37.冷魔再臨
ゴミと枯葉の淀みに抱かれて、イブキは肌を刺すような濁流を流されていた。
水を飲んでしまわないように息は止めている。そしてある時、ふっと身体を捻った。その足の先が、腐り落ちて折れたのであろう、人の二の腕ほどの太さはある木の枝を踏んだ。
ざばあ、と重い水の音と共にイブキは川端に降り立った。ぴぴっと飛沫が踏みしめた地面に跳ねる。
全身濡れ鼠の様相である。先刻の自分を振り返って、少し調子に乗りすぎたと内省する。
しかし、ああでもしなければ嶋あやめは自分を追ってきただろう。それほどまでに彼女の思いは苛烈だった。
彼女の気持ちは分からない。気安く誰かを理解できると思うほど自惚れてはいない。
そして子どもじみた我侭に付き合う献身さなど、イブキはとうの昔に捨てていた。
ぶるるっと犬のように身体を震わせる。
コートから泥水が飛び散ったが、身体中にまとわりついた木の葉までは振るい落とせなかった。
彼女はそれを嫌そうな眼で一通り眺め回してから、これまでの出来事を思い返したのか、重い疲労に満ちたため息をついた。
その時だった。
「――ため息をつくとな、幸せがひとつ逃げるそうだ」
ぎょっとしてイブキは顔を上げた。
まったく今まで、誰の気配も感じ取れなかったからだ。
戸惑い固まったイブキの眼前に、少年がいた。
年の頃はイブキと同じぐらいであろう。
少し襟足が伸びた髪に、女性かと見まごうほどの端整の取れた相貌。
やや吊り上がった目端は、今はどこかリラックスしたように下がっている。
「やあイブキ。ご苦労だったな」
「ご苦労?」と聴き返しながらイブキはさらに少年を油断なく見定めていく。
なめるように動いていた目線が、左腕のところで止まった。
少年は薩摩芋の皮に似た深紫色のコートを羽織っていたが、その左袖は風雨に小突き回されて揺れていた。
イブキは、少年に問うた。
「おまえは、誰だ」
「おや、カガミから聞いてないのか。ちょっと寂しいぜ」
「姉のことを知ってるのか?」
「ま、機会があったら親父にも聞いてみな。改めて、初めまして。
雨宮秀一と言います。今後ともよしなに」
そういって隻腕の美少年は、にっと笑った。
「おまえが……雨宮?」とイブキは半信半疑であるのを隠し切れなかった。
一月前の事件。雨宮秀一とそのほか二名は、どこかの労働施設に送り込まれたはずだ。
それがなぜ、生きていて、しかも自分に「ご苦労様」などと声をかけるのだ。
何もかもがおかしい。
イブキは腰を屈めて、いつでもこの妖しすぎる少年を迎撃できるよう力を篭めた。
そのあまりの警戒態勢ぶりに雨宮が肩をすくめる。
「心配するなよ。べつに取って喰おうってわけじゃない。喰ったって腕は生えてこないし」
「その腕は――」イブキの視線が、我慢しきれず左腕に集まった。
雨宮が、ぽん、と残った腕で揺れる袖をはたいた。
「名誉の負傷さ。自由ってのは意外と高いんだな。初めて知ったよ。
なにせずっと、お坊ちゃま暮らしだったもんでね。外は刺激で一杯さ」
ハハハ、と雨宮が他愛ない失敗談でも語ったように笑う。
腕を切断する事態になったのは、一月前以降のはず。では傷も痛みもまだ癒えてはいまい。
その身体で、この雨の中、平気な顔をして立っている雨宮がイブキには恐ろしげな怪物のように映った。
「そう怯えるなって。あ、髪に葉っぱついてるぜ? 取ってやるよ」
そう言って近づいてきた雨宮の右手を、イブキは咄嗟に払った。
獣のように飛びのいてから、こいつの目的は自分の懐にある換金チケットなのではないか、と思い至った。これさえあれば代理という名目でGGSから金を引き出せる。もっともその前に、自分が盗難の連絡をすれば問題はないのだが――殺されてしまっては口も出せない。
「私を殺すつもりか」
「いいや。殺したりなんかしないよ。おまえみたいに、面白そうなやつは……。
ふふふ、いい耳だな、イブキ」
どこかからかうような、それでいて不思議と温かみさえ帯びているその台詞がイブキの背骨を電撃のように走り抜けた。
自分のこの才能を知っているのは、身内と、先ほどシマに知られただけのはずだ。
「まさか姉から聴いたのか、どこでそれを知った?」
「聞きたいことはたくさんあるだろうけど……今はどこか話せるところへ行こう」
そう言って雨宮は、後ろに手を回し、あたかも花束を差し出すかのように傘を取り出した。
「傘をご一緒願ってもよろしいかな?」
気障な台詞を言い終えて満足気な顔をした時には、手の中の傘はイブキにもぎ取られた後だった。
「いいよ、いいとも。強気な女の子は大好きだ。大人しい姉貴と違って可愛げがあって大変よろしいぜ」
「それ以上近寄るな。容赦はせんぞ」
「あぐぁっ! よ、容赦するつもりなら肘鉄するなよ……」
傘はイブキが握っていた。雨宮は「右腕が濡れるから」とイブキの左側を希望したが、いざという時に先手を打てるように彼女は頑として譲らなかった。
どんな相手にも油断してはならない。それがアウトローの鉄則である。
ひとまずは元地元衆である雨宮の案内に従って、二人は高架ガードの脇にひっそりと看板を掲げているラーメン屋の暖簾をくぐった。
(なんだか、学生の逢引みたいだな)
と一瞬、よからぬことを思い浮かべたイブキは己の不覚さに眩暈がした。シマの熱気に当てられたのだろうか。
しゃんとしなければならない、とまっすぐ背を伸ばして席に着いたイブキを見て、雨宮がふっと笑った。
「そういうところは姉貴に似てるんだな」
「似ていない」とイブキは突っぱねた。
「なんだ、姉貴のこと嫌いなのか」
「そんなことはどうでもいい」不愉快な質問に、イブキの眉が盛大にしかめられた。
「なぜ、私の耳のことを知っているか答えろ」
「親父、醤油ラーメン二つ! 大盛りだぜ。あとひとつはにんにく抜きで!」
あいよ、とカウンターの向こうで禿頭の老人が威勢よく答えた。
「おい、聴いているのか。怒るぞ」
「会ってから短い間だが、おまえが怒ってないところを見たことないね。痛っ!
だから脇腹を突くな、左手ねえんだから防げねえだろ」
雨宮はまたしてもイブキの警戒に遭い、右側に座らされていた。
じいっと無言の重圧をかけ続けるまでもなく、雨宮は軽快に喋り始めた。
「そうだな、どう説明しようか……。感覚の話だから難しいな。
うん、たとえば……言葉は悪いがね、街を歩いていて、心の成長が遅いやつや、目が見えない人を見かけたりするだろう」
思ったよりも言葉に気を遣っている雨宮にイブキは内心戸惑ったが姉譲りの無表情さで乗り切った。
「ああ。それが私の耳と関係あるのか」
「あるとも。そういう人をパッと見た時、なんとなく仕草や視線で、あ、そういう人か、と気づくことってないか。本人や周りに言われるまで分からないか?」
「それはまァ、気づくこともあるが……」
「――通常の人間のスペック、規格、その範囲内から逸脱してるものってのは、やはり見抜かれてしまうんだ。
おまえもそのひとりってことだ。それだけだよ」
「説明になってない。どういうことだ」
「だからさ」
雨宮はカウンターに頬杖を突いて、お気に入りの漫画を読むような顔でイブキを見た。
「おまえは普通より耳がいいだろう。今、外の雨がどんな様子で降ってるのか、風で飛ばされたビニール袋や、向かいの家の犬小屋で震えてるゴールデンレトリバーの姿まで聴き取れるだろう」
確かに聴き取れた。
「つまり、そういうのが無意識の内に仕草の中に出てしまっているんだよ。俺らは何も聴こえないのに、おまえだけ、ん? って顔で窓を見やったりとかな」
「私は、ん? なんて間抜けな顔を人前で晒さない。だが、まァ、おまえの言いたいことはわかった」
「そうか、よかった。じゃあ今晩のことを相談しようじゃないか。どこに泊まりたい?」
「死ね」イブキの口調は絶対零度と同じほどには暖かかった。
へいお待ち、と二丁の丼がカウンターに置かれた。
「おう、ありがとうよ親父。まったく、これを喰わなきゃ帰って来た気分になれねえぜ」
パチン、と小気味いい音を立てて箸を割った雨宮は、麺をずばずば吸い込みながらイブキを横目に見やった。
彼女は丼を前にして、まるで親の仇にでも会ったかのように顔をしかめている。
「どうしたんだ。早く喰えよ、伸びちまうぜ」
「うるさい、私の勝手だろ」
「喰わんならもらうが」
と言って雨宮が伸ばした右腕をイブキはひっぱたいた。
「何をするんだ! 私のだ!」
「じゃあ、まずはその麺を伸ばさせる理由を唄ってみろい。
俺はラーメンを理由もなくまずくするやつが大嫌いなんだ」
細長い厨房の奥から、金さえくれれば喰わなくてもいいわい、と店主の声が届いたが二人とも無視した。
二人の睨み合いは、イブキが視線を逸らしたことで終結した。口の中で飴でも転がしているような口調でイブキは答えた。
「私はその……猫舌、なんだ。ふーふーしないと、食べられない」
「なるほど」信者の告白を聞き遂げた神父のように、雨宮は重々しく頷いた。
「では俺がふーふーしてやろう。貸せ」
「やめろ! 自分でやる!」
丼を庇い、猫のように唸りながら睨みつけてくるイブキに、とうとう我慢できず雨宮は腹もよじれんとばかりに大笑いし始めた。
バンバンとカウンターを右手で叩き、頬をつけて涙を浮かべて身体を震わせている。
イブキは怒りで顔を真っ赤にしながら、掬い取った麺に丁寧に息を吹きかけ始めた。
「さっきの話の続きだがね」と雨宮が、親父ごっそさん、と空になった丼をカウンターに置いた。あいよ、と親父さんの声。
麺を口から滝のように流しているイブキに、雨宮はそのまま喰ってろとジェスチャーしてから語り始めた。
「この世には身体や精神を欠いているやつがいるが、そいつらは仕草で分かってしまうものだ。大抵はな。
そうして、精神病という意味ではなく、魂……つまり、このちっぽけな脳みそを駆け巡ってる脳内物質以外のところにある俺たちの気持ちってやつ、それを欠損しているやつもいるわけだ」
イブキは黙って麺をすすっていたが、耳のよい彼女が聞き逃すはずもない。雨宮は続けた。
「そういうやつは、身体も精神も欠いていないにも関わらず、集団から拒絶される。
身に纏うオーラ……雰囲気とでも言うのかな、それが異質なのさ。
ふん、世の中の人間はネズミによく似てる。群れて、自分と違うものは追い出せばいいと考えてやがる。どこかの誰かさんみてえにな」
ずずー。
「そいつはなぜ、自分が受け入れられないのかが分からないまま生きていく……。
おまえの耳がいいことに理由がないように、そいつが拒絶されることにも理由なんてないんだ。
だが答えがないからこそ一生彷徨い続けなければならない」
「何が言いたい。口説き文句にしては的がずれているな」
「立派な口説き文句さ。つまり、ちょっと耳が人よりも『いい』からって、寂しがるなよ、って言いたいんだ」
イブキが麺で頬を膨らましたまま、雨宮を見た。
「人間は皆、違って当たり前だ……そこに理由がいるか?
自分の心に医学的見地からの分析が必要か?
なァイブキ、俺と組もうよ。俺ならおまえをわかってやれる」
「断る」
イブキは食べ終わった丼をカウンターに上げ、口元についた汁をコートで荒々しく拭った。
「どんな魂胆かと思ったら、懐柔しに来たというわけか。生憎と私はラーメン一杯で買えるほど安くはない。
……そうか、なるほどな。読めたぞ」
「なにがだい」
「おまえの企みがもうひとつ、わかった」
「ほう――言ってみなよ」
雨宮は誘いを無碍に断られたにしては、穏やかな態度を崩さなかった。
「私はあのカジノの詳細を一通のメールで知った。匿名のメールでだ。
雨宮家の嫡男だったら、馬場天馬にボコボコにされる前にあの場所を知っていても不思議ではない。
いや、それどころか常連だったのではないか?」
「俺、チンチロリンは強いんだぜ」と雨宮は得意げに笑った。「麻雀は苦手だけど」
「天馬によって小さな国の王子様から転落したおまえは……」
「誌的な表現ありがとう。ぐっと来たぜ」
「いちいち茶々を入れるな。おまえは、それでもなんとか自由を手に入れた。そうして、どこかで私たちのアドレスを手に入れたんだ。
おまえは考えた。憎いあの二人のうち、ひとりだけでも潰してやれないかと」
雨宮はにやにやと笑っている。
「そうして私と、シマにあのカジノを同時に攻め込むように仕掛けたんだ。
――私にシマを倒させるために」
「ふふふ、その様子じゃ、狗藤は潰せたがシマまでは至らず、ってところだろ」
「その通りだ。雨宮、あてが外れて悪かったな。ざまあみろ」
「べつにいいさ」厨房を眺めながら、手元のお冷に口をつける。
「倒せたらラッキー、ぐらいの気持ちだったからな。それよりもおまえが無事でよかったよ。本当だぜ」
「どの口が言うんだ」とイブキは呆れて首を振った。
「おまえもシマもバカだ。復讐なんて何の意味があるんだ」
「意味ってのはあるものじゃない。造るものだ。おまえには分からんだろうがな。
ふん、そういえばおまえみたいなやつが、俺の高校に通ってるよ。
ラッキーってあだ名なんだがね。昼休みに俺たちが麻雀してる横にのこのこ来たと思ったら、そいつの前にいたやつが四暗刻ツモるはダブルリーチ国士をアガるはで大変なことになってよ。あれは腹立ったなァ……」
もう戻れない光景を思い出しているのか、雨宮はすっと目を糸のように細めた。
彼を守ってきたものはもうない、土地も家も親族も、みんな誰かの元へ飛んでいってしまった。
後に残ったのは、自分だけ――。
けれどイブキは不思議だった。雨宮の横顔は何かを失ったにしては、どこか澄んだように落ち着いていたからだ。
それがこの男の懐柔術に違いない、と決め付けたはいいものの、疑念は消えることなく心の奥底にそっと深く沈んでいった。
「――そろそろ、俺はいくよ」と雨宮は小銭を卓に置いた。
「そうか。……今度は天馬の元へいくのか」
「天馬?」と雨宮は意外そうに聞き返した。
「いかないよ。ていうかさっきからおまえ、やたらとあいつを親しげに呼ぶじゃないか。俺のこともシュウちゃんって呼んでくれよ」
「天馬とは、べつにそういう仲では……」イブキは視線を逸らした。
「最近のあいつを知ってるのかい」
「まァ、ちょっとはな」
「じゃあ、あいつ、意味わかんねえことしてるだろ」
「なんだ、それもおまえの企みだったのか?」
「違う。俺は何も知らない――だが俺には今のあいつが何を感じてるのかよくわかるよ。
足りないんだろうな」
「……足りない?」イブキの脳裏を霧色の髪がよぎった。
「そうさ。やつは今、飢えた獣みたいになってる。だから、人の破滅とか死とか……いや、つまり、そういう直接的な滅亡を求めてるんじゃなくて、それを回避しようとする情熱とか真摯さを、自分や相手から感じていたんだ」
「意味がわからない」イブキはまたその台詞を繰り返した。「何のために?」
「人にね、嘘をつかないんでほしいんだよ――」雨宮はまるで自分のことのように語った。
「正にしろ負にしろ、あいつはもう、狂った純度の感情がほしくてたまらないんだ。
避けられ、嬲られ、曖昧な檻に十数年間閉じ込められ続けたあいつは、そういうものに飢えてる……自分も相手も壊してしまうような気持ちに」
「嬲ったのはおまえのくせに。聞いているぞ、おまえの悪行の数々は」
「いや、まあ、そうなんだけど」と雨宮はきょろきょろと、高い壁に備え付けられたテレビやら卓下の雑誌やらを急に気にし始めた。
「もういい」イブキは手を振った。長い話を聞いて疲れてしまった。
「ところでイブキ」席を立った雨宮が、イブキのつむじを見下ろしている。
「GGSから金券は受け取ったかい。口座は持ってないそうだから、あると思うんだが」
さっとイブキがコートの前を合わせた。
「もう人に渡した。信頼できる人に」
「そうか、ありがとう」
「は?」
「こんな短い時間で俺を信頼してくれるなんておまえはいいやつだな」
「何を言ってるんだ」
「賭けよう。俺は、おまえの金券をスッた」
「バカな」イブキは口元を歪めた。
「私はずっとおまえの左側にいた。そうして、右腕を近づけられたこともない」
「タイミングを教えてやるよ、おまえが口からラーメンだだ漏れにしてた時にこっそり拝借した」
嘘だ、と思った。しかし、懐に手をやって確かめる勇気がなかった。
もし本当になかったら、この少年はイブキの耳に気づかれることなく懐から紙切れを抜き取ったということになる。
そんな神業ができる達人に一晩で二人も出会うなど、信じられなかった。
「ふふふ、賭けはつまり、俺がおまえから本当に金券を取ったか取ってないか……判定はおまえが懐に手を突っ込んで確かめること。
どうだ、俺が本当にスッていて、スッてると見抜いたら返してやるよ」
「ふざけるな、じゃあ、スッてる方に賭けて懐に券があったらおまえのものになるのか?」
「もちろん」
「私になんのメリットもないじゃないか!」
「俺が本当にスッてたら、取り返すチャンスは今しかないぜ。まァ洒落だと思って気楽に賭けなよ。
俺はシマと違って、こんなくだらんことでどっちが上だの言い出すつもりはない。まァ別れの挨拶みたいなもんさ」
「もし、券はまだ私が持っていて、でも懐以外の場所におまえが移してたら……」
「おい、しっかりしろよイブキちゃん。そんな余裕あったらスッてるっての。アガってんのか?」
「うるさい、とにかく、こんなことに付き合ってられるか」
「じゃあ、スッてない方に賭けるんだな?」
「――ああ。それでいいよ。どうせつまらんペテンに過ぎん」
「よし、聞いたぜ。親父も聞いたな!」
どうやら居間に続いているらしい厨房の奥から、おおうと店主の返事があった。
「よし、じゃあ俺はこのまま帰ろう。俺が出て行った後、胸に手を当てて俺のことをちゃあんと思い出すんだぜ」
「四十秒で忘れてみせる」
ハハハ、と雨宮は最後にひとしきり笑うと暖簾をくぐって出て行った。
去り際に片手を振っていたのが、なぜかイブキの目にしつこく残った。
ふう、と一息ついて、イブキは胸元を確かめた。もちろん、あるに違いないと思っていたが念のためのつもりだった。
なかった。
さぁ、と血の気が引いていく。
絶対の自信がある。やつが右腕でスれるはずはない。射程外なのだ。
しかし左腕は――。
雨宮の言葉を思い出す。やつはこう言った。
(ちょっと耳がいいからって寂しがるなよ)
それはもしや、自分もまた、異能者だから出た言葉なのではないか。
バカな、といくら否定を脳に送っても、それに代わる合理的な回答が出ない限り、その疑惑は晴れなかった。
確かなことはたったのひとつ。
またもや勝ち金が、手元に残らなかった。
(……あ!)
いや、違う、とイブキは思い直した。雨宮の言うとおりアガっていたとしか思えない狼狽ぶりに腹が立つ。
このことをGGSにきちんと連絡して、雨宮を代理受取人として認めない旨を伝えればいい。
(なんでこんな当たり前のことにすぐ気づかないんだ、私のバカ。とにかく、黒瀬に連絡しないと)
息を整えて携帯電話を取り出した。
おかしなことに手に持ったそれがアメのようにユガんでいた。
どうしたのだろう、自分のユビがイモムシみたいに太い。
ふと顔を上げると、目の前に、タコよりも顔が大きくなってしまった店主が立っていた。
「悪いね、お嬢ちゃん。シュウちゃんとは、古い馴染みなんだ、あたしも」
気持ちいい。
何もしたくなくなって、イブキは目を瞑り、幸せな夢の中へと落ちていった。
傷が疼く――。
肩口から締め付けるような疼痛が消えてくれない。雨の日は特にひどくなる。
普通の人間ならば泣き出してしまうほどの苦痛を、雨宮秀一は涼しい顔で受け止めていた。
大通りを車が通り過ぎるたびにヘッドライトの光が乱舞し、雨宮の横顔を束の間照らしていく。
この一月でいろんなものを失った。そしてまた、同じくらい得たものもある。
ひとりで街を歩くことなんて、今まではなかった。常に誰かが側にいてくれた。
今はこの孤独が、むしろ落ち着く。
いや、自分は最初から孤独だった。自らの外殻しか見てくれない他者に辟易していたのだ。
それがわかったことも、収穫と呼べるだろう。左腕の代償としては上出来だ。
暗い瞳で雨宮は前を見ている。
「兄貴……?」と唐突に呼び止められる。
舌打ちをして、雨宮は振り返った。
イブキに相対していた時の好青年然とした雰囲気は消え去り、一匹の飢えた獣のような殺気を放っている。
街灯の下に、相合傘をしている男女がいた。二人とも見覚えのあるジャージ姿だった。
オールバックに髪をまとめている、自分とそっくりの顔をした少年と、前髪が一房だけ金髪の少女。
二人とも目を丸くして、幽霊に会ったような顔をしていた。
「竜二と……それに逸喜か。なんだ、割と元気そうだな」
「元気そうって……兄貴、どうしてここにいるんだよ」
「俺が生きてちゃ悪いか。死んでせいせいしてたのに、ってか?」
雨宮は鼻を皮肉げに鳴らした。「悪かったな、生きてて」
「そういうわけじゃない。いつ帰ってきたんだよ」
「さっきだよ。それにもう出て行く。嫌なやつらに会っちまったからな」
「なんで……?」と逸喜が一歩前に出た。今にも泣き出しそうに顔を歪めている。
それを映す雨宮の目は、湖よりも澄んでいた。
「せっかく、戻ってきてくれたのに。またどこかへ行っちゃうのか?」
「そうだよ、逸喜」
「嫌だ。そんなの嫌だ」
かすれた声で呟いて、竜二が制止する前に逸喜は雨宮に近づいていった。
そうして逸喜に、右手を掴まれた雨宮は、じろっとそれを確認してから、逸喜の頬を叩いた。
パアンと肉を打つ音が周囲一帯に響き渡り、横倒しに逸喜が道路にどっと倒れこむ。
それを見た竜二がすっ飛んできて抱き起こした。
そうして激しい怒りの視線を兄目掛けて叩き込んだ。
「兄貴ッ…………!」
「おまえらが何と言おうと俺は出て行く。それが分からないなら殴ってでも教えてやった方がそいつのためだ」
「死ねばよかったんだ」竜二は吐き出すように叫んだ。
「兄貴は生きてちゃいけない人間だ」
「誰もおまえの都合なんかに合わせて生きちゃいない――嘆くなら、俺よりも弱い自分を恨むんだな」
雨宮は最初から一片の興味もなかったと言わんばかりにコートの裾を翻して背を向けた。
「とっとと失せろ。おまえらなんかに構っているほど暇じゃあないんだ。
それとな、俺はもうおまえの兄貴なんかじゃない。最初から兄貴だったつもりもない。
雨宮の血筋は絶えたんだ、俺の代でな。ふん、一人前に家族面しやがって。
俺とおまえじゃ生きる世界が違うんだよ。じゃあな、バカども」
そういって雨宮は、もう二度と戻ることはできない道を歩き始めた。
その背を叫び声が追い立てる。逸喜の声だった。
「秀一……! おまえが、どんなに遠くに行っても絶対に探し出してやるからな!
いつか、きっと、もっと強くなって、おまえに負けない女になって、捕まえてやるぞ!」
振り返ることなく、雨宮は夜の街へと消えていった。