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28.シマの魔雀 その3

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 それまで、なんの淀みもなく流麗に動き続けたイブキの手が、はたっと止まった。
 シマのダブルリーチがかかっているので、通常の麻雀であればその渋滞はさほど不思議ではないが、彼女はこれまでどんな危険牌であろうと眉ひとつ動かさずにブッた切ってきたのである。
 その彼女が停止している。呼吸さえしていないかのように張り詰めている。
 シマはひょいっと自らの手牌を見下ろした。
 ノーテンだが、理牌してみると五対子あった。
 左手に二枚握っているのは三筒と九筒。対子になっていないもうひとつの牌は西。
 チートイツのイーシャンテンである。
 もっともリーチをかけてしまったので、この手が永遠にテンパイすることはないのだが。
 だが、もし握っている二枚以外の牌が見えていれば、西単騎待ちか、対子になっている牌以外のなにか、神にも読めぬ偶発的単騎、ということになるのだろう。
「チッ――」
 イブキは切れ味ある手さばきで打、南。当然、当たらない。
「ふふ……」とシマは笑った。
 流局すればハコテン終了になるわけだが、そんな素振りはおくびも見せない。
「当たらない。通るよ」とニヤついてみせる。
 イブキは無言。眉間にきつく皺を寄せて、河を見渡している。
 しばし、ため息交じりの強打が続く。
「まったくおまえといい鴉羽といい――」とすっかり敬語を引っ込ませてしまった狗藤が眼鏡をハンカチで拭いた。
 ほとんど外していないため、ホコリや抜けた毛が付着している。
 徹夜麻雀に耽ったことある身ならば誰にも覚えがあろう。
「場を荒らすような真似ばかりしやがって。ちゃんとした麻雀を打てよ」
「天鳳でもしてなよ」とシマはケロリとしている。
「君の好きそうなカモには事欠かないと思うけど」
「ヘッ、無料じゃなくなったらな。糞、こんなときに限って危険牌ばかりきやがる――!」
 と狗藤は乱暴に牌を卓に打ち付ける。赤五萬。
 (テンパイしたな――)
 シマは狗藤の精悍そうに見えて粗野な内面が垣間見える顔つきを観察した。
 張らねばこんな牌を打ってくるやつではないことは、これだけ打っていればおのずと分かってくる。
 では、なぜ追っかけリーチとこないのか。
 (待ち牌がわたしの安全牌だから、か)
 視線は自らの河を横切り、五筒で止まった。
 鴉羽が通っている字牌をツモ切り。
「こんなもの、わかるものか――」
 とため息をつきながら、イブキが仕方なし、といった体で打八筒。
「ふっふっふ。ロン――!」と狗藤が実に嬉しそうに手を倒す。
「こんな時はみんな、手が早いものだからな。
 タンピンイーペーコードラ一。チッチィの一本場は八千」
「ああ――」
 イブキが、チラ、とシマを横目に見て薄く微笑んだようだった。
 狙い撃ちして、八千点でシマのチャンスを潰したつもりなのだろう。
 それを受けてシマはニィ――と実に親しげに微笑んだ。
 (ところがどっこい、そう君の思い通りにいくもんか)
 握りこんだ二枚を、かちゃり、と手の中で鳴らした。
 ぴくり、と点棒を渡したイブキの手がわずかに震えたように見えた。



 南二局のイブキの親、狗藤とのリーチ合戦にシマが打ち勝ち八千点の収入。
 先ほどのアガリをそのままシマが受け継いだ形になる。ますます狗藤の眼鏡が曇るようであった。
 そうして巡ってきた南三局、シマの親番。
 ここから逆上したバッフォローのごとき勢いで猛烈に連荘していけば、まだトップの目はある。
 麻雀に必勝法があるとするなら、それは永遠に連荘し続けることであろう。
 第一打、シマは西を打った。
「ぽ、ポンっ!」
 上ずった声で対面の鴉羽が風牌をポン。
 圧倒的リードを保っている彼からすれば、一刻も早い終戦処理が必要な時である。
 だから、格別におかしな鳴きというわけではない。
 トップ目が安手で攻め込んで来るなら、親番のシマは迎え撃てばよろしい。
 その時、わずかにイブキの目が泳いだ。
 シマの手牌は浮いた中を捨てれば好形のタンヤオイーシャンテン。
 受け入れ枚数は愉快なほど多かった。
 自風を鳴いている鴉羽に中も鳴かれれば、手を進ませてしまうことになるが、副役がついてもせいぜい染め手かトイトイ。
 鴉羽の上家である狗藤も最後の希望であるラス親を残してハコテンを喰らいたくないはずなので、鴉羽の手を進ませるようなぬるい打牌はしないはず。
 ならばテンパイはシマの方が速いのが道理。
 シマが河に中を打ち付けたのと、思い出したように鴉羽が小手返ししたのが、恨めしいほど同時だった。
 道理が無理で退くのが麻雀。
 すまない、それだ――。
 どこか申し訳なさそうに鴉羽が手を倒した。
 誰も何も言わなかった。
 緑色の卓の上で鴉羽の手牌が輝くよう。
 綺麗だ、とシマは思った。
「しょ、小四喜、字一色……六万四千点……で、いいのかな」
「もちろん」とシマは言った。「いい手だね」
「おいふざけるな、自動卓だぞこれは」と狗藤。
「それを言いたいのは私だオーナー。どういうことだ」とイブキ。
「俺が知るか。本当にやってられん。バカか、チンチロリンでもやっていやがれ」
「シゴロで済めばいいがな。連続ピンゾロなんて、笑えないぞ」
「いや本当に――」と鴉羽は心底気の毒そうにシマを上目遣いに見やった。
 自分が受けたら耐えられないであろう不幸のどん底に、自ら叩き落した少女に同情を禁じえなかったのだ。
「すまない。こんな手、長く打ってきて初めてだ」
「そう? おめでとう、鴉羽さん。もっと素直に喜びなよ。ダブルだよ?」
「しかし――」と鴉羽が口をまごつかせるのを見てシマがふっと柔らかい視線を彼に向けた。
「優しいね。でも、優しさじゃご飯は食べられないよ。バファリン食べてもおなかいっぱいにはならないもん」
「いや、それはちょっと問題が違うと思うが……」
「あ、ちょうど休憩か。少し休もうかな」
 卓を立つと猫のように背伸びをして、いくつか関節の骨をぽきぽきと鳴らしながら、シマはごろんとベッド上で腹ばいに伸びた。
 一瞬呆気に取られた鴉羽だったが、しばらくしてから気づいた。
 この連続徹夜麻雀が始まって以来、彼女が横になったのは、それが初めてであることに。
 髪と同じ色の枕に顔を埋めて、それきりシマは動かなくなった。


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