彷徨いヘイト
「春日君、なんで車セルシオなの?」
「なんでって、お金が余ってたから」
「それだけ? 好きだからとかじゃないの?」
「同僚にせっかくだから買ってみたらって言われたから買ってみたくらいだね」
「そうなんだ……じゃあ、私そろそろ行くね」
「うん、じゃあ」
「バイバイ」
そう言って歩き去っていく女子校生らしい女の子と、静かに走り去ろうとしている白い高級車を見比べながら、相原雫は陰鬱な気持ちを抱えながら歩いていた。大学生の彼女は今までそんな車に乗った事もなかったし、そうやって助手席から降りた自分を見送って貰った事もなかった。
それを彼女は全てはこの容姿のせいだと思っている。ふと視線をずらすとガラスに映る自分の姿があった。そのすぐ傍にそのガラスで髪形を直している若い男性がおり、雫は慌ててそこから目を逸らす。まるで彼と違い自分はそうやってガラスで自分の姿を見ることは罪深いとでも言うようだった。
彼女は自分が嫌いだ。
幼い頃からよく自分の容姿の事でからかわれた。腫れぼったい一重の目に、ずんぐりとした丸い鼻や厚い唇に四角い輪郭は彼女のコンプレックスで、何度ストレートパーマをかけてもすぐに崩れていくくせ毛も大嫌いだった。
先程の女子校生はきっと色んな人からちやほやされているのだろう。そしてそれを当然として毎日楽しく暮らしているに違いない。
そんな逆恨みのような感情を抱きながら彼女は家路を急いでいた。あまり人目につくのが彼女は好きではない。最近は自棄食いがたたって腰周りが大分たくましくなってきていてそれもまた彼女を卑屈にさせていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯食べる?」
「ううん、今日いらない」
出迎えてくれた自分にそっくりな母親にそう断ると彼女は自分の部屋へと戻り、ベッドに飛び込んだ。テレビを付け、アイドルが笑いながら「私男運がないんですよねー」と言っているのを聞きながら、どうせ視聴者にとって都合のいい事や自分の株を上げる為だけのコメントしかいわないくせに、と毒づいた。
(……なにを言っているんだろう、私は)
ふと我に返り、テレビ相手に文句を言っている自分が馬鹿みたいに思えた。だが自分が最近独り言を呟くようになってきているのは確かだった。その事実が彼女をまた焦燥させる。
誤魔化すように友人にメールを送る。だがタイミングが悪かったのか返信は返ってこない。雫は大きく溜め息を吐き寝返りをすると、寝間着が下腹に食い込む感触を覚え、ダイエットしなくてはと考えたが、しかしそれをしたところでなにか意味があるのだろうか、とふと悩んだ。
処女である彼女は今まで恋人と呼べる相手がいた事もなかった。高校生の時同じクラスの男子に恋心を抱いた事があったが、その想いは彼に伝えるよりも早くふとした事でクラス中にばれてしまい、その時の男子生徒の表情を雫はきっといつまでも忘れられないだろうと思っている。そしてそれ以来、自分には恋愛をする資格などないし、そう思うことこそおこがましく、自分を愛してくれる男なんてきっとこの世にはいないだろうとすら思っている。
自分の容姿が劣っている事を意識しだしたのもその頃からだった。思春期を過ぎ、異性と言う存在を意識しだす頃、自分がそこにいるだけでも不快感を感じさせてしまうと言う事に気がついた。彼女は最初それを相手は矮小な心の持ち主だと思ったが、二十歳になった今ではそれはどうしようもない現実なのだと身をもって知った。
(……死ぬまで私誰とも付き合うことないのかしら)
そう考え、なら一体自分はなんで今生きているのだろうか、と彼女は胸の中でその疑問を反芻し続ける。
諦め。
だが、その感情を否定しているのは誰よりも自分だと言う事を気がついてはいた。
彼女は誤魔化すようにパソコンが置かれたテーブルへと向き直る。ちょうど先ほど送ったメールが届き彼女は携帯電話を開いた。返信をしようとボタンを押す。
『知ってるかな、この話。ネットでね、一万円で願い事が叶うって言うの』
「奈菜先輩」
そう言って後ろから抱き付いてきた杏里に、驚いてバランスを崩しかけると彼女はそれに喜ぶように更に強く抱きついてきた。
「本当、仲いいよね君ら」
「そうですよ、ね、奈菜先輩」
「はいはい、そうですね」
腰辺りにまわされている彼女の手をゆっくりと解こうとする。彼女はどうやらまだくっついていたいようで駄々をこねたが、奈菜はバイト中にまでいちゃつくのはあまり好きではないので「はい、お終い」と体を離した。
その二人を見ていた店長はまさか二人がそういう関係だとは露とも思っておらず、ただ女同士のスキンシップだと解釈しており微笑ましいなどと思っていた。お人よしで疑う事を知らないような彼は、そういった性癖の持ち主が自分の身近な場所にいると言う事など想像もしていなかったし、そういうものは遠い遠いどこかでのみ存在していると思っている。
二人がバイトしているのは大型の複合ショッピングモールの中にある雑貨店だった。郊外に立てられたその立地のため平日は閑散としており、二人は適当に掃除をしたりしながら時間を潰していた。杏里は退屈そうに店内をうろつきながら時折通路を通る他店舗の従業員に「お疲れ様でーす」などと声をかけていた。
「黒崎さん、ちょっといいかな」
「はい?」
レジの傍で書類整理をしていた店長が顔を上げ、彼女を呼び寄せた。
「悪いんだけど今日早上がりしてもらってもいいかな。一時間早めて彼女と一緒にあがってもらっていい? あとちょっと裏で事務してきていい?」
「まぁ、暇ですもんねぇ。夜からも人来るし」
店長は「本当ごめん」と目の前で手を合わせた。彼女は「いいですよ、別に」と明るく笑う。予定を早めて引き継ぎのための作業でも始めようと思い、杏里にそれを伝えると彼女は「じゃあ、一緒に帰りましょう!」と手を叩いた。
「別にいいけど」
「せっかくだからどっか寄っていきましょうよ」
レジに立つ彼女の横に素早く並ぶと、人目がない事を確認するとその体を一際摺り寄せてきた。
「ちょっと、杏里近いって」
「いいじゃないですかぁ」
「お客さん来たらどうするの?」
「誰も気にしませんよ、女の子同士だし」
以前よりやたら積極的になった彼女に呆れたように笑いながら、まぁ、いいかと思い放っておく事にした。彼女はすぐ傍でニコニコと笑いながら書き物をしている奈菜を見つめている。
「ねぇ、奈菜先輩。今日も先輩の家行っていいですか?」
「家でなにするの?」
「えー、やだ」
彼女は本当に照れたらしく頬を赤くした。そういう初心なところを奈菜は可愛らしいと思うが、彼女の様子を見ているとあと一ヶ月か二ヶ月すると見られなくなるかもしれない、と思い少し勿体無いなどと思う。それはきっと自分のせいでもあるのだが、思った以上に彼女は恋愛に対して積極的だった。
彼女と付き合うようになって三ヶ月程になる。それまで杏里は同性と付き合うと言う事はなかったし、考えもしなかった。それまでは何人かの異性と付き合ってもいたし、自分がそういう性的趣向を持っているなどと想像もしない事だった。
初めて彼女と体を重ねた日、その日も二人は酔っ払っていた。いや、酔っ払っていたのは杏里だけで奈菜は顔は赤いものの意識ははっきりとしていた。ふらついている彼女を部屋へと連れてきて、最初は冗談のように彼女の体に手を伸ばしていた。酔っ払ってなにがなんだか分かっていない彼女は最初それを奈菜がふざけているのだと思っていたが、そうしている内にどんどん中心へと手が迫ってくる事に気がついたが、その時にはもう自分は官能的な喜びを感じていて拒否する事は不可能だと気がついた。
杏里は俯いている奈菜の髪に触れながらその柔らかな感触を楽しんだ。奈菜の「集中できないでしょ」と非難を「ごめんなさい」と謝るが一向にやめる気配がなく、奈菜は仕返しに唐突に彼女の手を掴むとその手を引っ張った。レジが陰になって外からは見えない場所で、彼女は杏里の指を口に含んだ。その細い指に下を這わせると杏里が若干驚きを混ぜた身近な声を上げ、そのあと深い吐息を吐き出した。
「奈菜先輩、ダメだよ、こんなところで」
「誰も気にしないって言ったじゃない」
「そうですけど」
尚も続けて彼女が静かになるころ、ようやくその手を離すと彼女は再び書類に視線を戻した。杏里はしばらくぼんやりとした様子で彼女に舐められた指先をもう片方の手で擦りながら店内を再びうろうろとしていた。
そんな彼女を見ながら、奈菜はふと春日の事を思い出した。彼はなにもなかったと言っていたが、彼女は自分達が行為を始めたために彼が部屋から出て行った事にも気がついていたし、あの翌朝の彼の様子を見ても、その態度が誤魔化しているといった素振りは一切なく、二人の関係など気付いてもいないというようでも、もしくはそう言う関係だろうと別に自分には関係ないとでも言いたげだった。
(……面白い人だよね、彼)
一体、彼はなにに興味をもつのだろうか、とそんな事を思っていると時間がやってきた。二人はタイムカードを切り更衣室へとやってくると着替え始めたが、シャツを脱いだところで再び杏里が抱きついてきた。
「ちょっと」
「だって先輩が指舐めたりするから」
「更衣室にずっといたらおかしいでしょ」
「どうせ話が長引いてるくらいにしか思わないですよ。ねぇ、触って?」
そう言って彼女が奈菜の手を取り、彼女のそこへと案内した。下着の中へと入れられたその指先で触れたそこは確かに濡れており、彼女は指が微かに動くと甘い吐息を吐いた。
「奈菜先輩のせいだから」
彼女は濡れた目でこちらを見ながら猫なで声を出した。奈菜は「もう」と言うと、指先を先程よりも少し早く動かした。彼女が自分の方へとよりかかり、その感触を感じながら、
(面倒くさいな)
と冷めた思考を彼女は巡らせた。
「なんでって、お金が余ってたから」
「それだけ? 好きだからとかじゃないの?」
「同僚にせっかくだから買ってみたらって言われたから買ってみたくらいだね」
「そうなんだ……じゃあ、私そろそろ行くね」
「うん、じゃあ」
「バイバイ」
そう言って歩き去っていく女子校生らしい女の子と、静かに走り去ろうとしている白い高級車を見比べながら、相原雫は陰鬱な気持ちを抱えながら歩いていた。大学生の彼女は今までそんな車に乗った事もなかったし、そうやって助手席から降りた自分を見送って貰った事もなかった。
それを彼女は全てはこの容姿のせいだと思っている。ふと視線をずらすとガラスに映る自分の姿があった。そのすぐ傍にそのガラスで髪形を直している若い男性がおり、雫は慌ててそこから目を逸らす。まるで彼と違い自分はそうやってガラスで自分の姿を見ることは罪深いとでも言うようだった。
彼女は自分が嫌いだ。
幼い頃からよく自分の容姿の事でからかわれた。腫れぼったい一重の目に、ずんぐりとした丸い鼻や厚い唇に四角い輪郭は彼女のコンプレックスで、何度ストレートパーマをかけてもすぐに崩れていくくせ毛も大嫌いだった。
先程の女子校生はきっと色んな人からちやほやされているのだろう。そしてそれを当然として毎日楽しく暮らしているに違いない。
そんな逆恨みのような感情を抱きながら彼女は家路を急いでいた。あまり人目につくのが彼女は好きではない。最近は自棄食いがたたって腰周りが大分たくましくなってきていてそれもまた彼女を卑屈にさせていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯食べる?」
「ううん、今日いらない」
出迎えてくれた自分にそっくりな母親にそう断ると彼女は自分の部屋へと戻り、ベッドに飛び込んだ。テレビを付け、アイドルが笑いながら「私男運がないんですよねー」と言っているのを聞きながら、どうせ視聴者にとって都合のいい事や自分の株を上げる為だけのコメントしかいわないくせに、と毒づいた。
(……なにを言っているんだろう、私は)
ふと我に返り、テレビ相手に文句を言っている自分が馬鹿みたいに思えた。だが自分が最近独り言を呟くようになってきているのは確かだった。その事実が彼女をまた焦燥させる。
誤魔化すように友人にメールを送る。だがタイミングが悪かったのか返信は返ってこない。雫は大きく溜め息を吐き寝返りをすると、寝間着が下腹に食い込む感触を覚え、ダイエットしなくてはと考えたが、しかしそれをしたところでなにか意味があるのだろうか、とふと悩んだ。
処女である彼女は今まで恋人と呼べる相手がいた事もなかった。高校生の時同じクラスの男子に恋心を抱いた事があったが、その想いは彼に伝えるよりも早くふとした事でクラス中にばれてしまい、その時の男子生徒の表情を雫はきっといつまでも忘れられないだろうと思っている。そしてそれ以来、自分には恋愛をする資格などないし、そう思うことこそおこがましく、自分を愛してくれる男なんてきっとこの世にはいないだろうとすら思っている。
自分の容姿が劣っている事を意識しだしたのもその頃からだった。思春期を過ぎ、異性と言う存在を意識しだす頃、自分がそこにいるだけでも不快感を感じさせてしまうと言う事に気がついた。彼女は最初それを相手は矮小な心の持ち主だと思ったが、二十歳になった今ではそれはどうしようもない現実なのだと身をもって知った。
(……死ぬまで私誰とも付き合うことないのかしら)
そう考え、なら一体自分はなんで今生きているのだろうか、と彼女は胸の中でその疑問を反芻し続ける。
諦め。
だが、その感情を否定しているのは誰よりも自分だと言う事を気がついてはいた。
彼女は誤魔化すようにパソコンが置かれたテーブルへと向き直る。ちょうど先ほど送ったメールが届き彼女は携帯電話を開いた。返信をしようとボタンを押す。
『知ってるかな、この話。ネットでね、一万円で願い事が叶うって言うの』
「奈菜先輩」
そう言って後ろから抱き付いてきた杏里に、驚いてバランスを崩しかけると彼女はそれに喜ぶように更に強く抱きついてきた。
「本当、仲いいよね君ら」
「そうですよ、ね、奈菜先輩」
「はいはい、そうですね」
腰辺りにまわされている彼女の手をゆっくりと解こうとする。彼女はどうやらまだくっついていたいようで駄々をこねたが、奈菜はバイト中にまでいちゃつくのはあまり好きではないので「はい、お終い」と体を離した。
その二人を見ていた店長はまさか二人がそういう関係だとは露とも思っておらず、ただ女同士のスキンシップだと解釈しており微笑ましいなどと思っていた。お人よしで疑う事を知らないような彼は、そういった性癖の持ち主が自分の身近な場所にいると言う事など想像もしていなかったし、そういうものは遠い遠いどこかでのみ存在していると思っている。
二人がバイトしているのは大型の複合ショッピングモールの中にある雑貨店だった。郊外に立てられたその立地のため平日は閑散としており、二人は適当に掃除をしたりしながら時間を潰していた。杏里は退屈そうに店内をうろつきながら時折通路を通る他店舗の従業員に「お疲れ様でーす」などと声をかけていた。
「黒崎さん、ちょっといいかな」
「はい?」
レジの傍で書類整理をしていた店長が顔を上げ、彼女を呼び寄せた。
「悪いんだけど今日早上がりしてもらってもいいかな。一時間早めて彼女と一緒にあがってもらっていい? あとちょっと裏で事務してきていい?」
「まぁ、暇ですもんねぇ。夜からも人来るし」
店長は「本当ごめん」と目の前で手を合わせた。彼女は「いいですよ、別に」と明るく笑う。予定を早めて引き継ぎのための作業でも始めようと思い、杏里にそれを伝えると彼女は「じゃあ、一緒に帰りましょう!」と手を叩いた。
「別にいいけど」
「せっかくだからどっか寄っていきましょうよ」
レジに立つ彼女の横に素早く並ぶと、人目がない事を確認するとその体を一際摺り寄せてきた。
「ちょっと、杏里近いって」
「いいじゃないですかぁ」
「お客さん来たらどうするの?」
「誰も気にしませんよ、女の子同士だし」
以前よりやたら積極的になった彼女に呆れたように笑いながら、まぁ、いいかと思い放っておく事にした。彼女はすぐ傍でニコニコと笑いながら書き物をしている奈菜を見つめている。
「ねぇ、奈菜先輩。今日も先輩の家行っていいですか?」
「家でなにするの?」
「えー、やだ」
彼女は本当に照れたらしく頬を赤くした。そういう初心なところを奈菜は可愛らしいと思うが、彼女の様子を見ているとあと一ヶ月か二ヶ月すると見られなくなるかもしれない、と思い少し勿体無いなどと思う。それはきっと自分のせいでもあるのだが、思った以上に彼女は恋愛に対して積極的だった。
彼女と付き合うようになって三ヶ月程になる。それまで杏里は同性と付き合うと言う事はなかったし、考えもしなかった。それまでは何人かの異性と付き合ってもいたし、自分がそういう性的趣向を持っているなどと想像もしない事だった。
初めて彼女と体を重ねた日、その日も二人は酔っ払っていた。いや、酔っ払っていたのは杏里だけで奈菜は顔は赤いものの意識ははっきりとしていた。ふらついている彼女を部屋へと連れてきて、最初は冗談のように彼女の体に手を伸ばしていた。酔っ払ってなにがなんだか分かっていない彼女は最初それを奈菜がふざけているのだと思っていたが、そうしている内にどんどん中心へと手が迫ってくる事に気がついたが、その時にはもう自分は官能的な喜びを感じていて拒否する事は不可能だと気がついた。
杏里は俯いている奈菜の髪に触れながらその柔らかな感触を楽しんだ。奈菜の「集中できないでしょ」と非難を「ごめんなさい」と謝るが一向にやめる気配がなく、奈菜は仕返しに唐突に彼女の手を掴むとその手を引っ張った。レジが陰になって外からは見えない場所で、彼女は杏里の指を口に含んだ。その細い指に下を這わせると杏里が若干驚きを混ぜた身近な声を上げ、そのあと深い吐息を吐き出した。
「奈菜先輩、ダメだよ、こんなところで」
「誰も気にしないって言ったじゃない」
「そうですけど」
尚も続けて彼女が静かになるころ、ようやくその手を離すと彼女は再び書類に視線を戻した。杏里はしばらくぼんやりとした様子で彼女に舐められた指先をもう片方の手で擦りながら店内を再びうろうろとしていた。
そんな彼女を見ながら、奈菜はふと春日の事を思い出した。彼はなにもなかったと言っていたが、彼女は自分達が行為を始めたために彼が部屋から出て行った事にも気がついていたし、あの翌朝の彼の様子を見ても、その態度が誤魔化しているといった素振りは一切なく、二人の関係など気付いてもいないというようでも、もしくはそう言う関係だろうと別に自分には関係ないとでも言いたげだった。
(……面白い人だよね、彼)
一体、彼はなにに興味をもつのだろうか、とそんな事を思っていると時間がやってきた。二人はタイムカードを切り更衣室へとやってくると着替え始めたが、シャツを脱いだところで再び杏里が抱きついてきた。
「ちょっと」
「だって先輩が指舐めたりするから」
「更衣室にずっといたらおかしいでしょ」
「どうせ話が長引いてるくらいにしか思わないですよ。ねぇ、触って?」
そう言って彼女が奈菜の手を取り、彼女のそこへと案内した。下着の中へと入れられたその指先で触れたそこは確かに濡れており、彼女は指が微かに動くと甘い吐息を吐いた。
「奈菜先輩のせいだから」
彼女は濡れた目でこちらを見ながら猫なで声を出した。奈菜は「もう」と言うと、指先を先程よりも少し早く動かした。彼女が自分の方へとよりかかり、その感触を感じながら、
(面倒くさいな)
と冷めた思考を彼女は巡らせた。
どうして一万円にしたかと言う事を彼は覚えていない。
と言うより、その時も大して明確な理由などなかった。ただ、シンプルだったからだ。
それはネット上にある無数の掲示板の内の一つにある日書き込まれた一つの書き込みから始まった。
当初は誰も信用しなかったし、殆どの者が鼻で哂った。
だがその中にも一人くらいはそういった話を信じてみようとする者がいる。もしくはそれは下らない話にも付き合ってみようと言う好奇心であったり、バカな事をしている輩をとっちめてやろうと言う場違いな正義感だったりもする。
――じゃあ、俺行ってみようかな。ちょうどやってもらいたい事あったし。
最初の反応はその程度のものだったが彼にとってはそれで充分だった。なんでも最初から上手く行く事などそうそうある訳ではない。
――じゃあ、君で決まりだ。待ち合わせ場所は先にも書いたとおり、中央公園のブランコのそばにあるベンチで。
そう返事をした。果たして彼はやってくるだろうか、と思いもしたが当日になると約束どおり彼はやってきた。掲示板の強気な態度とは違って礼儀の正しい少年で、話している内に自分はなにをやっているのだろうかと思ったが、話を聞き終わった後口にしたのは「じゃあ、お金を貰おうか」だけだった。
少年は「本当にそれするのに一万円でいいの?」と聞いてきたが彼は頷いた。
「別に金が欲しい訳じゃない」
「じゃあ、なんでこんな事しようと思ったの?」
そう聞かれる事は予め予想はついていた。なので彼は前もって用意しておいた台詞をスムーズに言う事が出来た。まるで今まで何度も練習していたかのようにスムーズに吐き出されたその言葉に、酷く満足したのを覚えている。
「金を貰って、金で貰えないものを貰ってみたいと思ったんだ」
その日、茜はその掲示板を見ながら数分置いては更新すると言う作業を繰り返していた。恵子に聞いた話が気になったからだった。その話はあまり真実味があるとは思えなかったが、恵子も半信半疑だったし、それを嘘か真かを確認するための時間は彼女にとっては充分に余っていた。
――一万円でね、なんでも願い事を聞いてくれるんだって。
恵子が言ったのはそれだけだった。なんでも一ヶ月に一回その「一万円でなんでも言う事を聞く男」はこの掲示板に現れるそうだった。一ヶ月と言うのはあくまで大体で二週間に一度の時もあれば、二ヶ月に一回の時もあるらしい。ただ共通しているのは月曜日の午後八時ごろに彼は現れると言う事だった。あまりに出没するタイミングがバラバラすぎると捕まえる事に苦労して飽きられそうだし、逆に八時きっかりではないところがそこにしばらくいなければならないと気持ちにさせられるので、うまくバランスを取っている、と茜は思った。
現に掲示板では彼以外の書き込みが幾つか書き込まれ、彼が現れるのを楽しみにしている様が見て取れた。
――そろそろじゃね?
――だな、今日こそ俺がゲットしてやる
――いやいや、俺が
――お前ら、どうせ大した願い事じゃないんだろ? なぁ、頼むから俺に譲ってくれよ。俺はマジなんだよ。
――うっせーよ!! 俺だって大マジなんだよ!
そんな書き込みを見て茜はそんなに興奮するような事なのだろうか、と思いながらも自分だったらなにを願うだろうか、と考えてみた。
恵子の話では、その書き込みはもう一年以上前から行われているようだった。
月曜日の夜八時頃、その掲示板にそれは書き込まれる。
――一万円で願い事を叶えてあげようと思う。この書き込みの後に最初に希望の書き込みをした人にその権利を与えるよ。○○県○○市にある中央公園のブランコ傍にあるベンチで座って待っている。
最初その書き込みが現れた時は、大した反応はなかったらしい。当然だ。そんな話をこんな掲示板でされても信じろと言う方が無理がある。それも自分が一万円を払って見知らぬ他人に願い事を叶って貰うなんて話は荒唐無稽のなにものでもなかった。しかしそれでも、何事にでも首を突っ込みたがる連中と言うのはいるもので、会ってみようと言う事になったらしい。当時の掲示板では賛否両論の書き込みが行われたらしい。楽しそうだ、と言う者もいれば、危険だ、会うのはやめておけ、と言う感じに様々だったが、数日後の書き込みでそれは更に加熱した。
――ありがとう、問題は解決したよ。まさか本当に一万円でやってくれるとは思わなかった。君に会えてよかったよ。
やれ、これは自演だろう、いや、本当に願い事叶えてもらったんじゃね? どんな願い事したんだ? つか一万円でなんでも聞くわけ? 十万円くれとかあり? ちょっと待てよ、じゃあ俺の願い事も聞いてくれよ! バカじゃねーの? そんな上手い話ある訳ねーじゃん。どうせ下らない事だったんだろ? どうでもいいけど一万円って結構高くね? いや、貧乏人の発想だろ。それ。
そんな感じで当人達以外は喧々囂々と思い思いの書き込みをしていたのだが、その結論は翌月にははっきりとした明確な答えが出される事で沈静化した。
――一万円で、願いを叶えるよ。この書き込みの後、最初に希望した人にその権利を与える。
前回と同じだった。数日後に感謝を告げる書き込みが行われる事までまるで先月の繰り返しを見ているようにそれは行われた。そして、その書き込みはどうやら本当のようだ、と言う結論だけが残った。
そして今では、月曜日の午後八時は、この掲示板にいる彼らの競争の場と化している。
「一万円で願いを聞いてくれる彼」からの権利を貰うために。
(本当なのかしら?)
茜はもう一度キーボードのF5を押した。そうやって話を聞いてみても、自分の目で見てみない限りは到底信じる気になれなかった。時計を見る。まもなく八時になろうとしている。彼女は都市伝説のようなものを今自分は見ているのだと思っていた。本当かどうか分からないから面白いと思える曖昧な話のうちの一つ。嘘だったら嘘でそれだけの事だ。
そう思いもう一度F5を押した時だった。唐突にそれは画面に現れた。
――こんばんは。一万円で願いを叶えるよ。この書き込み以降、最初に希望した人にその権利を与える。
その文字が、確かに掲示板に書き込まれていた。
「……本当なんだ」
彼女は狐に摘まれたような呆然とした表情を浮かべた後、自分も参加してみるべきかどうかを考えた。しかしそこまで考えて彼女ははっとしもう一度F5を押した。
――お願いします。
――ノ
――ノシ
――ノ
――はい! 俺! 俺!
――頼む。
――俺だあああああああああああ!!!!!
そのような書き込みが一斉に行われていた。一体今までどれだけの人がこの掲示板を見ていたのだろうか、と驚く程のその書き込みはしばらくすると、書き込みが遅れたことに対する無念さを嘆く書き込みが続く事になった。
――くそがあああああああああああ!!
――なぁ、初めの人! 権利譲ってくれ! 頼む!
――あーあ。また一ヶ月待ちかぁ……
――一時間前から待ってたのに!
――俺なんか二時間前から待ってたのに……
――待ちすぎだろ……バカか
茜はなんだか目の前で行われているやりとりが本当に行われているのかどうか分からなくなってきていた。
ただ、どうやら実際にこれで誰かと誰かがあっているのは間違いないようだった。
――じゃあ、328の書き込みをした人に決定だ。メールアドレスを教えてくれれば連絡をする。場所などはまたその時に決めよう。
『じゃあ、明後日駅前の噴水広場に十六時に待ち合わせでいいかな?』
『はい。よろしくお願いします』
『分かった。じゃあ』
来生真耶はそう打ち終えると携帯電話を仕舞いベッドに寝転がった。もうこうやって掲示板に書き込むのも慣れていたし、それは見ている方も同じようで彼にとっては都合のいい事だった。
彼は明後日どんな人物がやってくるのかと言う事を想像する。長くやっていてもそうやって想像を巡らすのは飽きなかった。と言うよりもこうやって想像している間が一番楽しいように思う。
(……一体次はどんな願い事がやってくるのだろうか?)
中には下らないと思うようなものもあった。そういう時彼は幻滅を覚えるが、しかし約束をした以上破る訳にはいかなかったし、それ以上に話を聞くだけでも内心で胸が躍るような願いを叶えている者に会える事が彼は楽しみだったので、この掲示板への書き込みをやめようと言う気はまるで起こらなかった。
携帯電話が鳴り、ディスプレイを見る。その相手を見て彼は面倒くさい、と言う表情を露骨にしながらもすぐに通話ボタンを押した。
「ハーイ」
『ハーイじゃないよ、マヤ。僕のお願いどうなってる? マヤが言った日からもう二日は過ぎてるのにまだ届かない』
「あぁ、悪い。ちょっと忙しくてまだやってない」
そう言うと片言の日本語を喋る彼は酷く激昂した。
『冗談じゃないよ! なんのために僕は日本にいると思ってる!? マヤ! 頼むから早くしてよ!』
「分かってる、悪かったよ。明日には済ませておくからもうちょっと待ってくれ」
そう言うと彼は何度も「本当か!?」と念押しをし、真耶が笑って大丈夫と伝えると幾分は落ち着いたようだった。
『頼むよ、あぁ、それとお金の方だけど』
ふむ、と先を促せた。彼が金の話を自分からしてくる時は大きく動いた時だけだ。
「増えた? 減った?」
『増えたよ。幾ら増えたかは自分で調べて』
「分かった」
通話が切れ、彼は再びベッドに寝転がった。
と言うより、その時も大して明確な理由などなかった。ただ、シンプルだったからだ。
それはネット上にある無数の掲示板の内の一つにある日書き込まれた一つの書き込みから始まった。
当初は誰も信用しなかったし、殆どの者が鼻で哂った。
だがその中にも一人くらいはそういった話を信じてみようとする者がいる。もしくはそれは下らない話にも付き合ってみようと言う好奇心であったり、バカな事をしている輩をとっちめてやろうと言う場違いな正義感だったりもする。
――じゃあ、俺行ってみようかな。ちょうどやってもらいたい事あったし。
最初の反応はその程度のものだったが彼にとってはそれで充分だった。なんでも最初から上手く行く事などそうそうある訳ではない。
――じゃあ、君で決まりだ。待ち合わせ場所は先にも書いたとおり、中央公園のブランコのそばにあるベンチで。
そう返事をした。果たして彼はやってくるだろうか、と思いもしたが当日になると約束どおり彼はやってきた。掲示板の強気な態度とは違って礼儀の正しい少年で、話している内に自分はなにをやっているのだろうかと思ったが、話を聞き終わった後口にしたのは「じゃあ、お金を貰おうか」だけだった。
少年は「本当にそれするのに一万円でいいの?」と聞いてきたが彼は頷いた。
「別に金が欲しい訳じゃない」
「じゃあ、なんでこんな事しようと思ったの?」
そう聞かれる事は予め予想はついていた。なので彼は前もって用意しておいた台詞をスムーズに言う事が出来た。まるで今まで何度も練習していたかのようにスムーズに吐き出されたその言葉に、酷く満足したのを覚えている。
「金を貰って、金で貰えないものを貰ってみたいと思ったんだ」
その日、茜はその掲示板を見ながら数分置いては更新すると言う作業を繰り返していた。恵子に聞いた話が気になったからだった。その話はあまり真実味があるとは思えなかったが、恵子も半信半疑だったし、それを嘘か真かを確認するための時間は彼女にとっては充分に余っていた。
――一万円でね、なんでも願い事を聞いてくれるんだって。
恵子が言ったのはそれだけだった。なんでも一ヶ月に一回その「一万円でなんでも言う事を聞く男」はこの掲示板に現れるそうだった。一ヶ月と言うのはあくまで大体で二週間に一度の時もあれば、二ヶ月に一回の時もあるらしい。ただ共通しているのは月曜日の午後八時ごろに彼は現れると言う事だった。あまりに出没するタイミングがバラバラすぎると捕まえる事に苦労して飽きられそうだし、逆に八時きっかりではないところがそこにしばらくいなければならないと気持ちにさせられるので、うまくバランスを取っている、と茜は思った。
現に掲示板では彼以外の書き込みが幾つか書き込まれ、彼が現れるのを楽しみにしている様が見て取れた。
――そろそろじゃね?
――だな、今日こそ俺がゲットしてやる
――いやいや、俺が
――お前ら、どうせ大した願い事じゃないんだろ? なぁ、頼むから俺に譲ってくれよ。俺はマジなんだよ。
――うっせーよ!! 俺だって大マジなんだよ!
そんな書き込みを見て茜はそんなに興奮するような事なのだろうか、と思いながらも自分だったらなにを願うだろうか、と考えてみた。
恵子の話では、その書き込みはもう一年以上前から行われているようだった。
月曜日の夜八時頃、その掲示板にそれは書き込まれる。
――一万円で願い事を叶えてあげようと思う。この書き込みの後に最初に希望の書き込みをした人にその権利を与えるよ。○○県○○市にある中央公園のブランコ傍にあるベンチで座って待っている。
最初その書き込みが現れた時は、大した反応はなかったらしい。当然だ。そんな話をこんな掲示板でされても信じろと言う方が無理がある。それも自分が一万円を払って見知らぬ他人に願い事を叶って貰うなんて話は荒唐無稽のなにものでもなかった。しかしそれでも、何事にでも首を突っ込みたがる連中と言うのはいるもので、会ってみようと言う事になったらしい。当時の掲示板では賛否両論の書き込みが行われたらしい。楽しそうだ、と言う者もいれば、危険だ、会うのはやめておけ、と言う感じに様々だったが、数日後の書き込みでそれは更に加熱した。
――ありがとう、問題は解決したよ。まさか本当に一万円でやってくれるとは思わなかった。君に会えてよかったよ。
やれ、これは自演だろう、いや、本当に願い事叶えてもらったんじゃね? どんな願い事したんだ? つか一万円でなんでも聞くわけ? 十万円くれとかあり? ちょっと待てよ、じゃあ俺の願い事も聞いてくれよ! バカじゃねーの? そんな上手い話ある訳ねーじゃん。どうせ下らない事だったんだろ? どうでもいいけど一万円って結構高くね? いや、貧乏人の発想だろ。それ。
そんな感じで当人達以外は喧々囂々と思い思いの書き込みをしていたのだが、その結論は翌月にははっきりとした明確な答えが出される事で沈静化した。
――一万円で、願いを叶えるよ。この書き込みの後、最初に希望した人にその権利を与える。
前回と同じだった。数日後に感謝を告げる書き込みが行われる事までまるで先月の繰り返しを見ているようにそれは行われた。そして、その書き込みはどうやら本当のようだ、と言う結論だけが残った。
そして今では、月曜日の午後八時は、この掲示板にいる彼らの競争の場と化している。
「一万円で願いを聞いてくれる彼」からの権利を貰うために。
(本当なのかしら?)
茜はもう一度キーボードのF5を押した。そうやって話を聞いてみても、自分の目で見てみない限りは到底信じる気になれなかった。時計を見る。まもなく八時になろうとしている。彼女は都市伝説のようなものを今自分は見ているのだと思っていた。本当かどうか分からないから面白いと思える曖昧な話のうちの一つ。嘘だったら嘘でそれだけの事だ。
そう思いもう一度F5を押した時だった。唐突にそれは画面に現れた。
――こんばんは。一万円で願いを叶えるよ。この書き込み以降、最初に希望した人にその権利を与える。
その文字が、確かに掲示板に書き込まれていた。
「……本当なんだ」
彼女は狐に摘まれたような呆然とした表情を浮かべた後、自分も参加してみるべきかどうかを考えた。しかしそこまで考えて彼女ははっとしもう一度F5を押した。
――お願いします。
――ノ
――ノシ
――ノ
――はい! 俺! 俺!
――頼む。
――俺だあああああああああああ!!!!!
そのような書き込みが一斉に行われていた。一体今までどれだけの人がこの掲示板を見ていたのだろうか、と驚く程のその書き込みはしばらくすると、書き込みが遅れたことに対する無念さを嘆く書き込みが続く事になった。
――くそがあああああああああああ!!
――なぁ、初めの人! 権利譲ってくれ! 頼む!
――あーあ。また一ヶ月待ちかぁ……
――一時間前から待ってたのに!
――俺なんか二時間前から待ってたのに……
――待ちすぎだろ……バカか
茜はなんだか目の前で行われているやりとりが本当に行われているのかどうか分からなくなってきていた。
ただ、どうやら実際にこれで誰かと誰かがあっているのは間違いないようだった。
――じゃあ、328の書き込みをした人に決定だ。メールアドレスを教えてくれれば連絡をする。場所などはまたその時に決めよう。
『じゃあ、明後日駅前の噴水広場に十六時に待ち合わせでいいかな?』
『はい。よろしくお願いします』
『分かった。じゃあ』
来生真耶はそう打ち終えると携帯電話を仕舞いベッドに寝転がった。もうこうやって掲示板に書き込むのも慣れていたし、それは見ている方も同じようで彼にとっては都合のいい事だった。
彼は明後日どんな人物がやってくるのかと言う事を想像する。長くやっていてもそうやって想像を巡らすのは飽きなかった。と言うよりもこうやって想像している間が一番楽しいように思う。
(……一体次はどんな願い事がやってくるのだろうか?)
中には下らないと思うようなものもあった。そういう時彼は幻滅を覚えるが、しかし約束をした以上破る訳にはいかなかったし、それ以上に話を聞くだけでも内心で胸が躍るような願いを叶えている者に会える事が彼は楽しみだったので、この掲示板への書き込みをやめようと言う気はまるで起こらなかった。
携帯電話が鳴り、ディスプレイを見る。その相手を見て彼は面倒くさい、と言う表情を露骨にしながらもすぐに通話ボタンを押した。
「ハーイ」
『ハーイじゃないよ、マヤ。僕のお願いどうなってる? マヤが言った日からもう二日は過ぎてるのにまだ届かない』
「あぁ、悪い。ちょっと忙しくてまだやってない」
そう言うと片言の日本語を喋る彼は酷く激昂した。
『冗談じゃないよ! なんのために僕は日本にいると思ってる!? マヤ! 頼むから早くしてよ!』
「分かってる、悪かったよ。明日には済ませておくからもうちょっと待ってくれ」
そう言うと彼は何度も「本当か!?」と念押しをし、真耶が笑って大丈夫と伝えると幾分は落ち着いたようだった。
『頼むよ、あぁ、それとお金の方だけど』
ふむ、と先を促せた。彼が金の話を自分からしてくる時は大きく動いた時だけだ。
「増えた? 減った?」
『増えたよ。幾ら増えたかは自分で調べて』
「分かった」
通話が切れ、彼は再びベッドに寝転がった。
杏里と付き合ってるの、と彼に言った時、彼は「そう」とだけ言った。その反応がつまらなかったので、春日君止めてもらった日、私達がセックスしてたの知ってたでしょ、と言うとやはり彼は「うん」としか答えず、奈菜はどうすれば彼を困らせる事が出来るだろう、と真剣に悩んだが答えは永遠に出てこないような気がした。
「我が侭だね」
「やっぱりそう思う?」
春日の言葉に奈菜は肯定気味にそう答えた。
「私さ、飽きっぽいんだよね、多分」
「もう、彼女の事好きじゃないって事?」
「元々そんなに好きじゃないのよ」
「マルボロのソフト一つ」
「ありがとうございます」
彼女の話を聞きながらコンビニの店員に小銭を渡した。彼女はそんな春日の態度に頬を膨らませたが自分もハイライトを一つ買うと、コンビニの外で早速一本取り出した。
「ただ、可愛かったから」
「男みたいな事を言う」
「女だってそんなもんでしょ。見た目がいいって大事だと思わない?」
「否定はしないけど」
「そう。それにあの子前はもっとおしとやかって言うか、そういうやらしい雰囲気を感じさせない子だったのよね。私、そういう子がやらしくなるとこを見るのが好きなんだ」
大した趣味だ、と春日は彼女の隣で同じように煙草を吸いながらどうして自分はこうやって彼女と一緒にコンビニに買い物に来ているのだろう、と考えていた。そもそも彼女の、人の心の中にズカズカと土足で侵入してこようとする強引さは太陽以上だったかもしれない。それでも彼が不快と思わないのは案外彼女と気が合うと言う事なのかもしれなかった。
「要するに」
「うん?」
「君は彼女の事を愛と言うよりは、性的な目で見ていると」
「そう」
「恋愛と言う観点では君は彼女に一切興味がない。そして性的な目で見ても最近興味が薄れてきている」
「そうそう」
「お手上げだね。君が新しい性癖にでも目覚めるか、きっぱりと別れるか、もしくは諦めて妥協するか、くらいだろう」
「うーん……妥協かな」
「君がそれを選ぶのは少し意外だ。僕はきっぱりと別れると思った」
「今別れ話したらあの子面倒くさそうだし。それに私もやっぱりセックスはしたいし」
「なら、しょうがない。君も需要側の人間なら」
「春日君は?」
ふと思いついたように彼女が聞いてきたが、それがなにを聞こうとしているのかすぐには分からなかった。
「春日君はセックスしたくないの?」
「したいと思って出来るなら苦労しない」
「そういう店とか?」
「セックスに数万円払ってまでする価値はないと、僕は思うね」
「じゃあ只だったら今すぐにでもやりたい?」
「状況による」
そう話していると自動ドアが開き、中から一人の女性が出てきた。彼女は煙草を吸っている二人の事を疎ましく思うようにチラリと見ると、逃げ去るようにその場から立ち去る。
(……こんなところでそんな話しなくてもいいのに)
彼女――相原雫は罵るようにそう思った。誰が聞いているかもしれないコンビニの前でそんな会話を男女がしていると言う事が彼女には信じられなかったし、恥ずかしくないのだろうか、と思いもしたが、同時にもしかするとそんな話をコンビニの前でする事は大した事ではなく、自分が気にしすぎなのかもしれないとも考えた。そしてそう思うと、自分はとてもみじめな人間のような気がして居た堪れなくなる。
(どうせ私はそんな事話す相手いないわよ)
そんな事を思う自分に嫌悪感を抱き、もう忘れようと頭をぶんぶんと振って、そこでようやく彼女はせっかくセットした髪が乱れていないかと心配になったが、時計を見ると約束の時間が近かったのでこのまま向かう事にした。
待ち合わせの場所にやってきて彼女はきょろきょろと辺りを見回した。携帯電話を取り出し、メールを再度見直す。
『じゃあ、明後日駅前の噴水広場に十六時に待ち合わせでいいかな?』
そのメールを見ながら彼女は再度財布を確認した。そこには三万円が入っている。その内の一枚を彼女が取り出しじっと見つめていると、携帯電話が音を立てて鳴った。慌てて落としそうに鳴るがなんとか手に収める。
『もう来てる?』
そのメールを見て雫は来ている事を報告するメールを送った。相手ももう来ているのだろうか、ともう一度付近を見渡す。中途半端な時間で人の姿もそんなに多い訳ではないが、人一人を探すとなると面倒ではあった。だが、一人でいる者だけを見ればそんなに多くはない。
新聞を読んでいるサラリーマン風の男。
彼女を待っているらしい、若い男。
音楽を聴きながら、体を揺らしている少年。
ハンバーガーを食べようとしている小太りの中年。
一体、誰だろうと思っていると再び電話が鳴った。彼女はボタンを押してそのメールを確認しようとする。だがそれよりも先に彼女へと一人の男が近付いてきた。
最初彼女はそれに気付かず、メールに釘付けになっていたが、数メートルまで近付いたところでふと顔を持ち上げて彼を見つめた。そしてその彼を見た時、まさか彼ではないだろう、きっと彼は私の横を素通りしていくのだ、と思い目を逸らそうとしたが、その気持ちとは裏腹に、彼は彼女の前までやってくると、その歩みをピタリと止めた。
「相原雫さん?」
「え……あ、はい……そうです」
「はじめまして。来生真耶です」
「来生……真耶、さん」
「そう」
雫は呆然と彼を見詰めた。そこに立っていたのはまるでテレビにでも出ているアイドルのような端正な顔の持ち主で、そんな彼と自分が会話をしていると言う現実がいまいち信じられなかった。だが彼はそんな彼女の心情などお構いなしと言った感じで小さく微笑むと「せっかくだから少し座って話そうか」と近くのベンチを指だし彼女を連れて行くとそのすぐ隣に腰を下ろしてきたため、それだけで彼女は失神しそうになった。
「さて、早速だけど」
「は、はい」
「大丈夫? 気分悪い?」
「いえ……大丈夫です」
「そう? じゃあ早速だけど、君の用件を聞こうか。一万円で君はなにをしてほしいのかな?」
「あ、あの……」
彼女は口ごもった。
願いは、二日前掲示板に書き込んだ日から決めてはいた。それは自分でも本当にそれでいいのかと悩んでいたものだったが、真耶を見てその思いは余計強くなっていた。
彼は黙り込んだ茜を見て「ゆっくりでいいよ。時間は幾らでもあるし、話しにくい事もあるしね」と優しい口調で告げるので彼女は眩暈を覚えたが、自分が言わない以上話が進む事は有り得ず、彼女は目を閉じて勢いに任せて言ってしまう事にした。
「あ、あの、私と」
「うん」
「……デート、して……ください」
それでも、最後にはその声は消えてしまいそうだった。
「デート? 君と、俺で?」
「は、はい」
「それでいいの? 俺、デートだけでも一万円は貰うよ? それより他にもっと頼みたい事とかないの?」
「い、いえ、いいんです。私、その、デートさえしてもらえたら、ま、満足ですから」
「そう」
「あ、あ、あなたが嫌だったら私、全然構いませんから!」
真耶は言えば言うほど小さくなっていく彼女を見て苦笑した。願い事の内容には少々拍子抜けしたのだが、彼女を見ていると彼女にとっては真剣な願い事のようだと言うのは分かった。
「嫌だなんて思わないよ。じゃあ、デートしよう」
「ほ、本当ですか?」
「ただし一つ条件。俺はそのデート費用は出さないよ、君が出す事になるけど、それでもいい?」
それは今までもそうしている事だった。彼は簡単な諸費用めいたものは今までも相手に出させていたし、それに納得しない場合はその時点で一万円を返し、話自体をなかった事にしていた。最も今までそういう例はあまりない。どうやら本当に一万円で全てうまく行く、と思っている人は少ないようで、皆それなりの額を持ってきている人は多かった。彼の本心を言えばなるべくお金は使わないような願い事が好ましいのだが何事にも金は切り離せないものだ、と言う事も分かってはいる。
「あ、はい、結構です」
首を縦に振った。
どうやら幾分落ち着いたようで呂律もマシになってきている。
「じゃあ、移動しようか。それとデートなんだから敬語はやめようよ。自然に行こう」
「は、はい」
「ほら、それ」
「あ」
「ははは、じゃあ、行こう」
そう言うと彼は返事を聞く間もなく、雫の手を取って歩き出した。
雫はそれだけで顔から火が出そうになったが、そんな彼女を彼はあやすように優しく微笑むと、さっさと歩き出し、ひっぱられるように彼女も歩き出した。
「デートなんて久しぶりだな。雫は?」
「あの、私今までデートってした事ないんです」
名前で呼ばれるのがひどくくすぐったかった。
「そうなの? じゃあ今日が初デートか。俺が相手でよかったのかな」
「いえ、もう全然大丈夫です」
「本当に?」
ええ、とても。そう思ったが口に出すのは憚られた。
まさかこんなにも容姿に優れた相手が来るとは思っておらず、そんな相手と今こうやって手を繋いで歩いているという事が彼女には到底信じられなかったし、同時に酷く周囲の視線が気になった。
一体、周りは自分たちの事をどういうふうに見ているのだろうか。みすぼらしい自分と彼を見てきっと釣り合わないと思っているのではないだろうか。そんな風に思うのだが実際のところ二人に向けられている視線は彼女の想像よりもずっと少なかった。
「なにかしたい事ある? 買い物とか、ご飯食べるとか、ゲームセンターとかカラオケもありだね。プリクラでも撮ろうか?」
「あ、じゃあ」
ご飯、と言おうとしたが、自分の体型の事を思い出し口を噤んだ。
しばらく沈黙が続き、ようやく彼女が「買い物に付き合ってもらっていいですか?」と切り出すと、彼は笑顔で「いいよ」と答えた。
(あれ、ホストかなぁ)
山田太郎はペプシコーラのペットボトルを鞄にしまいながら来生真耶と相原雫の二人を見つめていた。
手を繋いではいるが、女のほうはやたら萎縮している。反対に男の方は堂々としていて彼女をリードしている様子は単なるカップルには見えなかった。
(かっこいい男ってそれだけで人生楽そうだよなぁ)
そんな事を思いながら自分の腹を擦った。見事に膨れているその腹のぶるんと揺れる感触が気持ちいいが、あまり自慢出来る様な事ではないのは彼が一番分かっていた。二人の横を通り過ぎる。二人は自分が見ている事にも気がついていないようだった。一度振り返ってみてみるが、その時にはもう二人の姿は見えず、見えたのは仕事帰りのサラリーマンの集団だった。
「で、調子はどうよ?」
「うーん、難しいですね。まだなんとも言えないです。明日様子見て無理なようなら修正かけときますんで」
「担当の、名前なんだったかな。とにかく担当の方に連絡はしとけよ」
「もうそれはしてますよ」
どうやら仕事の話をしているようだ、と思い彼は向き直り、歩幅を若干広げた。だが彼が思うよりも速度は上がらず、まだ会話は彼の耳へと届いてくる。
「ストレス溜まってます?」
「溜まってるに決まってんだろ。お前の出来が悪いからだよ」
「えー、すいません!」
「冗談だよ、お前はよくやってるよ」
一度意識しだすと、その音ばかりが入り込んでくる。彼は他のなにかを見つけようと辺りを見回した。呼び込みの無闇に大きい声。パチンコ店の効果音。車のクラクション。ストリートミュージシャンの上手いのかどうかも分からないギター。それらの音を頭の中に取り込もうとするのだが、無理やりに行われようとするそれは決して上手く行かず、彼はもう無理だ、と思ったところで、自分が止まればいいのだ、と気がついた。
ピタリと立ち止まり、彼はほっと溜め息を吐く。すぐ後ろにいた集団が急に止まった彼に驚いたようだったが、当たる事無く避けると、何事もなく通り過ぎていった。太郎はそれに安堵を覚えながら、声が聞こえなくなったところでもう一度その集団を見つめた。
先ほど出来が悪い、とからかわれていた男はどうやら自分と変わらない年齢のようだった。彼は自分よりも一回りは上だろうと思われる男に軽く頭を下げながら、その表情は充実しているらしい笑顔があった。
自分が今まで覚えた事のない感情を彼は感じているのだと思い、それを肌で感じるのは今の彼にとってはなによりの苦痛だった。
(僕は……ああいう風に笑えたり出来るだろうか)
無意識の内に彼は手を強く握っていた。
高校を中退してからあっという間に時は経ち、気がつけばもう二十歳だ。その間自分はなにをしてきたのだろう。そしてどれだけの人数に追い越されていったのだろう。彼は暗澹たる気持ちで位置がずれた眼鏡を直しながら再び歩き出した。そうして彼がむかった先は悪趣味な電飾が施され、入り口には等身大のアニメキャラのポップが置かれた同人店であり、彼はマンガの新刊を手にとってレジへと向かったが、その気持ちは陰鬱なままだった。
いつまで現実逃避をしているのだろう?
彼はふとそんな事を思うが、確かにその逃避行は彼にとってはまだ心地いいものだった。
「我が侭だね」
「やっぱりそう思う?」
春日の言葉に奈菜は肯定気味にそう答えた。
「私さ、飽きっぽいんだよね、多分」
「もう、彼女の事好きじゃないって事?」
「元々そんなに好きじゃないのよ」
「マルボロのソフト一つ」
「ありがとうございます」
彼女の話を聞きながらコンビニの店員に小銭を渡した。彼女はそんな春日の態度に頬を膨らませたが自分もハイライトを一つ買うと、コンビニの外で早速一本取り出した。
「ただ、可愛かったから」
「男みたいな事を言う」
「女だってそんなもんでしょ。見た目がいいって大事だと思わない?」
「否定はしないけど」
「そう。それにあの子前はもっとおしとやかって言うか、そういうやらしい雰囲気を感じさせない子だったのよね。私、そういう子がやらしくなるとこを見るのが好きなんだ」
大した趣味だ、と春日は彼女の隣で同じように煙草を吸いながらどうして自分はこうやって彼女と一緒にコンビニに買い物に来ているのだろう、と考えていた。そもそも彼女の、人の心の中にズカズカと土足で侵入してこようとする強引さは太陽以上だったかもしれない。それでも彼が不快と思わないのは案外彼女と気が合うと言う事なのかもしれなかった。
「要するに」
「うん?」
「君は彼女の事を愛と言うよりは、性的な目で見ていると」
「そう」
「恋愛と言う観点では君は彼女に一切興味がない。そして性的な目で見ても最近興味が薄れてきている」
「そうそう」
「お手上げだね。君が新しい性癖にでも目覚めるか、きっぱりと別れるか、もしくは諦めて妥協するか、くらいだろう」
「うーん……妥協かな」
「君がそれを選ぶのは少し意外だ。僕はきっぱりと別れると思った」
「今別れ話したらあの子面倒くさそうだし。それに私もやっぱりセックスはしたいし」
「なら、しょうがない。君も需要側の人間なら」
「春日君は?」
ふと思いついたように彼女が聞いてきたが、それがなにを聞こうとしているのかすぐには分からなかった。
「春日君はセックスしたくないの?」
「したいと思って出来るなら苦労しない」
「そういう店とか?」
「セックスに数万円払ってまでする価値はないと、僕は思うね」
「じゃあ只だったら今すぐにでもやりたい?」
「状況による」
そう話していると自動ドアが開き、中から一人の女性が出てきた。彼女は煙草を吸っている二人の事を疎ましく思うようにチラリと見ると、逃げ去るようにその場から立ち去る。
(……こんなところでそんな話しなくてもいいのに)
彼女――相原雫は罵るようにそう思った。誰が聞いているかもしれないコンビニの前でそんな会話を男女がしていると言う事が彼女には信じられなかったし、恥ずかしくないのだろうか、と思いもしたが、同時にもしかするとそんな話をコンビニの前でする事は大した事ではなく、自分が気にしすぎなのかもしれないとも考えた。そしてそう思うと、自分はとてもみじめな人間のような気がして居た堪れなくなる。
(どうせ私はそんな事話す相手いないわよ)
そんな事を思う自分に嫌悪感を抱き、もう忘れようと頭をぶんぶんと振って、そこでようやく彼女はせっかくセットした髪が乱れていないかと心配になったが、時計を見ると約束の時間が近かったのでこのまま向かう事にした。
待ち合わせの場所にやってきて彼女はきょろきょろと辺りを見回した。携帯電話を取り出し、メールを再度見直す。
『じゃあ、明後日駅前の噴水広場に十六時に待ち合わせでいいかな?』
そのメールを見ながら彼女は再度財布を確認した。そこには三万円が入っている。その内の一枚を彼女が取り出しじっと見つめていると、携帯電話が音を立てて鳴った。慌てて落としそうに鳴るがなんとか手に収める。
『もう来てる?』
そのメールを見て雫は来ている事を報告するメールを送った。相手ももう来ているのだろうか、ともう一度付近を見渡す。中途半端な時間で人の姿もそんなに多い訳ではないが、人一人を探すとなると面倒ではあった。だが、一人でいる者だけを見ればそんなに多くはない。
新聞を読んでいるサラリーマン風の男。
彼女を待っているらしい、若い男。
音楽を聴きながら、体を揺らしている少年。
ハンバーガーを食べようとしている小太りの中年。
一体、誰だろうと思っていると再び電話が鳴った。彼女はボタンを押してそのメールを確認しようとする。だがそれよりも先に彼女へと一人の男が近付いてきた。
最初彼女はそれに気付かず、メールに釘付けになっていたが、数メートルまで近付いたところでふと顔を持ち上げて彼を見つめた。そしてその彼を見た時、まさか彼ではないだろう、きっと彼は私の横を素通りしていくのだ、と思い目を逸らそうとしたが、その気持ちとは裏腹に、彼は彼女の前までやってくると、その歩みをピタリと止めた。
「相原雫さん?」
「え……あ、はい……そうです」
「はじめまして。来生真耶です」
「来生……真耶、さん」
「そう」
雫は呆然と彼を見詰めた。そこに立っていたのはまるでテレビにでも出ているアイドルのような端正な顔の持ち主で、そんな彼と自分が会話をしていると言う現実がいまいち信じられなかった。だが彼はそんな彼女の心情などお構いなしと言った感じで小さく微笑むと「せっかくだから少し座って話そうか」と近くのベンチを指だし彼女を連れて行くとそのすぐ隣に腰を下ろしてきたため、それだけで彼女は失神しそうになった。
「さて、早速だけど」
「は、はい」
「大丈夫? 気分悪い?」
「いえ……大丈夫です」
「そう? じゃあ早速だけど、君の用件を聞こうか。一万円で君はなにをしてほしいのかな?」
「あ、あの……」
彼女は口ごもった。
願いは、二日前掲示板に書き込んだ日から決めてはいた。それは自分でも本当にそれでいいのかと悩んでいたものだったが、真耶を見てその思いは余計強くなっていた。
彼は黙り込んだ茜を見て「ゆっくりでいいよ。時間は幾らでもあるし、話しにくい事もあるしね」と優しい口調で告げるので彼女は眩暈を覚えたが、自分が言わない以上話が進む事は有り得ず、彼女は目を閉じて勢いに任せて言ってしまう事にした。
「あ、あの、私と」
「うん」
「……デート、して……ください」
それでも、最後にはその声は消えてしまいそうだった。
「デート? 君と、俺で?」
「は、はい」
「それでいいの? 俺、デートだけでも一万円は貰うよ? それより他にもっと頼みたい事とかないの?」
「い、いえ、いいんです。私、その、デートさえしてもらえたら、ま、満足ですから」
「そう」
「あ、あ、あなたが嫌だったら私、全然構いませんから!」
真耶は言えば言うほど小さくなっていく彼女を見て苦笑した。願い事の内容には少々拍子抜けしたのだが、彼女を見ていると彼女にとっては真剣な願い事のようだと言うのは分かった。
「嫌だなんて思わないよ。じゃあ、デートしよう」
「ほ、本当ですか?」
「ただし一つ条件。俺はそのデート費用は出さないよ、君が出す事になるけど、それでもいい?」
それは今までもそうしている事だった。彼は簡単な諸費用めいたものは今までも相手に出させていたし、それに納得しない場合はその時点で一万円を返し、話自体をなかった事にしていた。最も今までそういう例はあまりない。どうやら本当に一万円で全てうまく行く、と思っている人は少ないようで、皆それなりの額を持ってきている人は多かった。彼の本心を言えばなるべくお金は使わないような願い事が好ましいのだが何事にも金は切り離せないものだ、と言う事も分かってはいる。
「あ、はい、結構です」
首を縦に振った。
どうやら幾分落ち着いたようで呂律もマシになってきている。
「じゃあ、移動しようか。それとデートなんだから敬語はやめようよ。自然に行こう」
「は、はい」
「ほら、それ」
「あ」
「ははは、じゃあ、行こう」
そう言うと彼は返事を聞く間もなく、雫の手を取って歩き出した。
雫はそれだけで顔から火が出そうになったが、そんな彼女を彼はあやすように優しく微笑むと、さっさと歩き出し、ひっぱられるように彼女も歩き出した。
「デートなんて久しぶりだな。雫は?」
「あの、私今までデートってした事ないんです」
名前で呼ばれるのがひどくくすぐったかった。
「そうなの? じゃあ今日が初デートか。俺が相手でよかったのかな」
「いえ、もう全然大丈夫です」
「本当に?」
ええ、とても。そう思ったが口に出すのは憚られた。
まさかこんなにも容姿に優れた相手が来るとは思っておらず、そんな相手と今こうやって手を繋いで歩いているという事が彼女には到底信じられなかったし、同時に酷く周囲の視線が気になった。
一体、周りは自分たちの事をどういうふうに見ているのだろうか。みすぼらしい自分と彼を見てきっと釣り合わないと思っているのではないだろうか。そんな風に思うのだが実際のところ二人に向けられている視線は彼女の想像よりもずっと少なかった。
「なにかしたい事ある? 買い物とか、ご飯食べるとか、ゲームセンターとかカラオケもありだね。プリクラでも撮ろうか?」
「あ、じゃあ」
ご飯、と言おうとしたが、自分の体型の事を思い出し口を噤んだ。
しばらく沈黙が続き、ようやく彼女が「買い物に付き合ってもらっていいですか?」と切り出すと、彼は笑顔で「いいよ」と答えた。
(あれ、ホストかなぁ)
山田太郎はペプシコーラのペットボトルを鞄にしまいながら来生真耶と相原雫の二人を見つめていた。
手を繋いではいるが、女のほうはやたら萎縮している。反対に男の方は堂々としていて彼女をリードしている様子は単なるカップルには見えなかった。
(かっこいい男ってそれだけで人生楽そうだよなぁ)
そんな事を思いながら自分の腹を擦った。見事に膨れているその腹のぶるんと揺れる感触が気持ちいいが、あまり自慢出来る様な事ではないのは彼が一番分かっていた。二人の横を通り過ぎる。二人は自分が見ている事にも気がついていないようだった。一度振り返ってみてみるが、その時にはもう二人の姿は見えず、見えたのは仕事帰りのサラリーマンの集団だった。
「で、調子はどうよ?」
「うーん、難しいですね。まだなんとも言えないです。明日様子見て無理なようなら修正かけときますんで」
「担当の、名前なんだったかな。とにかく担当の方に連絡はしとけよ」
「もうそれはしてますよ」
どうやら仕事の話をしているようだ、と思い彼は向き直り、歩幅を若干広げた。だが彼が思うよりも速度は上がらず、まだ会話は彼の耳へと届いてくる。
「ストレス溜まってます?」
「溜まってるに決まってんだろ。お前の出来が悪いからだよ」
「えー、すいません!」
「冗談だよ、お前はよくやってるよ」
一度意識しだすと、その音ばかりが入り込んでくる。彼は他のなにかを見つけようと辺りを見回した。呼び込みの無闇に大きい声。パチンコ店の効果音。車のクラクション。ストリートミュージシャンの上手いのかどうかも分からないギター。それらの音を頭の中に取り込もうとするのだが、無理やりに行われようとするそれは決して上手く行かず、彼はもう無理だ、と思ったところで、自分が止まればいいのだ、と気がついた。
ピタリと立ち止まり、彼はほっと溜め息を吐く。すぐ後ろにいた集団が急に止まった彼に驚いたようだったが、当たる事無く避けると、何事もなく通り過ぎていった。太郎はそれに安堵を覚えながら、声が聞こえなくなったところでもう一度その集団を見つめた。
先ほど出来が悪い、とからかわれていた男はどうやら自分と変わらない年齢のようだった。彼は自分よりも一回りは上だろうと思われる男に軽く頭を下げながら、その表情は充実しているらしい笑顔があった。
自分が今まで覚えた事のない感情を彼は感じているのだと思い、それを肌で感じるのは今の彼にとってはなによりの苦痛だった。
(僕は……ああいう風に笑えたり出来るだろうか)
無意識の内に彼は手を強く握っていた。
高校を中退してからあっという間に時は経ち、気がつけばもう二十歳だ。その間自分はなにをしてきたのだろう。そしてどれだけの人数に追い越されていったのだろう。彼は暗澹たる気持ちで位置がずれた眼鏡を直しながら再び歩き出した。そうして彼がむかった先は悪趣味な電飾が施され、入り口には等身大のアニメキャラのポップが置かれた同人店であり、彼はマンガの新刊を手にとってレジへと向かったが、その気持ちは陰鬱なままだった。
いつまで現実逃避をしているのだろう?
彼はふとそんな事を思うが、確かにその逃避行は彼にとってはまだ心地いいものだった。
「雫」
そう呼ばれて彼女はびくりとした。もう何回もそうやって呼ばれたが、どうやらそれに慣れる事は出来そうにもなかった。
「は、はい」
「ちょっと休憩しようか」
ゲームセンターから出てきてしばらく歩いたところで真耶がそう言い「あっちに公園があるんだよ」と指を差した。「そうですね」と頷くと彼が手を繋いでくる。もう片方の手には買い物の袋が提げられており、彼女が自分で持つと言っても「いいよ、気にしないで」と彼は軽く持ち上げて見せた。
「あの、ちょっと質問していいですか?」
「なに?」
公園のベンチに並んで腰掛けたところで、そう切り出した。
「あの……なんでこんな事やってるんですか?」
「一万円?」
「……そうです」
真耶はその、もう何回も聞かれたその質問に、苦笑をしながらベンチに深々と座り腕を組んで空を見上げた。
「一万円って、人によっては結構高いでしょ? でもその一万円を払ってでも助けてほしいって思っている人がいる。けど実際にすぐに助けてくれる人が見つかる訳じゃない。だったら俺がやってみようと思った、ってところかな」
そう言いながら真耶はセブンスターを取り出し口にくわえた。彼女はその様子を見つめたが、髪が邪魔で彼の横顔がどんな表情をしているのかは分からなかった。
「けど、君が本当に聞きたいのってその事じゃないでしょ?」
「え?」
「本当は違う質問があるんだろ? もっとちゃんと聞きたい事」
図星をつかれ、彼女は押し黙った。
「なんでも聞きなよ。答えられる事なら答えるからさ」
会った時と変わらない優しい調子。
雫は逡巡したが、確かに聞かずに終わるのは嫌だったのでここで言う事にした。
「あの、今日、楽しかったですか? 私と、その、デート……して」
「……君は?」
真耶はその質問にしばらくぽかんとした表情を浮かべると、逆に聞き返してきた。
「私は、楽しかったです。本当に」
「そう、それはよかった」
なにが面白いのか彼は小さく声を上げて笑った。馬鹿にされているのだろうかと思ったが、どうやらそうではないようで、不快感のようなものは感じられなかった。だが彼女にとってはそれがなにを意味するのかは分からず困惑してしまう。
ひどく緊張している彼女には分からなかった。彼が笑っているのは、ただ思いつめた顔をした彼女からの質問がただ楽しかったかどうか、だけと言う事であり、そんな事を気にしていると言う事実そのものが面白かったと言う事など。
「俺も楽しかったよ」
「本当ですか?」
「本当に。久しぶりに面白いと思えるような願い事だったしね。じゃあ、俺からも聞いていいかな。これは毎回聞いている事なんだけど」
「なんですか?」
「今回、君は一万円を払った価値があったかな?」
ふと風が二人の間を横切った。くせ毛気味の、それでも今日は入念にセットしてきた髪が頬にこすれ、その感触が彼女は気になったが、彼に見つめられているからか、手を動かす事が出来なかった。
「あったと、思います」
「そう、それはよかった」
彼が立ち上がろうとするのが気配で分かった。同時に終わりが近づいてきていると言う事を悟る。
「あ、あの!」
「ん?」
風に揺られ木々がざわめく。その音に紛れてしまいそうになりそうな小さな声で彼女は呟いた。
「あ、あの、まだデートは続いてますか?」
「あ、あぁ、まだなにかやりたい事あった? 雫がしたい事あるならまだ付き合うけど」
「……あの」
「うん」
「私と……セックスしてくれませんか?」
どうして?
そういう台詞は今までも何度となく聞かされた。
その度に彼は思う。
好きなんだ。この瞬間が。
彼は目の前で小さく震えている相原雫を見つめた。彼女は自分が口にした台詞に羞恥を覚えたのか目を伏せている。
「本当に俺でいいのか?」
「…………」
「雫、処女なんだろ? 今まで男と付き合ったことがないって言ってたし。その初めての相手が俺でいいのか?」
「……そう言って」
「え?」
「そう言って、本当は嫌なんでしょう? 私なんかとやるの! 私みたいなブスとやるのが嫌だからそう言う風に言うんでしょう!?」
激昂したようにそう捲くし立てていた。そしてそうしながら彼女は泣いていた。
みっともない。私はみっともない。
一万円で、私は男性とデートをしてもらい、そして今処女を捨てようとしている。高校の時、早い子は中学の時にはもう捨てていった。初めての相手はきっと皆恋人だっただろう。そうしてその行為がどんなものだったかと言う事を皆ある日、教室や喫茶店で話したりしていたのかもしれない。私にはない記憶。そして誰もが私を前にした時口を閉じた。私はその沈黙を思い知るたび、背中に冷や汗が流れるのを感じていた。
ねぇ、どうせあなたには話しても分からない事よね。
その時、私はどれだけの嫉妬を覚えただろう。体中を掻き毟り叫びだしたいと思った事さえある。
ねぇ、私がなにをしたって言うのよ? ほんのちょっと見た目が悪く生まれただけでしょう? 私なにか悪い事した? どうしてそんな目で見られなきゃならない? どうして私に愛や恋を語る資格などないと思われなきゃならない?
恋をした事がない訳じゃない。ただどれも実る事はなかった。そしていつからか、恋をする事すら許されなくなる。
――勘弁してくれよ。気持ち悪いんだよ。
あの男子生徒は彼女に向けてそう言った。あの日以来彼女は恋と言う感情を捨てようとした。
だが、捨てられない。感情は、捨てられない。
「正直に言えばいいじゃない! お前なんかとやりたくないって! 言えばいいじゃない!」
あぁ、そうだ、醜い。私は醜い。この見た目も、一万円で恋を手に入れようとしたりするこの行為も。だけどそれでもいいじゃないか。買えるなら、感情を買えるなら、私には手に入れられないものを、一万円で買えるなら、いいじゃないか!
それは憎しみだった。耐える事無く湧き上がる憎悪。だがそれを向ける相手はこの世界のどこにも存在しない。彼女の中で永遠に彷徨い続けるその憎しみは今、彼女の全てを食らい尽くそうとしている。
「別に、抱けなくはないさ」
そう言うと同時に、真耶は彼女の頬に手を伸ばした。その柔らかい感触に触れられて雫は自分の体温がそこだけ少し下がるのを感じた。
彼は彼女の激昂にも戸惑う様子はなく、ただそうやって彼女が落ち着いたようだと分かると、その手を離した。
「さっき聞いたけど、本当にそれに一万円の価値はあるだろうか?」
「え?」
「俺はいいよ。別に雫が本気でセックスしてくれ、って言うならセックスしてもいい。俺はその行為を含めて、君が俺に一万円を払う価値があったと思う事が出来る。だけど君はどうだろう」
「私?」
「そう。俺じゃなくて、君だ。君は本当にそれでいいんだろうか? 俺みたいな今日初めて会っただけの男に処女をやると言う事に一万円の価値はあるだろうか? 言い換えるなら、君は今俺に一万円を払い、自分の処女を売ろうとしている。だけど本当にそれでいいのか? 君はある日思わないだろうか? 私の処女は一万円の価値しかなかったのだと自分で認めてしまったのだと」
「…………」
ふと、ここにやってくる時コンビニで聞いた会話を思い出した。あの男はあの時、なんと言っていただろうか。
――セックスに数万円払ってまでする価値はないと、僕は思うね
あの時、彼女は下品だと思った。それはきっとそう言う会話をそこでしているというだけでなく、性を金と比べている事にこそそう思ったはずだった。だが今の自分は間違いなく性を金に換算しようとしている。そして単なる性処理として述べた彼とは違い、自分はそれによって自分の満たされないプライドをも補おうとしていた。
「……私は……恋愛をしたいんです」
ぽつりと、口にする。
「胸が高鳴るような恋をして、相手からも想ってもらって、付き合って、今日みたいなデートをして、幸せな恋愛をしたいんです。こんな私だって、誰かを愛して愛されたい。ねぇ、私それすら許されないんですか?」
「君の過去の事は俺には分からない。君がそう思うようになってしまった事情があるだろうから簡単には言えないが、それでも言っておくよ。許されない訳はない。君は、恋をしていい」
雫はその言葉を聞いて「あぁ」と零した。
「そしてそれはセックスとは関係がない。愛のないセックスを俺は否定はしないけど、今の君は肯定するべきじゃない」
「……分かってます……分かってます」
彼女はもう一度涙を流した。
「雫、君は一万円で俺とセックスしようと今も思うか?」
その質問に、彼女は首を横に振った。
自分を一万円払って売る。
それでなんのプライドを補おうとしていたのだろう? もしかしたらそれ以上に大事なプライドを、捨てる事になっていたのかもしれないのに。
憎しみのなかったあの頃、なにを思っていただろうか。その頃に帰りたいと思った。憎しみばかり抱いてそれ以外の感情を忘れかけていた自分を忘れて。
「じゃあ、もう一度質問していいか? 今日君は俺とデートをした。そう、デートをして楽しい時間を過ごした。そこに一万円の価値はあっただろうか?」
「……はい、ありました」
涙交じりにそう言うと、彼は「そう、よかった」と言い彼女の肩に手を置いた。
『マヤ! ちゃんと届いたよ! ありがと!』
「あー、それはよかった。大事に扱えよ」
『言われなくても分かってるよ!』
「つかさぁ」
『なに!?』
「チェン、お前、最近セックスした?」
『はぁ!? どうしたの、いきなり!?』
「いや、やっぱいいや、お前に聞いてもしょうがねーし」
『はぁ!? なによ、それ! こっちは今それどころじゃないよ!』
彼は騒がしく捲くし立てている彼に「またかける」と言って通話を終えると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。フローリングの床を裸足で歩く時の吸い付くような感触が彼は苦手で、今度カーペットを買おうと考える。
一人で住むにはかなりの広さを誇るその部屋の片端にパソコンが置かれている。電源は入れっぱなしだったが、彼はしばらく触れる気はないようで、その前を横切ると窓を開けベランダへと出た。
「あーあ、次はどんな願いかな」
高層マンションの二十八階。そこに彼の部屋はある。
彼は眼下に映るイルミネーションやゆっくりと動く車を見ながら、ぼんやりと口にした。
静かな部屋の中にパソコンのモーター音だけが静かに響いている。振動を感じたらしく先ほどまで表示されていたスクリーンセーバーが解除されていた。そこには彼がいつも使っている掲示板が表示されており、今は最新の書き込みが映し出されている。そこにはこう書かれていた。
――ありがとうございました。あなたのおかげで私は助けられたと思います。きっと私にとっては一万円以上の価値がありました。
そう呼ばれて彼女はびくりとした。もう何回もそうやって呼ばれたが、どうやらそれに慣れる事は出来そうにもなかった。
「は、はい」
「ちょっと休憩しようか」
ゲームセンターから出てきてしばらく歩いたところで真耶がそう言い「あっちに公園があるんだよ」と指を差した。「そうですね」と頷くと彼が手を繋いでくる。もう片方の手には買い物の袋が提げられており、彼女が自分で持つと言っても「いいよ、気にしないで」と彼は軽く持ち上げて見せた。
「あの、ちょっと質問していいですか?」
「なに?」
公園のベンチに並んで腰掛けたところで、そう切り出した。
「あの……なんでこんな事やってるんですか?」
「一万円?」
「……そうです」
真耶はその、もう何回も聞かれたその質問に、苦笑をしながらベンチに深々と座り腕を組んで空を見上げた。
「一万円って、人によっては結構高いでしょ? でもその一万円を払ってでも助けてほしいって思っている人がいる。けど実際にすぐに助けてくれる人が見つかる訳じゃない。だったら俺がやってみようと思った、ってところかな」
そう言いながら真耶はセブンスターを取り出し口にくわえた。彼女はその様子を見つめたが、髪が邪魔で彼の横顔がどんな表情をしているのかは分からなかった。
「けど、君が本当に聞きたいのってその事じゃないでしょ?」
「え?」
「本当は違う質問があるんだろ? もっとちゃんと聞きたい事」
図星をつかれ、彼女は押し黙った。
「なんでも聞きなよ。答えられる事なら答えるからさ」
会った時と変わらない優しい調子。
雫は逡巡したが、確かに聞かずに終わるのは嫌だったのでここで言う事にした。
「あの、今日、楽しかったですか? 私と、その、デート……して」
「……君は?」
真耶はその質問にしばらくぽかんとした表情を浮かべると、逆に聞き返してきた。
「私は、楽しかったです。本当に」
「そう、それはよかった」
なにが面白いのか彼は小さく声を上げて笑った。馬鹿にされているのだろうかと思ったが、どうやらそうではないようで、不快感のようなものは感じられなかった。だが彼女にとってはそれがなにを意味するのかは分からず困惑してしまう。
ひどく緊張している彼女には分からなかった。彼が笑っているのは、ただ思いつめた顔をした彼女からの質問がただ楽しかったかどうか、だけと言う事であり、そんな事を気にしていると言う事実そのものが面白かったと言う事など。
「俺も楽しかったよ」
「本当ですか?」
「本当に。久しぶりに面白いと思えるような願い事だったしね。じゃあ、俺からも聞いていいかな。これは毎回聞いている事なんだけど」
「なんですか?」
「今回、君は一万円を払った価値があったかな?」
ふと風が二人の間を横切った。くせ毛気味の、それでも今日は入念にセットしてきた髪が頬にこすれ、その感触が彼女は気になったが、彼に見つめられているからか、手を動かす事が出来なかった。
「あったと、思います」
「そう、それはよかった」
彼が立ち上がろうとするのが気配で分かった。同時に終わりが近づいてきていると言う事を悟る。
「あ、あの!」
「ん?」
風に揺られ木々がざわめく。その音に紛れてしまいそうになりそうな小さな声で彼女は呟いた。
「あ、あの、まだデートは続いてますか?」
「あ、あぁ、まだなにかやりたい事あった? 雫がしたい事あるならまだ付き合うけど」
「……あの」
「うん」
「私と……セックスしてくれませんか?」
どうして?
そういう台詞は今までも何度となく聞かされた。
その度に彼は思う。
好きなんだ。この瞬間が。
彼は目の前で小さく震えている相原雫を見つめた。彼女は自分が口にした台詞に羞恥を覚えたのか目を伏せている。
「本当に俺でいいのか?」
「…………」
「雫、処女なんだろ? 今まで男と付き合ったことがないって言ってたし。その初めての相手が俺でいいのか?」
「……そう言って」
「え?」
「そう言って、本当は嫌なんでしょう? 私なんかとやるの! 私みたいなブスとやるのが嫌だからそう言う風に言うんでしょう!?」
激昂したようにそう捲くし立てていた。そしてそうしながら彼女は泣いていた。
みっともない。私はみっともない。
一万円で、私は男性とデートをしてもらい、そして今処女を捨てようとしている。高校の時、早い子は中学の時にはもう捨てていった。初めての相手はきっと皆恋人だっただろう。そうしてその行為がどんなものだったかと言う事を皆ある日、教室や喫茶店で話したりしていたのかもしれない。私にはない記憶。そして誰もが私を前にした時口を閉じた。私はその沈黙を思い知るたび、背中に冷や汗が流れるのを感じていた。
ねぇ、どうせあなたには話しても分からない事よね。
その時、私はどれだけの嫉妬を覚えただろう。体中を掻き毟り叫びだしたいと思った事さえある。
ねぇ、私がなにをしたって言うのよ? ほんのちょっと見た目が悪く生まれただけでしょう? 私なにか悪い事した? どうしてそんな目で見られなきゃならない? どうして私に愛や恋を語る資格などないと思われなきゃならない?
恋をした事がない訳じゃない。ただどれも実る事はなかった。そしていつからか、恋をする事すら許されなくなる。
――勘弁してくれよ。気持ち悪いんだよ。
あの男子生徒は彼女に向けてそう言った。あの日以来彼女は恋と言う感情を捨てようとした。
だが、捨てられない。感情は、捨てられない。
「正直に言えばいいじゃない! お前なんかとやりたくないって! 言えばいいじゃない!」
あぁ、そうだ、醜い。私は醜い。この見た目も、一万円で恋を手に入れようとしたりするこの行為も。だけどそれでもいいじゃないか。買えるなら、感情を買えるなら、私には手に入れられないものを、一万円で買えるなら、いいじゃないか!
それは憎しみだった。耐える事無く湧き上がる憎悪。だがそれを向ける相手はこの世界のどこにも存在しない。彼女の中で永遠に彷徨い続けるその憎しみは今、彼女の全てを食らい尽くそうとしている。
「別に、抱けなくはないさ」
そう言うと同時に、真耶は彼女の頬に手を伸ばした。その柔らかい感触に触れられて雫は自分の体温がそこだけ少し下がるのを感じた。
彼は彼女の激昂にも戸惑う様子はなく、ただそうやって彼女が落ち着いたようだと分かると、その手を離した。
「さっき聞いたけど、本当にそれに一万円の価値はあるだろうか?」
「え?」
「俺はいいよ。別に雫が本気でセックスしてくれ、って言うならセックスしてもいい。俺はその行為を含めて、君が俺に一万円を払う価値があったと思う事が出来る。だけど君はどうだろう」
「私?」
「そう。俺じゃなくて、君だ。君は本当にそれでいいんだろうか? 俺みたいな今日初めて会っただけの男に処女をやると言う事に一万円の価値はあるだろうか? 言い換えるなら、君は今俺に一万円を払い、自分の処女を売ろうとしている。だけど本当にそれでいいのか? 君はある日思わないだろうか? 私の処女は一万円の価値しかなかったのだと自分で認めてしまったのだと」
「…………」
ふと、ここにやってくる時コンビニで聞いた会話を思い出した。あの男はあの時、なんと言っていただろうか。
――セックスに数万円払ってまでする価値はないと、僕は思うね
あの時、彼女は下品だと思った。それはきっとそう言う会話をそこでしているというだけでなく、性を金と比べている事にこそそう思ったはずだった。だが今の自分は間違いなく性を金に換算しようとしている。そして単なる性処理として述べた彼とは違い、自分はそれによって自分の満たされないプライドをも補おうとしていた。
「……私は……恋愛をしたいんです」
ぽつりと、口にする。
「胸が高鳴るような恋をして、相手からも想ってもらって、付き合って、今日みたいなデートをして、幸せな恋愛をしたいんです。こんな私だって、誰かを愛して愛されたい。ねぇ、私それすら許されないんですか?」
「君の過去の事は俺には分からない。君がそう思うようになってしまった事情があるだろうから簡単には言えないが、それでも言っておくよ。許されない訳はない。君は、恋をしていい」
雫はその言葉を聞いて「あぁ」と零した。
「そしてそれはセックスとは関係がない。愛のないセックスを俺は否定はしないけど、今の君は肯定するべきじゃない」
「……分かってます……分かってます」
彼女はもう一度涙を流した。
「雫、君は一万円で俺とセックスしようと今も思うか?」
その質問に、彼女は首を横に振った。
自分を一万円払って売る。
それでなんのプライドを補おうとしていたのだろう? もしかしたらそれ以上に大事なプライドを、捨てる事になっていたのかもしれないのに。
憎しみのなかったあの頃、なにを思っていただろうか。その頃に帰りたいと思った。憎しみばかり抱いてそれ以外の感情を忘れかけていた自分を忘れて。
「じゃあ、もう一度質問していいか? 今日君は俺とデートをした。そう、デートをして楽しい時間を過ごした。そこに一万円の価値はあっただろうか?」
「……はい、ありました」
涙交じりにそう言うと、彼は「そう、よかった」と言い彼女の肩に手を置いた。
『マヤ! ちゃんと届いたよ! ありがと!』
「あー、それはよかった。大事に扱えよ」
『言われなくても分かってるよ!』
「つかさぁ」
『なに!?』
「チェン、お前、最近セックスした?」
『はぁ!? どうしたの、いきなり!?』
「いや、やっぱいいや、お前に聞いてもしょうがねーし」
『はぁ!? なによ、それ! こっちは今それどころじゃないよ!』
彼は騒がしく捲くし立てている彼に「またかける」と言って通話を終えると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。フローリングの床を裸足で歩く時の吸い付くような感触が彼は苦手で、今度カーペットを買おうと考える。
一人で住むにはかなりの広さを誇るその部屋の片端にパソコンが置かれている。電源は入れっぱなしだったが、彼はしばらく触れる気はないようで、その前を横切ると窓を開けベランダへと出た。
「あーあ、次はどんな願いかな」
高層マンションの二十八階。そこに彼の部屋はある。
彼は眼下に映るイルミネーションやゆっくりと動く車を見ながら、ぼんやりと口にした。
静かな部屋の中にパソコンのモーター音だけが静かに響いている。振動を感じたらしく先ほどまで表示されていたスクリーンセーバーが解除されていた。そこには彼がいつも使っている掲示板が表示されており、今は最新の書き込みが映し出されている。そこにはこう書かれていた。
――ありがとうございました。あなたのおかげで私は助けられたと思います。きっと私にとっては一万円以上の価値がありました。