを振り払うように首を小さく振る。間もなく休憩時間が終わろうとしていた。茜は忘れるように教科書を取り出し机の上に広げる。同じようにノートを広げ、綺麗に整列している神経質そうな自分の字を見て、それの上にペンをぐちゃぐちゃに走らせ、すべて塗りつぶして、真っ黒になったそれを破り咲いて、この窓から放り出し、風に飛ばされている紙切れ達を見送る事が出来たら少しは気が晴れるだろうか。きっと、馬鹿げている。それを行ったとしても、それは結局自由でも、本能でもなく、たんなる自暴自棄な自分が無茶な事をやりたいと願い、それは無茶な行いだろうと言うような事を冷静に行い、虚しくなるだけだった。
チャイムが鳴ったが教師はまだやってこず、その間に怜が鞄を取って立ち上がった。周りの生徒がその様子を見て「あぁ、帰るんだ」と言うような顔をする。チャイムが鳴り終る頃には彼女の姿は教室から既に消えており、遅れた事をまるで気にするでもない様子の教師は、彼女がつい先程までいた事など知りもしない様子で黒板にチョークでガリガリと音を立て始め、茜はそれを追いながら、いつもと同じようにペンをノートに走らせた。
恵子と話す頻度が最近少なくなっていた。彼女がインする頻度が減ったのが原因で、彼女は「ちょっと家の用事が忙しくて」と言ったり「家族で出掛ける事が最近多くて」とも言い、また「旦那がパソコンばっかりするなってうるさくて」と言う。茜はそういう事情なら仕方ないよね、と彼女に努めて明るい返事を返すようにしている。本当はもっと彼女と話したいと思っているのだが、そう彼女に請う事で彼女が機嫌を損ない、もう話せなくなるかもしれない、と言う恐れがあるためでもあった。
その日珍しくインしていた彼女を見かけ、メッセージを送ると若干の間を置き反応が返ってきた。
――久しぶりだね。
――うん、って言っても私は結構インしてるんだけどね。
はは、と茜は苦笑を零す。
――最近恵子さんなにしてたの?
――そんな特別な事はしてないよ。のんびりしてる。
――へー、そっかぁ。それでも主婦って忙しそうだもんね、子供もいるし。
――まぁねぇ、茜ちゃんは?
――私は相変わらずですねぇ。
やっぱり彼女と話すのは楽しい。
茜は毎日彼女と話す事が出来ればなぁ、と思いながら前回彼女と話してから見たテレビや、サイトの話をしばらく続けながら、机の上に広げてあるポテトチップスを一枚口に運んだ。先程母親が夕飯だとドアの向こう側から告げてきたが、彼女はそれを無視していた。
――ねぇ、茜ちゃんってさ、最近なんか楽しい事とかあった?
そう聞いてきたのは、特にどうと言う事もないタイミングのように茜には思えた。なので「あんまりないですね」と深く思慮する事無くそうキーボードを叩く。
――そっか。
ややあって、そう返ってくる。
――どうかしたんですか?
――ううん、ちょっとこっちも最近楽しい事があまりなくって。
――そうなんですか? 私、恵子さんは幸せな暮らししてるとか勝手に思ってましたけど。
――はは
はは。
それにどのような思いが込められているのか、茜には分からない。酷く簡潔で、ディスプレイに表示されたその二文字は酷く乾いているようにも見えたし、それともそれは考えすぎで単なる苦笑のようなものなのかもしれない。
なにか言わなくては。
――ははって。
――うん、まあ、普通よ、普通。
――でも、普通が一番って言うし。
ほっとしながら、彼女はもうこんな話はしないほうがいいのかもしれない、と思う。しかし自分から言わなくても彼女が切り出せば、そうやって表示された文字達を無視する事も出来ないだろう。
(……私はなにか、間違った事を言ったのだろうか)
茜は次々と浮かんでは消えていく文字達を追いながらそんな事を考えた。もしかすると彼女はもっと違う言葉を必要としていたのかもしれない。もしそうなら、いつもは自分が彼女に励まされる事も多いのだが、そのときは自分が彼女を励ましてあげることが出来るかもしれない。
茜はふぅ、と吐息を吐いた。
もっと彼女の言葉を注意深く聞いていればよかった。そうすれば彼女の悩みに触れてあげる事が出来たかもしれないのに。
そう思ったが、どうでもいいような会話がしばらく続き、ふと話題が途切れた時、恵子がそろそろ家事をしないといけないと言い、落ちてしまった。茜は物足りなさを感じながら、誰もいなくなった部屋にそれでも「またね」と書き込むと、自分以外誰も読むはずがないそれに対し、もう一度「またね」と言うと、マウスを動かし、その部屋を閉じた。
求めていた回答ではあったが、それと同時に、彼女と話しているのは単なる時間の無駄のようだ、と恵子はパソコンの電源を落とした。彼女はパソコンの電源を落としダイニングキッチンへと向かうが、茜に言ったように家事に取り掛かることはしなかった。ただの適当な言い分けで彼女は冷蔵庫から紙パックに入ったコーヒーをグラスに入れそれをゆっくりと飲み干す。そうしながら時計を見る。時間を確認し、彼女は憂鬱な溜め息を吐いた。
なにもかもが憂鬱だと、近頃彼女は思う。
夕飯を作らなくてはいけないとは思う。そうしないと裕也が不満を漏らすし、その事を知ったら和寿も怒るはずだ。
冷蔵庫の中身を考えながら、今日の分くらいは賄えるだろうと思うのだが、なんだかそれも気にくわない。
少し外に出てみようか、と思い、彼女は子供部屋を覗いた。
「裕也」
「なに?」
「母さん、買い物に行こうと思うんだけど一緒に行こうよ」
「えー」
裕也はあからさまに面倒臭そうに声をあげた。見てみると彼の手には買ってあげたばかりの漫画が握られており、それを途中で放り出すのが嫌なようだ。
「僕お留守番してる」
「そんな事言わずに行こうよ。裕也が食べたいもの買ってあげるから。お菓子も買っていいよ?」
「本当?」
その誘惑に彼はぱっと頬を高揚させるが、子供の気まぐれがそうさせたのだろうか、もう一度漫画を見つめたところで、彼は立ち上がろうとしてその身体をとめてしまった。
「やっぱりいい」
「なんでよ、行こうよ」
「行きたくないもん」
「……母さんと一緒に行くの嫌なの?」
「……そうじゃないけど」
じゃあ、なによ!?
そう叫びだしたくなる。
なんとかこらえるものの、自分の中で心臓が脈打つのが分かる。一気に速度を増したそれを敏感に感じ取る事が出来、同時に呼吸がぴたりと止まる。息苦しい。
自分の内側からなにかが飛び出したいと叫んでいる。そして内側はそれを拒み、全ての機能を停止しようとする。自分の意思がどちらに傾こうとしているのかすら分からない。ただ、なにをしたところで、その全てが自分に帰ってくるのは明白だった。
裕也が母親の沈黙に耐え切れなくなったのか、もう一度「僕、行かない」と言うと背中を向けた。いくら無邪気な子供でも身近な危機に対しての防衛本能は既に持っており、彼は母の目に見えない変化に気がつかないと言う選択をした。
ページがめくられ、紙の擦れる音が聞こえる。
「……分かったわ」
恵子はそれだけを搾り出すように言うとドアを閉めた。ダイニングへと戻り、椅子に座ると両肘をテーブルに着き手を重ね、そこに頭を乗せ、深い溜め息を吐き……舌打ちを繰り返していた。
(……なんで)
誰にそれを聞けばいいのだろう。
育児ノイローゼよ。
近所に住む同年代の子供を持つ主婦達に聞いてもそう言われる事は分かりきっていた。和寿の事を言えばまた反応は変わるかもしれないが、それは彼女も望む事ではなかった。
私は、孤独だ。
誰も、いない。
私を愛してくれる人など、いない。それどころか、私に関心を抱いている人すら、いない。
和寿は今日遅くまで帰ってこないだろう。彼は仕事だと言って出て行ったが、それは嘘で本当は今日は休日だと言う事を恵子は知っていた。それに気がついたのは随分前からで、そうやって出て行く彼は普段どおりのつもりなのだろうが、そこにいつもの仕事へ行こうとする態度とはほんの少し違うものが混ざっている事に彼女はとうに気がついていた。
きっと、彼の夕飯をしたくする必要などないのだ。それでも彼は裕也のために夕飯を用意しなかった私に声を荒げるのだろう。
(……皆、皆)
いつから、そう思うようになっただろう。
そして、なんど誤魔化してきたのだろう。
空になっていた透明のグラスの外側に、自分の唾液とコーヒーが混ざり合った液体が残っている。それはなにかを象徴するかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、下に向かって落ちようとしている。
じわりじわりと、澱んだそれが落ちていこうとしている。
もう、限界だ。
誰よりも、愛しているのに。
誰よりも、想っているのに。
世界は、それを独りよがりとして何事もなく片付けてしまおうと言うのか。
届かない感情に、意味などないと言うのか。
なら、それを抱いて、それを抱きしめて、生きている私そのものに、意味がないと言うのか。
(……皆)
涙が、頬に流れた。
もう、言ってしまおう。
そして、それを口にした時、その言葉が自分に向けられる事はないのだろうと、彼女は絶望の中で思う。
(……嫌いだ)
だって、彼らは私の事を、好きでも嫌いでもなく、ただ関心がないのだから。
そう思ってもらえる事すら、ないのだから。
なにもかもが憂鬱だと、近頃彼女は思う。
夕飯を作らなくてはいけないとは思う。そうしないと裕也が不満を漏らすし、その事を知ったら和寿も怒るはずだ。
冷蔵庫の中身を考えながら、今日の分くらいは賄えるだろうと思うのだが、なんだかそれも気にくわない。
少し外に出てみようか、と思い、彼女は子供部屋を覗いた。
「裕也」
「なに?」
「母さん、買い物に行こうと思うんだけど一緒に行こうよ」
「えー」
裕也はあからさまに面倒臭そうに声をあげた。見てみると彼の手には買ってあげたばかりの漫画が握られており、それを途中で放り出すのが嫌なようだ。
「僕お留守番してる」
「そんな事言わずに行こうよ。裕也が食べたいもの買ってあげるから。お菓子も買っていいよ?」
「本当?」
その誘惑に彼はぱっと頬を高揚させるが、子供の気まぐれがそうさせたのだろうか、もう一度漫画を見つめたところで、彼は立ち上がろうとしてその身体をとめてしまった。
「やっぱりいい」
「なんでよ、行こうよ」
「行きたくないもん」
「……母さんと一緒に行くの嫌なの?」
「……そうじゃないけど」
じゃあ、なによ!?
そう叫びだしたくなる。
なんとかこらえるものの、自分の中で心臓が脈打つのが分かる。一気に速度を増したそれを敏感に感じ取る事が出来、同時に呼吸がぴたりと止まる。息苦しい。
自分の内側からなにかが飛び出したいと叫んでいる。そして内側はそれを拒み、全ての機能を停止しようとする。自分の意思がどちらに傾こうとしているのかすら分からない。ただ、なにをしたところで、その全てが自分に帰ってくるのは明白だった。
裕也が母親の沈黙に耐え切れなくなったのか、もう一度「僕、行かない」と言うと背中を向けた。いくら無邪気な子供でも身近な危機に対しての防衛本能は既に持っており、彼は母の目に見えない変化に気がつかないと言う選択をした。
ページがめくられ、紙の擦れる音が聞こえる。
「……分かったわ」
恵子はそれだけを搾り出すように言うとドアを閉めた。ダイニングへと戻り、椅子に座ると両肘をテーブルに着き手を重ね、そこに頭を乗せ、深い溜め息を吐き……舌打ちを繰り返していた。
(……なんで)
誰にそれを聞けばいいのだろう。
育児ノイローゼよ。
近所に住む同年代の子供を持つ主婦達に聞いてもそう言われる事は分かりきっていた。和寿の事を言えばまた反応は変わるかもしれないが、それは彼女も望む事ではなかった。
私は、孤独だ。
誰も、いない。
私を愛してくれる人など、いない。それどころか、私に関心を抱いている人すら、いない。
和寿は今日遅くまで帰ってこないだろう。彼は仕事だと言って出て行ったが、それは嘘で本当は今日は休日だと言う事を恵子は知っていた。それに気がついたのは随分前からで、そうやって出て行く彼は普段どおりのつもりなのだろうが、そこにいつもの仕事へ行こうとする態度とはほんの少し違うものが混ざっている事に彼女はとうに気がついていた。
きっと、彼の夕飯をしたくする必要などないのだ。それでも彼は裕也のために夕飯を用意しなかった私に声を荒げるのだろう。
(……皆、皆)
いつから、そう思うようになっただろう。
そして、なんど誤魔化してきたのだろう。
空になっていた透明のグラスの外側に、自分の唾液とコーヒーが混ざり合った液体が残っている。それはなにかを象徴するかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、下に向かって落ちようとしている。
じわりじわりと、澱んだそれが落ちていこうとしている。
もう、限界だ。
誰よりも、愛しているのに。
誰よりも、想っているのに。
世界は、それを独りよがりとして何事もなく片付けてしまおうと言うのか。
届かない感情に、意味などないと言うのか。
なら、それを抱いて、それを抱きしめて、生きている私そのものに、意味がないと言うのか。
(……皆)
涙が、頬に流れた。
もう、言ってしまおう。
そして、それを口にした時、その言葉が自分に向けられる事はないのだろうと、彼女は絶望の中で思う。
(……嫌いだ)
だって、彼らは私の事を、好きでも嫌いでもなく、ただ関心がないのだから。
そう思ってもらえる事すら、ないのだから。
「や」
「やぁ」
玄関のドアを開けると奈菜が明るく手を挙げ、春日は短い返事を返した。彼女は酒が入っているらしいコンビニの袋を持ち上げ、入れてくれ、と言うように首を軽く傾げた。
「どうぞ」
「ありがと、今日コンビニ休み?」
「うん」
普通そういう事は酒を買う前に聞くべきだ、と先に部屋に入ろうとしている彼女の背中に声をかけると、彼女は「そうだね」とあっけらかんとして笑う。もう何度もやってきている彼女は遠慮もしないし、春日が普段どこに座り、自分がどこに座るべきかも理解している。
テーブルに酒を二つ置き、残りを袋ごとこちらに手渡してくる。春日はやれやれと思いながらそれらを冷蔵庫の中にしまう。
まるで主導権を握られた恋人同士のようだ、と彼は思いながら、確かにそれとは違い、そして殆ど近いもののようにも思える。
「なんか久しぶりだね。こうやって二人で会うの」
「そうかな」
彼は今までも相変わらずそれなりの頻度で会っているような気がする。
「そうなの。きっと私と春日君の流れてる時間が違うんだよ」
「なら一週間会わないでいると、君は僕より年上になっているかもしれないね」
「君にお姉さん扱いされるのも悪くない気がするけど、私多分、すぐおばあちゃんになっちゃうと思うな」
「介護くらいはしてあげるよ」
そう言いながら腰を下ろし、乾杯をするとテレビをつけた。二人とも大して興味がないバラエティ番組だったが、意味もなく沈黙をかき消してくれたし――別に沈黙を気にする事もないのだが――、時折彼女がそれを見て笑い、彼に「なに、あれ」と頬を緩ませながら太腿の辺りをパン、と叩くきっかけにもなった。
「ねぇ、最近なにか楽しい事あった?」
奈菜は返ってくる返事がどんなものか大体分かってはいるがそう聞いてみた。
「特にはないね」
やっぱり、と思いながら、彼女はなぜかそれが嬉しい。自分がいてもいなくても以前会った時と全く変わらない彼の事をどうしようもなく愛しいとも思うし、本当に長い間離れてしまったとしても彼ならきっとその時も、昨日会っていたかのような態度で自分を見てくれるような気がした。
「春日君っていつからそうなの?」
「なにが?」
「うーん。いつから成長しなくなっちゃったの?」
「自分では成長をやめたつもりはないけど」
質問の意味が分からないと言う顔をする。
奈菜も「えっと、そうじゃなくて」ともっとうまい言い方はないものかと天井を見つめ、そしてハイライトに火をつけ、さ迷う煙を追いながら、
「いつ頃、春日君は、今みたいな人になったの?」
とそれも尚納得はしていないようだが、彼のほうをそう言って見つめた。
「まぁ、君がなにを聞きたいかは分かったよ」
既に火がつけられて灰皿に置かれていたマルボロを一息吸う。
要するに、君の中で僕はもう完成してしまっていて、これ以降変化する事はないと言う事だ。
「高校に入った時には今とあまり変わらなかったかもしれない」
「へー、中学生の時の可愛かった春日君見てみたかったなぁ」
「可愛げはなかったと思うね。ただ、なんとなく、周りに比べて冷めた目をしてたと思う。他の皆みたいにアイドルにときめいたり、歌に感動したり、夢を抱いたりする事に、あまり興味がなかった。特別それを口にする事はなかったけれど、無理やり誰かに合わせるような事もしなかった。マイペースな奴だと思われてただろうね。だから友達もそう多くはなかった。かと言って少なかったかと言われるとそうでもなかった。当時はなんとなくそこにいるだけで、誰かと打ち解けることが出来ていた気がするね。休み時間に一人でいると誰かに声をかけられる事も珍しくなかったし、それを不快だとも思わなかった。ただ、まぁ」
「まぁ?」
「ずっとその度に考える事があった。僕じゃなくてもいいんだと。僕の代わりはどこにでもきっといる筈で、むしろ他の誰かと向き合った時、そこに僕とではなしえないもっと深い感情が芽生えるだろうと。僕はその頃から他人にあまり興味がなかったし、きっと他人がどんなに親身に接してきても、僕が相手に深く入り込むことはなかっただろうから、心のどこかで、相手は今時間を無駄に使っているんだと思ったりもした事がある。だけど同時に、その時、その時だけを切り取って考えると、そこには僕しかいなかったんだろうと思うようにもなった。過去や未来を辿れば、僕の代わりはきっと見つかっただろう。だけど今現在、そしてその場所では、僕が一番適していたんじゃないかな、自分が今一番伝えたい気持ちを向ける相手としては」
そう言いながら、春日はふとヒッチコックの事を思い出す。
確かに自分達は、似ているのかもしれない。
奈菜はなんとなく理解したのか「あぁ」と零した。
「確かに春日君は空っぽで透明だから、なんでも話しやすいよね」
「そうだね、他人は他人に自分の色を付け足そうとする事が、特に中学生なんかには多かったんだと思う。けど皆少しそういう事に疲れを感じていたんだろうね。何色になればいいか分からない、分からないから誰かに聞いてみる。その他人は自分にとってあまり御気に召さない色で染め上げようとする。それを柔らかく拒否するために相手を自分の色に少し染めてその場を切り抜けようとする。もしくは言われるがままにその色に染まろうとするのだけど、うまくいかず、自分の中で濁っていくその色を後になって塗り潰すのも簡単じゃない。そういう中で、僕はほんのちょっとではあるけれど、他人にとって楽だったんだろうね。僕はただ聞いているだけのつもりだったんだけど、ある日ふとそういう事なんだろうと思い、そして、要するに、僕にとっては全て他人事だと思うようになった」
「結局春日君と話していても、その他人は君に色をちらつかせていたわけじゃないものね」
「そう。結局僕にじゃないんだよ。透明の僕と接する他人もその時、何色でもなく透明だった。そして僕から離れ、他の誰かと向き合う時に再びそれが顔を出す。僕はあくまで誰かと誰かが繋がろうとするその間に時折存在するようなものなんだと思うようになり、高校に入学する頃には随分冷めた十五歳の少年として存在していたと思うけど」
お前、ばかだろ。テレビの中で番組の司会者がゲストに対し、笑いながら指を指していた。
「けど、別にそういう事があったからと言うわけでもないんだろうね。結局は元々僕が空っぽで透明だったと言う事が起因なんだろう」
「なるほど」
もうそれが口癖になってしまったかのように頷いている彼女の姿を見ながら、春日は空になった酒の代わりを取ってこようと立ち上がる。
「ねぇ、寂しいとか考えた事ない?」
「君はあるんだろう? 僕はあまりないよ」
「私、いっつも春日君が言ってる事ってちゃんと理解出来てるかどうか分からないんだよね。でも、あれだよね、春日君が言いたい事って、結局、他人はああいう人間で、春日君はこういう人間で、違いはあるけれど、そこに壁はないって事でしょう?」
「どういう理解でそうなったのか、今度は僕が分からないんだけど」
「だって、聞いてたらそう思ったんだもん」
戻ってくると、彼女は興奮でもしているのかいつもより目を見開いていた。にこにこと微笑んでいて、一体なにがそんなに面白いのだろうと、ふと自分も苦笑すると彼女は残っていた酒を飲み干すと彼の足に頭を乗せごろりと寝転んだ。
「結局さ、考え方の違い、で全部済んじゃうじゃない? 春日君は他の人に比べて他人に興味がない。他の人に比べて自分の考えを押し付けたりしない。他の人に比べて無口。他の人に比べてあまり趣味を持たない。全部そういう事で、でも結局それはその通りで、その通りだから、大した事じゃないんだよ、結局」
彼女の重みを感じながら、同時に柔らかな髪の感触を覚える。
彼女は、きっとどこかで自分と似ていて、そしてそれ以外はきっとあまり似ていないのだろう。その彼女は、きっとこう言おうとしているのだ。
春日君も、他の人と変わらない一人の人間なんだよね。
彼も、そうだろうと思う。
春日さんも、きっと狂ってるんですよ。
その言葉に付随する意味など全て消えていく。結局、あの少女にそう言われても、特になにかを言い返す気にもならなかった。それはそんな言葉に意味などなかったからだ。狂っていようが、狂っていまいが、一体そこにある距離がどれほどのものだと言うのだろうか。彼女が言っているのは、ただ、胸の中で渦巻いているその色を春日に見せてきたと言う程度の事でしかない。
そう言われたところで、なんだと言うのだろう?
それが正解でもそうじゃなくても、自分はもう、今の自分で生きるのだし、そしてそれを認めているのは自分ではなく、他ならぬ世界で、社会だ。自分がここにいる事を、もう世界はとっくに認めているのだ。特別な事でもなんでもなく、当然の事として。
ふと彼女の頭を撫でてみた。くすぐったいのか、喜んでいるのか首を振る彼女をぼんやりと見ながら、彼女は一体どうして自分にこうも構ってくるのだろうと思う。
「ねぇ、奈菜」
「なに?」
「最近楽しい事あった?」
「あったよ」
「なに?」
「春日君さ、最近私の前で小さく笑うんだよね」
僕だって、そこまで無感動な人間じゃないんだけどね。
やれやれと思うと、彼女がこちらを見つめた。
「春日君も、いつか会うんだろうね」
「誰に?」
「私はさぁ、どうやってもなれないと思うし」
そう言って彼の手を取り、手の甲を頬にあてがった。
ひんやりとしたその感触が、酒で火照った身体には心地よかった。
「君と同じ、透明色の人」
もう会ってるよ、彼は他人からいつも叩かれているそうだ。どうだろう、彼と僕は気が合うだろうか? 分からないな。同属嫌悪と言う言葉もあるしね。だけど、共感を覚えたりする事もある。
「でも色の違いだって大した問題じゃないよね」
「そうだね。ねぇ、一つお願いがあるんだけど」
「え? なに?」
「キスしていいかな」
そう言うと、彼女はぷっと吹き出した。今更なにを言っているんだろうとでも言うように。
「いいよ」
彼女に近づいていく。距離がなくなり、その内この体が重なり合って混ざり合う。別にそこに心というものが介入していく事はきっとない。
表現なんて滅べばいい。
今日はいつもより、彼女に対して性欲が抑えられなくなった。それを愛ゆえにと言い換えてしまう事は簡単だ。行為の最中に気持ちいいと言う彼女が、それを愛してると言う言葉に変換する事もそう難しい事じゃない。
だけど、それをする必要がないのだから、今のままでいいのだと、いつもより彼女の柔肌に深くのめりこみながら春日は目を閉じた。
「他人に生きる理由を見出さないと、生きる事なんて出来ないと思うの」
渉は無言のまま頷いて蓮に同意する。
「私はそういうところから放り出されちゃったみたい」
「僕もそうだよ」
渉は彼女へと手を伸ばす。
蓮は嬉しそうに彼と手を繋いだ。
そこに、理由を見つける事が出来た。
「でも、君と出会えた」
「うん」
蓮は少し恥ずかしそうに俯いた。異性と手を繋ぐ事に慣れていなかったのかもしれない。渉も、そんなに経験がある訳ではないので、多少ぎこちなさが残っていたが、逆になんだか初々しいカップルのようで悪い気はしなかった。
渉の履くブーツの固い底がアスファルトにこつん、と音を立てた。
付近に人気はない。空は暗闇に包まれており、遠くを見るとビルや高速道路の光が点在し、渉はその光景にしばらく見惚れていた。
そっか。こういう事をするのが恋愛なのか。彼はふとそういうのも悪くないものかもしれないなぁ、と思う。
誰かと繋がっている事。繋がった誰かと、なにかを共有する事。
それはこんなふうに美しい景色だったり、テレビで大々的に宣伝されている映画だったり、ペットショップの狭い籠の中で暴れまわる猫や犬を一緒に飼おうとしたり、同棲して、自分達の好きなように部屋をコーディネイトしていく事だったりと様々だが、そんな風に、人は誰かと共存していくと言うそれだけの事で生きる理由を見出す事が出来るのかもしれない。
「じゃ、行こうか」
「うん」
二人は並んで歩く。
出会ってから共に過ごした時間はそう多くはなかった。
そして、お互いを理解するための時間はもうこれ以上は必要ない気がする。
カツン。
一瞬、二人は足元を見下ろし、そしてその視線をお互いへと戻した。
頷きあい、そして――
最後の一歩を踏み出す。
重力。
抗う気もなくそれに身を委ねる。
ふと、彼女が笑ったような気がし、渉は自分もなんとか笑ってみせようとする。
うまく出来ただろうか。分からない。
それを聞く事は、もう出来ない。
生きる理由は、もういらない。
死ぬ勇気を、二人で、生み出す事が出来たから。
「やぁ」
玄関のドアを開けると奈菜が明るく手を挙げ、春日は短い返事を返した。彼女は酒が入っているらしいコンビニの袋を持ち上げ、入れてくれ、と言うように首を軽く傾げた。
「どうぞ」
「ありがと、今日コンビニ休み?」
「うん」
普通そういう事は酒を買う前に聞くべきだ、と先に部屋に入ろうとしている彼女の背中に声をかけると、彼女は「そうだね」とあっけらかんとして笑う。もう何度もやってきている彼女は遠慮もしないし、春日が普段どこに座り、自分がどこに座るべきかも理解している。
テーブルに酒を二つ置き、残りを袋ごとこちらに手渡してくる。春日はやれやれと思いながらそれらを冷蔵庫の中にしまう。
まるで主導権を握られた恋人同士のようだ、と彼は思いながら、確かにそれとは違い、そして殆ど近いもののようにも思える。
「なんか久しぶりだね。こうやって二人で会うの」
「そうかな」
彼は今までも相変わらずそれなりの頻度で会っているような気がする。
「そうなの。きっと私と春日君の流れてる時間が違うんだよ」
「なら一週間会わないでいると、君は僕より年上になっているかもしれないね」
「君にお姉さん扱いされるのも悪くない気がするけど、私多分、すぐおばあちゃんになっちゃうと思うな」
「介護くらいはしてあげるよ」
そう言いながら腰を下ろし、乾杯をするとテレビをつけた。二人とも大して興味がないバラエティ番組だったが、意味もなく沈黙をかき消してくれたし――別に沈黙を気にする事もないのだが――、時折彼女がそれを見て笑い、彼に「なに、あれ」と頬を緩ませながら太腿の辺りをパン、と叩くきっかけにもなった。
「ねぇ、最近なにか楽しい事あった?」
奈菜は返ってくる返事がどんなものか大体分かってはいるがそう聞いてみた。
「特にはないね」
やっぱり、と思いながら、彼女はなぜかそれが嬉しい。自分がいてもいなくても以前会った時と全く変わらない彼の事をどうしようもなく愛しいとも思うし、本当に長い間離れてしまったとしても彼ならきっとその時も、昨日会っていたかのような態度で自分を見てくれるような気がした。
「春日君っていつからそうなの?」
「なにが?」
「うーん。いつから成長しなくなっちゃったの?」
「自分では成長をやめたつもりはないけど」
質問の意味が分からないと言う顔をする。
奈菜も「えっと、そうじゃなくて」ともっとうまい言い方はないものかと天井を見つめ、そしてハイライトに火をつけ、さ迷う煙を追いながら、
「いつ頃、春日君は、今みたいな人になったの?」
とそれも尚納得はしていないようだが、彼のほうをそう言って見つめた。
「まぁ、君がなにを聞きたいかは分かったよ」
既に火がつけられて灰皿に置かれていたマルボロを一息吸う。
要するに、君の中で僕はもう完成してしまっていて、これ以降変化する事はないと言う事だ。
「高校に入った時には今とあまり変わらなかったかもしれない」
「へー、中学生の時の可愛かった春日君見てみたかったなぁ」
「可愛げはなかったと思うね。ただ、なんとなく、周りに比べて冷めた目をしてたと思う。他の皆みたいにアイドルにときめいたり、歌に感動したり、夢を抱いたりする事に、あまり興味がなかった。特別それを口にする事はなかったけれど、無理やり誰かに合わせるような事もしなかった。マイペースな奴だと思われてただろうね。だから友達もそう多くはなかった。かと言って少なかったかと言われるとそうでもなかった。当時はなんとなくそこにいるだけで、誰かと打ち解けることが出来ていた気がするね。休み時間に一人でいると誰かに声をかけられる事も珍しくなかったし、それを不快だとも思わなかった。ただ、まぁ」
「まぁ?」
「ずっとその度に考える事があった。僕じゃなくてもいいんだと。僕の代わりはどこにでもきっといる筈で、むしろ他の誰かと向き合った時、そこに僕とではなしえないもっと深い感情が芽生えるだろうと。僕はその頃から他人にあまり興味がなかったし、きっと他人がどんなに親身に接してきても、僕が相手に深く入り込むことはなかっただろうから、心のどこかで、相手は今時間を無駄に使っているんだと思ったりもした事がある。だけど同時に、その時、その時だけを切り取って考えると、そこには僕しかいなかったんだろうと思うようにもなった。過去や未来を辿れば、僕の代わりはきっと見つかっただろう。だけど今現在、そしてその場所では、僕が一番適していたんじゃないかな、自分が今一番伝えたい気持ちを向ける相手としては」
そう言いながら、春日はふとヒッチコックの事を思い出す。
確かに自分達は、似ているのかもしれない。
奈菜はなんとなく理解したのか「あぁ」と零した。
「確かに春日君は空っぽで透明だから、なんでも話しやすいよね」
「そうだね、他人は他人に自分の色を付け足そうとする事が、特に中学生なんかには多かったんだと思う。けど皆少しそういう事に疲れを感じていたんだろうね。何色になればいいか分からない、分からないから誰かに聞いてみる。その他人は自分にとってあまり御気に召さない色で染め上げようとする。それを柔らかく拒否するために相手を自分の色に少し染めてその場を切り抜けようとする。もしくは言われるがままにその色に染まろうとするのだけど、うまくいかず、自分の中で濁っていくその色を後になって塗り潰すのも簡単じゃない。そういう中で、僕はほんのちょっとではあるけれど、他人にとって楽だったんだろうね。僕はただ聞いているだけのつもりだったんだけど、ある日ふとそういう事なんだろうと思い、そして、要するに、僕にとっては全て他人事だと思うようになった」
「結局春日君と話していても、その他人は君に色をちらつかせていたわけじゃないものね」
「そう。結局僕にじゃないんだよ。透明の僕と接する他人もその時、何色でもなく透明だった。そして僕から離れ、他の誰かと向き合う時に再びそれが顔を出す。僕はあくまで誰かと誰かが繋がろうとするその間に時折存在するようなものなんだと思うようになり、高校に入学する頃には随分冷めた十五歳の少年として存在していたと思うけど」
お前、ばかだろ。テレビの中で番組の司会者がゲストに対し、笑いながら指を指していた。
「けど、別にそういう事があったからと言うわけでもないんだろうね。結局は元々僕が空っぽで透明だったと言う事が起因なんだろう」
「なるほど」
もうそれが口癖になってしまったかのように頷いている彼女の姿を見ながら、春日は空になった酒の代わりを取ってこようと立ち上がる。
「ねぇ、寂しいとか考えた事ない?」
「君はあるんだろう? 僕はあまりないよ」
「私、いっつも春日君が言ってる事ってちゃんと理解出来てるかどうか分からないんだよね。でも、あれだよね、春日君が言いたい事って、結局、他人はああいう人間で、春日君はこういう人間で、違いはあるけれど、そこに壁はないって事でしょう?」
「どういう理解でそうなったのか、今度は僕が分からないんだけど」
「だって、聞いてたらそう思ったんだもん」
戻ってくると、彼女は興奮でもしているのかいつもより目を見開いていた。にこにこと微笑んでいて、一体なにがそんなに面白いのだろうと、ふと自分も苦笑すると彼女は残っていた酒を飲み干すと彼の足に頭を乗せごろりと寝転んだ。
「結局さ、考え方の違い、で全部済んじゃうじゃない? 春日君は他の人に比べて他人に興味がない。他の人に比べて自分の考えを押し付けたりしない。他の人に比べて無口。他の人に比べてあまり趣味を持たない。全部そういう事で、でも結局それはその通りで、その通りだから、大した事じゃないんだよ、結局」
彼女の重みを感じながら、同時に柔らかな髪の感触を覚える。
彼女は、きっとどこかで自分と似ていて、そしてそれ以外はきっとあまり似ていないのだろう。その彼女は、きっとこう言おうとしているのだ。
春日君も、他の人と変わらない一人の人間なんだよね。
彼も、そうだろうと思う。
春日さんも、きっと狂ってるんですよ。
その言葉に付随する意味など全て消えていく。結局、あの少女にそう言われても、特になにかを言い返す気にもならなかった。それはそんな言葉に意味などなかったからだ。狂っていようが、狂っていまいが、一体そこにある距離がどれほどのものだと言うのだろうか。彼女が言っているのは、ただ、胸の中で渦巻いているその色を春日に見せてきたと言う程度の事でしかない。
そう言われたところで、なんだと言うのだろう?
それが正解でもそうじゃなくても、自分はもう、今の自分で生きるのだし、そしてそれを認めているのは自分ではなく、他ならぬ世界で、社会だ。自分がここにいる事を、もう世界はとっくに認めているのだ。特別な事でもなんでもなく、当然の事として。
ふと彼女の頭を撫でてみた。くすぐったいのか、喜んでいるのか首を振る彼女をぼんやりと見ながら、彼女は一体どうして自分にこうも構ってくるのだろうと思う。
「ねぇ、奈菜」
「なに?」
「最近楽しい事あった?」
「あったよ」
「なに?」
「春日君さ、最近私の前で小さく笑うんだよね」
僕だって、そこまで無感動な人間じゃないんだけどね。
やれやれと思うと、彼女がこちらを見つめた。
「春日君も、いつか会うんだろうね」
「誰に?」
「私はさぁ、どうやってもなれないと思うし」
そう言って彼の手を取り、手の甲を頬にあてがった。
ひんやりとしたその感触が、酒で火照った身体には心地よかった。
「君と同じ、透明色の人」
もう会ってるよ、彼は他人からいつも叩かれているそうだ。どうだろう、彼と僕は気が合うだろうか? 分からないな。同属嫌悪と言う言葉もあるしね。だけど、共感を覚えたりする事もある。
「でも色の違いだって大した問題じゃないよね」
「そうだね。ねぇ、一つお願いがあるんだけど」
「え? なに?」
「キスしていいかな」
そう言うと、彼女はぷっと吹き出した。今更なにを言っているんだろうとでも言うように。
「いいよ」
彼女に近づいていく。距離がなくなり、その内この体が重なり合って混ざり合う。別にそこに心というものが介入していく事はきっとない。
表現なんて滅べばいい。
今日はいつもより、彼女に対して性欲が抑えられなくなった。それを愛ゆえにと言い換えてしまう事は簡単だ。行為の最中に気持ちいいと言う彼女が、それを愛してると言う言葉に変換する事もそう難しい事じゃない。
だけど、それをする必要がないのだから、今のままでいいのだと、いつもより彼女の柔肌に深くのめりこみながら春日は目を閉じた。
「他人に生きる理由を見出さないと、生きる事なんて出来ないと思うの」
渉は無言のまま頷いて蓮に同意する。
「私はそういうところから放り出されちゃったみたい」
「僕もそうだよ」
渉は彼女へと手を伸ばす。
蓮は嬉しそうに彼と手を繋いだ。
そこに、理由を見つける事が出来た。
「でも、君と出会えた」
「うん」
蓮は少し恥ずかしそうに俯いた。異性と手を繋ぐ事に慣れていなかったのかもしれない。渉も、そんなに経験がある訳ではないので、多少ぎこちなさが残っていたが、逆になんだか初々しいカップルのようで悪い気はしなかった。
渉の履くブーツの固い底がアスファルトにこつん、と音を立てた。
付近に人気はない。空は暗闇に包まれており、遠くを見るとビルや高速道路の光が点在し、渉はその光景にしばらく見惚れていた。
そっか。こういう事をするのが恋愛なのか。彼はふとそういうのも悪くないものかもしれないなぁ、と思う。
誰かと繋がっている事。繋がった誰かと、なにかを共有する事。
それはこんなふうに美しい景色だったり、テレビで大々的に宣伝されている映画だったり、ペットショップの狭い籠の中で暴れまわる猫や犬を一緒に飼おうとしたり、同棲して、自分達の好きなように部屋をコーディネイトしていく事だったりと様々だが、そんな風に、人は誰かと共存していくと言うそれだけの事で生きる理由を見出す事が出来るのかもしれない。
「じゃ、行こうか」
「うん」
二人は並んで歩く。
出会ってから共に過ごした時間はそう多くはなかった。
そして、お互いを理解するための時間はもうこれ以上は必要ない気がする。
カツン。
一瞬、二人は足元を見下ろし、そしてその視線をお互いへと戻した。
頷きあい、そして――
最後の一歩を踏み出す。
重力。
抗う気もなくそれに身を委ねる。
ふと、彼女が笑ったような気がし、渉は自分もなんとか笑ってみせようとする。
うまく出来ただろうか。分からない。
それを聞く事は、もう出来ない。
生きる理由は、もういらない。
死ぬ勇気を、二人で、生み出す事が出来たから。
今日杏里と会う、と言って奈菜は出て行った。部屋から出て行く彼女から名残惜しさを感じ取る事は出来なかったし、今日は違う――それが同性でも――相手と寝るのだ、と言う事をその言葉から感じ取っても特に引き止めたいと思う事も、引き止めようとする行為もしなかった。
カーテンを開け明るい空の色に目を細め、倦怠感を紛らわそうとコーヒーを二つ作り、彼女に渡すと「私、あんまりコーヒー好きじゃないんだよね」と言うが、ちゃんと飲み干されたそれを誰もいなくなった部屋で洗い終え適当に部屋を片付けると、ミュージックプレイヤーで音楽を流しながらバイトまで彼はのんびりと過ごし、やがて時間がやってくると彼は一体なにを聞いていただろうか、と曖昧なまま音楽を止めた。
「春日さん」
「なに?」
相変わらず客のやってこないコンビニで、少々時間はかかったものの、なんとか仕事にも慣れてきたらしい太郎に声をかけられた。最近では二人で店を任される事も増えてきている。店長は「いやぁ、思ったより真面目な子だったね」と彼のいないところで褒めているのか微妙な判断の尽きかねる事を言ったりもしていた。
春日から見ても彼は真面目ではあると思う。それが生来のものなのか、なにか理由があるのかは知りもしないが、以前は何か失敗をするたびに、顔を青くさせており、それはバイトをクビになるかもしれない、と言う種類よりも、こんなミスをするような自分はこんなところにはいられない、そんな自分が情けなくて今すぐにでも逃げ出したい、と言うようなものだったが、最近ようやくそういう素振りも少なくなってきていた。
「発注なんですけど、これもう少し多めに取っておいたほうがいいですか?」
「どれ?」
「これなんですけど」
発注に使われているノートサイズのタッチパネル式の液晶を受け取り、前日までのデータを確認する。
「そうだね。出てるみたいだし、増やしてもいいかもしれないね」
「分かりました。じゃあ、そうします」
「あぁ、それと、もうそこの棚の発注は山田君担当なんだし、僕に聞かなくてもいいよ」
「いや……でもやっぱりまだ不安ですから」
「大丈夫だよ。そうやって見るところもちゃんと見ているし」
それでも太郎は「……はぁ」と生返事をする事しか出来ず、内心でもし、自分一人で判断して過ちが起こったらどうしたらいいんだろう、と暗澹とするしかなかった。働いてみて分かったのだが、働き出した当初は、今やっている事に慣れればなんとかなると思っていたのだが、それをこなせるようになると、また新しい業務が自分に回ってきて、また右も左も分からない状態に舞い戻ると言う事を延々と繰り返す事こそが働くと言う事なのだと思うようになっていた。そのため、当初ほどの緊張感はないものの、今でも、自分は果たしてちゃんとやっていけるだろうか、といつも悩む羽目になっている。
(春日さんには悪いけど、やっぱりもうしばらくは聞くようにしよう)
太郎にとって春日は同じ事を何度質問しても嫌な顔せず答えてくれるいい先輩だった。店長や清春などは「それ、前言わなかったっけ?」と露骨に面倒そうに声をあげるため、春日と二人だけのシフトの時は気楽に働けた。
再び棚に戻り、商品に手を伸ばし個数を確認しながら、タッチパネルに触れていく。
それが半分くらい済み、小休憩にかがんでいた腰を伸ばして、背伸びをすると、春日がレジから離れ、店内の商品を整頓している姿が見えた。
ふと居酒屋の事を思い出す。
(……僕に怒ってないんだろうか)
正直なところ、自分はきっと他人の機微に鋭い方ではないのだろう。しかし、それを踏まえたとしても、春日がなにを考えているのかはよく分からなかった。あの日以降も何度かシフトを共にしたが、まるで気にしていない、と言うよりもあの日の事などなかったかのようで、それまでと全く変わらない様子だったため、太郎もそれにあわせているのだが、彼はいまだに胸の中で引っかかっている。それでも自分からその事について話を切り出すような勇気もなく――その話をして彼がどんな反応をするのかも分からないし――、結局彼が言った「欠けている感情」と言うものが一体なんなのかと言う事も聞きだせずにいた。
「山田君、それが終わったら、休憩行っていいよ」
「あ、はい」
きっと、彼の中で自分はどうでもいいのだろう。
そうなのだろう、と思う。
この職場で一番話しやすいのは間違いなく彼だったが、同時に、一番親しくなる事など出来そうもなかった。
休憩室で椅子に座り、ふぅ、と吐息を零し、先程買っておいたカップラーメンの封を開けながら、一体、彼と気が合う人とはどんな人なのだろう、と太郎は天井を見上げた。
(……期待しない人間)
そんな人がこの世にどれほどいるのだろうか。
そしてお互いに期待を抱かない関係は一体どんなもので、どんな意味があると言うのだろうか。
ごめんなさい、お母さんにちょっと頼まれちゃって。ちょっと遅れます。
杏里からのそのメールを見て、奈菜は座っていたベンチから立ち上がった。太陽の真下で過ごす事には相も変わらず苦手だったため、早く来すぎた自分を恨みながら日陰を求める。
(やっぱり夜からにすればよかった)
自分と違って、晴れた青空の下を好む杏里は時折こういう時間に呼び出そうとする。
あまり長く歩いて待ち合わせ場所から離れるのも億劫だったので、近くにあったスターバックスコーヒーに入る事にした。愛想がよすぎて、こちらがどういう顔をすればいいのか分からないような店員からキャラメルマキアートを受け取り窓際からは少し離れた場所に腰掛け、そこから店の外をぼんやりと見つめる。
途切れる事無く人並みが続いており、奈菜はあの人達は一体どこからやってきて、どこに行き、なにをするのだろう、とそんな事を思う。急いでいるようにも見えないが、行き先を見つけられずさ迷っているようでもない。当然働いている人もいるのだろうし、自分と同じようにデートだったり、単純に家に帰る途中かもしれない。
誰か変わってくれないだろうか。
ふとそう思う。これだけの人がいるのだから、一人くらい私と入れ替わってくれるような人はいないだろうか。なんだか酷く面倒くささを感じている自分がいる。
特に杏里と会う事が苦痛と言うわけではない。きっと会えば会ったで楽しむ事は出来るだろう。ただ今の彼女は、時折早く終わって家に帰りたいと思ってしまう事もあるだろう。ただ、今そういう気分なのだ。これがもし昨日やってきていたら春日の部屋に行く気にもならなかっただろうし、それがこの日は杏里と会う約束をもうしてしまっていたというだけの話だった。
(あー、帰りたい)
ストローを噛む力加減が分からなくなってきて、何度も咥え直しているうちにボロボロになってしまい、それをみて奈菜はがっくりと頭を垂れた。
調子が出ない時は、なにもかもがうまくいかない。
そしてその調子が悪い理由は、彼女にも分からないし、当然どうなったら上向きになるかも分かる訳がない。
歪みきったストローを捨てて新しいものと差し替えようとテーブルから立ち上がる頃、携帯が音を立て、今から出るんでもうちょっと待っててね、と手を合わせるような絵文字付きのメールが届き、なんだかそれが救いの手のような気もしたが、面倒くさい理由の元凶でもあると思うと、無意味に腹が立ち、わざと返信を少し遅らせた。
「ねぇ、君さぁ、今暇? よかったらどっか行かない?」
店を出たところで、軽薄そうな若い男が見た目通りの軽い口調でそう近づいてくる。
「行かない」
ぷらぷらと手を振り、軽くあしらう。彼女はナンパと言うものが好きではない、と言うよりナンパをするような男が好みではない。
(なんでそういうのわかんないかなぁ)
ナンパされて喜ぶ人間も中にはいるだろう。そういう人を選ぶべきだ。いや、ナンパを成功させるような人は最初からそういうものを見極めているのかもしれない。
「あのさぁ」
「え?」
既に諦めた様子だった男はいきなり声をかけられ驚いたように声をあげたが、彼女の一言で再び口を閉じる事になった。
「死んだ方がいいよ、君みたいな子」
バイバーイ、と言って歩き出す。ほんの少し憂鬱が晴れたような気がして、踏み出す足も先程より軽い気がする。
待ち合わせの場所に戻ると、どうやら急いでやってきたらしく肩で息をしている杏里を見つける。
「もう来てたんだ、ごめん、待った?」
そう言うと杏里は落ち着こうと一度咳払いをし、そして苦笑する。
「遅れたの私のほうです」
「あー、そっか、そうだよね」
まだどこかぼんやりとしているような頭を軽く振りながら、同じように笑い返し「じゃ、行こうか」と彼女を促した。
歩きながら会話を続ける。春日といる時は奈菜は自分から喋る事が多いが、それが杏里とだと、専ら聞き役に回る事が多かった。彼女は思わず辟易してしまいそうになるほど、次から次へと話題を振ってきてはそれについて奈菜の意見を求める。中には彼女にとって興味がまるでなく「どうでもいい」と正直に答えると、彼女は少々不機嫌そうになるものの、それは単なる演技で、彼女はそういう表情をする自分を楽しんでいるのだ、と奈菜は思っている。
(……そう言えば最近春日君の事聞かなくなったな、この子)
もう彼への興味はなくなったのだろうか。彼と何度か話している内に浮気相手としては相応しくないと判断したのかもしれない。そしてそれが分かれば、確かに彼女と春日が奈菜と言う存在を解さずに一緒にいるところは想像できなかった。
「そういえば春日君今日バイトかぁ」
「そうなんですか?」
「うん」
「あの人就職しないんですか?」
「どうだろ? 真面目そうだけど、でもほら、逆にバイトでもすぐ辞めちゃったりするの嫌いなんじゃない?」
「まぁ、そういう考え方もありますよね」
試しに話を振ってみたが、返ってきたのはやはり適当なものだった。
それはそれで好都合なのだが、ふと、どうして彼女は彼と気が合わずに、自分にはこんなにも好意を寄せてくるのだろう、と考える。
(私と気が合うんだったら、春日君と気が合ってもいい気がするんだけど)
それでもあまり関わりを持たない方が好都合なのでそれ以上はもう黙っておく事にした。
なんとなく気がついてはいる。
自分は寂しがり屋で、そのくせ時には誰とも口も利きたくなくなるようなへそ曲がりで、結局求めているのは深い繋がりよりも、少し離れた場所で傍観しているような距離感を好んでいるという事。
そしてそれは春日にも、杏里にも、そして他の誰にも変わりを持つ事はなく、相手がどんな嗜好なり性質の持ち主でも、常にそういう俯瞰するような視線を持っていれば殆どの事に差はないという事。
そのような視線しか持てない人間だという事。
(春日君分かってるんだろうなー、わたしのそういうとこ)
分かっているから、理解されていると言うことを理解しているから、今のような関係に落ち着いているのかもしれない。
きっと楽なのだ、お互いに。
そんな感情を、友情や愛情の中に組み込むことが出来るのかどうかは、分からないし、興味もないけれど。
カーテンを開け明るい空の色に目を細め、倦怠感を紛らわそうとコーヒーを二つ作り、彼女に渡すと「私、あんまりコーヒー好きじゃないんだよね」と言うが、ちゃんと飲み干されたそれを誰もいなくなった部屋で洗い終え適当に部屋を片付けると、ミュージックプレイヤーで音楽を流しながらバイトまで彼はのんびりと過ごし、やがて時間がやってくると彼は一体なにを聞いていただろうか、と曖昧なまま音楽を止めた。
「春日さん」
「なに?」
相変わらず客のやってこないコンビニで、少々時間はかかったものの、なんとか仕事にも慣れてきたらしい太郎に声をかけられた。最近では二人で店を任される事も増えてきている。店長は「いやぁ、思ったより真面目な子だったね」と彼のいないところで褒めているのか微妙な判断の尽きかねる事を言ったりもしていた。
春日から見ても彼は真面目ではあると思う。それが生来のものなのか、なにか理由があるのかは知りもしないが、以前は何か失敗をするたびに、顔を青くさせており、それはバイトをクビになるかもしれない、と言う種類よりも、こんなミスをするような自分はこんなところにはいられない、そんな自分が情けなくて今すぐにでも逃げ出したい、と言うようなものだったが、最近ようやくそういう素振りも少なくなってきていた。
「発注なんですけど、これもう少し多めに取っておいたほうがいいですか?」
「どれ?」
「これなんですけど」
発注に使われているノートサイズのタッチパネル式の液晶を受け取り、前日までのデータを確認する。
「そうだね。出てるみたいだし、増やしてもいいかもしれないね」
「分かりました。じゃあ、そうします」
「あぁ、それと、もうそこの棚の発注は山田君担当なんだし、僕に聞かなくてもいいよ」
「いや……でもやっぱりまだ不安ですから」
「大丈夫だよ。そうやって見るところもちゃんと見ているし」
それでも太郎は「……はぁ」と生返事をする事しか出来ず、内心でもし、自分一人で判断して過ちが起こったらどうしたらいいんだろう、と暗澹とするしかなかった。働いてみて分かったのだが、働き出した当初は、今やっている事に慣れればなんとかなると思っていたのだが、それをこなせるようになると、また新しい業務が自分に回ってきて、また右も左も分からない状態に舞い戻ると言う事を延々と繰り返す事こそが働くと言う事なのだと思うようになっていた。そのため、当初ほどの緊張感はないものの、今でも、自分は果たしてちゃんとやっていけるだろうか、といつも悩む羽目になっている。
(春日さんには悪いけど、やっぱりもうしばらくは聞くようにしよう)
太郎にとって春日は同じ事を何度質問しても嫌な顔せず答えてくれるいい先輩だった。店長や清春などは「それ、前言わなかったっけ?」と露骨に面倒そうに声をあげるため、春日と二人だけのシフトの時は気楽に働けた。
再び棚に戻り、商品に手を伸ばし個数を確認しながら、タッチパネルに触れていく。
それが半分くらい済み、小休憩にかがんでいた腰を伸ばして、背伸びをすると、春日がレジから離れ、店内の商品を整頓している姿が見えた。
ふと居酒屋の事を思い出す。
(……僕に怒ってないんだろうか)
正直なところ、自分はきっと他人の機微に鋭い方ではないのだろう。しかし、それを踏まえたとしても、春日がなにを考えているのかはよく分からなかった。あの日以降も何度かシフトを共にしたが、まるで気にしていない、と言うよりもあの日の事などなかったかのようで、それまでと全く変わらない様子だったため、太郎もそれにあわせているのだが、彼はいまだに胸の中で引っかかっている。それでも自分からその事について話を切り出すような勇気もなく――その話をして彼がどんな反応をするのかも分からないし――、結局彼が言った「欠けている感情」と言うものが一体なんなのかと言う事も聞きだせずにいた。
「山田君、それが終わったら、休憩行っていいよ」
「あ、はい」
きっと、彼の中で自分はどうでもいいのだろう。
そうなのだろう、と思う。
この職場で一番話しやすいのは間違いなく彼だったが、同時に、一番親しくなる事など出来そうもなかった。
休憩室で椅子に座り、ふぅ、と吐息を零し、先程買っておいたカップラーメンの封を開けながら、一体、彼と気が合う人とはどんな人なのだろう、と太郎は天井を見上げた。
(……期待しない人間)
そんな人がこの世にどれほどいるのだろうか。
そしてお互いに期待を抱かない関係は一体どんなもので、どんな意味があると言うのだろうか。
ごめんなさい、お母さんにちょっと頼まれちゃって。ちょっと遅れます。
杏里からのそのメールを見て、奈菜は座っていたベンチから立ち上がった。太陽の真下で過ごす事には相も変わらず苦手だったため、早く来すぎた自分を恨みながら日陰を求める。
(やっぱり夜からにすればよかった)
自分と違って、晴れた青空の下を好む杏里は時折こういう時間に呼び出そうとする。
あまり長く歩いて待ち合わせ場所から離れるのも億劫だったので、近くにあったスターバックスコーヒーに入る事にした。愛想がよすぎて、こちらがどういう顔をすればいいのか分からないような店員からキャラメルマキアートを受け取り窓際からは少し離れた場所に腰掛け、そこから店の外をぼんやりと見つめる。
途切れる事無く人並みが続いており、奈菜はあの人達は一体どこからやってきて、どこに行き、なにをするのだろう、とそんな事を思う。急いでいるようにも見えないが、行き先を見つけられずさ迷っているようでもない。当然働いている人もいるのだろうし、自分と同じようにデートだったり、単純に家に帰る途中かもしれない。
誰か変わってくれないだろうか。
ふとそう思う。これだけの人がいるのだから、一人くらい私と入れ替わってくれるような人はいないだろうか。なんだか酷く面倒くささを感じている自分がいる。
特に杏里と会う事が苦痛と言うわけではない。きっと会えば会ったで楽しむ事は出来るだろう。ただ今の彼女は、時折早く終わって家に帰りたいと思ってしまう事もあるだろう。ただ、今そういう気分なのだ。これがもし昨日やってきていたら春日の部屋に行く気にもならなかっただろうし、それがこの日は杏里と会う約束をもうしてしまっていたというだけの話だった。
(あー、帰りたい)
ストローを噛む力加減が分からなくなってきて、何度も咥え直しているうちにボロボロになってしまい、それをみて奈菜はがっくりと頭を垂れた。
調子が出ない時は、なにもかもがうまくいかない。
そしてその調子が悪い理由は、彼女にも分からないし、当然どうなったら上向きになるかも分かる訳がない。
歪みきったストローを捨てて新しいものと差し替えようとテーブルから立ち上がる頃、携帯が音を立て、今から出るんでもうちょっと待っててね、と手を合わせるような絵文字付きのメールが届き、なんだかそれが救いの手のような気もしたが、面倒くさい理由の元凶でもあると思うと、無意味に腹が立ち、わざと返信を少し遅らせた。
「ねぇ、君さぁ、今暇? よかったらどっか行かない?」
店を出たところで、軽薄そうな若い男が見た目通りの軽い口調でそう近づいてくる。
「行かない」
ぷらぷらと手を振り、軽くあしらう。彼女はナンパと言うものが好きではない、と言うよりナンパをするような男が好みではない。
(なんでそういうのわかんないかなぁ)
ナンパされて喜ぶ人間も中にはいるだろう。そういう人を選ぶべきだ。いや、ナンパを成功させるような人は最初からそういうものを見極めているのかもしれない。
「あのさぁ」
「え?」
既に諦めた様子だった男はいきなり声をかけられ驚いたように声をあげたが、彼女の一言で再び口を閉じる事になった。
「死んだ方がいいよ、君みたいな子」
バイバーイ、と言って歩き出す。ほんの少し憂鬱が晴れたような気がして、踏み出す足も先程より軽い気がする。
待ち合わせの場所に戻ると、どうやら急いでやってきたらしく肩で息をしている杏里を見つける。
「もう来てたんだ、ごめん、待った?」
そう言うと杏里は落ち着こうと一度咳払いをし、そして苦笑する。
「遅れたの私のほうです」
「あー、そっか、そうだよね」
まだどこかぼんやりとしているような頭を軽く振りながら、同じように笑い返し「じゃ、行こうか」と彼女を促した。
歩きながら会話を続ける。春日といる時は奈菜は自分から喋る事が多いが、それが杏里とだと、専ら聞き役に回る事が多かった。彼女は思わず辟易してしまいそうになるほど、次から次へと話題を振ってきてはそれについて奈菜の意見を求める。中には彼女にとって興味がまるでなく「どうでもいい」と正直に答えると、彼女は少々不機嫌そうになるものの、それは単なる演技で、彼女はそういう表情をする自分を楽しんでいるのだ、と奈菜は思っている。
(……そう言えば最近春日君の事聞かなくなったな、この子)
もう彼への興味はなくなったのだろうか。彼と何度か話している内に浮気相手としては相応しくないと判断したのかもしれない。そしてそれが分かれば、確かに彼女と春日が奈菜と言う存在を解さずに一緒にいるところは想像できなかった。
「そういえば春日君今日バイトかぁ」
「そうなんですか?」
「うん」
「あの人就職しないんですか?」
「どうだろ? 真面目そうだけど、でもほら、逆にバイトでもすぐ辞めちゃったりするの嫌いなんじゃない?」
「まぁ、そういう考え方もありますよね」
試しに話を振ってみたが、返ってきたのはやはり適当なものだった。
それはそれで好都合なのだが、ふと、どうして彼女は彼と気が合わずに、自分にはこんなにも好意を寄せてくるのだろう、と考える。
(私と気が合うんだったら、春日君と気が合ってもいい気がするんだけど)
それでもあまり関わりを持たない方が好都合なのでそれ以上はもう黙っておく事にした。
なんとなく気がついてはいる。
自分は寂しがり屋で、そのくせ時には誰とも口も利きたくなくなるようなへそ曲がりで、結局求めているのは深い繋がりよりも、少し離れた場所で傍観しているような距離感を好んでいるという事。
そしてそれは春日にも、杏里にも、そして他の誰にも変わりを持つ事はなく、相手がどんな嗜好なり性質の持ち主でも、常にそういう俯瞰するような視線を持っていれば殆どの事に差はないという事。
そのような視線しか持てない人間だという事。
(春日君分かってるんだろうなー、わたしのそういうとこ)
分かっているから、理解されていると言うことを理解しているから、今のような関係に落ち着いているのかもしれない。
きっと楽なのだ、お互いに。
そんな感情を、友情や愛情の中に組み込むことが出来るのかどうかは、分からないし、興味もないけれど。
高井藤吾と言う男はさ迷っていた。それはその日目指すべき場所を見つけられないという意味でもあるし、そもそもその人生自体と言う事も出来るのだが、かと言って、もう中年である彼にとってそのような感慨は遠い過去に置いて来たものであり、そんな当てのない日々を送る事に疑問を感じる程繊細でもなかった。
「杏里、今日家寄ってくんでしょ?」
「はい、行きます行きます」
友人同士だろう、その女二人のうち杏里と呼ばれた方が彼の存在に気がつき、酒臭い息を出している彼と擦違う前に少しでも距離を取ろうとするようにその身体を反対側に寄せようとしていた。藤吾もその視線に気がついてはいたが、敢えて無視する事にし、千鳥足ながらまっすぐ歩く。
そんな風に見られる事には慣れていた。
これでも昔はそれなりに整った容姿をしていたものだが、今ではその面影もなく張りがなくなり垂れ下がった頬には整えられていない無精髭がだらしなく生えており、反面毛髪の方は額から後退がかりだらしなくなってきている。酒の飲みすぎで太ってきた腕や脚、そしてそれがマシに見えてしまうように腹はでっぷりとしていた。
(……ちくしょう)
慣れていても、思わずそういう思考が沸き起こる。
一体、なにを理由に自分はこうなってしまったのだろうか。
昔からだらしないところがあるのは確かだった。それでもある日まではそれでもそれなりにやってきていたはずだった。それがいつからこんなふうに僅かな金を握り締め、一人で安酒を煽り、追い出されるように店を出て行き場を失ってしまうようになってしまったのだろう。
それなり。
今、彼はその事を良く考える。
それなりとはなんだろうか? そつのない生活をし、誰かに迷惑をかける事も、強く印象に残る事もなく、ただ朝目覚め、夜に眠り、また昨日と同じような一日を繰り返す事。そういうものを、以前の自分は酷く嫌悪していたような気がする。そんな人生は真っ平ごめんで、つまらないと思っていた。
だが今はそういう生活が酷く恋しく、尊い。
それなりでよかった。波一つない水面のような静かな生活を受け入れることが出来ればよかった。だが、それはもう彼には手が届かない。
彼はそれなり以下なのだ。
人生の送り方にランクがあるのだとすれば、間違いなく彼は底辺の部類に位置しており、彼が今思っているのも、それなりと言う自分よりも上のランクの人生を夢見ているだけであり、それはきっと、彼がそれなりの生活を送っている頃、その自分を嫌悪し、その上を見上げようとしていた頃と結局はなんの違いもないのだった。
ただ、いつもいつも、上を見上げていただけ。
もし、彼がもう少し今の自分を認める事が出来ていたなら、今の自分によって作り上げられていく周囲の環境に満足を覚える事が出来ていたなら、過去も未来も、そして現在もなにか変わっていたのかもしれない。しかしそんな事を実際に行えていける人間など彼でなくても、どれほどいると言えるだろう。人間は常に前進しようとする。現状に満足しようとすると、他人はそれを停滞だと揶揄しようとする。そして後退すれば、他人も自分から後退していく。
なら、どう生きればいい?
(……ちくしょう)
タクシーに乗るような金もなく、彼はとぼとぼと街からゆっくりと離れ、次第に周囲に人の姿もなくなっていった。薄暗い夜道の中コンビニに入り、ビールを買うと袋にも入れず店を出るとすぐにそれを開けて口に運ぶ。その冷たさにげっぷを一つ零し再び歩き出した。
一歩踏み出すたびに踵を引きずる音が鳴る。
そしてその音のやや後ろからこちらは音も立てず歩いている男がいた。
夜に紛れようとしているように黒尽くめの服を着ている。見る人が見れば、そのシャツやズボンがブランド品で一着数万や十万もするものだという事が分かる。そして左腕に巻かれているグッチのシルバーのブレスレットと、ゆるいパーマのかかっている金髪だけが暗闇の中でその存在を主張しようとしている。
彼、来生真耶は藤吾と常に一定の距離を保ちながら歩いている。
サングラスをしていてその表情を他人から窺い知る事は出来なかったが、その時の彼はこれと言って特筆するような感情を抱いている様子もなかった。
ただ、退屈そうで、まるで親に無理やり映画館に連れてこられ見たくもない映画を延々見せられており早く帰りたいと思っている子供のようだった。
二人は着かず離れずの距離をしばらく保っていたが、周囲に人影が全く見えなくなったところで、真耶が少し歩調を速めた。その背中が少しずつ近くなってくる。相変わらず藤吾はのらりくらりとした足取りで彼の存在には全く気がついていないようだった。周囲に関心を一切払っておらず、まるで自分を見るような奴は醜い自分を見て嫌悪感を抱くような奴らばかりで、そんな風に見られるなら、自分はそれに気がつかない振りをしている方が楽だと言わんばかりだった。
「……ちくしょう」
そう言う藤吾の言葉を聞き取り、真耶はなにがちくしょうなのだろうとふと思う。
誰も聞いていないから、そういう時に、ようやく口に出来る言葉がある。
それはきっと本当は誰かに向かって本当に言いたい事で、聞いてもらいたい事なのかもしれない。だけど、今の彼にはそれを言う相手がいない。聞いてくれる相手がいない。彼は孤独なのだ。真耶は思う。
本当に一人になる事は、生きている限り不可能だ。だが孤独になる事は、逆にとても簡単に陥る事が出来る。孤独とは自分の中に存在するのではなく、他人の中に存在する。一人なら、それは感じない。誰かと相対し、そしてその中に自分がいないと言う事を認識してしまった時、人は孤独を思い知るのだ。
集団に紛れれば紛れるほど、人は孤独になっていく。
(……あんた、人を好き過ぎるんだよ、多分。期待し過ぎてんだよ)
胸の中で、彼にそう呆れたように返事をする。
人生変えたいとか思ってるんだろう? だったら変えろよ。そう言われた時、あんたきっと周囲をきょろきょろと見回すだろう。自分じゃなくて、誰かの姿を探そうとするんだろう。自分で自分を変える事も出来ずに、誰かが自分を引っ張りあげてくれたりするんじゃないだろうか、なんて夢みたいな事を期待しているんだろう。馬鹿げてる。あんた、もう分かってるはずだろ、そんなのありえないって。それでも、まだ夢を見てるのか? その夢がまだやってこなくて、ついちくしょう、なんて言っちまうのか? 気付けよ、お前はもう誰といても、一人だって事に。
孤独に押し潰された自分に。
交差点に差し掛かると地下道へと続く階段の入り口が弱々しい光を放っていた。藤吾がそちらの方へと歩み寄ろうとしている。そして、もうすぐ傍までやってきていた真耶が、その背中に向けて手を伸ばした。
とん。
その軽い音が聞こえると同時に、藤吾の体が頭から階段に向かって転がっていった。コンクリートと骨がぶつかる鈍い音を立てる。酔っ払った脳と体は受身を取る事すら出来ずに、打ち付けられ、その度に軽く浮き上がり、更に転がっていく。
なにが起こったのだろう、と考える事すらなく意識は途絶えていた。
持っていたビールの缶が甲高い音を立てながら、彼よりも先に落下を終え、その音を止めた。
ころころと転がりながら、そこから流れ出た液体が罅の入ったコンクリートの隙間へと染み込んでいく。
真耶は伸ばした手に背中の感触を感じ、それが消えると、その手を戻し、地下道を通り過ぎた。
そうしてしばらく歩いたところで、セブンスターを取り出す。
吐き出された煙が頬を撫でるように流れていく。半分ほど吸ったところで、暇そうに流しているタクシーを見つけそれに乗り込んだ。
「どちらに行かれますか?」
「駅前まで」
「はいよ」と言いタクシーは先程歩いてきた道をなぞるように走り出した。ほどなく先程の地下道の入り口が見えてくるが、彼は興味もなさそうに、そちらを見る事もしなかった。無口らしい運転手は駅前に着くまで殆ど口を利かず、流れているラジオもMCが下らない音楽批評を垂れ流していて、真耶は車内であくびを一つ零した。
駅前に下りて、近くのパーキングに停めてあったシボレーに乗り込む。エンジンをかけ、道路に出て速度が出てきたところで、彼は「仕事用」の携帯電話を取り出した。
数度のコールのあと、相手が出る。
『もしもし?』
「よう、元気か?」
『……どうかしました?』
相手の嫌悪交じりの声に思わず苦笑する。
「楓、お前今暇か? ちょっと行ってきてほしいところがあるんだけど」
そう言い、先程の地下道の場所を簡単に説明する。相手はしぶしぶと言った感じだったが「分かりました」と言ってきた。彼は真耶が金を払って使っている少年でよっぽどの事がない限り彼の要求を断る事など出来なかった。
「じゃ、頼む」
それだけ伝えると通話を切った。どうせ確認しなくても死んでいるだろうと思うのだが念のためだった。彼は背中を押した時点でもう藤吾を見ておらず、さっさとその場から離れてしまっていた。誰かに見られる事を恐れたと言う訳でもなく、ただその生死を確認するために、転がっていた彼を見届ける事が面倒くさかったのだ。
死に行く人間に興味がない。
彼が見たいのは生きた人間の、生き抜くための必死な表情であり、死と対面したその恐怖や理不尽に怯え、怒る、そんな感情に興味はなく、今まで見てきた幾つかの死を垣間見ていく度に尚更そう思うようになっていた。
唐突に訪れた死に出来る人間の行動など限られていて、何度も見たいと思うようなものでもない。
赤信号につかまり、停止した車内の中で彼はもう一度あくびをする。
つまらない願い事だった。
殺してほしいと言ったあのブラッドも、そこに切実さはちっともなく、ただなんとなく思いついただけでそう決めたかのような口ぶりで、彼の琴線を震わせる事もなかったし、藤吾もまた彼が興味を覚えるような――他人から殺されるに値するような――人間ではなかった。
目尻に浮かんだ液体を軽く拭うと、彼は再びアクセルを踏み込んだ。
「杏里、今日家寄ってくんでしょ?」
「はい、行きます行きます」
友人同士だろう、その女二人のうち杏里と呼ばれた方が彼の存在に気がつき、酒臭い息を出している彼と擦違う前に少しでも距離を取ろうとするようにその身体を反対側に寄せようとしていた。藤吾もその視線に気がついてはいたが、敢えて無視する事にし、千鳥足ながらまっすぐ歩く。
そんな風に見られる事には慣れていた。
これでも昔はそれなりに整った容姿をしていたものだが、今ではその面影もなく張りがなくなり垂れ下がった頬には整えられていない無精髭がだらしなく生えており、反面毛髪の方は額から後退がかりだらしなくなってきている。酒の飲みすぎで太ってきた腕や脚、そしてそれがマシに見えてしまうように腹はでっぷりとしていた。
(……ちくしょう)
慣れていても、思わずそういう思考が沸き起こる。
一体、なにを理由に自分はこうなってしまったのだろうか。
昔からだらしないところがあるのは確かだった。それでもある日まではそれでもそれなりにやってきていたはずだった。それがいつからこんなふうに僅かな金を握り締め、一人で安酒を煽り、追い出されるように店を出て行き場を失ってしまうようになってしまったのだろう。
それなり。
今、彼はその事を良く考える。
それなりとはなんだろうか? そつのない生活をし、誰かに迷惑をかける事も、強く印象に残る事もなく、ただ朝目覚め、夜に眠り、また昨日と同じような一日を繰り返す事。そういうものを、以前の自分は酷く嫌悪していたような気がする。そんな人生は真っ平ごめんで、つまらないと思っていた。
だが今はそういう生活が酷く恋しく、尊い。
それなりでよかった。波一つない水面のような静かな生活を受け入れることが出来ればよかった。だが、それはもう彼には手が届かない。
彼はそれなり以下なのだ。
人生の送り方にランクがあるのだとすれば、間違いなく彼は底辺の部類に位置しており、彼が今思っているのも、それなりと言う自分よりも上のランクの人生を夢見ているだけであり、それはきっと、彼がそれなりの生活を送っている頃、その自分を嫌悪し、その上を見上げようとしていた頃と結局はなんの違いもないのだった。
ただ、いつもいつも、上を見上げていただけ。
もし、彼がもう少し今の自分を認める事が出来ていたなら、今の自分によって作り上げられていく周囲の環境に満足を覚える事が出来ていたなら、過去も未来も、そして現在もなにか変わっていたのかもしれない。しかしそんな事を実際に行えていける人間など彼でなくても、どれほどいると言えるだろう。人間は常に前進しようとする。現状に満足しようとすると、他人はそれを停滞だと揶揄しようとする。そして後退すれば、他人も自分から後退していく。
なら、どう生きればいい?
(……ちくしょう)
タクシーに乗るような金もなく、彼はとぼとぼと街からゆっくりと離れ、次第に周囲に人の姿もなくなっていった。薄暗い夜道の中コンビニに入り、ビールを買うと袋にも入れず店を出るとすぐにそれを開けて口に運ぶ。その冷たさにげっぷを一つ零し再び歩き出した。
一歩踏み出すたびに踵を引きずる音が鳴る。
そしてその音のやや後ろからこちらは音も立てず歩いている男がいた。
夜に紛れようとしているように黒尽くめの服を着ている。見る人が見れば、そのシャツやズボンがブランド品で一着数万や十万もするものだという事が分かる。そして左腕に巻かれているグッチのシルバーのブレスレットと、ゆるいパーマのかかっている金髪だけが暗闇の中でその存在を主張しようとしている。
彼、来生真耶は藤吾と常に一定の距離を保ちながら歩いている。
サングラスをしていてその表情を他人から窺い知る事は出来なかったが、その時の彼はこれと言って特筆するような感情を抱いている様子もなかった。
ただ、退屈そうで、まるで親に無理やり映画館に連れてこられ見たくもない映画を延々見せられており早く帰りたいと思っている子供のようだった。
二人は着かず離れずの距離をしばらく保っていたが、周囲に人影が全く見えなくなったところで、真耶が少し歩調を速めた。その背中が少しずつ近くなってくる。相変わらず藤吾はのらりくらりとした足取りで彼の存在には全く気がついていないようだった。周囲に関心を一切払っておらず、まるで自分を見るような奴は醜い自分を見て嫌悪感を抱くような奴らばかりで、そんな風に見られるなら、自分はそれに気がつかない振りをしている方が楽だと言わんばかりだった。
「……ちくしょう」
そう言う藤吾の言葉を聞き取り、真耶はなにがちくしょうなのだろうとふと思う。
誰も聞いていないから、そういう時に、ようやく口に出来る言葉がある。
それはきっと本当は誰かに向かって本当に言いたい事で、聞いてもらいたい事なのかもしれない。だけど、今の彼にはそれを言う相手がいない。聞いてくれる相手がいない。彼は孤独なのだ。真耶は思う。
本当に一人になる事は、生きている限り不可能だ。だが孤独になる事は、逆にとても簡単に陥る事が出来る。孤独とは自分の中に存在するのではなく、他人の中に存在する。一人なら、それは感じない。誰かと相対し、そしてその中に自分がいないと言う事を認識してしまった時、人は孤独を思い知るのだ。
集団に紛れれば紛れるほど、人は孤独になっていく。
(……あんた、人を好き過ぎるんだよ、多分。期待し過ぎてんだよ)
胸の中で、彼にそう呆れたように返事をする。
人生変えたいとか思ってるんだろう? だったら変えろよ。そう言われた時、あんたきっと周囲をきょろきょろと見回すだろう。自分じゃなくて、誰かの姿を探そうとするんだろう。自分で自分を変える事も出来ずに、誰かが自分を引っ張りあげてくれたりするんじゃないだろうか、なんて夢みたいな事を期待しているんだろう。馬鹿げてる。あんた、もう分かってるはずだろ、そんなのありえないって。それでも、まだ夢を見てるのか? その夢がまだやってこなくて、ついちくしょう、なんて言っちまうのか? 気付けよ、お前はもう誰といても、一人だって事に。
孤独に押し潰された自分に。
交差点に差し掛かると地下道へと続く階段の入り口が弱々しい光を放っていた。藤吾がそちらの方へと歩み寄ろうとしている。そして、もうすぐ傍までやってきていた真耶が、その背中に向けて手を伸ばした。
とん。
その軽い音が聞こえると同時に、藤吾の体が頭から階段に向かって転がっていった。コンクリートと骨がぶつかる鈍い音を立てる。酔っ払った脳と体は受身を取る事すら出来ずに、打ち付けられ、その度に軽く浮き上がり、更に転がっていく。
なにが起こったのだろう、と考える事すらなく意識は途絶えていた。
持っていたビールの缶が甲高い音を立てながら、彼よりも先に落下を終え、その音を止めた。
ころころと転がりながら、そこから流れ出た液体が罅の入ったコンクリートの隙間へと染み込んでいく。
真耶は伸ばした手に背中の感触を感じ、それが消えると、その手を戻し、地下道を通り過ぎた。
そうしてしばらく歩いたところで、セブンスターを取り出す。
吐き出された煙が頬を撫でるように流れていく。半分ほど吸ったところで、暇そうに流しているタクシーを見つけそれに乗り込んだ。
「どちらに行かれますか?」
「駅前まで」
「はいよ」と言いタクシーは先程歩いてきた道をなぞるように走り出した。ほどなく先程の地下道の入り口が見えてくるが、彼は興味もなさそうに、そちらを見る事もしなかった。無口らしい運転手は駅前に着くまで殆ど口を利かず、流れているラジオもMCが下らない音楽批評を垂れ流していて、真耶は車内であくびを一つ零した。
駅前に下りて、近くのパーキングに停めてあったシボレーに乗り込む。エンジンをかけ、道路に出て速度が出てきたところで、彼は「仕事用」の携帯電話を取り出した。
数度のコールのあと、相手が出る。
『もしもし?』
「よう、元気か?」
『……どうかしました?』
相手の嫌悪交じりの声に思わず苦笑する。
「楓、お前今暇か? ちょっと行ってきてほしいところがあるんだけど」
そう言い、先程の地下道の場所を簡単に説明する。相手はしぶしぶと言った感じだったが「分かりました」と言ってきた。彼は真耶が金を払って使っている少年でよっぽどの事がない限り彼の要求を断る事など出来なかった。
「じゃ、頼む」
それだけ伝えると通話を切った。どうせ確認しなくても死んでいるだろうと思うのだが念のためだった。彼は背中を押した時点でもう藤吾を見ておらず、さっさとその場から離れてしまっていた。誰かに見られる事を恐れたと言う訳でもなく、ただその生死を確認するために、転がっていた彼を見届ける事が面倒くさかったのだ。
死に行く人間に興味がない。
彼が見たいのは生きた人間の、生き抜くための必死な表情であり、死と対面したその恐怖や理不尽に怯え、怒る、そんな感情に興味はなく、今まで見てきた幾つかの死を垣間見ていく度に尚更そう思うようになっていた。
唐突に訪れた死に出来る人間の行動など限られていて、何度も見たいと思うようなものでもない。
赤信号につかまり、停止した車内の中で彼はもう一度あくびをする。
つまらない願い事だった。
殺してほしいと言ったあのブラッドも、そこに切実さはちっともなく、ただなんとなく思いついただけでそう決めたかのような口ぶりで、彼の琴線を震わせる事もなかったし、藤吾もまた彼が興味を覚えるような――他人から殺されるに値するような――人間ではなかった。
目尻に浮かんだ液体を軽く拭うと、彼は再びアクセルを踏み込んだ。
「分かりました」
春日がバイトの帰りの途中、そう言って携帯電話をしまう少年を見かけた。彼は苛立たしげに舌打ちをし「くそ」と零す。
「どうせ、ろくな事じゃないに決まってる」
そう独り言を言いながら彼はどこかへと去っていった。
春日もそれを深く気にする訳でもなく、そのまま歩き続け家へと戻った。
コンビニで買ってきた弁当を食べながら、テレビをつける。ちょうどニュースをやっていて、ソースが一部分にだけ染み込んだコロッケを半分にしながらそれをぼんやりと見つめた。
ニュースキャスターが前日に起きたらしい心中自殺について話していた。きっと今朝からやっていたのだろうが、奈菜と寝ていたためテレビをつけなかったので、春日は今になってその自殺の事を知った。
心中なんて珍しい、と曖昧な感想を覚えながらテレビを見る。もう数年日本での自殺者は三万人を越えている。それが多いのか少ないのか春日にはいまいちぴんと来なかった。今のところ自分の周りに自殺した者はおらず、死にたい、と呟く事を過去に何度か聞いた事はあるものの、それは一時の気の迷いと言う程度のものでしかなく、実際にそれにリアリティを見出す事は彼には出来そうになかった。
ニュースキャスターは淡々と、状況を説明していく。二人は橋から飛び降りた。それぞれの家から遺書が発見されたが、二人が住んでいた場所は離れており、二人の接点もろくに見つける事が出来なかった。
テロップで浅井渉と久須美蓮の名前と年齢が表示された。自分と似たような年齢だな、とふと思う。そして、直子の事を思い出した。
――最近はネットなどで、心中相手を探したりと言う事が当然のように行われているんですよ。この二人もそうやって出会ったんじゃないでしょうか。
物知り顔のコメンテーターがそう言っている。数年前からその内容は変わらない。そんなサイトの事を春日は知りもしないし、そんなに問題なら取り締まればいいのに、とも思うが、そういうものがあってもいいのかもしれないとも思う。結局それらは世界に定着をしない。だからこそコメンテーターもまるで最新情報のように自慢げに語る。きっとそんなものが存在している事を良識的な世界は否定したいのだ。そして常識的な世界では、自分たちが生きていく上でそんなものはどうでもいい。それらは極一部の局所的な世界にだけ認められ、そしてそこでだけ確実に時を刻み、成長を続けていく。
世間はそれを馬鹿げてると言うけれど、本人達はきっと真面目なサブカルチャー。
きっといつまでもそのような立ち位置を保ち続けるのだろう。表には決して出てこず、しかしそれは確実に洗練され、無駄を削ぎ落とし、新たな産声を上げるのだ。
(……直子が死んだら、ヒッチコックはどうするんだろうか)
彼女も、あの一緒にいた少年と心中をするのだろうか。
だが、あの二人が死んだところで自分にとってはまだ彼らは遠い他人のようにも思える。
奈菜の事が浮かんだ。生きるのも死ぬのもどうでもいい彼女が、ある日死の方へと傾き、そしてそれを行う日が来たとして。
そう考えてみる。
だが彼女も結局は遠い他人なのかもしれない。そう思う。
死のうとする彼女を、ヒッチコックと同じように自分も引き止めはしないだろう。そして死んだ時、自分が泣き狂うような姿は想像出来なかった。ただ、その時も、今日と同じように弁当に箸を伸ばしながらニュースを見ているのだろう。
その想像がジグソーパズルのピースのようにぴたりとはまり、なによりもしっくり来た。
春日がバイトの帰りの途中、そう言って携帯電話をしまう少年を見かけた。彼は苛立たしげに舌打ちをし「くそ」と零す。
「どうせ、ろくな事じゃないに決まってる」
そう独り言を言いながら彼はどこかへと去っていった。
春日もそれを深く気にする訳でもなく、そのまま歩き続け家へと戻った。
コンビニで買ってきた弁当を食べながら、テレビをつける。ちょうどニュースをやっていて、ソースが一部分にだけ染み込んだコロッケを半分にしながらそれをぼんやりと見つめた。
ニュースキャスターが前日に起きたらしい心中自殺について話していた。きっと今朝からやっていたのだろうが、奈菜と寝ていたためテレビをつけなかったので、春日は今になってその自殺の事を知った。
心中なんて珍しい、と曖昧な感想を覚えながらテレビを見る。もう数年日本での自殺者は三万人を越えている。それが多いのか少ないのか春日にはいまいちぴんと来なかった。今のところ自分の周りに自殺した者はおらず、死にたい、と呟く事を過去に何度か聞いた事はあるものの、それは一時の気の迷いと言う程度のものでしかなく、実際にそれにリアリティを見出す事は彼には出来そうになかった。
ニュースキャスターは淡々と、状況を説明していく。二人は橋から飛び降りた。それぞれの家から遺書が発見されたが、二人が住んでいた場所は離れており、二人の接点もろくに見つける事が出来なかった。
テロップで浅井渉と久須美蓮の名前と年齢が表示された。自分と似たような年齢だな、とふと思う。そして、直子の事を思い出した。
――最近はネットなどで、心中相手を探したりと言う事が当然のように行われているんですよ。この二人もそうやって出会ったんじゃないでしょうか。
物知り顔のコメンテーターがそう言っている。数年前からその内容は変わらない。そんなサイトの事を春日は知りもしないし、そんなに問題なら取り締まればいいのに、とも思うが、そういうものがあってもいいのかもしれないとも思う。結局それらは世界に定着をしない。だからこそコメンテーターもまるで最新情報のように自慢げに語る。きっとそんなものが存在している事を良識的な世界は否定したいのだ。そして常識的な世界では、自分たちが生きていく上でそんなものはどうでもいい。それらは極一部の局所的な世界にだけ認められ、そしてそこでだけ確実に時を刻み、成長を続けていく。
世間はそれを馬鹿げてると言うけれど、本人達はきっと真面目なサブカルチャー。
きっといつまでもそのような立ち位置を保ち続けるのだろう。表には決して出てこず、しかしそれは確実に洗練され、無駄を削ぎ落とし、新たな産声を上げるのだ。
(……直子が死んだら、ヒッチコックはどうするんだろうか)
彼女も、あの一緒にいた少年と心中をするのだろうか。
だが、あの二人が死んだところで自分にとってはまだ彼らは遠い他人のようにも思える。
奈菜の事が浮かんだ。生きるのも死ぬのもどうでもいい彼女が、ある日死の方へと傾き、そしてそれを行う日が来たとして。
そう考えてみる。
だが彼女も結局は遠い他人なのかもしれない。そう思う。
死のうとする彼女を、ヒッチコックと同じように自分も引き止めはしないだろう。そして死んだ時、自分が泣き狂うような姿は想像出来なかった。ただ、その時も、今日と同じように弁当に箸を伸ばしながらニュースを見ているのだろう。
その想像がジグソーパズルのピースのようにぴたりとはまり、なによりもしっくり来た。