三章 「傀儡師は斯くして哂う」
意識したわけでもなく、自然と右腕が顔を覆う。
もはや日常茶飯事なのかどうかも分からなくなり、ただ呆然と、頭上から降り注ぐ雨に対して広げる傘のように、ほっそりとした腕を日よけのように翳す。
だけど、それは一般認識の雨ではない、
ああ、まただ。
雪崩、とまではいかないが、それでも相当の勢いで落とされる雨は、水滴といった生半可なものでは到底なく、序で、身体を多い尽くすように飛んでくる、拳。
比喩でも何でもなく、本当に、人の拳。しかもご丁寧に、痛くなるようにと中指の第二関節を若干突き出している。おかげで、雨が穿つ身体には、その度に鈍い痛みが走った。
その内、日の目を浴びず病的に白くなった顔めがけて、拳は振り下ろされるようになった。
自分を取り囲む大柄な数人の男子と、それらの間のわずかな隙間から見える、クラスメートから突き刺さる侮蔑の視線。――――もちろんそれがあったのも初め一日で、三日坊主も驚くほど早くその光景は教室に存在する風景画の一部となってしまった。
強制的に決められた教室の隅の席で、僕は耐え忍ぶのも忘れてされる儘に拳の雨を喰らう。
身体にはいつも傷が絶えなかった。最近の事件で言えば、授業中に不意にカッターナイフで手首を切られ、教師に言うことも出来ず、そのまま残り授業時間を受けたと言う事があった。無論病院にも行けず、それどころか親に相談することも出来ず、痛みに耐えながら傷口を適当に包帯で巻き、今に至る。
今のその傷痕は赤い鮮血で滲み、その度に腕全体に響く痛みが襲った
そんな事を繰り返されるうちに、いつしか自分は、傷で身体が出来ているのではないかと思い始めることもあった。
漸く解放された自分の両腕を漠然と眺める。
蚯蚓腫れのようになった傷痕が縫うように広がり、まだ、瘡蓋の取れないものもあった。
カッターに限らずあらゆる刃物で傷つけられた両腕。
もちろんその中には、耐え切れずに自ら切りつけたものも混じっている。その時の感触は、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
ぎちぎち、という恐怖を募らせるような金属音。
錆びついた刃が卓上電灯に照らされ、不気味な薄灰色を醸す。
そして――――
ず、
と、薄いカッターの刃が、肉のない細い腕に落ちる。
同時に全身の産毛が逆立ち、皮膚が焼けるような痛みに襲われた。
「うっ…………………………!!」
肌の表面を嫌な冷や汗がびっしりと覆い尽くし、Tシャツがじっとりと濡れる。
生物の気配のない一人の部屋で、小動物に似た声を上げる。鍵も全て締め切った閉鎖空間の中、限りなく無音に近い阿吽と、僅かな呻きだけがその中の音の全てを支配する。
聞こえない音としては、自分の脳内で再生される、カッターの刃が手首の肌にめり込んでいく、生々しい音。ぶよぶよに膨れ上がった蛆虫を握りつぶしたような、不明朗な音。
傷と刃の間から、血滴が球状になり、すぐにその形を崩して流れ、肌を伝う。
視線の先に映るのは、刃の先端が突き刺さる自分の左腕。
その刃が見据えるのは、筋張った手に盛り上がる手首筋。
次の瞬間、それをめがけ――――
ひゅう
「ぐあ…………!!」
音も立てずに、筋の上をカッターは走る。気持ち大きくなった悲鳴が、それでも常人の話し声にも満たないほどの大きさで、薄暗い部屋の中にこだまする。途端に呼吸は激しくなり、その次には大粒になって溢れ出す汗がこめかみを伝うのが、はっきりと感じ取れた。
僕は思わずカッターを放って傷口を素手で押さえ、その過ちに気付く前に右手が傷に触れ、引き攣るような鈍痛が連鎖した。
左手の指がぴんと張って、小刻みに戦慄く。
幸い動脈は切らなかったのか、斬り痕からは"どろり"、と赤黒い血が流れた。それでも十分すぎるほど鈍い痛みが全身の神経を刺激し、弱く痙攣する。
歯ががちがちと音を立て、顔は漸進的に強張っていく。
脆い意識を奮い立たせて、そこらにあったタオルをかき集めて、傷口を覆った。何かしら菌が混入して化膿することなど分かっていたが、それでも強く圧迫し、自ら付けた傷を自らの手で塞ごうとした。
世界が歪にぼやけた錯覚が生じ、霞む視界では二重三重にぶれる左腕しか視認することが出来なかった。客観的に見れば大したことない傷でも、幾重にも重なり合った状況により精神が決壊して、とめどない慄然が、心を、身体を、臓器を、全てを埋め尽くした。
薄氷を踏む思いになって、死中に活を求めるが如く思索を張り巡らせた。
その後結局残ったのは、少しばかりの傷と深い精神崩壊だった。
…………………………………………
…………………………
それから僕は、リストカットすることはなかった。考えていくうちに、悟ったのだ。
あんな自虐行為をしても――――満たされるのは、一瞬だけだ。ちょうど麻薬依存者がクスリクスリと追い求めるように、それだけにしか縋ることが出来なくなるまで、壊れてしまうことが僕には不可能だと悟った。
そのかわり、判明したことが一つだけあった。
何も、自分を傷つけることはないじゃないか。どうして痛い思いをしている上に、さらに痛みを塗り潰さなければいけないのだ。そうだ。初めから分かりきっていたことだ。
これを被るべき者は、僕ではない。
僕を虐げたあいつらと、僕の証言なんか無視し続けた両親と教師。それだけじゃない。僕が痛めつけられるのを嘲笑するように、高みの見物を継続していた、クラスメート全員。
――――いや、それだけじゃ飽き足りない。
もっとだ。もっと、この僕の痛みを世界中の馬鹿に知らしめる必要がある。
僕と同じ境遇の人間なら何人でも知っている。住所が分かる人間だっている。
はは、何だ。
「……そんな、"簡単な"ことだったんじゃないか…………」
密かに呟いた、刹那。
ことり、
と、何か硬いものが落下する音を、耳が捉えた。例えるなら、カナブンの死骸が古びた電灯から落下し、床に叩きつけられたような音。
しかし、肝心の何処に落ちたかが分からない。前に落ちたとも後ろに落ちたとも取れない、どちらかと言うとその中間、頭上から落ちてくるような感覚がした。
もちろん、頭の上にカナブンの死骸などない。しかし、その何かが落ちる音と言うのは、体育教官の馬鹿でかい声よりもずっとよく響く、言うなれば脳髄に直接衝突したような骨振動にも似た音。
だとしたら、気のせいなのだろうか?
僕は少し首を捻ったが、今はそんな事を考えている暇はなかった。
一刻も早く、"計画"を実行するための狼煙を上げなくては……
その一念が脳を満たし、それだけで脳汁が頭蓋を埋めつ尽くすまで溢れた。
体調も何故か普段と比べてすこぶる良い。強いて言えば、先刻の謎の落下音を聞いてからどうも頭の中で"何か"が蠢くようなむず痒さを感じたが、大して気に留めなかった。
それよりも期待と憎悪に満ちた情動が心を占め、違和感などすぐに忘れた。
それほど、その計画の期待と言うものは僕を僕たらしめるように、律動した。
今に見てろ、馬鹿ども。
お前らなんて、お前らなんて…………
ちきちきちき、
と、カッターの刃がせり出す音。
その音を聞いて僕は、
にぃ
と、哂う。
「この刃で、"僕自身"でズタズタに引き裂いてやる…………」
†
「死」という絶対存在は常に僕らの傍にいて、僕らの首元にその鋭利な大鎌をあてがっている。概念上で言えば生来定められている年齢に達するまでは、彼らは僕らの生き方から死に方まで邪魔をすることはなく、じっと息を潜めている。
しかしそれはあくまで推測であって、実際のところ、そのような事実が存在することすらも完全証明できるものは一人としていない。一つとしてない。
ただ、僕らの「生命の期限及び死の創始」を余すところなく定義しているものだけは、確かに存在する。
人は何か勘違いをしているかもしれない。
死と呼ばれるものには、分かるだけでも二つの「死」が在り得る。
それは、肉体的な死と、精神的な死。
口頭で言えば、別に何も大したことはないように思える。
肉体的な死は、一般的な、寿命を全うして安らかに永眠することのできる死。肉体そのものが腐敗してゆき、自然に帰属する、きわめて合理的な死。
精神的な死は、突発的な事故・病気・災害による、当事者の望むものではない死。肉体はそのまま残り、精神だけが現世を去る、非合理的な死。
それで、死と言う人間世界の絶対存在は成立する。
――というわけではない。
死にはまだ、無尽蔵に種族が存在する。
その中でも、僕ら人間が最も恐れているのは――
人間的な、死。
人間として生きとし生ける意味をなくした、最も冷酷で残虐な死。
その人間的に死んでしまったもはや人間でない生き物は、身の寄りどころを失い、狂乱したのち、この世から存在を消す。
そうして死んでしまった人間だったものにも、当然虫は発生する。ちょうど、動物の腐肉や骸に数多の蝿が群がるように、虫は、それを喰らう。
そうして人間だったものを喰らった虫は、世間的に認識される「虫」とは極めて異端な、虫にして虫に属さない、決して人の書物には記載されない生物として成り立つ。
僕らはそれを、"蟲"と呼ぶ。
蟲は誰にでも存在しえるものであり、誰もが常にその絶対的な起爆剤を胸に抱え、生きている。僕らはみな、「蟲籠」だ。
あるとき、そう、例えば人間が"人間的に死んでしまったとき"。
蟲はその死骸を喰らい、倍加的に増殖を始める。
そして、個々が身を増大させて、幾何級数的に膨張して――
蟲は死骸から溢れ、現実に姿を現す。
そうして形を為した蟲は、往々にして人を喰らうことが少なくない。
この段階を踏んで蟲に喰われ、虫に寄生されたモノを、人は<人蟲>と呼ぶ。
人蟲は蟲に寄生された人と言うより、人の形をした蟲に近いものになる。
さらにそれは特有の刺激臭某により、段階的に蟲を発生させ、決して止めることの出来ない半永久的な無限輪廻を創造する。
故に、鼠算式に拡がるそれを誰も止めることは出来ないと信じられていた。
あるとき、奇跡的に蟲からの脱出を試みることを成功した人が、行動を起こした。
蟲に対抗できるだけの力を結集した、小さなサークルのような集団。僕ら含む一部の人間は、それを<ライオット>と呼んでいる。
全国に数えるほどしかそれは存在しないが、彼らは確実に何かしらの蟲に対抗できる手段を持っている。
彼らは"蟲"に遭遇した人々を助けるために、ある者は遊ぶように、ある者は自らの命までもを削り、ある者は大切な何かを守るように、蟲と真っ向から対立する。
止めることの出来ない無限連鎖の中に、僕らは立ち尽くしている。
終わりが分かりきった時間の合間で、足掻き続ける。
こうして物語は、始まりを迎える。