19.Why could you beat my shadow?
ねぇ、どうしてうちにはお父さんがいないの?
自分は様々なことを母に尋ね、学んできたが、覚えている限りで最古の質問は、それだった。
その頃はまだ、母の笑顔にいつもとどこか相違な気配が漂っていることをなんとなく感じていただけだった。
今ではしっかりとその質問の残酷さを理解できる。
母は妾だった。
打ち明けられたのは十五の誕生日。
昔だったら元服で大人扱いだから、と妙な前置きと共に母に教えられた。
なぜ父親がいないのか。
同級生たちの母と比べて、一回り近く若いのはなぜか。
毎月欠かすことなく十五年間、銀行口座に送金されてきた金は、いったい誰のものだったのか。
すべて隠されることなく、伝えられた。自分はただ黙って聞いていた。
衝撃的だったが、母が嘘偽りなく話してくれていることが、家族として信頼されているからだと思えたから。
最後に、母はこう付け加えた。
「ねぇ竜二、あたしのこと不幸だって思った?
でもね、あたしは結構満足してるのよ。
なぜって、自分よりも大切なものが持てたからね。
それを味わうことなく死んでいく人が、この世には沢山いるのにね――」
焼けた木の陰鬱な臭いが、崩壊した屋敷の周囲に沈殿していた。
街から遠く流れてきた夜風が廃墟の傷跡をさあっと舐めていく。
それを一人の少年が黙って眺めていた。
背筋がぴっと伸びていて、風に揺れる前髪が鼻の頭を浚う。
写真のように動かない景色を通して、氷川竜二は兄のことを思っていた。
一月前の火災。そして三人の高校生の失踪。
同日未明に発生した二つの事件は、なぜか関連性なしと判断され、火災は何者かによる放火、高校生は単なる家出事件として早々に処理されてしまった。
だが竜二は知っている。
三人の高校生の内の一人、腹違いの兄があの火災に関係していることを。
数週間前の夜。
その場にいたというもう一人の少年の口から、真相を教えられた。
竜二は母に対してそうした時のように、じっと彼の話を無言のまま受け止めた。
兄がもう、戻ってこないということを。
じゃり、と砂を踏む音がした。
「よお、探したぜ、竜二。やっぱりここか」
竜二は肩越しに振り返り、静かに頷いた。
恐らく学校から家に戻らぬまま、この廃墟へやってきたのであろう。
馬場天馬はジャージのポケットに両手を突っ込んで、斜に屋敷と竜二を見据えていた。
「馬場か。何をしにきたんだ」
「お前風に言えば、墓参りかな――」
二人は肩を並べて、墓標というには大きすぎる消し炭の山の前に立つ。
「なァ馬場」
あいよ、と天馬は顔を向けずに答えた。
「俺にはどうしても信じられないんだ。兄貴がお前に負けたって。
死んだってことが、実感できない。
あの貪欲で傲慢で最低だった糞兄貴が、そうおめおめと死ぬもんか。
そう思うと、今にもひょっこり、あの雑木林から兄貴が出て来そうな――」
「そう思いたくなる気持ちは、やつを家族だと思ってるからか?」
前髪の奥で、竜二の眼差しが鋭く輝いたように天馬の目には映った。
「ふざけるな。誰があんな野郎と家族なもんか。俺はあいつと同じ布団に入ったこともないんだぜ」
「ふうん。おかしなもんだな、みんな家族の話となると躍起になる」
「お前は違うのか、馬場」
どうかな、と彼は呟いて黙り込んだ。竜二もそれに倣った。どこかでカエルが鳴いていた。
ぽつり、と風に吹き消されてしまいそうな小さな声で、天馬は言った。
「あいつは、死んだよ」
「――――」
「ホントを言うとな、オレ、あいつにトドメ、刺さなかった。
今頃どこかの労働施設にいるのか、太平洋のど真ん中に放り出されたのか、危ないクスリの実験場とかにいるのか……
なにも知らない。確かめたいとも思わない。
でも、あいつは死んだと思う。雨宮秀一ってやつは、あの夜、確かに死んだ。
仮に身体は生きていても、心はもう別人だろうな。……良かれ悪しかれ」
「お前が殺したというわけか。それとも話に出てきたシマとかいうやつのせい、とでも言うのか」
「シマ? あいつは関係ないよ。あの夜は、あいつは単なるキッカケに過ぎなかったんだから」
「そうは聞こえなかったがな、お前の話ぶりからすると」
「感謝はしてるが……いや、どうかな。
本当は、心のどっかで、あいつに会わなければ、元の退屈な毎日が続いて、雨宮たちに今でもいじめられて……
それでも、こんな気持ちは味わわなくて済んだのかも、と思ってるのかもしれねェよ。
恥ずかしい話だけどさ」
そう、あいつに会ったから。闇が天馬の周囲を覆っている。
こんなにも、熱くなってしまったんだ――
兄貴は、と竜二は口を開いた。天馬は少し眠そうだった。
「兄貴は強いやつだった。どんな時も負けるイメージを相手に与えない……
闘う前から戦意を刈り取ってしまうような、そんなやつだった。
それがどうして、お前に負けたのか、分からない」
「やっぱりな」天馬はニヤリと笑った。どこか親しげに。
「お前は、オレの敵に回るって言うんだな、竜二よ」
雨宮秀一の弟が頷くのを見て、天馬はさらに笑みを深めた。
「いいよ。そうしなよ。それが一番いい」
「余裕だな。侮られてるのかな。
断っておくが、俺は兄貴にスペックで遅れを取ったことは一度だってないんだ。
兄貴にできて俺にできないことは、物理的にはありえない」
「そうだろうな。つまりオレは、逆立ちしたってお前には敵わないわけだ。
……物理的にはね。
それで、兄貴の仇を討つつもりなのか」
「言ったろう。俺は兄貴に情なんか持っちゃいない。やつは死んで当然だった。
俺はただ、なぜ兄貴がお前に負けたのか、知りたいだけだ。
単なる天罰だったのか、それともお前には、兄貴にあってないものがあるのか」
「さァな。だが賭けてもいい。
お前はオレには勝てないよ。なぜだか知りたいか」
「ああ、知りたいね。どうしてなんだ」
天馬は笑って答えない。
幼馴染の墓の前で、一人はけらけらと笑い、もう一人はそれを見ていた。
踵を返しかけた天馬に、竜二は最後の問いだ、と断って尋ねた。
もしも雨宮秀一と馬場天馬が組んだら、どうなるのかと。
道から砂利を蹴飛ばして、片手を挙げながら天馬は答えた。
無敵だったろうな、と。