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25.よわむしカガミ

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 体育祭中、生徒たちは校庭に椅子を出して座るように指示されていたのだけれど、守っているのはほんの少数だけで後の者たちは出店に出陣していた。
 来校者の中には「やあ、この学校は体育祭と文化祭を一緒にやってるのかな?」などと尋ねるものもいたが、その手の質問に対して生徒たちの答えは一律同じであった。
「文化祭は、もっと派手ですよ」と。
 とはいえ、いつまでも屋台を練り歩いているわけにもいかない。
 競技の時はキチンと参加しなければ副会長の逆鱗に触れることは誰もが知っている。
 よって、次の競技である二人三脚に参加する生徒たちは持ち場に戻り始めていたのだけれど、なにやらざわざわと不穏な空気が漂っていた。
 それは爆心地から放射状に広がっていく情報。
 射的屋から強奪したぬいぐるみ類を腕いっぱいに抱えながらカガミと鼎が顔を見せると、みんな一斉に振り返った。
 なにか不吉な予感を感じずにはいられないその様子に、カガミの胸の中をすっと冷たい何かが滑り落ちた。
「どうか、したの?」
 一様に意味ありげな視線を交し合う生徒たち。
 その中から、ショートカットの女子が代表して口を開いた。
「ええと――あの、カガミさん。気を落ち着けて聞いて欲しいんだけど」
「うん」
「実は、氷川くんが今日休んじゃったんだ」
「氷川?」
 昨日、生徒会室で出くわした前髪の長い少年の顔が浮かんだ。
 そういえば家の事情で体育祭には出られないと言っていた。
 女子生徒は唇を引き結んでおずおずと続ける。
「カガミさん、覚えてるかな。二人三脚、彼とペアだったでしょ」
 そういえば、プログラム表で隣に名前があった気がする。
「じゃあ、誰がカガミと走るのさ。補欠?」
 カガミの肩に顎を乗せて問うた鼎に、返ってきたのはねっとりとした沈黙と、一方へ向けられる無数の視線。
 それを追っていった先で腕を捻り準備運動に勤しんでいたのが、つまり、馬場天馬だったのである。
 ぽつん、と鼎が呟いた。
「なんで走るのに、腕の体操してんだ、あいつは」
 知らない、とカガミは答えた。




 生徒会役員がグラウンドにポールを立てている。
 その辺を走り回っていたちびっこたちにぬいぐるみをすべて渡してしまったカガミは、なにげなくそれを眺めていた。
 二人三脚は紅白組から、三学年それぞれ一チーム参加することになっている。
 二人でひとつのペア。五つのペアでひとつのチーム。
 ペアはスタートしたらオイッチニッオイッチニッと頑張ってポールまで走っていって、そこをぐるっと回って元の場所へ戻る。
 そうしてバトンを次のペアに手渡し、お仕事終了というわけだ。
 なんてことはない作業。
 密林の中で一月サバイバルしたり、寝台に括りつけられて人ではなくなる薬を注射されたりすることに比べたら至って簡単だ。
 死にもしないし、なにも失わない。
 だからこの緊張感は幻覚である。そうでなければならない。
 自分と彼はただの友達であって、固くなる必要なんてないのだから。
 そう思っても肩に入ってしまった力はちっとも抜けてくれない。
 そわそわすればするほど、吐き気のような不安は大きくなっていく。
 周囲の声が、飛び交う蜂よりも耳障りに思える。
 それはひそひそと、呪文のように交わされる言葉。
「よりにもよって、なんで補欠が馬場なんだよ」
「知らないよ。会長が決めたんだろ。きっと補欠だから、誰でもいいと思ったんじゃね。後はあいつの枠が余ってたとか」
「あれじゃねーの。馬場となら、万一にも間違いは起きねえとか」
「それマジだったら白垣のやつ、あんな顔して策士だなー」
「ねぇ、今からでも変えられないの? カガミさん、可哀想だよ」
「ダメだってさ。あの頑固頭の宮野、自分が顔キツイからって僻んでんじゃね?」
「おい聞こえるぞ」
「バカ言え、百メートル以上離れてる悪口を聞き取るのかあいつは」
『聞こえてるよ』
「うわっ、放送で答えやがった! なんだあいつ!」
「逆らっちゃいけない人だろう……」
「はァ……。ねえ、カガミさん、元気出しなよ。すぐ終わるからさ」
 不意に話しかけられて、カガミは伏せていた顔を上げた。
 白いハチマキを巻いた、よそのクラスの男子だ。鼻にほくろがある。
 見覚えはなかったが向こうは彼女のことを知っているらしかった。
「あの馬場と一緒に走るなんて嫌だろうけど……」
「そんなこと……」と言ったきり、言葉が続かなかった。
 もし、今ここで彼を庇ったら、みんなどんな顔をするのだろうか。
 からからになった喉に、唾液を無理やり流し込む。
 そうしてぐっと目の前の生徒をまっすぐ見上げようとした時、
「はいはい、ちょっとどいてどいて。はいゴメンよ。オレのお通りだよ」
 と言って馬場天馬が人垣を掻き分けてやってきた。
 押しのけられた女子が嫌そうな顔をしているがどこ吹く風。
「おい、馬場」とそれを憎々しげに見ていたほくろが言った。
「なんだ。ていうか誰だ」
「おまえ、万が一にもカガミさんに変なことするなよ」
 なんてことを言うんだ、とカガミは面食らって怒気を放ったがほくろは気づかない。
「カガミさんの気持ちもわかってやれよ、おまえとなんか、ホントは走りたくないんだからな」
 天馬は目を丸くしてほくろをしげしげと眺め回している。奇怪な生物に出会った科学者のようだ。
「ふうん、なるほど。言い分は分からないでもない。
 で、おまえはカガミのなんだ。保護者か」
「同級生兼、ふぁ、ファンだ」ほくろの頬がぽっと赤に染まった。
 天馬はそれを見てゲラゲラ笑い出した。
「ファンだァ? なるほどね――じゃあちょっくら、おまえの宝物を踏みにじってやろう」
 目にも止まらぬ犯行だった。
 あっという間に、天馬は横抱きにカガミの身体を引き寄せた。
 思ったよりも力強い腕に、両肩を抱えられたカガミはなにがなんだか分からない。
 ただ短い悲鳴を上げて、反射的に彼を突き飛ばした。
 どてっと天馬は不様に尻餅をつき、大儀そうに立ち上がって周囲の冷たい空気を睨み返す。
 そうして全員を睥睨し終えた最後にカガミを見て、ほんのかすかに苦笑いを浮かべた。
(わかってる――)
 狂ったように胸を打つ心臓を押さえながら、カガミは思った。
(彼がなにをしたかったのか、わかってる。
 私が、彼を友達扱いしたりしないように。庇ったりしないように。
 その前に、わざと、こんな真似をして、悪役になって……)
 針のむしろのような憎しみの中を、天馬は澄ました顔で歩いている。
 カガミの足元にしゃがんで、二人の足を赤いヒモで軽く結んだ。
 繊細で優しい手つきだった。
(言わなきゃ。間違いだって。みんな天馬のことを誤解してるって。
 私は何を黙っているんだ。バカじゃないのか。
 確かに彼は口は悪いし、ぶきっちょで、ひねくれてて……
 でも、ホントはいつも、私が上手くやっていけてるか心配してくれていて――
 そのことを言わなくちゃ――いけないのに)

 みんなの、銃口のような視線が、怖い。

 それからずっと、レースが滞りなく終わって、二人を結んでいた赤いヒモを天馬が解いてくれるまで、カガミは一言も発することなく、叱られた子どものように小さくなっているだけだった。

(私は、なんて醜いんだろう。
 周りの目が怖くて。
 みんなに大切にされている、今の居場所が惜しくて。
 天馬のことを、庇ってあげることさえできない――)

 去り際、天馬は一言だけ言い残していった。

「よかったな、カガミ。みんな、おまえの心配をしてくれてるんだぞ」

(どうして、あなたは。
 そんな辛そうな顔で、嬉しそうに――)

 死にもしないし、なにも失わない。
 平穏。
 それを守りたいがために。

(彼は、私が気安く近づくたびに、どんな気持ちだったんだろう。
 ちゃんとした覚悟もないくせに、私はヘラヘラ彼に近づいて、傷つけて。
 弱虫は、私の方じゃないか。
 きっとこうなることを、彼は初めからわかっていたんだ。
 私には、平穏を捨てられないって。
 それでいい、それを大切にしなよ。
 そう私に何度も言ってくれた彼は、本当に、どんな気持ちで。
 裏切られると知っていながら、私に笑ってくれた彼を。



 私は、無視、したんだ――)



 なにもかも崩れていくような、気がした。









 ×××××


 そいつは人垣の環から外れると、まるで何事もなかったかのように携帯をいじり始めた。
 そのどこまでも厚顔無恥な態度に、とうとう堪忍袋の緒がぶっち切れた。
「……君は女の子に対して、いつもあんな風な態度をとるのか」
 我慢の限界だった。両拳を痙攣するほど握り締めて、そいつ――馬場天馬の行く手を僕は立ち塞いだ。
 彼は画面から目を上げると、はたと立ち止まった。
「急に男子に触られて、彼女の心に傷でも残ったらどうするつもりなんだ。
 責任取れるのかよ、馬場天馬……!」
「その偉そうな口調は知ってるぜ――」と天馬は、携帯を閉じると親指で校舎の中を指し示した。
「来いよラッキー。話があるんだろ」


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