38.天空騒乱
ガラッと戸を開けて馬場天馬がむすっとした顔を見せた。
睨みつけるように室内を見回したが、その様子が別にそれほど不機嫌ではないということを生徒会室にいる皆は段々とわかってきていた。
体育祭の日から止まなくなった雨が窓を叩き、コの字型のテーブルに突っ伏して惰眠を貪っていた白垣会長ががばっと顔を上げた。
「やあ、馬場。生徒会に入ってくれる気になったかね」
「タダ働きなんて死んでもごめんだ。オレには帰る家がある」と天馬は周囲の役員たちを見渡した。
「お、やってんな、逸喜」
隅っこの方で、繋げた机の上に麻雀マットが敷いてある。その上に散った牌を紺野逸喜は忙しくかき混ぜていた。
「なんだ先輩。邪魔だからとっとと帰るがいい」
「先生と呼べ。誰が一から麻雀を教えてやったと思ってる」
ふん、と逸喜は鼻を鳴らした。
「先生のくせに弱っちいじゃないか。私は一度も先生に負けてないぞ」
「素人め。勝つのなんかツけば誰にでもできる。負けないのが技術なんだよ。なァ竜二、おまえもそう思うだろう」
長い前髪の隙間から、ちらちらと竜二の目が覗いていた。
その黒くはっきりした目が、都合のいい時だけ話題を振ってくる天馬を責める色を帯びる。
「勝つことがすべてだろ。おまえが言ってたことじゃないか」
「そうだ、竜二の言うとおりだぞ先生。だからさっさと私を免許皆伝しろ」
「おい白垣、聞いたか。大恩ある師匠から免許を強奪しようとする弟子がこの世に誕生した。まったく世も末だな」
「なんでもいいがね――」と白垣は退屈そうに欠伸をした。目尻に涙の粒が浮かんだのを指の背で拭う。
「体育祭が終わってから暇で仕方ない。何か面白いことはないのか。このままでは僕は自分の脳内妄想を小説にしてライトノベル業界に切り込んでいってしまうよ」
「ブックオフに流れるくらいには人気になれよ」と天馬はまじめに取り合わず、近くで事務仕事をしていた女性役員の首根っこを掴んで椅子から引きずり下ろした。
「何すんのよ! この変態!」
「おまえに用なんかねえよ。机に用があるんだ」と天馬は懲りずに憎まれ口を叩き、怒った女子生徒にケツを蹴られて靴跡を頂戴したが、まったく取り合わない。
机と椅子を戸の前に複雑に絡み合わせて配置し、細かくズレを直していく。その様は大きな折り紙に興じている様を思わせた。
すっかり天馬の奇行に順応してしまった役員たちであったが、「会長よりはマシか」とおのおの納得しているようであった。
「先生、何をしているんだ?」と逸喜が手牌から顔を上げた。
その隙に素知らぬ顔をした竜二が自分のヤマから腕によりをかけて牌をぶっこ抜いていたが当然見ているわけはない。
「何って、見て分からないかよ。バリケードさ」
「誰か来るのか? 機動隊か?」と逸喜は声を弾ませる。「ぼくらの生徒会ウォーズだな?」
「盾持ったおっさんと麻雀でもしてろ」
天和、という竜二の声が聞こえた。逸喜の長い悲鳴。
「これから来るのはもっとやべえ二人だ。危険な二人! 超雀士は眠れない」と映画のタイトルじみたことを言ってひとりでヘラヘラ笑っている。
左手で書類の始末、右手で配られたばかりの新しい手牌をいじくっていた宮野怜が哀れそうな顔を向けてきた。
「なんだ宮野。仕事中に麻雀なんぞしやがって。天下無敵の副会長様がよ、いいのかよ」
「ノルマさえこなせば、自由は約束されるのよ。学生ニートのあなたとは違うわ」と手牌を倒した。
「地和」
「なァ先生、さっきからおかしいんだ」涙目になった逸喜が点棒を支払っている。
「みんな私が切る前にアガってしまうんだ。麻雀ってこういうゲームなのか?」
「そうだよ」と天馬は奥義を伝授するかのような神妙な顔で頷いた。「我慢しろ。今におまえもアガれるから」
「そうか、わかった。耐えねばならんのだな」と逸喜は甲斐甲斐しく牌を積み直す。
宮野の手元に三元牌がすべて集まっていたが、誰も何も言わない。
生徒会は主に会長のせいで激務なのでアルバイトをしている余裕はあまりない。
よって、ドーナツ屋で働き始めたばかりの逸喜の財布の中身をみんなで食いつこうとしているのだった。
生存競争はどこも厳しいのだ。
「もう麻雀の話はいい――」と白垣が呻いた。喉を絞められたように苦しげに天井を仰いだ。
こんなことを言っているが逸喜が麻雀を覚えたいと言い出した時、天馬の荒っぽい教え方にいちいち難癖をつけて横からなんやかんやと世話してきたのは彼だった。
ただ、もう逸喜に繰り返しリーチピンフツモドラ1はマンガンではない、ということを繰り返し言って聞かせる気にはなれなくなったらしい。
「誰が来るんだ。気になって茶が飲めない」
「飲むな」と天馬はにべもなく答えてから、またひとりの男子役員の首根っこをむんずと掴みあげて、バリケードの前に立たせた。
「何するんすか、先輩」とその生徒は不安そうに顔を歪めて、頼りになりそうな宮野怜の方へ救援の視線を送るが、彼女は上家の竜二とダブル役満を仕込むのに忙しかった。
「怖がるなよ、後輩」と天馬は先輩風を吹かせてその少年の肩をバンバン叩いた。うっとうしい先輩の接し方の見本である。
「倒れないように、机を押さえててくれ」
「え、でも誰か来るってさっき……」
「ごちゃごちゃ言うな。!」と言って天馬は無理やりその生徒をバリケードの中へと押し込んでしまった。
あうー、と呻いて少年はもがいたが出られない。
たったった、と外を駆けてくる足音が聞こえた。皆が顔を上げる。足音は段々と近づいてくる。
少年がさらに慌てて机の牢獄から出ようとしたのと、引き戸に何者かが飛び蹴りらしき衝撃をぶちかましたのが同時だった。
「馬場ァァァァァッ!!!」
引き戸のガラスが割れた。動転した少年の役員が慌ててバリケードを押さえに回る。
混乱してしまったらしく目が自由水泳してしまっていた。
「やっぱりな、オレの想像通りだ。やつは引き戸の構造を理解していない」
「それぐらい怒ってるんだろう」と竜二が冷ややかに返す。逸喜が突然の急襲にびっくりして固まってしまっている。
「スリルだ! スリルがやってきた!」白垣が喚く。「レボリューションだ!」
ようやくやってきた退屈しのぎに小躍りしている白垣を哀れっぽい目で天馬は見つめた。
「かわいそうに。本当の地獄はこれからだ」
「馬場ァ! 出てきやがれ! あたしはあんたが許せねえ!」
バン! と破裂するような音がして木製の戸だたわんだ。
割れた窓の向こうで般若じみた顔つきになっている雲間鼎は容赦する気などないらしかった。
台詞の合間にきー、だの、あー、だの、錯乱した人間に相応しい奇声が混ざっている。
いまや生徒会の命運をその双肩に背負う羽目になってしまった少年の顔は蒼白だ。
「何をしたのかね、馬場! あんなに鬼蜘蛛を怒らせるとは!」
「あいつはいつも怒ってるだろ――更年期なんじゃねえか。それか」と言いかけて、逸喜と目があって天馬は目を逸らした。彼女は不思議そうに小首を傾げている。
「カガミ! あんたからも言ってやんな! あの男がどれだけカスかを!」
と叫んだ鼎の後から、低く細いカガミの声が聞こえてきた。井戸の底で喋っているような声音だった。
「天馬、出てきてください」
「素直にしたら許してくれるか?」
「嫌です」
「ほらな」天馬は頭を抱えた。「どう足掻いても絶望なんだ」
「何したんだよ、馬場」と白垣が実に親しげに天馬の首に腕を巻いた。
「あのカガミさんが怒るなんて相当のことじゃないか」
「別に大したことじゃねえよ」
「大したことじゃない?」と聞き返したのはカガミだ。驚くべきことに声が震えていた。
「あんなことをしておいて、よくそんなことが言えますね!」
生徒会中の視線が、一斉に天馬を襲った。女子からの侮蔑、男子からの尊敬と綺麗に別れていた。
バリケードの少年がそんなことはいいから助けてくれ、と哀願を皆に送るが誰も取り合わない。
「そうか……馬場、やってしまったか」白垣の顔がふっと和んだ。その子どもの成長を見届けた親のような顔つきに天馬は苛立った。
「だが順序というものがあるぞ」
「順序なんかあるか。やりたいからやっただけだ」
「バカ! ゴミ! クズ!」と罵声を浴びせたのは驚くべきことにカガミだった。「ロクデナシ!」
「誰があいつにあんな言葉を教えたんだ」
「間違いなく雲間鼎女史その人だろうな――」
羨ましげに引き戸へ遠い眼差しを送った白垣は、こう続けた。
「実に素晴らしい」
「おまえの頭の出来具合がな」天馬はバリバリと頭をかいた。
「オレだってな、悪気があったわけじゃねえ。笑ってくれると思ったんだ」
おお、と話の続きに身を乗り出した白垣の背に少年の悲鳴がぶつかった。
「無理です、会長! 突破されます!」
「貴様、それでも生徒会役員か!」と白垣は今まで出したこともないだろう大声を上げて、「賢く見えるから」とかけていた伊達眼鏡を激怒のあまり外してそのまま握りつぶした。意味不明である。
「氷川! 会長権限を発動する、サポートに回れ!」
「了解」
影のように氷川が動き、戸ががったんがったん揺れるたびに崩れかかる机を支えた。
「おお、さすが秀一の弟」と逸喜が感心する。
「時間がない、早く続きを言うんだ、馬場」白垣は何かを失った目をしている天馬の肩をがたがたと揺さぶった。「ここで最後まで聞かずに死んだら、冥土へ行けん」
「言ったら許しません!」とカガミの叱る声を天馬は確かに聞いたが、無視した。
「脇をな」
「ふむふむ」
「天馬ッ!」
「こちょこちょっと」
「……は?」
危うく割れそうなほど戸がたわんで、少年が吹っ飛んだ。
残った竜二が全力で押さえているが、それも時間の問題であろう。
しかしそんなことは白垣真の脳裏からは綺麗サッパリ吹っ飛んでいた。
「こちょこちょ?」
「こちょこちょ」
「おまえは何を言ってるんだ」
「え、だから、こちょこちょくすぐったら笑うかな、と思って、やったら、めちゃめちゃ怒られて家から叩き出された。仕方ねえからラッキーんちのドア蹴飛ばして帰った。あとカバン忘れた。竜二、後でノート貸してくれ」
「ああ、ノートは教室に置いてあるんだ。取ってくるよ。このまま茶番に付き合うよりは有意義だ」
止める間もなく竜二は戸を開けて出て行ってしまった。重ねられた机がガラガラと崩れていく。
「マジかよ……」
「まさか彼が一番話のオチに期待していたとは……」
呆気に取られた天馬と白垣の前に、夕日を浴びた二人の女子生徒が立ちはだかった。
コツ、と上履きが一歩進み、床が鳴った。天馬はそこから視線を逸らせない。
さんさんと降り注がれる想像以上の怒気に額から玉の汗が滴った。
「なんで言うんですか?」長い髪の少女の顔は逆光で黒く翳っている。
「言わないでって言いましたよね」
「違う、これにはわけが」天馬は後ずさった。ひい、と白垣が恐怖のあまり天馬の袖にしがみついてきたが振りほどく余裕もなかった。
「私を怒らせてそんなに面白いですか?」
「面白くないです。ちっとも全然です」敬意を払ってみたが怒気は一向に晴れそうもない。
「昨日のことだけだったら、笑って許そうと思ってました」と鉄のような無表情でカガミは言った。
「さ、さっきと言ってることが……」
「何か?」
「いえ……その……」
「ば、ば、馬場。謝るんだ。そしてひとりで死んでくれ」白垣がぶるぶると震えているが、それは天馬も同じだった。
「だ、だ、だって、おま、おまえが鬼蜘蛛に言ったりするから、こ、怖くて逃げ」
「で、ここで、自慢話みたいに言いふらかした、と。くすぐられた時の私の醜態を鬼の首を取ったように」
「いいいいい言ってないです言ってないです。そこまでは言ってないです」
「関係ないです」
「白垣が! 白垣が言えって!」
「そ、そこで僕に振るのはひどすぎるだろ! 違うんだ、カガミさん――」
「関係ないです」
「年貢の納め時だ、バカヤロウども――」とずっと後方で腕組みをしていた鬼蜘蛛こと雲間鼎が、腕を解いて拳をバキバキ唸らせ始めた。
「何か言い残すことはありますか」
もはや壁際まで後退させられ、床に不様にへたりこんだ男子二人を冷たい目でカガミは見下ろした。
「我が人生、これ悔いの塊なり」と白垣。震える手で、なぜか胸の前で十字を切った。
「す、好きです……」と天馬が言った。ストレートな発言で機先を制する作戦だ。
「私もです」カガミが答えると、周囲の女子が感嘆の声を上げた。
「じゃ、じゃあ助け」「よくやった、ば」
「だめです」
長い絶叫が校舎中を貫いた。
タン、タン。
目を瞬いた。見慣れた白い天井と、カガミがいた。
「起きましたか」
「ああ。なんだかひどい目に遭った気がするが、覚えてない」と天馬は呟いた。本当に記憶がなかった。
「きっと悪い夢でも見ていたんでしょう」とカガミはいつも通りだ。
「なァ」
「なんです」
「どうしてオレはおまえに膝枕されてるんだ」
「ほかに置き場所がないからです」とカガミが抗議するように足を動かした。
「起きたならどいてくれると助かります。重いです」
悪かったな、と言って天馬が半身を起こすとそこは日の落ちた生徒会室で、残っている者たちの真ん中には緑色のマットが敷いてあった。
今はさきほどの会議室横から入れる休憩室で、敷かれたオレンジ色のカーペットの上にみんなあぐらをかいて卓を囲んでいた。
「イチャイチャしおって、死ぬがいい」と三白眼になっているのは逸喜だ。
どうやら、下校時刻ギリギリまで麻雀を打っている最中らしい。いつものことだった。
天馬はぼりぼりと手を髪の中に突っ込んで引っ掻き回しながら、周囲を見渡した。清算表とボールペンが転がっている。逸喜マイナス38。
「宮野がいねえな。帰ったのか」
「他の女生徒の心配をしたりするから、あんな目に遭うんだ」と白垣がツモった牌を手に入れながら言った。顔面を包帯でぐるぐる巻きにしている。
何があったのか、彼の不幸に天馬はまったく興味がなかったので聞かなかった。
「心配するか、あんなうるせえ女。おまえにくれてやら」
「そもそも、おまえのものじゃないだろ阿呆」と雲間鼎が牌を横にしながら天馬を睨んだ。「リーチ」
「怖いね。女とリーチはおっかない」と天馬はカガミの手と鼎の河を見比べる。
鼎の河は序盤に字牌、後半に数牌と典型的なピンフ手だ。
「おい竜二、ここからおまえなら何を切る」と天馬はカガミを挟んで反対側で、いつの間に戻ってきたのか白垣の手牌を見ていた抜け番の竜二に話を振った。
彼は億劫そうに身を寄せてカガミの手を覗いた。前髪がズレて、懐かしい顔が露になる。
「右一で一端回すか、さもなきゃ左四だな」
「左四だと? 相変わらずつまらねぇ打ち方だな。ベタオリじゃねえか」
「それでいいんだよ。何もなく、ツモられたっていい。雲間は親だ。アガられると痛いが、べつに自分の親番が潰されたわけでも、自分だけ沈むわけでもない。トップが確定してしまった後で、ゆっくりと二位争いと洒落込むさ」
「面白くない。面白くないぜ。カガミ、なんとか言ってやれ。テンパイ即リーだってな」
「無論です」とカガミが答えたので、二人ともお、という顔をした。
そして天馬は、カガミが麻雀を打っているところを初めて見たことに気づいた。
彼女はいつも見ているだけだったのだ。
そうして二順後のツモで穴二索を埋めて、通っていない一索を振ってリーチ。
「さすがオレの嫁だぜ。どっかのキタローとはわけが違うな」
「べつにキタローでもきたろうでもいいが、通ったからといってこの打ち方が正しいとは思わんね」
と竜二はあくまで否定的だ。天馬が食ってかかろうと口を開きかけるのを制する形で、カガミが答えた。
「たとえば自動卓だったら、リーチにはいきませんでしたよ」
白垣が愉快そうににやけている。
「今ツモっているこのヤマ、誰が積んだと思ってるんです?」
カガミは盲牌もせずに、人差し指と中指で挟んだ牌をマットに打ち付けた。
倒された手を、皆が覆いかぶさるように覗き込んだ。
純チャン三色、穴八索待ち。
「綺麗な手だな」と逸喜が感心したように言った。
「いいや、カガミの方が綺麗さ――ぐぼぁっ!」
風を切った肘鉄を脇に食らい、天馬は再度ぶっ倒れて動かなくなった。口元から泡を吹いている。
カガミは顔を伏せていて、長い髪でその表情は誰にも見えなかったが、オープンせずとも分かるテンパイというものがこの世にはあるのだった。