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人工脳髄と複製された記憶

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 最初、私は彼に対して思わず“初めまして”と挨拶してしまいそうになった。
 しかし、親しげな表情を浮かべて私に手を振る彼を見て、すぐに初めましてという言葉を飲み込んで「やあ」と軽い挨拶をした。
「こうして君と会うのも久しぶりだなあ」
 彼――秋山は私の顔をしげしげと見つめながら懐かしそうに言うと、対面に腰を下ろした。
「半年も入院してたんだよなあ。……見舞い、行けなくて悪かった」
 私は軽く頭を下げる。
「気にするなよ。相変わらず仕事が忙しいんだろ?」
 秋山は今も気さくなままだった。入院前と現在で性格に大きな変化はないようだ。
「手術前と何も変わってないみたいで安心したよ。別人みたいになってたらどうしようかと内心ちょっと不安だったんだ」
「先生も言ってたじゃないか。今まで蓄積された記憶が自分を自分たらしめる、ってさ」
 秋山は自分の頭をコンコンと叩くと、歳不相応の無邪気な笑みを浮かべた。
「脳みそは人工のものだけど、この記憶は間違いなく僕のものだし、僕だって前と変わらず僕のままだよ」


 三年前、とある科学者が脳から記憶を抽出する技術を生み出した。しかし、抽出した記憶を外部に出力することができず、周囲の人間からは嘘っぱちだと嘲笑され、信じてもらえなかった。
 科学者は抽出した記憶を出力する装置の開発に力を入れた。しかし開発は難航、どうしてもその装置が作り出せなかった。そこで行き詰った科学者はこう考えた。人間の記憶は機械ではなく人間そのものを通さなければ認識することができないのではないか。
 その仮説をもとに開発の方向性を変え、結果として生まれたのが人工脳髄だった。科学者は記憶を抽出する技術と同時に生み出した記憶の保存機器に大幅な改良を加え、生体機能代行装置に作り替えたのだ。
 記憶を保存した人工脳髄を人間に移植することで、その人間は保存された記憶を認識することができる。人工脳髄を移植した人間にしか抽出した記憶を認識することができないが、それでも度重なる実験によって――今でも研究、実験は続いている――その技術は確かなものだという認識が広がっていった。そして彼の研究の協力者が増えていき、人工脳髄だけでなく記憶に関する様々な技術の新たに生み出されていった。
 そして今、その科学者が生み出した人工脳髄は秋山の頭の中で本物の脳と変わらぬ働きをしていた。
 秋山は事故により脳が大きく損傷してしまったのだが、記憶を人工脳髄に移した後で――海馬が無事だったのが不幸中の幸いだった――それを移植し、見事に回復した。
 しかし、同じ記憶でも人格などが変わって別人のようになっているのではないか……と私は少し心配をしていたのだが、どうやら杞憂だったようである。
「調子のほうはどうだ。何か変わったことは?」
「そうだなあ……」
 私の問いに秋山はコーヒーを啜りながらうんうんと考えるが、カップを置くと同時に「特にないなあ」と答えた。
「ならよかった。手術は大成功だったわけだ」
「君は心配性だなあ。大成功じゃなかったらこうしてここで君とお喋りできないだろ?」
 秋山は脳みそをまるまる取り替えた人間とは思えぬほど平然としていた。本当は手術をしていないのではないかと疑ってしまいそうになる。もちろん手術をしたのは間違いないと分かっているが。
 試しに今思ったことを口に出してみると、秋山はさぞ愉快そうに声をあげて笑った。
「せっかく生きながらえた命なんだ。何も気負わずに生きているほうが人生を楽しめるじゃないか」
「まるである種の悟りに至ったような感じだな」
「ような、じゃないかもしれないぜ。何せ僕は死の淵から生還した男だからね」
 そう言ってまた無邪気な笑みを見せる。三十を過ぎて妻子がいる身だというのにどこか子供っぽい表情を浮かべるのが秋山という男だ。
「なあ、まだ時間に余裕はあるかい?」
「今日は一日中開いているが、どうかしたのか?」
「今からカラオケに行かないか?」
 秋山の提案に私は少し驚く。確か彼は昔からカラオケが苦手だったはずだ。それなのに自分からカラオケに誘うとはどういう心境の変化だろうか。
「そんなに驚かないでくれよ」
 秋山は私を見て苦笑する。どうやら驚きが顔に出てしまったらしい。
「入院中に溜まったストレスをぱーっと解消したいんだ」
「ああ、付き合うよ。驚いて悪かった。たまにはカラオケもいいだろう」
 私はほとんど手をつけていなかったカップを手に取ると、冷めたコーヒーをぐいっと飲み干した。


 それから週末になるたびに私は秋山から遊びに誘われた。この前のカラオケがよほど楽しかったのか、それ以降もカラオケに行くことが多かった。他にもパチンコや競馬など、彼は今まで触れてこなかった娯楽に次々と手を出していった。
 土曜はカラオケ、日曜はその他の娯楽、といったパターンが我々の習慣になりつつあった。秋山の遊びに付き合うのは構わないのだが、私はひとつ気にかかることがあった。彼の家族のことだ。
 秋山には妻とまだ小学校低学年の娘がいる。すでに彼は職場にも復帰しているため、家族と触れ合う時間は帰宅するのが遅い平日を除けば土日だけになる。だが、その家族サービスのための時間を彼はほとんど私と共に過ごしている。家族はどう思っているのだろうか。
 ある土曜日、待ち合わせ場所に来た秋山にそれを問うた。すると楽しそうにしていた彼の顔が一瞬のうちに曇った。
 この表情を見れば誰でも何か問題があるな、と察することはできる。私はカラオケに行かずに喫茶店で少し話そうと提案する。秋山は少し迷ったようだが、小さな声で了承した。
「どうして家族と一緒にいてあげないんだ?」
 私は改めて秋山に問う。すぐに返答はされなかった。居心地が良いとは言えない沈黙の中で私は彼の答えを待つ。
「辛いからだよ」
 思ったよりもはっきりとした声で秋山は答えた。
「家族と一緒にいるのが辛いんだ」
 私は間髪いれずに「何故?」と返した。「君は自分の家族を愛しているんだろう?」
 事故を起こす前の彼が家族に深い愛を注ぐ人間だと知っている。だから彼の返答に納得できるはずもなく、私はまた質問を投げかけた。
「そうだよ。僕は妻も子供も愛していた。それは間違いない。僕の記憶が」
「愛していた?」
 過去形の言葉。今は愛していないとでも言うのだろうか。
「いや、今も愛してる。僕は家族を愛してる、はずなのに……」
 秋山はテーブルに両肘をつくと、自分の頭を抱えてうつむいた。
「僕は本当に彼女たちを愛しているのかな」
 私に向けてというよりは独り言のように呟く。
「妻と子供は私を愛してくれている。退院してからは前以上に彼女らの愛を感じるようになったよ。だけど僕はどうだ」
 私は少し考えた後、自分で出した結論を彼に言い放つ。
「つまり、君は家族に対して愛情を向けられなくなっている、と言いたいのか」
 返答はなかった。私はそれを無言の肯定と受け取り、言葉を続ける。
「家族を昔のように愛せなくなったから、なるべく自宅で家族と一緒に過ごさないようにしている。こんなところか」
「温度差を……感じるんだ」
「温度差?」
「家族の愛はとても温かいよ。でも僕の心は冷え切ってしまっている。彼女らを愛そうと頭で思っていても、実際に愛しているという自信を持てない。だからかな、心の温度差のせいで家族といるとたまらなく居心地が悪いんだ」
 弱々しい声で秋山は全てを吐き出した。
「大丈夫だよ」
 私は秋山の肩に手を伸ばし軽く叩いた。
「まだ人工脳髄に記憶が定着しきっていないんだろう。時間が解決してくれるさ。少し無理してでも家族と一緒にいる時間を増やしたほうがいい」
 秋山は顔を上げて私を見る。
「今日は家に帰るといい。大丈夫、病み上がりで体調が良くないのと同じさ」
 大丈夫、と優しく何度も秋山に言い聞かせる。彼も私の言葉を信じてくれたようで、こちらに頷き返してくれた。
「また問題が起きたら何でも相談してくれ。いつでも助けになるから」
「ありがとう……本当にありがとう」
「いいんだ。君の気持ち、君の不安は私もよく分かる」
 そう言って、秋山を立ち上がらせる。会計は私が済ませ、その日は彼を家まで送り届けた。


 それからは秋山と遊ぶ頻度も減った。私の言った通り、家族と共に過ごす時間を増やしているようだった。
 このまま順調に人工脳髄が馴染んで秋山は元の生活に戻っていくのだろう。そんなことを悠長に考えていたが、現実はそう甘くはなかった。
 とある平日の夕方、秋山から電話があった。相談がある、一晩泊めてくれないか、と。いきなりの頼みごとだったが私は二つ返事で快諾した。基本的に仕事は自宅で行っているため、彼の都合に合わせるのは簡単だった。
 電話から二時間後、仕事を終えた秋山が私の部屋の呼び鈴を鳴らした。
「すまないな」
 秋山はコンビニの袋を片手に申し訳なさそうな表情を浮かべて玄関に上がる。どうやら酒を買ってきたようだ。これを飲みながら話を聞いてくれ、ということだろう。
 テーブルを挟んで向かい合い、腰を下ろす。ビールの缶を開けて数口飲んだ後、私から先に話を切り出すことにした。
「家に帰りたくないのか?」
 秋山はその言葉を聞くと缶をテーブルに置き、情けなさそうに笑みを浮かべた。
「ちっとも人工脳髄が馴染む気配がないんだ」
「あれから良くならないってことか」
「僕だって努力はした。休みの日は極力家で過ごしたり家族で出かけたりしたよ。でもね、駄目なんだ。家族への愛情が戻るどころか、彼女たちへの関心がどんどん無くなっていく。心が完全に冷え切ってしまっているんだ」
 人工脳髄がまだ馴染んでいないという仮説は間違いだったようだ。おそらくこれにはもっと根本的な問題があるのではないか。
「人工脳髄内の記憶に何かおかしいところがあったりはしないか?」
「いいや、記憶は間違いなく僕のものだよ」
 ふむ……と少し考えた後、私は結論を出した
「明日、病院に行こう」
 手術は成功ではなかった、あるいは人工脳髄そのものに問題があった。それが今の私の考えだった。それを理由に、私は病院に行くべきだと答えを出した。その仮説が当たっているかどうかはともかくとして、今は医者に診てもらう方がいいだろう。
「それで治るのかな……」
「治るさ」
 根拠はないが、私は力強い声で断言した。
「だから明日は病院に行こう。私も付き添うから」
 秋山は無言でうなずき、了承してくれた。
 その日はすぐに就寝し、翌日の午前中に私たちは秋山が手術をした病院へと向かった。
 医者いわく人工脳髄そのものには問題はないとのことだった。ただ、うまく身体と合っていない可能性があるらしく、簡単な調整を受けてその日の診察は終わった。
「思ったほど大きな問題じゃなくてよかったじゃないか」
 調整に丸一日かかったため、病院を後にした私たちは近くの居酒屋で酒を交わしていた。とは言っても秋山は調整したばかりで自発的に酒を控えていたのだが。
「本当にこれで何とかなるのかな」
「医者がそう言ったんだ。間違いないさ。他に頼れるものもないだろう」
「今の僕が頼れるのは医者だけだっていうのは分かってるさ。だけど、その医者が何とかできなかったら……?」
 少しいらつきが込められた声だった。
「もしも俺の頭の異常が医者にも治せないものだったら俺はこれから先どうすればいいんだよ。なあ……どうすればいいんだよ!?」
 温厚な秋山の激昂。私が思っている以上に秋山はナーバスになっていたのだろう。頼みの綱である医者にかかっても不安はぬぐわれるどころか増していたのかもしれない。不安定な精神状態の秋山に、私の根拠のない励ましは逆効果になってしまった。
「すまない」
 ただ謝ることしかできなかった。秋山の問いに答える術を私は持っていない。
「こっちこそごめん」
 少し冷静になったのか、秋山も私に謝る。だが場の空気はそれから良くなることもなく、それから三十分ほどで私たちは店から出て、その場で別れた。


 あれから二週間が経った。秋山からの連絡はなかったので、元の生活に戻れたのだろうと私は思っていた。が、確認を取らなければ実際のところは分からない。だからそろそろ秋山に連絡でも入れよう。そう思った矢先のことだった。
 時刻は午後九時。事前連絡なしに秋山の方から私のもとを訪ねてきた。青ざめた彼の顔を見た瞬間、駄目だったのだなと悟る。
 何も言わずに私は秋山を中に通した。彼は自分の右手を真っ赤になるほど握りこんでいた。
 私が事情を問うよりも早く、秋山は口を開いた。手をあげてしまった、と。
「誰にだ」
「家族に」
 答えは聞かなくても予想はついていた。私は問いを重ねる。
「嫁さんか」
「娘にも……だ」
「どうしてそんなことを」
 秋山は家族に対して関心を失っている、と言った。嫌悪しているわけではないのだから手を出すようなことにはならないと思っていた。彼がここを訪ねるまでは。
「口喧嘩をしたんだ。あいつらがすごく憎らしくなって……そして俺は……」
「もっと道筋を立てて話してくれ。まず、口喧嘩の原因はなんだ」
「会社を辞めた。嫁には相談せずに。それが良くなかった」
 それは秋山の妻も怒るに決まっている。一番相談すべき相手にしなかったわけだから。しかし、なぜ彼は会社を辞めたのか。彼に問う前に自分で少し考える。答えはすぐに出た。
「会社の人間関係も辛かったのか」
 秋山は無言で頷いた。家族とですらうまくコミュニケーションを取れない状態なのだ。会社の人間ともかみ合わない部分が出てくるのはおかしくない。なぜ私はそれにすぐ気付くことができなかったのだろうか。
「人間関係だけじゃない。仕事自体にもやりがいを感じなくなってしまったんだ。昔は仕事自体が好きでやりがいもすごくあった。自分の天職だと思っていたよ。それなのに今では苦痛にしか感じない」
 私は無言で続きを促す。
「それを嫁に話したらどうして相談してくれなかったの? どうして私と苦しみを共有させてくれなかったの? って。それでカチンときてしまった。なんでお前なんかに相談しなきゃならないんだって、僕は嫁にそう返した。今思うとなんでそんなことを口走ってしまったのか分からない。でも、その時の僕は目の前で僕に怒りを向ける嫁が憎らしかった。その時の僕は完全に負の感情を抱いていたんだ」
 その喧嘩の果てに、秋山は家族に暴力をふるってしまった、そういうだろう。
「事故を起こして入院する前はあんなに愛していたのに。愛していたという記憶が確かにあるのに。どうしてあの頃のように愛せないのだろう」
 事故を境にした変化……いや、正確には人工脳髄の移植が境になるのか。無関心から始まってとうとう憎しみを感じるようになってしまった。完全な悪化、人工脳髄の調整だけではきっとどうにもならない異常。
 もう一度病院に行って再検査すべきか。しかしそれでも異常が見つからなかった場合はどうすれば……。
 私が思考を巡らせている間も、秋山は話を続ける。なんとか話の聴取と思考することを両立させる。
「愛していた記憶があるから、今の自分とのギャップが苦しい。家族の愛を感じれば感じるほど、僕の心が冷たくなっていく」
 秋山の話を聞きながら改めて考えた結果、やはり答えは一つしかでなかった。それは考える前のものと同じ。
「もう一度病院に行こう。今度は徹底的に検査してもらうんだ。それしか元に戻る方法はない」
 元に戻る……か。無意識にそういう言い方をしてしまった。まるで今の秋山は秋山ではないかのような。果たして実際はどうなのだろうか。
「そうだね。明日にでも行こうと思う」
 秋山は居酒屋のときのように怒ったりはしなかった。自分でも再検査することだけがこの異常を治す唯一の希望であることを理解しているのだろう。私に全て吐き出したからかだいぶ落ち着いてきているように見える。
「それじゃあ」
 秋山はすっとその場から立ち上がり、玄関の方へと歩いていく。
「泊っていかないのか」
「そのつもりだったけど、やめた。まずは嫁と娘に謝ろうと思う」
「大丈夫なのか?」
 ここで帰していいものだろうか。また暴力をふるってしまうことも考えられる。家族のもとに戻るのは病院に行ってからの方がいいのではないか。
「今の僕なら大丈夫だと思う。それに、検査次第ではすぐに入院が決まってしまうかもしれないだろう。だから、その前に喧嘩の件だけでも解決しておきたい」
「……分かった。明日病院行く時は私もついて行くよ。行く前に電話してくれ」
「うん、悪いな」
「奥さんと子供にはしっかり謝れよ。大事な家族なんだから」
 そう言って私は秋山を見送った。
 明日はきっと午前中から秋山に付きっきりになるだろう。時計を見るとまだ二十二時を少し回ったところだったが、もう寝ることにした。


 けたたましく鳴る電話の着信音に叩き起こされる。秋山からの電話だろうか。だとすると寝過してしまったか。急いで身体を起こすと枕元でうるさく震える携帯電話を手に取った。
『すまない……』
 秋山の第一声は沈んだ声での謝罪だった。
「いきなりどうしたんだ」
 私は目をこすりながら返答する。どうも寝たという実感がわかない。寝起きは良い方なのだが、今は全身に気だるさを感じる。
『もう駄目だ。駄目なんだよ』
「一体何がどうしたんだ」
 寝起きであることも相まって、秋山の言葉の意図がまったく掴めない。
『……“僕”はもうお終いだ』
 その言葉と同時に電話の先から何かが倒れるような物音が鳴った。そして、その直後に女性の悲鳴。私の眠気が急速に冷めていく。
『すまない』
 再び謝罪の言葉を発した直後に、秋山は通話を切った。
 携帯電話の画面の隅で『23:50』という数字がゆっくりと点滅していた。


 私の家から秋山の家までは車で二十分ほどかかる。しかし、深夜ということが幸いしてもっと短い時間で到着することができた。
 秋山の家は一階にだけ明かりが点いていた。車を降りて急いで玄関に向かう。少女の泣き声が家の中から聞こえてきた。
 玄関の扉を開こうとするが鍵がかかっていてびくともしない。チャイムを鳴らし、何度か玄関を叩くが反応はない。
 私は急いで庭へと回る。カーテンに隠されて中の様子は分からない。私は一瞬躊躇したものの、覚悟を決めて窓ガラスを叩き割った。割れた部分から手を入れて解錠すると、カーテンを引いて中に足を踏み入れる。目の前に広がるのは家具や日用品が散らかった無人のリビング。
「何をしてるんですか!?」
 背後から聞こえる第三者の声。塀の向こうから発せられたと思われる。隣人あるいはたまたま通りかかっただけの通行人か。私はその声の主の方へ振り向かずに答えた。
「警察を呼んでください」
 そう言うや否や私は全速力で家の中に侵入する。
「パパもうやめて!」
 家の中に響き渡る少女の声。リビングから廊下に出る。どうやら奥の方の部屋に秋山の娘がいるようだ。半開きになった扉を開けて中に入る。
 どうやら寝室のようだった。部屋の隅には秋山の娘と思われる少女。頭部のどこかを怪我したのか、額が血で濡れている。ダブルベッドの上では秋山が妻に馬乗りになって何度も拳を叩きつけていた。真っ白なシーツの一部が真っ赤に染まっている。秋山の妻はぐったりとして動かない。その顔は元が女性であることが分からなくなるほどに変形していた。
 私に気づいた秋山は殴る手を止めてこちらに顔を向けた。血走った目が私を捉える。
「どうしてこんなことに……」
 数時間前の秋山の言葉を思い出す。「今の僕なら大丈夫だと思う」「喧嘩の件だけでも解決しておきたいんだ」それがなぜこうなってしまったのか。
「来てくれたのか。でも、すまない。見ての通りだ」
「なんで仲直りできなかったんだ」
「もう“僕”じゃないからだよ」
  その返答は私には理解しかねるものだった。
「ずっと隠してた。君にも家族にも。そして自分は気付かないふりをしていたんだ」
「一体何を……」
「秋山孝介はもう死んだ。あの事故で死んでるんだよ」
 そういうことか、と私は声に出さずに理解した。
 秋山孝介という生きた人間が秋山孝介は死んだと、そう言った。第三者が聞いたら間違いなく理解できないだろう。しかし、私には分かる。
 その身体と記憶は間違いなく秋山のもので、人工脳髄が移植されてもそれは不変の事実である。ただ――手術後、人工脳髄の中で目覚めた意識だけは事故以前の秋山ではない何かなのである。
「できればその事実から目をつむって一生過ごしていたかった。けど駄目だった。仮初の秋山孝介はもう終わってしまった」
 目の前の“彼”は笑い声をあげた。何も感じない、空っぽな笑い声だった。
 その声に交じって廊下の方から足音が近づいてきた。私の後ろから警官が現れる。目の前の惨状を視認するや否や、すぐに彼をベッドから引きずりおろした。意外にも抵抗は一切しなかった。
「救急車を!」
 警官に支持され私は携帯で救急車を呼ぶ。その間に警官も他の警官に連絡を入れていた。
私の横を警官と彼が通って行く。
「秋山孝介なのに秋山孝介じゃない……」
 連れて行かれる直前、“彼は”私に向かって問いかけた。
「じゃあ、“俺”はいったい誰なんだ?」
 私は何も答えなかった。


 秋山の主治医は彼にこう言った。今まで蓄積された記憶が自分を自分たらしめる、と。彼の人工脳髄移植もその考えを前提に行われた。自我は、人格は今まで生きてきた記憶から形成される。だから記憶をそっくりそのまま維持して移植すれば、移植以前と以後でもそれは変わらない、と。
 しかし、それは間違いだった。秋山孝介は人工脳髄移植以前と以後で同じ記憶、同じ身体だったにも関わらず、人格は移植以前と以後で別だったらしい。
 それが原因で今回の事件が起きてしまった。
 秋山の娘は軽傷で済んだものの、妻は救急隊が到着した時点で既に死亡していた。あの後、彼は殺人容疑で逮捕された。
 あの日以来、彼とは会っていない。会えないと言った方が正しいかもしれない。彼は今拘置所にいるのだから。
 しかし今日、私は拘置所へ足を運んでいた。どうしても彼と話をしなければならなくなったのだ。面会の手続きを済ませ、今は待合室で順番が回ってくるのをずっと待っている。
 面会希望の人間が多いのか、だいぶ長い間待たされている。持ってきた文庫本もすでに読み終えてしまった。読みかけのものではなく未読のものを持ってくるべきだった。
 携帯電話を何度も開閉して暇を潰していると、やっと私の名前が呼ばれた。
 私は立ち上がると同時にボタンを押し、あらかじめ打ち込んであったメールを送信する。職員に案内されて面会室に向かう。途中で携帯電話などの持ち込み禁止となっている荷物をロッカーに預けた。手には筆記用具とメモ帳だけ。
「面会時間は三十分です」
 面会室に入る。実際は三十分も話せないらしいが、時間は十分程度で問題ない。
「やあ。久しぶりだな」
 私はガラス越しに対面で座る彼に挨拶をした。
「思ったよりも元気そうじゃないか」
 殺人犯として裁判を控えた人間とは思えないほど、彼の態度はいつも通り……いや、いつも以上に気が楽そうにも見える。
「すっきりした気分だよ。もう無理に秋山孝介として生きなくていいんだから」
「罪の意識はないのか?」
「あるさ。それでも秋山孝介を演じていたころよりは気持ちが楽なのさ」
 演じていた……か。彼はもう完全に別人格として生きているようだ。
「それで、何の用だ?」
「いくつか聞かなきゃいけないことがあってね」
 私はメモ帳を開く。
「自分が秋山と違う人格だと気がついたのはいつだ?」
「最初におかしいと思ったのは手術後に家族と会ったときだ。そのときはまだ人工脳髄に記憶が馴染んでいないだけだと思っていた。違う人格だと疑うようになったのは家に戻って少し経ってから。君に相談する少し前だね」
「思ったより早く気がついていたんだな」
「気がついたけど、気がつかないふりをしていたのさ。自分自身にね。秋山として平穏に暮らして生きたかったから」
「でも、見て見ぬふりができなくなるほど、時間の経過とともに君の人格は秋山と別のものとして確立していった」
 秋山は無言でうなずく。
「必死で秋山になろうとしたよ。秋山としての記憶は全てあるんだ。でも、無理だった。自分を殺すような生き方、俺には耐えられなかった。だって俺は俺なんだ。秋山孝介じゃない」
「人工脳髄移植後、別人格の形成以外に大きな変化はあったか?」
「いいや、ないと思う」
 これくらいでいいだろう。私は彼の返答を簡単に書きとめた。
「どうしたんだ。まるで医者や人工脳髄の研究者みたいだったぞ。どうかしたのか」
「これが私の仕事でね。いやはや、協力ありがとう」
 彼の表情が変わる。不信感が大きくなってきていることが一目で分かった。
「何かを疑っているのか?」
 彼は答えない。
「ならば考えてみればいい。記憶を辿ってみればいい。秋山孝介の友人である私はどんな人間で、どんな仕事をしていたのか。私は医者か研究者かどうか。ほら」
 私に言われるままに、彼は秋山としての記憶を辿り始めた。そして、見る見るうちに青ざめていく。
「何も分からないか?」
 私の言葉が図星だったのだろう。彼はうろたえたが答えはしなかった。
「私は秋山といつ出会った? どこで出会った? どうした、言えないのか。……まあそうだろう。分かってるよ。秋山の記憶の中には私が友人であるという漠然とした認識しかないはずだからな。
 おかしいと思わなかったか? 家族や会社の同僚、事故前に関わっていた人間とのコミュニケーションがうまくいかなかったにも関わらず、私だけは秋山と仲良くできた。ただの友人でしかないはずなのに。それはなぜか?」
 彼は不安に満ちた視線で私に続きを促した。時間が限られていることもあり、私はすぐに答えを告げる。
「私は君の、秋山の友人などではないからだよ」
「意味が分から――」
 そう言いかけて、彼は床に倒れ込んだ。頭を押さえながら苦痛に顔を歪めている。例のメールを送信して二十分が経過した。もう時間がない。
「もしも、人工脳髄の中の記憶に細工ができるとしたら?」
 職員が倒れた彼に気がつく。終わりが近い。
 彼は頭を押さえながらぎろりと鋭い視線を私に向けた。
「お前は……誰だ……?」
「ただの観察者だよ」
 私がそう言い終わると同時に彼は意識を失った。職員は慌てて彼の脈をとって彼の生死を確認する。
「彼は?」
 私が尋ねると、静かに首を横に振った。
 別の職員に促されるまま、私は面会室を後にする。
 全てを話すことはできなかったが、秋山の死を見届けるという最後の仕事は無事終了した。


 その日の夜、私は報告書を作成していた。
 実験は終わった。大成功とは言えないが、進歩はあったと思う。
 人工脳髄にはまだ多くの問題点が残っている。それを解消するため、今現在も我々は実験を繰り返している。秋山の件もその一つだ。
 秋山の事故自体は我々が仕組んだものではなく、まったくの偶然だった。実験のため故意に事故を起こすような真似をするほど非道ではない。
 秋山の家族は彼が助かる方法を求め、我々は被験者を求めていた。ギブアンドテイク。我々が人工脳髄移植の話を持ちかけたとき、彼の家族は最初こそ拒絶をしたものの、他に助かる方法がないことに気づき、協力することに承諾した。移植にかかる費用を全部こちらが持つという条件も大きかっただろう。
 そして、我々の被験者として秋山は蘇生させられた。実験終了までの短い生命だったが。基本的に被験者は全員実験終了後に人工脳髄の機能停止をもって処分される。私が指定のアドレスにメールを送ることで、その二十分後に秋山の人工脳髄が機能停止するようになっていた。機能停止の瞬間を見届けるまでが観察者の仕事なのだった。
 今回は記憶改竄技術の試用も兼ねていた。私が秋山の友人であるという偽の記憶を人工脳髄内の記憶に植え付け――観察者であることを隠して秋山に近づく助けにもなった――それが自然に定着するかどうかの実験。会話の中で記憶の改竄についてほのめかしたりもしたが、実験中は最後まで気づかれることはなかった。この件の関しては成功と言えるだろう。
 しかし、別人格の形成は予想外の結果だった。過去の実験によって記憶が自分を自分たらしめるという認識が正しいものとされていたのに、それが覆されてしまった。またこれからも多くの実験が必要となるだろう。それは果たしていつのことになるのだろうか。
 いつかは訪れるであろう、私の頭の中にある未完成品が完全なものになる日、希薄になった感情が元に戻る日。思いを馳せずにはいられない。
 書き終わった報告書をメールで送信する。私が秋山と同じ結末を辿るよりも早く、その日が来ますようにと祈りながら。
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