3.ジャンク・パンク
カガミは目覚まし時計を使ったことがない。
幼い頃から戦闘兵器として父親に育てられた副産物として、いつでも睡眠の深度を操作できるようになり、あるいは体力の限り不眠不休で活動できるようになった。
それが自分の意思に望まれての変化ではなくとも、学生という身分になった今、少しだけ便利だと思っている。
昨日と寸分違わず時刻にベッドから起き上がり、ロボットもかくやという正確さで支度を整えていく。
カガミが台所にいきエプロンの紐を結んだ時にはいつ着替えたのか、パジャマから制服に変わっており、台所でクルクル回っていたかと思うと目玉焼きと味噌汁と焼き魚と銀シャリが卓に並べられている。それほど無駄のない動きだった。
朝のニュースは相変わらず退屈すぎて死にそうな情報しか流さない。
カガミはいつも思う。芸能人の誰それが離婚した浮気したなんて、本人たちの問題で、なぜそれを全国ネットで放送する必要性があるのか。流す方も楽しむ方も理解できない。
それを友人の雲間鼎に言うと「かがみんはマジメだねぇ」と微笑まれた。
ふと目を上げると当の鼎がいつの間にか居間の卓に頬杖を着いていた。すっかり勝手知ったる他人の家らしい。
「かがみんは早起きだねぇ」
「窓から入るのはやめた方がいい。怪しまれる」
「大丈夫だって。隣の部屋の服部くんとは友達になったから」
「そういう問題?」
「気にしなさんな、朝は短し食べろよ朝飯。おっ、銀シャリうめー! うめーよかがみんこれマジ輝いてる! おかわり!」
「そろそろ鼎はうちに食費を払ってもいいと思う」
と言いながらもカガミは鼎の茶碗にご飯をよそってやる。
転校してから一月経ったカガミにとって、一番仲良くなった友達を問えば恐らくこの雲間鼎の名が出てくるだろう。
クラス委員であり、初めてカガミに話しかけてきたのも彼女だった。それ以来、何かと世話になっている。
眼鏡をかけていて短髪のため、外見からは大人しそうな印象を受けるが、カガミに下品な絡み方をしてきた男子に張り手をぶちかましたりと戦闘力は高めである。
『鬼蜘蛛』なんて不名誉なあだ名を付けられたりしているが本人はてんで気にした様子もなく、味噌汁をおかわりした。そろそろカガミの分が足りなくなってきている。
テレビのワイドショーが、売れっ子アイドルの熱愛報道をしている。記者に質問責めにされたアイドルが、とうとう泣き出してしまったが、場内は静まるどころかますますヒートアップしている。
「下劣」
とカガミが呟くと鼎が口を三日月にして笑った。
「まーだ言ってんのそれ。何を楽しむかなんて人それぞれだって」
「何も人が嫌がることを楽しまなくても」
「そういうかがみんは、他人がどうこうしてるの気にならない?」
「うん」
「ふうん。じゃ、面白そうな話聞いたんだけど、それも言わなくていいね」
鼎はお茶を飲むと大きなゲップをひとつこぼした。
「鼎、その言い方ずるい」
「あはは、ごめんね、ちゃんと教えてあげるよ。あのさ、昨日、結衣からメールで教えてもらったんだけど――」
答えを聞いた次の瞬間、あまりのことにカガミは言葉を失った。
「……」
「かがみん?」
「え?」
「ね、ビックリっしょ。まさかあの――」
馬場天馬がデートとはねぇ、と鼎がしみじみと呟く。焼き魚が骨だけになっていく。
カガミの箸は止まったまま動かない――。
「ねえ、絶っ対に学校で話しかけないでね。すれ違う時も目を合わせないで。人に何か聞かれたら『他人です』で通すの。いい?」
「うるせェな、わかってらァ。早く行けやい」
「そのなんちゃってドサ健口調マジキモイから早く死んで」
お気に入りの洋服にくっついた鳥の糞を見るような激しい視線を天馬にひとしきり集中砲火すると、馬場ナギサは朝っぱらからぷんぷん怒りながら玄関を出て行った。
彼女が友達と合流して通学し始めるまで十分間、天馬は何があっても家から出てはいけないそうだ。
そんな約束破って妹の友達の前で「兄でーすおちんちんびろーん」とかやったらどうなるかなァと考えているとチャイムが鳴った。母と父はすでに仕事で出払っている。
「あーい」
ドアを開けると鼻腔の中にシャンプーの匂いが漂ってきた。
「おはよーっす」
「……えーと」
「準備終わった? まだ? 早く行こうよ」
「あ、はい。ちょっと待ってて」
パタン、ドアを閉める。もいっかい開けてみる。
鴉羽ミハネは相変わらず、突然だった。
「約束してたっけ」
「え? してないけど。迷惑じゃないっしょ?」
「そりゃ、まあね。でもいいのか?」
「なにが?」
「なにがって……」
「あたし、馬場といられればいいよ」
胸の中に、かきむしりたくなるような激しい気持ちが沸き起こった。
あれがそうか、とカガミは思った。結い上げられた髪が目に止まる。
なるほど、ああいうのが好みだったのか、とカガミは自分の黒髪を一房摘まんだ。
横から鼎がカガミの肩越しに顔を出して「うひゃあ」と半笑いを浮かべた。
「
マジだマジ、一緒に登校してる! うおおぉぉ……なんか負けた気がする。馬場ごときに。くっそー。……かがみん?」
朝っぱらの学校である。人目が多いのである。
天馬の横にいる女は堂々と腕を組んで歩いていた。周囲の男子学生の顔が世にも恐ろしげにどす黒く染まっている。
思わず拳をぎゅっと握り締めていた。
二人が近づいてくる。
「でさーゲーセンで取ったジャックフロストがめっちゃ可愛くて……」
女は話に夢中になっているようだったが、天馬は一瞬こちらを見た。
カガミと視線ががっちりとぶつかる。
なんと言ってくるだろうか、慌てふためいて弁解でもしてくるのだろうか、とカガミは身構えた。
鬼気迫るカガミの表情に鼎が疑問符を浮かべている。
しかし天馬は目を伏せると、そのまま隣の彼女に向き直ってしまった。
そのまま何事も無かったかのように通り過ぎてしまう。
その場に立ち竦んだカガミを鼎が下から見上げる。
「……かがみん? 何、どしたの」
「…………鼎」
「なに?」
「ティッシュ、貸して」
天馬は人の話を聞くのがヘタな男だったけれど、この時ほど放心したことはかつてなかった。
相槌を打っているだけでミハネの世間話などビタ一耳朶を打たない。
人に無視されたり、素っ気無くされることの辛さは身に染みている。
言葉にしなくても、表情を見なくても、彼女がショックを受けていたのは丸分かりだった。
友達に挨拶もされず通り過ぎられたのだから、当然だろう。
それでもカガミは自分と付き合わない方がいいと思った。
壊したくなかった。
自分は疫病神だが、友達にまで厄を振り撒くほど堕ちちゃいない。
そうしてまた隣を歩く少女を見て、胸を痛める天馬だった。
この日から、天馬はミハネと昼を共にするようになった。
「かがみん、まだ花粉症治らないねェ。でもおかしーなァ、花粉なんて飛んでないのに」
そんなことはいいからティッシュをよこせと催促するカガミに鼎は箱ごと渡してやる。
かんでもかんでも鼻水と涙が止まらないため、今では机の横に小さなゴミ箱が設置されており、一杯になるとクラスの男子が幸せそうに取り替えている。
一週間前から続くこの怪現象は止まる予兆させ示さないが、当の本人はあまり気にしていないらしい。とはいっても彼女は表情を変えることが滅多になく、ベッタリ一緒に過ごしている鼎であっても言葉なしに彼女の心中を推し量ることは難しかった。
なんて神秘的なんだろう――と鼎はカガミの横顔を見るたびに陶酔してしまう。長い黒髪、くっきりしたまぶた、周囲の気温さえ下がっているような錯覚を感じてしまうほど白い肌……
たとえ鼻の穴にティッシュが突っ込まれていてもその美しさは損なわれるどころか愛嬌を増してパワーアップしているようだった。
女性の鼎でさえそう思うことが珍しくなかったのだから、男子の中でカガミを射止めようと企んでいた者の数は相当になるだろう。
今度の体育祭で行われるクラス行事にかこつけて、何人かアタックする馬鹿が出るのではないか、などという噂も聞こえてくる。
鼎は何があってもカガミを悪い虫から守らねばならぬ、と鋭い視線を周囲に飛ばす。
あまりの形相に視線に威力が篭ったのか、男子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
穏やかな日々が続いている。
でも、これで本当によかったのだろうか。
などとノベルゲームのバッドエンドじみた言葉を脳内で弄びながら、天馬はミハネの作った卵焼きに舌鼓を打っている。
高校生の女子が作る弁当なんてゲームの中でさえマズイものと相場が決まっているものだが、さすがは父親と二人暮らしと言ったところかミハネは二度と購買のパンなぞ食うものかと思いたくなるような出来栄えの弁当を毎日こしらえて来た。申し訳なさで天馬が死にそうな顔をしていると「気にすんなって、好きでやってんだからさ」と天使のような笑顔を浮かべてくれる。
「どう? おいしい?」
うまいよ、と天馬が本心から答えるとミハネはガッツポーズを取ってよっしゃあ! と男の子みたいに喜ぶ。
それをいつも天馬は不思議そうに眺めていた。
自分の挙動が他人を喜ばせるなんて、天馬には思いつく限り初めての体験で、どうしていいかわからない部分はまだ残っていたものの、悪い気はしなかった。
そうとも、悪くない。
このままぬるま湯に浸かって生きていくのも――。
綺麗に空っぽになった弁当箱に天馬がフタをすると、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「終わっちゃった」
「そうだな」
いつもはそのまま立ち上がってそれぞれの教室へ向かうのだが、その日のミハネはなかなか立ち上がろうとせず、自分の足元を見つめていた。
授業か、まァ次は清田の古文だしサボっちゃってもいいかァ――と思ってから天馬はごくんと生唾を飲み込んだ。
授業が終わるまで、たっぷり五十分ある。
「馬場……」
ミハネが見上げてくる。こげ茶色の瞳が潤んでいる気がして、思わず身構えた。
「……おう」
「楽しかったよ。ありがと、付き合ってくれて」
想像していた文句とは違っていたので、天馬は眉をひそめた。
まるで、
「今日で終わりみたいな言い草だな」
ミハネはこくんと頷いた。
「え……?」
「学校、やめるから」
あたしの父さん、ギャンブル中毒なんだ。
朝から夜までパチンコだか競馬だか知らないけど、どっか行って、帰ってきたら酒飲んで寝る。
仕事? してるわけないじゃん。すってんのはあたしがバイトで稼いだお金。
いっつも文句言ってるよ、足りないから負けるんだって。アホくさくて聞いてらんないけど。
昔は……母さんが生きてた頃はそんなんじゃなかった。ちょっと無口で怖かったけど、一度もあたしをぶったことなんかない、優しい父さんだった。
意外そうな顔してる。でもね、ギャンブルやるのは柄悪い人ばっかじゃないよ。大人しそうな人が案外、ずぶずぶハマっていっちゃうんだって。なんかに書いてあった。
きっと嫌になっちゃったんだろうね、何もかも。楽しいことに逃げ込んで、面倒なことは全部他人に押し付けて……。
で、とうとう父さん、パンクしちゃった。
担保はあたし。明日の朝、迎えが来るんだって。どこに行くのかって? 知らない。知っても意味なくない?
どうせ、あたしが、あたしをまっとうできる人生は……ここまでなんだからさ。
どこか諦めたように淡々と語り終えたミハネが口を閉ざすと、沈黙が降りた。
軽々しい慰めなど死んでも口にはできず、天馬は頭痛をこらえるように目を閉じている。ミハネはそれを、遠い眼差しで見つめている。
「……死ねばいい」
俯いたミハネに気づかず、天馬は口から溢れる言葉を止められない。
「そんな親父、死ねばいい。なんで、おまえが苦しまなきゃならないんだ」
「仕方ないっしょ」
「仕方なくなんかない……そんなの間違ってるだろ」
「優しいね、馬場。あたしの思ったとおり」
「いいのかよ、鴉羽。このまま親父の言いなりのまま、犠牲になるっていうのかよ」
「犠牲……?」とミハネは呟いた。
「ああ、そうだよ。クズ親父の生贄なんかになることない。警察でもなんでも頼れば、なんとか……」
「なんとかなって、どうすんの」
「え?」
「あたしの親父はギャンブル中毒。末期のね。わかる? 夜中に汗だくで飛び起きられて、大負けのフラッシュバックで喚き散らしたり胃液を吐き戻したりする父親の隣で毎晩寝てるあたしの気持ちが」
「……それは」
「仮に今、なんとか急場を凌いだとしてもな、あたしの親父はまたやるよ。死ぬまでやるよ。だって中毒だから。末期だから」
「でもこのままじゃおまえが……!」
「あんたはあたしの親父を殺したり、精神病院にブチこめばそれで済むと思ってるんだろ?
親を亡くしたこともないくせに、よくそんなこと口にできるもんだ。尊敬するよ。
どんな親父でも、あたしにとっては最後の血縁なんだよ。
あたしが幸せだった頃を覚えていてくれる最後の人なんだよ。
軽々しく、殺せだの見捨てろだの、言うな」
目の前にいるこの少女は、誰だろう。
そんな思いが胸をかすめてしまうほど、ミハネは燃えるような目つきをしていた。
そこには悲哀以上の何かが含まれている。
一呼吸の間を開けると、ミハネは元通り困ったような諦めたような顔になっていた。
「馬場……」
掠れた声でミハネは言う。触れば砕けてしまいそうな肩を震わせながら、膝の上で小さな拳を握り締めて。
「助けて……」
天馬の脳裏に誰かの言葉がよぎる。
(――そういう君は、誰かを助けたことがあるの?)
「助けてやるさ――」
かきむしりたくなるほど熱い情念が胸の中に蘇っていた。
正義感もある。同情もある。
だがそれ以上の何かが天馬を動かしている。
それは普通に生きていくには邪魔でしかないもの。
安寧を嫌い闇雲に闘いを求める……
狂気。
暗い炎が心の中に燃え上がり、
再び狂乱の舞台の幕が開く――
【賭博天空録ミハネ スクール・ギャンブル編】