二回、三回。携帯電話のコール音が鳴り響く。その電話の主は制服のポケットからそれを取り出すと、髪の間を縫うようにして耳にあてた。
「もしもし」
電話に出てすぐ、春子は訝しげに顔を歪ませた。
「えー? だから、録画して欲しいのは7チャンネルだってば。うん、九時から」
春子は能天気に、母親相手にテレビ番組の録画を頼んだ。
片や、学校で平常講習を受けている最中の菜美は、ポケットの中で振動している携帯電話の電源を、迷惑そうに片手で落とした。
○
(あーあ……。馬鹿だなあ、なんで春子の連絡先も聞いておかなかったんだか。もうすぐ死ぬって分かってた癖して)
薄く残る意識の中で、健人は己の愚かさを悔やんでいた。
春子の連絡先を聞いておかなかった事に他意は無く、それは単に健人の不備による結果であった。
(菜美は来てくれるかな……。お父さんやお母さんは……、流石に間に合わないかな)
たった一人で死んでゆく孤独。医師や看護婦に囲まれながら、健人はその恐怖に包まれていた。
(最後に、せめて菜美と春子に会いたかった。お父さんやお母さんにも、ちゃんとお礼を言っておきたかったな……)
健人は溢れる涙を堪えるように、ゆっくりと瞼を閉じた。
――ガラッ。
病室の扉を開き、春子は中へと入って来た。
いや、実際には足を踏み入れようとした段階で、健人について何か重大な事態が起きている事を視認しその足を止めていた。
「浅川くん……?」
いつものように。ただいつものように見舞いに来ただけのつもりの春子は、病室内の異様な雰囲気を見て萎縮した。
この時、16時57分。それは学校の通常授業を終え、バス二本を乗り継ぎ出来る限りの最短距離を最高速度で辿ってきた結果。春子は、自力でこの瞬間へと辿り着いたのだ。
健人は閉じかけた目を再び開き、ゆっくりと春子の方へと顔を向ける。
「……春子?」
「浅川くん!?」
ふと我に返ったように、春子は健人の元へと駆け寄った。
「ああ……春子、良かった。連絡先を聞いておくのを忘れてたから、どうしようかと思ってたんだ……」
健人は力なく笑った。
「あ……浅川くん! どうし――」
言い掛けて、至極当然すぎる疑問を春子は飲み込んだ。その答えなんて、誰がどう考えたって一通りしか無いから。
「まあ、流石にやっぱり限界だったよ……。せめて、自宅で一週間ぐらいは保ちたいって思ってたんだけど。情けないな……」
そう言い終えるのとどちらが先か。健人は苦しそうに胸を押さえ、ベッドの上で激しく跳ねた。
「山岸先生!」
婦長は必死に健人の体を抑えつけながら、山岸医師の指示を仰いだ。
「……! 今すぐ手術室に運んでくれ」
「は、はい!」
新米の看護婦がすぐさまその用意に取り掛かる。
春子は、何度も繰り返し健人の名前を叫び続けていた。
一度意識を失いかけたに見えた健人は、それに応えるようにして春子の右手を掴んだ。
「は、春子……」
「!!」
健人は必死に言葉を紡ぐ。
「き、聞いてくれ……。大事な話なんだ」
春子の腕に力が篭る。
「……そこの棚の、上から三段目……。その一番奥に、封筒が入ってる……」
「封筒!?」
「二通。菜美と、春子に……。遺書って訳じゃないけど……」
ベッドの横にタンカが用意され、看護婦達の手によって健人の体はその上に移動される。
「すいません、どけて下さい!!」
新米の看護婦が春子の体を制した。看護婦二名、その横に添う医師一名の下、タンカが運び出される。
「浅川くん!!」
「……菜美にも渡してくれ。必ず……」
それを最後に、健人は口を開く事は無かった。
「あ、浅川くんっ!」
走り出すタンカの横を、春子は必死になってついてゆく。
「大丈夫だよ!! きっと治るから!! ほら、ウチのお父さんなんてさ、癌になったのなんて忘れたみたいにピンピンしちゃってさ! 今じゃもう、お母さんに隠れて煙草なんて吸ってるんだよ!? 信じられないよね!?」
涙による嗚咽で、所々言葉を詰まらせながら、春子は必死に声を掛け続けた。
「だからさ、浅川くんもきっと大丈夫だよ! 浅川くんだけ助からないなんて不公平だもん!! ……だから起きてよ!! 浅川くん!!」
春子は手術室の直前までタンカに付き添ったが、最後に健人の傍から引き離された。
春子はその場で泣き崩れた。病院だという事も忘れて、大きく声を張り上げて泣いた。
○
暫く経ち、少しだけ涙腺が締まってくると春子はゆっくりと立ち上がり、再び健人の病室へ向かった。
扉を開くと、そこには嘘の様に閑散とした空間が広がっており、頬が少し痺れた。
「………………」
ベッドの横の棚の、上から三段目。
春子は、中に入っている本やら書類やらを一つずつ丁寧に取り出した。すると、後には健人の言った通り二つの封筒だけが残り、春子はそれを取り出した。
それぞれ、裏には『春子へ』『菜美へ』と書かれている。春子はどうしようかと思ったが、自分宛ての封筒を開いた。
○
『春子へ』
今まで本当にありがとう。
この言い回しを実際に使うのは少し恥ずかしいけれど、きっと、春子がこの手紙を読んでいる頃には僕は生きてはいないと思う。それはとても残念です。
僕は、春子が初めてこの病室に入って来た日の事を今でも思い返す事があります。暑い夏の日で、窓が開いていました。そこから入ってくる風はとても涼しげで、その所為でカーテンが捲れました。
それが無ければ春子に出会ってなかったのかと思うと、背筋が凍るような思いをします。
僕の人生は、春子のお陰でとても晴れやかでした。春子がいなかったらなんて、今では考えられません。
できれば、これからもずっと付き合っていきたかったけど、こちらの都合でそれは無理そうです。
今まで、本当にありがとうございました。この先の人生を、僕の分も楽しんでくれればと思います。
時々、お墓参りなんかにも来てくれたら嬉しいです。今まで、本当にありがとうございました。
○
読み終えて、春子は無言で泣いた。
『好きです』
最後までその一言が言えなかった事が、死ぬ程に悔しい。きっともう、二度と自分の気持ちを伝える事が出来ない。頭でそう考えると、その度にどす黒い感情が心の中を埋め尽くした。
制服の裾で涙を拭いて、窓の外を眺めた。あの日とは程遠い、雪の降る寒空だった。
「………………」
ふと視線を左手に落とすと、そこには菜美宛ての封筒がある。