二章 「蟲姫様の戯曲」
夜が更け、十二時を回って。
街から人の気配は消え、世界が眠りに落ちた頃。
静まり返った家の中を少女は歩いた。
誰にも気付かれないように、足音を殺しながら。
ひた。
ひた。
暑く蒸した家の中に、湿った足跡が連なる。
それはうっすらと残り、余すところなく行動の形跡を表した。
気付かずに少女は足を進め、台所へ急いだ。
ゆっくりと、静かに急いだ。
ひた。
ひた。
暑さのために流れた、汗なのか。
"これから起こす行動のために流れた、冷や汗"なのか。
つうと額を流れ落ち、その汗で湿ったで寝巻きに含まれた。
握り締めた手には、カッターナイフが握られていた。
小さな手には不釣合いな、大き目の黄色いカッター。
少女は手の方をちらりと見ると、目を閉じた。
そうだ。
これでいい。
これは悪いことではない。
単なる…単なる日課に過ぎないのだ。
ほんの少し、いつもとは違う。
私は何も悪いことはしていない。
私は悪いことをする人間ではない。
私はいい子だ。
私はいい子だ。
少女はそう自分を宥め、口元を引き締めた。
その顔からは、いつもの少女の様子は想像できなかった。
数分かけて台所までたどり着くと、足を止めた。
そして、ゆっくりと。ゆっくりと、深呼吸をした。
冷静になった少女は冷蔵庫のあるほうへ進み、中ほどの取っ手を引いた。
そこは、冷凍庫だった。
冷えた空気がもうと舞い上がり、顔を覆った。
少女は中も見ずに弄ると、慣れた手つきで"何か"を取り出した。
"人の、腕だった"。
一瞬血の気が引いたが、すぐに慣れた。
嗅覚が聞かなくなるほど、おぞましい臭いがした。
腐乱臭がさらにひどくなったような、そんな臭いがした。
生魚とは違う、もっと違う、「本当の生の臭い」。
腕はつい先日まで生きていたものとは思えないほど静かで、冷たかった。
少女はそれに、頬をすり寄せた。
冷たくて。
異臭を放っていて。
気持ち悪い。
だけど触らずにはいられない。
愛さずにはいられない。
それを静かにまな板の上におくと、少女はカッターの刃を、突き出した。
ちきちきちき。
特有の音が無音の家の中に響いて、消える。
近くににぶら下がってあった紐を引くと小さな電灯が点いて、ぼうと刃を照らした。
刃には、古い血が黒くこびりついていた。
大丈夫。
大丈夫。
私は正しい。
私は、悪くない。
再び、自分を宥めた。
何度も、何度も、謝るようにして。
少女は、その腕をまな板の上においた。
青白く照らされた腕が、改めてそれは死んだものと言うことを感じさせる。
少女はゆっくりと、カッターの刃を、腕に近づけた。
あと十センチ。
あと五センチ。
あと一センチ。
そして。
ずぶり。
刃は突っ張った皮を引き裂いて、肉の中にもぐりこんだ。
さっきまで凍っていたものとは思えないほど、新鮮で気持ち良い風合いだった。
丁度それは、ウインナーにフォークを突き刺した。そんな感触だった。
少女は薄ら笑みを浮かべると、作業を続行した。
カッターの刃は、更に奥まで掘り進み、固い感触に押し当たった。
少女はそれを確かめると、ゆっくりとカッターを、今度は横へ引いた。
ぶちぶちぶちぶちぶち。
肉や神経やらを引き裂く音が、小さく聞こえた。
時折奥の骨が上げるごりっとした感触も、少女の五感を刺激した。
少女の目は、次第に興奮していくように見えた。
手先にはますます力が入って、勢いよく腕を切り裂いた。
「えへへ………」
少女は奇妙な笑いを浮かべた。
傍から見れば、至って普通の笑顔に過ぎないかもしれない。
…しかし少女の行動と共に見ると、残酷極まりなかった。
少女は腕から、カッターを抜き取った。
カッターは何故か、鮮血で覆われていた。
そして次の瞬間。
その死んであった腕から、多量の血が流れ出た。
まるで、ついさっき切り取られたかのように。
――やがて血液だけではなく、腕までもが、息を吹き返した。
指が死にかけた魚のようにピクピクと動き、ありえない方向へ曲がった。
その動きは段々と大きくなり、まな板の上で白い腕が暴れまわった。
少女は、それを見て微笑んだ。
そして腕の傷の中に、ゆっくりと手を差し入れた。
にちゃ。
不快な音と共に、少女の小さな手は腕の中へ、埋まった。
少女は優しい顔をしていた。
生まれて初めて笑ったような、純真無垢な笑みを浮かべて。
…暫くしてその中から、少女の手がぬうと戻ってきた。
脂と血に塗れた手には、小さな「何か」が握られていた。
少女はそれを確かめると、手の内のものをゆっくりと床に置いた。
「さぁ…行っておいで。
私の可愛い可愛い、仲間たち」
少女がそう呟くと、床のそれはびくんと動き出し、這うように床の上を進んでいった。
まるで虫の様なその生き物は、真っ直ぐに玄関を目指しているようだった。
少女はそれを察すると、先回りして、玄関の鍵を開けた。
扉の向こうには、風も何もない、無音の夜闇があった。
玄関近くまで「それ」がやってきたのを確かめると、少女は扉を開けた。
途端。
さっきまで這うように進んでいた生き物は、飛ぶように扉の外の世界に吸い込まれた。
何物かによって、吸い込まれていないにもかかわらず。
少女はその行方をしばし目で追うと、扉を閉めた。
音のない世界に、ただひとり残された。
少女は何事もなかったかのように台所へ戻った。
それまであった腕は、もうなかった。
残っていたのは、血が滴る、カッターだけ。
少女はカッターの刃を収めて、ポケットの中へ仕舞った。
そして小さく、誰にも聞こえないように言葉を漏らした。
――私の可愛い仲間たち。今度はどんなお友達を連れてきてくれるの?
そして、少女は自室を足を戻した。
五月の終わり、深夜十二時過ぎ。
ちょうど「あの事件」が起こってから、二週間が経とうとしていた頃だった。