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a little delusion syndrome partⅡ

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深呼吸の値段


 明日時給八百円のバイトを休んでしまおう。ストレスを表すようにスピーカーから爆音の流されている部屋で大場圭吾はそう心に決めたが数分後には再び考え直そうとしていた。
 理由は下らないものでバイト先の同僚と反りがどうしても合わず、今まではなんとか我慢したり、おべっかを使って誤魔化してきていたのだが、今日ついにそれが限界を迎えてしまった。一度そうなってしまうと堤防を越えてあふれ出した水のように留まる事無く、積もり積もった恨み節が後から後から沸いてきてしまい、その日彼は「もういいっすよ!」と勤務終了間際にそう叫び、乱暴にタイムカードを切ってさっさと帰ってしまった。
(……ふざけんじゃねーよ。悪いのはあいつだ)
 彼はそう確信を込めて内心で呟く。
 そう。彼は今でも自分が間違っているとは思っていないし、むしろ今まで相手の我侭によく付き合ったものだと思っていて、今回の事は正当で、起こるべくして起こった事であり、相手に問題があると言う確信を持っていたし、あわよくば今回の事で少しでもよくなればいいと期待を抱いてもいる。
(……そうだ、俺は悪くない)
 だが、そうは言いながらも彼はバイト先で叫んでしまった事に多少の後悔を覚えてもいた。そこには他のバイトもいたし、店長もいた。皆、普段は明るい彼がそうやって激昂した事に驚いたようで彼が出て行くまで誰も声をかけてこず、呆然とした目で彼が出て行くのを見送った。その視線の事を思い出すと圭吾はとても憂鬱でしょうがなくなる。今まで築いてきた人間関係に何かしらの変化が生まれてしまうかもしれない、という恐れだった。
 それでも、きっと分かってくれてるはずだ、と淡い期待を抱いてもいるのだが、もしそうじゃなかった場合の事を思うと足が竦んだ。すなわち彼らが自分を悪だと判断してしまわないだろうかという思いだった。
(だって、皆あいつに腹を立てていたじゃないか。文句の一つでも言って欲しいって思ってたはずじゃないか)
 回想する。一緒に今日怒鳴った相手の事に文句を言い合った同僚。
 大丈夫、大丈夫……大丈夫?
 本当に?
 本当に、大丈夫?
 自分は、今日まで許せなかった相手の前で笑ってたでしょう? 嫌だ嫌だと思いながらも相槌を打ち、納得できない言動を肯定してきてたでしょう?
 それが、自分にはそんな事はないと、どうして言い切れる? 友人だと思っていた相手が本当に心の底から自分に微笑んでいたのだと、自信を持って、言い切ることが出来る?


 ――なに今更熱くなってんだよ。適当にやっときゃいいのによ、めんどうくせえ。


 そう思っていない可能性がないと、どうやって言い切ることが出来るの?
(……明日、やっぱり休もう)
 いつの間にかスピーカーからは静かなバラードが流れ出していて、その悲しい歌詞を聞いていると、圭吾はそこに自己投影を始め一人ぼっちになってしまったような気がして焦燥感に迫られる。
 休もう。休んで、気持ちを切り替えるべきだ。一日経てばきっと皆の中でこの事も風化して、どうでもいい事になって何事もなかったようになるはずだ。それは、結局叫んだ意味も全く無意味になるという、彼にとって酷く屈辱的な事実を自分に押し付ける事でもあったが、それでもその方がいいような気すら今はしていた。本当はもっと早く気がつくべきだったのかもしれない。人間なんて刹那的な生き物で今がよければ、全ては片がつく事で、多少の面倒も乗り越えるよりも、すぐ傍でそ知らぬ顔して不快な顔を表に出さずやり過ごすほうが、きっと未来における生活では正解なのだと。
(そうだよ、俺はバカな事をした。あの時はそれが正しいと思ったけど、でもやっぱそうするべきじゃなかった)
 だがそこでふと、自分が休んでしまうとそこでその現実が引き金となって今日の事がリセットされずまるで点の入らない野球の延長戦のようにずるずるとひきずってしまうのではないだろうか、と言う思考に至る。そうする事によって次の出勤の時、自分は叫ぶだけ叫んで都合が悪いからと言って逃げ出すような奴だと思われてしまわないだろうか。そして相手は叫ばれても平然と出勤をし、横暴だとしても笑顔を浮かべでもしようものなら、その時、自分は相手に負けてしまったという事にならないだろうか。
(ふざけんな。悪いのは俺じゃねーぞ)
 だったら、どうして休むの?
 どうして、誰かと顔を合わせたくないなんて思うの?
(違うよ、勝ち負けじゃない。誰かと顔を合わせるのが辛いんじゃない、ただ俺は、ちょっと疲れて休みたいだけなんだ)
「疲れた」
 彼はポツリと呟いた。そう口にしてしまうとその短い一言と一緒に自分の中の魂のようなものまで外に行ってしまった気がして、なんだかひどく気が抜けてしまった。
 自分は一体なにをしていたのだろうか。結局自分で自分の首を絞めてしまっただけのような気がする。良かれと思ったはずの行動が裏目に出る事など珍しい事ではない。だが、それのせいで、更に今自分は自分の首を絞めようとしてはいないだろうか。
 なにも考えず明日は本当に休んでぼんやりとしていようか、それが一番最善な気もする。だがそうやって休んだ事で誰かに迷惑をかけてしまわないだろうか。シフトに穴を開けることは確実だし、代わりに誰かが出てくれればいいが、そんなにうまく都合がつくだろうか。もしかすると自分は今単なる我侭を言っているのではないのだろうか。
 そもそも自分にそんな風に休みたいから休む、などと言う権利があるのだろうか。たかだかバイトとは言え、やはり決まった予定を変えて休むというのはあまり好ましい事ではない。果たして自分にはそれを放棄してまで自由を貪る権利などあるのだろうか?
(いいんだよ。数千円分が水の泡になるだけさ。別にそんな皆気にするわけないさ、大丈夫)
 数千円。
 自分の数時間の労働に対する価値がその値段だ。自分は今それを放棄して休憩する事を望んでいる。しかし、それを望む時の値段は果たしてそれに釣り合うものなのだろうか。
 深呼吸が必要だ。
 身体が酸素を求めている。静かな場所の、新鮮な空気を。
 だが、その深呼吸を数千円で買う事をこの現代社会は、許してくれているのだろうか?


「昨日はさぁ、ちょっとびっくりしたよ」
「すいませんでした。かっと来ちゃって」
「まぁ、あいつもちょっと反省してたみたいだし、お互い様って事で」
「そうですね、すいませんでした」
 圭吾はそう適当な相槌を返しながら、ばれないように浅い溜め息を吐いた。
 息が、少し、詰まる。
 まるで今吸っているのは酸素ではなく、二酸化炭素のようだと、彼は自分を誤魔化すように目を閉じる。
 社会と言うのは、酷く憂鬱で、深呼吸をするために必要な時間すら、自由に得る事が、中々出来ない。
セイギノミカタパートツー


 そいつはなんとなく現れる。そう、本当になんとなく。
「はっはっはー……は」
 例えば、そんなに困っている様子もなくてただただ買い物帰りに、擦違い際に道を尋ねられた老婆に、ああだこうだと何度説明してもうまくいかずどうしようかと悩んでいるだけの少女の下に唐突に現れたりする事もある。
「…………」
「…………」
「…………」
 沈黙。当然なのだが。そこにいるのは何の変哲もない少しのんびりとした性格の少女と、腰が折れて糸のように細くなって正面すらよく見えているのか分からない目を持つ老婆と、そして、全身タイツのような黒い衣装を身にまとった正体不明の男――声からして多分男――で、この三人がうまく絡み合う姿などどう想像しても不可能な話だった。
「……あの」
「あ、はい、なんでしょうか?」
 自分からやってきておいてなんでしょうもないだろうと少女は思う。
「なにか御用でしょうか」
「いや、えっと救いを求められてるような気がしてやってきたんですけど」
「…………」
「…………」
(あっれえええ、なんか、来てしまった事自体が大間違いなこの雰囲気どうしよ)
「……あ、でもこのおばあちゃんが道に迷って困ってたんですよ」
 少女が思い出したようにぽんと手を叩いた。
「それで来てくれたんですか? わぁ、親切ですねー」
「え、あ、いや、そういうわけじゃ……あ、いや、そうです」
 実際のところ、彼の異様な聴覚が先ほどぽつりと口にしていた老婆の「困ったわねぇ」と言う言葉を耳にして、飛んできただけで内心では(なんだよ! 単なる迷子かよ!)などと毒づいているのだが自称正義の味方である彼は、そうやって老婆が「あらあら、わざわざすいませんねぇ」と頭を下げられてしまうとそんな事は当然口には出来なかった。
「……よし!」
 唐突にそう叫ぶ。
 そんな彼を二人が呆けた顔で何事だろうと見つめてくるので、彼は振り上げたその腕をしばらく硬直させてから黙ったまま静かに下ろした。
「いや、ちょっとね、自分に気合を入れようと思ったんですよね」
「あー、そうなんですかー」
「あーなんか調子狂うなー、別に否定とかされてるわけじゃないのになんか居心地悪いなー」
 なぜかそわそわとした様子でうろうろする。そんな彼を二人はあまり気にしていないようで「よかったねぇ」なんて言い合っていて、勝手にやってきて、いつもはそのまま勝手に話を始める彼は、なんだかお株を奪われてしまったようでそれもまた落ち着かない。
「あー、じゃあとりあえずずばっと! ずばっと案内しちゃいますよ! ええ、こうなったらとことん案内しますとも! さぁ、どこに行きたいんだい!?」
「お譲ちゃんわざわざ悪かったねぇ」
「いえいえ、いいんですよー」
「おおおおおいいいいい! 私の話聞きなさいってえええええ!!」
「え? なんだって?」
「いやいやいやいや、そこのお嬢さんよりおっきい声で喋ってるのに聞こえないわけないでしょうが!」
「やかましくてなに言ってんのか分からないねぇ」
「……あ、そうですか。すみません」
「あのぉ」
 ふと少女が話しかけてくる。
「はっはっは! なんだい!?」
 彼女ならまさか聞き取れないなんて事はないだろう。
「すいません、おばあちゃんと話してて話全然聞いてませんでした。もう一回最初からいいですか?」
「…………」
「すいません、話聞いてなかったから怒っちゃいました?」
「……いえ、いいんです。いいんですよ、全然」
 彼はもうなんだか諦めきった様子でその場にしゃがみこみ人差し指で何度か地面に円を描き続けた。
(あーなんかやだなー。無視されるってつらいなー。やっぱ口元は開けておいたほうが声の響きいいかなー)
 そんなふうにいじけてしまった彼だが、その様子を見て二人に「なんか大変そうですねぇ」と親身な様子で頷かれ、なんだか泣きたくなった。


 その後財布を落としたと言う老婆に鼻を近づけしばらくふんふんと怪しい素振りを繰り返した後「……こっちです」と案内をはじめ、やってきた交番で、全身タイツと言う怪しいいでたちの彼に駐在していた警官が何事か喚いていたが「やかましい」とチョップを食らわしてしまい、激高して我を忘れた警官が問答無用で彼に手錠をかけたのだが、彼は「ふぅん!」とそれを引きちぎると猛ダッシュでそこから逃走を始めた。本当はもっと早く走れるくせに警官が少しずつ距離を縮められるような速度で。
「待てこらああああああああああああ!」
「はっはっは! 捕まえられるものなら捕まえてみろ!」
 そう叫びながら、彼はひたすら、誰かに自分が構ってもらえる事の喜びを噛み締めていた。
 そして取り残された老婆はふと見渡した机の上に自分の財布が置かれている事に気がつくと中身を確認し、どうやら無事のようだとほっと吐息を一つ零したのだった。
 なんとなく、平和に貢献しているような気もするのだが。
「はっはっは! ほーら、こっちだぞう!」
 それ以上に害悪な存在になっているような気が、しなくもない。
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トライアングルループ


 好きです、と言われて悪い気はしない、なんて嘘だ。
 僕は憂鬱な気持ちで、俯きながらも計算みたいな上目遣いを時折向ける女の子に対し、なんとかぶん殴ってやりたい、と言う衝動を押さえ込もうとしていた。
「悪いけど」
 え? と女の子が想像もしていなかったと言うように間抜けな声をあげる。僕はなによりもまず「お前はばかか」と言いたくなるがなんとかこらえる。
 まさか、振られる事を想定していなかったのか? まさか僕が君の告白にとても喜んで今すぐ君を抱き寄せてキスをする、なんて甘い妄想でもしていたのか。冗談じゃない。
 僕は君の事なんか全然好きじゃない。
「ごめん、付き合うとかは出来ない」
 どうして? そんな言葉に僕は辟易とする。
 あのさぁ、そこに愛はないからだよ。そんなの言わなくても分かるだろ? それにそんな言葉聞いたらどうせショック受けるだろう? そういうの言う必要ない事だろう? 分かれよ、頼むからさ。
「君の事、友達としてしか意識してなかったんだ。だから付き合うとかは考えられないよ」
 じゃあ、今はだめでもいつかまたそう意識出来るようになってもらえたらいい? いい訳ないじゃん。
 そういうのそんなに簡単にころころ変わるもんじゃないだろ? 今好きじゃないし、これからそうなる可能性なんて殆どないよ。そうやってうまくいく人達もいるけど、僕はそういうキャラじゃないって僕の事を好きなら分かってもいいもんだろ?
 正直言うとさ、面倒くさいんだよね。こうやってそつなく断ろうとする事ってさ。
 ねぇ、別に本当ははっきり言ってもいいんだ。
 君とは無理だ、ってさ。


 好きです、と言われて嫌だ、なんて思わないはずだ。
 僕は自分の台詞に戸惑いを覚えて、真正面にいる彼女から目を逸らしてしまうけれど、それでもやっぱり気になってちらちらと視線をそちらに向け、彼女の返事を待っていた。
「悪いけど」
 え? と僕はその言葉を鈍い衝撃と共に吐き出す。僕は思考がぶつ切りになっていく感覚の中、なんとか散り散りのそれを掴み取ろうとする。
 振られる事なんて、想定していなかったんだ。僕はきっと君が喜んでくれて、そのまま君を抱き寄せてキスをする、なんて淡い幻想を抱いていたんだ。嘘だろう?
 僕の事、好いてくれてくるんじゃないの?
「ごめん、付き合うとかは出来ない」
 どうして? 僕はなんとかその言葉を搾り出す。
 あのね、僕は君の事本当に愛してるんだよ。今更、言わなくても分かってると思うんだけど。ねぇ、どうしてなんだ? 教えてくれないか? 君の言葉が聞きたいんだよ。頼むからさ。
「君の事、友達としてしか意識してなかったの。だから付き合うとかは考えられないよ」
 じゃあ、じゃあ、いつか君の意識が変わる事を僕は信じてもいいだろうか。
 僕は君の事が好きで、それを今伝えた。これからはそういう意識で僕を見てくれないだろうか。今は無理でもいつか君が僕の事を愛してくれる時が来るかもしれない。ほんの少しの可能性でも信じてみたいんだ。
 正直言うとさ、はっきり言ってほしいんだ。そんなそつのない断り方じゃなくて。
 ねぇ、別に本当ははっきり言ってもいいんだ。
 君とは無理だ、ってさ。


 ねぇ、僕は言って欲しいんだ。
Love is Dead


 僕、千葉大樹と彼女、椎名真由は時折同じ悩みで愚痴りあったりする。
「どうして、人は愛を一番にしようとするのでしょう」
 その日も、僕たちはその疑問をぶつけあった。一体いつからお互いがそう思っている事に気がつき、こうやって話し合うような事になったのかなどもう覚えてもいない。それだけ長い間僕達はその事について話し合ってきたのだけれど、その答えは今になっても見つかる様子はなかった。
 正確に言うと、僕達の間ではある程度の回答は用意できているのだけれど、僕達の中でそれをはっきりと言えないのは、世間的には認められないようだ、と二人とも分かっているからだった。
「今日さぁ」
「なに?」
「ラブソングを聴いたらしいんだよ。会社の同僚が。癒されたんだってさ。そいつ彼女もいないのに」
「なんでなんだろうねぇ」
「なんでだろうねぇ」
 僕達は仕事の休憩時間を利用し、食堂でテーブルで向き合って首を横に振り合った。
 天井からテレビが吊り下げられており、なんとなくそちらを見る。テレビでは大物らしい女優が笑顔を浮かべていた。
『愛だけが、地球を救うことが出来ます。愛が、人と人を結び付けてくれます』
 僕達はそれを見て、はぁ、と溜め息を零す。
「嘘だとは言わないけどねぇ」
「愛だけ、とは言いすぎだよねぇ」
「じゃあ、ほかの感情ってなんなのって感じよねぇ」
「まったく」
 僕は目の前のオムライスにスプーンを入れる。湯気が立つ様子もなく、冷えている事が一目で分かるそれも慣れてしまうと大した問題ではない。
「親しみ、って言うよりも、親愛。友情、って言うよりも、友愛。そういう言葉の方がより思いが強いだなんてばかげた話だよねぇ」
「単なる単語なのにねぇ。あ、そうだ」
「なに?」
「あの子、分かるかな。明津さんっていうんだけど」
「えーっと、メガネをしてて、肩までくらいの髪の長さでちょっと大人しそうな女の?」
「そう、その人がね、ちょっと仕事でミスしちゃってさ。すごい落ち込んでるのよね」
「ふーん、大変だね」
「そう、でね、私心配だから昨日ご飯誘ってさ。色々相談乗ったんだ」
「うんうん」
「結局結論は、彼氏でもいたら少しは気が楽になるのに、だって」
「彼氏がいたからどうこうなる訳ないんだけどね」
「そうなのよねぇ。つか私も私なりに一生懸命聞いているつもりなんだけどねぇ」
「まぁ、きっと愛が好きなんだろうねぇ」
「そうよねぇ。愛そのものじゃなくて、愛があるって言う前提が好きなのよねぇ」
「愛じゃなくても助けたり、助けてもらったりする事は出来るのに」
「愛と言う名前がつくだけでなにかが変わるわけでもないのにね」
「きっと安心するんだよね」
「この安心がずっと続くって言う安心がね」
「愛だって永遠じゃないのに」
「愛じゃなくても永遠はあるのにねぇ」
 僕達はやれやれと、もう何度目になるか分からず、今ではもう呆れに近い溜め息を零すとそろそろ仕事に戻ろうと立ち上がった。
 そうして彼女と別れた後、同僚が僕のところにやってきてこう尋ねる。
「なぁ、最近椎名さんとよく一緒に昼飯とか食べてるけど、もしかして付き合ってるのか?」
「いや、全然」
 僕の返答に同僚は、けど傍目にはすごい仲よさそうだし、そうかな、と思ったんだよなぁ、と言っている。
 じゃあ、仲がいいでいいじゃないか、と僕は思う。
「愛」よりも深い「仲がいい」はきっと存在する。その二つは全く違う感情で、どちらもどこまでも深くしていく事は出来る。
 だから、これは愛じゃない。だけど僕達は理解し合っているし、口にしなくても相手の言いたい事もなんとなく分かるし、何が好きで何が嫌いかも大体知ってる。
 そういうの、仲がいいからで済ましていいはずなのに、なんでか人は愛だ、と言いたがる。
 それとは全く逆で、全く擦違っている二人でも、愛と言えば許されたりするなんて馬鹿げた事なのに。
「なんでなんだろうねぇ」
 それはきっと幸せなのに。
 なんで皆、愛ばかり求めて、それよりもあなたのために存在しているその他の想いに気がつかないんだろうねぇ。
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UNKNOWN


 僕は旅に出る事にしたんだ。地図も見ないで。
 そう思ったのは夏休みが始まり一週間経ち、朝起きる習慣がなくなりつつあり、昼過ぎに呑気に歯を磨きながらニュースを見ていた時だ。そのニュースは実際旅とは全く関係なく、人体の構造についての研究がどうだのと小難しい話でバカな僕はちっとも理解なんてしていなかったのだけど、僕が惹かれたのはそんな事ではなくて、アナウンサーが口にした「私たちの気づかない間にもどんどん人の未知な部分が解明されていっているんですね。まるで昔世界地図を手探りで描こうとしていたようですね」と言う言葉だった。
(……俺は知らない事が多すぎる!)
 ぼうっと見ていたため歯磨き粉が喉の奥の方に入り込み、僕は慌てて洗面所に走りげぇげぇ、と情けなくうがいをしながらも頭の中だけはそれがぐるぐると目まぐるしく回転していた。
 そうだ、僕達は気づかない間に僕達の知らないどっかで色んな事が明らかになってはそれを人伝に聞いたり、ネットで見たりして自分も知ったような顔をしている事ばっかりで、実際に自分の手で解き明かした事なんて殆どないじゃないか。そんな事を考えていた。
 ぷは、っと吐き出して跳ね上がった水しぶきが排水溝に流れ消えると、僕はそのまま顔をばしゃばしゃと洗い、乱暴にタオルで拭き取るとリビングにいた母親に「母さん、俺今日から旅に出るから!」と叫んだ。
 案の定あまりにいきなりで訳の分からない事を言っている僕に、母親はぶったまげた顔をして、大丈夫かしら、この子、なんて顔をしたのだが、僕と同じく呑気な性格である彼女は「あんまり遠くまで行っちゃだめよ」と僕が想像しているのとはかなりずれた返答を寄越した。
「分かった!」
 僕はそう言うと部屋へと取って返す。その訂正をするのは面倒くさかったし、認識が間違っていた事に気づき、あとで反対されるという事は避けたかったのでむしろそのまま勘違いしてもらう事にする。
 部屋へ戻ると僕は簡単な着替えを幾つかと財布を手に取ると今度は外へと向かってドタバタと飛び出す。うまく靴を履く事が出来ない僕を母親が「なに、そんなに慌ててんの?」と呆れたように言ってくるが、僕はそれを無視し、なんとか靴を履く事に成功するとようやく一息ついて母親の方へと振り返り、満面の笑みを浮かべながら言い切った、
「広い世界を見るのだ」
 うん、まぁ、昔マンションのベランダから飛び降りた奴が出てた映画の台詞のパクリだけどな。


 そして僕はチャリンコに乗り込み、力の限りペダルを踏み込み、出来る事なら夏の夕暮れの中叫びだしたいくらいのハイテンションだったのだが、三日後、僕は夏のうだるような暑さにやられ、たまたま通りがかった大き目の公園にあった芝生に大の字で寝転がっていた。
「……いかん、死ぬぞこれは」
 日陰に逃げ込んだものの、そよそよと揺れ時折目を照らす木漏れ日にすら負けてしまいそうになる。首に巻いたタオルで額からダラダラとこぼれる汗をだらだらと拭いながらこれまでの事を思い返す。
(……で、俺はなにがしたかったんだっけ?)
 考えてみるが、この三日間やたらめったら自転車を漕いで漕いで漕ぎまくったのだが、僕の触れた事がない道の世界とやらに踏み込んだようなものなど全くなかったどころか、ただ闇雲に家から遠ざかっただけで立ち寄った場所と言えば、トイレ代わりにと入った家の近所にあるものとまったく代わり映えしないコンビニくらいだった。
「……なにをやってるんだ、俺は!?」
 頭を抱えてごろごろと転がる。そのせいで芝生の一部が舞い上がり風に流されようとしていた。ふとそこから解き放たれた一部が僕の頬に張り付き、むずむずとした痒みを感じ、僕は起き上がってそれを払い落とす。
 汗にぬれたシャツが肌にぐにゃりとまとわりつく感触に不快感を覚え、ばたばたと仰いだ。
「……どうすっか、これから」
 帰るか。
 頭の中にそんな発想が浮かび上がってきた。僕はいやいやと首を振るのだが、もう一人の僕はうんうんと頷こうとする。
 どうせ、これ以上遠くに行ったってなんもねーよ、もう満足しただろ? 帰ってエアコンのある部屋でだらだらしてようぜ。
 これくらいで帰るなんてふざけてんじゃねーよ。もうちょっと頑張ればなにか見つかるかもしれないんだぜ? それを諦めてのこのこ帰っちまうのか?
 どちらの僕も正直な僕で、どちらの台詞からも自分を奮い立たせるようなものを受け取ることは出来なかった。しょうがない、なんせ自分自身なのだから。
 あぁ、もう、めんどうくせえ。
 そう思い、どっちみち今は疲れてるんだしもうちょっとここで休もう、と思い再び寝転がった。
「ねぇ」
 大体ではあるが軽く見積もっても100キロ以上は家から離れたはずだった。そんなところに僕の知り合いなんている訳もなかったし、そのためその声が最初自分に向けられたと思わなかったのも致し方ない事だと思う。
「ちょっと」
「……あ?」
「こんにちは」
 そしてどうやら僕に向かって声をかけているようだとようやく気がつき振り向くと、彼女はにこりと笑って軽くお辞儀をして見せる。僕はどう返事を返したものかと、彼女が纏っている薄地の白いワンピースと、それとは対照的に濡れるような黒い髪のコントラストにぼんやりと目を奪われていた。
「自転車で、旅行?」
 彼女はそんな僕の様子などどうでもいいのか、すぐそばにある自転車とその横に置かれたリュックサック、そして今にも干からびてくたばってしまいそうな僕の間で視線を面白そうに泳がせていた。
「えっと、あー」
「ん?」
 参った。
 いや、違うぞ。これは旅行なんかじゃねーぞ。俺が行きたかったのはなんも考えてねーアホなカップルがガイドブックに載ってるからとりあえずやってきたけどなんか期待外れで、結局夜景が見れればロマンティックだね、とか言うような適当なものとは違うぞ。つーか、俺一人だしな。
「まぁ、なんつーか」
 ほら、あれだよ、あれ。
 頭の中で、僕じゃない僕が囁く。
 お前な、女の子の前でかっこつけようなんて考えてんじゃねーぞ。
「自分探し的な感じだ!」
 まぁ、いいんじゃないの? こういう時くらいさ。
 もう一人の僕がそうフォローを入れる。
 しかし、実際のとこかっこついてねーだろ、これ、なんて思うのはいっつもバカみたいに考えがまとまらないまま口走った後での事なんだ。


「そのニュース私も見てた」
「マジで?」
 うん、と彼女が頷き僕は意味もなく嬉しくなって――内容なんて実は殆ど覚えてないのに――身振り手振りを加えながらその時自分が思った事とか、こうやって家を出た理由なんかをまくしたてていた。だって三日間、ろくに誰とも話していなかったのでこうやって話し相手――しかも可愛い女の子――が出来た事が嬉しかったと言う事もある。
「けどそれで旅に出ようと思うなんてすごいね」
「まぁ、元々思いつきで動くような奴だからさぁ」
「でも、私はどっちかって言ったら臆病だったりするからそんな風に行動力があるのって羨ましいな」
 僕の隣に腰掛けた彼女がそう言って笑う。
「こうやって公園に寝転がってるような奴に声かけるの結構行動力あると思うけど」
「お父さんもね、自転車好きなんだ。休みの日とか一人でよく出かけちゃうの。それでね、夜になって帰ってきてこう言うの。自転車好きな奴に悪い奴はいないって」
「で、自転車で旅をしてる俺も悪い奴じゃないって?」
 僕は彼女のお父さんに感謝を捧げようと思う。ただ問題なのは僕は決して自転車の事をそんなに好きではないという事だ。当然愛してる訳もなきゃ、只単純に移動手段がこいつしかなかったからと言うだけなのだが、僕はそれは隠す事にして「いや、やっぱね、いいよ、自転車は。最高だよ、うんうん」なんて調子のいい事をほざいていた。それを聞きながら彼女はすぐ傍にあった僕の自転車に手を伸ばす。
「聞いてみたかったの。自転車で旅をする理由」
「理由?」
「うん。まぁ、実際は自転車じゃなくてもいいんだけどね、どうして遠くの街とか、行きたがるんだろうって。私はさ、結構身近なところにあるもので満足してたりするの。今私を包んでくれているものがある事が幸せだし、どっちかと言うとずっとそこにいる事を望むのね。でも、私とは反対にそういう場所から離れてでも、君みたいにたびに出る人っているじゃない? どんな事思ってるのかなって」
「俺の場合はねぇ」
「うんうん」
 彼女は興味津々ってな感じで俺の言葉を待った。
 でもまぁ、正直言える事なんてそんなにねーんだよな。
 彼女みたいにしっかりとした考えなんてもってもいねーし、やってる事は殆ど思いつきで行き当たりばったりで、それに俺はいつまでも旅を続けられる訳もなく結局いつかは家に帰る訳だしさ。
「さっきも言ったように知らないものを見てみたかったんだよね。俺が今まで見た事もないようなものを、他人から聞くんじゃなくて自分の目や耳でちゃんと感じてみたかったんだよ。体感が欲しかったんだ。あぁ、これはこういう事なんだな、っていうの。なんとなくふーん、で終わっちまうような知識とかとは違うものをさ」
 うまく伝えられただろうか。そんな風に思いもするがどうやら彼女は納得してくれたようだった。満足げな顔を浮かべた彼女は「じゃあ、頑張って旅をしてさっき言ってた未知の世界を見つけてね」とニコニコしながら膝の上に頭を乗せて僕を見てくるので、僕は若干照れくさくなった。
 そうしてしばらく話して彼女がそろそろ行くね、と立ち上がろうとし、僕は言うなら今しかねーよな、とポケットに手を入れたもののまだ決心がつきかねていた。
 だが黙っていても彼女は行ってしまうだけだし、もういいや、どうせダメでも明日にゃ俺はここにはいねーんだ、とポケットに入れてあった携帯を取り出した。
「あのさ」
「ん?」
「未知の世界とか見つかるかどうか分かんねーけどさ。旅が終わって帰ったら報告とかしていい?」
 その言葉に彼女はきょとんとしたけど、僕がなにを言おうとしているのかややあって理解したようで「本当?」と問い返してきた。
「ホントホント」
 なにか見つけられる確信なんて欠片もなかったけど。
 僕達は携帯の番号を交換し合い、
「じゃあ、なにか見つけたらその時は詳しく教えてね、楽しみに待ってるからね」
 と言う彼女の言葉に「任しといてよ」と自信満々に答え、大きく手を振りながら公園から出て行く彼女を見送って僕は再び芝生にごろりと寝転んだ。
 そして一体彼女はどんな事を話せば喜んでくれるだろうか、と小一時間ほど悩んで――
「よし、帰ろう!」
 と僕は立ち上がり自転車に飛び乗ると今までとは正反対、つまり家までの道のりに向かって自転車を再び漕ぎ出した。


 行く時よりも随分とスローなペースで家に帰ってくると、思わず目を閉じてしまうくらいかんかんに怒っている母親から、リビングで延々と説教をされ、ようやくそれから開放されると僕は自分の部屋へと戻りベッドに寝転んだ。今朝も干されていたらしくふんわりとしたその感触を気持ちよく思いながら僕はごそごそと携帯を取り出す。
 なぁ、お前なんにも未知の世界とか見つけてないじゃん。
 とか誰かは言うかもしれないな。
 俺もそうかもしれないって思うよ。
 家を飛び出した時、俺が探そうと思い描いていたものは見つけるどころか、擦違いすらしなかったと思う。
 でもさ。
 何回かボタンを押し、最後に送信のボタンを押す。
 そしてしばらくするとメールの着信を告げるメロディがなり、僕は再び携帯を手に取る。
『おかえりなさい』
 でもさ。
 見つけたよ。今まで僕が知らなかったもの。それはありふれていて、他の誰かにとっては他愛のないものだったりするのだけれど。
 旅を始めた時には想像もしていなかった世界にちょっと触れたんだ。そしてもう少しその世界を知りたいと思う。
『ただいま』
 ねぇ、未知ってのはそんなもんだろ?
直線上キャッチボール(実験作)


 だん、と地面に鈍い音が鳴り響き、僕はそこから更にもう一歩足を踏み出す。
 ぐん、と身体に抵抗が加わるが、僕もそれに抗い、前へ前へと全力で疾走する。
 人波を掻き分けるようにして、右へ左へと身体の重心を傾けながら僕は腕時計の時間を見て「やべぇ」と零した。
 約束の時間まで残り僅かだと言う事に若干焦りながら、僕は再び思考を停止し、身体を躍動させる。
 雑踏の中で、擦違う人達が迷惑そうに、もしくは怒ったようにしながら僕の方を見るが、それらはフィルムのように後方へと流れていった。
 このペースでなら間に合いそうだ。
 僕はそう安堵し再び正面にいる女の人をやり過ごしたところで、その後ろに隠れるようにしてこちらからは見えなかった、もう一人がいる事に気がついた。
(うっわ!)
 そのサラリーマン風の男は僕に全く気がついていなかったようで、突然に現れた僕を見て目を見開いていた。僕もここからすぐに速度を落とすことは出来そうになく、いちかばちかで「しゃがめ!」と叫ぶ。
 それに素直に従ったのか、それとも単なる反射だったのかは分からないが、彼は「ひっ」と短い声をあげてその場にしゃがみこんだ。そして僕は今以上に地面に足を強く踏みつけて彼の頭を飛び越え――


 ――ていった少年を僕は、すぐ傍にいた人達と共に驚きを込めてその後姿を見つめたが、その姿はすぐに雑踏にまぎれて見えなくなってしまった。
「なんだったんだ?」
 やれやれと立ち上がり、ふと座り込み、地面に投げ出されたコートの裾が誰かに踏まれてしまったのか汚れており、僕は「あぁ」と肩を落とす。せっかく最近出したばかりだったのにまたクリーニングしないといけない。
 憂鬱な気持ちになりながらまぁ、しょうがない、怪我しなかっただけでもよしとしよう、となんとか頭を切り替えると再び家へと帰るために歩き出した。仕事が終わるこの時間、一帯はいつも込み合っていて僕はもうとっくに慣れてしまっているのだけど、地下鉄に乗るために利用するエスカレーターだけは苦手だった。一人分の幅しかないそれはこれだけ人が多いともう動く事が出来ず、自分のペースで歩く事が出来なくなってしまうのだ。僕の胸あたりにあるはげかかった頭をした中年男性を見ながら自分も将来はそうなってしまうのだろうか、なんて事を思いながら、あんまりストレスは溜めないようにしようと心に誓う。
 就職してからそれなりに経つのだが、如何せん慣れたと思っても、そう思った頃にはまた新しい仕事が回ってきて、また頭を悩ませると言う事の繰り返しで、今も鞄の中には新しいプロジェクトの書類が入っており、家に帰ってもそいつとしばらくは睨めっこをしなければならない。最近は満足に睡眠を得る事が出来ておらず、僕は無意識のうちに、眉間にしわを寄せながら、長い瞬きを繰り返す。
(まぁ、もうちょっとすれば、それなりに休めるだろう)
 やってきた地下鉄に乗り込むと、その日は運よく座る事が出来た。そのためだろうか、僕はふわぁ、とあくびを一つ零した。いけないいけないと思いつつも、椅子の感触と穏やかな暖かさに包まれているうちに、瞼は重くなっていき、僕はゆっくりと眠り――


 ――かけていた私は、アナウンスで次が自分が降りる駅だと言う事に気がつくとはっと頭を起こした。
(あっぶない)
 隣ではサラリーマンらしき人が私と同じように呑気そうに寝息を立てている。自分がどれくらい寝ていたのか思い出そうとしたがあまり記憶がなく、一応鞄の中身を調べてみたが特に盗難にあったような様子もなくほっと一息を吐いて電車が停車するその直前で私はシートから立ち上がった。
 吐き出されるようにして地下鉄から降りると私はスキップするように階段を一段ずつ上がる。以前その姿を友達に見られた時は「ウサギみたい」とよく分からない事を言われ笑われたのだがもう癖になっているため今更やめられそうもなかった。
「よ、っと」
 地上へと最後の一段を飛び越えて両足で着地をすると鞄を背負いなおし、そこから携帯電話を取り出す。先ほど電話が鳴っていたが電車に乗っていたし、電波状況もよくなかったため出なかったのだ。履歴を見ると相手は同じ高校に通う女友達からで私はすぐにかけなおす。
「もしもし? ごめんごめん。地下鉄乗ってたの」
 相手は特に急ぎの用事があったわけではないようで、今なにしてるの? という質問に「これから塾」と返すと当てが外れたのかつまらなそうな声を出した。私は「今度の土曜日って暇?」と逆に尋ねてみると今度は向こうがバイトらしく「あらら」と歩きながら首を傾げる。
 それから少し適当な話をしながら塾に辿り着き「じゃあね」と携帯を鞄にしまった。建物に入り教室へと向かう途中擦違った講師に「こんにちはー」と挨拶をする。
 教室では既に何人かの生徒がいて、私は空いている机の一つに座ると鞄からノートを取り出し――


 ――ては見たものの、僕は早くも帰りたいなぁ、と真っ白なそのノートの上に額をゴツンとぶつけた。
 講師が入ってきて授業が始まり、ホワイトボードにざっと書かれ、一言二言説明をするとすぐにそれは消され、また新しい文字がそこに刻まれていく。僕はそれをなんとなくノートにだらだらと書き写すのだけど、果たしてこれを読み返した時役に立つかどうかは自信がなかった。
 そもそも僕は勉強が大嫌いで、親に無理やり行かされているこの塾もいやいや通っているようなものだったし、受験戦争なんてものにも一切興味がなく、そこそこの大学に行く事が出来ればいいや、くらいにしか思っていなかったため、学校での成績も僕と違い、塾になんて通わず、家で勉強しているだけの奴より悪い事なんて珍しい事でもなかった。
(あーあ、早く終わんねーかなー)
 全くやる気のない僕の様子を当然だが講師は気にする訳もなく、いつものように必要な事だけを口にし、僕達は黙ってノートを取るだけの長い時間がようやく終わると、僕はやっと解放されたとばかりに席から立ち上がりさっさとこの建物から脱出した。
 自転車に跨り、音楽をかけながら家へと向かう。
「あれ?」
 そして帰ってきたところで、僕は家の駐車場のいつもは空いたスペースに一台車が止まっているのを見かけた。その黒いワンボックスカーは親戚のもののはずで、僕はおじさん達が来ているんなら今日の夕飯はいつもより豪勢かもしれないぞ、と淡い期待を覚えながら玄関を開ける。
「ただいまぁ」
 そう声をかけると、通路の先にあるリビングからひょこりと小さな女の子が顔を覗かせた。彼女はおじさんの子供で、こうやってたまに尋ねてきてはいつも明るく笑っている子で、今日も僕の姿を認めるとぱっと明るい顔をしてこっちへと走ってやって――


 ――いくと親戚のお兄ちゃんは「久しぶり」と言いながら私を抱きかかえた。お兄ちゃんは私を自分の頭よりも高い位置まで持ち上げてくれて、私はいつもと違って見える光景がなんだか面白くてきゃっきゃとはしゃぐ。それを見たお兄ちゃんは私が喜んでいる事が嬉しかったのか、一旦下ろしてはまた上げる、と言う事を繰り返し、私は手を叩いて喜んでいたんだけど、お兄ちゃんのお母さんに「危ないでしょ」と怒られてしまい、二人で口を尖らせると、お兄ちゃんに抱きかかえられたまま皆がいるリビングへと戻った。
 リビングには私の両親とお兄ちゃんの両親、そしてお兄ちゃんの弟がいて、弟は抱きかかえられている私を見ると、羨ましかったのか、なんだか怒っているような顔をされてしまったけど、私はなんて言ったらいいか分からなかったので、そのままお兄ちゃんにくっついている事にした。
 お兄ちゃんが「ご飯は?」と聞くとまだ準備中らしく、それを聞くとお兄ちゃんは「じゃあ、風呂でも入ってこようかな」と言い、私を弟君が座っているソファへとおろすとリビングから出て行ってしまった。
「ねぇ、暇だね」
「うん。なんかする?」
 弟君にそう話しかけると、彼も退屈だったようですぐに乗ってきた。私はなにするの? と彼の肩をゆさゆさと揺すると彼はそれが嫌だったみたいで手を振り払われてしまう。私は反省して大人しくすると弟君は満足したみたいで「最近グローブ買ってもらったんだ」と思いついたように手を叩くと「母さん、キャッチボールしてくる」と言ってソファから飛び降りると、私についてこい、と言いリビングから庭に出ると私に「ほい」と少し汚れた大きいグローブを渡してきた。
「おっきい、これ」
「だって兄ちゃんのだもん」
「そっちがいい」
「やだよ、これ俺のだもん」
「えー」
 私はなんだか凄く悲しくなって泣きそうになったけど弟君は私より年下だし、彼のせいで泣いたと皆に思われるのが嫌だったからここは耐えることにした。しょうがないのでぶかぶかで扱いにくそうなグローブをつけると私は足元にあったボールを拾う。
 弟君がここに向かって投げろと言うようにグローブを構えて、私はあんまり自信はなかったけどえい、っとそこに目掛けてボールを投げ――


 ――られたボールは僕の頭を飛び越えて庭の端の方へとてんてんと転がっていってしまった。
 僕は「もう!」と文句を言いながら走ってそれを追いかける。彼女は「ごめんなさーい」と全然反省してない様子で言うんだけど、僕はしょうがないなぁ、とあまり怒る気にもならずボールを拾うと「行くよ」と行って山なりに彼女に向かってボールを投げた。彼女はあんまり運動は得意じゃないみたいでうろうろと動くものの、ボールは彼女のすぐ横を通り過ぎていってしまい、今度は彼女がボールを追いかける。
「なにやってんだよー」
「だって取れないんだもん」
「ダメだなー」
 どうもボールを見失ってしまったらしく、僕も彼女と一緒に探す事にする。なんとなく投げた位置からは、今彼女が探しているあたりにある事は間違いないと思ったので彼女の隣に腰を下ろした。
「どこいっちゃったんだろ」
「ちゃんと取ってくれたらこんな事にならなかったのに」
「だってぇ」
 あ、これ以上言ったら泣くかもしれない。
 僕はそのことに気がついて慌てて「大丈夫だよ、探したら見つかるから」と一生懸命のフォローをする。
 だけどボールは一体、どこに行ってしまったのかしばらく捜しても見つけ出せなかった。そうしているうちにまた彼女が泣きそうになってきて、僕は大慌てであっちやこっちを探したお陰でなんとか見つけ出す事が出来た。
「やった!」
 僕はガッツポーズをして彼女に見せ付けると、彼女もその場で飛び跳ねるようにして喜び、再びグローブをつけると僕達はさっきよりも近い位置でゆっくりとボールを投げ合う事にする。
「はい」
「それ」
「はーい」
 何度かそうやって投げあい、僕はこのままこうやってキャッチボールがずっと続けばいいのに、と思う。こうやって彼女が僕に向かって投げられたボールをキャッチし、僕が投げたボールを今度は彼女が受け取る。
 ずっとこうしていたいな。
「あ」
 目測を誤ったのか、彼女のグローブの端にボールが当たり、てんてんと転がった。僕達の中央あたりに転がったそれを拾おうと僕が手を伸ばすと、彼女も拾おうと思ったようでグローブに比べると随分小さな手がすっと伸びる。
 僕達の手がボールの真上のあたりで重なり、その肌に触れ―― 


 ――て、僕は彼女にキスをした。
78, 77

  

ダイニングテーブルのある光景


 日本を脱出すればきっと肺の中に進入してくる空気に変化が起こり、そしてその変化は内より外へとやってきて、新しい僕が目覚める。あの日、たった一人で空港のエントランスをトランクを引きながら歩いていた頃の僕はそんな風に思ったのかも知れなかった。いつからそんな風に思っていたのだろう。古い洋画の中に見られた、薄汚れたある一室は僕にとってなにかが始まる時にやってくる前兆の兆しで、僕はそう思うたびに、靴を脱ぐ事や、畳敷きの和室に布団がそのまま敷かれている事、飼っていた犬が広くもない庭にある犬小屋の中で紐に縛られ退屈そうに寝転がっているその環境に倦怠感を覚えていた。
 大学を卒業し、どこにも就職せず、四年間英語ばかり勉強し続け、両親の反対を振り切って乗り込んだ飛行機で窓際の席に運よく座ることが出来た僕はそこから見える小さな世界を眺め、それがゆっくりと動き出す頃、ポケットに入れていたメモ帳とペンを取り出した。なんの役にも立たない詩を書くと言う僕の趣味はもう七年程になろうとしている。その時僕がなにを書いたかはすぐに思い出せは――メモ帳は捨てずに取ってあるので読み返すことはいつでも出来るけれど――しなかったけれど、きっとこの飛行機から降りた時、僕の中で世界はきっと広がりを生むだろう、と思っていたように思う。


「あぁ」
 その猥褻な吐息を、僕はダイニングテーブルとセットで購入したチェアに腰掛けながら聞き、同時にスプリングがいかれてギシギシと悲鳴のような音を立てるベッドの音を聞き、全裸のアンソニーの白くて薄っぺらで貧弱そうな背中から伸びる、不安定なリズムで揺れている尻と、彼の股間の隆起したもので繋がり四つん這いになってシーツを引き千切りそうなほどに握り締め、英語で嬉しそうに「もっと」と言いそしてそれに彼が応えると再び嬌声をあげるサリーの揺れる乳房を見、その二人の汗と、それ以上に湿気に塗れたこの室内と、テーブルに置かれているマクドナルドのしなびたフライドポテトのつんとする臭いを嗅いでいた。
「アンソニー、明日は仕事だから君の趣味を手伝えそうにない」
 僕はふとその事を思い出し、それを伝えると、彼は腰を振る事に夢中でこちらを振り向きもしなかったが、聞こえてはいたようだった。「あぁ、そう、分かった」と適当な返事を返してくる。セックスをしている時の彼は、いつも周りの事には気が回らなくなるようで、僕はそれをたまに利用してはこうやって面倒な用件を断る事にしている。
 テーブルに置いてあったメモ帳とペンを取り上げて、僕は全開になっている大きな窓に腰掛けるとそこから見えるいつもの光景を今日も見つめた。ただただ高く作りたかっただけで、それ以外の事はどうでもいいと言った感じで造られたこのアパートはとても居心地がいいと言えたものではなかったが、確かに昔僕が見た映画のワンシーンと共通するところがあると思えたし、地上から十数メートルと言う位置から見る光景を僕は愛していた。決して、この部屋がなにかの前兆となる事や、この身体に日本とは違う味がする空気を吸い込む事、新しい僕が目覚めると言う事はなかったけれど。
 僕は眼下で聞こえてくる誰かの笑い声や車のクラクションの音を聞きながら、つらつらとペンをメモ帳の上で走らせる。ふと、厚い靴底に土汚れが随分とついてしまっている事に気がつき、僕はそれを払い落とすと、もう片方の足でそれを床に擦った。
 浮かんでくる言葉に納得がいかず、何度かその字を二重線で消してはまた書き直すものの、結局うまい表現を見つけることが出来ず、諦めてそのページを切り取りゴミ箱に投げ込んだ頃、アンソニーは射精し満足そうな声を上げベッドに寝転がり、サリーはシャワーを浴びようと思ったようでベッドから降りたところで、僕のメモ帳に気がついていたらしく、それをゴミ箱から拾い上げた。僕はセックスの最中に彼女に頼み毎をする事は後にも先にもきっとないだろう。元々気が強い彼女はベッドの上ではそれに意地悪が加わるから。
「気に入らなかったの?」
 サリーはメモ帳をひらひらと弄びながら、日本語で僕に問いかけてくる。
「そう」
「私、君が気に入らないって言う詩に限っていいと思ったりするの」
「君はどんなものでも大体いいと言っているよ」
「そうだった?」
 彼女はなぜか楽しそうに笑うと「アンソニーの腰の振り方が下手糞な事を詩にしてくれない?」と言い残すとシャワールームへと消えた。僕はそれを見送りながら、ベッドでぐったりとなっているアンソニーを見て苦笑し、きっと僕とのセックスもそうやって英語で彼に不満を述べているのかもしれないと思う。


 アメリカに渡って数ヶ月で、僕が探していたものは世界中のどこにもなく、空気の味は違えど、それが変化をもたらす事などないという事に気がついた僕はそれをなんとなく冷静に受け止めていた。失望がなかったと言えば嘘になるけれど、かと言って、思春期の頃に抱いていたイメージも二十歳を過ぎる頃にはとうに冷めてしまっていて、それでもこうやってやってくる事を選んだのは、結局現地では殆ど役に立たなかったもののずっと英語を勉強し続けた事とか、友人に就職せずアメリカに行くと宣言し、そんな事にちょっとした感動を覚えられたためそれを今更翻すのも気が引けたし、実際それのおかげで就職活動をしなかったため、日本に残ってもフリーターと言う選択肢しか残っておらず、それならもう行ってしまおう、と言う半ばやけくそのようなものでもあった。
 アンソニーと出会ったのは、そうやって僕がアメリカに期待することを諦め、それでも日本にはない光景を見つけては近くのベンチに腰掛け詩を書き連ねると言う行為を続けていた時だった。その日はどんよりとした空模様で家を出てから十分ほど経つとポツポツと雨が降り始めてきて、僕はあらかじめ持ってきていた黒い傘をさしながら歩いていた。特に目的地がある訳でもないその散歩は、目的地を見つけるための散歩でもあり、僕は十字路にぶつかっては左右を確認し、なんとなくよさそうなものがありそうだ、と言う曖昧な感覚を頼りにふらふらとさ迷っていた。そうしてしばらく歩いたところでさして大きくはないものの造りは頑丈そうな橋を見かけ、そこから見下ろすと川原が広がっており、僕はそちらの方へと行ってくる事を選んだ。
 普段は憩いの場として利用されているらしいそこはベンチなども用意されていたのだが、雨でびしょびしょに濡れてしまっていたため、座る事を諦めた僕はぼんやりと川を見つめながらメモ帳を取り出し、この風景を詩に、もしくはイメージの欠片にでもなればと、身近な単語を思いつきで書いたり、それは憂鬱な雨の日、などとペンを走らせていたところで「ヘイ」と声をかけられた。振り向くとそこには痩せた白い肌を持つアメリカ人が傘の下で僕に手を上げており、その手にすっぽり収まるサイズのデジタルカメラが握られていた。彼は少し恥ずかしそうにしながら僕のところへやってくると、
「Do you mind if I take a picture of you?」
 と言ってきて、その頃僕はまだ英語に不慣れだったため「What?」と聞き返すと彼は只単に聞こえなかったようだと判断し、もう一度同じ台詞を繰り返した。
 僕は「sorry」と言い「Once more please」と言うとようやく僕の言いたい事を理解してくれたらしく、ゆっくりとした口調に身振り手振りを加え、まずカメラを指差し、次に僕を指差すとシャッターを切る真似をした。
「あなたの写真を撮ってもいいですか?」
 ようやく僕はそれを理解し「Yes」と言ったのだが、彼がそれを聞くと残念そうな顔をしたので、僕はこういう時は「No」と返事をするべきだと言うことに気がつき訂正すると、彼は喜んでくれた。
 アンソニーは特に僕にポーズを要求する事もなく、カメラに視線を欲しがる事もなく、川のほうを見ている僕の写真を何枚か――そうは言っても僕は自然と固くなっていたかもしれない――カメラに収めると「Thank you」と言って僕に握手をしてきた。僕は持っていたペンをポケットにしまい、その手を握り返したがふと彼は僕が持っていたメモが気になったらしく、
「なにを書いてるの?」
「詩を書いてた」
「へぇ、日本語は美しいと言われているよね」
 僕は、使い慣れているそれが美しいかどうかは分からなかったけれど、どうもアンソニーはこの雨の中でたたずんでメモを取っていた僕にちょっとした興味を抱いていたようだった。僕もこちらで友人と言えるような友人はいなかったし、彼が「よかったら飲みに行かないかい? 詩とカメラと言う違いはあるけど、お互いこういう景色から誰も気にしないような事を探そうとしている者同士だ」と言う誘いにこれと言って断る理由も見当たらず、僕は首を縦に振った。
 こうして僕達は友達になり、ふと会っては僕の詩がどういう意味かを彼に英語で説明したり、彼が持ってきた写真を見せてもらえば、なにかのインスパイアが得られるかもしれない、と言う風に話し合う事もあれば、ただ浴びるほど飲んで二人で世の中ってのは下らないもので人間なんて矮小な存在だ、とバカ話をしたりもした。
 アンソニーは日常的に写真を撮っては雑誌にそれを投稿し、運がよければ掲載される事もあったけれど、普段は単なるアルバイトでしかなく、僕も近所で見つけたピザ屋で働いていたけれどあまり生活は楽ではなかった。
 そのため、アンソニーがルームシェアをしないかと提案をしてきた時、僕は「いいね、それ」と少しはましになった英語で二つ返事を返した。


 サリーと初めて出会ったのは、僕とアンソニーが家からそう離れていないバーのカウンターで写真を広げていた時だった。そこそこ混んでいた店内で彼女は僕達のすぐ傍の椅子に腰を下ろすと、僕の姿を認め「日本人?」と僕の母国語でそう聞いてきたが、そう言われても、僕は最初彼女が日本人だとは気がつかなかった。よく見れば彼女はやっぱり日本人的な顔つきをしていたのだけど、僕のようにいかにも日本人ですよ、と言う振る舞いがないためだった。だけどやはり日本人同士気が許せたのか、僕は彼女に「そうだよ」と返事をし、彼女がいつからこちらで暮らしているのかなど、自分達の生活の侘しさがどういったものかと話しているうちに彼女はいつの間にか僕の隣に座っていて、名前は沙里江で皆からはサリーと呼ばれていると聞いて、僕達もそう呼ぶことにした。アンソニーはよほど彼女のことが気に入ったのか、僕ごしに幾つも質問をしていて、それに彼女は流暢な英語で答えていたけれど、女性に対して質問ではなく会話をするのはどうやら彼はあまり得意ではないようだ、と言う事を僕はこの時に知った。
「サリーはどうしてアメリカに?」
「私、ダンサーなの。日本で踊ってたんだけど、もっと本格的に学びたいと思ってこうやってやってきたわけ」
 僕とは違ってしっかりと目的を持っている彼女は自分のダンスはヒップホップがメインで日本でもクラブなどで踊っていたけれど、こっちではちゃんとスクールに通っていて、色んなジャンルを学んでいきたいと目を輝かせていた。これでもアーティストのプロモーションビデオとかに出たりした事あるんだよ。まぁ、バックダンサーだし有名って訳でもないけど。
「君は?」
「僕?」
「そう、君はどうしてアメリカに?」
 僕はその質問に大げさに肩をすくめた。こちらにやってきてから何人かと親しくなったけど、その殆どに同じ事を聞かれては僕はそのジェスチャーを繰り返した。初めのころはそうするしかなかったのだけれど、今ではもう癖のようなもので、僕はいつものように「夢を見ていたんだよ、アメリカに」とバカみたいな台詞を言う事にしている。
「もう夢は見終わったの?」
「そう、君やアンソニーみたいに夢を追っかけている途中じゃなくて、僕はもう現実に目覚めたって感じ」
 嫌味でも皮肉でもなく、そういう僕を彼女は「じゃあ、その現実で君はなにをしてるの?」と見つめられ、僕はカウンターに広がる写真の一枚を手に取り、その風景を見て、彼女の方にも向けて見せた。
「夢も、現実も、どちらも楽しい」
 もう一度、写真をこちらに向ける。
「夢から醒めても、僕がいるのはアメリカで日本じゃない。僕が夢見ていたものとは違っても、想像もしていなかったものが転がっている事がある。それはアメリカじゃなくて、ふと見上げた空だとか、車が往来するのに苦労するような狭い道の片隅だとか、マイナスイオンとかよく分からないけれどそれがあふれているらしい噴水の傍に虹がかかった時にふと見つかったりする。別にそれらは日本でも見つかったかもしれない。僕の場合アメリカで見つかったと言うだけで、ここにいなきゃいけない理由もないんだけど、もしかしたらここで生活しているからこそ見つけられたのかもしれないと思いもするし、そう思うとね、僕が見てたのはある意味では悪い夢だったのかもしれないね。あの頃は確かに自分の夢に取り付かれていたけれど、こうやって目が覚めて現実を見つめた時、僕は安心をおぼえたりもする。あぁ、生きてさえいればどこにいたって求めるものは見つけられるんだなって」
 僕は酔っ払っていたためか、自分でもよく分からない事を彼女にくどくどと説明した。それでも彼女はなんだかそれを楽しそうに聞いていて、アンソニーが「彼は詩人なんだよ」と茶化すように言うと、サリーは「なにか私に詩を書いてよ」と僕の腕をとっていた。僕がその時彼女のために詩を書いたのか書いていないのかは覚えていないけれど、連絡先を交換し、それから何度か食事をしたり、彼女のダンスを見せてもらったり、アンソニーが彼女をモデルにして写真を撮ったりしている内に、彼女は僕達の部屋に入り浸るようになり、それが自然になる頃には彼女は元々住んでいた部屋を引き払ってしまっていた。


「ダイニングテーブルは大きいものが欲しい」
 そう言ったのは僕で、三人で使用するには立派過ぎて、ジャンクフードだけをそこに広げると半分はまだ余りそうなそれをある日購入する事にした。二人は部屋の四分の一位を独占してしまうそれに最初は難色を示していたけれど、僕が頑として聞かないので結局諦めるしかないと言う事に気がついたようだった。
 どうしてそんなものが欲しかったのか、とサリーに聞かれると「ゴチャゴチャしてしまってもまだ余裕があるような、そんなテーブルが欲しかったから」と言うと彼女は「テーブルのせいで部屋がゴチャゴチャになるわ」と苦笑していたけれど、僕が椅子に座り、食事をしながらノートを広げていると反対側に腰掛けて、皿をよせながら僕のノートを奪い取ろうとする彼女はなんだか楽しそうでもあった。
 そんな生活の中で、彼女とセックスを始めたのはアンソニーの方だった。僕が聞く事をしなかったのでいつ頃からそうしていたのかと言う事は知らないけれど、きっと僕がそれを見た時はまだほんの数回しか行われていなかった事は間違いないだろう。僕があの時気がつかなかったとしても、アンソニーの性格なら近いうちに打ち明けていたはずだし、サリーはきっと、隠すつもりなんてさらさらなく、そもそもそれまでも特に僕に内緒にしていると言う意識などなかったはずだから。
 その日、僕は予定よりも早くピザ屋での仕事を切り上げる事になった。どういった事か注文がさっぱり来なかったのだ。チーフはかぶっていた帽子を脱ぎテーブルの上に放り投げると「あぁ、もう、今日は帰っていいぞ」と僕に言い、僕は「サンキュー」と返して、アパートへと戻る事にした。その時、寄り道などして予定通りの時間に帰ってさえいれば、僕はあの時ああいうショックを覚えないで済んだのかもしれない。だけどそれは早いか遅いかと言うだけの違いでしかなく無駄な思いでもある。そう、それはきっと夢をいつまでも見続けてはいられないと言う事と同じで。
 まっすぐ家へと帰ってきた僕が見たのはなにも身にまとっていない全裸の二人で、印象に残っているのはサリーの腰を突かれる度に聞こえてくる喘ぎ声よりも、普段は大人しいアンソニーが我を忘れたかのように早口でなにかをまくし立てていた事だ。二人は――と言うかアンソニーが――僕がそこにいることに気がつくと、ぴたりと動きが止まり、僕達はしばらく無言で見つめあったが僕に出来たのは「Sorry」と言う事だけだった。他になにが言えるだろう? その時僕は二人は付き合っているのだ、と思ったし、もしそうなら僕がここにいるのは邪魔以外の何者でもない。いつの間にか床に落としてしまっていたバッグを、僕は拾いなおすと緩慢な動作で部屋を出て行った。この安アパートには当然エレベーターなんてある訳もなく、僕は再び長い階段を下りきった頃、上からアンソニーが走ってきて僕の肩を掴んだ。
「待ってくれ、誤解なんだ」
「誤解ってなにがだよ。別に二人が付き合う事に文句がある訳じゃない」
「……付き合ってるわけじゃないよ」
 それをアンソニーはぽつりと言った。そう、ぽつりと。
「セックスフレンドか? そうだとしても僕がなにかを言える立場ではないだろ? ちょっと動揺はしたけれどね」
「怒ってるのか?」
 どうだったんだろう。分からない。
「怒ってないよ。僕は彼女と付き合ってるわけじゃないし、当然ゲイでもなけりゃ君に嫉妬してる訳でもない。ただこうする以外の行動が思いつかないだけさ」
「とにかく部屋に戻ってきてくれ。サリーも話をしたがってるはずだから」
 僕は憂鬱でしょうがなかったけれど、決して腕を放そうとしないアンソニーに引きずられるようにして短時間のうちに三度も階段を昇る羽目になった。戻ってきた部屋でサリーは服を着ていたけれど、僕が戻ってきた事にほっとしたような顔をしてから「ごめん、ちょっとシャワーだけ浴びさせて」と言い僕達の横を通り過ぎた。取り残されたアンソニーは片手で顔を覆うとシーツがずれたベッドに腰を下ろし、僕はダイニングテーブルにもたれるようにして彼女が戻ってくるのを待ち、その間アンソニーはたまに舌打ちをしては僕の方を見て「本当に悪かった」と言ってきたけれど、僕はそれに対して本当にどう返事すればいいのか分かりかねて、思いついたのは「oh my god」だった。
 彼女が戻ってくると僕は「二人で暮らした方がいいんじゃないか?」と言ったがアンソニーは首を横に振った。
「だからそういう関係じゃないんだ。それに僕は君と生活していてとても楽しいし、出来ればこれからも三人でやっていきたいんだよ」
「じゃあ、どういう関係?」
「したかったからしたの」
 サリーは悪びれる事無く、そう言った。そして日本語で「今度やろうよ」と微笑まれ、僕は「冗談だろ?」と彼女の上半身タンクトップだけであらわになっている胸元を一度見たものの首を振った。
「こんな生活しててそうならない方が不自然じゃない?」
「君がそう思うのは、君の価値観だ。それに君はアンソニーとした。その君が今度は僕とやろうだって? そんな生活がありえたとして、うまくやっていけると思っているのか?」
「うまくいくよ」
「どんなふうにだよ!」
 僕は思わず叫んでいた。僕達の会話について来れないアンソニーはただおろおろとするばかりで口を挟んでもこず、一体僕は今なにに対して叫んでいるのかさっぱり分からなかった。ただ、この時は彼女の事を煩わしい、とか苛立たしい、とか確かにそう思っていた。
 そして、僕が今怒っているのは、現実が壊されかけている事にだと、気がついた。夢とは違う現実。夢は終わった時、目覚めるだけでしかない。だが、現実が壊れてしまった時、僕達は、どこに行けばいいと言うのだろう。夢の終わりの現実、そして現実の終わりの先など、なにがあると言うのか。
「僕と君は違う。君はきっといつも夢を見ていて、きっとこの暮らしも夢のようなものだと思っているんだろう。だけど、それは違う。これはあくまでも現実で、そこには夢のようにいつも都合のいい展開が訪れるわけじゃない。君はそれを忘れて、ただ自分が楽しいと思える事だけをしている。いいか、ここは夢の世界じゃない。主人公は君じゃない。皆それぞれの生き方があって全て君の思い通りになる訳がないんだ」
「私を誘ったのは、アンソニーだよ」
「それを受けたのは、君だろう」
「私は、君としたいな」
「僕はお断りだ。せめてアンソニーとけりをつけてからそういう話はするべきだ」
「待ちぼうけくらう女の子の辛い気持ちを考えてよ」
 僕は、彼女が言おうとしている事が単なる僕への好意でしかないような気がして頭痛を覚える。
「アンソニーの身になって考えてみろ。単なる慰み者にされて誰が喜ぶ?」
「アンソニーは喜んでるよ、私とやれて」
「なら彼が君に対して抱いているかもしれない好意を踏みにじるような事を言わないでくれ」
「日本人は頭が固いのよね」
 君だって、日本人だろう。
 僕がそう言おうとするのを彼女はすぐに分かったようだった。そんな彼女がとった行動はただ人差し指を自分の唇にそっと添えるだけだったが、僕はそれで、確かに口をつぐんでいた。
「君だって、最初はアメリカに夢を見てたでしょ? 一度目覚めても、また眠ればいいだけじゃない。夢に終わりなんてないでしょ? 君が昔見てた夢とは違う夢を、このアメリカに見てもいいんじゃない?」
「なにを言って……」
「だって、ここはアメリカだよ?」
 詭弁だ。僕は何度か自分にそう言い聞かせようとした。それは彼女が僕をうまい言葉でだまくらかしてこの場を丸く治めようとしているだけの戯言で、日本だろうとアメリカだろうと生き方に違いなどない。だけど、僕はそれを言う事は出来なかった。僕はそれこそが、自分を騙そうとしているのだと言う事に気がついてしまっていた。
 夢を見ていた。僕はいつからかそれをやめて、現実の中に生きる事を選んでいた。心のどこかで夢を見る事を願いながら。
 こうなる事を想像していなかった訳じゃない。ただ、その想像とのぶつかり方がこういう形だったと言うだけで、それを越えた後の事は、結局決まっていたのかもしれない。
「……サリーはどうしたいんだ」
「楽しくやっていきたいだけ、三人で」
「僕にどうして欲しいんだ」
「今までどうりでいいよ」
 僕は諦めた。彼女に分かったと告げ、アンソニーに「もう問題は片付いた」と告げると、サリーは笑顔を浮かべ、僕の頬に軽くキスをし、アンソニーにも同じ事をする。そして僕達は数日後アンソニーのいない部屋でセックスをし、アンソニーにそれを告げると彼は複雑そうな表情を浮かべたものの、翌日には僕達は三人でダイニングテーブルを囲んで一緒に夕食をとり、何事もなかったように振舞った。そのような生活がしばらく続き、いつの頃からかアンソニーはサリーとセックスをする時、僕に見られる事を気にしなくなり、僕とサリーがしている時、アンソニーはそんな僕達の様子をカメラを構えてシャッターを切るようになった。サリーはそうやってカメラを向けられると喜ぶようにそちらの方を見ては舌を出して見せたり、自分の恥部を広げていた。僕はそうやって撮られる事に今に至るまで好きには慣れなかったのだけど、アンソニーはその写真にいやらしさよりも、芸術性を――僕にはさっぱり理解出来なかったけれど――求めていたようで、僕もふとそれを真似するように二人がベッドの上で乱れている様子を見ながら、ダイニングテーブルにノートを広げてみる事にした。
 アンソニーの腰が動くたび、彼女の黒い髪が波打つたび、アンソニーの荒い吐息が聞こえるたび、彼女の恥部から擦れる音が聞こえるたび、僕は生命の神秘だとか、夢だとか、猥褻さの中の美しさだとか、そういったものを書き綴り、そんなもの全て誤魔化しだと破り捨てた後、新しいページに「LOVE, LIKE,LIFE」とだけ書き、ノートを閉じた。


 その日、アンソニーは部屋の窓から身を乗り出してそこから見える風景をカメラに収めていた。僕はダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら彼が買ってきた雑誌に目を通していた。その雑誌にはアンソニーが投稿し、僕も以前見せてもらった事のある風景写真がページの半分ほどのサイズで載せられていて、ドッグイヤーがついたそのページをアンソニーは部屋でぼんやりとしていた僕の前に自慢げに広げてみせた。彼が言うにはその雑誌はなかなかアマチュアの間では有名らしく、これだけ大きく取り上げてもらえるのは、それだけ認めてもらえたと言う事なのだ、と言う早口な説明を受け、僕は「素晴らしい」と彼と軽く抱擁し合った。アンソニーの興奮はそれでも収まりきらなかったようで、部屋の中で何度か「よし!」とか「最高だ!」と言いながらうろうろとすると、カメラを取り上げ窓のふちに肘を乗せて、それ以上の光景を探し出そうとしていた。
 僕はそんな彼を微笑ましく思いながら雑誌をめくっていると、疲れた様子のサリーが帰ってきて僕が「おかえり」と言うと彼女は「うん」とだけ短い返事をして乱暴に持っていたバッグを足元に放り投げた。アンソニーはカメラに夢中になっていたためかそんな彼女の様子に気づかず、テーブルに置かれていた雑誌を取り上げると、自分の写真が載っているページを開いて、彼女に見せようとし「ねぇ、聞いてくれよ、サリー」と声をかけたが、それよりも先に「うるさい、ほっといてよ」と言うサリーの低い声を聞いて黙り込んでしまった。
「ごめん」
 彼女は実際はとてもそう思っているとは思えない口調で、それだけ言うとストレスをそこにぶつけようとしているかのようにベッドに転がり込むと、それきりピクリとも動かずただただ天井を見上げて、時折舌打ちを繰り返した。アンソニーはそんな彼女の様子を見てうろたえていたが、僕が「ちょっと虫の居所が悪いんだろう。そのうち収まるさ」と言うと、相変わらず不安そうではあったものの「ちょっと外に出てくるよ」と言い残し、カメラと共に部屋から出て行った。
「どうしたんだ?」
 僕が彼女にそう尋ねたのは、アンソニーが部屋から出て行き、雑誌を適当に読み終え、二杯目のコーヒーを飲み干した頃だった。その頃には彼女の怒りも多少は収まっていたようで、ベッドから半身を起こすと「もう、いやになっちゃう」と言いながら着ていたジャケットを放り投げ、シャツとスカートも脱ぎ捨てて下着姿でクローゼットへと向かい、部屋着に着替えると、僕の隣に椅子を引きずりながらやってきた。
「あんた、才能ない、だって」
「スクール?」
「そう」
 彼女はテーブルにその身を投げ出した。小柄な彼女の身体はどれだけ伸ばしてもダイニングテーブルの半分ほどにも届かず、彼女はその場で右に左にと頭を這わせていた。
「本当に才能がなければ、もっと早く辞める事になっているはずだろう?」
「分かってる。怒られるのも仕方ないって事でしょ。でも、むかつくの」
「だけど、やめないんだろう?」
 僕はその時「まぁね」と言うような返事をすぐに彼女が返してくるものだと思っていたのだが、意外にも彼女はしばらく沈黙する事を選び、そして「なんでそう思うの?」と逆に尋ね返してきた。
「だって、ダンサーになるのが君の夢じゃないか」
「夢を見続けたって叶わない事もあるわ」
「それはそうだけど」
 僕は彼女がそんな事を言うとは思っていなかったので、どう言うべきか計りかねる。
「君みたいに夢を見るのを自分からやめなくても、誰かに叩き起こされてしまう事もあるのよ。その時、もう一度眠りに落ちるか、そのまま起き続ける事を選ぶかしないといけない」
「夢を捨ててまで、現実に戻る事が正しいとは思わないけれど」
「夢は所詮夢でしかないと、思い知るのなら、さっさと目を覚ました方がいい事だってあるわ」
 テーブルにつっぷしたまま、彼女はこちらを見ると、テーブルに置かれてある僕のノートを手に取った。適当にページを開き、彼女はそれをしばらく見つめふぅ、と吐息を零すと改めて僕の眼を見つめる。
「ねぇ、私君が詩を書いてる時の横顔がすごく好きなんだけど、気付いてた?」
 それに「いや」と言うと彼女は僕の手を取り何度か撫でると、その手を今度は僕の股間の方へと伸ばしてきた。彼女の目は少し濡れたように潤んでいて、いつもは強気な彼女のそういう表情を見る時、僕はいつも彼女は強いのか、それとも弱いのか、と考えていた。
「いつも見てたのに」
「そんな風に、濡れた目で?」
「うん」
「僕も、その濡れたような目をした時の君が好きだよ」
「本当?」
「本当」
 アンソニーはよほどいい景色でも見つけることが出来たのだろうか。なかなか帰ってくる様子がなかった。僕達はベッドまで行くのもわずらわしいと言うようにダイニングテーブルの傍で身体を重ねあった。彼女がテーブルにその身を投げ出し、僕が後ろから彼女に侵入するたびに、サイズと頑丈さだけが取り得のそれは床と擦れて、低い音を立て、彼女の中の濡れてじわりとした粘膜の卑猥な音と混ざり合った。
「ねぇ」
「なに?」
「アンソニーは君の事を愛しているんだと思う」
「困るね」
 行為が終わり、シャワーを浴びた彼女はベッドに寝転がっていた僕の傍にやってくると、僕の唇や、胸や、腕に軽いキスを繰り返しながらそう言って笑った。実際その言葉に重みを感じる事はなかったし、その言葉の意味も、彼の想いに対してと言うよりは、この生活が成り立たなくなるかもしれない、と言う事に対してのものだったように思う。
 何十回かのキスがようやく収まって、最後に彼女は僕の頬に唇をくっつけると、僕の身体に腕を回し眠ってしまい、僕は結局のところ、なにも変わらない、そんな風に思った。
 そのため、数日後、彼女が僕達の前から簡単な書置きを残して姿を消してしまう事なんて想像もしていなかったし、一体彼女がどこに行ったのかと言う事もまるで検討がつかなかった。
 取り残されて、呆然としたアンソニーを見ながら、僕はどうして彼女はここからいなくなったのだろうかと考え、彼女がいなくなって半年程になる頃「彼女は夢を見るのをやめた」とノートに書いた。


「サリー、どこに行ったんだろうね」
「さぁ」
 そういうアンソニーに苦笑交じりにそう応えた。彼は今になってもふと彼女の事を思い出しては、哀愁に浸る事をやめられずにいて、僕はそんな彼の事を純粋で可愛らしいと思う。
「君が有名になって、雑誌やテレビに出るようになったら、彼女に呼びかけてみたらいいんじゃないか?」
「やめてくれよ、そんな夢みたいな話」
「夢……か」
 僕はそう呟き、ダイニングテーブルから窓の外を眺めた。
 アンソニーは相も変わらずカメラで写真を撮り続けては投稿を繰り返している。結局サリーと最後にセックスした日に見たあの雑誌の写真以上に扱われる事はあれからなかったけれど、それでも彼はまた自分の写真が誰かに認められる日が来る事を信じ、夢見ている。
 それはきっと素晴らしい事で、彼の見ている夢の形がどんなものなのかを、僕はまだ掴み切れていないのだけど、彼の中では確かに一歩ずつでも近づいているのかもしれない。
「サリーは、どこで夢を見てたんだろう」
 それは日本語で、しかも囁くような声だったため彼には聞こえていないようだった。
 あの日、ダイニングテーブルで僕を濡れた目で見ていた彼女の事を僕は時折思い出す事がある。そして近頃になって、僕はきっと彼女が夢を見ていたのは、この部屋の中だったのだろう、と思うようになっていた。
 彼女にとっては、アメリカも、ダンサーになると言う事も、スクールでの葛藤も、全て須らく現実でしかなかったし、結局そこに夢なんてものはなかったのかもしれない。彼女が夢を見ることが出来たのは、その全てを忘れて、僕とアンソニーがいて、いかれたベッドと、出の悪いシャワーと、部屋のサイズに到底見合ってないこのダイニングテーブルのある湿気た部屋で、恥じらいもなくセックスに溺れる事が、彼女が見ていた唯一の夢の光景だったのかもしれない。
「ねぇ、サリーはきっと君の事が好きだったんだよ」
 アンソニーが溜め息を吐くようにそう僕に言い、僕は「どうかな」と首を振る。
 僕は最近買い換えた新しいノートの先頭のページを開いた。そこには「夢は夢のままで」と書かれている。きっとそれを書いた時の僕は、そう書く事で彼女の事を忘れようとしたのかもしれない。
 彼女はどんな夢を見ていたのだろう。そしてなにをきっかけに夢から醒めたのだろう。
 アンソニーが彼女を愛してしまった事。
 彼女が僕を愛してしまった事。
 僕も彼女を愛してしまい、アンソニーに罪悪感を持ってしまった事。
 ただ、気の向くまま行われていたはずのセックスに意味が生まれようとしていた事。
 夢のように、ずっと今が続くと思っていた事。
 アンソニーがコーヒーを僕に渡し、礼を言いながら、それを口に含んだ。自分で入れたものよりも、少し苦いそれは、夢から目を覚ますにはピッタリで、僕は真新しいページを開き、ペンをくるくると回して弄んでから「Scenery that she saw」と綴った。
Night and Round


 綺麗な月を見て、思い出すのはあの頃の事。
 帰りたくなるよ。逃げ出したって言うのに。
 いつの日か終わりはやってくるのだろうか。
 あぁ、君に会えたらいいのに。だけど今は会いたくないよ。


 小さな部屋から、綺麗な庭へと。
 走り出した君を見て、僕は泣き出す。
 あの頃に帰れない。あぁ、暗い部屋の中へ。


 乾いた鈴の音。揺らめく陽炎。
 言葉は全て消える。
 彼方でおぼろげに囁く夢想の調べ。
 僕の心乱す。


 貴方へ差し出すこの手の儚き体温も。
 やがて消えて堕ちる。


 あぁ、凍えていきそう。眠りに堕ちよう。
 心は腐っていくよ。
 あぁ、繋いでくれたら、赦してくれるなら。
 心は目覚めるから。


 静かな部屋から、解き放たれた。
 君をまた失う事。分かっていた、のに、ねぇ。
 変われない抜け出せない、君の手に触れない。
 静かに蹲って、あぁ、夜を待つ。
80, 79

  

深い海


 浮かぶ人間と浮かばない人間の違いはなんでしょうか?
 僕はそれに、体脂肪の多さによる、と答え、君は、
 生きている人間は浮かんで、死んだ人間は沈む、と答えた。


 ある日、近所の海に飛び込んで自殺した男がいた。
 彼の名前はニュースで何度か目にしたが覚えるところまでは行っていない。
 自殺、と言うのはその彼が飛び込むところを目撃した人がいたからで、実際はまだ彼が死んでいるのかどうかは分かっていない。
 遺体が上がっていないからだ。
 僕と彼女は、きっと海の底に沈んでしまったから見つけられないんだよ。
 そう言って、きっと海の底で遠い遠い何処かに流されて、やがて流れのない場所へ辿り着き、底で静かに腐り、魚の餌になって姿を消すんだ、と話し合った。
 いつか私達が彼の一部を食べたりする事があるかもね。
 おぞましいと思うけれど、深い海に触れた人間の肉の味はどんなものだろうと興味を抱いたのも確かだった。


 僕と彼女は海が好きだった。生命の源。
 人間は猿から進化したと言うけれど、それを更に単細胞生物へと遡り、そしてそれらは海より生まれたと言うなら、僕達は遠い遠い昔、海と言う大きな一つの存在から枝分かれしただけで、元は一つなのだと思えた。
 海沿いを犬を連れて散歩しているあのおじさんとの間に主従関係が存在していたとしても、すいと空を横切った水鳥が急降下して捕らえ丸呑みされる魚も、こうして今手を繋ぐ事でお互いの存在を感じている僕と彼女も、本当はそんな事する必要なく元は一つの命なのだと僕が言うと、彼女は、
 まどろむように、溶けて混ざり合うことが出来ればいいのに。
 と僕の肩に頭を乗せた。どうにかしてそこから僕の中に入る事が出来ないだろうかと言う風に。


 深い海の中に二人で行こうか。
 どちらともなく、そう決めた。僕達は荷物なんてなんの必要もなかったけれど、彼女がいいねと言ってくれた服を僕は着た。彼女はどことなく海の色と似たワンピースを着て、僕がやってくるのを堤防に腰掛けて待っていた。
 夜の海って静かだね。
 そう彼女が微笑み、
 海の底はもっと静かだよ。
 と僕が返すと、
 じゃあ、これから君とお話しする時は囁くようにしないといけないね。誰かに聞かれたら恥ずかしいから
 彼女に並んで座った僕の腕に彼女の腕が絡まる。
 その必要はないよ。僕達は一つになるから、もう声を必要とする事なんてない。
 残った手で彼女の頭を撫でると、彼女はいやいやと言うように首を横に振る。
 それでも、君の声は聞いていたいな。
 大丈夫。音とならなくても、僕の声は君の中に存在するし、僕と君と言う存在がなくなって僕達と言う一つになるだけだから。
 安心した。


 どぽん、と言う音を聞き、僕と彼女は無数の泡に包まれながら想像していたよりも暖かい海の中へ飛び込んだ。
 僕は彼女と離れてしまわないように彼女の身体を強く抱き寄せる。
 海が、僕の中に侵入する。
 それはおかえりと言っているように聞こえる。
 僕の脳の活動が鈍くなっていく。神経が分断されたように身体のコントロールを失っていく。
 死。
 彼女の腕が苦しさから逃れるように、更に僕を強く抱きしめようとしていた。
 僕は僕達を包む海ではなく、僕の中に入り込み、僕と同化した海を彼女にも与えようとその唇に触れようとする。
 そして、僕は彼女の瞳から、青い海の色とは違う、透明の液体が零れるのを確かに見た。
 ねぇ、僕の声が聞こえる?
 彼女の唇に、触れる。
 僕達は海の中に還ろうとした。海の中に沈み、君と混ざりたいと思った。だけどそれは間違いだった。
 透明の液体は、ゆっくりと水面へと上昇していこうとしている。
 僕達がやっているのは、融合だ。海に好みを捧ぐのではなく、等しく混ざり合おうとしているんだ。海は僕達の母ではなく、兄弟だったんだ。そして僕達は、二度と離れる事のない、家族になる。
 ねぇ、私達深い海の底で、静かに繋がり続けていられるよね?
 そう彼女が言ったような気がした。


「彼らは、死に損ねた」
 取り残された男は生前の二人がよく口にしていた台詞を思い返しそう言うと、二人の遺体から目を逸らした。
 彼らは浮かんできてしまった。彼らの生死の境界線は、心臓の停止ではなく、海の底へと沈む事であり、決してこの火葬場で灰と化し、粉となってしまう事ではなかった。
「……人は、空に還るもんだろう?」
 そう呟きながら男は煙突から昇る黒い煙を見上げ、その遥か遠くにある青い空を見つめる。
「今、生きているとして」
 男はぼんやりと呟く。
「もう、二度と溶けて交じり合う事は出来ないのか?」
 風が、僕(私)達を海へと届けてくれるだろう。
 ふとそのような声を聞いた気がして、彼ははっと振り向いたが、しかしそこになにかを見つけることはなく、ただ名前も知らない花が風に吹かれ小さく揺れているだけだった。男は小さく嘆息すると、
「それでも、死んだんだ、彼らは」
 と悔やむようにそれだけ言い残し、その場を後にする。


 ねぇ(あのね)、僕(私)達は、静かに(静かに)ゆっくりと(穏やかに)、
 海へ(あの静かな海で)、還る日を(眠る日を)、
『待つ』
Erectronica Another Sky



 電脳の世界で僕達は白い吐息を零す。演算処理によって吐き出されるそれは、確かな質量を持ち、そして消える。
「綺麗だね」
「うん」
 僕のすぐ傍で頬を少し赤くしているラピュラスと言うハンドルネームを持つ少女に返事をする。
 彼女も僕と同じように現実の世界では深い眠りの中にいる。それは僕達だけではなく、この世界の住人全てに共通している。
 僕達はコンピューターによって作られた街並みの中で、現実と同じように人波を掻き分けながら並んで歩く。
「ねぇ、シリウス、なにをしようか」
 彼女が僕のハンドルネームを呼ぶ。
「そうだねぇ、宇宙にでも旅行に行ってみようか」
 不可能な事はなにもない。この世界では。
 

「エレクトロってそんなに凄いの?」
「凄いよ」
 僕は今更そんな事を聞いてくる柏木頼子に呆れて、やれやれと首を振った。
 正式な名称はエレクトロニカワールド。
 ネットゲームの大手企業が開発したそのゲームは世界中で爆発的な売り上げを飛ばしていた。パソコンのモニターを介す事無く、USBに接続するヘッドバンド型の測量機が個人の脳を電波によって情報化し、データ化され、最適化を行い、電脳の世界の中で再構築される事によって、現実のようなリアリティと、現実にはありえない事象が共存した世界――それの全体をエレクトロワールドと呼ぶ――に僕達は存在を置く事になる。
 発売当初は危険性など――特に脳に送る電気信号――が強く唱えられたが、メーカー側のそれを「購入しプレイするためには指定された病院で診断を行い、プレイに問題がない場合のみIDが配布される」と言う発表を出し、それによって押し切ったような販売と、発売当初に購入したユーザー達から好意的な意見が相次いだ事などによって、徐々に売り上げを伸ばし、半年も経つとあれだけ危険だと訴えていたニュースでも取り上げざるを得なくなり、今では乗り遅れた人達が早くプレイしようとするために病院が診断を求める予約でいまもてんやわんやしているらしい。
「なにができるの? そのゲームで」
「なんでも出来るよ。ロールプレイングゲームみたいにレベル上げをして現れる敵を倒したり、そんな事せずに街をぷらぷらとしてスポーツをしたり、火星に行って家を建てる事も出来るし、スキルを使えば空を飛ぶ事も出来る。犯罪だけどアイテムを現金で取引したりしてる人もいるね」
「ふーん」と元々機械オンチな彼女は分かったのか分かっていないのか判断しかねる返事をし、しばらく考えて、
「面白いの? それ」
「面白いよ」
 と聞いてきたので、僕はすぐに頷き、そして耳打ちした。
「僕はいいんだけどさ。あんまりエレクトロを好きな人の前でゲームって言わない方がいいよ。彼らはこれをゲームなんかじゃないと思ってたりするから」
「じゃあ、なんなのよ」
 僕はそれに苦笑をし、ネットや、僕がベースにしているアウラと言う街で聞く事が出来るその言葉を口にした。
「リアル」


 その日、アウラでハヤトと言うプレイヤーから奇妙な話を聞いた。
「アカウントを抹消されたって言ってる人がいるんだよ。ログインしようとしてもダメだって」
「課金してないだけなんじゃないの?」
「ネットで見ただけだから詳しくは分からないけど、そういうんじゃなくて、いきなり落ちたと思ったらそれからもうログイン出来ないらしい」
 話を聞いていると不正行為などを働いた覚えもなく、まったく見当がつかないようだった。サーバーの不良かなにかじゃないか? メーカーには問い合わせしたのか? そう尋ねると、
「それが今のところ問題はないってさ。けど俺もいきなりログインできなくなったりしたらやだよな」
 と腕を組んだ時に、声が聞こえた。
 マナーを守るために基本自分達の言葉は、一定の指定した人物だけに聞かせたり、もしくはある程度の範囲を選択するようになっている。そうしないと全員の声が耳に入ってきて、行いたい会話が成立しないからだ。僕達も今こうやって直接会話をしているように見えても、実際はまず伝えようとする言葉を機械が処理し、ハヤトの言葉は僕にのみ音声として届けられ、僕はそれを聞き、彼の言葉を理解している。そしてその言葉が僕だけに向けているものなのか、それとも全体に聞かせているのかと言う事もデータの性質ですぐに理解する事が出来る。
 そして今聞こえたその声は僕に向けられたものではなく、かなりの広範囲に行き渡るように設定されていた。あくまでそれは設定のため、彼は大声を出していた訳ではなかったのだが、そのポツリと呟いた台詞をかなりの住人が聞いたはずだった。
「あれ? なんか、おかしい。処理落ちか? 世界が緑色……」
 僕は声の主がどこにいるのか探そうとしたが、あまりに広範囲のため、自分の近くにいるのかどうかも分からなかった。ただ、声はそれだけで途切れ、それきり聞こえなくなってしまい、ハヤトと目が合うと彼はなんだろう、と言う風に首をかしげた。
「フリーズかな?」
「そんなのわざわざ全員に伝えなくてもいいのにな」
 僕達は軽く笑い合うと再び歩き出した。
 そうして周りに対してあまり気を払う事をしなかったため、僕もハヤトも気がつく事がなかった。
 ただ、声を全員に向けて届かせようとしたのが彼だけだったと言う事に。
 会話の途中。
 始めたミッションの最中。
 優雅に空を舞い、目的の場所へと向かおうとした直後。
 そんな、普通ならありえないタイミングで、何人ものプレイヤー達がこのアウラから、そしてエレクトロワールドから唐突に、そして忽然と姿を消していっていた事に。


 なにかおかしいぞ、と言う噂が僕の周りでも飛び交い始めた。
 ――俺のフレンドが全然ログイン出来ない。パソコンは正常だって。メールとかで連絡は出来るし、エレクトロに行く事だけが出来ないって。
 ――俺いきなりログイン出来なくなった。マジ原因不明。ふざけんな!
 ――なんでこうなっちゃったの?
 ――俺、フレンドと次の約束してたのに……どうしてくれんだよ!?
(どうなってるんだ?)
 僕はパソコンの画面を見ながら、なにか書き込もうと思ったものの、キーボードをこつこつと叩いただけで、結局なにも書くことが思いつかず画面をスクロールさせる事しか出来なかった。どうやらハヤトが言っていた事は本当のようだ。しかもメーカー側ですらどうしてこんな事になっているのか分からない、と言っている事がニュースによって流れ、僕達エレクトロの住人は恐々とした思いを抱いて事態を見つめていた。
「僕達のリアルを返せ、か」
 僕は画面上に表示されていたその言葉を思い出し、苦笑いするしかなかった。
 エレクトロをリアルと呼んでいた人達の中に本気でそんな事を思っていた人はどれくらいいるのだろう?
 そしてその本当の世界から追い出されてしまった人達はどれくらいいて、今なにを思い紛い物となったこの世界でなにをしているのだろう。
 ラピュラスは大丈夫だろうか。
 僕がそんな事を思っていると柏木から連絡が来た。買い物に付き合ってくれないか、と言われどうせ暇だからと付き合う事にし待ち合わせ場所に向かうと、先に来ていたらしい彼女が僕に向かって手を振った。
「遅いよ」
「急に呼び出してそれはないだろう」
 彼女ははいはいと言って「ゲームみたいに空を飛んでくればいいのに」と、今はそれどころではないのだがそんな事知りもしない彼女のぼやきに「確かにそうだ」と頷くと少し不機嫌そうな顔をした。
「まだゲームやってんの?」
「やってるよ」
「ゲームの中でさ、なにかを得てもゲームの中だけのものだと思わない?」
 その言い方に僕は思わずむっとする。
「なんだよ、それ」
「そのゲームがどれだけよく出来てるのか知らないけど、外に出て自分の足で色んなところに出かけた方が楽しいと思う」
「ゲームはゲームだよ、そんな事分かってる。その上で楽しんでるんだ。君にああだこうだ言われる筋合いはないね」
「自殺してるような人がいるゲームだよ?」
「それはゲームのせいじゃない。そいつのせいだ」
 僕はぴしゃりと言い放つと彼女ははぁ、と深い溜め息を吐いた。彼女だって今エレクトロがどんな状況かは少なかれ知らない訳はなかった。追い出されたユーザーの一部は責任追及のためにそのメーカーのビルの前に集団を作り座り込みをしたり、彼女の言ったように自殺した例もある。
 だが、それはあくまで一部だ。
 それでも、もしこのままユーザーの殆どがエレクトロから追い出されたとなるとその数は更に増えるだろう。それはきっと今までにない規模の問題になるだろうし、もしそうなった場合今後正常に戻ったとしてもなんらかの制約が加わる可能性は大いに孕んでいた。
 僕と柏木は口論のせいで殆ど口を利かず、買い物を早々に済ますと解散と言う流れになった。
 ただ途中「きっと私みたいにあのゲームの事嫌いな人もいるんだよ」と呟いた彼女の台詞がやけに僕の耳に残っていた。


 お前達、こんな紛い物の世界で幸福を手に入れたつもりか?


「なんだよ、これ」
 ログインして、僕は目の前に広がる光景に唖然とし、そう声を出した。
 僕が今いるはずのアウラは以前ログインした時に存在していたはずの街並みを全て失いつつあった。目の前に広がるのは、もはや表示能力が崩壊したとしか思えないどこまで行っても暗闇の世界で、その中にかろうじて見られたのは、建造物の外装を取り払われ柱だけになり、そしてそれも腐り朽ちようとしている淡い光を持つぐにゃぐにゃと規則性を持たない緑色のラインが無数に走っていた。
「乗っ取られたんだ」
 僕はその声にはっとして振り向く。周囲には僕と同じように事態を理解する事が出来ないユーザー達が不安そうな表情を浮かべていて、先ほどのせりふはその中の一人が発したものだった。
「やっぱり本当だったんだ。ハッカーがこのエレクトロを狙ってたって言うのは」
「ハッカーだって?」
「なんでかは知らないけど、少し前から噂になってたんだよ。ユーザーが消えていくのもそいつのせいだって話が出て――」
 彼が言えたのはそこまでだった。この暗い世界に食われたかのように、音もなくその姿を忽然と消した。
 僕は戦慄と恐怖を覚え、ここから逃げ出すべきだと思いログアウトしようとしたが、それよりも早く、誰かが「あれ、なんだ!?」と空を向かい指差し、僕はそれに誘われるように虚空の闇を見つめ、息を呑んだ。


 お前達、こんな紛い物の世界で幸福を手に入れたつもりか?


「なんだ……あれ」
 その文字はこの崩壊した世界の上空を切り裂くようにして存在していた。
 僕を含めた全員が、その文字を見上げ、ぽかんと口を開けていたり、悲鳴を上げてその場にうずくまったり、どこかに逃げ出そうとしている。
 そしてそのざわめきの中で、新たな言葉が浮かび上がろうとしていた。


 リアル? 本当の世界で居場所をなくしただけだろう


「おい、おかしいぞ! 空が飛べない。俺だけか!? くそ!」
 誰かが叫んでいる。僕は自分の頬に手を添えた。その肌には汗一つなく、のっぺりとした感触だけがあり、その異常さに僕ははっとした。
 僕達自身の処理すら正常に行われなくなってきているのだ。


 救いを得たつもりか? 理想を手に入れたつもりか?


「うわああ!」
 誰かの悲鳴が上がる。そちらを振り向くことが出来ない。変化は僕のすぐ傍でも現れていた。
 僕のすぐ隣で同じように空を見上げていた男の頭が高熱を帯びたガラスのようにぐにゃりと歪み、どろりとした液体のようになったそれは全身へと至った。
「え?」
 既に口は溶けているが、データとして処理されたその声だけははっきりと聞こえ、しかしそれも、彼の体が完全に溶け切り、地面に落ちる頃にはなにも聞こえなくなった。
 この世界から、消されたのだ。


 泣け、喚け、それがお前たちのリアルの姿だ


「ラピュラス!」
 僕は叫んだ。アウラの端から端まで届くように。
 データ処理を行い、彼女の居場所を特定しようとするが、最早その機能も失われていて、僕は「ちくしょう!」と走り出す。先ほどログインしていると言う事を確認しており、彼女はアウラから出る事は殆どなかったのでこの付近にいるはずだった。
「シリウス! こっち!」
 予想通り、街の中に彼女の返事が返ってきた。だがお互いがどこにいるか分からず、ただただ広範囲に響かせているその音声では彼女を見つける事は不可能だった。
「どこだ!? データがもう壊れかけてる! どこにいるのか分からない!」
「まっすぐ来て! 違う、右! そう、そのまままっすぐ!」
 幸い彼女のデータはまだ無事のようだった。僕は彼女の言葉に従い、止まない悲鳴と、溶けていく「人間」達と言う地獄絵図の中をひたすら走り続けた。上空ではまた新しい言葉が浮かび上がっていたが、僕はそんなものに目もくれずひたすら彼女の元へと急ぐ。
「ラピュラス、あとどれくらいだ? ……ラピュラス?」
 返事が、返ってこない。
「ラピュラス!? おい、ラピュラス!」
 嘘だ。
 僕は今泣いているだろうか。分からない。今の僕にはその機能は欠落している。
「ちくしょう! ちくしょう!」
 そう叫びながら僕はなお走り、そしてその足を止めた時には、地面に這い蹲るようにしているラピュラスが僕を見つめていた。
「……ラピュラス」
「――――」
 彼女の下半身は既に蒸発したかのようにその形を失っていた。通信機能もいかれていて彼女はなんとか残った体を使い、僕になにかを伝えようとするのだが、そうしている間に、今度は彼女の右腕が色を失い透明のゲルのようになり、地面へとどろりと散らばった。
「……嘘だろ? ……嘘だ!!」
 僕は彼女の身体を抱きかかえた。その腕は確かに彼女の身体に触れているのに、その感触を感じる事が出来ず、僕は狂ったように彼女の名前を呼び続け、救いを求めた。
「やだよ……嫌だ、ラピュラス、消えるな……助けて! 誰か、誰か助けて!」
 誰でもいい。
 この悪夢から救い出してくれ。
 ラピュラスを助けて。
 だが、その僕の叫びは誰にも届く事無く、この暗闇の世界に消えていき、彼女の身体もそこに同化していこうとしている。
「――――」
「え?」
 それに気がついたのは、彼女のかろうじて残った左腕が、僕の感触を失った肩をそれでも揺らしたからだ。彼女はその腕を今度は自分に向け指先で唇を指した。僕がそれを見ている事を理解すると彼女は、小さく微笑み、そしてその唇を動かす。


 ありがと


 そう言った気がした。
 そして、僕がそれに対してなにかを言う前に、彼女は僕の腕の中から滑り落ちるように姿を消した。
「…………」
 世界。
 リアル。
 現実。
 僕の、世界。
 僕の、リアル。
 僕の、現実。
 それが、今、消えた。
「あああああああああああああああああ!!!!」
 僕の右腕が溶けていこうとしている。そしてアウラも更に崩壊が進もうとしており、狂ったように緑の光線が電子音と共に周囲を駆け巡っている。そして人々はこの暗闇の中に消えていこうとしている。
 僕はそれらに目をやる事無く、上空を見上げ、足下すら不明瞭で、まるで無重力の宇宙空間に放り出され浮かんでいるような世界の中で、僕は叫んだ。


 貴様らの誰一人として生きる資格も価値もない






ERECTRONICA ANOTHER SKY, TO BE CONTINUED......
82, 81

  

I wanna be your Room


1.起


「うーん」
 私、ヒイラギシャサはベランダで朝日に目を細めながら大きな背伸びをした。
 道路の反対側にあり、人目に付きにくいベランダはおおっぴらにだらしなさを晒す事ができる。しかし景観と言う点では期待外れと言えた。ここから覗く事が出来るのはなんの手入れもされず、好き勝手に繁殖された木々が多少のそよ風では動じる事もなく鎮座している古びた山で、見下ろすとそこにはきっと地域毎に決められているゴミ出しのルールを知らないアホ共が大量に廃棄していったゴミの山が出来上がっていた。生ゴミは捨てられていないようで腐臭が漂っていないのが唯一の救いだが、そもそもあれが綺麗になる日はいつ来るのだろうか。そして一度綺麗になっても、そこがまた汚物塗れになる日が二度と来ないなど誰が言えるだろう。そしてこのアパートに住む私達も実のところそんな事は気にしていなかった。
「うーん」
 もう一度身体を限界まで伸ばしきると、私は洗濯物を部屋へと移す作業へと取り掛かった。つい先程テレビで見た天気予報が昼から雨になると言っていたためだ。まだ水気があるその感触にげんなりする。せこせこと何度か部屋とベランダを往復し、全て運び終えるとほっと一息吐いて、昨日買っておいた紙パックのカフェオレにストローを挿した。
 甘さが口に広がり、些細な幸せを感じながら、しかし自分でコーヒーを作らなくなるようになってもうすぐ一年になるな、とぼんやりと思った。
「あ、やば」
 予定外の作業に追われたため、もう家を出ないとまずい時間に差し掛かりつつあった。私は簡単に部屋のチェックを済ますと乱暴にバッグを取り上げた。その拍子にすぐ傍にあった。白いブラジャーがぷらんぷらんと情けなく揺れ、私はまじまじとそれを見る。ブラジャーも、それをつける私の胸も全然立派なものではなくて、そのぷらんぷらんはそのしょぼさを殊更アピールしているようで私は意味なくぶん殴りたくなったけれど、その痛みは自分にしか帰ってこないのでやっぱりやめる事にした。
 部屋を出てラパンに乗り込んで、会社へと向かう途中でそのブラジャーを思い出し、最近はあんまり色気のあるものをつけてないなぁ、と我ながら情けない事を考えた。そりゃあ、タンスの中にはあれよりももっと可愛くて、色も派手で、自分でも着るのがちょっと恥ずかしくなっちゃうようなのもあったりするけど、なんせ見せる相手がいないんだからしょうがない。そして見せる相手がいないのに、そんなに気合を入れちゃうのも、なんかみっともない。


2.承


「俺とさぁ、付き合わない?」
 やべ、気合入れときゃよかった。いやいや、別に告白されたからってブラジャーを見せないといけない訳じゃない。
 そんな風に自分に突っ込みながら、私は目の前のナガラハズル君からの急な告白に目をぱしぱしさせていた。
「ええ? 本気で?」
 恋愛スキルと言うものは使わないとどんどん風化していくのだという事を私はつくづく思い知った。もし私がこんな事言われたら、どんな本気もふんってな鼻息くらいで吹き飛ばれてしまうだろう。
「うん、本気」
 しかし私と違って恋愛スキルは高いものを持っているらしい――しかし風化していないと言う事はどういう事だ――ナガラ君は私の言葉に同ずるどころか、そんなぽかんとバカみたいな表情をしている私に、優しくて包み込まれるような微笑を称えていた。
 ナガラハズル君は、私より二個上になるけれど、入社の時期は私の方が一ヶ月ほど早かった。なのであまり年の差を感じずフランクな付き合いをしてこられた。二人揃って上司に怒られた事もあれば、私一人だけ褒められて、それを彼に自慢した事もある。大体そういう時は二人で会社帰りに飲みに行って時間を気にせずぐだぐだとやっているのだけど、実のところ、彼だけが褒められている事も結構あって、実は私より凄い事をしたりすることもあったりするんだけど、そう言うところをおくびにも出さず、私の鼻高々な話に「凄いじゃん、そんなの中々出来ないよ」と相槌を打ってくれる。
 そんな彼が、今私の事を好きだという。
(あ、なんかゾクゾクする)
 ひぃっ、と悲鳴を上げたくなるようなひんやりとしたゾクゾクとはそれは違って。
 あはぁん、と思わず甘い声をあげちゃうような、背中を羽毛でくすぐられたようなゾクゾク。
 全く、自分の恋愛スキルは小学生以下まで退化していたのかもしれない。
「うん、じゃあ、付き合う」
「ええ? 本気で?」
「うん、本気」
 そしてそのスキルは今、ぐんぐん成長して、私は彼の冗談を軽く交わしながら、なぁんだ、そうだったのかぁ、とちょっと前の私じゃ気が付かない事に気がついた。
 私もずっと前からナガラ君の事が好きだったのだと。


3.転


「一緒に住まない?」
 ハズルがそう言ってきたのはあの告白の日から半年ほど経ってからだった。
 交際は笑っちゃうほど順調で、倦怠期とも無縁だった。職場の人達にも公表しちゃったこの関係はなんの問題もなく、同僚は寿退社はいつの予定か、なんてからかうように聞いてきて、私は得意げにさーどーだろーなんてのたまっていた。
「うーん」
 日曜日、私はいつものように洗濯物をベランダに干しながら、彼の言葉を考えた。
 新しく二人で部屋借りてさ。そこで一緒に暮らそうよ。いいと思わない? まぁ、職場が一緒だからシャサに朝見送ってもらうなんて事は出来ないけど、仕事が終わったら二人で一緒に帰ってさ。それで一緒に料理とかしよう。俺あんまり得意じゃないけど簡単なのは作れるよ。俺が材料切る係りでシャサが作る係り、その間に俺は食器をテーブルに並べて、出来上がりが近づくといい香りがこっちにまで届いてきて、つまみ食いとか俺はするんだけど多分シャサがちょっと怒るから後ろで見てたりとかするんだよ。
 それって結局私が殆ど作るって事じゃないの?
 うん、まぁ、そうかも。
 籠の中が下着だけになり私は部屋に戻ろうとしたが、その前に目の前の殺風景な光景をじっと見つめた。以前となにも変わらないそこは、相も変わらずゴミ溜めで、ごちゃごちゃとしている。以前ハズルが私の家にやってきた時、それを見て「なんだあれ、酷いな」と怒るように言っていたけど、私はなんだかそれが不思議でそんな怒る事かと聞くと彼は当然だろうといってシャサは気にならないの? と逆に聞かれた。
「えー、だって別にそれで不便する訳じゃないし。捨てられてるゴミも柵の向こうだしさ」
「バカだな、サシャ」
 はっきりとそう言われた。私はむっとして「なにがよ」と頬を膨らませると、彼はそれを両手で押し潰してきた。ぷふっ、と口元から息が飛び出て、思わず突き出されるような形に唇がなっているという事に私は思い至り、むっとした事も忘れてこのままキスしてくれたらいいのに、なんて全然関係ない事を思いもしたのだけど、ハズルはあっさりと手を離して私の期待を裏切ってくれた。
「いいかい、サシャ」
「はい」
 彼がじっと私を見つめるので、私は素直に返事をする。
 職場では立場は対等なのに、それ以外では私はやっぱり少し下手。
「部屋ってのはさ、一番自分がリラックス出来る場所なんだよ」
「はい」
「ベランダから見える景色だってそう。サシャあれだろ。ベランダとか洗濯物を干すための場所とか考えてるでしょ。違うよ。そこから見える景色だって部屋の一部なんだよ。想像してごらん。朝、ベッドで目覚める。カーテンの隙間から暖かい陽射しが射していて、それに誘われるようにその身を起こしカーテンを開ける。そこには青い空となににも遮られる事なく太陽が顔を出している。君はつい用もないのに窓を開けてベランダへと進む。手すりに身を乗り出し、階下を覗くとそこにはサシャよりも早い出社時間のサラリーマンや、高校生達が列を成して自転車で登校している。そういう景色を見つめながら一日の始まりを思い、背伸びをする。どう? いいと思わない」
「その横にハズルがいたらもっといいと思う」
「バカ」
 ぺしっと額をはたかれた。あいた、と私は涙目で叩かれた場所をさすった。
 要するにハズルが言いたい事はゴミを撤去する事はさすがに無理でもそれに憤慨をするべきだし、もっと日常の素晴らしさを感じるべきだと言いたいのだ。
 そして私はハズルにべた惚れで、実はハズルが言ってる事も半分くらいしか理解していなかったのだけど、朝目覚めた時にハズルが傍にいてくれる日常は素晴らしいと思い、今日の午後から二人で部屋を探しに行く事に決めた。
 私はピンクのレースがついた黒のブラジャーを最後に干し終えると、よし、とぐっと手を握り満足げに声を出した。


4.結


「ただいま」
 とハズルが言う。
「おかえり」
 と私が言う。
「ただいま」
 とこれまた私が言う。
「おかえり」
 とこれまたハズルが言う。
 贅沢な私は一緒に帰ってくるくせに、おかえりもただいまも聞きたいし、言ってもらいたい、と変な我侭を言って、こんな変なやり取りをする事が習慣になっている。
 ハズルは帰る途中に寄ったスーパーの袋をテーブルに置き、私はその間に部屋儀に着替える。入れ替わるようにハズルが着替えに行き、私はその間に袋から食材を冷蔵庫に仕舞いながら今日の夕飯に使うものをキッチンへと並べていく。エプロンをつけて料理に取り掛かる。
 ハズルは本当に料理を手伝ってくれる。てっきり嘘だと思っていたのだけど、それを言うと「心外だなぁ」と肩をすくめる。そのせいで本当はもっと早く作れるのに、私が余計なちゃちゃを入れるせいで夕飯はいつも少し遅くなる。
 あー私は幸せ者。
 そんな事を思いながら、夕食を終え、二人でのんびりとした時間を過ごしていた。ハズルはバラエティ番組を見て、たまに小さく笑い、私はその度に手に持っていた雑誌から顔を上げた。
「なに見てるの?」
 テレビがCMに入るとそう聞かれた。私はインテリアの雑誌と軽く持ち上げてみせる。
「なんか欲しい物ある?」
「あのね」
 私は話をネタにして彼の隣にくっつくように擦り寄り、私とハズルの両方の膝に雑誌を載せて、折り目をつけていたページを開いた。
「このソファ欲しいの」
「これ?」
「うん。可愛い」
「どれどれ」
 そこに書かれている値段を見て「結構手頃だなぁ。サイズもこの部屋にちょうどいいかもな」と好感触の反応を見せてきた。私はここぞとばかりに「ね、いいよね。このサイズだったら二人でもくつろげるよ」と色んな下心丸出しで言うと、あっさり見透かしたらしく、半眼でじとりと私を見て、ぺち、っと額をはたく。
「あいた」
「バカ」
 それから彼はパラパラと雑誌をめくり幾つか気になるものを見つけたようだった。
「ハズルもなにか買えば?」
 もうソファを買う事は決定しているような口ぶりでそういうものの、ハズルの返事は「うーん」と鈍いものだった。
 共働きと言う事でそれぞれ蓄えはそれなりにあった。将来の事を本格的に話し合った事はまだないけれど、どちらともなく自然と貯金していくようにもなったが、それでもまだ少し余裕はあったし、なにより私はしばらく先の話の事ばかりを考えるのも大事ではあるけれど、この今の同棲生活もやっぱり大切にしたかった。
「やっぱいいや」
「えー、いいの?」
「うん、メチャクチャ欲しいと思う訳でもないし」
「でもハズルって引越しの時あんまり物持ってきてないじゃない。私てっきり買い換えるんだと思ってた」
「そんな贅沢な事しないよ」
 引越し当日、この部屋へと運ばれて業者が帰ると私は首を傾げた。それまでに何度も彼の部屋へと尋ねていたのだが、その時見かけた物の幾つかはなくなってしまっていた。彼にその事を尋ねると「あぁ、いい機会だから回収してもらった」と上機嫌で言っていた。なので2DKで彼のものとなった部屋は想像以上に簡素で、私はてっきりこれから新しく買い揃えていくのだと思っていたのに、一向にその様子はなかった。
 ねぇ、ハズル、前言ってたじゃない? 部屋は一番リラックス出来る場所だって。そこが空っぽでいいの? 確かにここは景色はいいし、目の前にゴミが転がっている事もないけどそれよりも部屋の中に物足りなさを感じたらやっぱり嫌じゃないの?
 そう聞くと、彼はぽかんと言う顔をした。
 なんだか、まるでそんな事考えた事もなかった、と言うように。
 と言うか、考えてなかった。
 充分リラックスしてるよ。うん、最高にリラックスしてる。だってさ、考えてみなよ、サシャがいるじゃん。それが一番のリラックスだよ。部屋ってさ、物があるかどうかじゃないんだよ。ここは俺が一番落ち着く場所で、その理由はホームシアターがあるとか、高級オーディオが置かれてるとか、デザインセンスのいい棚があるとか、そういうの前は確かに大事だと思ってたりしてたんだけど、今はサシャがいる事が一番の俺のリラックスなんだよね。二人でいられるって言うだけで満足できるし、そういう意味では特別これと言って欲しいものはない――あいた。
 最後の声は私がぺしっと彼の頬を叩いて出たものだ。
 私は「なんだよ」と言うハズルにはいはいと言いながらシンクに向かうと彼に背を向けてマグカップを二つ取り出す。
 だって、見られたくなかった。きっと今の私は誰が見ても破顔していてにへらぁ、としているに違いない。
 棚からドリッパーを取り出しそこにコーヒー豆を落とすとポットからお湯を注いだ。
 彼と一緒に暮らすようになってから、コンビニのカフェオレを買う事はなくなった。マグカップにお湯を入れ容器が温まるとそれをシンクに流し、完成したコーヒーをそこに注ぐ。テーブルを見ると既に砂糖が置かれていて私は微笑んではい、と彼に渡した。
「ありがと」
「いえいえ」


 私は彼の部屋になりたい。
 この部屋の一部ではなくて、この部屋よりも時に大きくなり、時に小さくなったりするような部屋。
 健やかな時も。病める時も。喜びの時も。悲しみの時も。富める時も。貧しき時も。
 これを愛し。これを敬い。これを慰め。これを助け。
 死が二人を別つまで、共に生きる。
 そんなふうに、彼を包み込み、リラックスさせてあげられる部屋になりたい。
Betterhalf Sweetheart Episode.1


 この世の中には禁忌とされるものがある。
 その内の何割かには罪と言う名前が添えられる。そして必要とされた罰が鎮座していて、僕達はそれを確固たる存在として認識している。
 そしてその逆に、誰もがそれを禁忌として忌み嫌っているものの、形骸的な罪と罰が存在していないものもある。
 そう、それに形はない。ならなぜ、誰もが画一的にそれを禁忌として至らしめているのだろう。
 それは、僕達の心だ。
 ずっと遠く、遥か彼方過去から、そうやって僕達の心にそれは刷り込まれてきた。
 だから、僕達はありもしない罪と罰を、堂々と「そこにある」と思い込み、善悪を分別してきた。
 そして僕はそのありもしないものをそれでも認めるならば罪を犯している事になるのかもしれない。
 それは、誰のものではない僕、アマヅカハモルの、アマヅカマナカへと対する、心。


「ねぇ、ハモル」
「なに?」
 アマヅカマナカと言う僕の双子の妹が不機嫌そうな顔でそう言ってきた。
 僕は、なにかしでかしただろうかと頭を巡らせた。しかしどう考えてもここ最近の事で彼女を怒らせるような事はしていないはずだったので、首を傾げることしか彼女に返す事は出来なかった。
 マナカは双子なだけあって少し僕に似ている。そりゃ男と女だから骨格まで見比べると色々違いはあるけれど、内面、例えば困った時、口を少し開けてその隙間から舌を出す仕草は僕と全く同じで、左目が少し細くなるのも当然再現されていた。
「前にも言ったんだけど」
「うん? 本棚に本が一杯だから新しいのを買ってこいって話? あれなら今週の日曜日まで待ってくれるはずだろ? まさか数日で山積みになる程本を買う訳はないし、もう少し辛抱してよ。それとも猫を飼いたいって話か? ここはアパートで動物を飼う事は禁止されてるからってマナカも納得しただろう? 僕もマナカがそう思うならそうしてあげたいけどこればっかりはどうにも――」
「そうじゃなくて」
 分かっている。彼女が言いたいのはそうでない事くらい。
 ただ、こうやってはぐらかす事で彼女は自分の思考を落ち着かせる時間を得る事が出来る。なぜなら僕がそうだから。
 彼女は少し怒ったように両手を腰に当てながら、それでも幾分緊張は取れたようだった。
「綾子って子いたでしょ?」
「綾子?」
 すぐには思い出すことが出来ず、マナカはそんな兄について情けないと言うような溜め息を零した。僕はその反応にムッとし、意地でも思い出そうとする。とは言えそれほど時間を必要とする事はしなかった。そしてその名前を思い出し、僕は「あぁ、あの子か」と面倒くさいと言う態度を隠そうともせずに答えると、そうしたいのは私のほうなんだけど、と言う視線を彼女は向けた。
 綾子、と言うのは僕とマナカが通っている大学に同じく在学している女性でマナカの友人だ。
 今まで何度か顔を合わせた事があるものの、僕からすれば彼女はマナカの友人のうちの一人と言う認識でしかなく、親しく会話をしたと言う記憶は殆どない。だがどうやら向こうはそれだけの付き合いだと言うのに、僕に好感を抱いたようで、以前マナカから携帯電話の番号を交換したいらしいよ、と言われた事がある。そして僕は一度それに断りを入れていた。そしてそういう時マナカは今みたいに少し不機嫌そうな顔をしていた。
「あの子がどうかした?」
「納得出来ないって」
「だから前に言っただろう? 僕は好きな人がいて、その人の事を日々思って暮らしていて、他の女の子の事なんて目に入らないから番号を交換するのも申し訳ないのでごめんなさい、ってマナカ伝えておいてくれって」
「伝えたわよ。でもそれを聞いたら、あの子、付き合っているんじゃないんですよね? だったら暇な時でもいいから遊びませんか? って言うんだもん」
「だから、その暇な時に僕はその人の事を思っているんだよって言ってくれたらいい」
「あのねぇ、バカじゃないんだからそんな夢みたいな事言ってまかりとおるわけないじゃん」
 それも一理ある、と僕は彼女の言い分を認める。そしてならどう言えば彼女は諦めてくれるのだろう、と思案する。
 僕に恋人と言える存在はいない。大学の友人達にはそう言っている。今のように僕に女性を紹介された事は幾つかあったが、そのどれもが恋愛に発展する事はなかったし、僕自身も積極的にアプローチする事などなく、こんな風に断ってばかりいた。
「マナカが言えばいい」
「なんて?」
「自分の恋人に手を出すなって」
 そう言うと、彼女はなにをバカな事を、と言うように顔を覆いながら天井を見上げた。
「そんな事言える訳ないじゃん」
「まぁ、そうだろうね」
 きっと綾子と言う女性はそんなに悪い子ではないのだろう。マナカが中空に視線を漂わせながら「参ったなぁ」と呟いている。それはどう見ても、恋愛と友情の狭間で揺れている女の子で、きっと彼女の気を害する事無く上手い言い訳をするにはどうしたものかと真剣に悩んでいるのだ。
「僕を悪者にすればいい。私の兄貴は手癖が悪くて、地元じゃ同時期に何人とも付き合っていて、その内の何人かを妊娠させた挙句、無理やり堕ろさせた上に放り捨てるような奴だったとでも言えば、綾子って子もきっと僕と距離を置くさ」
「あのね、そんな事言ったら私も引かれちゃうでしょ?」
 大体さ、なにそれ、自分がもてるとでも言いたいわけ? よく言うわよ。高校の時友達にちっとも彼女が出来ないからって心配されてた事忘れちゃってるんじゃないの?
 と彼女がけたたましくまくし立て、僕は苦笑した。確かに多少無理がある設定かもしれない。
「それにさ」
「それに?」
「嘘でも……そんな風にハモルのこと悪く言いたくないし」
「それは、ありがとう」
 僕は照れている彼女に近づく。彼女も視線を僕に戻すと一歩だけこちらへと歩み寄った。その一歩だけで彼女はその場で立ち止まり、残りの空白の距離を僕が埋める。そして二人の間に空白がなくなると、僕の手が彼女の頬に触れた。
 マナカの目が閉じられ、僕は自分の唇を彼女の方へと近づける。
 僕達がしている事はいけない事だろうか。
 純粋に愛と言う行為を、一生懸命こなしているだけのつもりなのだけれど。


 僕とマナカが県外の同じ大学に進学する事が決まり、家を出る事になったのはもう一年以上前になる。
 同じ部屋を借りる事に決めたと父と母に報告すると、二人はそれをなんの抵抗もなく受け入れた。別々に借りるよりも家賃が安く済ませられるし、僕がいれば娘に降りかかるかもしれない危険も少しは振り払ってくれるかもしれない、と言う期待もあったのだろう。そしてその思惑は一部では成功していて、マナカは親元を離れて夜遊びを繰り返していかがわしい連中とつるんだりするような事にはならなかったけど、一部では、やはり間違いではあるのだろう。なんせ、両親が言うような、マナカに付きまとう悪い虫とは僕の事なのだから。
「マナカの事よろしくね、お兄ちゃん」
 お兄ちゃん、と母さんは僕に笑顔で言った。
 両親はどちらかと言うと皮肉やである僕とは正反対の純粋な人達だった。僕とマナカの関係はもうずっと以前から続いていたのだけれど、その事に勘付く事はとうとうなかった、と言う事になる。そもそも、僕達二人の関係に気付いた人など両親だけでなく誰もいなかった。僕達は表向きはそれなりに仲のいい双子の兄妹を演じ、そしてその裏で静かに愛を育んだ。
 ふと、なぜ誰も気がつかないのだろうか、と僕は逆に疑問を持つ事になった。
 確かにばれないように細心の注意を払っているつもりではあった。しかし、高校生の僕の考える事など所詮どれも子供だましでしかないと言う事は自分でも薄々は感じていたつもりだった。一度、手を繋いで歩いているところをクラスメイトに見られてしまった事もあったが、その時も動揺する僕達に対して投げかけられた言葉は「仲いいのはいいけど、それはやりすぎじゃない?」と茶化すような、咎めるような、いいものと悪いものが半分ずつ入り混じったような言葉だった。それをどんなふうに分解してみても、そこに「あなたたち付き合っているの?」と言うニュアンスを感じ取る事は出来なかった。
 きっと、概念の問題よ。とマナカは言った。
 自分がいる場所はいつでも正常であるべき、と皆思ってるのよ。
 芸能人が同性愛者である事を告白すると、意外と「まぁ、いいんじゃない?」なんて言ってるじゃない? でもあれって、自分とは遠くかけ離れた世界の事だからそう思うのよね。対岸の火事ってやつ。自分の手の届かないところで起こる出来事にはえてして寛容になるし、肯定すら簡単にしちゃうのよ。でもそれがいざ自分に降りかかってくると、そんな事を忘れて強い拒否反応を示す。
 なんでかな、とマナカは言った。
 どうして自分の事となると許せなくなるんだろうね。多分、その理由って分からないと思うよ。それはそうだから、としか言えないと思う。許せないのは自分の心じゃなくて、積み重ねられた概念の結果そうするべきと思い込んでるだけで、そういう概念から一歩離れてみれば、許せない理由なんてないんだけれど、概念から外れてしまう事なんて、そんな簡単に出来る事じゃないよね。
 マナカが言っていることは正しいような気がした。そして僕達の関係に誰もが気付かなかったのは、きっと僕達が上手く隠し通していたからでは決してなく、きっと皆がそこから目を逸らして、無意識の内に気付かない振りをしていたからなのだろう。息子と娘、友人、クラスメイト、きっと皆僕達の事を好ましく思っていたのではないだろうか。
 そしてそんな僕達を禁忌として扱う事を心のどこかが無意識に否定をしたのだろう。
 罪深い二人だと言うよりも、単なる一人の存在として扱ったほうが気楽だったのだろう。
 気持ち悪い存在だと認識する事が、なにより面倒くさかったのだろう。
 だって、世界はいつも自分の周りくらいは正常でいてほしいから。


 これからどうなるんだろう、と考える事がある。
 そういう時、自分を取り巻くのは正常な世界だ。そして僕はそれと相対した時、どうしようもない無力さに押し潰されそうになってしまう。日本においては近親相姦そのものを罰する法律はない。だけどそんなものが僕達にとって一体なんの価値があると言うのだろう。
 そこには純然たる否定がある。モラルと言う名の枷がある。ルールと言う名の強制がある。
 僕達は誰にも認めてもらえない。僕達が認めてもらえるのは、僕達二人の関係を認めていない時だけであり、今はそこに身を置く事でなんとか均衡を保っている。しかしいつまでもそうしている訳にもいかない。
 今はまだ大学と言う閉じられた世界に救われているが、数年後の僕達は一体どうなっているのだろう。
 いつまでも「仲のいい兄弟」として誤魔化し続ける事は出来ない。
「アメリカのアラバマ州に移住しようか。なんと近親婚が合法なんだそうだよ。キリスト教が主流らしいけどどうやらここはプロテスタントが多くカトリックは少ないみたいだからそういう背景があるのかもしれないね。スペインやポルトガルでもいいかもしれない」
 そんな事を話してみた事がある。するとマナカは「まだ結婚願望はないなぁ」と笑う。僕だって今すぐ彼女と結婚したい訳ではないけれど、いつかと言う日はやがてやってきて、その時の僕達が選択をしなければならないと言う事は確かだった。そして僕はその時の選択に、彼女との結婚と言うものが当然含まれていたし、それ以外の選択肢はどれも現実味がなかった。
「でもヨーロッパの他の国じゃ禁止しているところもあるし日本は緩いほうじゃない?」
 そういう時、彼女はまるで姉のような顔つきになる。いつもは僕より少し遅く生まれたからと妹ぶっているのに。だけど僕はそういうマナカに見つめられる事によって穏やかな気持ちにさせられる。きっとそういう時の僕はいく当てもなくさ迷っている迷子のように情けない顔を浮かべているのだろう。
「そうだね、日本はなんだかんだ言ってそれについてはゆるいし、もてあましていると言ってもいいかもしれない。法律上それを規制する動きはないし、僕達を否定しているのはただ、三親等内の傍系血族は婚姻出来ないという条件を満たしていないというだけでそれ自体に明確な言及がされている訳じゃない。事実婚と言う言葉もあるし、事実夫婦と思っていた二人が実は単なる兄妹だったと言う事例もある」
 もてあましている。本当にそうだろうか。本当はただそれ以上議論する余地がない、と明確に判断されている事であって、そういう言い方をしてしまうのは僕がただ、それに対し異論を挟みたいと思っているからこそそう思うのではないだろうか。
 一体僕達の立ち位置はどこにあるのか?
 そう、僕は問いたかった。
「ねぇ、ハモル、そういうのって意味ないんじゃないかなぁ」
「え?」
「国とか、法律とか、そういうの関係ないんじゃないかな。そういうものがある場所ではイエス、ある場所ではノーだからって結局のところ私たちにあまり関係ない気がする」
「それは……そうかもしれない」
 僕の理論武装は彼女によっていとも簡単に砕かれようとしている。いや、元々その武装は薄っぺらで、僕自身てんでそれを信用なんて出来ちゃいなかった。そう、たとえ明日、僕達の関係を合法とします、と言うニュースが流れたって僕がそれに安堵する事もきっと出来ないのだろう。
 僕達を囲んでいるのは、国でも法律でもない、人だから。僕達の関係に入り込もうとしているのは、形のない心というものだから。
 インセストタブー。
 近親交配による劣性遺伝子の発生率。
 僕達にとって問題なのはそんな事ではない。
 それは単なる、忌避と言う名の否定。単なる心理的嫌悪と言う名の、拒否。
 本質も、遠因も、殆ど曖昧にしか把握していないのに、ただなんとなくそれは存在していて、当然なのだと言ってしまう、モラルと言うもの。
 僕達が向かい合っているのはそんな有象無象で、それを前にした時、僕は言葉を失う。どれだけ理論を駆使しても、感情を吐き出しても、理想を説いても、そんなものは全て世迷言として切り捨てられるのは分かりきった事だからだ。それは例えアラバマでも変わらないのだろう。
 僕達を縛っているのはなんて事はない人の心そのもので、そしてそれを変える術など僕が持ち得る訳もなかった。
「ハモル?」
「…………」
「泣いてるの?」
 僕は彼女から目を逸らした。頬を流れるその冷たい感触は対照的な僕の渇きを僕に教えているようだった。
 どうして、僕は彼女を愛してしまったのだろう。
 彼女以外の誰かを愛すればこんなに苦しい思いをする事などなかった。
 友人達から恋愛の話をされる度、僕は知らぬ振りをして恋愛に鈍い男を演じ、他人からの好意に言い訳をして逃れようとしていた。もしあの日の僕が今の僕とは違う僕ならば、きっとあの日の僕は皆と同じように笑う事も出来ていたのだろう。だけどそんな想像にはなんの意味もなかった。僕はマナカを誰よりも愛していて、その事に僕は幸せを感じているのだから。
 そう、僕は、彼女を愛している僕を否定したくなかった。僕自身の心にも。そして他の誰にも。
 彼女の両手が僕の身体を包んだ。暖かな体温に包まれて僕はそっと目を閉じる。
 彼女はあやすように、僕の頭を撫でた。耳元で聞こえた吐息は身体の奥底にまで届き、僕は心地よい脱力感に浸る。
「愛してるよ、ハモル」
「僕も愛してる」
 その感情のなにが許されないと言うのか。なぜ、この愛は禁忌とされ認められないのか。
 ねぇ、それは間違ってないと言ってくれ。
 そう、僕が望んでいるのはそれだけの事だった。誰にも憚る必要なんてなく、僕はこの世界の中に一組の恋人として存在していたかった。
「いいじゃない」
 マナカはそう言った。
「私、今も充分幸せだよ」
 マナカはそう言った。


 夜、ベッドで先に寝入ったマナカのその寝顔を見ながら、僕は先ほどのやり取りを思い返す。
 ねぇ、マナカ。本当の幸せってなんだろうか。
 僕達二人だけでもそれは感じられるものだろうか。僕だって君と過ごす今に幸せを感じない訳じゃない。
 でも、それ以上を求める僕は贅沢者なのだろうか。
 でも、マナカ。僕は君を幸せにしたい。妥協の上に存在する幸せではないものを、君に届けたい。
 彼女の柔らかい髪に触れると、僕の腕の中でごそごそと悶え「ううん」と寝息を零した。


 きっと、僕は――








to the episode.2
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なにもない


「肯定も否定も出来るよね」
 爽やかにあの子は言った。僕はそれを否定する手立てを持たない。


 彼女はあらゆる事に無関心だが、それを言うと「そんな事ない」と言う。
 そして「まぁ、どうでもいいとは思うけどね」と矛盾したような言葉を付け加える。
 だけど、そう思っている事は知っておいてね、と念押しをされているようでもあり。
 僕は、じゃあ、君となにを話せばいいんだろう。
「なんでもいいでしょ」と彼女は事もなく言う。
 朝のワイドショー、天気予報、昨日のドラマ、最近流行りの音楽、先週聞いた共通の知人が嘆いていた痴話喧嘩の行く末、お互い手も出した事もない株の相場、ただ世界状勢の話はあまり好ましくないようだ。知った被った顔をするのを見るのが嫌いだし、どうにもならないのにおざなりに憂いたりされても、それに対する上手い返答が出来ないから。
「それ以外なら、なんでもいいし、それなりに楽しくお話出来る」
 彼女は自信たっぷりにそう言う。
 だけど僕はゴシップや天気予報に興味はなかったし、友人からあの後進展があったという事も聞いていなかった。どちらにせよ、そういう内容を切り出せば彼女はそれなりに口を開き、この次の予定までの時間を上手く潰す事は確かに出来るのだろう。だけどその会話がまた訪れる空っぽの時間への有効な橋渡しになるとも思えなかった。むしろそういう会話を行えば行うほど、僕は彼女と話したいと思うようなことが何一つないのだ、と言う事を思い知るのだった。


「なんでそんな女の事を好きになるのか」
 僕の友人は不思議そうにそう僕に尋ねた。僕自身よく分からない。
 僕は至って平凡な人間で、それこそ人並に沈黙に怯みもするし、それこそ彼女が「どうでもいい」と言う世間話と言う自分に無関係な話題でのコミュニケーションによって人間関係を構成する方法をなによりも好むし、テンプレートのようなものだと思っている。
 きっと、彼女は特別なんだよ。
 僕は自分でも苦しい言い訳をした。
 特別である事は間違いないのだろう。だけどなにがそうさせるのかと言うと答えられない。僕は必ずしも彼女の「そういう」スタイルを好意的に捉えていた訳ではなかったし、むしろ気難しくて迂闊に手を出せない、とまで思ってもいる。そしてその繊細なガラス細工のような彼女になんとか触れる事に成功しても、返ってくる返事は出来の悪い陶器の「ゴン」と言う鈍い音だ。
 そして、そういうものだと分かっているのに、僕はそれを分かりもしないのに「いやぁ、この絵画はとても素晴らしいですね」と誤魔化している間の抜けた男のようだ。
「まぁ、でも理由なんて完全に理解する必要はないだろう。あやふやなセンスとか感覚と言うものでも、それをいいと思えばそれはいいのさ、そういうものだろう」
 友人は諭すように僕に言う。
 そして僕はそれを聞いて溜め息を零す。
 彼女はそういう台詞が実際のところ、大嫌いでもし彼女が同じ状況になった時、きっとこう言うのだろう。
「分からないなら、分からないでいいんじゃない。それでもいいと思うなら、それでいいんじゃない。ただそんなあやふやな感想を私に言われて、理解してよと言われても困るけど」と。
 それはつまり僕の好意まで軽く捻られるものであると言う可能性もある。


 要するに彼女が言いたい事は「無関心で関心を惹く事」をあまり好ましく思っていない。どうあっても無理だと嫌悪感を抱いていると言う訳ではない。それを誰がしてきても、彼女は滞りないコミュニケーションを行えるし、その事で疲労感を覚える事もない。むしろスムーズさで言えば、そうする事で円満な関係を気付こうと四苦八苦している連中よりもよっぽど上手く会話を紡ぐ事が出来ていた。ただし、それはそうする事によって好かれようと言う意思がないため言葉の取捨選択に悩まない、と言うあまり褒められたものではないのだけれど。
「どうして?」
 その日、僕は勇気を振り絞ってそう彼女に尋ねる事にした。
 彼女はぽかんとしながら「どうしてってなにが?」と首を傾げた。一体なんの話か本当に分かっていないようだけど、彼女はいつものように言葉を遮る事はなかった。彼女は余り積極的に声をかける事はない。その事を以前尋ねた時「だって別に今聞きたい事とかないから」と、当然の事のように言った。反面彼女は自分に関心があったり、どうしても気になる事があるといてもたってもいられないようで誰彼構わずその好奇心を埋める為に頻繁に声をかける事もあった。だけどそれは結局稀な事で、彼女はいつも、やかましく騒ぎ立てる一般的な女の子のように会話の端々に一々口を挟む事はなかったし、この時もただただ、僕が言おうとしている事を黙って待っていた。
「他の皆がどうしようもない程気にしている事がある。それは自分が空っぽじゃないと言う事だ。そしてそれを周りに証明して見せる事だ。例えばA君は僕と知り合う数年前の話を持ち出して、その頃の自分は悪で、いけない事もやってきた、その内容はちょっと大袈裟過ぎて、どう考えても嘘で、だけど僕はそれを嘘だと証明する手立てもないから、へぇ、そうなんだ、と答える。きっと僕以外の人にも似たような事を言っているんだろう。内心皆それに呆れているかもしれない。けど実際それを言ってしまう事はない。なんでかって、それが人付き合いだからだ。A君が少し自分をよく見せようとするのは当然の事で、そんな事は誰だってしているから、自分を棚に上げて他人を否定する事を良しとしないからだ」
「うん、そうだね」
 いつもの相槌。
「皆、誰かと繋がろうとする。そこに嘘が見え隠れしていても。それは必要悪で、笑って許せるもので、そう言った虚像も含めて人は他人の姿を自分なりに理解する。そして同じように自分の事も理解してもらおうとする。あくまで好意的に、だよ」
「うん、そうだね」
 きっと、彼女は今僕が言っている事に全く興味を持てないのだろう。
 そんな事は分かっていた。彼女は人生の摂理など話し合う事に意義を見出す事などないのだろう。
 そこにあるのは無限の広がりだ。以前彼女は「そう言うのって否定も肯定も出来るよね」と言い、僕は沈黙した。僕はそれに肯定をする事は出来ても、否定をする事が出来ず、そして肯定をすれば、僕の言葉は意味をなくしてしまう。
 空に瞬く星のようにこの世界のあらゆる出来事の一つ一つに、人其々の無数の回答がある。彼女はそれを誰よりも理解し、そしてそれを忠実に守っている。だから彼女は自己主張を好まない。他人の主張に異議を唱えない。意味がないと言う事を理解しているから。そして全てに意味がないと気がついた彼女にとってこの世の殆どが意味を失う。
 些細な事も、深刻な事も、楽しい事とか、悲しい事こととか、感動とか、悲哀とか、幸福感とか、それこそ、感情そのものや、それを構成するための論理や、良識常識とか言うものは結局千差万別で、それゆえに彼女は他人に自分の存在の是非を問う意味がない事を知ってしまった。
 僕達は違う。いつだって僕達は迷っている。自分が正しいのか、誰かは間違っているのか、常日頃からそわそわとそんな事を思いながら、それを確認するように誰かに問いかけてしまう。「ねぇ、こう思うんだけどどう思う?」本当はそうして得られた結果すら正解じゃないと言う事も分かっている。だけど僕達はそういう「こんがらがった気持ち」を共有する事でお互いの距離を縮めようとする。
 それはきっと明日の空模様がどんなものかと言う事と同じ次元で。
「会話の殆どにきっと殆ど意味はないんだよ。本当に意味があるのはただ、同じ時間を共有していると言う事なんだと僕は思う。だから他愛のない会話も、一見深刻に思える会話も、僕達は暇を見つけてはあれやこれやと口にして、誰かと繋がっている気になれる。その割りに次の日になればなにを話したかなんてすっかり忘れてしまったりもするんだけど」
 うん、そうだね。
 三度目の相槌。僕はそろそろそれ以外の言葉が聞きたくなる。
「だからね」
 うん?
「君の価値観を僕は昨日あれこれと考えてみた。その結果空っぽだと言う結論に辿り着いた。そして空っぽなのは君じゃない。そして一時僕は空っぽなのは世界そのものだと言う結論に辿り着いた。そう、この世界は本当は空虚なもので、全て無意味でその事をどれだけ一生懸命喋っても、無駄なんだと。だけどそれも違う。そう、君はこの世界を無味乾燥で、退屈で、どうしようもない、なんて事はまったく思っちゃいない。世界はしっかりとここにある。様々な彩りを備えて時として輝いていて、君はそんな世界をじっと見つめて、君だけの肯定と否定をちゃんとしている」
「うん、そうだよ」
 その言葉が、僕は嬉しい。
 その言葉は相槌ではなく、紛う事ない自己の主張だと思えたから。
「じゃあ、空っぽなのは?」
「空っぽなのは、君から見た僕達」
 確信を込めて言う。
 昨日見つけた「彼女のスタンス」を。
「なにもない空っぽの存在とは、君から見た僕達そのものだ。僕達はいつも、無駄な事を繰り返している。毎日毎日見上げれば分かる空模様をわざわざ確認しあい、そのくせその空の色が本当はどんなものかちゃんと見る事もせず、どれほど美しいかと言う事を知ろうともしていない。昨日のドラマで一番盛り上がった場面をどれだけ語り合っても別にそこに自分を重ね合わせている訳でもないし、本当はその裏番組のコメディの方が面白かったりしている。一ヶ月に一回聞かされる痴話喧嘩も、ニュースで見る貧困に苦しんでいる地域の話も、それをただ憂いている自分と言うものは結局単なる自己満足じみた偽善で、なにもしないくせにただ「大変だね」と理解したように言ってる姿はくそくらえだと思う。どうでもいいんだよ、結局。ただ、それらの一つ一つが単なる情報でしかなくて、そしてその誰もが知ってる情報に触れて、その表面をなぞりあう事で理解したつもりになって、更に言えば、その情報を餌にして誰かを釣り上げようとしている」
「そして私は?」
「そして君は、そんななんにもならない、空っぽのなにもない関係が嫌い」
「素晴らしい。そんなに私の心を読まれたら恥ずかしくて君の顔見れないわ」
 彼女がふざけるように言い、そのくせ視線はちゃんとこちらに向けられていた。僕が次なにを言うのか、聞き逃さないぞ、と言うように開かれたその目を、僕も見つめ返す。
「画一的な人間関係は比較的多く存在する。まるで数学の方程式のように、正式を用いればいつでも正解だと言うように。そうしている内に、僕達は読書感想文の書き方を忘れてしまう。A君への感想とB君の感想はきっと違うのに、それを深く理解するための努力を惜しんでしまう。だから僕達は本当は自分が全く興味のない出来事達の表面上だけを拾い上げては、薄っぺらに盛り上がり、理解したつもりになって相手との距離が縮まっているだなんて思っている」
「実際はなにも分かっちゃいないのに」
「そう、僕もそう。けど、君はそうじゃない。だから、また考えた」
「なにを?」
 僕は一度深呼吸をする。
 今から言う事の意味をもう一度考える。理解はしている。大丈夫。だけど結果はよく分からない。
 自分が緊張しているのが分かる。もしかすると掌が汗ばみだしているかもしれない。その感触は少し気持ち悪いけれど、それと同時にこの高鳴りを告げているこの鼓動はきっと緊張のせいだけではなく、高揚しているものもあるからだ、と実感を得ていた。
 そう、誰にでも届く言葉ではなく、誰か一人のためにだけ生み出され、誰にでも気安く言える言葉ではなく、誰か一人にだけ届けたい言葉を、本心から、本気で、マジで届けようとすると言う事はとても気が重くて、だけど清々しくて、そして緊張する。
 肯定も否定も出来るよね。
 だって、そうしたところでなんにもないんだから。
 そう、そんなふうにして切り捨てられていくものは、きっとこの世に無数に転がっている。だけど、それをそう思ってしまうのは彼女の判断ではなく、否定でも肯定でもどっちの返事でも構わないような事ばかりを垂れ流している僕達の過ち。
 だから、僕は彼女にどちらかを選ばざるを得ない、そんな言葉を届けたいと思う。
「空模様でも、誰かさんでも、世界の在り様でもなくて、それを見る君の事について僕は手を伸ばしたい。表面上だけじゃなくてその内側にまで触れて、君がなにに喜んで、なにに悲しんで、なにが嫌いでなにが好きかを僕は知りたい、と思う」
 恥ずかしくて僕はつい俯いてしまう。
 頬が上気して、出来るなら僕は逃げ出したい。
 だけど、それは出来ない。その答えを聞くまでは。その答えを人伝に聞くなんて事があれば、僕は死んでしまうだろうし、そんな風に僕の真面目な告白を話のつまみにされるのは真っ平ごめんだ。
「えっと……あ、これって、そっか、そうだよね」
 彼女がそう言い、僕はその後に続く言葉を聞き逃す事がないように、彼女の口元へと視線を向けた。
アポカリプスの遊戯


 殺したらいい。
 それが自分を後押しするためのものなのか、それとも、他者に向けた自殺願望の賜物なのか。
 考える事を止めた脳は何時もそうやって簡潔で、極端な単語だけを思い浮かばせる。そしてその意味を私は理解出来ない。
「あはははは。おはよう。ゆうちゃん」
 その笑い声が不愉快だった。私はベッドの上で寝転がった姿勢のまま、纏わり付くような不快な感触を持つ掛け布団を乱暴に端へと押しやる。もうずっと干されていない其れの布が擦れると、其れはまた私を憂鬱にさせるように、笑う。
「あはははは。嫌だなぁ。寝ている間君はずっと僕を抱きしめていたのに」
 五月蠅い。
 引き裂いてやればいい。そうすればきっとこいつはなんの意味も為さないゴミになる。
 だけど私はそうしない。
 そいつは私が手を出さない事を分かり切っているかのようだった。膨らんでいた部分が空気の流れによって脱力したように盛り下がっていく。
「あっははは。そうだよね。ゆうちゃんはそんな事しないよね。僕は知ってるんだよ。君が夜一人で僕を股に挟んで其処を濡らしてる事を。君の指がどんな風に其処を弄んで、どんな風に喘いでいるかも。そしてゆうちゃんは一人でオナニーして、逝って、動くのが面倒臭いからって、その指に纏わり付くマン汁を僕に擦り付けるのが大好きだもんね。そんな僕を何処かにやれる訳がないんだ」
 尚も笑い続けている其れを無視して私は起き上がる。
 冷蔵庫を開けるとそこにはペットボトルのお茶だけがあり、冷凍庫の方も開けてみるとそちらは本当に空っぽで私は買い物に行かなくてはならないと憂鬱になった。
「たまには自分で料理したら?」
 開け放たれたドアをプラプラと揺らしながらそう言うけれど、自分一人の為に手料理なんてもう何年も作っていないし、こいつももう自分が殆ど必要とされていない事は分かっているのだろう。お茶をグラスに注ぎ、ペットボトルを戻して閉めようとすると、そいつは私を莫迦にする様に呟く。
「ゆうちゃんと僕のどっちが不衛生なんだろうね」
 知らないわよ。私はそう言い返す。毎日風呂には入っているけれど、この部屋にいると一秒毎に私は穢れ続けている様にも思える。


「出かけるの?」
 そうよ。悪い?
「そんな事はないけど、私に触れるなんて随分久し振りだから」
 クローゼットを開けた。私はその口調を聞く旅に苛立たしくなる。確かにここ最近同じ服ばかりを着ていた。部屋着はほぼ毎日同じ物だし、出掛ける時もただラフなパーカーを羽織るだけでそれは椅子に乱雑に放り投げていた。
「どこに行くの? 楽しい所?」
 うるさい。あんたに関係ない。私が何処に行こうとしているかなんてあんたは知る必要ない。
 しかし久しぶりに私が近付いたからなのか妙にはしゃいでいて、私の罵声も意に介していないようだった。いや、先程よりもさらにおどおどとした態度になったものの、それでもまだ何かを言おうとしていた。
「御洒落していったらいいよ、せっかくだから」
 言われなくてもそうする。もう黙ってよ、あんたに言われなくたって服位自分で選ぶから。ハンガーに掛かった白いジャケットを取り出し、私はインナーを着替えた。彼女は私が遠ざかっても尚その口を閉じようとはしない。
「ゆうちゃん、今日は遅く帰ってくる? でもたまにはそうやってゆっくりするのもいいと――」
「うるさい」
 強く言い切ると、ようやくその口を閉じた。ジャケットを羽織り、部屋を出る。
「どこ行くんだよ。こんな時間に珍しい」
 ドアノブを握るとそう聞かれた。それも無視して私は外に出る。
 日差しが眩しい。
 部屋の中では感じられない風が私の頬を撫でた。部屋を出る度に感じる其れを私は気に入っていたけれど、階段を降り、コンクリートの地面に足を付ける頃には煩わしいものへと変わるのも何時もの事だ。


「昨日さぁ、夜更かしし過ぎて疲れちゃったよ」
「うへぇ、マジで? 今日の夜大丈夫かよ」
「あぁ、平気平気」
 今日も街は静かだった。
 私は壁のすぐ傍を歩きながら、Ipodを早送りする。
 適当に入れられたファイルのランダム再生は私のその時の気分で良くも悪くもなる。
「先輩、今日はどこ連れてってくれるんですか?」
「んー、何処でもいいよ。てかその先輩って言い方やめてくれない?」
「じゃあ、何て呼ぶんですか」
「名前でいいじゃん……いや、やっぱいいや」
「え? なんですか?」
「なんでもない」
 家から最寄りだが歩くと三十分程かかるスーパーへと向かっていた私は何時もの場所で歩幅を狭めた。振り向いた其処は直線的なデザインの構えをしている服屋でウインドウ越しに店内を見渡す。
「いらっしゃいませ」
「こちら如何ですか? これからの季節にピッタリだし、他のお客様からも人気があるんですよ」
「ちょっと試着していいですか?」
「はい、こちらへどうぞ」
「ありがとうございました」
「このシャツ、色違いってありますか?」
 道路からよく見える位置に置かれたマネキンに着せられている服が以前とは違うものになっていた。それに私は少しがっかりする。もう売り切れてしまったのかもしれない。だけど、残っていたとしてもきっと私がそれを買う事はなかっただろう。
 きっと私には似合わないだろうから。
 以前はそうやって憧れた服よりも派手だったり、可愛らしいものも持っていたのだけど、それらも最近はあまり着ようと思う事もなかった。当時の私は着飾る事にそれなりに気を使っていたし楽しんでいたようにも思うのだけど、そんな当時の私を思い出すと、何故か其れは如何しようも無いほど無様で、恥ずべき事だと思えた。
「神様って信じる?」
「なんだよ、いきなり」
「たまに思うんだよね、俺達がしている事は全部最初から決まっているんだって」
「運命って事?」
「運命って言うとなんか良い事のように聞こえるけど、実際はもっと頽廃的なものじゃないかなって。今こうやって考えたり思ったりする事全部、俺の意思じゃないんだよ。こうなるように、って誰かが操ってるんじゃないか、そうだとしたら、「俺」って本当は「俺」じゃないし、それに絶望を覚えても、それもまた自分の意思じゃないんだって――」
 歩幅を元に戻す。それからは速度を落とす事無くスーパーへと歩き出す。
 辿り着き、積み重ねられた籠を一つ取り、私は生鮮コーナーを通り過ぎ、ペットボトルのお茶とコーヒーを取る。それからしばらくうろうろとし、一週間分程度のレトルトや冷凍食品を適当に籠に放り込んだ。
「いらっしゃいませ」
 ちょうどレジが開いており、私は財布を取り出した。一袋五円になります、と注意書きが添えられている袋を貰う為の札が置かれており、それを籠の中に入れる。来る度に袋を貰っているので家から持ってくればいいと自分でも思うが、出掛ける時になるといつも面倒臭くなってしまう。
「四千八百五十二円になります」
 レジの機械を見る。緑の電子字が四千八百五十二と表示されていた。小銭を探してみたが足りなかったので五千円札を出す。
 そしてお釣りとレシートを受け取り籠に手を伸ばした時だった。
 店員の視線が、私へと向けられていた。
「―――――――――――――――――――――」


「…………え…………?」


 呆然と私はそう呟くと、店員は参ったと言うような表情になる。私は慌ててIpodを外した。
「今期間限定でポイントサービスを行っています。先程渡したレシートに記載されていますので」
「……あ、はい」
 それだけを言うと店員は次の客へと向き直った。私は緩慢な動作で移動をし、レシートを見てみると、確かに覚えのない表示がある。どうやらレシートを集めて割引をしてもらえると言う事のようだが、私は足元にあったゴミ箱にそれを捨ててしまった。
「うんだよ、マジで。やってらんねぇわ」
「なによ! 悪いのはそっちじゃない!」
「おまえ、うっせえよ、黙ってろ」
「はぁ? なにそれ」
 籠から袋へと移していると隣のカップルらしい男女が罵り合っている。その声には棘が含まれていて、聞いているだけで憂鬱にさせられるもので、ようやく私はイヤフォンを外していた事を思い出した。
「だからうっせえんだよ」
「っ! 殴る事ないじゃん!」
「すいません、お客様」
「あ? なんだよ」
「他のお客様もいますので」
「は!? 関係ねーだろ」
「なにあれ?」
「喧嘩じゃない? 近寄らない方がいいよ」
 再び流れだした音楽に私はほっとし、落ち着きを取り戻す。全ての品物を袋に入れ終えて歩き出そうとすると、ふと店員と肩をぶつけてしまった。彼は小さく頭を下げたものの、急いでいるのかすぐに私から視線を逸らし、私もそうされる方が気楽だったので特に気にする事無くそのまま店を出る。
「好きな人が出来たんだ」
「ねぇ、お母さん僕あれ欲しい」
「すいません、今アンケートをとってるんですけど少しお時間いいですか?」
「明後日? うーん、ちょっと明日にならないと分からない」
「シフォンケーキ好きじゃない。ミルフィーユにしよ」
「あいつ絶対殺すわ」
 音楽が変わった。
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
「――――――――――――――――――」
 今日も、街は静かだ。


「あはははは」
 今日も奴が笑っている。私は不快な眼差しを向けるけれど奴は一向に動じなかった。
 むしろそうする私を待っていたかのように、そして楽しむように、昨日の夜私がなにをしていたかをベラベラと喋り続け、私はそれを聞くだけでもう体を動かす事すら憂鬱になる。
「ねぇ、ゆうちゃん、僕は君の事を一番理解していると思うよ」
 冗談じゃない。
「本当だよ。だって君は僕の中にいる時しか、本当の自分を曝け出していないじゃないか」
 そんな事ない。
「可愛いなぁ、ゆうちゃんは。そういう意固地なところもいいね。僕は分かってる。君は最低でも二日に一回は淫らな表情を浮かべて、酷い時は一週間ぶっ通しでよがらないと収まらないような女の子だって」
 これ以上会話をする意味はない。確信と共に私はベッドから逃げ出そうとするが、果たして何処に自分を置けばいいのだろうと、暫く部屋の中で立ち尽くす。床に腰を下ろしたところで何が変わる訳でもない。私はふと苛立ち、其れを誤魔化そうと冷凍庫を開けた。
「今日も冷凍食品だね」
 そうよ、悪い?
 眉間に皺を浮かべながら答えるが、奴は動じる素振りすら見せない。
「いいんじゃない? ねぇ、そろそろ掃除くらいしてもらいたいんだけど」
 いいんじゃない? そのままであんたが埃塗れでも別に私困らないし。
 せめてもの反抗として、奴の皮肉めいた口調をそのまま返してやった。すると少しは動じたのか黙り込んでしまう。私はいつも厭味ったらしくのたまうこいつがそうした事に少し機嫌を良くする。
 部屋で質素な食事を済ます。食器をシンクに置き水に浸し、洗うのは明日にしようと決める。
 部屋は静かだった。殆どテレビを見ない私は、音楽をかける事もせずしばらくぼんやりとしていたが、次第に座っている事すら面倒になってきた。
「あはははは、ゆうちゃん、今日もすぐに戻ってきたんだね」
 ねぇ。
「なんだい?」
 今から、オナる。
「そう、いいよ」
 布団を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。柔らかなその感触は相変わらず居心地がよくて、思考がどんどん鈍くなっていく。
 私がこうしている間だけ、奴は静かだった。そしてそれ以外の時に触れている時はいつも不愉快になる。
 殆ど寝間着と化しているジャージを下着と一緒に半分ほど下ろし、私は露わになった下半身に指を這わせた。最初はゆっくりだったその動きが激しくなり、私の其処が潤う。
 奴が何時も聞いているのだろう喘ぎを、私は今日も零す。
 そして果てる頃、私は泣きたくなる。
 いつからだろう、そうなったのは。
 分からないけれど、私はいつも泣きたくなり、同時にその事で泣く事は絶対に許されないと、もう一人の私がそれを頑なに拒んでいた。
 だから私は、今日も、全てを忘れてそのまま眠ってしまう事にした。


 ちょっと。
「……」
 ねぇ。
「……」
 ねぇってば、聞いてるんでしょ? なんか言ってよ。
「……」
 私はクローゼットに触れていた手を、結局開ける事無く離し、その指先が微かに震えている事に気がついた。
 なにかおかしい。
 だが、私がそれを如何にかする為の術など持ち合わせている訳もなく、混乱する思考を抱えたまま部屋をふらふらと彷徨い、そして何時もの様にベッドに腰かけていた。
「あはははは。ゆうちゃん、なにをそんなに困ってるの?」
 困ってなんかない。
「嘘はよくないな、そんなに動揺しているのに。あの子が沈黙してしまった事がそんなにショックなのかい? まぁ、無理はないかな。君は僕達の中であの子に一番愛着を覚えていただろうしね」
 なんで?
「分からないのかい?」
 分かる訳ないじゃない。なんで、あいつ、いきなり……なにも言わなくなったの?
「それはねぇ、君の中であの子はもう用済みになってしまったと言う訳さ」
 ……用済み?
「そう、君はもうあの子を――あのクローゼットを必要ないものだと思っちゃったのさ。ゆうちゃんはもう面倒になったんだよ、どうせ誰に見せるでもないのに着飾る必要もないじゃないか、だったらあんなクローゼット必要ないってね」
 嘘だ。私はそんな事思っていない。
 澱みのない口調で私に言ってくる奴に私は必死に否定を示そうとする。
 だが、それを最後まで押し通そうとする事が出来ない。
「ゆうちゃん、もう分かっているだろう?」
 なにを?
「僕は君が抱いている布団じゃない」
 じゃあ、なに?
「君だよ。冷蔵庫もクローゼットもドアも、全て君だ」
 笑っているような、何時もの奴の口調。
 本気かどうかも分からないその口振りが私は嫌いで――だけど、深く考える必要がないから気楽で。
「一人ぼっちの君の孤独が生み出した依存対象。それが僕達。そんな事はもうずっと前からわかり切っている事だろう」
 ……うん。
「僕達の誰も君を否定しない。君の自分に対する怒りによって、僕達が君を責める事はしてもだ。それが君が作り出した僕達のルール」
 ……うん。
「君は自分が嫌いで、だけどそんな自分を愛してもいた。だから僕達はなにがあっても離れる事はない。そういう存在でなければならない」
 奴が、いや、奴と言う名の私が、言葉を紡ぐ度に、私は息苦しさを覚える。
「その中で、あの子も存在をしていた。だけどあの子は少し特別だ。なぜなら、あの子は君のお気に入りだったからだ。そう、僕達よりもずっと愛着を込めていた」
 だってあの子は。
 以前の私。
 服が好きだった。
 出かけようとする度、私はなにを着ていくか、例え些細な用事だとしても何時も悩んでいた。それは私の中の女としての性質でもあったし、そうしている時間が楽しめるものでもあったからだ。
「そう、君の生活の中心としてあの子は存在していた。だがもう今はそうじゃない。あの子はその意味をどんどんと失っていった。君も分かっていただろう。そんな自分を責めもしただろう。だけどそれはどうしようもない事だった。そして今日、それは役目を終えた」
 役目を、終えた?
 私は呟く。
 喉が、渇く。
 あぁ、もう、やめてしまおう。
 その答えは聞くまでもない。
 だって、それは私。


「―――――――――――――――――――――――」
「―――――――――――――――――――――――」
「―――――――――――――――――――――――」


 世界は、静かだ。
86, 85

  

幸せになろう


 君、柏木裕子と会う事がなくなってからどれくらいになるだろうか。
 僕はよくそういう事を考えてしまい、そうする度にその思考からいつも逃げ出している。
 そうしてしまうと今以上に距離が離れる気がしたから。
 君と会わない年月、思い出そうとすればきっと「○○○日」と正確に思い出す事も出来ただろう。
 だけどそうやってはっきりとしたものとして認識してしまうと、僕はその果てしない距離に押し潰されてしまう。
 だから僕はいつも君を思い出す時、まるで昨日の事のようだといつも思っている。
 そして記憶はどんな些細な事も鮮明に蘇り、決して風化する事などない。
 だってそれは僅か一日だけのずれでしかないのだから。


「彼女いないの?」
「はい」
「へぇ、もてそうなのにね」
「そうでも、ないですよ」
 苦手な話だった。
 渡辺さん――名前を聞いた事もある気がするが思い出せない――が僕を珍しいものを見かけたかのように興味深げに見つめ、僕はそれに気付かない振りをした。
 彼女と知り合ったのはほんの数日前で、共通の知人を介してだった。その知人が言うには彼女は僕の事を気に入ったと言う事らしい。それを聞いて僕は困ったような顔をしたが、彼は「いいんじゃないの? あいついい奴だぜ」と暗に「お付き合い」を薦めるような台詞を向けてきた。
「青木君ってどんな子がタイプなの?」
「タイプですか? これと言ってないですね」
「それでも、ちょっとくらいはあるでしょう?」
「本当によく分からないんです」
「そう。じゃあ付き合った子がタイプになるって事かな」
「そうかもしれないです」
 僕は曖昧な返事に終始した。
 そうする事で彼女が不機嫌になるかもしれなかったけれど、それはそれで構わないとも思う。
 僕は二人きりの場所で、しかし視線も、気も、彼女には向いていなかった。
 彼女が向けてくる言葉は、僕の中の自動的で機械的な反射のような反応で行われ、どんな言葉も素通りしているだけだった。
 そうしてその間、僕は彼女の事を思い返している。
 窓際で彼女は小説を読むのが好きだった。
 開け放たれた窓から吹き込んだ風にカーテンが揺れていた。一人用の小さな椅子に座り、身体の半分に穏やかな日差しを浴びながら彼女は小説のページをめくる。
 外からは学校から帰ってきたらしい子供達のはしゃぐような声が響いていた。それを聞くと彼女はほんの少し窓の外を見やり、その様子を楽しそうに眺める。
 そして僕はそうする彼女を見つめていた。
 再び小説へと視線を落とした。日陰に包まれていても彼女の表情とその白い肌はとても鮮明で、彼女が笑みを零す時右目よりも左目の方が細くなると言う事を今でもはっきりと覚えている。
「青木君これからどうするの?」
「今日は家に荷物が届く予定なんです」
「そうなんだ」
 僕の無意識が、僕を誘おうとする渡辺さんにやんわりとした拒否を示した。
 渡辺さんは確かに知人の言うとおり、慎ましく、よく出来た人のようで、厚かましい自己アピールをし過ぎる事もなかったし、非難を向ける事もなかった。
「行きましょ」
「はい」
 僕達は適当な距離を歩き、やがて別れた。
 きっと彼女にはもっと似合う誰かがいるような気もする。
 後日、知人から「お前と付き合いたいらしいぜ」と言う事を聞かされた時、僕はそう思いもしたけれど、そんな考えは意味がない事は誰よりも自分が分かっている。
 愛に代替を見繕う事など出来る筈がない。
 例え、僕に似た誰かが現れたとしても、本当に彼女が僕を愛していると言うのなら。
 僕もずっと同じ、彼女だけを愛しているから。


 僕の目の前で柏木裕子は息を引き取った。
 その日は激しい雨が降り注いでいて、様々な色の傘が時折重なり合っては水滴を弾かせていた。
 その雑踏に飲み込まれていた僕は辟易しながら、彼女との待ち合わせ場所へと向かっていた。時計を見る。込み合ってはいるもののなんとか間に合いそうだと思いながらゆっくりとした足取りで進む。
 足元に幾つか出来た水溜りをよける人もいれば、わざとそこに足を突っ込ませる人もいる。
 雨は嫌いだ、と僕が言うと、私も苦手、と少しニュアンスの違う同意を彼女は返した。
 彼女は晴れも曇りも雨もきっと均等に好んでいたのだろう。そこに多少の利便性の差異はあっても。
 車道からクラクションが連続して鳴り響いた。雨のせいかいつもより進みが悪いようで、その苛立ちを示しているようだった。時折急発進をしてはすぐに速度を緩めるという事を繰り返しているトラックが強引に車線変更をした。
 僕はそれも忘れる事は出来ないのだろう。
 もしも。
 そういったものがあるなら、その可能性の方向性をきっとどんな手段をとってでも探ろうとするだろう。
 だが現実はそうすることを許さず、ただ明日へと前進していく事しか出来ない。
 歩くように。
 誰もがそうするように。
 僕が、彼女と会うことになんの疑いもなく、こうやって歩くように。
 一歩足を踏み出すたび。
 一つ呼吸を零すたび。
 その合間に君の事を思い出すたび。
 僕達は未来へと立ち位置を変えていく。
 ほんの少し、雨のせいでいつもより半歩分程の歩幅分。僕の一部が過去になる。
 それはもう、取り返すことの出来ない。
 割り込んだトラックは視界が開けた事によって遅れを取り戻すかのように速度を上げた。
 忙しなくワイパーが雨を弾き飛ばす。それでも尚雨はフロントガラスに降り注いだ。


 もし、君の過去が少し変わっていたならば。
 もし、それによって未来が変わっていたならば。
 その現在は、なかった。
 僕の現在は、なかった。


 トラックが乱暴なハンドルさばきで信号のない十字路を左折しようとし、運転手はそこでようやく横断歩道を渡ろうとしている人影に気がついた。慌ててブレーキに足を伸ばした。だがその速度と、濡れた路面と言う事が相俟って、それは虚しい抵抗でしかなかった。
 慣性に引っ張られるようにトラックの後方が大きく膨らむような挙動でスライドしていった。こうなる事を予見していたかのようにやや距離を取って走行していた後続車がそれでも急ブレーキをかけ、つんざくような音を立てて止まる。
 僕はやや離れた場所から聞こえてきたその不快な音にはっとし、そちらを見やった。
 雨に塞がれた視界のその中で、幾つかの鮮やかな色の傘が中空にその身を投げ出していた。
 そうして地面にふわりと落下していく様子はまるでスローモーションのようで、僕はそれに目を奪われていたが、その幾つかの傘の中に見覚えがある赤い傘を見つけた。
 他の傘と同じように地面へ落ち、取っ手を中心にしてぐるりと回転したその赤い傘は、間違いなく、以前彼女と一緒に買ったものと同じデザインをしていた。
(……そんな、まさか)
 唐突の事に静まり返っていた周囲が再び、先程よりも騒がしくなってきていた。叫び声が「事故だ!」と告げ「人が轢かれた!」と喚いている。
 僕が手にしていた傘が地面へと落ちる。そしてその時僕はそこにはもうおらず、人波を強引に掻き分けながら停止したトラックへと駆け寄ろうとしていた。
 雨が降り注ぐ。全身へと降り注ぐ。まとわりつく感触。そんな僕を不快そうに睨む誰か。だけどなにも分からない。
 寒くて、熱い。内側が全て凍りついていってしまいそうなのに、外側は今にも燃え尽きてしまいそうで。
 僕は転げるように走って、トラックを追い越した。
 そして、そこに横たわった彼女の姿を見て、僕は絶叫し、倒れこむように彼女へと縋る。
 水溜りが出来ていた。
 僕の体がそこに飛び込み、飛沫が上がり、頬にかかる。
「裕子!」
 抱き寄せた彼女の体の冷たさに僕はぞっとし、それを掻き消すように強く叫ぶ。
 時間が、止まる。
 なにも見えない、なにも聞こえない、なにも、感じない。彼女の存在を除いて。
 そしてその存在が、今終わろうとしている。
「ゆうこ!」
 世界が終わる。
 誰かが世界とは自己に内包するものでしかない、と言っていた。
 そうした自己投影を解する事でようやく僕達は世界と言う枠組みを創造し、そこに自分を存在させる事ができる。その前ではその他の事象や変遷などまるで意味を成さず、人間の数だけ世界は存在し、そのどれもが違う形をしている。ゆえにその世界の規模が大であれ小であれ、それ自体に是非はなく、世界を生み出す事によって、ようやく自分が生み出されるのだ。
 ならば、今、僕の世界は終わる。
 彼女と言う投影を失ってしまえば、僕の世界に残るものなどなにもなく、僕自身の意味など最早意味を持たない。
 僕は雨に閉ざされていこうとしている世界の中、それでも最後の望みを願うように彼女の名を叫び続けた。
 だけど、それは届く事もなく、一度だけ、彼女の閉じられた目が開き、僕にそれが向けられたと思うのと同時に、なにも告げる事無く最後の、心臓の鼓動を、終えた。


 だけど世界は今も存在し続けている。
 それを誰かは好意的に捉えてくれる事もある。
 だけど、僕の世界は結局裕子を今でも介してでしか存在していないと言う事は僕だけが分かっていた。
 後ろ向きな、未来。
 だけど、僕にとってはそれが一番の幸せな現在のようにも思えもするのだけれど。
(……ねぇ、裕子。君が一番嫌いになりそうな人種に、僕は今なっている)
 僕は窓際の一人用の椅子に腰を下ろした。そこから彼女が見ていた景色を僕は時折探そうとする。
 ずっと変わらない景色はとうに見飽きてしまっている。だけどそれほど見続けても、僕は彼女のようにそこから見る光景によって笑みを零すような事はなかったし、きっと今の僕ではそれが見つけられないものなのだと言う事もなんとなく分かっていた。
 世界は存在していても、それはやはりあの時とは違うものへと変化してしまったのだ。
 あの時の僕達の投影は、きっと幸福を基準にしていたのだろう。だが今の僕は不幸を基準として世界を構成していて、決してあの時の彼女と同じ視線を持つ事など出来る訳がなかった。
 そして、以前の僕なら見つけられたかもしれないと言う事。
 あの雨の日から僕は涙もろくなった。もしかすると雨を吸いすぎてこうして涙として流さないと排出されないのかもしれない。ならばあとどれだけ泣けばいいのだろう。
(……僕は、君が好きだった僕ではもうないのかもしれない)
 目を閉じ、涙が止まるのをじっと待った。
 ようやく収まると僕は立ち上がり、部屋を出る事にした。特に行き先もなかったが、サンダルを履き近所をうろうろと散策する。
 晴れやかに広がる空を見上げ、僕は習慣になりつつある溜め息を零した。
 そうして思い出すのはいつだって彼女の事で、僕は彼女と過ごした甘く穏やかな日々に浸ろうとするのだけれど、そういったただ思い出すだけの思い出の中では確かに僕達は仲睦まじく微笑みあっている。
 だがそこにいる僕を思い返す度、今の僕はそこに違和感を抱いてしまう。見ているのは確かに自分なのに、そうして見る自分が浮かべる表情や、些細な言動を見つめると、それは本当に自分なのだろうかと疑念を抱いてしまうのだ。
 そして「○○○日前」ではなく「昨日」の君に「○○○日前」ではなく「昨日」の僕が対面した時、それは確信となる。
 その空想の中で僕達はどこかぎくしゃくとし、うまくいかない。なんとか取り持とうとするのだけれど、そうしようとすればするほど僕は空回りし、そして一人で白けた気持ちになっていく。
 そして君はそれでも笑っているのだけど。
 それは、僕が無理やり笑わせているに過ぎない。
 だけど僕は空想の中でそれを誤魔化そうとしている。
 きっと彼女ならこういうだろうと言う事は分かっていた。
「私、うじうじばかりしている人って嫌いなの」
(……今の僕はそれに返す言葉がないんだよ)
 全ては紛い物だと言う事は分かっていた。紛い物で作り上げた世界の中に逃げ込んでいるだけだと。
「○○○日前」の自分だと言う言葉も都合のいい言い訳だと言う事。君の死から今も立ち直れず、いつまでも君の幻影を追いかけ続けている事。その中で変わっていった僕が君と上手くやり取りできずに、いつからか君自身を変えていく事。
 以前の僕ならば――
「一時的にうじうじするくらい勘弁してくれ。いいんだ、そのあとでちゃんといい方向に迎えるなら」
 そう言い返したのはいつで、どんな会話をしていたのだろう。
 思い出せなかった。幾ら四六時中彼女の事を考えていても、やはり幾つかの些細な記憶はおぼろげなものへとなりつつある。
 ただ、そういった僕に、彼女が微笑み返してくれたはずだ、と言うこの記憶はきっと間違いない筈だった。
「それならいいよ。私、過去にどんなに辛い傷を負っても、ちゃんと未来を生きている人が好きなんだ」


 裕子。僕は今でも君の事を愛していると思う。
 いつまでかと問われれば死ぬまで、と答えられるとも思う。
 そんなふうに思う僕を君はどう思うだろうか。
 なにをバカな事を、と笑い飛ばすだろうか。
 ありがとう、と神妙に受け止めてくれるだろうか。
 それともそれ以外の選択肢を選ぶのだろうか?
 どちらにせよ、僕はその選択をしようと思う。
「ねぇ、どうするの、これ?」
「あぁ、来週捨てる事にするよ。考えてみたけどやっぱり必要ないと思うし」
「そう。じゃあそれまでそのままにしておくわよ」
「うん、それでいいよ。なぁ」
「なに?」
「ちょっと出かけてきていいか?」
「え? どこ行くのよ」
 そう追求する彼女に適当な返事をして僕は彼女のアパートから外へと出た。彼女と付き合うようになって二年ほどになり、今はお互いの家を行き来するような半同棲のような暮らしを僕達は続けている。
 彼女からメールが届く。怒っているような様子はなくほっとするが、ついでに買い物をしてきてくれ、と言うその内容に僕は苦笑を零す。
 最寄の駅まで歩き、切符を買い間もなくやってきた電車に乗り込んだ。
 やがて動き出し、僕は車窓から流れていく景色を眺める。すぐに流れていってしまうため細かく見る事は出来ないものの、何駅か過ぎ去る頃、見慣れた光景が飛び込んできて、僕はほんの少し胸が疼くのを感じていた。
 目的の駅に辿り着きホームから出ようとすると小雨が地面を濡らしていた。僕は参ったな、と零しながら近くのコンビにまで走り傘を購入した。透明のビニール傘を差し、再び僕は歩き出す。
 歩道は大降りになる前に早く帰ろうと足早な人達と、どうせ濡れるのだから、と普段通り歩く人達が半々程度で、妙なところでつっかえてしまうような混み具合だった。僕はどちらかと言うとその中ではゆっくりと歩く。
 目の前に出来た小さな水溜りをひょいっと飛び越える。ビニール傘についた水滴が踊るように跳ねた。それが散歩していたらしい犬の目にでも入ってしまったのか、驚いたようにその場で飛び跳ねて飼い主が仰天した。僕はそれに苦笑しながら知らない振りを決め込む。
 そうしてしばらく歩き、僕は付近のものに比べると真新しさを感じさせる信号機が赤になり、僕は立ち止まった。
 車道をトラックがゆっくりとした速度で左折をしている。僕はそれを無言で見送った。荷台の後ろには安全運転を標榜するステッカーが貼られており、担当運転手の名前も張られていた。なんとなくそれに意味があるのかないのか見ているこちらも名前なんてろくに覚えもしないし、とそんな事を考えているうちに信号が青になり、僕は交差点を渡った。
「…………」
 そして僕はその場で立ち止まる。信号機の真下で固まっている僕を周囲の人達が不思議そうに見やりながら少し体をずらして避けるように歩きすぎていった。
(……やぁ、裕子)
 言葉にする事無く、そう彼女に語りかけた。
 僕は彼女が息を引き取ったこの場所にゆっくりと腰を下ろした。水滴のついたガードレールは当時折り曲がっていたと思っていたが、今では当然それも綺麗に修繕されている。
 生前彼女が好きだった黄色い色をした花を買ってきた僕は、ガードレールの足元にそれを供えた。見るとそこには他にも小さな花や開封されていないアルコールの缶があった。誰が置いたのかは分からないがきっと僕以外にも、彼女の事を忘れていない人がいると言う事に僕は喜びを覚える。
(僕は元気でやっているよ。あれから色んな事があった。簡単には説明できないくらいに)
 僕は目を閉じて手を合わせる。
 重なり合った掌から感じるお互いの体温が雨のせいか少しひんやりとした。
「なにしてるの?」
「ん?」
 不意に声をかけられ、目を開けると僕のすぐ傍に小さな女の子が立っていた。女の子はこんなところで、手を合わしている僕が不思議に写ったらしく首を傾げている。
「お祈りしてるんだよ」
「お祈り?」
「ずっと前にここで事故があってね。お兄ちゃんの知り合いが今日亡くなったんだよ」
「事故? いつ頃?」
 女の子はぴんと来ないらしくそう尋ね、僕は彼女の年齢を大体で推測する。
「もう七年になるかな」
「私が生まれる一年前だ」
「あぁ、じゃあ知らなくてもしょうがないね」
 まだ死がどんなものなのか正確に理解する事を出来るわけもないその小さな少女は、それでも先程の僕に習うかのように花に向かって両手を合わせた。そうして「じゃあね」と手を振ると走り出そうとし、僕は思わず「車に気をつけろよ」と言わずにはいられない。
 少女の姿が見えなくなると、僕は吐息を一つ零し、再び花へと向き直る。
 裕子。
 僕は新しい世界を探す事にした。いや、もう見つけたといってもいいかもしれない。どちらにせよ、僕は君がいなくなってから何度か世界を滅ぼして、その度に色んな世界を産みあげてきた。そして今は安定した世界を見つけられたとも思う。君はその事をどう思うだろうか。ねぇ、裕子。君は、僕の世界の住人だ。いつまでも。何度世界が消えても、その度にまた空っぽから始まっても。君はずっと僕の世界に存在している。そして君はこう言う。
 ――いつまでもうじうじしてないで新しい未来を手に入れなさい。
 きっと、そう言うだろう。僕はそう思う。脚色でも、強引に僕が捻じ曲げて言わせた訳でもなく、君が君の言葉として僕にそう言うと僕は確信出来る。
 来年僕は結婚する。相手は渡辺樹里と言う人だ。君にはあまり似ていないかもしれないけれど、僕は彼女の事を愛していて、彼女も僕の事を愛してくれている。
 きっと、幸せになる。
 立ち上がると、雨が止もうとしていた。この様子なら駅に辿り着くころには晴れ間が覗くだろう。そう予測し、僕は傘を雨から花を守るようにガードレールに立てかけた。
 最後にもう一度手を合わし、僕は振り返る。ちょうど信号が青く点灯し、僕は交差点を横断する。
 駅が近くなる頃雨がやんだ。それでも少し濡れた僕は水滴を軽く払っていると、目の前に水溜りが広がっている。
 いつもならよけるそれを、今回はどうせもう濡れているからとそうしない事にし、僕は勢いよく水溜りに足を突っ込んだ。
 雲間からその姿を覗かせた太陽に照らされ、ぱしゃりと跳ねた透明の液体がきらめいた。


 裕子。君がどんな選択をするだろうか。
 僕は少しずつその答えを失っていく。
 だけどそんな今の僕と君が言おうとしている事はきっと同じだ。
 君が過去になっていく事。
 それは寂しくて。
 そして同時に。
 幸せ。
Last impression


「じゃあ、バイバイ」
 そう言って、彼女は僕の前からいなくなった。
 繋ぎ止めるための言葉を既に言い尽くしていた僕はその言葉に対して沈黙で答える事しか出来なかった。
 僕達の恋愛はその日終わり、僕達は「他人ではない、他人よりも遠い」関係になり、僕はその日の夜、一人きりの部屋で静かに、誰も拭ってくれる事のない涙を流し、そうしながらうまく行っていた頃の二人を思い返し、その幸せを噛み締めれば噛み締めるほど、悲しみが溢れ出した。
 なぜ、人は恋をするのだろう。
 なぜ、恋は冷めてしまうのだろう。
 なぜ、愛に終わりは来るのか。
 そんな事を考える頃になったのは、まだしばらく先の話で、その頃の僕はただ、悲嘆に暮れる生活を送り続けている。
 ただ、確かに「しばらく先」になれば、傷心も少しずつ癒えていき、その悲しみも薄らいでいき、僕の中からあの愛した彼女は「他人ではないけれど他人より遠い」存在へとなろうとしている。


『元気してる?』
「うん。そっちはどう?」
『うん……それなりかな』
 歯切れの悪い返事に、僕はどうやら「それなりより下」らしいと推察する。僕がそう思っている事は彼女もすぐに分かったようで、携帯電話の向こう側からは苦笑するような響きが聞こえてきた。
 彼女と別れてもうすぐで二年になろうとしている。そうしてそれだけの歳月を経ても、僕達は時折こうやって連絡を取り合っている。とは言っても、専ら連絡をしてくるのは彼女のほうだった。
「なにかあった?」
『まぁ、色々あるよね、やっぱり』
「色々ってなんだよ」
 実のところ、僕のアドレス帳にはもう彼女の名前は登録されていない。彼女にそれを伝えてはおらず知ればどう思うだろうと
ふと思いもするが、強がるところがある彼女はきっと「ふーん、そうなんだ。ひどい」と笑い飛ばしてしまうのだろう。
 だから言わない。そう言われると僕は少し寂しくなるから。
 その「ふーん、そうなんだ。ひどい」が本当にただの軽い冗談でしかないとしたら、多分傷つくのは僕の方だから。それにそうやっていても、ディスプレイに表示された番号を見ただけで、それが彼女のものだと僕はすぐに気がついてしまうのだ。
「彼氏とうまくいってないの?」
『……うん、まぁ、そっちは相変わらず』
「別れればいいのに。君ならまた新しいいい人を見つける事も出来るだろう」
『またそういう事言う』
「だって」
『幸せじゃない恋愛なんてしても意味がない、って言いたいんでしょ?』
「そう」
 私だって、今が全然幸せじゃない、って言う訳じゃないんだよ。
 君は多分そう言いたいんだろう。
 僕は困ったものだと思いながらマルボロを手に取った。ライターがすぐにはつかず何度かカチカチと音を立てると、彼女が『ちゃんと聞いてる?』と口を尖らせる。
「聞いてるよ」
『もう、直ちゃんはすぐぼーっとするから』
 直ちゃん。僕の事をそんな風に呼ぶのは彼女だけだ。
 彼女はそうやって僕を子ども扱いしたがり、僕はそうされるのがくすぐったいけど嫌いでもない。
 付き合っている頃からそれはずっとそうだった。
 そして今、彼女には新しい恋人がいる。
「大丈夫だよ、ちゃんと聞いてる。静枝はどうしたいの? その彼氏と上手くやっていきたいの?」
『まぁ、そりゃあね』
「だったら、僕と話すよりも今すぐ彼氏に電話でもして話し合うのが一番いいと思うけどね」
『あー、なんでそんな突き放すような事言うの?』
「そうは言っても、僕と話したってしょうがないだろ。その男の事も知らないんだからアドバイスのしようもない」
『そうだけどぉ、ちょっと聞いてもらいたかったの』
 ごめん、と彼女がもごもごと言う。
 僕はそれに小さく苦笑する。しょうがないなぁ。そんなふうに思う。
 ゆっくりと煙草の煙を吐き出した。蛍光灯に照らされ層を作る煙が渦を巻き、そしてゆっくりと薄まっていく。
『そういえば直ちゃんは彼女とか出来た?』
「いいや」
『そうなの?』
「いたら君とこんなふうに長電話してないよ」
『前出来たって言ってなかった?』
「別れた」
『なんで!?』
 さぁ、なんでだろう。
 僕は、それを彼女に尋ねたくなる。
 なんで君は僕を振ったの?
「まぁ、愛情も冷めてしまえばあっけなく終わってしまうものなんだろう」
『なによ、その達観した台詞は』
「こっちも色々あるからさ」
『そうだよね……別れてから二年だもんね。直ちゃんも変わるよね』
 彼女が追憶をしたようで、少し声のトーンが甘いものに変わった。それは以前では普段からよく聞いていたもので、僕も懐かしさに胸の辺りが少し暖かくなり、そしてぐっと強く掴まれたように息苦しさも同じ程度に覚える。
『あの頃楽しかったなぁ。色んな事したよね』
「そうだね、楽しかった」
『直ちゃんも?』
「うん、今でも思うよ。君と付き合って僕は幸せだった」
 ストレートな僕の言葉に彼女は『もう、やだ』と笑う。
 ねぇ、僕は、変わってないよ。
 色々あったけど、僕は変わっていない。本当にそう思う。あの頃君を愛していた時の僕は今もここにいる。
『私も幸せだったよ』
「そう、よかった」
『ごめんね』
 もう、何度その言葉を僕は聞いただろう。
「いいよ」
『今の彼氏より直ちゃんのほうが優しかったし、かっこよかったよ』
「だったら別れなかったらよかったのに」
 だったら今からでも戻ってくればいいのに。
 その一言が、ずっと言えない。
 僕は君に戻ってきてほしいのに。
 その言葉は、ずっと言えない。
『本当だね』
「まぁ、今更だけど」
 ねぇ、本当に。
 僕はバカな奴だ。
 やがて彼女からその甘さが遠ざかっていく。過去から現在へと意識は回帰され、そして彼女は「他人の女」になる。
「少し眠くなってきた」
『あ、もうこんな時間。そろそろ寝ないとやばいね』
「うん、静枝」
『ん?』
「僕はその相手の事を知らないけれど、君が好きになった相手だろう? やり直そうと思えば、まだなんとか出来るかもしれないよ。だって君もその人のことをいいと思ったんだろう?」
『出来るかな』
「出来るよ、静枝なら」
『そんな持ち上げられてもなにも出ないよ』
「いらないよ。持ち上げてる訳じゃない。静枝ならきっといい恋愛が出来るはずだよ」
『出来るかなぁ、私に』
「出来るよ。大丈夫。僕が保障する。君はとても優しくて魅力があると思う」
『ありがと』
「うん、じゃあ、おやすみ」
『うん、おやすみなさい』
 またね。
 いつだってそう言った事はない。
 きっと、そう言ってしまうと期待してしまうし、期待してしまうとそれが叶わなくなった時、僕は酷く落ち込んでしまうだろうから。
 それは僕の強がりだ。そして以前とは違う形とは言え、また彼女に振られてしまう事を恐れているのだ。
 だけど心のどこかでは、いつかそうなる事は避けられないのだと冷静な自分がおり、そしてそれは喜ぶべき事なのだとも言っている。
 僕達は「他人」になるべきなのかもしれない。


 恋愛の終わり方や始まり方に、面倒くさい説明なんて必要ないのだろう。きっと。
 だから彼女に振られた僕だって、きっといつまでも切りのない回答探しを続けても意味などないのだろう。
 自分に魅力がなかったのだろうか。新しい恋人達は僕にはないものを持っていたのだろうか。
 彼女はなぜ僕から遠ざかっていったのだろうか。僕とはもう一緒にいられないと思った原因はなんだったのだろうか。
 きっと全て一言で片付けてしまう事が出来るのだろう。
 ただ、変わった、のだと。


 彼女から連絡が来なくなり、数年が経った頃、彼女が結婚をすると言う話を耳にした。
 少し胸に痛みを覚え、そしてその日の夜彼女から電話がかかってきた。
 残念だけど内容は殆ど覚えていない。
 ただ、結婚式によかったら来ないかどうかと尋ねられ、僕はそれを断ったことははっきりと覚えている。
『友人としてくればいいじゃない』
「バカ言うなよ」
『えー、だめかなぁ』
「やめとくよ。君の花嫁姿を見たらなんか凹みそうだから」
『そっかぁ』
「でもおめでとう。よかったね」
『うん、ありがとう』
「幸せになるんだよ」
『うん。けどいいのかな。私なんかが幸せになっちゃって』
「なに言ってんだよ。いいに決まってるだろ。静枝には幸せになる権利があるよ。胸を張って幸せになれよ」
『うん、そうだね』
 そうだ。それでいいんだ。
 だってそれは僕の願いでもあるから。
 君に幸せになってほしい。
 例えそこに僕がいなくても。そこにいるのが僕の知らない誰かでも。
 君が幸せになれば、僕はそれだけで幸せだと、心から思う。
 時折、懐かしさがこみ上げてくる。
 あの頃の僕と君が蘇る。
 君の笑顔が好きだった。
 だから今も笑っていればいい。
 最後までそうだったら。


 ただ、変わった。
 愛情は終わる事無く、ただ変わった。
 きっと僕は――


「他人より遠い距離から君を想う」


 それだけ。
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