「えー、そういう訳で、ここはテストにも出るからよく復習しておくように」
せっかく定期試験の情報を教えてやったのに、生徒達はチャイムが鳴るや否や、わいわいと生物学教室を団子になって出ていく。きっと、ほとんどの者は聞いていなかっただろう。
溜息を吐くと、横から可愛らしい声がした。
「いーざなーぎせーんせいっ」
「……なんだ、山田(やまだ)」
誘木征嗣が呆れを隠さずに見れば、生徒の波から外れて、二人の生徒が残っていた。一人は山田という一年生で、今年彼が副担任となったクラスの女子である。とにかく明朗快活で、彼女の名は半ば無理矢理覚えさせられたのだが、もう一人の方は何だったか、いつも山田と一緒にいる割には無口な生徒だ……確か、長谷見(はせみ)だった気がする。
「今日こそ眼鏡取って見せてよー」
「……断るよ。そもそも、どうしてそんなことをしなくちゃならないんだい?」
「絶対、素顔かっこいいって先生。逆に、なんでそんなに頑ななの?」
「僕はね、必要と感じないことはしないんだよ」
「そんなことだから、女性にモテないんですよ」
さらりとそんなことを言ったのは、置物のようにしていた長谷見だった。誘木が独身であるという噂からそう攻めてきたのだろうが、誘木自身にはそう重く響かない――何故なら、それが否定しようのない事実だからだ。いくら人間であるとはいえ、護国十家の一端に関わっているというのなら、なかなか普通の縁談は進まない。
「だからさ。僕はモテる必要なんてないんだ」
「……それはもしや、すでに心に決めた女性がいるということですか?」
「はっ! そういうことだったの長谷見ちゃん!?」
「そうよ。私も気付いたのは、なんて返そうか迷っていた時だったけど」
「それは思いつきっていうんだ、長谷見」
と、言いつつも。
誘木は内心穏やかじゃなかった。
――すでに心に決めた女性が――
なんて。
小娘が、知った風な口を利いてくれる。
定時に学校を出て、空き家の隙間から山の中に這入る。勾配の不規則な獣道は、今の内ならまだいいが、これから年を取ってくると辛いものがあるかもしれないな、と思う――それも〝これから〟があればの話だけれど。
「今帰った」
戸を開き、屋敷の奥まで届く声で言っても返事はやってこない。代わりに、居間の方から間断なく電子音が漏れ出してきていた――ピュンピュンというか、ピコピコというか。
またか、と思いながら、誘木は居間へと向かう。
襖を開けて、
「今帰った」
再度、やや強く言うと。
居間でうつ伏せに寝転がり、ただし座布団を半分に畳み両肘をそこに預けてテレビを見上げていた、くせっ毛黒髪ボブカットの干物――もとい、紫根色の着物を着た女性がゆっくりと振り返った。「おかえりなさい」と言って、ひょいと片足を曲げて立ててくる。その動きにつられて、誘木も片手を上げて応えてしまう。そしてすぐにテレビに顔を向け直す彼女――不退院四辻を、誘木は嘆息交じりに見下ろした。
「四辻……それ、いつからやっている」
彼女の手に握られているコントローラーと、光るテレビを見て言う。
「二時間ぐらい前かしら」
「掃除は?」
「いつもどおり、朝の内に」
「洗濯は?」
「終わったわ。私とあなたの分だけだし、早いの」
「買い物は?」
「昨日食べたいもの聞いたでしょう? あるものでできそうだったから、いってない」
特にケチをつけられる部分はない。
「そうか……じゃ、あんまり長くやりすぎるなよ。目が悪くなるぞ」
「はーい」
まるで、子どもを相手にしているみたいだ――誘木は声に出さずに言った。
あの、厄介事ばかりが連続し、後処理に奔走し続けた、公務以外では決して思い出したくもない一年は、その終わりに二人の人間を別った。
一年以上前のことだ。
当主の死亡と、久布白家と絡み合う失態、そして――実験体の隔離。
それらの事実を総合した結果、純血であろうとも、もはや統率力を失った本家に家督を預けておくのは得策ではないとして、四辻は分家に跡目を継ぐ権利を譲った。いや、誘木が譲らせた。それでも、四辻自身が分不相応の重荷から逃れられて息を吐いていたことを考えると、間違いではなかったのだろう。
それから誘木は、この暮東の屋敷に生活の拠点を移した。
言わずもがな――それは、四辻との同居を示す。
上への報告としては、負傷した不退院四辻の当面の補佐、重要資料が集積されている屋敷での任務の効率のよさ、などを建前(りゆう)としたが――それはどちらかというと、誘木の突飛な行動を不思議がる四辻に対して、の意味合いの方が大きかったかもしれない。
そういったいきさつではじまった、奇妙な同居生活。
まさしく、同居。
同棲――恋人でもなければ。
同穴――夫婦でもない。
管理する者と管理される者。
その実態は、元々回復力の高い四辻が歩けるようになるまで、時間はそう要しなかったものの、監視員としての職務は確かにやりやすかった……ちなみに、その一環として潜入した筈の高校の教師を未だに続けているのには、止むに止まれぬ事情がある――いくら機密レベルの高い特殊な国家公務員であっても、最近は改変の波が押し寄せてきて、本職だけでは肩身が狭いのだ。そんな二足の草鞋(わらじ)を履かざるをえない状況は、他の護国十家付きの家系にも共通らしい。知られざる政府の裏側だとか、暗部のエージェントだとか、とんでもない……世知辛い世の中である。
話を戻すと、とにもかくにも、そういった日々の中で一つ気付かされたのは、この屋敷での生活が恐ろしく暇だということだった。いや、本当はずっと前から分かっていたことだったが、そこで暮らすようになって、改めて教えられたと言った方が正しいだろう。
あれはいつのことだったか――仕事が一段落し、書斎から数時間ぶりに出てきた時だった。ふと覗いた一室で、日溜まりの中、四辻は猫のように丸くなって眠っていた。思わず頬を突っついてみたくなるような寝顔だった。その時は、単純に眠かっただけなのだろうと思ったが、それは違った――それ以外にすることがないのだった。
生い立ち上、立場上、仕方のないこと。
けれど。
その後も、ぼんやりと縁側に腰掛けている場面を見たりして、彼女の日々の空虚さを見せつけられた。庭に出てみたらどうだ、と言いそうになったが、三十云歳の女が蝶々を追いかけ回しているという構図は、想像するまでもなく、どこからどう見ても酷だった。
だから、という訳ではないが――試しにテレビを経費で購入してみたのは数ヶ月前。
どうせなら、とゲーム機と幾つかソフトも買ってみた。これで多少の退屈しのぎにはなるだろう、と思っていたのだが、甘かった――今この通り、四辻は予想を遥かに超える勢いで、どっぷりとバーチャルにハマってしまった。彼女の背中に感じたかつての感傷が恥ずかしくなるくらい、テレビっ子になってしまったのである。コントローラーを操る手つきに残像が生まれ、子供向けアニメや大人向けドラマを食い入るように見つめる四辻の姿を、誘木はキャラの崩壊をひしひしと感じながら見下ろしていた。
悲しい過去を持つ女の筈が、アクティブなインドア派になっていた。
「………………」
このままでは、前とは違う意味で、四辻がダメになってしまう。
せっかく引っ越してきたのに――これでは元の木阿弥だ。
どうにかせねば、と思う内に。
自今以後。
彼女がゲームを終えて、夕飯の支度がはじまった。誘木も軽く手伝って出来上がったのは、秋刀魚の塩焼きと小松菜の煮びたし。味噌汁もよそって二人きりの夕食がはじまる。
「……うまいな、秋刀魚」
「そうね。旬だものね」
「……今日は、授業があった」
「毎日じゃない」
「……明日も、授業がある」
「意味分かんないわよ、もう」
「………………」
この際明記しておくと、誘木征嗣は生来の口下手である。自解するとおり、必要なこと以外――ことさら、自分から他愛ない話を生み出すのが苦手だ。それは、相手が目の前の女であることも大いに関係しているが。
「ご馳走様」
「お粗末様」
ほぼ同時に箸を置き、四辻は食器をまとめて台所へいく。誘木は灰皿を引き寄せて、煙草に火を点けた。吐き出す煙は溜息と重なって、身体を取り巻く。
少しして、四辻がお茶を淹れて持ってきた。食後のリラックスタイムだ。受け取った湯飲みを見た誘木は、四辻に向かって言った。
「この湯飲み……」
「それ、ちょうど使えるのがなくて、昔のだけど……あ、欠けてるわね。私と代える?」
「いや……これでいい」
誘木は、飲み口の欠けた湯飲みを見つめた。
本来なら使おうと思わない代物だが、彼はそれに見覚えがあった。
現在まで延長線を延ばす。
現在の根源を成す。
痛みの思い出が、そこにはあった。
誘木と四辻がはじめて出会ったのは、一九八五年のことだった。
浄歳久布白事件が爪痕を残す中、父であり、先代の目付け役である誘木繁房(しげふさ)が責任を負うように引退し、前例よりも早い代替わりとなったのだ。
誘木家の人間が不退院と顔を合わせるのは、交代する日が最初となる決まりだった。それ以前に関係を持つことは、いらぬ情を芽生えさせるとして禁止され、冷徹な監視者となるべく教育を受けた誘木は、その日はじめて屋敷に足を踏み入れた。
まずは当主である烏森と対面し、誘木は心の中で嘲笑った。
なんと醜い老顔か、なんとおぞましい赤い眼か――本当に、馬鹿げている。
その後、一人だけ別室に移らされた誘木は、暇をもてあましていた。ちょうど灰皿があったので、最近吸いはじめた煙草を取り出そうとしたところで――背後の襖が開き、誰かが入ってきた。不退院の者だろうか……思えば、一対一はそれが初だったので、誘木は少なからず身構えた。
「……お茶」
気だるげな、それでいてまだ若い女の声。
しかし女とはいえ所詮は醜い人外――と、振り返った時だった。
誘木征嗣は――
恋に落ちた。
そんな陳腐な言い回しに頼らなければならないほど――けれど、恋に落ちた。
徹底的に叩きこんできた知識と偏見が瓦解していく音を、聞いた。
一目惚れ、である。
何を隠そう。
お茶を運んできたのは、成人を迎えて間もない四辻だった。
「あ、ああ」
憂いを湛えた緋色の瞳と目が合い、誘木ははっとして湯飲みをとった。まとまらない頭のまま口をつけた――ところで、唇の内側に鋭い痛みが走った。顔を顰めて見てみると、飲み口の一部が欠けて尖端をつくっていた。そこで口を切ったらしかった。
「なっ、なんだこれはっ。欠けてるじゃないか。ふざけてるのかお前っ」
誘木は湯飲みを投げ捨て、四辻に詰め寄った。手首を乱暴につかみ上げると、盆が落ちたが、さらにそれを蹴り飛ばすようにして顔を寄せる――彼がそこまで怒ったのは、湯飲みのせいだけではない。むしろ大半が、完璧に見下していた不退院家の女に胸が高鳴ってしまった戸惑いや慙愧(ざんき)の念が転化したものだった。もっと簡単に言えば、認めたくないという、照れ隠しに近い感情だったかもしれない。
しかし、すると、勢いが強すぎたのか、誘木は四辻を畳の上に押し倒してしまった。
意図しない状況に、より混乱する誘木とは対照的に、四辻は静かに言った。
「……それで、湯飲みが欠けていて、どうするの?」
「それは、お前が」
「ここで折檻? 肉体的? 精神的? 性的?」
誘木は何も言えなかった。彼女の発言は勿論のこと、それをこんな冷めた表情で言うことが何よりも喉を締めつけた。そうして重苦しい沈黙が続いていくかと思われたが――廊下から、とたとたと羽ばたくような足音が聞こえて、誘木が振り向くと、金髪の幼女がいた。
赤い瞳でじっと見つめられ、自分が弁解のしようのないほど犯罪チックな体勢であることを思い出して、彼は旦那が帰ってきた時の間男がごとく四辻から身を引いた。
「よつじ、よつじ。ひまだ。あそべ」
「そうね……またしりとりする?」
四辻は身を起こしながら言った。
「しりとりはあきた。おにごっこしよう。よつじがおにだ」
「痛いところ突くわよね、鬼って……でも、今日はお客さんがきてるから、騒がしくしたらいけないの。あやとりにしない?」
「むぅー、わかった。そこまでいうならしたがながいな」
「しかたがないよ、朱鷺菜」
「しがたかない」「したかがない」と歌う幼女を連れ添って、四辻は何事もなかったかのように部屋を出ていった。誘木は、その後ろ姿を呆然と見送るだけだった。
結局――その日に誘木は正式に引き継いだが、それからというもの、彼は四辻にどことなく、時にはあからさまに辛く当たるようになった。会うたびに胸が熱くなって、好きだ、という気持ちに心が満たされていくような気がした――けれど、監視役は常に機械のように冷徹で私情を挟んではならないという、脳に刷りこまれた信念との葛藤が、そうさせた。
それでも、四辻に淹れさせるお茶は、自分の気持ちに素直になれる唯一の時間だった。胸に染み渡っていく温かさに、彼女の愛を感じた……無論、妄想だが。
とはいえ。
そんな小難しい関係を十何年も続けていたら、流石に人間は疲れてくるもので、年を重ねるごとに信念は磨り減っていき、逆に四辻への想いは堆(うずたか)く募っていった――必ず最後に愛は勝つ、と言えばいいのだろうか、そのさなかに彼女は一人ぼっちの危機に直面した訳である。とはいえ、これ幸いとばかりに彼女の許に飛びこんだまではよかったが、正直な話、今さら夢見たとおりの関係を築けるとは思っていない。心苦しくも、四辻には散々意地悪してきたのだ、自分のことなど疎ましく……いや、きっと嫌っているだろう――だがそれでも、せめて隣にいさせてほしい、と願わざるをえない誘木だった。
……その思いすらも、最近はテレビに負けている訳だけれど。
もう一度強く念じる。
どうにかせねば。
「……おい四辻」
いきなりミス。そんなギスギスした口調でどうする。
「その……今週の日曜日、休みなんだ」
「さっきから、何当たり前のことを衝撃の事実っぽく言ってるの?」
負けるな。このままだと彼女はテレビに奪われてしまうぞ。
「だから、日曜日……どこかいかないか?」
「それは外に出かけるってこと? あなたと私で?」
「そうだ。君にも社会勉強というものが必要だろう」
「必要ないわよ。どうせ、私はここで一生を終えるんだし……」
「そ、それでもだっ」
誘木の剣幕に、四辻は少し目を丸くした。
「えらく押すのね」
「それは……プログラムというか、カリキュラムというか」
とにかく、と誘木は言葉を切って、
「社会勉強は要るんだ。これは任務だ、指示だっ」
「……それなら」一寸して四辻は言った。
「ディズニーランドってところに、いってみたいわ」
なんでいきなりそんなラスボス級……っ!? と誘木は突っこみそうになる。
「テレビで特集してて、楽しそうだったのよ」
「ま、まて。まずは無難なところから攻めていかないか? たぶん壊滅するぞ」
「そう」
特に残念な風でもなく、お澄まし顔で頷く四辻。
その後――とりあえずの計画を立てて、就寝の時間になった。
ちなみに、二人の布団はありえないくらい離れた部屋に敷かれていた。毎晩ひそかに一部屋ずつずらして寝る誘木だったが、帰宅すると元の部屋に戻っていることが多々あった。
悪気はないと信じたい。
「すごい、速いわね」
窓の外を眺めながら、四辻が言った。
鈍足で有名な地元の電車なのだが、自動車はおろか自転車にも乗ったことがない――実は久布白の屋敷にいく際に車に乗ったが、外界への興味を持たせないためという理由で目隠しされていた――四辻にしてみれば、驚くほどの速度なのだろう。
日曜日。
誘木は四辻を連れ出した――がら空きの座席で隣に座る彼女は、カットソーの上にフード付きのジャケットを羽織って、ローライズデニムを穿いている。赤い瞳を隠すのは大きめのサングラスで、どことなくミュージシャンのお忍びみたいだ。
「何だか楽しみだわ」
そう言ってもらうと、社会勉強と称してデートを目論み、騙してしまったかのような負い目をチクチクと感じていた誘木としては、救われるものがあった。
だが――勝負はこれからだ。
しばらく揺られていると、目的地に着いた。
そこそこ広い動物園だった。ムードを優先するなら水族館かとも考えたが、遠かったので、まずは近場で場数を踏むつもりで選んだ。今回がうまくいけば、次がある……筈。
大人チケット二枚と共に中に入る。
ぶっちゃけた話、誘木としては退屈極まりなかった。元来こういう娯楽施設を軽んじる傾向があった上、見るものに動きらしい動きがないのだ。動物の名折れである。
それでも四辻には十分楽しめるものだったみたいで、表情はいつもどおり気だるげながら、キリンが葉をはもはも食べている様子をずっと眺めていたり、備えつけのスピーカーから語られるサイの説明を熱心に聞いていたりした。次のエリアにいくためには、いちいち腕を引っ張って引きずらなければならず、すぐ側で母親に同じようにされている小学生がいて、苦笑を漏らさずにはいられなかった。
そして――しかし。
ライオンの檻の前にきた時だった。
ぽつり、と。
「……同じだったのかしらね」
年なのか、病気なのか、くたりと寝ているライオンを見て、四辻が呟いた。
「私と、この子」
「……何を」
何を、言うんだ――誘木は彼女を見た。
「檻の中に閉じこめられて、夢とか希望とか、そういうものには無縁で、飼われて、飼われて、思い出すようなことも何もないまま、飼い殺されていくの」
「………………」
もしかしたら。
もしかしたら――彼女は、ずっとそんな目で動物達を見ていたのかもしれない。動かない――動く意味のない彼らに、自らを投影していたのかもしれない。何もないと、自分には何もないと、自分には思い出すことなど何もないと――そう、揶揄(やゆ)するように。
履き違えていた?
一体、何をしているんだ、僕は。
誘木は、ここにくるべきじゃなかった、と激しい後悔に襲われた。この一日が間違いだったと知った……勝手な都合で引っ張り出して、彼女に与えられたものは何だ? 奪ったものは何だ? それこそ何もない――彼女に何かをすることすら、自分にはできない。
何が、どうにかせねばだ。
何が、うまくいけばだ。
何が――楽しそう、だ。
そんなもの――甘ったれた希望的観測だろう。
元の木阿弥なんてレベルを越えている。心の中で時が遡っていく……あの痛みの記憶に、冷めた表情の映像に、誘木は引き戻されて、頭の中に声が響いた。
――何か言えよ、これじゃあ押し倒した時と同じじゃないか――
「冗談よ」と四辻は言ったが、誘木にはどうしても頷くことができなかった。
今は一先ずライオンの檻から離れて、全ての動物の箱から遠ざかって、腰を落ち着けた売店のベンチで、アイスクリームを並んで舐めている。しかし、それで気分が持ち直す筈もなく、誘木は溶けていくアイスクリームをぼんやりと眺めていた。
――この、四辻が好きだという気持ちは、果たして正しいのか……自分には、その資格があるのだろうか?
一人で考えても出ない答えを、それでも考えてしまう。
四辻が三つアイスクリームを平らげたところで、誘木は立ち上がった。
もう帰ろう――ここにいても、辛いだけだから。
そう言おうと口を開いた、次の瞬間。
「そこまでだっ! 誘木せんせえっ!」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには山田と長谷見が立っていた。
二人とも私服姿だ。今日は全国的にホリデイの日曜日だし、仲のいい友達と近くの動物園に遊びにきたって何の不思議もないのだが、誘木は焦りに焦った。
まずい――今、ここには四辻がいる!
俗信は俗信であるべき――噂は噂で終わるべき。
護国十家は、妖魔は、人の耳に触れても、人の目に触れてはならない。
どうにかして誤魔化さなければならない。
しかし。
「ふっふっふ。先生、隠し立てしても無駄だよ!」
「なん、だと……?」
「あたしと長谷見ちゃんはずっと尾行していたのだ!」
「入り口で発見しましたから」と長谷見。
「そしてあたし達は確信を得た――そのお方は先生の恋人だと!」
ビシィ! と後ろの四辻を指された。
完全にターゲットを絞られた――最悪のパターンだ、と誘木は頭を抱えそうになりながらも、どうしたって恋人という言葉には反応せざるをえなかった。そんな場合じゃないと分かっているのに、不意に鼓動が早まっていく。
自分と四辻は……恋人同士に見えるのだろうか?
「って違う! ああ、山田、その女はな……」
しかし、ちょっと目を離した隙に山田達の姿は忽然と消えており、すでに四辻を囲んでいた。かつて黒髪の少女と対峙した男の動体視力でも捉えきれなかった。
「こんにちわぁー。あたし、誘木先生の生徒で、山田っていいまーすっ」
「同じく長谷見です」
「カッコイイですね、足とか細くてモデルさんみたい!」
「締めるところは締めて、出るところは出る……感服です」
興味津々を全身で表現する二人は止まらない。
それには流石の四辻も、どこか戸惑っている節があった。
容喙(ようかい)することができないまま、むくむくと誘木の中で嫌な予感が膨らむ。
そして――その予感は的中した。
「おっきなサングラス……ちょっと、取ってみてくれませんか?」
だからなんでそんなに人の眼鏡を外させようとするんだ!
「え、えっと……」
困惑する四辻を見ていた長谷見が、そっと口を開いた。山田の友人とはいえ、一応はちゃんと常識のある生徒だ。相手が困ったなら深くは絡まないだろう、と思ったが――
「仕方がないですね。知っていますか? 先生は何度お願いしても眼鏡を取ってくれないんです。だから身代わりとして、貴方のを取ってもらうしかありません」
なんだその会話の前への推進力は……っ!? どこの二列目三列目だ!
誘木は愕然とする。
と――さらに肝を潰されるようなことが起きた。
四辻が、観念した風にサングラスに指をかけたからだ。
何を考えているんだ、と誘木は手を伸ばすが、遅い――黒い仕切りが取り払われて、赤い瞳が白日の下に晒された。
紅い。
鬼の眼。
「えっ……その目……」
驚きのあまり、山田が急に声を潜める――打開策を求めて瞬時に思考を張り巡らせた誘木だったが、それがまとまりを見せる前に、教え子を見下ろしていた四辻が言った。
「ごめんね、びっくりさせちゃったかしら」
「あ、いえっ。でも、それってもしや……」
「そう、カラーコンタクトよ」
と、四辻はしれっと返した。
「やっぱりっ。すごいオシャレっ」いきなり顔を輝かせる山田と長谷見。
元より世間の流れに疎い誘木は、カラーコンタクトなるものの存在など露ほども知らなかったのだが、三人の話を聞く限り、最近テレビで紹介されていたらしい。下手をすれば日長一日テレビの前に寝転がっている四辻は、それを見て今の虚語(きょご)を考えついたのだろう――すっと視線を誘木の方に流してきて、勝ち誇った風にくすりと目を細めた。
「…………!」
けれど。
一応は誤魔化せた――けれど、だからといって、その双眸を人の目に触れさせ続けていい訳じゃない。今は山田と長谷見だからいいものの、他の一般人が見て同じように欺かれるとは限らない。誘木は三人の中に割りこんで、四辻の肩を引き寄せながら言った。
「じゃあ、僕達はこれからいくところがあるから。ほら、いくぞ四辻」
早く目を隠せ、と耳元で囁いて、せっせと押していく。
このまま逃げきれたらよかったのだが、然うは問屋が卸さなかった。「先生ちょっと待ってっ」と後ろから山田の声が聞こえ、誘木は眉間を押さえつつ振り返った。無視すると週明けが大変そうなので、手招きに応じて彼女達に近づいていく。
「……なんだ、まだ何かあるのか」
すると山田は、向こうの四辻を一瞥してから、小声で言ってきた。
「四辻さんって言ったっけ? 先生の彼女さん」
「……いや、だからな、彼女は」
「よかったじゃん。うまくいってると思うよ!」
「は?」
「ずっと見てたけど、楽しそうっていうか、嬉しそうっていうか、とにかくいい感じ!」
「そんな――」
そんな筈はない――だって彼女は、あんな風にライオンを見て。
あんな風に、己を見つめていたのだから。
「そんなの根拠なんかないだろう。大人を茶化すんじゃ……」
「根拠ならありますよ」
え? と口を半開きにする誘木に向かって、山田はにっこりと笑い、長谷見はうっすらと笑んで――二人とも自分と四辻を交互に指差して言った。
「だってあたし達、同じ女の子なんだよ?」
女の子――女。
好きな、女。
そのくらい分からいでか、とない胸を反り返らせる山田。
伝えたかった用件はそれだけらしく、二人はまだ少し動物達を見ていくと言って園内の方に踵を返した――と思ったら、「詳しい話は週明けに話してもらうからねーっ」と山田に一言付された。どうやら結局は、面倒なことになるみたいだった。
「……悪かったな、まさかあんなところで教え子に出くわすとは」
動物園から駅への道程の途中で、誘木が言った。隣をゆく四辻は、首肯するような素振りをしつつ、石ころを歩く方向に蹴り転がして遊んでいる。
「だけど、君だってサングラスを外すなんていう自殺行為はやめろよ。ふざけていい場面じゃなかったよ、あれは。僕がどれだけ肝を潰されたか、分かってほしいね」
「でも、うまく信じてくれたじゃない」
「僕は、そうならなかった時のことを考えろと言ってるんだ。それとも、僕が何とかしてくれるとでも思って――」
「思っているわ」
四辻は石ころを蹴るのをやめて、気だるげに、だけどはっきりと――言った。
「私は、あなたを頼りにしている」
――きっと、あなたの役割以上にね。
「…………」
咄嗟に言葉が出てこなかった。彼女の台詞の中から、何かしら特定の含意を拾い上げることができたかもしれなかったが――それでも誘木の胸の奥では、ライオンの檻の前で突きつけられた現実の方が、よっぽど大きな比重を有していた。それは、前者を跳ね除けてしまいそうに、彼女の言葉を否定してしまいそうに、そこにあった。
だから、こんな意地悪をしてしまうのかもしれない。
よりによって、こともあろうに、四辻に跳ね返るように。
「でも……君は言ったじゃないか。ライオンと自分が同じだって――何もないって」
「ええ、言ったわ――でも、言ったじゃない」
その逆接の意味は。
「同じ〝だった〟って」
そして四辻は、また別の石ころを蹴りはじめた。「今はたぶん、そう感じていないと思うの」という声と共に足元に転がってきた石ころを、「どうして」と誘木は蹴り返した――ちょうど彼女の足の当てやすい位置に戻っていくように。イレギュラーな転がりを見せるそれは、けれど、ちゃんと彼女の許へと辿り着いてくれる。
届いてくれる……のだろうか。
「あなたと暮らすようになって、テレビを買ってくれて――外界への興味を禁じられているのに、上に何度も頼みこんでくれたの知っているのよ――、食事を一緒に食べるようになって、学校での話を聞くようになって、あなたのことを改めて見るようになって、あなたをはじめて見るようになって……私には、いつか思い出していくことができたわ」
「………………」
自分は。
意地悪を――言った。
誘木は何も言えなかった。彼女の発言は勿論のこと、それをこんな柔らかな表情で言うことが何よりも胸を締めつけた――熱く、締めつけた。そうして続いていくかと思われた沈黙にそっと針を通したのは、他ならぬ誘木の声だった。
「すまない、四辻……僕は嫌なことを言った。それに――」
「それに?」
「ずっと前から、ずっとずっと前から――それこそ、君に出会った時から、僕は君に意地悪なことをし続けてきた。たくさん傷つけてきた。だから……悪かった。本当に、すまない。今さら言うのもおかしいだろうけど、これで許してくれとは言わないけれど、頭ぐらいは下げさせてほしい」
夢見たとおりの関係は築けなくても。
せめて隣にいさせてほしい――なんて。
どうということはない、ただ自分は怯えていたのだ。それは、相手が目の前にいるのに花びら占いをしているようなものだったのかもしれない。彼女の本心を知るのが怖くて、同居は仕方のないことだと受け入れさせて、管理者というポジションに依拠していた――心を介す必要のない関係に甘んじていた。そして過去の行いを謝ることで、一人の人間として本心に触れようとすることで、一先ずの形を得たその関係が歪曲してしまうのが怖かっただけなのだ。
だが――心を見せ合わなければ、前に進まなければ。
元の木阿弥ですらないのだろう。
「すまない」
誘木はもう一度、強く言った。
何故なら――彼女の言葉は、ちゃんと届いたのだから。
なら、自分の言葉もちゃんと届いてくれるかもしれない。
転がる石のように揺れながら。
それでも――
「そう」
四辻が平坦な声音で言った。そしてそのまま続ける。
「思い出すことって、実はあったのね。あなたに受けた仕打ち、忘れていたというか、悪事として認識していなかったけど……今、理解することができたわ」
「…………」
「許さない」
彼女はそう言った。
そして。
許さないから――と、こう続けたのだった。
「だから、あなたに罪を償う機会を与えてあげるわ」
「それは……」
「私をもっと色んなところに連れていって頂戴――そうすれば、いつかは出獄放免ね」
四辻は小さく笑って、人一人が入れるくらいあった誘木との距離を、肩が触れるか触れないか程度まで詰めてきた。テレビでやっていたドラマの真似でもするみたいに。
近づく。
ただ――それでも、欲を言えば。
こういう時に。
サングラスに隠れてしまって、彼女の素敵な表情が拝めないのなら。
また上に頼みこんで、黒色のカラーコンタクトを用意してもらうのもいいかもしれない。