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 はるか遠くに夕陽は落ち、空の色は薄い紫のヴェールをかぶせたかのように変わっていた。街灯がまばらに明かりを灯すその道で、彼女はとうとう決意した。
 左肩にかけたバッグを道端に下ろすと、今度は右肩に担いでいた長い棒のような物の先端を地面に落とし、それを包んだ袋をするり、と抜き取った。
 下端を地面に付き、縦に起こしたその棒は、身長一六〇センチの彼女を見下ろす高さになる。実際にはところどころ曲線を描いたその棒の光沢ある黒が、近くの街灯の光を受けてわずかに輝いた。
誰の家かは判らないが、目の前の壁を拝借することにする。
「ちょっとお借りしますよー…」
小声でそうつぶやくと、彼女はコンクリートブロックの継ぎ目に棒の上先端を当て、中ほどに巻かれた布に左手をかぶせる。そこを支えに、下部を掴んだ右手で棒全体を思いっきりしならせた。カーボン製のその棒が、小さくきぃ、という音を立てる。
下端、わずかに細くなったその部分に、上部から垂れ下がる紐についた輪っかを引っ掛けると、力を込めた腕をゆっくりと放す。
ここまでわずかに六秒。慣れた手つきですばやく形作られたそれは、まるで半月のように姿を変えた。
強靭なカーボンをしならせたまま固定しているその紐は、ただの紐ではない。数本の麻で編まれた弦。
彼女が手にしたのは、弓。和弓である。左手に持って見るその形は、上弦の月そのものだった。
先を歩く彼に気づかれた様子はない。彼女はもう一度、辺りにひと気がないのを確認すると、バッグからグローブのようなものを取り出し、すばやく腕にはめた。?(ゆがけ)と呼ばれる、弓道用の籠手である。
これも数秒で済ませると、最後にバッグからはみ出た数本の赤い棒の中から一本を取り出した。
今度のこれは直線。弓とセットで持っていれば誰もがその正体に気づくだろう。そう、矢である。一般的なそれと多少異なる点といえば、尾部に三枚、等間隔に並んだ矢羽の形だろうか。
通常は一枚一枚が横に広い平行四辺形をしているのに対して、彼女の持つそれは、ちょうど魚の尾を半分に切ったような形をしていた。矢羽が二枚同時に見える角度からならば、それこそ魚の尾に見えるだろう。あるいは、その赤い色と相まって、もっと別の記号のようにも見えるかもしれない。
そう例えば、ハートの形に。
 左足を先を歩く彼に向け、右足はその反対に。道の両端の壁と共に、漢字の三を書くように平行に立つ。
足を肩幅よりやや大きく開き、左手に握った弓に矢を番(つが)えると、上半身がぶれないように両足にぐっ、と力を込めた。
 先を行く彼に顔を向けると、その距離はおよそ二〇メートル。さすがに普段狙う的よりは大きいが、暗さと相まってその姿は余計小さく見えた。
 弦に?をはめた右手を添え、軽く力を込める。ふっ、と息をはき出し、ゆっくりと弓を打起(うちお)こした。
 二二メートル。
 腕を高く掲げた姿勢から弓を引く。左手は握った弓を、右手は肘を基点にして。
 弓がしなる。矢が地面と平行にゆっくりと下がり、彼女の唇の高さと重なった。
 二四メートル。
 弓を押す左手、彼の姿を捉え、狙いを定める。
(あせるな…)
 そう自分に言い聞かせ、たっぷりと、心の中で五秒を数える。
(一…、二…、三…、四…、五…!)
 弦を支えていた右手が離れ、びんっ、と鋭い音が空気を震わせた。
 離れた右手は真っ直ぐに体の真後ろへ。体全体が大の字を作る。
 弓から解き放たれた矢は、二八メートルの距離を駆け抜け一直線に彼に迫る。
(完璧っ!)
 だが、その予想は裏切られた。
 一秒にも満たないその時間。突如彼の真後ろに現れた小さな影が、時速百数十キロになろうという矢の運動を妨げた。
 影は一度だけ後ろを振り返り、背後で起こったことになどまるで気付かず歩いていく彼を見送ると、今度は彼女に向ってゆっくりと距離を詰めてきた。
 小さな影は彼女の目の前で立ち止まる。小柄な女性。彼女と同じ、ブレザーの制服を身につけていた。
 久慈(くじ)ひよりと武土岐美陽(むときみはる)の、これが最初の出会いだった。


一.

(あと一本…)
 久慈ひよりは緊張していた。
 震えの分かるその手で、最後の矢を弓に番える。
 直後、ぱんっ、という音が響いて、男子部員から「よしっ!」と掛け声がかかる。
 彼女の後ろ、五番立ちの女子部員が三本目の矢を的中させたのだ。
 弓道。
 高校から始めたこの部活動も、もう半年続けていることになる。
 四本の矢を持ち、二八メートル先にある直径三六センチの的に対する的中数を競う。
 単純なように聞こえるが、その実これがなかなか難しい。体の動きと心の動きをコントロールし、ただ一心に、的にのみ集中する。これを四度。正確に繰り返すことで、初めて四本の矢は正確に的を射抜くことができる。
 それが皆中(かいちゅう)。
 わたしもそろそろ…!
 そんな思いがひよりにはあった。
 ひよりはまだこの皆中を遂げたことが一度もなかった。
 一番、二番の二人が続けて的を外す。安土(あづち)に刺さる矢がとすん、と小さな音を立てた。
 まだまだ同級生の中には二本的中させるのがやっと、という人もいる。決してひよりが周りに遅れをとっているわけではない。それでも彼女が今日の皆中にこだわるのには、理由があった。
 四本目の矢を番え、右手を弦に添える。的に顔を向ける直前、矢取(やと)り道(みち)に並んだ男子部員の中の一人と目が合った、ような気がした。
 途端、ひよりの胸はどくん、と跳ね上がる。
(集中しろー、ひよりー…)
 自分に言い聞かせる。
 三番立ちの部員が放った矢が、射場に再び高く音を響かせる。「よしっ!」の掛け声に続いて退場していく彼女の袴の裾を視界の端に見送って、ひよりはふっ、と息を吐きだした。
 視界が徐々に狭くなり、正面の的だけがやけに鮮明に、その中に浮き上がった。

 更衣室で着替えを終え、帰り支度を整えると、バッグと弓を手にしてひよりは立ち上がった。
「じゃ、また明日!」
 同級生の部員達に元気いっぱいにそう告げると、「またねー」「おつかれー」といった声を背中にうけながら、更衣室を後にした。
 ひよりの足取りは軽い。大きく結ったポニーテールも、まさに仔馬がはしゃいでいるかのように揺れていた。
 ローファーに履き替えて学校を出る。あたりが暗いのは日が落ちるのが早くなってきたからだけではない。今日の部活は普段よりも時間が長かったためである。
 いつもならば見かける生徒の姿がほとんどない。聞こえるものといえば、毎日八時過ぎまで活動をしている野球部の、バッティングの音くらいだった。
 周囲に誰もいないのを確かめると、ひよりは無意識に大股を開いて思いっきりガッツポーズを作った。
「いよっしゃー!」
 普段は大きくぱっちりと開かれたその目が、力強く閉じられる。今日の成果はひよりにとって、それくらい喜ぶべき出来事だったのだ。それというのも―
「よかったね、ひよりちゃん」
 横から声を掛けられて、ひよりは声のした方に顔を向けた。男子生徒用のブレザーの胸ポケットに、ひよりの通う高校の校章がしつらえてある。当然他校の生徒ではない。ゆっくりと顔を上げた先には、恐らく他の誰よりもこの姿を見られたくない相手の顔があった。
「い、戌亥(いぬい)先輩!?」
 スカートの裾を手で押さえながら、足を閉じて姿勢を伸ばす。やや見上げる位置にあったその顔が、ほとんど同じ高さになる。
 細身の男子生徒―戌亥洋(いぬいよう)―が、にっこりと笑った。メガネから覗く目が優しいカーブを描く。
「いや、あのその、これはですね!」
「わかるわかる。僕も始めて皆中したときは興奮したもん」
「あーう…」
 まともに洋の顔を見られず、ひよりは確実に赤面していると分かるくらい熱くなった顔を俯けた。
「ところでひよりちゃん、今日は一人?」
 そんなひよりの様子になど全く気付かない様子で、洋は彼女に声をかけた。
「え、は、はい、大体部活帰りはわたし一人ですけど…」
 弓道部の女子はほとんどが隣町からの電車通学で、地元出身のひよりとは帰り道が逆になる。ときどき小中学校からの友人と一緒に帰る以外は、大体が一人だった。
 赤面に気付かれないように上目づかいで洋の顔を覗うと、彼はまたにっこりと笑った。
「そっか。じゃあちょっと暗くなっちゃったし、送るよ」
「う、うええええええええ!?」
 これには驚きのあまり、赤面しているのも忘れて洋に向き合う。普段からぱっちりと大きな目が、余計に大きく見開かれた。
「あ、迷惑だったかな…?」
「ととととと、とんでもなす!」
「なす?」
「とんでもないです…」
 あまりの急展開ぶりに頭が付いていかないのだった。
 洋は三度(みたび)にっこりと笑い、
「じゃあ、自転車取ってくるから、校門のところで待ってて」
そう言うと、小走りに駐輪場の方に向かって行った。

 これは夢なんじゃないだろうか。さっきの戌亥先輩はわたしが作り出した妄想なんじゃないだろうか。いつまで待ってても来ないんじゃないだろうか。
 そんなことを考えながら、ひよりは校門の前に立って、ほっぺたをつねってみた。もう五度目だが、何度やっても痛い。痛いものは痛い。
 顔の筋肉が緩むのを自覚する。しかしそれは、後ろから聞こえたベルの音で再び緊張した。
「ごめんね、周りの自転車が倒れちゃってて」
「い、いえ」
 それ以上は言わなかったが、それを一台一台直してから来たのだろう。洋はそういう人物だということをひよりは知っている。

 ひよりが洋(よう)に初めて出会ったのは四月。部活動見学で彼の射を見たのが最初だった。
 桜が散る中、真っ直ぐに的を見据えるその姿。決して長身ではないものの、しゃん、と伸びた背筋が、細身の身体と相まって、彼の姿を大きく見せていた。
 驚いたのは彼の放つ矢の早さ。メガネ越しに的を睨むその目がきゅっ、と細くなったかと思うと、次の瞬間には、ぱぁん!という音が射場に響き渡っていた。
 矢を取りに来た洋に、ひよりは興奮のあまり声を掛けていた。
「あの、すごかったです!」
 その一言に、一瞬ぽかん、とした後、にっこりと笑って洋は言った。
「じゃあ、君もぜひ、一緒に弓道やろう」
 このときの笑顔で、ひよりは恋に落ちたのだった。
「弓道!?」
 中学時代、苦楽を共にしたバスケ部の友人は「なんで弓道?」という目でひよりを眺めた。
「そう、弓道」
「あんた珍しいからちょっと見てみるだけって言ってたじゃん」
「いやー、お母さんにね、あんたは落ち着きがないから、これやってみなさいって言われてたのよー」
 半分は本当で半分は嘘である。
 母にそういうことを言われたのは事実だが、弓道部に入るつもりなんて全くなかった。普段目にする機会もないので、ちょっと覗いてみようと思っただけだったのだ。そこでひよりは、洋に出会った。
「あんたと一緒なら結構いいとこまでいけると思うんだけどなぁ」
「うーんとさ、ほら、弓道ってなんだかおしとやかーになれそうじゃない?大和撫子っていうか」
「何を今さら大和撫子なのよっ!」
 そう言って彼女はひよりの二の腕と太腿に手を伸ばす。
「このがっちがちの筋肉を、中学時代苦労して作り上げたこの筋肉を無駄にするつもりかぁ!」
「うわひゃひゃひゃ、やめてー!」
 椅子から転げ落ちるひよりに覆いかぶさる友人。
 昼休みの教室で繰り広げられたこの光景は、男子生徒一同にとってさぞかし目に毒だったことだろう。
 下心が無いといえば当然嘘になるが、弓道という競技に純粋に魅力を感じたのも確かだった。静寂が支配する空間に大きく響き渡る的中の音。自分もあれを感じてみたいと、本気で思い始めていた。

「じゃあ、行こうか」
「す、すみません、遠回りになっちゃうのに…」
 洋と自転車を挟んで隣り合わせになりながら歩く。出来ることなら反対側を歩きたかったが、今からそうするのはいささか不自然だし、実際にそうなったらそれはそれで、あまりの近さにどうにかなってしまう自分を想像するのも容易だったので、そのままの位置を保ってひよりは歩き続けた。
「初皆中、おめでとう」
 何か話さないと。そんなことを考えていた矢先だったので、ひよりは返答に詰まってしまった。
「は、はい!戌亥先輩のおかげです…!」
「そんなことないよ。ひよりちゃんが頑張ったから、今日の結果が出たんだよ」
 それは違う。三年生が引退し、洋たち二年生が部の中心になってからも、彼が自分の練習の合間をぬいながら教えてくれたおかげであることは間違いない。個人的な贔屓目もあるかもしれないが、洋の指導は他の先輩たちよりも的確だったとひよりは思う。
「それにしても、まさか射会であれを出すなんて。やっぱりひよりちゃんはすごいよ」
 あまりに褒められるので、「いやー、そんな」なんて言いながらも、俯いた顔をにやけさせてしまうひよりだった。
 射会。月に一度行われる、部内での公式記録会。ひよりは今日のこの日にかけていた。
翌週末に迫った新人戦県予選。ひよりの所属する弓道部は、例年九月の地区予選は通過するものの、県予選での結果は芳しくなかったらしい。
コーチの佐藤述法(さとうのぶのり)が、今年こそはと燃えている。どうやら今回の射会には、改めて県予選のメンバーを選抜する目的があるようだった。
県予選に参加するメンバーは泊りがけでの遠征となる。ひよりの目的は、これだった。
「でもこれで、ひよりちゃんもメンバー入りかもしれないね」
「そうだといいんですけど」
 ひよりは小さくため息をついた。
今日の結果を見ると、二年生女子のメンバーで皆中者は一一人中三人。全員が地区予選でもメンバー入りをしている、安定感のある三人である。
 一年生での皆中者はひより一人だけ。とはいえ、三中者は一、二年とも数名おり、平均した安定感も含めて、今日だけの結果では何とも言えないというのが実情だった。
「少なくとも、補欠メンバーには入れるんじゃないかな。僕も去年、連れて行ってもらったから」
 五人ひと組で行われる弓道の公式大会。一人四射を二回、つまり合計四〇射の合計的中数を競うのが一般的なルールである。一度目で調子の芳しくなかったメンバーの交代要員として、例年二、三名が補欠として同伴することになっていた。ひよりとしては、そのポジションでももちろん構わないのだが、もう一つ欲を言えば出場したいという気持ちもある
「でも、戌亥先輩は去年レギュラーとして出場したって聞きました」
「運が良かったんだよ。たまたま先輩が前日調子を崩しちゃってね」
「それで、七中ですよね。やっぱり凄いですよ!」
 八射七中。昨年のメンバーの中で上級生に混ざりながらこの記録を出した話は、部内では有名である。
「そんなに褒められてもなぁ。ほんとたまたまだったんだから。怖いもの知らずだったんだね。きっと」
 あくまで控えめにそう言う洋。そんなところもひよりは好きだった。
 今日の結果を見ても、洋のレギュラー入りは間違いない。一緒に大会に出場して、一緒にいい結果を出して、そして、そのときこそひよりは洋に告白しようと考えていたのである。
 もちろん、今までにも幾度となく告白を考えたことはあった。
 洋は控えめに言っても格好いい部類に入る。すらっ、と伸びた背筋は、同年代の男子と比べればやや低いはずの身長を補って見せるし、細く長い手足は男性のものとは思えないくらいきれいだった。かと言って細すぎるわけでもなく、適度に筋肉の付いた健康的な身体である。
 そして何よりも、その甘いマスク。にっこりと笑うその優しい笑顔に、ひよりは一瞬で恋に落ちたのだから。
 だが、断固一目惚れではないと、ひよりは考える。
部活動を共にする中で、人となりを見た上での結論として、彼は好意を寄せるに値する人物だと判断した。というのがひよりの見解だ。
本当は一目惚れなのだけれど。
 当然、彼のことを好きな女子は多い。同級生の中からも聞こえてくるし、二年生の中にももちろんいる。ひよりのクラスにも、まったく接点がないのにも関わらず彼に好意を抱く生徒がいるくらいだ。
 そんなライバルひしめく中、なぜ今までひよりが告白をためらってきたかといえば、一つは自分の身体に関するコンプレックス。
中学から始めたバスケのおかげで、ひよりの身体は周りの女子に比べると、がっしりしていた。腕も足も、少し力を込めれば筋肉が浮き出てくるくらいに。
 とは言え、バランスが悪いかといえば決してそんなことはなく、他者が見る分にはひよりの外見はいたって健康的だ。同じくらいの体型の女性でも、ひよりくらい筋肉がなければおそらく細すぎて不健康に映るだろう。
ついでに言えば、彼女は美人の部類に入る。目は大きくぱっちりと開かれ、鼻立ちも良い。笑ったときに見せる顔も元気一杯といった感じ。大きく結ったポニーテールに、軽く揃えておろした前髪も非常にスポーティな印象を抱かせる。化粧気が無いのを差し引いても、ひよりは十分に魅力的な外見をしていると言えた。
 ただ一つ、好みの問題もあるかもしれないが、胸のふくらみは同年代の女性と比べるとやや寂しい。いや、かなり寂しい。これに関してはひより本人はコンプレックスとは感じていなかった。ただ、積極的に考えようとしていなかっただけ、とも言えるが。
告白をためらってきたもう一つの原因、それは数多聞こえてくる玉砕報告。
 ちらり、と横目で覗った洋の横顔。この人の好きな人は誰なんだろうか。
 視線に気づいたらしい洋が顔を向ける気配を感じ取って、ひよりは慌てて俯く。
 あくまで噂ではあるが、今までに二〇人以上の女子生徒が洋に告白し、振られているらしい。その際のお断りの文句は決まって「ごめん、好きな人がいるんだ」だとか。
 はたして、洋が好意を寄せる人物というのが部内の人間なのか、彼のクラスメイトなのか、あるいはひよりには知る由もない、校外での交友関係の中にいるのか。
 だけど。
 もう一度、今度こそこっそりと洋の横顔を盗み見る。
 帰り道が反対なのにも関わらず、わたしをわざわざ送ってくれるのはどうしてだろう。ひょっとして…。
 そんなことを考える程度には、ひよりの乙女心も敏感だった。
(まさか、戌亥先輩の好きな人って…、わたし!?)
 知らず知らずのうちに顔がにやけ、洋の視線に気づくのが遅れてしまう。
「よかったね」
「え、へ!?」
「すごくうれしそうな顔してるから」
 そういってまた、洋はにっこりと笑う。
本当は違うことを考えていたのだけれど。
「県大会、一緒に頑張ろうね」
 一緒に…。
「はい!」
 ひよりは考える。
(これって、やっぱりもしかすると、もしかするんじゃ…)
 大会出場、互いにいい結果を残して深まる、二人の仲…。
ぽわーん、といった効果音とともに、そんなことを思い描いていたときだった。
「ひよりちゃん」
 後ろから声を掛けられて、慌てて振り向く。いつ立ち止まったのか、洋はひよりの五歩ほど後ろにいた。
「は、はい?」
 ひよりが立ち止まったすぐ横まで、洋は自転車を押して再び近づくと、ひよりの目を覗き込む。
 いつもの優しい目であるものの、そこに少しの緊張感を感じ取って、ひよりは洋を見返した。
「その、ずっとひよりちゃんに聞きたいことがあって…」
 洋にしては珍しく歯切れの悪いその口ぶりを疑問に思いながらも、ひよりの胸は高鳴った。
「き、聞きたいことって?」
「うん、その…」
 駅方面にはビルがあったり大学があったりと栄えているが、正反対のこの辺りは人通りのほとんどない住宅街だ。ぽつぽつ、と立つ街灯の光が、わずかに二人を照らしていた。
 人気もなく告白には絶好のシチュエーションとも言える。
「えっと、何から話したらいいか…」
(も、もしかして、ひよりちゃん、好きな人いる?とか!?)
 その通りではなかったが、洋の発した言葉は、この雰囲気であればおよそ同じ意味にとれる内容だった。
「僕ね、好きな人がいるんだけど…。ああ、だめだねこれじゃ。もっとはっきり言わないと…」
(うっわ…。え、ひょっとして、君なんだ、ひよりちゃん!?)
 次に続く言葉を心の中で考えて、興奮した挙句、ひよりの口から飛び出したのは―
「わたしも!わたしも好きですっ!戌亥先輩!!」
 ―閑静な住宅街に響き渡る愛の告白。
 ずいぶん大声で叫んじゃったなぁ、なんてことを考えて、ひよりは固く閉じた目をゆっくりと開いた。
 驚いた顔の洋。
(先に言わせて、ごめんね。いや、僕から言おうと思ってたのに?)
 そう言ってにっこりと笑う洋の顔を予想して、ひよりは彼の言葉を待った。
「ごめん…」
 少しの沈黙の後、ぽつり、とそう漏らした洋の口から、「先に言わせて」とは続かなかった。
「その、そんなつもりじゃなくて…。違うな、えっと…」
 慌てる洋の姿に、ようやくひよりは何が起こったのか思い至った。
とたんに顔が熱くなる。
「だから、なんていうかその…」
戌亥先輩の好きな人は、わたしじゃなかった…。
「ご、ごめんなさいっ…!」
 まともに洋の顔が見られなくなって、ひよりは駆け出した。 
「ひよりちゃん!」
 後ろから掛けられた声には応じず、走る。洋が追いかけてくる様子はなかった。

 全力疾走で角を三つ曲がると、ひよりはようやく足を止め、ゆっくりと後ろを振り返った。
 まばらな街灯の光が照らすのは、コンクリートの壁だけだった。
 立ち止まると、今まで押し込められていた想いが急に沸き上がってくる。悲しいのが八割、恥ずかしいのが二割といったところだろうか。
「なんであんなこと言っちゃったんだよぅ…」
 昔からそそっかしいとは言われていたが、まさかこんなときにまでやらかしてしまうなんて…。
 大きくため息をついて、肩を落とす。六か月の想いの末が、こんな間抜けな結果に終わってしまった。
 今はとにかく何も考えたくなかった。
(ご飯食べてお風呂入ってさっさと寝よう…)
 そんなことを考えながら振り返ろうとしたときだった。
「お嬢さん」
 背後から小さく声が聞こえ、予定していた速度の三倍ほどのスピードでひよりは後ろを振り返った。
「誰…?」
 一見人の姿はない。
「ここ、ここ」
声のする方を目を凝らしてよく見ると、ちょうど街灯の光の切れ目になった電柱の脇に、声の主はいた。
黒いフードのようなものを全身にかぶっていて、顔どころか体型さえも判らない。声は作っているような雰囲気ではあったが、四〇~五〇代くらいの男性のようである。
男は小さな机に腕を組んで座っていた。水晶玉や竹の棒が刺さった筒なんかが置いてあったなら、占い師、易者の類にも見えただろう。だが、それを差し引いても男の姿は、こんな人通りの少ない住宅街にはあまりにも不似合いだった。
距離はおよそ一〇メートル、いきなり襲ってきたとしても、あそこから男が立ち上がる間に逃げることは出来る。
 そんなことを考えながら、ゆっくりと一歩足を後退させると、男は再び声を掛けてきた。
「大丈夫。何もしない」
 その声は幾分さっきよりも大きく、害意がないことをひよりに伝えようとしているように聞き取れた。
「そこで、何してるんですか?」
 警戒は解かず、同じ位置からひよりは男に声をかけた。
「魔法が必要な人を、待ってるんだ」
「魔法?」
 頭のおかしい人なんだろうか。そんなことを考えた途端、男ははっきりとした物言いで、
「頭は大丈夫。正常だ」
 そう言った。
 ひよりは一瞬驚いたものの、少し考えて、
「普通、魔法がどうとかなんて、それもこんな道端にぽつーんと座ってる怪しいおじさんがいきなり言いだしたら、頭おかしい人なんだろうなって思いますよね」
 そうはっきりと告げる。
「うん、なかなか賢い」
 その言い方はどこか馬鹿にしているように聞こえた。
「それにお嬢ちゃんは勇気もある」
「勇気?」
「普通私の姿を見たら、とりあえずびっくりして逃げ出すか、大声を上げるってあたりが、まぁ大方の反応だね」
「それは、そうでしょうけど」
 害意の有無以前に、あまり話していて気持ちのいい相手ではない。ひよりはゆっくりと、なるべく距離を取りながら、男の前を通り過ぎようとした。
「ああちょっと待って」
 ちょうど男の正面に来た辺りで、再び声を掛けられる。
「周りくどいことはやめて正直に言おう」
 そう言って、男は顔を上げたようだった。こちらが見えているのかどうかわからないくらいに深くかぶったフードが、わずかに揺れる。
「私はね、君を待っていたんだよ」
 二.

 翌日の昼休み、ひよりは図書室にいた。
「魔法…、魔法…。あ」
 受験勉強中の三年生と思われる生徒たちで埋め尽くされた自習机の間を縫って、図書室でも最も奥の書架へ。厚みのある、やたらとほこりをかぶった辞典やらが棚を埋め尽くす中の一冊を、ひよりは手に取った。背表紙には「世界の魔術」。
 英語の辞書くらいの厚みと大きさのそれを棚から抜き取る。表紙には人の骨がぷかぷか浮かんだ血の入った大釜、なんておどろおどろしい絵を想像していたものの、実際は背表紙と同じタイトルだけが記された簡素なものだった。若干期待はずれな感を抱きつつ、ひよりは本棚の余った部分にその本を乗せると、中を開いた。
「うっわ…」
 ページの端が日焼けでひどく変色していた。古い本独特の鼻につくにおい。恐らく誰も借りたことなどないのではないか。試しに巻末の貸し出し記録を見てみると、案の定、返却日を示す日付のハンコは一つとして押されていなかった。
 ぱらぱら、と頭からページをめくる。
「うーん…」
 世界の魔術の起こりが事細かに記されたその内容は、残念ながらあのフードの男が話したものとは異なっていた。
 一通りめくりおえて、ぱたん、と閉じると、元あった場所に本を戻す。同じような本が他にないことを確認すると、図書室を後にすることにする。
 ドアを開き、ゆっくりと顔を出すと、廊下の左側を窺った。図書室は二階、二年生の教室があるフロアにある。さすがに今、洋と顔を合わせる気にはならなかった。
「ふう…」
 洋がいないことを確かめると、ひよりは後ろ手にドアを閉め、早足で歩き出した。すぐそこの階段を上がれば三階、一年生の教室のあるフロアである。
 一段目に足をかけようとしたそのとき、後ろからポニーテールを引っ張られ、出した足が空を切る。
「うわぁ!」
 後ろに倒れかけるのをなんとかバランスをとって防ぐと、振り返って自分を転倒させかけた人物を確かめる。それは予想通り、彼女のよく知る大男だった。
「よぅ」
「よぅ、じゃないわよっ」
 そう言って、大男が顔の横で広げた右手に、あいさつ代わりのパンチを打ち込む。
「とどかねーよ」
 男の身長は一八五センチ。斜め上に向かって突き出されたひよりのパンチは、男の手をわずかに掠めた。その様子はどこか、ネコじゃらしに向かって背伸びをするネコのようにも見える。
「普通髪引っ張る?」
「あいさつだろ、あいさつ」
「普通に声かけてよっ」
 ため息をつきながら、ひよりは上目づかいに大男―甲斐田(かいだ)数(かず)矢(や)―を睨みつけた。
 数矢は柔道部に所属している。中学から始めた柔道でめきめきと頭角を現し、三年生の全国大会で優勝。数多寄せられたスカウトの声も断って、「家から近いから」という理由でこの学校に入学した。
 昨年のインターハイこそ決勝で敗れ全国優勝は逃したものの、二年次の今年こそは全国制覇確実と囁かれる逸材である。
「どうした?なんか機嫌悪いみたいだけど」
「別に、なんでもないっ」
 そう言って階段に足をかけた。
「なんだよ、昔からの仲だろ。おにーさんに相談してみ?」
 三段目に足をかけたところで振り返る。ここまで上ってようやくひよりの目線は数矢よりわずかに高くなった。
 数矢(かずや)とは小学校からの付き合いである。学年は一つ上だが、家が近所であることが理由で、昔から彼らに混じってサッカーやら野球やら、およそ同年代の女の子らしくない遊びばかりしていた。自分に女らしさが足りないのは、九割九分ほどは彼に原因があるとひよりは考えている。
 あの頃は大して身長違わなかったのに。小学六年生の数矢と、五年生の自分が並んで立っている場面を思い返す。
 身長が一気に伸びて、横幅もがっしりとし始めたのは、中学に入ってから半年くらい経った頃だっただろうか。
「な?」
 その一言で我に返る。相変わらず正面には、数矢のたくましい顔があった。潔く刈り上げた坊主頭、存在感を主張する太い眉、そして膨れ上がった耳だこが、彼が柔道人であることを示していた。
 ほんの一瞬、彼と洋の顔が重なって、頭を振った。似ても似つかない。
 そのまま無視して教室に戻ろうとも考えたが、ふとさっきまで調べていたことが頭によぎった。
「ねぇ数矢さぁ、魔法って信じる?」
 「魔法?」とつぶやいてわずかに首をかしげた数矢の、次に続く言葉が判って、ひよりは彼より先に口を開いた。
「ああ大丈夫。頭は正常です」
「おー、すげぇ。心を読む魔法?」
 のんきな口調でそう言う数矢にもう一度ため息をつくと、今度こそひよりは階段を上る。
「おーい」
 後ろからかけられたその声を無視して踊り場を折り返す。手摺りの陰に数矢が消える瞬間、その表情はわずかに寂しそうに見えた。

 どれだけ考えないようにしても、部活動の時間はやってくる。
 洋と顔を合わせるのはつらいが、かと言って休んで帰ろうか、なんていうのも気が引けた。
 結局堂々巡りの末、ひよりは現在更衣室にいるのだった。
 通常の練習日には袴はつけない。ジャージでの活動である。普段なら手っ取り早く着替えて練習に向かうひよりだったが、今日ばかりはこれでもかという位ゆっくりである。
 だが、いつまでも更衣室にいるわけにもいかない。
「あー、あぁ…」
 壁の時計は着々と長針を滑らせていく。部活の始まる三分ほど前まで粘って、ようやくひよりは鉛のように重くなった腰を持ち上げた。
 弓道場はグラウンドの端にある。ゆっくり歩いてちょうど三分といったところだ。
 道場の玄関口にたどり着いたところで、中から男子部長の「礼拝!」という声が聞こえた。
 極力男子の方を見ないようにしながら、女子の列の一番後ろに腰を下ろす。
 いつも通りの動作で礼拝を行うと、開始前にコーチの佐藤述法(さとうのぶのり)から県予選のメンバー発表があった。
 男子のレギュラーはほぼいつも通りの構成だった。述法に名を呼ばれた部員の「はい!」という声が次々に上がる。
「それから、あれ、今日は休みか」
 述法はそう言って男子の方を見渡すと、
「ここもいつも通り、戌亥洋」
 そう言って、手にした手帳のページをめくった。
 ひよりが男子部員の方をこっそりと見ると、確かにその中に洋の姿は無かった。
 自然と大きく息が漏れる。ずいぶんと肩に力が入っていたことに気が付いた。
 洋がいないことに一度はほっ、としたものの、少しして別の考えに思い至る。
(わたしのせいかな…)
 あり得るだろうか。
 冷静に昨日のことを、帰り道での洋との会話を思い返してみる。
(わたしに、聞きたいことがある。そのあと、好きな人がいる、って言ってた…)
 それが自分のことで無かったのだとしたら、これは…。
 そうこれは、いわゆる恋愛相談というやつではないか。
 挙句にそれを自分のことと勘違いして、勢いに任せてあんなことを…。
 洋は優しいから、自分に勘違いをさせてしまったことを気にしているのだろうか。
「…じひより」
 後悔の気持ちが頭の中で渦を巻き、叫び出したい思いにかられたが、そこはなんとか持ちこたえることが出来た。
「久慈ひより」
「ちょっと…!」
 隣に座っていた女子部員に脇腹を肘で小突かれ、ひよりはびくっ、と身体を震わせた。
 見れば、男女を問わず、全部員の視線がひよりに集中していた。
「補欠、久慈ひより」
 察するに、何度か呼ばれていたのだろう。述法の口調が若干怒気をはらんでいた。
「は、はいっ!」
「以上。県予選はこのメンバーで戦っていく。それじゃあ練習始め」
 述法の言葉を合図に、三々五々「お願いします」と口にして練習に散っていく。斜め前に座っていた同級生が、「頑張ろうね」と声を掛けてきたので、とりあえず「うん」と答えた。聞いていなかったので分からないが、彼女も補欠に選ばれたのだろう。ひよりも立ち上がると、弓に弦を張り、道場の端に正座して?をつけた。
 すぐに立ち上がるつもりのはずが、いつの間にかさっきの続きを思考していた。
(わたしの知ってる人ってことよね)
 弓道部以外でひよりと洋の間に共通の知人は思い当たらない。とすれば当然。
 道場を見渡す。仲のいい先輩が射場に入るところだった。
(でも、二年生ならわたしじゃなくて同じ学年の人に相談するか)
 ひよりの見る限り、洋は誰とでも気さくに話をする。相談する相手なんていくらでもいるように思えた。
(じゃあ、やっぱり一年生?)
 矢取りに出て行った何人かの同級生を眺めていると、いきなり視界に影が落ちた。
「準備が出来たら練習を始めなさい」
 厳しい声。顔を上げると、述法が見下ろしていた。
「は、はい!すいません」
 慌てて立ちあがると、目線の高さはほとんど同じになった。
「補欠と言ったって気を抜いてもらったら困る。メンバーの調子が悪いときは、お前を使うこともあるんだからな」
「はい」
 もう一度そう返事をして、ひよりは立て掛けた弓を取りに、述法に背を向けた。
 彼と直接言葉を交わすのは、恐らく初めてではないだろうか。それというのも、一年生の指導は新人戦が終わるまでは上級生が担当することになっており、ひよりを含めた一年生は、述法の指導を直接受けたことがまだ無い。
 彼について知っていることと言えば、外見から判断できる情報がほとんどだった。
 年齢は五〇過ぎくらい。前側が禿げあがった白髪交じりの頭がそれを示しているが、背筋はいかにも武道家といった感じでぴん、と伸びている。頭から上を見なければ、相当若い印象を受けるのではないだろうか。顔はひとつひとつパーツがはっきりとしており、鼻の下にたくわえた髭と合わせると、ダンディという言葉がしっくりくる。シンプルだが高価なものだと分かるブラウンのスーツも、その印象を際立たせるのに一役買っていた。
 述法は指導の際には自らは射を行わない。もっぱら姿勢の矯正や、アドバイスである。そのためか、コーチをするときの格好は常にスーツであった。
 実のところ、述法の職業は謎である。もう何年もこの学校でコーチをしているらしいから、本人か学校に聞けば教えてもらえるのだろうが、誰もそうしていないというのが実情だった。
 その容貌から、曰くどこかの社長だとか、あるいは株で成功し、悠々自適の隠居生活を送っているのだとか、様々噂はあったが、誰ひとり、決して本人に尋ねることはないのだった。
 自分の矢を四本取ると、一礼して空いた射場に入る。
 補欠とは言え、念願のメンバー入りを果たしたというのに。
 昨日までの思いはどこかに消え、今は逆に、どうして自分を選んだのかという思いだった。
 一度頭を振り、その考えはわがままだと自分に言い聞かせる。
(集中…)
 目をつぶって息を吐き出す。
 選んでもらったからには、全力で。
 目を開き、的を睨んだ。
 視線を手元に。普段よりもゆっくりとした動作で、矢を番える。けれど、番えた矢の矢羽に目がいった瞬間、ひよりの思考は昨日あの男に見せられた、あの(・・)矢(・)へととんでいた。

「お嬢さん、振られたね」
「なっ…」
 今度こそひよりは男との距離を開ける。が、背後はコンクリートの壁。それ以上はどうしても離れようがない。
「すまない、積極的に見ようとして見たわけではないんだ。それは信じてくれるかな」
「じゃあ何?たまたま見ちゃいましたとでも言いたいわけ!」
 見知らぬ怪しい男にあの様子を見られていたかと思い、恥ずかしさをごまかすためにひよりは大声でまくし立てた。ついさっきまで洋の目の前で見せていた姿とはまるで別人である。
「とりあえずそのままでいい、聞いてくれるかな」
 男はそんなひよりの様子など意に介さずといった風に、ゆったりとした動作で懐から何かを取り出すと、それを机の上に乗せた。
 ひよりは壁に張り付いたまま、首だけを伸ばしてその物体を凝視する。およそ六メートルほどの距離から見たそれは、若干大きめのビー玉のように見えた。
「ビー玉?」
「まぁそんなものだ。今からそっちに飛ばすから、驚かないでくれよ」
「飛ばす?」
 ひよりの疑問の声から一拍置いて、その大きめのビー玉がふわり、と宙に浮きあがった。
「へ?」
 ひよりは一度右手の親指で両目を擦り、もう一度そちらを見る。徐々に大きくなるそれは、自分に近づいてきているためだと認識出来た。
「一応高いものだから、叩きつけたりはしないでくれよ」
 男がそう話す間に、すでにビー玉はひよりの手の届くところにあった。三〇センチほど前方で進行を止めたそれは、ちょうどひよりの目線の高さの辺りでぷかぷか、と浮かんでいた。首だけを動かして、左右からそれを眺める。ひよりを向いている側に、それこそちょうど一般的な大きさのビー玉が収まるくらいの窪みがある以外には、やはりなんの変哲もない、大きめのビー玉といった感じで、機械仕掛けなどは見当たらない。
「これが、魔法なの…?」
「理解が早くて助かる」
 男がそう言うと、ビー玉はまたぷかぷか、と男の方に戻っていき、彼の懐に姿を消した。
「これは、簡単に言えばカメラのようなものだ」
「カメラ?」
「そう、わたしの視神経をこいつにつなぎ、視界を飛ばすための道具だな」
 シシンケイを視神経と変換し終わるのに二秒ほどを要して、ひよりは理解した。
「つまり、それで覗いてたってわけね」
「さっきも言ったように―」
 男はひよりの言葉を予想していたかのように、彼女が言い終わる前に口を開く。
「―積極的に覗こうとしたわけではない。それは信じてくれ」
 初めて男の手が全身にかぶったフードから突き出される。両手をひよりに向けて広げているのは、最後まで話を聞いてくれという意図だろう。
 ひよりはその様子にとりあえず頷いた。
「ありがとう。少しだけ聞いてくれ。私は個人的に、とある研究をしていてね。ここまでのことからそれがなんの研究かは理解してくれると思うのだが」
 フードの奥から視線を向けられた気がして、ひよりは答える。
「魔法の研究…?」
「その通り」
 よほどうれしかったのか、男は先ほどよりも声のトーンを上げて続ける。
「だがそう、魔法なんて言っても、大部分は科学の力で代用可能なものがほとんどだ。たとえばお嬢さん、魔法というと、どういったものを思い浮かべる?」
「えっと…」
 視線を斜め上に送って、ひよりは自分の中の魔法と呼ばれるイメージを呼び起こす。
「火を出す、とか」
「そう!」
 いきなり男が立ちあがったので、ひよりは反射的に体を後ろに下げる。だが、相変わらずそれ以上は下がりようがない。
「ああ失礼、大丈夫。何も危害を加えるつもりはないからね」
 男がゆっくりと座りなおすのを見て、ひよりはわずかに緊張を解いた。
「お嬢さんの言う『火をつける』確かにこれをするための魔法はある。だがね」
 そう言って男が懐から取り出したのは、ライターだった。
「これ、五〇円」
 ひよりはうなずく。
「魔力を使用して同じ用途の道具を作ろうと思ったら、そうだな、一万円くらいだろうか」
「一万!?」
 思わず身を乗り出して訪ねたひよりだったが、慌てて身体を壁に押し付けなおす。
「そう。ああ今のに付け加えてだが、魔法というのはマンガのように指先からぽんと出せるようなモノではない。そこは誤解のないように言っておくよ。私が研究しているのは、人間の体の中から特殊な力を抽出し、それをもとに、様々な現象を起こす事の出来る道具を作ること。この特殊な力と言うのが、私が便宜上、「魔力」と呼んでいるものだ。まだ一般的な呼称のない研究だからね」
 上機嫌な上に早口で話すものだから、男の言うことをすべて聞き取れたわけではないが、おおよそ言いたいことは理解できた。
「えーと、つまり、厳密に言えば物語に出てくるような魔法とは違うってこと?」
「まぁ、そうだな」
「で、火をつけるだけの道具で一万円もする」
「現状は量産が出来ないからね。作るための手間を考えると、おおよそそのくらいということだ」
「ふーん」
「ではなぜそんな研究を私はしていると思う?」
 ひよりはわずかに首を傾げ、「さぁ」と答えた。
 男は気を悪くするでもなく、さらに饒舌になって続ける。
「私はね、科学では成せないことを、魔法で成し遂げようと思っているのだよ」
「はぁ」
 次の言葉、「それはどんなこと?」をひよりが口にする前に、男は自らその答えを口にした。
「その中の一つが、人の心を動かすこと」
「心を動かす?」
 ひよりのその呟きは耳に入っていない様子で、男はさらに続ける。
「古来から人は様々な手段で異性の心をつかもうとしてきた。媚薬、なんて言葉を聞いたことがあるだろう?」
「え、うん」
 意中の人に飲ませればその心をつかむことが出来るという薬のことだろう。どことなくいかがわしい雰囲気の言葉である。
「あれも実際のところまったくの眉唾というわけではないらしいがね、催淫効果のある野草やらの影響で、摂取すると後遺症が残った例もあるらしい。飲ませた相手への刷り込みというのだろうか、その女性の後について歩くだけしかできなくなってしまった男の話があったな。果たしてそれが幸せだったのかどうか…」
 男の話がやけにリアルで、ひよりは背筋が寒くなるのを感じた。
自分が飲ませた薬の影響で、洋がそうなってしまうところを想像する。目をぎゅっ、とつぶって思い切り首を振った。
「ま、それは置いておいて、私が研究しているのは、他者への好意、つまり好きだという想いを魔力として抽出し、それを込めることで相手の心に作用させる。そういうものだ」
 少し考えて、ひよりは思い至る。
「ってことは、やっぱり目的があって覗いてたんじゃないのっ!」
「ち、違う違う!他にもいくつか研究中のモノがあるんだ。お嬢さんが彼に振られたシーンを目にしたのはあくまでたまたまであってだな」
「振られたって言うなあっ!」
「ああすまん!とにかく、研究の中のあくまで一つ。これが役に立つんじゃないかと思って、お嬢さんを待っていたわけだ。いいか、断じて覗きたくて覗いたわけじゃない。そこは理解してもらいたい」
 いかにも不服であるという顔で男をじとーっ、とにらんだ後で、ひよりはとりあえず頷いた。
「ありがとう、さてそこで相談なのだが」
 そう言って男は机の下から、細長い棒を取り出して机に乗せた。机の両端からはみ出るくらいの長さを持ったそれは、ただの棒ではなく、よく見ると端の方に飾りがついている。
「出来れば、少し近づいてもらった方が説明しやすいんだが」
「さっきみたいに浮かせてよこせばいいじゃない」
「ああ、さっきのあれはそういう用途で作ってあるからね。これは残念ながら無理。まぁ、そのまま聞いてもらっても問題はない」
 言われて、ひよりはためらいながらも二歩ほど男に近づいた。
「ありがとう、さて、見ての通りだがこれは」
 男が棒を右手で持ち上げた。先端を持ち、ひよりに全体が見えるように手首で回して見せる。
「矢?」
「その通り」
 街灯の明かりを受けて鈍く反射する赤。それは見なれたジュラルミンの輝きだった。
「でも」
 見なれた自分のそれとの違いを、ひよりはすぐに見つけ出す。
「それ、ハート?」
 指差した先、通常の矢でいうところの矢羽にあたる部分の形は、ハート型を半分にしたように見える。ただしその部分の色だけは、ハートから連想される赤ではなく、白だった。
 男のフードがわずかに揺れる。ひよりの問いに頷いたらしい。
「まさかとは思うけど、ハートの矢、ってこと…?」
「さすが、理解がある」
 さらに大きくフードが揺れる。満足げに頷いたらしい男を冷めた目で一瞥すると、ひよりはすたすた、と家の方向へ歩き出した。
「ああ、待った待った」
「ばっかじゃないの!よくもそんな子供だましに付き合わせて―」
 言いながら男の呼びかけに振り返ったひよりは、自分の方にまっすぐに飛んでくる物体を目にした。細長いそれは、ひよりのへその下あたりに命中―する直前、まるで体の中に入り込んだかのように先端から霧散した。
 顔を上げた瞬間、ひよりの心臓は高鳴った。
「あっ…」
なぜかは判らないのだが、ついさっき出会ったばかりの、それも顔も知らないこの男のことがたまらなく愛しいのだ。
 一歩、二歩、ゆっくりとひよりは男に距離を詰める。
「あの、わたし、どうしてか判らないんだけど、急にあなたのことが…」
「私で、いいのかい?」
「はい、良ければ、その、お顔を…」
 ゆっくりと、ひよりの両手が男のフードに伸びる。それをめくり上げようとした次の瞬間、ひよりははた、と動きを止めて目の前のフードを凝視する。
 三秒、沈黙があって―
「ぎゃあああああああああああ!」
 ―ほんの少し前までフードにかけようとしていた両手に全身の力を込めて、男の顔を押しだした。
 電柱に思い切り打ちつけた頭がごいん、という音をたてる。
「げふうっ!」
 殴打した部分を押さえながら、男は机に突っ伏した。
「な、な、な…」
 さっきの叫びで呼吸が荒い。肩を震わせたまま、ひよりは再び叫んだ。
「なんてことさせんのよっ!」
「い、いや、すまない…。百聞は一見に如かずと、言うだろう…」
 両手で患部を強く押さえながら、くぐもった声で男は言う。
「そういう問題かあっ!」
「す、すまない、だが今のは純粋に、君に効果のほどを知ってもらいたいがためにやったのであって、決してやましい気持ちはこれっぽっちも、ないんだ…」
 ひよりに向けた右手の親指と人差し指を使って「これっぽっち」を表現する。そこに一ミリも隙間が無いどころか、これでもかというくらい力の限り押しつけられていることに若干の不満を覚えないでもない。乙女心はかくも複雑である。とはいえ、ひよりはとりあえず落ち着きを取り戻した。
「効き目は分かったわ」
「そ、それは何より…」
 男はまだ左手で頭を押さえながら、机に突っ伏している。
「だけど、ホントに一瞬じゃない」
「それは、私が君のことを本気で好きなわけじゃないからだよ」
 言わんとすることは分かるのだが、その響きにはどうにも腹が立つ。その気持ちを押さえて、ひよりは男に問いかける。
「じゃあ、わたしが本気で好きな人に向かって使ったら?」
「効果のほどは保障しよう。一生、ラブラブだ」
「ら、らぶらぶ…」
 その響きに、ひよりの妄想はあれやこれやのピンクワールドを描き出す。未だ頭を押さえ続ける男をよそにして。
「お嬢さん、よだれよだれ…」
「うへ…?」
 言われて口の端を垂れるよだれを腕で拭うと、おほん、と咳払いをひとつして痴態を誤魔化し、ひよりはようやく頭を上げた男に向き直った。
「さてと、それじゃあ、久慈ひより」
「へ?」
 どうしてわたしの名前を?そう言い終わるより前に、男がどんどんと近づいてきた。

「久慈ひより!」
「はいぃっ!」
 顔の前に持ち上げた弓と弦の間に、いつの間にか述法の顔があった。その表情は穏やかとは言い難い。
「来なさい」
 どうやらずっとこの姿勢のまま固まっていたらしい。番えた一本目の矢を外して射場を出ると、述法の後に続いて道場の後ろ隅に移動する。ちらちら、と部員の視線が痛い。
 述法の前に立つと、自然と体が硬くなった。その視線は鋭く、当然叱責がくるものだとばかり思っていたひよりは、しかし次の一言が思いのほか優しい調子で掛けられたことに驚いた。
「何か、集中できない理由があるのかね?」
「へ?」
 ひとまずほっ、としたひよりだったが、まさかハートの矢のことを考えていましたとは言えず、曖昧に頷く。
 述法は一度目を閉じ、数秒ほど何かを考えていたようだ。目を開けるともう一度、鋭い視線をひよりに向けた。
「今日は二回、八本でいい。どれだけ時間をかけてもいいから、それだけは集中してこなしなさい」
 そう言って、背を向けた。

 一度目、三中。二度目、三中。八射六中。精神状態を鑑みるに、上々といったところではないだろうか。
 述法に言われた通り、とにかくじっくりと、そこだけは集中して射を行うことができた。
 ひよりは帰り道、そんなことを考えていた。
 あたりはすでに薄暗い。部活動終了から三〇分ほど時間が経っている。昨日とほぼ同じ時間だ。
 あの男が昨日別れ際に、「また明日、同じ時間にここにいる」そう言ったためである。教室で明日の課題をしながら時間をつぶし、学校を出た。
 ひよりは結局、昨日はあの矢を購入しなかった。
 一度冷静になった自分が、詐欺の可能性を考えたからだ。
 都合のいい部分を見せて買わせようとするなんて、いかにもよく聞く詐欺の手口ではないか。
 そこまで考えられる余裕が、あの状態の彼女にあったというのは驚くべきことであるが、とにかく、そういった理由で、彼女は矢の購入をためらった。
 結局、図書室にも男の言っていたような魔法の研究なんて内容のものは無く、依然として彼に対する疑問は残るのだが、やはり昨日のあの矢が起こした現象は確かなものだったと、改めてあの感覚を思い返し、そう考える自分もいる。
 その結果が、今に至るわけである。
 昨日は洋と歩いた道を、一人で歩く。何か別のことを考えていないと、また昨日のことを思い出してしまう。
 洋に告白して玉砕したあの場所は、もう目の前だった。
 そこを見ないようにして、ダッシュ。一つ目の角、二つ目の角、そして、三つ目の角を曲がる直前で、一度ストップ。
 いないんじゃないだろうか。
 そんなことを考えながら、勢いよく飛び出した。
 昨日と同じ電柱の脇に、黒い影。
 ゆっくりと、ひよりはその影に近づいた。影の方もひよりに気付いたらしく、全身にかぶったフードをわずかに揺らした。
「おお、お嬢さん、待ってたよ」
「どうも」
 三メートルほど距離を取って、影―フードの男―の前に立つ。
「図書室で調べてみたけど、全然だめ」
「そう、広く知られていない分、どうしても信用してもらうのに時間がかかる。それは私も承知しているよ」
「でも、買うことにした」
「ほう、それはまたどうして」
 男の目がフードの奥で光ったような気がした。
 このまま洋と気まずくなるのは嫌だ。もしそうならなかったとしても、やっぱり洋が自分以外の女性と付き合うことになったらと思うと、胸が痛い。
 それに、補欠とは言えメンバーに選んでくれた述法の手前、弓道にも集中したいという思いもある。
 口には出さなかったが、数秒の沈黙を挟んで、男は頷いた。
「結構。納得して使ってもらえるなら、それに越したことはないからね」
 男は机の下から昨日のものと同じ、ハートの矢を取り出すと、机の上に五本並べた。
「まずはこれを手に取って」
 机の前に立ち、五本の矢を手に取った。
「丹田、というのを知っているかな」
「たんでん、どういう字?」
「仁丹の丹に田んぼの田」
「じんたんって?」
「うーん、そうだな…。ちょっと失礼」
そう言って男は二度目の質問には答えず、ひよりのへその前に手を伸ばす。ひよりは一瞬身体を引きかけたが、男は触れるぎりぎりのところで手を止め、へその下辺りを指差した。
「この辺りを意識して力を入れてごらん」
 言われてひよりはへその下に力を込めてみた。
「どうだい?」
「うーん、確かに。なんとなくふんっ、ってなる感じ。これがじんたん?」
「いや、そこが丹田。仁丹はもういいんだ。今の感じ、一人でも出来るかい」
「うん、多分」
 そう言ってもう一度、ひよりはへその下に力を込めてみる。
「武術、武道では、その丹田で気を練ると言われるが、これはどうやら精神論ではないということが判ってね」
 ひよりは首を傾げる。どういうこと?という意味である。
「そこから生じる力こそが、私が魔力と呼んで研究している力なんだ。気功あたりにも通じる部分があるね。おっと、話が長くなってしまった。とりあえず、その矢を持ったまま、丹田に力を込めてもらえるかな」
 ひよりはふっ、と息を吐きだし、力を込める。一瞬ならともかく、長時間続けるのはこれがなかなか辛い。
「ここからはイメージだ。丹田から沸き上がる力が、君の体を上がって腕から矢に。意中の相手を思い描きながらだ」
 自然と、ひよりは目を閉じた。
 頭の中には洋の顔を思い描く。同時に、へその下から沸き上がる力が体の中を通って矢の中へ…。
「よし、目を開けてごらん」
 わずか十数秒のことだったはずなのに、体はどっ、と疲れていた。大きく息を吐きだす。
「羽を見てごらん」
 言われて、ひよりは視線を矢の端に動かした。
「え…?」
 先ほどまで真っ白だったはずの矢羽が、今は真っ赤に染まっていた。
「どうやったの?」
「うーん、非常に概念的な話になってしまうから、説明はしづらいんだが、聞くかい?」
「ううん、いい…」
 なんとなく、話が長そう、難しそう。そう考えて質問を取り消す。
「それじゃああとは、実際に使ってみてくれ。ああ、その前に注意がいくつか」
「注意?」
「ああ、それを使うときには必ずその、それで」
 言って男は、ひよりの弓を指差した。
「どうして、昨日は直接投げてたじゃない」
「それは、弓の練習になるからに決まってるだろう」
「え?」
「あ、いや、違うな」
 なにやら慌てだした様子の男をじとーっ、と眺めるひより。視線に耐えられないと言わんばかりに、男は口を開く。
「そりゃ、その、そう!遠くから当てないと、効果は持続しない!」
「どう考えても今作ったでしょ!」
「違う違う!ホントだぞ。試しにやってみるといい。一本無駄にしてもいいならな」
「む…」
「それにお嬢さん、今あの男の前に出ていくのは、なかなか辛いんじゃないか?」
「うっ、それは、確かに…」
 そうかもしれない。洋の前に立つ自分を想像して、それはちょっと出来そうにないと考える。
「それから二つ目。相手を狙うときも、出来るだけ丹田の近くを狙いなさい」
「どうして?心臓じゃないの?」
「安易だなお嬢さん」
「じゃあなんでこんな形に作ったのよ」
 ちっちっち、なんて言いながら指を振る男を、ハートの矢羽を指差しながら睨みつける。
「そりゃ、ディティールにこだわるのも大事かなと思ってな」
 自慢げにそう語る男に対して、ため息をつくひよりである。
「で、その丹田を狙う理由は…?」
「難しい説明と簡単な説明、どっちがいい?」
「簡単な方で」
 即答だった。
「同じ力を発する部分に作用させた方が効果は高いからだ。出来る限り胸から下か、股間より上のあたりに命中させるのがいいだろうな」
「こ、こか…」
 顔を赤くする辺り、ひよりも女の子である。
「以上、質問はあるかな」
「え、えーっと、例えば、間違って他の人に当てちゃったらどうなるの」
「お嬢さんがしっかりと一人の相手を思い描いて魔力が込められているのであれば大丈夫。昨日私がお嬢さんにしたように、効果はすぐに切れる」
「な、なるほど」
「他にあるかな」
「うーん、あ、そうだ。これって本当に刺さったりしないんでしょうね」
 自分が洋を射抜き殺すところを想像して少し背筋が寒くなる。
 弓道部員、振られた相手を弓で殺害。なんてニュースはさすがに笑えない。
「それは大丈夫。昨日見た通り」
 男は自信満々に答えるが、それでも若干不安ではある。
「そもそも、どうして当たると消えるの?」
「そりゃ、刺さったら危ないからだ」
「そういう意味じゃないでしょ、話の流れ的に!原理よ原理!」
「冗談だお嬢さん。かりかりしなさんな」
 やけに上機嫌な男に対して、ひよりの方は苛立ち気味だ。
「真面目に聞いてるのっ!」
「長くなるが、それでもいいかい?」
「う…」
 尻ごみしてしまうひよりであった。
「簡単に言えば、お嬢さん以外の人間に反応して消える。人にしか反応しない。だから、間違ってガラスなんかに当てるんじゃないぞ」
 疑問は残るが、聞いてもおそらく理解は出来ないだろう。そう思い、質問をあきらめることにする。
「さて、他にないようなら、お代の交渉と行こうか」
「あ」
 そうだった。すっかり自分のものになったつもりでいたが、まだそうではないのである。
 相手の気持ちを思い通りに出来る矢。いくらくらいするだろうかと考えたが、ひよりには想像がつかなかった。ひとまず家にあった自分の全財産三万円を財布に入れてはきたものの、ライターが一万円するくらいだから、もしかしたら全く届かないかもしれない…。
 そんなことを考えていたときだった。
「お嬢さん、今いくら持ってるかな」
「え、えっと…」
 急に三万円という額がちっぽけに思えてくる。もしもこれで全然足りなかったら…。
 ひょっとして、体を売ることに…!
(それはいやぁ~っ!)
「お嬢さん、お嬢さん」
「へ?」
「大丈夫、別にぼったくろうとかそんなつもりはないよ」
 頭を抱えていた両手を下ろす。
「じゃ、じゃあいくら?」
「だから、とりあえずいくら持ってきたの?」
「さ、三万円…」
「ふむ」
 やっぱり、そんなんじゃ全然足りない!とか言われるんじゃないだろうか。そんなひよりの不安をよそに、男の言葉は意外なものだった。
「では、二千円で」
「は?」
 ぽかーん、と口を広げるひよりである。一拍置いて、
「な、なんでこんなすごい道具が二千円なのよっ!」
「じゃあ、三万円」
「じゃあ、って何?じゃあ、って!」
「文句が多いね。結局買うの買わないの?」
「か、買うわよっ!」
「いくらで?」
「二千円でっ!」
「毎度あり」
 財布から千円札を二枚取り出し、男に差し出す。男はそれを懐にしまった。
 二千円で買ったものの、やはり釈然としないひよりである。
「どうしてライターが一万円するのに、これが二千円なの?」
 男は少し考える仕草をしたようだった。
「昨日も言ったと思うが、あれは商売をしようと思ったらそれだけの手間賃がかかるということ。この矢に関しては、私の研究の成果を君に確かめてもらうようなものだ。サービス料金だと思ってもらえればいい」
「じゃあ、わたしは実験台ってこと?」
 男の返答に、ひよりは少しむっ、となる。
「うーん、あまり悪く捉えないでほしいな。私としては自分の研究が人の役に立つのを見てみたいだけなんだ」
 そこまで聞いて、ひとまずひよりは自分に納得するように言い聞かせた。
「まぁそこまで言うなら、使ってみるわ」
 肩から提げたバッグのファスナーを開けて、その間に五本の矢を丁寧に差し込む。
「さて、せっかくだからお嬢さんにいい情報をプレゼントしよう」
「何、いい情報って」
「今日、早速その矢を使う機会があるよ」
 ひよりは驚いて言葉を失った。数秒間男を凝視して、ようやく口を開く。
「そ、それって、えーと、戌亥先輩とこれからどこかで会うってことよね…。ちょ、ちょーっと待ってよ…」
「何を今さらためらうんだい、さっきまでやる気満々だったように見えたけどね」
「心の準備ってものがあるでしょっ!」
「ああとにかく行った行った。せっかくのチャンスを逃すんじゃない」
「そんなこと言われたってさぁ…」
 ひよりは帰り道に目を向けた。しばらくは同じような、遮蔽物のほとんどない道が続く。
「せめてどこで会うのかだけでも教え―」
 男に向かって問いかけた言葉。だがその言葉に返答はなく、沈かな住宅街に吸い込まれていった。
「―て…」
 ほんの数秒。目を離した間に、男の姿はそこにあった机ごと、煙のごとく消えていた。

(わたしは一体誰と話していたんだろう…)
 そんな疑問がひよりの中に沸き起こる。
 狐につままれる、というのはこういうことを言うのだろうか。
 しかし、バッグには間違いなく五本の矢が納まっており、さっきまでの会話が現実であったらしいことは理解できる。
 確かに不可解ではあるものの、その一方で、またどこかでひょっこりと出くわすこともあるだろう。そんな風に考えている部分もある。
 ひとまずあの場を離れ、家路についたひよりであった。
 とはいえ、それも容易ではない。あの男が言ったことが本当ならば、家に帰るまでの道のりの中で洋と出会うことになる。
 ひよりはところどころに立つ電柱の影に身を隠しながら、家路を進んでいた。
 そうしている内に、次の角を曲がればもうひよりの家は目の前である。
(やっぱりでまかせじゃない)
 そう思う部分はあるが、やはりまだ気は抜けないという気持ちもある。
 電柱の影で呼吸を整えると、最後の角までダッシュ。ぴたっ、と身を寄せる。そしてそこからゆっくりと、顔だけを出して先に続く道を確かめた。
 数十メートル先に我が家の明かりが見える。
 歩く人影は、無い。
 落胆とも安堵とも取れるため息を一つついて、ひよりは体の力を抜いた。
「帰ろ」
 つぶやいて、角から身を出したときだった。反対側の角に、豆粒程度の大きさの自転車を押した人影が現れた。
 どれだけ視力が良かろうと、豆粒のようにしか見えない人を特定するのはなかなか難しい。だが、正面に現れた人物には遠くからでも判る特徴があった。いや、特徴的なものを持っていた、というのが正しいだろうか。
 その人物が自転車と肩に乗せた、身長よりも長い棒に目が行き、ひよりはたった今自分が出てきた壁の影に、慌てて身を寄せた。
(い、戌亥先輩…?)
 もう一度ゆっくりと、先ほどよりも小さく顔を出し、洋と思しき人物を確かめる。
 徐々に人影は大きくなってくる。距離は八〇メートルほどだろうか。自転車を片手で押しながら、反対側の手で弓を支えている。メガネも確認できた。間違いない。洋である。
(なんで…?もしかして、わたしに会いに…?)
 そんな都合の良すぎる解釈を平気で繰り広げる頭を軽く振りつつ、他に洋がここにいる理由を考える。
 こうして出会って見るまでは半信半疑でいたものの、いざ本人を目の前にすると、一気にパニック状態のひよりであった。そんな中で、ひよりがこのことに思い至ったのは奇跡的であると言える。
(こっち、戌亥先輩の帰り道じゃん…)
 今ひよりが立っている方向に、洋は曲がってくるはずである。
 一度振り返って電柱を眺めた。どう考えても隠れられるような太さではない。
 もう一度ゆっくりと顔を出す。五〇メートルほどの位置まで洋が近づいている。それを注意深く観察し、わずかに顔を下げた瞬間、ひよりは十字路になった道を反対側に駆け抜けた。すぐさまそちらにあった電柱の影に身を寄せる。
 数十秒後、洋が姿を現した。角で立ち止まり、一度だけひよりの隠れている電柱の辺りを眺めたようだったが、ちょうどそこは街灯の明かりの切れ間だった。すぐに背を向けると、ひよりが通ってきた道を歩いていった。
 ひよりはふう、と息を吐き出すと、ぺたん、と地面に座り込んだ。
 電柱の影から覗いていたときに、洋と目が合った気がしたからである。もちろんそれはたまたまだっただろう。あの位置からこの暗がりが見えたとは思えない。
(これからどうしよう…)
 緊張に次ぐ緊張で、ひよりは疲弊していた。このまま家に帰れば、今日は休むことができる。けれど…。
(これでいいのか、ひより)
 自分に問いかける。電柱から体を出して正面を見ると、そこには次第に小さくなっていく洋の後ろ姿。
 これは、絶好のチャンスじゃないか。そうだ、フードの男が言っていた「せっかくのチャンスを逃がすんじゃない」は、このことだったのかもしれない。
 壁に立てかけた弓をぎゅっ、と握りしめ、ひよりは立ち上がった。
「よしっ!」
 言葉に出して気合を入れ、一歩踏み出した。
 最初は小走りに。洋の姿が次第に大きくなっていく。三〇メートル。
 洋の歩くスピードは比較的ゆっくりだった。
 ここからは足音を殺しながら早歩きで。先ほどまでのひよりとは思えないくらいの大胆さで、残り一〇メートルのところまで近づくと、ひよりは音を立てないようにバッグを道の端に下ろした。
 弓を袋から出し、コンクリートの壁に先端を当てて弦を張る。一言「ちょっとお借りしますよー…」と、断りを入れた。
 慣れた手つきでこれを終えると、すばやく?(ゆがけ)を取り出して腕にはめる。
 最後にバッグからハートの矢を取り出すと、道の真ん中に立ってそれを番えた。
 本来ならば胸当てもするところだが、手間と必要性を天秤に掛けた結果がひよりの判断だった。
 ここまでで洋との距離はおよそ二〇メートル。通常矢の軌道は、その構造上二〇メートルを過ぎた辺りから安定し始める。
 ベストな距離と言えた。
 今日の練習を思い返す。
 あの感覚。必ず、当たる。
 引き分けた矢は定位置、唇の高さへ。
 洋の背中、やや下。丹田の位置に狙いをつける。
 ゆっくりと、五秒。
 洋との距離は二八メートル。はからずも、弓道の的の距離である。
 張り詰めた力の均衡が、一気に解かれた。
 弦を弾く鋭い音が、空気を震わせる。
 放たれた矢は一直線に洋に向かっていた。
 だが、当たると思われた瞬間、洋の背後、左方向から、彼よりも一回り小さな影が飛び出してきた。
「へ…?」
 そんな疑問にも驚きにも取れる声を、ひよりは漏らした。
 それもそのはず。ひよりの放った矢は洋には届かず、突然現れた影によって、止められてしまったのだから。
 影は一度後ろを振り返り、洋を視線で見送ると、ひよりの方に向かってすたすた、と近づいてきた。
 弓を下ろし、その影を呆然と見つめる。時速百数十キロになろうかという矢の軌道を、正確に見切って、止めた。
 影はひよりと五歩ほど距離を置いて立ち止まる。
 小さな少女だった。一五〇センチほどだろうか。ひよりがわずかに視線を下ろすと、少女の見上げる視線とぶつかった。
 くりっ、と大きな目が特徴の、可愛らしい、という言葉が似合う少女。全体に緩くカールのかかったショートヘアも、その顔立ちの柔らかさを引き立たせている。
 幼く見えるが、中学生ではないようだ。ひよりと同じ制服を身につけている。
「これは、どういうつもりですか?」
 はじめ、ひよりはその声が目の前の少女が発したものだとは気づかなかった。凛と高く響くその声は、目の前の可愛らしい少女には似つかわしくないと思えたのである。
 けれど、それは少女の発した声に間違いはなく、その言葉と同時に、右手に握った矢がひよりに向かって突き出されていた。
 よくよく見れば、その口元は強く結ばれている。怒っている、あるいはそれに準ずる感情をひよりに対して抱いているものと判断できた。
「あ、その…」
 呆気にとられて思考が止まっていたことに気がつく。
 それもそのはず。彼女からすれば、ひよりは洋を弓で射抜こうとしていたようにしか見えないはずである。
「えっと、その、これはね…!」
 どう説明すれば目の前の彼女が納得してくれるだろうかということを考えて、ひよりが頭をフル回転させていたときだった。
「きゃっ…!」
 小さな悲鳴が目の前の少女からあがる。
 見れば、彼女のつかんだ矢が、端から霧散していくところだった。
「な、なんなんですか、これは」
 戸惑いを見せながらも、先ほどと変わらず凛とした調子でひよりに問いかける。
 適当なごまかし文句を思いつかなかったひよりは、これを見て思った。
(全部話しちゃおう…)
 それが自身の持つボキャブラリを駆使してごまかす方法を考えるよりも、手っとり早く、確実だと考えたのである。

「その話を、信じろと言うのですか?」
「あなただって、見たでしょ?」
「まぁ、それはそうですが…」
 ひと通りを話し終えての印象として、少女も半信半疑といった様子だった。それは昨日の自分を思い返してみれば確かに判る。
 とは言え、こればかりは信用してもらわないことにはどうしようもない。警察に通報でもされようものなら大変なことになる。
「そういうわけだから、お願い!わたしの恋を応援すると思って、納得して」
 ひよりは目の前で両手を合わせ、片目をつぶって少女に訴えた。
「あなたは、彼のことが本当に好きなのですか?」
「そりゃもう!たまらなく好き!」
 見ず知らずの少女に対して、自身の恋心を赤裸々に語ると言うのもおかしな話だが、誤解を解くためならばやむを得ない。
 そんなひよりの様子を見てか、少女はわずかに聞こえる程度に息をもらすと、
「分かりりました。彼への気持ちには嘘は無いようですし、矢のことは、わたしの胸のうちにしまっておきましょう」
 そう言った。
「あ、ありがと―」
「ただし」
 ひよりの礼の言葉は、少女の凛とした声に遮られた。
「洋くんをあなたの思い通りにさせるわけには行きません」
 少女の大きな目が、明確な敵意をもってひよりを睨みつけていた。
「よ、洋くん…?あなた、戌亥先輩の知り合いなの?」
「ええ、少なくともあなたよりはずっと、長い付き合いかと思いますけど」
 そう言って薄くほほ笑む少女の顔には、少なからず優越感が見て取れた。
 くん付けで呼ぶくらいだから、二年生だろうか。まさか自分よりも年上の相手とは思わなかった。
 そんなことを考えていると、彼女が右手の人差し指を立てて、口を開いた。
「一つ、勝負をしませんか?」
 勝負。その言葉が目の前の少女には似つかわしくなくて、ひよりは首を傾げながら聞き返した。
「勝負?」
 少女は笑みを浮かべたまま上品にこくん、と頷くと、ひよりのバッグに刺さった矢を指差す。
「その残り四本を、洋くんに当てることが出来れば、あなたの勝ちです」
「それは、最初からそのつもりですけど…」
「最後まで聞いてください」
「ご、ごめんなさい…」
 ぴしゃり、と言われ、小さくなってしまうひよりだった。
「もちろん、わたしはただそれを眺めているつもりはありません」
「あ…!」
 これでひよりにもようやく思い至る。その雰囲気に勝負なんて似つかわしくないなんてことを考えた自分がどうかしていた。
 彼女はついさっき、ひよりの矢を見切り、その手で止めたばかりではないか。
「分かりましたね?わたしはあなたの矢から、洋くんを守り抜きます」
「それが、勝負ですか?」
「そうです」
「四本、全部あなたに止められたら、わたしの負けってことですね?」
「そう、そのときには、あなたは金輪際洋くんに近づかないと約束してください」
「ど、どうしてっ!」
「順当なところじゃありませんか?心をつかめなかったら、おとなしく身を引く。ましてあなたは、一度失敗しているのでしょう?」
 淡々と、そう言う彼女に、ひよりはだんだんと反感を覚え始めていた。
(この人とは、なんか合わないっ…!)
「じゃあ、わたしが負けたらあなたはどうするんです?」
 語気が強くなっているのが自分でも判った。
「特に何も。ただし、自分に迫る危機を幾度となく目の前で救われたら、洋くんはわたしに対してどういう感情を抱くと思います?」
(なるほど、そういうことか…)
 ひよりは答えなかった。ただ、彼女の挑発的な視線から目を離さず、にらみ返す。
「いつでも、結構です。わたしはいついかなるときでも洋くんのことを守り抜いてみせます」
「分かりました。絶対に、戌亥先輩の気持ちはわたしに向けさせて見せます」
 互いの視線が強く絡み合い、火花を散らす。
「そう言えば、まだ名乗っていませんでしたね」
 そう言って一度表情を和らげると、少女は名を告げた。
「柔道部の武土岐美陽(むときみはる)です。こういった形ではありますが、お互い武道家として、恥ずかしくない試合をしましょう」
「柔道部、武土岐…」
 すこし考えて、ひよりはその名前に思い至る。
「あ、あなた一年生じゃないのっ!」
「それが何か?」
 小さく首を傾げる美陽。
「だっててっきり先輩かと思ったから、あー、もうっ!」
「何を怒っているんです?」
「何でもないっ!」
 改めて目の前の少女を眺める。
 柔道部一年、武土岐美陽。
 小さな体から繰り出される多彩な技で、数々の大会を総なめにしているという話は聞いたことがあった。なるほど、矢の軌道を見切って止めるという芸当を見れば、それも眉唾ではないらしい。
 しかしひよりにとって、それよりももっと大きな問題があった。
「ちょっとあんた、戌亥先輩とはどういう関係よっ!」
 洋のことをなれなれしく「くん付け」で呼んでいることである。
「ああ、そういうことですか」
 優越感たっぷりといった風に上品な笑みを作りながら、美陽は答えた。
「許嫁です」
「なぁっ!」
 今にも掴みかからんとしていたひよりだったが、この答えには驚いた。
「い、許嫁ってあんた。いつの時代よそれ」
「時代は関係ありません。事実ですから」
 澄まし顔でそう言う美陽だった。
 唇を噛んで「むーっ」と唸っていたひよりだったが、ふと疑問を感じ、美晴にぶつけてみた。
「なんで許嫁なのに、わたしにこんな勝負なんて持ち出すわけ?」
 これが案外クリティカルヒットだったらしい。
 上品な笑みを浮かべていた美陽の表情が、「そ、それは…」なんて言ったきり、明らかに余裕を失っていくのが分かる。
「はっは~ん、さては、許嫁とかいっても戌亥先輩に全然相手にしてもらえないんでしょ?」
 美陽の笑みを天使のそれに例えるとしたら、ひよりのこれはまさに他人の傷口を抉る悪魔の笑みである。
 見つけた弱点は逃がすまいと言わんばかりの喜々とした表情は、およそヒロインのものとは思えない。
「そ、そんなことはありません!それに、共に障害を乗り越えた男女は、結びつきが強くなるとよく言うでしょう!」
「ふっふ~ん、もともとない結びつきは、強くなりようがないんじゃないの~?」
 水を得た魚である。先ほどまでの鬱屈を晴らす意味で、今、目の前でぷるぷる震えている美陽は格好の獲物だった。その言動、およそヒロインとは思えない。
「そこまでおっしゃるならわたしも言わせていただきますが、わたしたちは洋くん、美陽ちゃんと呼び合う仲ですよ」
「それがなぁに?わたしだってひよりちゃんって呼んでもらってるわ」
「くぅっ…!」
 どうやら口での対決はひよりに分があるようだった。この二人の育ちの差を現していると言える。
「あぁ、今ので納得しました。あなたが久慈ひよりさんですね」
「あれ、わたしのことをご存じなの?」
「ええ、お噂はかねがね」
 そう言って、また幾分表情に余裕を取り戻す美陽。
「ちょっと、どういうことよ」
「優しい先輩から、素敵な幼なじみのお話はよく聞かせてもらっています」
(優しい先輩…?)
 脳裏に浮かんだのは、昔からよく知る大男の顔。
「まさか…!」
 そのひよりの反応を見るや、先ほどまでの仕返しと言わんばかりにこの上なく上品な笑みを浮かべる美陽である。
「何を聞いたの。何をっ…!」
「大丈夫。洋くんには言いませんから。ええ」
 だがしかし、美陽も目は笑っていないのだった。
また別の戦いが二人の間に巻き起こる。
「もー、いいわっ!キリがない」
「そうですね」
 いい加減辺りも暗い。時間も時間である。
「見てなさい!明日一日でケリをつけてあげるわっ!」
「それはさっさと済んでありがたいことです」
 この言葉を最後に、二人は同時に振り返り、互いに背中を向けて歩き出した。
 一八〇度真逆の性格と言える彼女たちの関係を、示しているかのようだった。
 余談であるが、武土岐美陽はその可愛らしい顔と小さな身体に似合わず、非常に立派なボリュームを誇る胸を持っていた。
 ひよりがそのことについて触れなかったのは、あくまで気がつかなかったからであって、見て見ぬふりをしていたわけでは、断じてない。
 「ひよりはちらり、と美陽の胸に視線を落とした」という記述が本来何箇所か入る予定だった、という事実も、断じてない。
 とにかく、かくして戌亥洋を巡る戦いの火ぶたは、切って落とされたのだった。
2, 1

  

 三.

「行ってらっしゃい、美陽さん」
「はい、行って参ります。お母様」
 鶯(うぐいす)色(いろ)の生地に、控え目に季節の花が散らされた和服姿の母の見送りに、美陽は両手を前に組んで、小さく頭を下げて応じると、玄関を後にした。
 道路まではまっすぐに一〇メートル。大きな門をくぐって、武土岐家の敷地を出る。
武土岐美陽の家は純和風の邸宅である。母家につながった大きな柔道場も併設されており、その敷地には一般的な一戸建てが六軒は建つだろうか。
豪華な邸宅に住む可憐な少女。美陽はまるでマンガかアニメかラノベにでも出てきそうな人物だった。
 門を出た左端の壁に、背中を預けて待つこと三〇秒。遠くに目的の人物の姿を確認して、美陽そちらに向き直った。
 現れたのは彼女の許嫁である。とはいえ、仲の良い親同士が何年も前に酒の席で交わした口約束である。実際のところ彼女の両親も、彼の両親も、どの程度それを本気にしているのかは疑問の残るところであった。
自転車に乗ったその影がだんだんと大きくなる。向こうも美陽に気付いたようだ。右手を上げてほほ笑むと、ゆっくりとスピードを落として美陽の前で自転車を止めた。
「おはよう、美陽ちゃん」
「おはようございます、洋くん」
 気持ちの良い日差しが降り注ぐ中、さわやかな笑顔と上品な笑顔を浮かべてあいさつを交わす男女。はたから見れば、なんともお似合いのカップルだ。
「どうしたの、今日は?」
「久しぶりに洋くんと一緒に登校しようと思って、待っていたんです」
 結局あのあと、洋は途中で自転車をこぎ出したのだろう。ひよりと別れた後で、彼に追いつくことは出来なかった。
「そうだったの。それでこんなに早く」
 時刻は七時二〇分。まだ辺りを歩く人はそれほど多くない。
 洋は自転車を降り、美陽の右側に立った。
「じゃあ行こうか」
「はい」
 二人はゆっくりと歩き出した。
「最近は早起きなの?」
「え、ええ、まぁ」
 笑顔で答える美陽だったが、これは嘘である。
彼女は朝が何よりも苦手だった。昨晩はいつもより二時間以上も早く、九時に布団に入った。それも全て、洋を守るために。
「昔はよくこうやって一緒に登校したよね」
 小学校の頃はそれこそ毎日のように、朝迎えに来てくれる洋を待たせたものだった。
「そ、そうですね…」
 そのことを思い出し、美陽は顔を俯けた。
「部活の方はどう?」
 違う話題を持ち出してくれた洋に心の中で感謝しながら、美陽は自信たっぷりに答えた。
「ええ、調子はすこぶるいいです」
「そう、インターハイの出場報告、楽しみにしてるよ」
「さすがに、それは気が早いです」
 そう言って、お互いに小さく笑い声を上げた。
「そういう洋くんは、どうなんですか?」
「うん、まぁまぁかな」
「本当は絶好調なんでしょう?」
 美陽は知っている。この幼なじみは常に控えめであることを。
「そんなことないよ、気を抜いたらすぐに追い抜かれちゃうからね。頑張らないと」
 とはいえ、それを彼の人柄として受け入れている彼女であった。
「そうですね、お互いに頑張りましょう」
 そう言ってまた笑みを交わしたところで、美陽は気になっていたことを口にしてみることにする。
「洋くん、不躾な質問だったらごめんなさい」
 一言断って、一度息を吸い込む。「なに?」と顔を向けた洋に向って問いかけた。
「最近何か、悩んでいることはありませんか?」
 美陽の質問に、洋の表情がわずかに固まった。それは注意していなければわからない程度のものだったが、なにしろ小さな頃から一緒だった洋のことである。美陽はそれを見逃さなかった。
「ううん、特に無いけど」
そう答えたときには、わずかに見えた表情の曇りは微塵も無く、洋はにっこり、と微笑んだ。
「……洋くん」
「ん?」
「その、何かあったら、相談してくださいね。わたしに出来ることなら、なんでもしますから」
「どうしたの、美陽ちゃん?」
「……ううん、なんでもないんです」
「そう?なら、いいけど」
 昨日、美陽があの場にいたのはたまたまではなかった。
 部活終わり、どこか思いつめた表情の洋が、帰り道とは逆の方向に自転車を走らせるのを見て、追いかけたのがことの始まりだった。
 さすがに自転車に乗った洋に追いつくことは出来ず、途中で見失ってしまった彼を探しながら、同じような道をぐるぐる回っていたのだ。やっとの思いで洋を見つけ、跳び出した先でひよりと出会ったのである。
 あの表情は、何に原因があるのだろうか。
美陽はひとまず、自身の胸の内にしまっておくことに決めた。
 洋を守ることを、今は一番に考えなければならないのだ。
 駅の辺りまでくると、人通りも多くなる。サラリーマン、学生、ちらほらと同じ制服を着た姿も混ざり始める。
間もなく学校が近い。洋と会話をしながらも、美陽は周囲に注意を向ける。
まさかこんなところで仕掛けてくるとは思えないが、彼女がどんな人物かを知っているわけではない。
洋に聞くこともできたが、それはどうにもはばかられる。
とにかく、注意し過ぎるということもないだろう。
すれ違う人はもうほとんどなく、前後を同じ方向に向かうのは同じ制服姿ばかり。しかし、少なくともその中にあからさまに弓を引く姿などはない。
「友達?」
「あ、いえ、違うんです。えーと、その…」
 後ろをちらちら、と気にしていたからだろう。適当なごまかし文句を考える。
「き、昨日テレビで、後ろを振り返りながら歩くのが健康にいいって、言ってましたので」
 何とも苦しい。が、それを疑わないのが戌亥洋という少年である。
「へぇ。エクササイズの一種?」
「そ、そうなんです、ほら、イチ、ニ、サン、シ」
「ニ、ニ、サン、シ。ああ、この腰の捻りが効くんだろうね」
「そう、そうらしいんです」
 機敏な動きで背後を振り返りながら歩く二名に、周囲を歩く生徒は一様に視線を注いでいた。
「はい、オッケーです」
「これだけでいいの?」
「一日五回以上やると、腰骨がぽっきりいってしまうんですって」
「それは気をつけないとね」
 若干天然気味の、戌亥洋であった。
 美陽はようやく周囲から注がれる視線から解放され、ひと息ついた。
 学校の敷地に入る。
 駐輪場を通り、校庭の端を通って校舎へ向かう。
(さすがに朝からというのは考え過ぎだったかしら…)
「じゃあ、美陽ちゃん」
「あ、はい」
 一年生と二年生は昇降口が正反対に位置している。洋が二年生の昇降口に向かう背中を見送って、美陽も校舎に向かおうとしたときだった。
 何かが視界の端に光ったのを感じて、再び洋に視線を向ける。
 同じ制服の後ろ姿がいくつも並ぶ中、洋の背中もそこに混ざりかけていた。
(気のせい…?)
 ではなかった。何気なく上げた視界の先、屋上の上に、太陽を反射する黒い輝きを見つけて、美陽は洋に向かって走り出した。

「早速一緒に登校だなんて、よくも見せつけてくれるじゃないっ!」
 ひよりは右手に持った弓をぎゅっ、と握りしめた。
 本来は立ち入り禁止の屋上に、こっそりとカギを拝借して忍び込み待つこと一五分。ようやく現れた洋の隣を一緒に歩いていたのは、誰あろう昨日勝負を申し込んできた武土岐美陽であった。
「言うだけあって、警戒態勢はばっちりってわけね…」
 彼女に向ける視線に混じる敵意といったらそれはもう。物語のヒロインのものというよりは、倒すべき敵を目の前にしたスナイパーのそれといったほうがしっくりくるのではないだろうか。
 さすがに気付かれた様子はないが、ここからでは洋まで一〇〇メートル以上。まだまだ引きつける必要がある。
(集中しろー…)
 心をかき乱す要因はあれど、それでは当たるものも当たらない。
 ひよりは昨日の練習を思い返す。
命中するイメージを頭に描いたところで、目を開いた。
 駐輪場から出てきた二人を見失わないように、目で追いながら傍らに置いた矢を一本番える。
 まだ美陽に気づかれた様子はない。このまま行けば、彼女はそのまままっすぐに校舎に入っていくはずである。
 予想通り、二人は途中で別れ、洋の進行方向が変わった。まっすぐにひよりの方向に進んでくる。
 距離はまだ五〇メートルほどだが、下に向けた角度を考えれば、通常よりも速度は増すことになる。矢を射る瞬間には、ベストな距離になっていると判断した。
 ひよりは立ち上がり、射の構えをとる。
 いつもと勝手は違うが、いける。奇妙な自信があった。
 引き分けは水平に。そこから上半身で角度を調整する。
 遠ざかるだけの背中とは違い、上から見下ろす洋は校舎に向かって歩いてくる。微妙に狙いを動かしながら、五秒を数える。
(いけっ!)
 下から響いてくる朝独特の賑やかさの中に、弦をはじく音が一瞬混じった。
 狙い通り。矢は一直線に洋に向かう。
だが、狙いをつけることに集中していたことで、矢を放つよりも一瞬前、視界の端で小さな影が走り出していたことに、ひよりは気がついていなかった。
「あーっ!」
 洋のわずか後ろにまで迫っていた影は、洋の身体に後ろから突っ込むと、一緒にトラック脇の芝部分に転がった。
 二本目の矢は、二人の頭上を越えて陸上トラックの端に突き刺さっていた。
 周囲がざわつき始めたのがここからでも見て取れた。
 美陽は立ち上がってその矢を抜き取ると、ひよりに視線を向けてきた。慌ててしゃがみこむ。
「くっそぅ!」
屋上の端から頭だけを出して下の様子を見ると、ちょうど洋と美陽が校舎の陰に消えるところだった。いずれにせよ、このままここにいるわけにはいかない。
ひよりは手早く弦を外して弓をしまうと、屋上を出るドアへと走った。
鍵を掛けて階段を降りると、屋上との踊り場に美陽がいた。あまりに驚いて、ひよりは一度肩を震わせた。
「うぉう、は、早かったわね…」
「あと三本ですね」
 差し出された右手の中にあった矢が、ゆっくりと消える。その表情は余裕の笑みだった。
「よく気付いたじゃない」
 幾分落ち着きを取り戻して、ひよりは美陽に相対した。
「正直言って、ちょっと危なかったですけれど。でも、これでもう同じようなことはできませんね」
 本日二度目。握った弓をぎゅっ、と握りしめる。
 美陽の言うことは事実だった。
 一発で成功させるつもりが、突如屋上から矢飛んでくるなんていう光景を大勢の生徒に目撃されてしまったのである。今後の動きが非常に制限されることになったのは間違いない。
「出来れば今日中に、終わらせてくださいね」
 そう言って階段を降りていく美陽を見送って、ひよりはつぶやいた。
「面白いじゃない」
障害があるほど恋は燃え上がる、なんてことを言ったのは誰だったか。
頭の回転を通常比二〇パーセント増にしながら、ひよりは次の作戦を考え始めていた。
ところで、恋が燃え上がるための前提条件として、障害は男女共に乗り越える必要があるのではないか、ということは聞いてはいけないらしい。

「よし、今日の練習終わり!」
「はいっ!」
 熱気のこもった柔道場に、十数名の声が響き渡った。部長の甲斐田数矢の号令に、部員一同整列を終えると、正面に立つ彼の言葉を待つ。
 美陽は数名の女子部員の列に腰を下ろし、数矢の頭上に見える掛け時計を見上げた。
 六時ちょうど。通常よりも早く切り上げられた練習に、美陽は心の中で「これなら大丈夫」とつぶやいた。
「練習前にも言ったけど、これから一週間は短期集中でいくことにした。体を休めるのも大事だから、各自家でのストレッチも十分に行ってほしい。以上、何か連絡は?」
 特に発言する者もなく、数矢の「解散」という声で今日の練習は終了となった。
 三々五々散り始める部員達の流れに逆らって、美陽は数矢に近づいた。
「数矢さん、ありがとうございます」
 身長差三五センチ。近づけば近づくほど、大きく首を上げて数矢を見上げることになる。
「いや、美陽の言う通りだと思ってな。ここでケガなんてしたら元も子もない」
 数矢は右手の袖で、額から洪水のように流れ落ちる汗を拭いながら応えた。
「県でつまづくわけには、いかないですものね」
 対して美陽は、いくつか玉になった汗を浮かべているものの、比較的涼しい顔をしていた。これもお嬢様オーラの成せる技か。
 練習終了時間を早める提案をしたのは美陽である。昼休み、数矢の教室を訪れて提案をしたところ、「考えておくよ」と返事をされた。
 彼女らの所属する柔道部は決して強い部とは言えず、数矢と美陽の個人成績がずば抜けたワンマンチームである。団体戦はかろうじて地区を突破したものの、男女共に県ではベスト一六がせいぜいではないだろうか。
 そんなチームをまとめていく中で、美陽の実力と知識は数矢にとって無くてはならないものだった。それだけの信頼を、彼女は得ていたのである。
「特にお前は、一年での全国制覇がかかってるわけだしな」
 真っ直ぐに美陽を見据える視線には、昨年自分が果たせなかった栄冠への思いが込められていた。
「買いかぶりすぎですよ。もちろん、ベストを尽くすつもりですけれど」
 多少の謙遜を織り交ぜて答える。これで案外自信家なところのある美陽だが、事実そこには実力が伴っている。
「いや、期待してるよ」
「お互いに頑張りましょうね」
 突き出された数矢の拳に、美陽も同じく拳を返して微笑む。
「あ、そういえば」
「ん?」
「昨日、ひよりさんにお会いしましたよ」
「へぇ、そりゃまたなんで?」
「いえ、本当に偶然。たまたまです。数矢さんが普段仰っている通りの方でした」
「あっはっは!変なやつだったろう?」
「面白い方でしたよ」
 美陽にとっては最大限好意的に伝わるように選んだ結果の言葉である。
 普段数矢が幼なじみのことをどれだけボロクソに言っていたとしても、それは長い付き合いがあってのものであろう。そういった配慮を怠らないのも、美陽という人物だ。
 とはいえ、もう若干踏み込んで言えば、久慈ひよりという人物に、数矢がどういった感情を抱いているのかを確かめてみたくもあった。
「ま、機会があったら仲良くしてやってくれ」
 美陽は笑みを作ると、小さく首を傾ける。
「まるで兄(きょう)妹(だい)みたいですね」
「ん、ああ、よく言われるよ」
 多少声のトーンが下がったのを確かめて、美陽は一歩身体を引いた。
「そう言えば、最近一緒に帰ってないなぁ、って、言ってましたよ、ひよりさん」
 うつむき気味になった数矢の視線が上がり、わずかに目が大きくなった。
「そんなこと言わないだろう」
「違ったかしら、でも、そんな風なことは言っていたと思いましたけど」
「へぇ、そう…」
「寂しがってますよ、彼女。失礼します」
「ん、ああ。また明日」
 数矢の言葉に動揺が混じるのを確かめて、美陽は柔道場を後にした。こういったところなど、彼女のしたたかな部分である。
 やや確実性には欠けるが、上手い形でひよりへの対応策を仕掛けることの出来た美陽は、満足げに小さく微笑んだ。
しかし実際は、数矢と会話をしていたこの数分間が、彼女の考えていた予定をわずかに狂わせることになる。

 今日の練習には、洋は姿を現した。
 その状況は、思っていた以上に今のひよりにとってはプレッシャーだった。見まいとすればするほどに、気づけばいつしか視線は洋を追っている。
 洋が視界に入りようのないときを狙って射場に入ったものの、結果は八射三中と決して褒められるものではなかった。
 一昨日までは当たり前だったはずなのに、今は、彼と同じ空間にいるのが辛い。
 何気なく洋と言葉を交わす女子部員を見るたびに、胸が痛んだ。
 少しでも早く、この状況を打開しないと…。
 ひよりは着替えを終えると、まだ誰もいない更衣室を勢いよく飛び出した。出掛けに談笑しながら入ってきた同級生二人にぶつかりそうになる。
「きゃっ!」
「ご、ごめんっ!」
「どうしたの、そんなに急いで?」
「うん、ちょっとね…!また明日」
 足踏みをしながら片手を上げて別れのあいさつを告げると、ひよりは全速力で校舎を駆け出した。
「うん、おつかれー」
 ひよりの耳にかろうじて届いたのは「うん、おつか」までだった。
 靴を履き替えて校舎を後にする。部活終了からわずかに三分。弓道場に戻ると、今度は玄関から中の様子をこっそりと覗き見る。
「何やってんだ?」
「わぁっ!」
 後ろを振り返ると、男子の先輩部員が立っていた。
「もう、びっくりさせないでくださいよぉ!」
 本気で心臓が飛び出しかけたのを押さえながら、男子部員を睨みつける。
「いや、別に驚かそうとしたわけじゃ…。それより、忘れものか?」
「あ、いえ、そうじゃないんですけど…」
 そのときちょうど、別の部員の話声が奥から聞こえてきた。
「え、洋帰っちゃったの?」
「なんか着替え済ませて飛び出してったよ」
「んだよー、どっか寄り道してこうと思ったのに」
 ここまで聞いて、ひよりは走りだした。
「お疲れ様ですっ!」
「え、おう」
 まさかこんなにも早くいなくなるとは思わなかった。
 矢が飛んできたという噂はあっという間に広がり、ホームルームでも注意するようにとの話が出た。
 さすがにそんな中、ただでさえ目立つ場所で弓を使うわけにはいかない。結局ひよりが洋に矢を当てるチャンスとして残されたのは、帰宅路を狙うことだった。
 しかし、洋に先に帰路につかれたのは大きな失敗である。
 残り三本。この矢を確実に当てるために考えたひよりの策は、駅周辺のビルに姿を隠し、そこから狙い撃つというもの。そのために必要不可欠だったのが、洋よりも先に駅前にたどりつき、彼の帰宅時を狙うことのできる絶好のポジションを見つけ出すことであった。
 校門を出て、普段の帰宅路とは逆の方向に向かって走りながら、ひよりは考えた。
 自転車の洋に追いつけるだろうか、それは多分無理だ。だけど、仮に追いつけなかったとしても、場所を確かめるだけでも出向く意味はある。
 結果、ひよりの足は止まることなく、駅前に向かっていた。
 結局洋の背中を視界におさめることはないまま、駅前に辿りつく。どこかで寄り道をしている可能性を考えて辺りを見回してみるも、それなりに人は多く、この中から洋を見つけ出すのはかなり骨が折れると分かった。
(今日はしょうがないっ…!)
 探索は諦めて、洋の帰り道を狙うことのできるポジションを探すことにする。
林立するビルを見回していたそのときだった。
 とんとん、と肩を叩かれて、ひよりの身体は跳ね上がった。
「バスケやめても体力は落ちてないみたいだな」
 振り返った先にいたのは、見なれた坊主頭の大男だった。
 ひよりは大きく息を吐きだすと、大男―数矢に向かって声を荒げた。
「もう、そういうのやめてってば!」
「なんだよそういうのって」
「だからぁ、びっくりさせないでって言ってるのっ!」
「んだよ、つついただけだろ。大体、お前が待ってるっていうから行ってみりゃ、その矢先に走りだしやがって」
 数矢のこの言葉に、ひよりは首を傾げる。
「何言ってんの?」
「…いや、なんでもねーよ」
 数矢は一度ため息をつくと、特にひよりの言葉を追及するでもなく辺りを見回した。
「で、こっちに用でもあるのか?」
「へ!?」
 その言葉に、ひよりは勢いよく首を回して数矢に視線を向ける。
「…?だから、この辺に用あるのかって」
「あ、ああ!そっちの用ね。ははっ」
 自分の聞き間違いに気づき、微妙に声を裏返しながら、ひよりはこの場をどうするか、考えていた。
 数矢を誤魔化してここから離れたいところではあるが、なんとも不自然になることは間違いない。かといってせっかくここまできて収穫もなく帰るというのも気が引けた。
 そんなことを考えている間に、頭の上から声がかけられた。
「なぁひより、せっかくだし、久々にゲーセンでも寄ってこうや」
「は?」
「そうしようそうしよう。ほら、お前の好きな格ゲーの新作入ったんじゃねーか」
「いや、その、ちょっと、数矢っ!」
 ぎゅう、と腕を掴まれて引っ張られていくひより。踏んばる足も虚しく、靴の裏がコンクリートに擦れてずるずる、と音を立てた。
「はーなーせー、ばかーっ!」
 その言葉が通じたのか、数矢の腕が急に離されて、ひよりは後ろにかけた体重に引かれて思いっきり尻もちをつくことになった。
「いたっ!」
「あ、わり!」
 そう言って、慌てて手を差し出す数矢の表情から、わざとやったものではないことは分かっていたものの、ひよりはその手を無視して立ち上がった。
「ホント悪かった、大丈夫か?」
「大丈夫よっ!それより、それ」
「ああ。うん、ホント悪い」
 そう繰り返して、数矢は注意を奪われた原因であるポケットの中身に手を伸ばした。ポケットから取り出されたことで、数か月前のヒットナンバーが辺りに響く。
「ちょっとごめん」
 そう言うと、数矢は空いた左手を「待ってて」の形にしてひよりに向ける。外側のウインドウで着信を確かめると、手首の反動で携帯電話を開き、通話ボタンを押した。
「もしもし、どうした?」
 目で「悪い」と訴える数矢から目を離し、ひよりは再度周囲を見回してみた。小さな三階建て程度の貸しビルの側面には、外側から出入りするための階段も備え付けてある。上まで登れば高さも申し分ない。
 ひよりはいくつかの似たようなビルに目星をつけた。
「ああ、部活ならとっくに。え、今?駅前だけど」
今逃げたら数矢はいい気分はしないだろうな。
 後ろから聞こえる声にそんなことを考える。
「なんでもないって、なんだよそれ、ははっ!」
 そう言えば、こうやって数矢と一緒に帰るのなんて、いつ以来だろう。少なくとも高校に入ってからはなかったはず。
「ゲーセン。お前もくるか?…ああ分かった、じゃあまた明日」
 多少の収穫はあったわけだし、たまには、遊んでやるのもいいか。
「彼女?」
 数矢が電話を切るのと、振り返ったひよりがそう尋ねたタイミングはほとんど一緒だった。
「そうだとしたら、お前なんか相手にしてねーよ」
「あー、そういうこと言う?いいわよ、もう遊んでやんないっ!」
 数矢に背を向けて一歩踏み出すと、ポニーテールを掴まれたことで上半身が後ろに倒れそうになる。
「逃がさん」
「だからやーめーろーっ!」
「彼女が出来るまではお前で我慢してやるよ」
 ポニーテールを下に引かれ、思いっきり体が反ったところを上から覗きこまれる。
「わたしの方が先に彼氏作ってやるっ!」
「おー、変な野郎だったら俺がぶっ飛ばしてやるから、おにーさんに相談しろよ」
「ぜっっっっっっったい嫌っ!」
 いーっ、という顔を作って抵抗すると、ようやく数矢の手が離れた。
 反動で身体を起こし、その勢いでとん、と軽くジャンプする。
「そういや数矢、あんたあの美陽って子になんか変なこと話してんでしょっ!」
 振り返った先で、数矢が斜め上に視線を送る。
「うーん、ありすぎてどれのことだか分かんないな」
「このやろっ!」
 左肩にぶら下げたバッグを手に持って振り回すと、数矢はそれを後ろステップでひょいっ、とかわし、そのままターンして走り出した。
「一勝につき一つずつ教えてやるよ!」
「まてーっ!」
 たまにはこんなのもいいだろう。持ちキャラで数矢をこてんぱんにする様を想像し、ひよりは走りだした。

 着替えを終えて校舎を出た美陽は、校庭の隅、これから目指す先である弓道場から人がぽつぽつ、と出ていくのを見て、はっ、となった。
 時刻は六時一五分。本当であれば弓道部はまだ活動中のはずである。にもかかわらず、弓道場から出ていく人たちは一様に制服姿。帰宅するものと分かる。
 美陽の表情にはほんの少し前までの余裕が消え、険しいものになる。
 真っ直ぐに弓道場に向かうと、ちょうど出てきたコーチと思しきスーツ姿の男に声を掛けた。
「あの、すみません!」
「ん?」
 男は玄関に鍵をかけながら美陽を振り返ると、「なにかな?」と問いかけた。
「戌亥さんはお帰りになりましたか?」
「ああ、洋ならとっくに。何かずいぶん急いでいたようだったな」
「そうですか、ありがとうございます」
 軽く礼をして背を向けた美陽だったが、数歩進んだところで再び男を振り返る。
「今日は、どうしてこんなに早く?」
「ああ、大会も近いからね、しばらくは三〇分ほど、早めに終わらせることにしたんだよ」
 ちなみに今日の正確な終了時刻は六時六分。美陽には知る由もないが、まさに数矢と会話をしていた数分がこの結果を招く原因になったと言える。
 表情を変えないように、美陽は小さく唇を噛んだ。
「お嬢さんは、洋の恋人かい?」
 無表情にそう尋ねた男に、美陽は一瞬面喰ったものの、すぐにとびきりの笑顔をつくり、「はい」と答えた。
 わずかに目を大きくした男に頭を下げ、今度こそ美陽は校門に向かって走り出した。
 ひよりの矢は残り三本。弓道は専門外だが、昨日と今日の様子を見るに、ひよりの実力はなかなかのものだと美陽は分析していた。
 少なくとも、何の妨害もない状況下では、彼女は確実に当ててくるだろう。
 ならば、やはり自分が常に洋のそばにいて、彼を守らなければならない。
 だというのに…。
 携帯電話で時間を確認すると六時二〇分。洋が自転車で真っ直ぐに帰宅したとすれば、恐らくひよりは追いつけないだろう。けれどもしも、洋がどこかに立ち寄っていたとしたら。ひよりが追い付いている可能性は大いにある。
 校門を出て右へ曲がる。美陽はそのまま携帯電話を開くと、洋のナンバーを探し出して通話ボタンを押しこんだ。走りながら耳に当てる。
 数秒の間をおいて、電話に出たのは話し中を知らせるツー、という音。
 すぐさま折りたたんで上着のポケットに放り込む。
 後ろから聞きなれた声が近づいてきたのはそのときだった。
「楽しそうだね。え、いや、今日は遠慮しとくよ。うん、じゃあ」
 足を止めて振り返ると、携帯電話を耳にあて、肩と自転車のハンドルに弓を乗せた洋が近付いてくるところだった。
 向こうも気がついたらしい。電話を切ってポケットにしまうと、美陽に向かって微笑んで見せた。
 洋が自転車を止める前に、美陽は自分から駆け寄った。
ブレーキが小さくきぃ、という音を立てる。自転車が止まり、洋が右脇に降りた。
「洋くん、心配したんですよ!」
 珍しく声を張り上げた美陽の様子に驚いたらしく、洋は美陽の顔を覗き込んだ。
「心配って、どうして?」
「それはほら、今朝の矢です」
「ああ、大丈夫だよ。あんなのはただのいたずらだって」
 笑いながらそう言う洋。
 美陽自身はあれに害がないらしいことは知っているが、それと知らずに飛んできた矢に対してこの様子である。多少の危機感は感じて欲しいと考える美陽だった。
 結局今朝は、続く恐れのある矢の妨害を考えたことで大急ぎで屋上に上がってしまい、いまいち劇的な演出が出来なかった。このままではあの矢から洋を守って気を惹く作戦が成り立たないではないか。
「洋くんは少し危機感が足りなさすぎます」
 そう言って軽く頬を膨らませて見せる美陽。これには洋も、いくらか表情を硬くさせた。
「何が起こるか分からない世の中なんですから、もう少し気をつけてください」
「分かった、気をつけるよ」
 そう言って、洋が首を小さく動かしたのを見ると、美陽は自転車の反対側、洋の左隣に回り込んだ。
「それではこれからしばらく、わたしが洋くんのボディガードになりますね」
下から洋の顔を覗き込んで、笑顔を作る。
「え、ボディーガード?」
「そうです。これから毎日、私が洋くんを危険から守って見せますから」
「い、いや、美陽ちゃんも部活忙しいだろうし、無理はしない方がいいよ」
「気にしないでください。これはわたしがしたくてしていることですから」
「……うん、それじゃあ、ありがたくお願いするよ」
「はい、お願いされます」
 そう言って、美陽は心の中で小さくガッツポーズを作った。洋と毎日通学帰宅を共にする約束を取り付けたのである。
 洋が歩きだすのに続いて、美陽も歩きだした。
「そう言えば、どうしてあちら側に?」
「ん、ちょっと本が買いたくって」
「駅前の本屋さんより大きいお店があるんですか?」
「あー、いや、古本屋さんなんだ。結構珍しいものが置いてあったりしてね」
「そうなんですか。ずいぶん急いで出て行ったとうかがいましたけど、何かお目当てが?」
「あ、うん、残念ながら、売り切れちゃったみたいなんだけどね」
 そう言って笑う洋の横顔を眺めながら、美陽は考える。
 昨日も同じ方向に自転車を走らせた理由は、それだろうか。けれど、昨日見た表情はもっと別の、少なくとも何か欲しいものがあるだとか、そういった類のものでは無かったように思う。
同時に、美陽は辺りに気を配ることも忘れてはいなかった。
 しかし、ときどき後ろを注意するものの、今のところひよりの姿はない。
もしかすると、彼女も洋を見失って駅方面に向かったのではないか。
そんな考えがふと頭をよぎった。
すでに校内でのひよりの行動には釘を刺すことに成功した。次に彼女がどこで行動を起こすか。それを考えなければならない。
この辺りの住宅街ではあまりにも見通しが良すぎる。となれば考えられるのは、やはり障害物がいくらでもある駅前周辺。
美陽はそのように当たりをつけた。
そして、それが分かっていれば対応できるだけの実力が自分にはあるということも、彼女は自惚れではなく知っている。
 あと三本、いかに洋の目の前で止めて見せるか。
 美陽は自分に助けられ、「ありがとう美陽ちゃん」と熱い視線を注ぐ洋の姿を想像した。
 駅前のビルが徐々に姿を大きくする。
(どこからでも、どうぞ)
 六時四〇分。
 空のオレンジに少しずつ、薄い紫が混ざり始めていた。

「なんでよーっ!」
 そんな大声は、店内の雑多なBGMにかき消される。ひよりに注意を向けたのは隣の筐体でゲームをしていた男性くらいのもので、その視線さえも、すぐに画面に戻される。
 向って右端、対面の台から数矢が顔を出した。
「まだやるかー?」
 若干張り上げたその声も、もう三度目である。
「あったり前でしょ!」
 応じた顔を引っ込めて再度画面に向かうと、スティックの脇に積んでいた一〇枚目、最後の百円玉を、投入口も見ずに手の感覚で放り入れる。
 すぐさま乱入ボタンを押して、キャラクターを選択。試合開始前のデモ画面が流れている間に、スティックを動かして技の確認をした。
「今度こそーっ!」
 言い終わるのと同時に、一ラウンド目が開始された。
 数矢の操るナイスバディの格闘少女が距離を詰めてくる。ひよりは持ちキャラであるメガネのイケメン弓使いに、エナジーアローを放たせた。
 緊急回避でそれをかわし、さらに距離を詰める数矢のキャラ。
(大体、こんなの今までなかったじゃないのっ!)
 新システムに対する今日何度目か分からない文句を心の中で叫びながら、フェイントのキックを交えて再度エナジーアロー。これが上手く決まり、わずかに数矢のキャラが後ろに下がった。
 そのまま距離を保ち、小技を交えながら数矢の飛び道具を誘う。
「きたっ!」
狙ったところに反射技を展開させると、数矢の撃った技がそのまま返っていく。
(いい感じいい感じ!)
 ひよりの体力ゲージは未だ満タン。対して数矢の方はすでに半分ほどに減っていた。
 距離をとっての飛び道具が、徐々に数矢のゲージを削っていく。
(よしよし!)
 必殺技ゲージがたまり、最後はこれで決めてやろうと、距離を詰めた。ひよりのキャラの超必殺技は、空中からのエナジーアローの連射。ド派手な技で今日の負けを払拭してやるつもりだった。
 が、何事も欲を出してはいけないものである。
 通常技でガードを誘ったところで自キャラを空中に舞わせると、レバーを反回転させながら、強パンチと弱パンチを同時に押し込んだ。
 ぴきーん!という音と共に激しく輝くイケメンを眺め、勝ちを確信したそのときだった。
 連射される矢の一本目をガードした数矢のキャラが一瞬白く光り、本来硬直が発生するはずの次の瞬間には、ひよりのキャラの真下に潜り込んでいた。
「え!ちょっとなにそれっ!」
 筐体の上に向かって叫ぶが、当然数矢がそれに応じるはずもない。代わりに聞こえてくるのは、激しくレバーを動かす音である。
 次の瞬間、数矢のキャラが、先ほどのひよりのキャラよりも激しく光を放った。
「あっ!」
 八割以上削られて点滅した体力ゲージ、そして必殺技ゲージの蓄積。これによって、超必殺技の威力は一・二倍になる。
 誰もいなくなった空間に虚しく矢を連射し続けるイケメン弓使いに向かって、連続アッパーが叩きこまれた。
 見る見るうちに削られる体力ゲージ。
 最後のアッパーがガガガガガガ!とド派手な音を立て、拳が撃ち抜かれると、画面に大きく「K.O.」の文字が躍った。
「ちょっと!おかしいじゃない一撃なんてっ!」
 立ち上がり、筐体の向こうの数矢を見下ろす。数矢も顔を上げてそれに応じた。
「しょうがねーだろ、コマンド難しいんだぞあれ」
「それじゃさっきのあれ何よっ!こっちが先に当ててたでしょっ!」
「ガードキャンセル。俺も偶然上手くいったんだけどな」
 にっ、と笑う数矢を思いっきり睨みつけ、立て掛けた弓とバッグを勢いよく掴み取ると、二ラウンド目の開始を告げる音声に背を向けて出口に向かった。
 外に出ると、冷えた空気が心地よかった。日は完全に沈み、空は黒く変わっている。ところどころにうっすらと雲が見えるが、辺りの建物に遮られて、月は確認できなかった。あるいは、地上の明かりが照らしているのかもしれない。
わずかに遅れて数矢が店を出ると、背後の大音量が自動ドアによって切り取られた。
 後ろを向いたまま立ち止まっていると、数矢が近づいてくる気配があった。何か文句でも言ってやろうか。そう思った次の瞬間、ひよりの首に数矢の腕が思いっきり巻きついた。
「ぐえ!」
「今日は、俺の勝ち!」
 視界の左端に数矢の顔を捉え、足みたいな右腕に絞められたままの首を無理やり動かしてそちらに視線を向ける。
「普通、そこはっ、わたしを、フォローするとこじゃ、ないのっ!」
「お前、俺が今までどんだけ負かされたか分かってんだろうな?」
「あ、さてはひそかに特訓してたわねっ!」
「さぁね~」
「くっそー、放せー!」
 首に巻きついた腕に両手で力を込めると、それは案外とあっさり外れてくれた。
「今度はこうはいかないんだからねっ!」
 びしっ、と顔に向かって指を差すと、「いつでも相手になってやろう」と言って、数矢は笑った。
 ラスボスに向かって負け惜しみの図。
「よっし、じゃあ今日は数矢のおごりでクレープでも食べようっ!」
「まてまて、おかしいだろ!」
「なんで?」
 さもそれが当たり前とでも言うように、無い胸を思いっきり張って言うひよりである。
「お前な、今まで同じルールで俺がどれだけおごらされてきたと思ってんだ?」
「だって、わたしもうお金ないもん。誰かさんのせいで」
「いくらなんでもおにーさん怒りますよ?」
「ホントだって、ほら!」
 一〇円玉と一円玉が数枚転がる財布を広げて見せると、目の前の大男はがっくりとうなだれてため息をつく。
「いいか、貸すだけだぞ!明日返せよ!」
「ありがとう、数矢太っ腹ぁ!」
「聞いてたか?貸、す、だ、け!」
「今日は、バナナチョコクリームにしよっかなー!」
 聞こえないふりを装いながら、軽快な足取りで五歩ほど歩く。
「ひより」
立ち止まったところでちょうどかけられた数矢の声にくるり、と振り返る。
「いくらか気晴らしになったか?」
「え?」
「その、なんだ、昨日からお前、なんか難しい顔してたからさ」
 照れ隠しなのか、視線を逸らして、右手の人差し指でこめかみの辺りを擦りながらそう言う数矢に、ひよりはいたずらっぽく笑いながら答えた。
「半分くらいかなー」
 そんなことを言われて気がついた。
本当はすっかり、胸のつかえは消えていた。
 今だけのことかもしれない。だけど、それでも数矢のおかげで気が楽になったのは間違いないことだった。
「もう半分は、クレープか?」
「さすがっ!分かってるぅ」
とびっきりの笑顔で応じると、数矢は今にも「しょうがねぇなぁ…」と言い出しそうな顔で小さくため息をついた。
 その直後だった。数矢の視線がひよりの斜め後ろ、何か遠くにあるものを見るように注がれる。数矢の顔が強張るのを見て、その視線を追うように振り返った先、何かが光った。
「ひよりっ!」
 一瞬の出来事。
 声に振り返ると、視界一面に数矢の巨体があって、肩から地面に押し倒された。
「きゃっ!」
 あまりの勢いに投げ出された弓とバッグが、地面に落ちる。
 鈍い痛みを肩に感じながら、偶然に向けた視線の先、ほんの少し前まで自分が立っていたあたりに、何かが勢いよく滑り込み、かんっ、という硬質な音を立てる。
 コンクリートに当たって一度大きく跳ねたそれは、もう二度ほど、高い音を立てて、地面に転がった。
 それをじっくりと眺める間もなく、地面に押し付けられた体が、今度は勢いよく転がった。
「うひゃぁっ!」
 方向感覚が伴わない中、体の下、足の方向に、再度硬い音が響いた。
 抱えられたまま二回転。
ゲームセンターと隣のビルとの隙間に転がりこむと、ひよりは数矢に抱き起こされた。
「ひよりっ、大丈夫か?」
しかしその声は、ひよりには届いていなかった。
立ちあがる直前に見えた、音の正体。
数矢の体に遮られて今は見えないが、コンクリートの灰色に、鮮やかな赤を映えさせたあれは―
「どういうこと…?」
 小さくつぶやいたひよりの体が、前後に軽く揺さぶられる。
「おい、ひよりっ!」
 はっ、となって視線を上げると、見下ろす数矢の顔があった。
「大丈夫か?」
「あ、うん」
 ふう、と息を吐いた数矢が身体を離すと、変わらずコンクリートに横たわったままのものが視界に入った。
 ―見間違うはずもない。ひよりが弓袋に忍ばせたハートの矢と同じものだ。
「逃げやがったな…」
 呟く数矢の視線の先、あの矢が飛んできた場所―ゲームセンターの向かいから三軒隣のビルの非常階段―に、すでに人影はない。その場所は奇しくも、ひよりが目をつけたビルのうちの一つだった。
(同じものを持ってる人が、わたしの他にいる…)
 一瞬見えたのは、弓に辺りの光が反射したもの。
(誰かがわたしを狙ったってこと?)
 あのビルからの距離はおよそ二〇メートルと言ったところか。競技の距離よりも短いとは言え、全く弓を扱ったことのない人物がまともに狙える距離ではない。
弓道部員であることは間違いなさそうだが、かといって部内にそれほど仲の良い男子生徒は思い浮かばない。
 そこまで考えたところで、周囲のざわめきに気がついた。
 落ちた矢を遠目に眺めながら立ち止まる人たちが十数人、時折彼らの、明らかに好奇と分かる視線がひよりと数矢に向けられる。
「数矢、行こう」
「え?」
 今度はひよりが数矢の手をつかんで思いっきり引っ張った。
「お、おい!」
 落としたバッグと弓を拾い、転がった二本の矢も手に取る。ついでにその先に転がっていた数矢のバッグも拾い上げると、円を作りつつあった人の隙間を抜け出して、走った。
 視線を背中に感じたまま五〇メートルほど走り、細い道に入る角を曲がる。
「ひより」
 数矢の声に、足を止めた。
 振り返り、彼の腕を離す。
 通りから差し込む明かりを背にして、影になった数矢の顔。険しい表情をしているのが分かった。
「お前、なんか人に恨みでも買ってんのか?」
 その言い方があまりにも真剣で、ひよりはついおどけてしまう。
「うーん、わたしってほら、魔性の女だし?」
 いつもなら「なに言ってんだばか」とでもくるところだっただろう。けれど、数矢はこれには答えない。
「イタズラにしちゃ、タチが悪すぎる」
 低い声でそう呟くと、シャッターの閉まった貸店舗の壁に寄りかかり、腕を組んだ。
 まずいことになった、とひよりは思った。実害がないことは知っているものの、それを数矢にどう説明したらいいのか。ましてそれが好きな人のハートを射止めるための矢だなんて。
美陽のときとは違い、気心の知れた相手だけに、恥ずかしさもあった。
 それと同時に、時間がたって改めて、自分が好きでもない相手を好きになっていたかもしれないという可能性を思いつく。
 それを考えて、ひよりは自分の背筋に走る寒気を感じた。
「とりあえず、警察に言った方がいいな」
「へ?」
 相変わらず壁に背をもたれさせて腕を組んだままの数矢に視線を送る。
「さっきのあれ、矢だろ?持っていけば、指紋とか取ってくれるかもしれない」
 そう言って見下ろす数矢と目が合う。心の中でゆっくりと彼の言葉を反芻し、ようやく言いたいことが理解できた。
「警察って…、いくらなんでも大げさじゃない?」
「ひより、お前死んでてもおかしくなかったかもしれないんだぞ?」
 それはそうだ。実際の矢だったらの話ではあるが。
 けれど、そうではないという説明をすることが彼女には出来ない。
 ひよりは気づいてしまった。
 自分がしようとしていることの後ろ暗さに。
 他人の心を強引に捻じ曲げ、自分に向けさせるということの理不尽さに。
「さっきの矢は?」
「落としちゃったみたい」
 確かに握ったはずの二本の矢は、手の中には無かった。
「ちょっと待ってろ」
「数矢」
 背を向けた数矢を呼び止める。
「多分持って行っても指紋なんてついてないよ。ほら、弓道って手袋みたいなのはめてやるもんだし」
実際はすでに煙のように消えてしまった矢である。どこを探しても見つかるはずはない。
けれど、これでは数矢を止めることは出来なかった。
無言で通りに出て行こうとした数矢が足を止めたのは、だから別の理由によるものである。
小さな人影が横から滑り込んで来て、数矢の大きな身体に隠れるのが見えた。
「数矢さん!」
「美陽!」
 二人の驚く声が聞こえた後で、数矢の陰に隠れた人物が、体から顔を出した。
「いた!」
 小さな影―武土岐美陽は、ひよりを認めるなり数歩の距離を駆け寄った。
「洋くん、見ませんでしたか?」
 およそ穏やかとは言えない口調である。
「見てないけど?」
ぶすっ、とした口調で、ひよりはこれに応じた。いきなり現れていきなりそんなことを言われても、ひよりには何の事だか分からない。そもそも彼女にしてみれば、洋はとっくに帰宅したものだと思い込んでいるのだから。
「さっきのひとごみ、矢が飛んできたとか聞こえてきましたけど」
「それはわたしじゃなくて―」
 なおも詰め寄る美陽を止めたのは、背後からの数矢の一言だった。
「洋なら、さっき電話あったぞ」
 その言葉の意味を確かめるように、美陽の眉間にしわが寄る。ゆっくりと振り返り、数矢に視線を向けた。
 ひよりも美陽ではなく、すでに数矢の方を見ていた。
 二人の視線が数矢に向かい、数矢の方は二人を上下交互に眺める。
 三秒ほどの間があって、ひよりと美陽、二人の声が重なった。
「戌亥先輩のこと知ってんの!?」「洋くんのこと知ってるんですか!?」
 二人が同時に一歩詰め寄り、数矢の首がわずかに下がる。
 あまりの迫力に、頷きながら小さく答える数矢である。
「え、うん、去年同じクラスだったし…」
 これに反応するように、再び同時に一歩詰め寄る二人。
「普通そういうこと先に言わない?」「普通は先に言うものじゃないですか?」
「いや、そう言われても…。っていうかなんで俺だけ?洋にも言えよ」
「戌亥先輩はいいのっ!」「洋くんはいいんですっ!」
「お前ら、仲いいな」
「「よくないっ!」」
 最後はぴったり唱和した。
「数矢、ひょっとしてあんた、戌亥先輩にもわたしをネタに変な話してるんじゃないでしょうねっ!」
「ああ、割り箸事件とかですか?」
美陽が振り返り、ひよりを見上げた。
どこか嘲るようなその表情を見て、ひよりは数矢を睨みつけた。
「あれを、話したのね…」
「いや、洋には話してない!」
「そういう問題かーっ!」
 跳びかかろうとしたまさに瞬間、数矢の背後に現れた人物に、ひよりの動きは停止した。
「あれ、数矢?」
「よう、今ちょうどお前の噂してたんだよ」
 振り返り、そう返す数矢の様子から、二人がある程度親しい間柄であることが理解できる。
「洋くん!」
 停止したままのひよりの横をすり抜けて洋の元に駆け寄る美陽。隣に立ってしっかりと意味ありげな視線をひよりに送ることも忘れない。
「何かあったんじゃないかって、心配したんですよ!」
「僕だって。ほら、なにか人が集まってたみたいだから」
「あ、やっぱりあれを見て。それにしても、どこに行ってたんですか。電話もつながらなかったし」
「え、ずっと本屋にいたけど」
「うそ、探しましたよ?」
「地下の奥の方」
「探しました」
「じゃあ、見過ごしたんじゃないかな」
「それで、電話つながらなかったんですか?でも、数矢さんが洋くんから電話があったって」
 そう言われ、慌てて訂正する数矢。
「いや、悪い、それはずっと前のことだ。七時ちょい前くらいだっけ?」
「うん、そうだね」
「お前なぁ。夢中になりすぎるのもいいけど、ちゃんと相手してやれよ。なぁ美陽」
「そうですよ」
 美陽は小さく頬を膨らませて見せる。
「でも、洋くんが無事でいてくれてよかったです」
 そう言って、あくまで控えめにではあるが、美陽は洋の腕に顔を寄せた。
「うん、ごめんね、美陽ちゃん」
 洋の方も、美陽に優しい視線を向けた。
 本当にこの物語のヒロインはどっちだといいたくなるような図である。
 さて、当のヒロインは、未だ数矢の後ろで固まったまま。
「そういえば、その、矢が飛んできたとかいうのは、何だったんです?」
 口を開いたのは美陽だった。
「ああ、そうだ。狙われたんだよ、ひよりが」
 そう答え、数矢が身体を開く。彼の背中に隠れていたひよりは、洋と真っ直ぐに向かい合う形になった。
「ひよりちゃんが?」
 驚いたように目を見開いた洋の視線が、数矢からひよりに移る。
 あれからたったの二日しか経っていないはずなのに、正面から洋と向かい合うのはものすごく久しぶりのような気さえした。
 目をそらすのも不自然だけど、このまま視線を交わし合うのもつらい。
「そ、そうなんです。まぁ、いたずらだと思うんですけど。ね、数矢」
 話を振るように見せて、数矢の方に目を向けた。
「こんなもんがイタズラで済むわけない。今朝だって、学校で同じことがあったばっかりだろ」
 それが数矢の口から出るのを聞き、ひよりは俯いた。
「うん、今朝はどうやら、僕が狙われたみたいなんだけど」
「お前が!?」
 ひよりは居心地の悪さを感じながらも、何も言うことが出来ない。
「やっぱり、警察に言った方がいい」
「いや、それは待った方がいいと思う」
「どうして?」
 数矢だけでなく、美陽の視線も洋に向けられる。
 ひよりも、洋の視線が数矢に向いていることを確認して、顔を上げた。
「お前もひよりも無事だったからいいものの、次はどうなるか分かんないんだぞ?」
「いや、だからこそ様子を見た方がいいと僕は思う」
「だから、なんでそうなる?」
 押し殺したような声。数矢のこんな声を聞くのは、一〇年ほどの付き合いの中でも初めてだった。
友人二人に向けられた暴力に対して、彼がどれほど怒っているかがよく分かった。
 それだけに、ひよりの胸はまた少し痛みを訴えた。
「下手に刺激を与えるのは良くないよ」
「なら、このまま放っておくのか」
 数矢の語調が荒くなる。
 その言葉に、洋も口を閉ざした。
 沈黙。
 通りの喧騒だけが、遠くに聞こえた。
 居心地が悪かった。
 自分がしたことに、数矢がこんなにも怒っている。
 正直に全部話してしまおうか。
 そんな考えが一瞬頭をよぎり、俯いた顔をわずかに上げる。
 その途中で、美陽と目が合った。
 彼女もこの雰囲気に合わせて黙ってはいるが、その目は落ち着き払っている。
 それはそうだろう。
 あるいは、ひよりが名乗り出るのを待っているのかもしれない。
 ひよりは小さく首を振った。
 それだけは出来ない。本当のことを話せば、ひとまずこの場は収まるかもしれないが、数矢はこのことをよくは思わないだろう。それに、洋との距離は確実に縮めようがなくなってしまうに違いない。
 それでは、美陽の思うつぼではないか。
そう考えたところで、洋がゆっくりと口を開いた。
「今朝のことを思い出してみると、多分犯人は弓道部の誰かだと思うんだ」
「それが?」
 変わらず、数矢の口調は厳しい。
「今不祥事があると、今度の大会に出られなくなるんだ。それは困る」
「そんなこと言ってる場合かよ!」
「数矢、最後まで聞いてほしいんだ」
 洋の一言で、渋々といった様子ながらも、数矢は乗り出した身を一度引っ込めた。乱暴に背中を壁に押し付けて、洋の言葉を待つ。
「僕が、なんとか部内で探りを入れてみる」
 ひよりは俯いたまま、大きく目を見開いた。
「なんとか、僕の方からその人に止めるようにうったえてみる。でないと、僕はともかく、せっかく大会に出られるチャンスを掴んだひよりちゃんがかわいそうだよ」
「わたしは、そんな…」
「だから、少しだけ待ってほしいんだ」
 視界の端に、小さく頷く数矢が映った。

「まいったなぁ…」
 ベッドに横になり、真っ白な天井を眺めながら、ひよりは頭を悩ませていた。
 夕飯をたべて、シャワーを浴びれば、頭も切り替わるかと思ったが、実際にはそうはいかないようだ。
帰り際の洋の一言、「数矢は、ひよりちゃんを守ってあげて」
明日からはしばらく、数矢と帰ることになりそうだ。
それ自体は何も悪いことではない。だけど、今に限って…。
何度目か分からないため息をついて、ひよりは体ごと横を向いた。目に入った本棚に並ぶマンガの背表紙を、ただなんとなしに眺める。
あの矢で、洋の気持ちを無理やり自分に向かせることは、正しいことなのだろうか。
わたしの身を案じてくれる数矢。
自分だって狙われたにも関わらず、わたしが大会に出られることを一番に考えてくれている洋。
けれど、そこまで考えて美陽の顔が脳裏に浮かぶ。
「洋くんはわたしが責任を持ってお守りしますから。数矢さんは、ひよりさんを守ってあげてくださいね」
 ふつふつと怒りが込み上げてきた。
 再び仰向けになり、頭の下から枕を抜き取ると、それを天井に向かって思いっきり放り投げた。
「こんのおっ!」
 ぼすっ、という音がして天井を叩いた枕は、そのままひよりの顔面に落ちて同じ音を立てる。
「ぐへっ!」
 取り除こうと掴んだ手に、枕が一度、顔に強く押しつけられる。その感触がひんやりとして気持ちがよく、ひよりはそのまま手を止めた。
 視界が暗くなったのも、考えをまとめるのには都合が良かった。
もう一つ、考えなければいけないことがある。
ひよりを狙った矢。十中八九、いや十中十があのフードの男のものだろう。デザインもすっかり同じだったことは間違いない。
問題は、誰がそれを手にして、ひよりを狙ったのかということ。それを問い詰めようと思ったが、今日の帰り道にあの男はいなかった。
そこまで考え、再び思考はあの瞬間、自身が狙われた瞬間に巻き戻る。
自分の気持ちが、変えられていたかもしれないという可能性。
もう何度考えただろうか。
そのたびに、ひよりの背中には悪寒が走った。
残り三本。弓袋に隠し持った矢を頭に思い浮かべる。
あの三本をどうするのか。
捨ててしまう?
暗くなった視界に、再び美陽の顔が浮かび上がる。にっこりと、笑みを浮かべるその表情に、静まりかけた怒りの炎が、灯油でも放り込んだんじゃないかというくらいに大きく燃え上がる。
「ふんっ!」
 腹筋の力で上半身を起こす。顔に乗っていた枕が足の先にぼすっ、と落ちた。
(そもそも、そうよ!あの美陽って子が邪魔をしなければ、今頃わたしと戌亥先輩はラブラブなはずじゃないっ!)
 ひよりはベッドの上に立ちあがった。
(あんな子に、戌亥先輩を好きにさせてたまるかっ!)
 中空を見つめる瞳には、決意めいた光が煌々と輝いていた。
 四.

 昨日と同じ時間に目覚めた美陽は、机の上の携帯電話のウインドウが点滅していることに気がついた。
 頭の上、カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めながら、緩慢な動作でもっそり、とベッドから立ち上がると、寝グセの残る頭を軽くなでながら、携帯電話を開いた。
 メールが届いていることを知らせるアイコンをクリックすると、その内容に、徐々に寝ぼけた頭が覚醒していくのが分かった。
【今日は朝練をするので早めに出ます。先に行ってるね】
 半分しか開いていなかった目が、二倍の大きさにまで見開かれる。
「もう…、どうしてこう楽観的なんですか…!」
 すっかりとクリアになった頭に、洋の番号をコールさせる。三度の呼び出し音の後、洋が電話に出た。
『もしもし、美陽ちゃん?』
 声がわずかに拡散する雰囲気から、屋外だということが分かる。
「洋くん、昨日あんなことがあったばっかりじゃないですか。どうしてわたしを待っていてくれないんです?」
 努めて冷静に言葉を紡いだはずが、自分でも分かるくらいに声音がきつい。
『ごめんごめん、朝のすっきりした時間のうちに、どうしても撃っておきたくなったもんだから』
 けれど、それには気づかないのか、洋の口調はいつもとなんら変わらないものだった。
「もう…、それで、今どこですか?」
 美陽は大きくため息をついて自分を落ち着かせると、ひとまず洋の居場所を確かめることにする。
『もう学校の手前。美陽ちゃんはゆっくりしていいからね』
「え、ちょっと、洋くん!」
 言い終わる前に、電話は切れてしまっていた。
 ゆっくりしていい、と言われたところで、そうはいかないのが今の状況である。
 昨日の雰囲気から、ひよりにはどこか迷いが生じたように見えた。想定していたケースとは違ってはいるが、数矢の介入が美陽にとっていい方向にはたらいていることは間違いない。
 かといって、油断は出来ない。
 ひよりに関するある程度の人となりは理解したつもりだが、そこからさらに深く、彼女の精神構造までは読み取ったわけではない。
 なにしろ出会ってまだ二日しか経っていないのだ。それに加えて、決して友好的な関係というわけでもない。
 だからこれは分析ではなく、ほとんど勘の類である。
美陽の武道家としての勘が告げていた。
彼女は強い、と。
それは技量にのみ言えることではない。むしろ、彼女の行動力、そして、度胸。それらをひっくるめての経験則。
分野は違えど、およそ美陽が「強さ」と判断する項目を、ひよりは満たしていた。
だから、美陽も最後まで油断はしない。残る三本をひよりに撃たせきるまでは。
一つ懸念があるとすれば、もう一人、あの矢を持った人物の存在。ひよりを狙ったものであるらしいが…。
ひよりがその誰とも分からない相手のことを好きになってしまえば、その時点で美陽の勝利が決定する。
だというのに、美陽の中には、どこかそれが引っ掛かっていた。
これも言ってしまえばただの勘。ただし、これは武道家としての勘ではなく、美陽の女としての勘であった。

七時半。洋との電話からおよそ五〇分。美陽はようやく校庭にたどり着いた。
あれから大急ぎで身支度を済ませ(それでも二〇分ほどかかったが)、朝食も普段の彼女が見たら「はしたない…」なんて言いそうなスピードでとり終えると、猛ダッシュでここまで駆けてきたのである。
校庭には陸上部のメンバーがトラックをジョギングしている姿があった。準備運動と言ったところだろうか。
それ以外にはまだほとんどひと気はなく、朝の学校という雰囲気である。
弓道場に向かいながら横目にそんな様子を眺めていると、ぱぁん、という音が聞こえてきた。音は普段聞くそれとは違い、朝の澄んだ空気を震わせて、やけに清々しく耳に響いた。
道場の玄関のドアをゆっくりと開く。からから、と小さな音がして、スライド式のドアは素直に開いた。
玄関の正面、射場の入口に近づくと、弓を構えて的を睨む洋の姿が目に入った。久しぶりに見たその表情の、普段の笑顔とのギャップにどきり、とさせられる。服装も、大会のときに着る袴姿である。東―洋の身体の正面―から差し込む朝日が袴の白を輝かせ、その姿をどこか神秘的に見せた。
(弓道をしている洋くん、やっぱり格好いいです)
残りは二本のようだ。
邪魔をしないようにしよう。そう考えて、美陽は一度射場の入口から身を引いた。
射場の後ろ側、ガラスの張られた控え室を通り、もう一方、洋が背中を向けている側の入口から、小さく一礼をして射場に入る。洋の斜め後ろまで近づくと、その場に正座をした。
直後、弦をはじく音がして、わずかに遅れてぱぁん、という音が響く。さっきよりも間近に聞くそれは、この場所の静けさとも相まって、余計に清々しく、美陽の耳を打った。
ぴん、と伸びた背筋に、大きく広がった両腕。素人目にも分かる射の美しさに、思わず手を打ちそうになって、美陽は慌てて浮かせかけた手を膝に戻した。
大の字になった体を戻し、最後の矢を番える洋。的を見ると、三本がほぼ中央に集まっていた。最後の一本を当てれば確か…、そう、皆中である。
張りつめた緊張感が伝わってくるのが分かり、美陽の背筋も自然に伸びる。
そのとき、洋の姿を見守る視線の端に、ほんの一瞬鮮やかな色が見えた気がして、美陽はそちらに視線を動かした。
洋と彼の狙う的を直線で結んだちょうど反対側、美陽が正座をしている位置からわずかに右側の、弓を立て掛けるための台に、それはその通り立て掛けられていた。
見なれた茶色い布の袋。それは普段、洋が自分の弓を持ち歩く際に使用している弓袋。それが半分程度に折りたたまれて、立て掛けられているのである。
けれど、それはおかしい、と美陽は思った。弓が入っていないはずのそれがこうして立て掛けてあるということは、中に何か支えになるものが入っている、ということである。本来弓をしまうだけの横幅があるその袋は、今は中に入った何か細いものを中心に、その左右が重力に引かれてたわんでいた。
先ほど、ほんの一瞬見えた色は何だろう。やはり気になって、美陽は袋に沿って視線を落とした。
その視線が下までたどりつき、美陽は息を飲んだ。
わずかに体を倒せば手が届く距離に、それはある。
ゆっくりと、上半身を倒しながら右手を伸ばす。
触れた瞬間、それら(・・・)は中でわずかにふれあい、かちゃ、と音を立てた。
ほぼ同時に、弦をはじく音と的を射抜く音が聞こえて、美陽は慌てて身体を戻す。
的のぎりぎり左端に、最後の矢が命中しているのを見て、美陽は手を叩いた。
射を終え、姿勢を戻した洋が振り返る。
「美陽ちゃん、いつからいたの?」
「三本目の途中くらいでしょうか」
 さして驚いた風でもない洋に、美陽も努めて冷静に返事を返す。
「調子、いいみたいですね」
「うん、まずまずかな。あと一回撃とうかと思ってるんだけど」
「じゃあ、終わったら一緒に行きましょう」
 微笑みながら頷き、矢を取りに行く洋の背中を見送って、美陽はもう一度、視線を右に動かした。
袋の入口、一〇センチほどスリットが入ったその部分から、鮮やかな赤が顔を出していた。
 
 今日も今日とて、ひよりは誰よりも早く着替えを終えると、その足を駅前通りに向けて走らせた。
 普段通る道ではなく、細い裏路地へ。こちらを抜けた方が、目的の場所には幾分近いはずである。
 六時一〇分。空の色は東から徐々に暗くなりつつある。街灯はなく、あと一時間もすればこの道は真っ暗になるだろう。
 聞こえる音は、リズムよくコンクリートの道路を打つ自分の足音と、右肩に担いだ弓袋に忍ばせた、三本の矢が触れ合うかちゃかちゃ、と言う音。
 結局、ひよりがたどり着いたのはごくごくシンプルな結論。すなわち、「美陽にだけは負けられない」ということだった。
 もともと彼女は深く考えて行動をするタイプではない。良くも悪くも、単純な性質を持っているといえた。
 けれど、それが彼女の行動の中で妨げになっているかと言えば、まったくの逆である。一つに目標を絞った彼女の思考は、単純にして明快。それこそがひよりの原動力と言っても過言ではない。
 結果、矢の及ぼす影響の是非を問うことよりも、美陽に負けまいとする思いが勝(まさ)った、というのが昨晩から今に至るまでの、彼女の思考の流れである。
 その考えが客観的に正しいものかどうかは別として、単純な事実で言えば、美陽の見立て通り、ひよりが彼女にとって手強い相手であることは確かだった。
 付け加えて、物語的な観点から言うならば、恋は盲目という言葉もあるくらいだし、ヒロインにはそれくらい突っ走ってもらってもいいじゃないかという意見もある。
 そういった事情を含めながら、今この細い裏路地を走り抜けるひよりの心にすでに迷いは無く、今彼女の心の大半を占めているのは、「戌亥先輩とラブラブになるっ!」ということであった。
 一〇分ほど走り、ようやく静けさの中にわずかな喧騒が混ざり始める。裏路地をぬけて幾分大きな通りに出ると、いくつかの建物に遮られていたビルが、ようやく左前方に見えた。
 それは、昨日何者かがひよりを狙った場所である。
 ぎりぎり車が二台すれ違えるかという道を横切り、ビルの前に立つ。改めて目の前で見ると、三階建てと言えど、それなりに大きな建物だということが分かった。
学校も三階建てではあるけれど、横幅があるからあまり高さを感じないのかもしれない。
そんなことを考えながら、ひよりはビルの脇、非常階段の登り口の前に移動した。
ところどころ赤い錆の浮いた階段を眺めて、築何年くらいだろうか、なんてことを想像する。ビル自体のコンクリートにもところどころにひび割れが見られ、相当年季が入っていることは間違いないらしい。
ひよりは一度階段を背にして振り返り、辺りを確認した。
こちらの通りは商店街なこともあり、それなりに人通りは多いが、今ひよりが立っているビルの周囲には商店がないことが幸いしてか、明るさはそれほどでもない。
ビルを挟んで反対側、ゲームセンターがある方の通りから、わずかに明かりが漏れている程度だった。
すでに日は落ちかけ、空全体が薄い紫に変わっている。
ひよりは目の前を通り過ぎて行った学生風の男の背中が一〇メートルほど離れるのを待って、階段に足をかけた。
かんっ、と思っていた以上に甲高い音を立てる階段に、心臓が一度高く鳴った。
二歩目を慎重に踏み出して、何とか一階の半分を折り返す。二階に上ると、ひよりは一度弓を壁に立てかけて、膝をついた。
手すりになった部分から下を見下ろすと、すでにそれなりの高さがあった。こうして身をかがめていれば、よほど注意して見ない限りは、下から気付かれることはないだろう。
問題はどちらかと言うと、非常口から出てくるかもしれないこのビルの関係者の存在である。重そうな扉についた曇ったガラスには、うっすらと、黄色い光が張り付いていた。
ひよりはゆっくりと立ち上がると、再度階段を上り始めた。今度は幾分余裕がある。極力足音を立てないように三階部分まで上り切ると、反対側に顔を出してみた。
こちら側はゲームセンターやパチンコ店が集まっており、下からの明かりが急にまぶしかった。
けれど、そんな光の彩りが加えられているのは地上の高さにある部分だけで、下を歩く人たちは、誰ひとりとして上を見上げることなどない。
左前方に、昨日立ち寄ったゲームセンターが見えた。
(ここから狙ったわけね…)
 昨日、自分が立っていた位置に向かって、矢を引く格好を作ってみる。
 角度的には手すりになった部分の下、一〇センチ間隔程度に鉄の棒が並んだ部分から狙わなければならず、見通しは良くない。射角の変更も難しいだろう。
(これはちょっと、無理かも…)
 あと一〇センチも身長があれば多少は違ってくるだろうか。とはいえ、つま先立ちで狙うわけにもいかない。
 手すりに体重を預けて左右を眺めると、ひよりは一度ため息をついた。
 見通しはいいが、斜め下方向に向けて矢を撃つとなると、使いづらい場所であることは否めない。
 別の場所にしよう。ちょうどそう考えたときだった。視界の隅に、ゲームセンターに入っていく二つの影が見えた。
(うそっ!)
 数矢と洋であった。数矢が先に、自転車を店の前に止めた洋がその後に続く。
 ひよりは慌てて、立て掛けてあった袋から弓を取り出すと、コンクリートの壁の欠けた部分を利用して弦を張った。
 まさかこんなに早く現れるとは思わなかった。それも、数矢が一緒というのは予想外である。ともかく、出てくるまでそれほど時間はかからないだろう。
 ?をはめて、矢をとりつける。ここまでで八秒。胸当ての有無は、言わずもがなである。
ひよりはゲームセンターの入口に意識を集中させた。
 多分、間もなく出てくる頃だろう。しかも都合のいいことに、美陽がいっしょではなかった。こんなチャンスはないかもしれない。
 目を瞑り、大きく息を吸い込み、同じスピードで吐き出す。
 鼓動が安定したのを自覚して目を開き、弓を持ち上げた。
 自動ドアが開いたのはちょうどそのタイミングである。二人は入口正面に立ち止まったまま、何事か会話を始めた。
 こちらに背を向けた格好の数矢と向かい合わせに、ひよりに対してはほぼ正面を向いた角度で、洋が立っている。
 好都合。射角が限定されることを懸念していたが、動かない相手に対してはその限りでは無い。
 視界が洋を中心にどんどん狭まる。中央の洋を除いて周囲が暗くなった、その瞬間だった。
「ここで何をしているんです?」
 背後からかけられたその声に、ひよりの心臓が体ごと、びくん、と跳ねた。
 思わず右手が離れ、弦の音が下からの喧騒に混じってわずかに響く。
 慌てて振り返った先にいたのは―
「びっくりしました?」
「あ、あんたねぇ…」
 ―いつの間に近づいたのか、相変わらずの笑みを浮かべた美陽だった。
「まさかこういう手で来るとは思わなかったわ…」
 心臓を押さえたまま睨みつけると、美陽の方も口角を上げてそれに応じた。
「それにしても、びっくりしました」
「それはこっちのセリフでしょうが」
「いえ、そうではなくて」
「じゃ、なに?」
 目を丸くして、驚いたということをアピールする美陽に、乱暴な口調で返すひより。
「本当にすっ、と消えちゃうんですね」
「なんの話…?」
 まだ息を整えているひよりに対して、今度はどこか楽しそうな美陽である。その様子を二秒ほど眺めてから、ひよりも大きく目を見開いた。
 手すりを掴みながら、ぶおん、と音がしそうなくらいものすごい勢いで振り返ると、矢の行方を確かめる。
 見下ろした先には、棒立ちになった数矢に、何事か声をかけている様子の洋の姿があった。
「ちょっと、ねぇ、どうなったか見たんでしょ!?」
 美陽は相変わらず楽しそうな顔で、上半身を左右に揺らしていた。
「こういう場合ってやっぱり、数矢さんがひよりさんのことを好きになっちゃうんですか?」
「うっわ…」
 ライトノベルヒロインひどい顔ランキングを開催したら、間違いなくベストファイブには入りそうな顔を作って、ひよりはこれまでにないくらい大きなため息をついた。
「そんな顔したら数矢さん傷つきますよ?」
 元はいいのにこういう顔も出来るところが、ひよりの芸風の広さを現している。
「うっさい!誰のせいだと思ってんのよっ!」
 人ごとのようにそう言う美陽を頭上から怒鳴りつけると、美陽は地上―ちょうど数矢たちがいるであろう方向―を指さして、「ほら」と言った。
 再び振り返ると、今度は数矢がこちらを見上げていた。
「ちょっ、あんたねぇ!」
 慌てて通りからは見えない位置まで移動して、ひよりは矢と弓を元通りにしまった。
 見えただろうか。少なくとも、誰かがいた、ということは確認できたはずだ。
「あ、数矢さん、走りだしましたよ」
「いちいち解説しなくて結構っ!」
 幸い、ビルとビルの間は通り抜け出来ない。数矢が来るにしても、大きく回り込まなければならないはずである。傍らに置いたバッグを乱暴につかみ取ると、今度は音がするのも構わずに、ひよりは階段を駆け降りた。

「もともと好きな人に対しては、効果あるんでしょうか」
 美陽は、走りだした数矢を眺めながらそうつぶやくと、今度はゲームセンターの前に残った洋に視線を戻した。
 自転車に乗って数矢の後を追いかけていく洋を見るその目には、どこか悲しい色が浮かんでいた。

 階段を降りたひよりは、ひとまずこの場を離れることを考えた。
 多少時間をおけば、数矢に対する効果は自然と切れるはずである。
 ここまで来た道を戻り、さらに反対側へ。道の端に時折身を隠しながら、コンビニの前までやってきた。
 フランチャイズの小さなコンビニである。いつ来ても客はほとんどいない。店員のおばちゃんも、入口の音が鳴らない限りは店の奥に引っ込んでいる。そういう意味では人目を気にすることが無いのは幸いだった。
三台分程度のスペースしかない駐車場のフェンスに弓を立て掛け、その傍らに腰を下ろすと、ひよりはまた大きなため息をついた。
(してやられたわ…)
 美陽には最初から尾けられていたということか。
 そして冷静に考えてみれば、数矢と洋が一緒にいたのも、恐らく彼女によるものだろう。数矢を一緒にさせるということは、同時に、自身がひよりを止められなかったときの保険にもなる。
 策士。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。
 運動面での実力があるのはもちろんだが、こういう方向の攻め方までされるとは考えてもみなかったのである。
(くっそー、今日こそいけると思ったのに…!)
 どうにも彼女に対しては相性の悪さが否めない。
(単純な攻めだけじゃだめってことかなぁ…)
 ひよりはフェンスに立て掛けた弓の袋に目をやった。コンビニの店内からの明かりを受けて、白く反射するそれに手を伸ばすと、中の矢が触れあってかちゃり、と音を立てた。
 まだ二本ある。
逆にいうなら、もう二本しかない。
 昨日までのひよりであれば、前者だっただろう。今日のところはこれまで。残りはまた明日考える。
 それをあと二回繰り返して、そして洋の隣にいる人物を想像する。
 そこにいたのは、美陽だった。
 穏やかな笑みを浮かべながら、笑い合う二人の姿。
 悔しいが、洋と美陽はお似合いのカップルだと思う。
並んだときの背丈のバランスといい、ビジュアル的な釣り合いといい。
本人には絶対に言ってやらないが、美陽はひよりから見ても可愛い。こういった出会いでなければ、是非ともお友達になりたかったと思うくらいの可愛らしさである。
しかし、その愛らしい見た目に反し、こと洋に関する戦いにおける彼女の活躍たるや、歴戦の騎士のそれである。
美陽がいかに洋のことを想っているのかは、嫌というほど理解できた。
けれど、それはひよりにしても同じことである。
いくらあいての方が付き合いが長かろうが、そんなことは関係ない。
洋の心を射止める。そのためには、このまま直球勝負に出続けるのは賢明とは言えない。
かといって、どんな変化球を投げればいい?
ひよりは考えた。
そして数秒後、出した結論は単純。しかしそれだけに、実に彼女らしいものであるといえた。
「そっか。直球がダメなら、もっと早い直球を投げればいいじゃない」
 そんなどこぞの王妃みたいなことを呟いて、彼女は立ち上がった。
 しかし、そんな彼女の前に立ちふさがる影がひとつ。
 コンビニの駐車場に駆け込んできたのは、数矢である。よほど全力で走ってきたのだろう、軽く息を切らした数矢は、ひよりを見つけると一度大きく息を吐きだしてから、ゆっくりと近づいてきた。
「げ、数矢…」
 ひよりは後ずさった。コンビニの明かりに照らされた数矢の表情が、やけに厳しく見えたためである。
 口を真一文字に結んだ数矢が、つかつか、と近づいてくる。対してひよりは、駐車場に置かれたタイヤ止めの置き石に踵をひっかけたまま。
 気づけば数矢はひよりの目の前、顔を見上げなければならない位置に立っていた。見下ろす数矢の真剣な目になぜだか耐えきれず、わずかに視線を落とした、そのときだった。
 何が起こったのか一瞬理解が出来なかった。軽い衝撃と、包み込まれる感触。わずかに俯けた顔の先に、数矢の後頭部が見えた。
 頭に浮かんだのは、小学校時代のこと。
(そういえば中学に入って数矢が初めて坊主頭にしたとき、ふざけて頭撫でたりしたなぁ)
 そんなことを考えているうちに、次第に状況が鮮明に理解できるようになってきた。
 確かな熱を持った太い腕が、背中に当たっている。軽い圧迫感は、数矢の大きな体と腕によって、挟み込まれているため。
 ひよりは、数矢に抱きしめられていた。
 それに気づいて、ひよりは瞳を大きく見開いた。視線だけを動かすと、身長差のせいで丸く折り曲げられた数矢の背中が目に入った。確かに数矢が自分を抱きしめているという状況を確認する。
(ちょ、ちょっとまってよぉ…!)
 展開が急すぎて頭がついていかない。数矢に抱きしめられているというあり得ないシチュエーションに頭が混乱する。
 鼓動が早くなっているのが分かった。けれど、どうしたらいいのかが分からず、身体は動かない。ひよりはただ両手をぶら下げているだけだった。
 五秒ほどが過ぎただろうか。
「ひより」
 耳元で小さくそう囁いた、数矢の頭に顔を向ける。
「心配させんじゃねーよ…」
「え?」
 実際には、「え」と「へ」の混ざったような音が、喉から小さく漏れ出たもの。
「何回電話したと思ってんだ…」
 ぽつり、と漏らすその声に、わずかに掠れたものが混ざっていることに、ひよりは気がついた。
(数矢、泣いてるの…?)
 小さくすすりあげる音が聞こえて、ようやくひよりも口を開いた。
「べ、別に、そこまで心配してもらう必要無いじゃん…。お、大げさだなぁ」
「ああ、そうかもしんない…」
「……そうだよ」
「だけど…」
「え?」
「無事で良かった…」
 それっきり、再びの沈黙。
 静かだった。向こうの通りからの音も聞こえない。いつもなのか、たまたまなのか、道を歩く人も無かった。
 ただコンビニの看板の照明だけが、うなるような低い音を立てている。
 これは、矢のせい、だよね…?
 幾分かは落ち着いたものの、未だにひよりの胸を打つ鼓動は早い。
 幸いなことに、背の高さが違うために、前屈みの格好になった数矢の胸とは接しておらず、自分の鼓動が伝わることはなさそうだった。同時に、数矢のそれが今どうなっているのかも、ひよりには分からない。
 ちょうどそんなことを考えていたときだった。遠くから低い、連続した音が響いてくる。それは徐々に、ひよりたちの方に近づいてきた。
 ほとんど明かりのない道を、黄色く、長い光が照らす。
 あっという間に爆音と言ってもいいほどの音量になったそれは、バイクによるものだった。ひよりから見て右から走ってきたバイクは、どうやらコンビニに寄るつもりらしい。ライトが一瞬、二人の姿を切り取って、ひよりは目を細めた。
ひよりたちの位置とは正反対の駐車場の端に、その車体は止まった。
エンジンの爆音が止まり、周囲はまた静かになった。
フルフェイスのヘルメットをかぶったライダーの首が、わずかにこちらに向けられるのを視界の端に感じ取って、ひよりは慌てて数矢の身体を押した。
「か、数矢、ちょっと…」
がっしりと筋肉のついた二の腕のあたりを、両手でつかみ、軽く押し返すと、数矢の身体がゆっくりと離れた。
視界の端にすでにライダーの姿はなく、自動ドアのしまる音が聞こえて、ひとまずひよりは安堵した。
なんとなく見上げた先で、再び数矢と視線が絡む。
また鼓動が早くなるのを感じ、無音と無言に耐えきれなくなって、ひよりは口を開いた。
「な、なんでその、こんな…」
 言ってから、しまった、と思った。
 数矢の目にこもった熱に、気がついてしまったから。
「俺はさ、お前のことが…」
(ま、待って待って、ちょっと待って…!)
 けれど、次に続くはずの言葉は、数矢の背後で鳴ったがたん!という大きな音に遮られる。
 小さな影が中空に躍る。
数矢の頭越しに見えるほどに、その影は高く宙を舞っていた。
 次に聞こえたのはひゅん、と風を切るような音。わずかに遅れて、何かを鋭くはじく音も聞こえた。けれど、正体を確かめる間もないほどの一瞬のうちに、宙を舞う影によって、その風を切る音は遮られる。
 影がすたっ、と地面に着地をする。翻ったスカートが、重力に従ってゆっくりと落ちた。
 先ほどのがたん!という音は、コンビニの看板を踏み台にした音だったらしい。店内からの明かりに照らされて、美陽があの矢を掴んで立っていた。けれど、当然それはひよりの放ったものではない。
 美陽は二人の方を見ていなかった。その視線は、たった今止めたその矢が飛んできたであろう先、右前方にある明かりの消えた雑居ビルの非常階段に向いていた。
「美陽?」
 振り返った数矢が声をかけた。しかし、それにも美陽は応じない。ただ暗いビルに視線を向けたまま。
 ひよりに向かって飛んできた矢を、美陽が止めた。それにどういう意味があるのか、ひよりには分からなかった。あるいは、美陽の悲しげな表情を見れば、気がついたかもしれない。 
「美陽、あんた、どうして…?」
 美陽はそれには応えなかった。代わりに、周囲の静寂を打ち破るほどの大きな声で、視線の先、ビルに向かって叫んだ。
「洋くん、どうして!?」

 ゆっくりと、自転車を押しながら近づいてきたその影は、コンビニの明かりに照らされて、次第に姿を明らかにした。
「洋…」
「戌亥先輩…」
 背後に聞こえる二人の驚いた声に、洋はすまなそうな表情を浮かべながら、俯いている。
 信じたくはなかった。
今朝、彼が持っていたあの矢を見てから、ずっと考えていた。
もしかしたら。
ううん、そんなはずはない。
でも…。
 数矢の後を追った彼は、けれど追いつこうとはしなかった。代わりに、あの雑居ビルを上っていく彼を、美陽はただ、見送った。
 あんな風に叫んだのは、いつぶりだろう。
 ひよりに渡すまいと、守ろうとしてきた相手が、そのひよりのことが好きだった。ならどうして初めから、彼女の告白を受けなかったの?
 視線を右手に落とす。
 ゆっくりと、握りしめた矢が霧散していく。
(どうしてこんなものに頼ろうとしたんですか?)
 俯いたままの洋に、視線を戻す。
 その視界の端を、数矢が通り過ぎた。
「洋、お前!」
 数矢の太い腕が洋の胸倉をぐい、と掴むと、洋は苦しそうに顔を歪めた。右に支えていた自転車が彼の手を離れ、大きな音を立てて倒れた。
「数矢、違うの!」
 ひよりが二人の間に駆け寄り、洋を掴む数矢の腕にしがみついた。
「自分が何したか分かってんのかよ!」
「だから、違うんだってば!先輩も、なんとか言って下さい!」
 洋は応えない。変わらず苦しそうに顔を歪める洋を、美陽はただ見つめていた。
「美陽、あんたも何とか言ってよっ!」
 数矢に矢のことを話せ、ということだろうか。けれど―
 数矢に目をやる。背中から、ものすごい気迫が伝わってきた。同時に、彼がどれだけひよりのことを想っているのかも。
 ―今の彼に、安易な説明は逆効果ではないか。
 いや、違う。
 本当はそうじゃない。
 自分の心が、納得していないだけなんだ。
「あんた、戌亥先輩のこと好きなんでしょっ!」
 だからひよりのその言葉は、美陽の心に真っ直ぐに突き刺さった。
 そうだ。わたしは彼のことが好き。
その気持ちは決して、彼が誰か他の人を好きだったところで、変わるわけじゃない。
 体が、動いた。
「数矢さん、聞いてください」
 ひよりとは反対側の腕に、精一杯伸ばした自分の腕を絡める。
 洋を締め上げる数矢の力が幾分弱まって、洋の身体が垂直に落ちた。
その衝撃にメガネが地面に落ちて、硬い音を立てる。尻もちをついた洋が、軽くせき込んだ。
「なんだよ…!」
「あの矢は、違うんです」
「違うって何が?」
 苛立ちを隠さずにそう言う数矢を、美陽は真っ直ぐに見返した。
 ひよりのためじゃない。
自分の好きな人が、誤解を受けている。それも彼の友人であり、自分にとってのよき先輩である人物から。なら、それを出来る限りなんとかしたいと思うのは、決して間違ったことじゃない。
「美陽ちゃん、いいんだ」
「よくありません」
 ぴしゃり、と背中で洋に告げる。
「数矢さん聞いてください」
 その直後、背後に爆音が響いた。

 自動ドアが開くのが見えた。
 出てきたのは、先ほど入って行ったライダーである。
 ひよりの視線は、緊迫した目の前の状況を気にしつつも、自然とバイクの方に向いていた。
 ライダーの慌てたような様子に、どこか違和感を感じたのが原因であった。そしてその違和感は、すぐに確かなものだったことが分かる。
「美陽ちゃん、いいんだ」
「よくありません。数矢さん聞いてください」
 エンジンの爆音が鳴り響き、ほぼ同時に、全員が音の方向を振り返った。
 どうしてもっと早く気がつかなかったのか。
ライダーの手に輝く銀の光、店内からの明かりを反射してそれは、ぎらり、と輝いていた。
それもわずかに一瞬、ライダーの男がナイフを懐にしまい、バイクを走らせた。ひより達はただそれを、呆然と見送るだけである。
遠ざかる爆音とは対照的に、背後で自動ドアが静かに開き、全員がそちらを振り返った。
「あ、あんたたち大丈夫だった?」
 息を切らせた店員のおばちゃんだった。
 こんなときになんだが、系列で共通の真っ青なエプロンが、まったくといっていいほど似合っていない。
 ひよりたちは、一度互いに顔を合わせると、誰からともなく頷いた。
「ならよかった…」
 しわがれた声でそう言うと、安心したということが見た目に分かるくらいに大きく息を吐きだして、おばちゃんは膝に手をついた。
「あの、何か盗まれたものは?」
 数矢が口を開いた。
「ああ、うん、レジのお金だけど、二万円くらいしか入れてなかったから。刺されなかっただけでも良かったよほんとに」
「でも、とりあえず警察に電話しないと」
「あ、ああ、そうだね、電話して来ないと」
「ない…」
 店に戻ろうとしたおばちゃんが、その一言で振り返った。ひよりたちも、声の主―洋に目を落とした。
「僕のバッグ…」
 メガネをかけなおした洋が、辺りを見回していた。
 ひよりも覚えている。数矢に胸倉を掴まれた際に洋の手から落ちたはずのバッグが、確かに無くなっていた。
 二万円では強盗をした戦利品にしては割に合わないと思ったのだろう。
「とりあえず、電話してください!」
「ああ、うん…!」
 数矢が大声でそう言うと、今度こそおばちゃんは店に戻って行った。
「洋、ちょっと借りるぞ!」
「え?」
「ちょっと、数矢!」
 倒れていた自転車を起こし、またがると、「戻ってから詳しく聞くからな!」と言い残して、数矢はバイクが向かった方向、駅方面に向けてペダルをこぎ出した。
 わずか数秒の出来事である。まだバイクの音は遠くに聞こえていた。
「いくらなんでも、追いつけっこないですよ…」
 美陽がそう呟くのを聞いて、ひよりの頭に閃くものがあった。
「あっ!」
 ひよりの声に、二人が彼女を振り返る。
「うん、追いつける」
 そう呟いて、ひよりは壁に立て掛けたままだった自分の弓を手に取った。
 する、と袋を抜き取って、巻きついた弦をほどく。
「戌亥先輩、手貸してください」
「え、うん」
 立ち上がる洋に、弓の上端を渡す。その腕を支えにして弦を張ると、弓は半月の形に変わった。
「ありがとうございます」
 弦を軽くはじき、具合を確かめる。
「美陽、来て」
「え?」
「あんたがいないとダメなの」
 言いながら?をはめ、足元に転がった二本の矢を掴むと、ひよりは走り出した。駅とは反対方向である。
「ちょっと、ひよりさん!もう…。洋くん、ここお願いしますね」
「ちょっと、二人とも!」
 背後で美陽が駆け出してくるのが分かった。
「どうするんですか!」
「あそこ!」
 指差した先は、先ほど洋がいた雑居ビル。二階建てだが、高さ的にも問題ないと、ひよりは踏んでいた。
 金属の階段に足をかけると、やはり硬質な音が高く響いた。
「わたしは、何をすればいいんです?」
「あれ」
 追い付いてきた美陽に差した先は、ビルとビルとの隙間だった。
「え?」
「あんたなら反対側に抜けられるはずだから。美陽はそこで待ってて」
「ひよりさんは?」
「わたしは当然、これよ」
 右手に握った弓を軽く持ち上げて見せると、美陽も悪戯っぽい笑みを浮かべてうなずいた。
「やってみましょうか」
「そうこなくっちゃ!」
 ひよりは階段を駆け上がり始めた。二段飛ばしで上るそのたびに、高い音があたりに響く。
 駅方向に向かった時点で、恐らくあの男はこの辺りの土地勘がないと、ひよりは考えた。
 線路は高架では無いため、車では直接反対側には抜けられない形になっている。反対側に出るには地下歩道を通る必要があるが、自転車ならともかく、バイクではさすがに通れない。
 それならば、彼は必ず駅の前で折り返すはず。それも、車二台がすれ違うのがやっとの道である。あのバイクの大きさでは、Uターンはロスになる。
 そのまま、駅の正面を通過して―
 二階に上ると、駅の方向に通りの明かりがわずかに見えた。
 ―コの字になった反対側の通りから逃走を図るはず。
 だけど、まだ少し低い。
 見立てよりもやや足りなかった。先ほどのビルが通りをまたいで両側に入口のある造りになっていたのとは違い、こちらは二つの建物が背中合わせになっている。反対側の建物は一階建てなものの、それでもここからでは正面の道路が完全には視界に入らない。飛び移ろうにも屋根は山型になっているため、難しそうである。
 ひよりは非常階段の上、屋上を見上げた。へりに手を伸ばせば、上に登れそうである。
 初めに弓と矢を、精一杯手を伸ばして上に向かって滑らせた。
 ジャンプをして、へりにつかまると、階段の手すりに足をかけ、屋上に上がった。
「よっ、し…」
 腹這いになって屋上に上がると、すぐさま足もとの弓と矢を掴んで立ち上がった。反対側の通りを見下ろすと、歩道になっている手前の部分以外は、ほぼすべて見渡すことが出来る。
「美陽、抜けた?」
 下に向かって叫ぶ。
「もうちょっと、待ってください、胸が、つかえて!」
「急ぎなさいよ!」
 後半は聞こえないふりをして、ひよりは弓に矢を番えた。もちろん、ハートの矢である。
 遠くから、徐々にあのバイクの爆音が近付いてくるのが分かった。
 狭い通りだし、人もそれなりにいるはず。スピードはそんなには出せない、と思う…。
 それでも、自転車のスピードよりは圧倒的に早い。
 隣のビルに阻まれて、あまり先までは見えない。おそらく、あのビルの陰から現れた瞬間が一度きりのチャンス。
「ひよりさん、見えました!」
 眼下の建物の前に、美陽が姿を現した。
「オッケー!」
 すでに弓は打(うち)起(おこ)しの態勢に入っている。おおよその時間を計算して、ひよりは弦を引く右腕に力を込めた。
 ゆっくりと、引く作業それ自体でタイミングを計る。わずかに狂えば、バイクは一瞬で目の前を通り過ぎていくはず。
 一度軽く目を閉じて、息を吐きだした。
 急に頭に思い浮かんだ言葉があった。
 丹田。
 へその下に力を込める。
(あ、ホントだ、安定する…)
 爆音はすぐそこまで近づいていた。
 目を開く。弓を引き切り、体を傾ける。
 強い黄色の光が道を照らしている。
 道路の中央、通過する可能性が最も高い場所に照準を合わせた。
(ホントに、当たる…?)
 わずかな迷い。
(ううん、ホントに、当てるっ!)
 視界が狭まる。
 狙った場所を中心にして、周囲が徐々に暗くなる。
 いつものタイミングで、弦を弾いた。

 目の前に迫った爆音に、一瞬風を切る鋭い音が混じった。
 次の瞬間、目の前を通過しようとしていたバイクは横転し、横滑りに道路を走った。幸い、周囲を歩く人も、車もない。バイクは二〇メートルほど先で止まった。タイヤの前輪が、見事に弾けていた。
「よっしゃっ!」
 背中側のビルの屋上から聞こえた声に応えるように、美陽は呟いた。
「あとは、わたしの出番ですね」
 スピードもそれほど出ていなかったようである。せいぜい時速五〇キロといったところか。ライダーの男は途中でうまく飛び降りたらしい。一〇メートルほど先で、立ちあがるのが見えた。
 美陽はその方向にゆっくりと近づいた。
 男がヘルメットをかぶったまま、振り返った。足元には偶然か、洋のバッグが転がっていた。
「バッグ、返してもらいますよ」
「お前、さっきコンビニの前にいたやつだな」
 ヘルメット越しに、くぐもった声が響いた。
 同時に、男は懐からナイフを取り出した。バタフライナイフと呼ばれる種類のものである。
「はい」
 いつもの穏やかな笑顔とは明らかに違う、試合モードの美陽の顔である。
「どけ」
「どけ、って、こちら側に戻るおつもりですか?」
 美陽が背中を向けている方向は、今男が走ってきた駅の方向である。
「うるせえ!」
 明らかに狼狽しているのが分かった。
 それはそうだろう。こんな状況で、いきなりタイヤがパンクしたのだから。
「邪魔するつもりならぶっ殺すぞ!」
 これには美陽は応えなかった。代わりに一歩、相手に近づく。
 自分よりも明らかに劣ると思われる相手が、物怖じする様子も見せずに近づいてくるのを見てか、男は逆に足を一歩引いた。
 構えたナイフがやけに前に突き出されているのを見て、美陽はある程度相手の実力を測り終えていた。
 柔道以外にも、護身術にはひと通りの知識がある美陽である。少なくとも、ああいった刃物の扱いに慣れた相手ではない。
 問題は、上手く持ち上がる(・・・・・)か(・)どうか(・・・)。
 体格だけ見れば、数矢ほどではないものの、かなり大きい。一七五センチといったところか。横幅は多少あるが、むき出しの手首の贅肉から判断するに、鍛えた身体ではないだろう。
 体重は八〇キロと目算した。
 そこまで考えて、美陽はわずかに腰を落とした。右足側を前に出して、もう一歩、間合いを詰める。
 同時に相手も一歩下がる、が、次の瞬間、男はナイフを突き出しながら美陽に向かって突進してきた。
(待っていました…!)
 予想通り、ナイフを持った右腕をまっすぐに伸ばした格好での突進。
 胸に向かって突き出された腕の下に、美陽は一瞬にして入り込むと、相手の勢いを利用して、そのまま男を地面に向かって叩きつけた。

 どん、と低い音が、ここまで聞こえてきた。
「あの子ホントに強いんだなぁ…」
 相手の腕から落ちたナイフを拾い上げ、悠然と起きあがる美陽を見ながら、ひよりはそうつぶやいた。
 突進の勢いを利用しての背負い投げ。柔よく剛を制すとはこのことか。見事な半円の軌跡を描いて地面に叩きつけられた男は、どうやら気を失ってしまったらしい。
 振り返った美陽がピースを出して、ひよりもそれに応じた。
「この人、どうしましょう?」
「んー、警察とか、面倒だなぁ」
「多分、三〇分くらいは目覚まさないと思いますよ」
「じゃあ、ほっとこう」
「ナイフだけちょっと遠くに置いておきますね」
 そう言って、横転したバイクの方に美陽はスキップをするように走って行った。
 屋上から降りようとして、足元の矢が目に入った。
 最後の一本。
 ようやくひよりは、洋がもう一人の矢の持ち主だったことを思い出した。
 ここまで全く考えていなかったのが、自分でもびっくりなくらいである。
 そう、洋があの矢で狙っていたのは、ひよりだった。
 その事実に気がついて、今さらひよりは赤くなった。
(で、でもじゃあ、あのときのごめんって、やっぱり、自分から告白出来なかったことを後悔してのごめんってこと…?)
 手に取って、ハートの形になった矢羽を眺めながら、ひよりは自分に言い聞かせるように大きく頷いた。
「いいじゃん、結果オーライっ!」
 そう言って手に持った矢を半分に折り曲げると、ビルの隙間に放り投げた。弧を描いて飛んだそれは、地面に落ちる直前、煙のように消えていた。

「二人とも、無茶するんだから」
「大丈夫です。洋くん、わたしがどれくらい強いか、知ってるでしょう?」
 そう言ってバッグを手渡す美陽に、洋は心底落ち着いたという様子で大きく息を吐きだした。
「ともかく、二人とも、ありがとう」
「「どういたしまして」」
 ひよりと美陽の声が重なって、顔を見合わせた二人の間に笑いが起きた。
「洋くん」
「え?」
 美陽がいつもの穏やかな笑みではない表情で洋を見つめるのを見て、ひよりも自然と表情が引き締まった。
「わたし、洋くんのことが好きです」
「な!」
「ひよりさん、聞いてください」
 変わらぬ表情で向き直られ、大きく開いた口が自然に閉じた。
「洋くん、わたしは今まで、わたししか洋くんのことを幸せに出来る人はいないって、そう考えていました」
 洋を見上げる瞳に、決意めいたものが混じっているのが見えた。
「でも、そうじゃなかった。わたしは、許嫁なんて言う名ばかりの関係に、どこか甘えていたんですね」
「美陽ちゃん…?」
「そういうのじゃなくて、洋くんに対して本当に真っ直ぐな人を、わたしは知ってしまったから、だから、洋くんがその人を好きだっていうなら、わたしはそれを応援します。それが、わたしが洋くんを好きだっていうことですから。ちょっと、寂しいですけどね」
 そういって、またいつものように微笑んでみせた美陽の目に、小さな滴が浮かんでいるのを、ひよりは見た。
「美陽、あんた…」
 何も言わずに、美陽はただ小さく頷いた。
「美陽ちゃんも、あの矢のことは知ってるんだね?」
「はい」
「戌亥先輩は、あれを…」
「うん、ひよりちゃん、君には謝らないといけない。本当に、ごめん」
 そう言って、洋は深く頭を下げた。
「い、戌亥先輩、止めてください!」
 洋はそのままの格好で口を開いた。
「もっと、本当は早く謝らないといけなかったんだ」
 そこまで言ってから、ようやく顔を上げると、続けた。
「あの日、君の後を追いかけて、君があの人と話をしているのを見たんだ」
「それで、同じ物を…」
そう呟くひよりに、洋は小さく頷いた。
「だから僕は、初めてあの矢が飛んできたときから君だって分かってた。でも…」
「わ、わかりますよ!そこはやっぱり、プライドっていうか、そういうの、ありますしね!」
「ほんと、馬鹿みたいだね。口で伝えられることなのに。せっかく、ひよりちゃんと話が出来る機会があったのに、一度ダメだったくらいですぐに諦めて」
「あ、あのときはわたしが悪かったんです…。早とちりで」
 俯きながら、小さく首を振る洋を、ひよりは静かに見つめて次の言葉を待った。
「数矢にあんな風に言われても仕方がないんだ。影でこそこそして、悪いのは自分だって分かってるのに、どうしても言い出せなかった。挙句に、君のことを理由にして、最低だ…」
「べ、別に気にしてないですよっ!たかが一回や二回、そりゃ、ちょっとは悩んだりもしましたけど…」
「そうだよね、それは悩むよ…。本当に、ひよりちゃんには何度謝っても足りなくらいだ…」
「だから、それはもういいですから!」
 そう言って、ひよりはまた頭を深く下げようとする洋を止めた。
「本当に真っ直ぐで、僕のことを考えてくれているのに、僕は自分が恥ずかしくなる」
「そんなことないですって!ね、美陽」
「そうですよ。誰だって少しくらい悪いところがあって当たり前じゃないですか。それを互いに補っていくのが、大切なんじゃありませんか」
「ひよりちゃん…、美陽ちゃん…」
 交互にひよりと美陽を見る目が、次第に潤んでいくのを見て、ひよりは洋に声をかけた。
「戌亥先輩、わたし本当にもう気にしてませんから」
「ありがとう…、ひよりちゃん」
 そう言って、洋は足もとに転がった弓の袋から、二本の矢を取り出した。
「これは、もういらないね」
「わたしも、さっき捨てちゃいました」
 そう言って、ひよりは洋と笑い合った。
「じゃあ、これは消してしまいましょう」
 頷いて、洋は二本の矢を美陽に手渡した。
 美陽の手の中で、それはゆっくりと消えていった。
「これでもう、あんなものに頼ることもない」
「そうですね。わたしも、やっぱり自分の言葉で伝えないとって思いました」
「二人とも本当にありがとう。おかげで勇気が出たよ。自分の口で、告白するね」
「え、改めてですか…!」
 「頑張ってください」と言いながら手を叩く美陽が、視線を送ってきた。
 急に気恥しくなって、一度俯いたひよりだったが、けれど、顔をあげ、洋の目をしっかりと見返した。
「戌亥先輩…」
「うん、僕は…」
 メガネ越しの優しい目。こんなに近くで見るのはあの日以来。顔が熱くて、今にも目をそらしそうになるのを、ぐっ、とこらえて、次の言葉を待った。
「僕は、数矢のことが、好きだっ!」
 コンビニの駐車場に、洋の告白が響いた。
「ん…?」
 言いきって、顔を俯けた洋を見る。
(あれ、聞き間違えた?)
 美陽の方を向くと、彼女もどこか困ったような顔をしていた。
(え、数矢って聞こえたような…?ひより…、かずや…、どっちも、三文字よね?)
「あの、戌亥先輩?」
「やっぱり、改めて口にすると、恥ずかしいね…」
 俯いたままの洋を前に、再度美陽と顔を合わせる。やはり彼女にも、ひよりとは聞こえなかったらしい。難しい顔をしていた。
「あの、ごめんなさい、よく聞こえなかったんで、もう一回、いいですか?」
「ええっ!頑張ったつもりだったんだけど…」
「お願いします。ね!」
 美陽にも同意を求めると、彼女も強く頷いた。
「そ、そうだね、これも本番度胸をつけるためだと思って」
(え、本番度胸をつけるため…?)
 そんなことを考えるひよりの前で、思いっきり息を吸い込んだ。一瞬の沈黙に走る緊張感。
そして、さっきよりも数倍大きな声で、洋は叫んだ。
「僕は、数矢のことが、好きだぁっ!」
 相変わらず静まり返った周囲に、だぁっ!がこだます。
 ひよりは一度美陽と顔を見合わせ、互いに聞き間違いでないことを確かめると、同時に、腹の底から驚きの声を上げた。
「「えええぇぇぇっ!?」」
4, 3

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