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春夏

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 *1 藤原春奈のこと。

 放課後、西日のよく当たる「文芸部」の部室で、いつも通り、参考書とノートを広げていました。窓の外を見れば、夕暮れの日差しが部屋の中に差し込んでいます。
 秋も深まり、陽が沈んでいくのが早くなりました。学園指定のブレザーを着込んだだけでは、肌寒く感じられます。
 それでもこの部室は校舎の三階、西日のよくあたる角部屋に面しているので、割と暖かです。本格的な冬がくれば、さすがに冷え込むのでしょうけど、今はちょうど良い具合。
「……ん~」
 両腕を伸ばして一息。椅子に座ったまま、後ろの壁にかかっている時計を見れば、五時を回ったところ。文芸部には、私を含めて五名の部員がいるはずなのですが、夏休みが終わって以来、他の部員の姿を見た記憶がありません。
「あと一時間だけ勉強して、帰ろうかな」
 かくいう私も、授業の予習と復習をするだけです。気がつけば、二学期が始まってからずっと、放課後はここで勉強をしています。まぁ、人もいなくて静かだし、図書館にでも行っているのだと割り切れば、悪くないのかも。
 再びペンを手にとって、分厚い参考書のページをめくります。その時でした。
 コン、コン、と。
「…………?」
 部室の扉を叩く音。軽く二回。
 コン、コン。
「……ぁ」
 誰かが訪れたことに、しばらく気がつきませんでした。急いで席を立ち、返事をしようとしましたが、間に合いません。
「お、空いてる」
 部室に入ってきたのは、陸上部のユニフォームを着た女生徒でした。ここの部員でなければ、入部希望者でもなさそうです。
「……あ、あの。なにかご用ですか?」
「うん? なんだ、人がいたのか」
 そこでようやく気がついたというように、私を見ました。
 目鼻立ち整っていて、茶色に染めた髪を耳元で切り揃えた女性。背が高く、むきだしになった両足には、鍛えた筋肉が浮かんでいます。よほど走り込んでいるのが、素人の私にも窺えました。同じクラスでないことは確かですが、それでも見覚えがあります。
「あんた、ここの部員か?」
「は、はい、一応そうです」
 鋭い眼差しが、まっすぐこちらを見据えています。誰かに迷惑をかけた記憶はないので、怒られているわけではない――と、思いたい。
「悪かった。ノックしたつもりだったけど、返事がなかったから入らせてもらった」
「ごめんなさい。この部屋、あまり人が来ないから……」
「謝らなくていい。あたしが悪いんだから」
 言って、頭を下げられました。
「……あ、あのっ!」
 突然のことに、咄嗟に返す言葉が浮かびません。どうすればいいんだろう。ひとまず頭をあげてくれるのを待って、
「…………」
「…………」
 お互い無言。彼女は頭を下げたまま。
なんだか、とても気まずい。
「だ、大丈夫ですっ! 全然気にしてないですからっ!」
「そうか、ならいいんだ」
 顔をあげてくれて、ほっとしました。そして同時に、彼女が誰なのか思いだしました。
「夏野鳴海さん?」
「うん? あたしのこと知ってんのか?」
「は、はい。学校の表彰式の時に、よくお見かけしますから。それから地元のニュース番組でも時々、」
「あぁ、なるほどね」
 喋り終わる前に、面白くなさそうに、視線を逸らされてしまいました。
 
 夏野鳴海さん。陸上の推薦入学でこの高校に入って以来、私と同じ一年生でありながら、短距離、長距離、障害走と種目を問わず、大会の記録をいくつも更新された女生徒です。テレビのインタビューでは「地元が生んだ天才ランナー」と紹介されていました。
 ただ、彼女自身の噂は、あまり良くないことも耳にします。不真面目で、先生の言う事をまったく聞かず、練習にも真面目に顔をださないのだとか。
 私の通う高校は、近場では偏差値の高いところなので、夏野さんのように髪を茶色に染めているだけで、ただでさえ目立ちます。
(それに……綺麗な人なんだけど……)
 目が鋭くて、じっと見てこられると、怖い。
「あんたも、一年?」 
「は、はいっ!」
「なんか見覚えあるんだよな……同じクラスだっけ?」
「違います。私は一組の藤原春奈と言います」
「ふぅん、一組か。頭良いんだな」
「いえ、そんなことありません。ところで夏野さん、どうしてここに――」
「鳴海でいい。それにしてもやっぱ、どっかで見た気がするな、あんたの顔」
 夏野さんが不意に、あぁ、と頷いた。
「思いだした。体育の時だ」
「体育の授業……まぁ、合同ですから……」
「雨天の時、体育館で跳び箱したろ。そんときあんた、四段が跳べずにコケたよな」
「……えっ!」
 よりによって、それ! 
 確かに跳び箱が飛べず、上に跨るならまだしも、落下して顔面を強打したことは、記憶に新しいですけれどっ!
「そうだ、体力テストの時も、途中で倒れてなかったか?」
「うっ!?」
「大正解って顔だな」
 鳴海さんの口元が緩みます。それを隠すように手を添えているのに、全然隠れていません。目が笑ってます。
「あん時は笑えたよ。トロい奴」
「あの、その……わたし昔から、運動が全然ダメなんです……」
「跳び箱なんざ誰にでもできる。才能も努力も必要ない。お遊びだろ?」
「そうかもしれませんけどっ!」
 私は昔から運動が苦手でした。走るのも泳ぐのも跳ぶのも全然ダメ。体育の成績は、小学生の頃からずっと『1』でした。
「本当、無理なんです……」
「時々いるんだよな。運動ができないことを、得意気に語る奴」
「……えっ?」
「かわいいよなぁ。そういう女の子」
 嘲るように言われました。
 なんでいきなり、初めて会った人から、そんなこと言われないといけないの。
運動ができないのは、本当なのに。私のコンプレックスなのに。
「それじゃ、邪魔したね」
「待ってくださいっ!」
 見下した口振りが気に食わなくて、椅子から立ち上がります。こんなに腹が立ってるのに、黙ってられませんっ!
「自分が余裕だからって、できない人間を一括りにしないでくださいっ!」
「さっきも言ったろ。出来ない方がおかしいんだ」
「そんなことありませんっ! 私は本当に体を動かすの苦手で、四段どころか三段だって飛べないんだからっ!」
「……三段すら? 冗談だろ?」
「冗談じゃありませんっ! 中学の時には百メートル走で貧血起こしたし、小学生の時は逆上がりに失敗して、救急車で運ばれたんですっ! 夏休みに家族で海に出かけた時だって、波打ち際で溺れかけたんだからっ!! これでもまだ、文句ありますかっ!?」
「あ、いや……」
 いきなり何を言ってるんだ。こいつ。彼女の眼差しが、そんな風に見えた時です。耐えきれないといった様に、吹きだしました。
「あははははっ!! ごめんごめん! あたしが悪かった。そりゃどうしようもないわ」
「……はぃ……」
 墓穴を掘ったことに気がついて、返事をするのが精一杯。椅子に座りなおして、目線だけを向けると、彼女はまだ愉快そうに笑ってます。もういや。
「本当にごめん。あたし、外面だけ可愛いヤツって大嫌いなんだ。でもあんたは筋金入りだな。うん、悪いけど面白かったよ」
「……どうも」
「また気が向いたら聞かせてよ、武勇伝」
「勝手に武勇伝にしないでください……」
 もう一度、彼女を睨みつけた時、
「怒った顔がよく似合うな。うん、その顔はあたしの好みだ」
「……はい?」
「かわいい。もっとイジメたい」
「へ、へんなこと言わないでくださいっ!」
「あれ、言われたことない? 怒った顔が魅力的だって」
「ありませんっ!」
「うん。とってもかわいい」
 思いがけぬ不意打ちに、頭の中が真っ白になる。体中が熱くなって、喉が渇いてく。
「なぁ、さっき名前教えてくれたよな。もう一度教えてよ」
「ふ、藤原春奈、です」
「春奈か、いいね。あたしの苗字は夏野だし、続けると響きがいい。はる、なつ」
 彼女が口にした言葉を、私も繰り返してみます。はる、なつ。
「あ、あの……夏野さん……」
「鳴海でいいってば。どしたの?」
「なにか用事があって、来られたんじゃないんですか?」
「うん。新しいサボり場所を探してたんだ」
 涼しい顔で、平然と言い放ちます。
「ウチの高校、文系の部活動は人気ないだろ。空き部屋の一つぐらいあるだろと思ってな」
「空き部屋だからって、無断で使っちゃいけませんよ」
「だったらここ貸してよ。二人の秘密にしよう」
「ちょ、ちょっとまってくださいっ!」
 私の都合なんてお構いなし。慌てる私を見ても、彼女は鋭い眼差しを細めて、楽しそうに笑うだけ。
「ここ、角部屋だろ? 陽当たりがよさそうだし、窓は一つしかないし、今なら過ごしやすそうだと思ってな」
 頷きを返しました。これから本格的な冬になれば、陽が沈むのが速すぎて、すぐに冷え込むかもしれませんけど。
「秘密、共有してくれないかな?」
「だ、だめっ!」
「春奈がそう言うなら仕方ないね。他をあたってみるよ。じゃあね。バイバイ」
「……あ」
 その時、ふと寂しさを覚えました。去っていく背中が、名残惜しい。
「あの……な、鳴海さん、その……」
「ごめん。もうちょっと居させて」
 開きかけた扉を、慌てた様子で閉めました。
「なんでアイツ、こんなとこにいんだよ」
鳴海さんの表情は険しく、扉の窓から、廊下を覗き込んでいます。
 鋭い目つきと、緊張した面持ち。何故か胸をくすぐられ、私も静かに扉へ近づきます。同じように廊下を覗いてみると、
『――――君。この辺りで夏野の姿を見なかったか? 茶髪の一年なんだが』
『え~? 見てないでーす』
『そうか。もし見かけたら声をかけてくれ』
『はぁい』
 扉の先には、熱血教師と名高い先生の姿が見られます。記憶違いでなければ、陸上部の顧問を務めていたような。
「うぜぇ。わざわざ探しに来たのかよ」
「……えぇと、鳴海さん」
「なに?」
「どうして逃げてるんですか?」
「アイツ、うるさいんだよ。真面目にやれ、サボるな、しか言わないんだから」
「つまり、部活動をサボってるから、先生に追いかけられてるんですね?」
 言うと、睨まれました。鋭い視線で射抜かれて、心臓が悲鳴をあげてしまう。
「今日は、走る日じゃない」
「は、走る日じゃないって……平日なら、部活は毎日あるんでしょう?」
「知ったことか。なんで毎日あるから、毎日走らなきゃいけないんだ?」
「でも、大会では、連続で記録更新してるんでしょう?」
「大会にはでるよ。あの緊張感が好きだからね。だからって、誰かに走れと言われて走るのは、我慢ならないね」
 口端を釣りあげて、不敵に笑ったその顔。
 テレビで見た、野生の肉食獣を思いだしてしまう。はやく逃げないと食べられてしまうのに、胸が息苦しくて、目が逸らせない。
「あたしは、あたしのために走るんだ。もちろん、一等賞も含めてな」
 さっきからずっと、心臓の音が急いています。苦しい。息が上手くできない。
 そんなに私は、この人が怖いの?
「……それなら、次はいつ走るんですか?」
「"足時計" が、走れと言った時さ」
「あ、あしどけい?」
「そう、ここにある」
 言って、自身のふくらはぎを叩きます。
「ここにある時計が、あたしに走る時を教えてくれる」
「……お腹が空いた時に知らせてくれる、腹時計みたいなものですか?」
「そんなもんだ」
 彼女は、大真面目に言ってのけました。
 足時計。そんなものが本当にあるのでしょうか。私にも、聞こえるの?
「……おい、こら、春奈」
「…………」
「離せよ。冷たいだろ」
「……あ、あれ?」
 気がつけば、鳴海さんの足をぺたぺた触っていました。無意識に。
「あたしの足、そんなに魅力的か?」
「―――す、すみませんっ!!」
 慌てて両手をあげて、後ずさりっ!
「万歳するほど良かったのか。ヘンタイめ」
「ち、ちがいますっ! 今のはっ! 時計の音が聞こえるかなって、思って!」
「聞こえた?」
 急いで首を横に振ります。顔が凄く熱い。頭から湯気でも零れていそう。
「まさか信じるとはね。足時計の話」
「冗談だったんですか!?」
「いや、本当だよ。なんてね」
「私、信じますよ」
 鳴海さんが真顔になりました。さっきまでのからかう雰囲気じゃない。少し気恥ずかしそうな、だけど優しい笑顔。
「大抵……足時計なんて聞くと、疑わしそうに眉をひそめるか、笑って馬鹿にされるかなんだけどな。ありがとう」
 両肩を少し竦めて、本当に嬉しそう。
 空に浮かんだお陽さまみたいに眩しい。
 どうしよう、見惚れてしまう。
「あたしはさ。走るのが好きなんだ。全力で一瞬を駆け抜けるのも、長い距離を走り続けるのも、空に飛びあがるのも、大好き。あたしはもっと速く走りたい。長く駆けたい。高く飛んでいきたい。そのためにも、この "足時計" は、絶対必要なんだ」
まっすぐなその想いが、心に伝わってくる。
 あぁ、この人は、本当に、
「走ることが、お好きなんですね」
「うん、愛してる」
 彼女がそう言った時。何故だか、涙が滲むように、世界が揺らぎました。
「陸上顧問の熱血バカは、真面目に毎日走れって、うるさいんだ。他の部員のやる気にも影響するからってね。そんなの知るもんか。あたしは誰よりも速く、長く、高く、走るだけだ。他の奴なんざ、どうでも良い」
 胸を張って、吐き捨てるように言う。
「大会でタイムを縮めたり、表彰されるのはおまけだよ。毎日真面目に、死にそうになるまで走り込むなんて、意味がないんだ」
「すごい」
 湧きあがった気持ちを声にすると、彼女は目を見開きました。
「……あたしのこと、軽蔑しないのか?」
「しませんよ。私は鳴海さんの考え方、好きです。私には出来ません」
「ありがと、そんなこと言われたの初めてだ。でも春奈にだってあるだろ。これだけは誰にも負けちゃいけないって思えるものが」
「えっ?」
 突然、そんなことを言われても、思いつきません。そしてきっと、どれだけ時間をかけても、見つからない。
「私は……」
 昔から両親や先生に言われるまま、受験勉強を続けてきました。この高校へも、偏差値が高いという理由だけで入学したのです。今は、大学に入るための勉強をしています。
 決して、好きだからやっているのではありません。苦しいこともありますが、でも、おとなしくしているだけで、結局「楽になるから」という、そんな理由で続けてる。
 夢とか、目標とか。そういったものを抱くことが、昔から苦手でした。懸命に求め、願ったものはありません。
 自分の能力に見合っているからというだけで、流されるように生きてきた。
「なにもないの?」
「……はい」
 鳴海さんの表情に影がさします。蔑んでいるのか、憐んでいるのか。
「そっか、春奈にはないのか」
 感情の灯火が消えていく。運動音痴のことを笑われた時よりも、心が深く抉られた。
「……あぁ、あの熱血バカ。やっと行ったみたいだ。それじゃあね、春奈」
 その瞳は、もう私を映していません。ただ無造作にドアノブを掴んで、この部屋を出て行こうとするだけ。その手を掴む、私の手。
「まだ、なにかあるの?」
「あ……」
 離したくない。どこにも行かないで。
 訝しむ彼女の視線を受けながら、扉を押し開けます。そして、先に一歩廊下へ出てみると、「熱血バカ」の背中が小さく見えました。階段を一歩、降りようとしているところ。
「セン――――!」
 呼び止めようとした口が、両手で抑えられます。部室内へと力づくで引っ張られ、勢いあまって、そのまま冷たい床の上。
「どういうつもり?」
「私、優等生なんです」
「…………は?」
 鳴海さんが、口をぽかんと空けます。虚を突かれたその顔を見ると、妙に嬉しくなりました。自分でもどうしてか分からないのに、楽しくて。気持ちがふわふわ踊ってます。
「春奈、どういうこと?」
「ですからね。貴女みたいな人を見逃すと、気持ちが悪いんですよ。鳴海さんがここに来たこと、先生に告げ口しちゃいます」
 今度は私が耐えきれず、くすくす笑います。
 困った顔の彼女を見るのが楽しい。
「春奈って結構、いや、相当に性格悪いな」
「鳴海さんに言われたくありません」
「うるさいよ」
 そうしてしばらく、お互い声をおし殺して、笑っていました。
「春奈、取引だ」
「えっ?」
 鳴海さんが、不敵に笑います。
「あたしの足を触らせてやるから、黙ってろ」
「なんでですかっ! さっきも言いましたけど、そんな趣味はありませんからねっ!」
「趣味ってどんな?」
 言われて、慌てて顔を逸らしました。何故だか、顔が、真っ赤になってしまって。
「一つだけ教えとこうか。あたしは、一番じゃなきゃ気が済まないんだ」
「……なんでそんなに偉そうなんですか」
「夏野鳴海が、そういう人間だからだ」
 目が、本気です。
「どうしても黙ってられないって言うなら、仮入部してやるよ。それならいいだろ?」
「部活のかけもちは禁止ですっ!」
「だから、仮入部なんだよ」
「仮ってつければ、なんでも許されるわけじゃないですよ……?」
「あたしが許す」
 この人、大真面目です。なんで引き留めたいとか、思ってしまったんでしょうか。
「……あの、鳴海さん」
「もう決めた。絶対、ここにする」
「鳴海さんっ! 顔近いっ!」
「春奈のかわいい顔を、近くで愛でたいんだ」
「そ、そんなこと言っても、ダ、ダメっ!」
「いいじゃない。どうせ部活動らしいことなんざ、なんもしてないんだろ?」
 そう言われると、返す言葉がありません。学校の予習復習しかしてませんから。
「つまり自習だ。なにをしてもいいんだ」
「自習時間は真面目に勉強するべきです!」
「じゃあ、春奈は勉強してればいい。あたしの自習時間は、昼寝をするって相場が決まってるんでな」
 そう言って鳴海さんは、部屋の隅に立てかけてある、パイプ椅子を眺めます。間近にあった顔が逸れて、ほっとしたのもつかの間。
「どうせ部員たりなくて、椅子も余ってんだろ。即席のベッドにして、有効利用してやるよ。二人で仲良く使おう」
「使いませんっ!」
「じゃあ、全部あたしの物だ。異論は?」
「わかりましたからっ! もう、それ以上、顔を近づけないで~~っ!」
「よし、交渉成立。春奈、約束通り、足を触ってもいいよ」
「だから触りませんっ!」 
「遠慮するなよ」
「してませんっ!!」
 鳴海さんを強引に押し退けて立ち上がると、なんだかとっても疲れました。
「春奈、ここの部屋、鍵はどうなってるの」
「私が持ってます。夏休みに入る前に、三年生から渡されてそのままです」
「じゃあ合鍵作ってよ。あたしの分」
「……鳴海さんって、本当に自己中ですね」
「だろ」
 鳴海さんは意地悪そうに笑って、私の頬を撫でてきました。それだけで、顔に熱が灯ります。腰に手が回されて、逃げられない。
「な、なにするんですかっ!」
「足触ったでしょ。だから、お返し」
「蒸し返さないでください~~~!」
 さっきから、ずっと言いようにやり込められてます。心臓が破裂しそう。
「合鍵、ダメ?」
「ダメっ! 放課後だったらいつもここにいますからっ! 会いたかったらここまで来てくださいっ!」
「わかった。走らない日は毎日、春奈に会いに来るよ。待っててね」
 鳴海さんが、新しい玩具を手にした子供みたいに笑う。微かに、本当に分からない程度に、おでこにキスされた。
 窓の外を見れば、黄色くなっていた木々は競争するように葉を散らし、寒そうに枝を震わすばかりです。風もますます冷たくなり、口から零れる吐息も白くなりました。
 冬の到来を告げる気配が色濃くなってゆき、鳴海さんが部室に訪れてから、一ヶ月が経っていました。
「そろそろかな……」
 あの日から週に二度の割合で、部室に訪れる鳴海さん。日付から考えると今日あたり来るのかも。そう思っていた時、ドアノブが回りました。
「来たよ、春奈」
「こんにちは、鳴海さん」
 彼女は最近、冬用ブレザーの制服に、チェックが入ったグレーのマフラーと手袋を身につけています。陸上のユニフォームを着て訪れたのは、最初だけでした。
「嬉しいね、待ち焦がれてたんだ?」
「……そんなわけないでしょ」
 鳴海さんは相変わらず、自信過剰です。それに対して睨んだところで、余裕を持って笑われるだけ。しかもそれが似合っているうえ、格好良いのですから。性質が悪い。
「春奈、顔が赤いよ?」
「さ、寒くなってきましたからねっ!」
「そうだな。今の時間なら、まだこの部屋も温かいけどな」
「でも長居してると、陽が落ちてからは辛くなってきましたね」
「春奈はもやしっ子だな。胸は結構あるのに。頭と胸以外にも、栄養やれよ」
「……なっ!?」
 鳴海さんがわざとらしく、私の胸元を注視します。
「あたしは小さいからなぁ。羨ましい限りだ」
「変なとこ見ないでくださいっ、目がやらしいっ!」
「いいじゃないか。春奈の魅力の一つだし」
「そんな言い方嬉しくないっ!」
「やっぱり怒った顔が可愛いね。他の奴には見せるなよ、余計な虫がつくからさ」
「鳴海さん、鏡を見たことありますか?」
「見飽きた自分の顔よりも、春奈を見てる方がいいかな」
「……もういいです……」
 浮いた台詞を苦もなく言わないで。聞いてるこっちが恥ずかしい。
「照れてる?」
「……」
 無視を決め込みます。そうしたら、鳴海さんは満足そうに頷いて、平然と向かい側に座ります。そして机の上へ、手にしていた学生鞄を置きました。
「重かった」
 言って、鞄のジッパーを開きます。その中身は決まって、ベッドシーツと、毛布と、枕。あと水筒です。
「……鳴海さんって、本当に、この学園の生徒ですよね?」
「そうだよ、現役の女子高生だ。ピチピチの十六歳、乙女だよ」
「信じられません……」
 教科書はおろか、ノートや筆箱も入っておらず、部活動で使うはずの道具も一切なし。この人、本当に特待生で入ってきたんでしょうか。疑わしいです。
「春奈、これ見てよ」
「はいはい、枕ですね」
「同じ物がもう一つあるんだ。毛布もある」
「だから、なんだっていうんです」
「だからさ。一緒に寝よう」
 一瞬、眩暈がしました。
「……鳴海さん……」
「うん」
「歯を食いしばってください」
「うん?」
「ついでに目を閉じて」
「いいけど、なに」
 彼女が目を閉じたのを確認して、枕をひったくります。思いっきり、顔面へと叩きつけてやりました。
「いい加減にしてくださいっ!」
「……なに怒ってんの」
「だってっ!」
 心臓がうるさい。両肩が激しく上下して、息も喘いで苦しい。
「あたし、なにか気に障ること言った?」
「言いましたっ!」
 枕をもういちど全力投球。でも今度はしっかり、受け止められてしまいます。
「なんなの、さっきから」
 溜息を一つこぼし、部屋の片隅にあったパイプ椅子を並べていきます。即席のベッドが出来あがるまで、すぐでした。
「春奈、もう一度言うけど、一緒に寝よう」
「寝ませんっ!」
「わかった」
 並べた椅子の上にシーツを敷いて、その上で横になりました。毛布を被って、枕の上に頭を乗せて。
「おやすみ」
「……もう!」
 鳴海さんは相変わらずです。ここは部室とはいえ、学校なんですよ。こんな風に堂々と横になる人を、他に見たことありません。というか、枕と毛布を持ってきている時点で、相当です。
「ねぇ、春奈」
「なんですか」
「自分で気がついてないかもしれないけど、春奈の身体、冷えきってるよ。脚が寒さですり合ってる」
「や、やだっ! 鳴海さんのえっち!」
 スカートの裾を手で押さえて身構えます。
「ごめん、あたし体調管理には気をつけてるから、人よりもそういうの敏感なんだ」
「……えっ?」
「今日は昨日より、三℃以上冷えるはずだよ。そうじゃなくても春奈の身体、いつもより疲れが溜まってる」
 確かに、もうすぐ期末試験だから、いつもより多目に勉強していたけれど。でも、
「本当にそこまで分かるんですか?」
「なんとなくね。春奈だって、誰かが身震いしていたら、寒そうだって思うだろ」
「そ、それは……まぁ……」
 言い淀んでいるうちに、鳴海さんが起き上がります。
「春奈は無理しすぎ。あたしみたいに、馬鹿で丈夫じゃないんだから、ちゃんと寝ないと倒れるよ」
 珍しく、真剣な眼差しに。
「本当なら今すぐにでも帰って、たっぷり睡眠をとるべきだ。それでもまだここで勉強するのなら、あたしの水筒に入ってるお茶飲んで。熱いから気をつけてな。あたしが言いたいのはそんだけ。おやすみ」
 鳴海さんはそれ以上何も言わず、こちらに背を向けたまま、再び横になりました。
「……あ」
 心配、してくれたんだ。 
 そう思ったら、すごく胸が悲しくて、辛くなる。痛くてチクチクする。
「ご、ごめんなさい……」
「いい。無理に誘ったあたしが悪かった」
 不貞腐れてる。声を聞くのが辛い。
「だ、だってっ! 普通は恥ずかしいじゃないですかっ!」
「なにが」
「い、いきなり、一緒に寝よう、なんてっ! 言われたらっ!」
「どうして?」
 鳴海さんが再び起き上がります。寝入るところだったのを邪魔されて、こっちを睨んでます。本当に怒ってる。それが嫌で嫌で、たまらない。お願い、怒らないで。
「わ、わたしたち、女同士じゃないですかっ!」
「……はぁ、そうだけど?」
「だからっ! 仮に間違いとか起きなくってもっ! は、恥ずかしい……っ!」
「ごめん、春奈が何を言ってるかわからない。いびきを聞かれるのが嫌だとか、そういうことを言ってんの?」
「そ、そうじゃなくてっ!」
 なんでこう、上手く通じないんだろう。鳴海さんはちょっと感覚がズレてると思う。それに、物の言い方も変にストレートだし。それじゃ誤解を招くだけ……誤解?
「……あ」
『(春奈の寝具もあるから)一緒に寝よう』
 自分の間違いに気がついた、その時。
「なるほどねぇ」
 鳴海さんの顔に浮かぶのは、私の一番苦手な表情でした。肉食獣の頬笑み。机の上に両肘をおいて、まっすぐ私を見つめています。
「いやらしい子だな春奈は。まだ陽も沈みきってないのに、そんなこと考えてたのかぁ」
「だ、誰のせいだと思ってっ……!!」
「あたしの責任? 単に春奈がそういう人間なだけだろう」
「どういう意味ですかっ!?」
「そのままの意味だよ。春奈のヘンタイ」
「違いますっ! 私は至って普通ですっ!」
「脚フェチの癖に」
「違うって言ってるでしょッ!!」
 最初にうっかり触ってしまったのは、あの時だけなのに。それなのに鳴海さんは、私をからかう時にはいつもそう。
「いいんだよ、春奈は特別だから。触りたくなったら、いつでも言って」
「触りませんっ! 大体、そんな言い方をする鳴海さんの方が変態ですっ!」
「あたしは自分の脚に、商品価値があるのを知ってるからね」
「使い方が違うでしょっ!」
「そう?」
「そうですよっ!」
 息荒く言い終えると、鳴海さんはひとしきり笑ってから、並べた椅子の上に横になりました。最後にひらひら手を泳がせて。
「その毛布使ってよ。膝の上にかけるだけでも、大分違うだろうからね」
「最初からそう言ってください……」
「次からは気をつけるよ。おやすみ、春奈」
「……おやすみなさい」

 小さな寝息が聞こえてくるまで、すぐでした。最初の頃は、眠った振りをしているのかと思えたほどです。
「……でも」
 そうやって体調管理ができることも、彼女が優れた陸上選手である所以なのかもしれません。
 私は知れず、毛布の下に隠れていたふくらはぎを見つめていました。初めて顔を合わせた日、彼女が告げたことを思いだす。
『―――あたしには、足時計があるからね』
 本音を言うと、今でも半信半疑です。
 時計と言われても、それが目に見えるはずもないし、お腹が空けば誰にでも聞こえる「腹時計」と違って、なにかの合図が聞こえてくることもありません。だけど鳴海さん本人は、時おり足に手を添えて、「うん」とか「もう少し」とか、呟くのです。
 足時計なるものが存在すること。私に知る術はありません。けれど鳴海さんが、純粋に走ることが大好きなのは、見ていて分かる。だからこそ、彼女は本当に、足時計の音を聞いている。私にはそう思えるのです。
「……ふぁ」 
 足時計のこと。鳴海さんの寝顔。温かいお茶。毛布に枕。不器用だけど優しい彼女の心遣いに包まれて、心が軽くなる。
「……私も、眠たくなって、きちゃった……」
 勉強をする気は既に失せていました。
 目を閉じる。世界が消えていく。
 時計の針を刻む音が聞こえてくる。
 かち、かち、かち。かち……。
 ………………。
3, 2

  

 夢を見ています。同じ夢を見続けています。
 中学に通っていた時は、毎晩のように夢を見ていました。それが分かったところで逃げ場はありません。
 小さな子供たちが、楽しそうにお喋りしていました。子供たちは、みんな同じ服を着て、胸には名札をつけていました。私の胸元にも同じ物があります。
『りんごぐみ、ふじわらはるな』
 私はみんなの輪から外れたところで、一人、途方にくれていました。
『藤原さん』
 隣に影が差しました。見上げるとそこには、顔のない女性がいます。
『藤原さんは大きくなったら、何になりたいのかなぁ?』
『わかりません……』
『じゃあ、なにか好きなものはあるかな?』
『わかりません……』
 女性の声に、ひどい雑音(ノイズ)が混じっていきます。機嫌を損ねたのでしょう。
『それじゃあ、今日嬉しかったことは?』
『……ごはんのお手伝いをしていたら、お母さんが褒めてくれました……』
『えらいね。じゃあ将来の夢は、コックさんでいいわね』
『先生、わたし、べつに……』
『はいこれ。ここに将来なりたいものを、お絵かきしてね』
『あの……っ』
『そんなに深く考えなくていいのよ。ただのお遊戯なんだから。ほら、あっちの男の子なんて正義のヒーローよ。そっちの女の子はお嫁さん。これは現実的ね?』
『……私は、なりたいものがありません……』
 雑音が酷くなります。ザーッ! と舌打ちをするような音を一つ残し、女性は他の子供のところへ行ってしまいました。私は渡されたクレヨンと白い画用紙を持て余し、途方にくれます。
『藤原さん』
 また別の女性がやってきました。今度は顔があります。ですが、微笑が常に張りついていて、表情に変化がありません。
『藤原さん、お絵かきしようね?』
『なにを書けばいいか、わからないんです』
『自分がなりたいものを楽しく書けばいいのよ。周りを見てごらん。夢なんて叶わないのだから、適当でいいのよ。適当で』
 だけど皆は、確かに楽しそうに絵を描いています。上手でなかったり、理解に困る絵も沢山あります。でも本当に楽しそうに、自分の夢を、たくさんのクレヨンで彩っていくのです。ぐるぐると。手が止まることもなく。
『でも、私は……』
 書けない。誰もが思い描けることが、私には出来ない。自分がこう在りたいと思えるものが、なにひとつ、存在しない。
『ヘンな子。きっと、どこかおかしいのね』
『……ごめんなさい』
『不思議ね。とっても簡単なことなのに』
『……ごめんなさい』
 泣きながら応えると、返事はやはり、微笑の張りついた溜息が一つでした。
『仕方がないわ。藤原さん。いらっしゃい』
『……はい』
『あっちの部屋に行きましょう。藤原さんの好きなお勉強の道具が、揃ってるわよ』
 私は女性と二人、冷たい廊下をまっすぐ、奥へと進んでいきました。突き当りに、扉が見えます。鍵を用いて開けると、中には一つの勉強机と、たくさんの本棚が並んでいます。
『藤原さんは賢い子だもの。ずっと、百点をとっていたものね』
『……はい』
『あなたの価値は、百点にこそあるのよ。百点がとれなくなったら、みんな心配するわ。だからこれからも百点を取りなさい、取り続けなさい。実はお勉強が好きじゃなくても、興味なんてなくても、そのことで将来への不安を感じる必要なんてないのよ。楽に流されればいいの。そうでしょう?』
『……はい』
『テストで満点を取るのだって、一つの才能なんだから。たとえ、勉強ができるだけの人間はダメだと言われても、あなたには勉強しか出来ないのだから、聞き流せばいい。蔑む声は聞くだけ無駄よねぇ?』
『……はい』
『いい子。手のかからない子供は大好きよ』
 頷いたままの私を残し、女性は部屋を出ていきました。一人になると心細い。
『……ま、まってっ!』
 ドアノブに力を入れます。でも回りません。ガチャガチャと、冷たい音がするだけ。
『やだ、うそ……なんでっ!?』
『七時になりましたよ。お家に帰りましょう』
『えっ?』
 扉の向こうから聞こえてくる、先生の声。
『暗くなる前に、お家に帰りましょうね』
『待って! 私、まだここにいますっ! 一人にしないでっ! 行っちゃ嫌ぁっ!!』
 泣き喚いたところで、誰も来てくれない。
 誰か助けて。お願い、誰か。

「春奈?」
 目が熱く、自分が泣いているのだと知りました。それでやっと、夢から覚めたのだと分かった時、校内放送の音が届きます。

『繰り返します。七時になりました。学園に残っている学生の皆さんは、教職員の指示に従い、速やかに下校してください』

 雑音がひどく、頭が揺さぶられるような音。気分が悪くなって、口元を押さえた時です。背中に優しく、暖かい手が添えられました。
「春奈、大丈夫か。しっかり」
 私を呼ぶ声。それだけで不思議と、胸につかえていたものが溶けていく。
「やだ……もういやぁ……!」
「泣くな」
 突き放すような口振り。なのに頭を撫でてくれる。優しく、優しく、撫でてくれる。
たった一息で、涙腺が切れた。
「ふえぇ……なるみさん……っ!」
 子供じみた声。恥ずかしさよりも嬉しくて、抱きついた。顔をあげると、涙で揺らめいた彼女の顔が見えました。
「もうやだよぅ……っ!」
「なにが」
「お勉強がね、いやなの」
「勉強?」
「私、もう、お勉強したくないの……でもね、勉強するのやめたらね、私ね、消えちゃうの」
「は? 消えちゃうって、なんで?」
「だって、私なんにもできないしっ! 運動も、お絵かきも! 本を読むのだって大嫌いだけど、中身を暗記したら百点とれるから、だからやるしかなくってっ!」
「ちょっと、こら、落ち着けって」
 苛立った声でした。でも、頭を撫でてくれる手は、優しいまま。嫌われたのかもしれない。でも、離されたくなくって、抱きついた。
「もっと……」
「はいよ」
 くしゃくしゃくしゃ。
 この人の、手の中で、とけていきたい。
「もっとして。ぎゅーって」
「へいへい」
「もっと、もっと、もっと!」
「まったく、本当にかわいい子だなぁ」
「かわいい? わたし、かわいい?」
「うん。春奈のことが、好きだよ」
 好き。その言葉が、胸の深いところに落ちて、染み渡っていく。

 ふぅ、と冷たい息を耳に吹きかけられて、我に帰りました。
「そろそろ落ち着いたか?」
「……は、はぃ……」
「じゃあ、そろそろ離してくんないかな」
 今度もまた、頭の中が真っ白。気分が戻ったのを通り越して、恥ずかし過ぎです。少しでも気が緩めば、悲鳴が零れそうでした。
「時計の音、聞こえたか?」
「………………」
 そして、私が抱きしめてるのは、一体なんなのでしょう。てっきり鳴海さんの胸元に抱きついているかと思ったのに。いえ、それはそれで恥ずかしいのですが。
 抱き枕にしては、妙に固くて弾力があったもの、それは。
「本当に好きなんだな。あたしの足」
「や、やだ……っ!」
「見てよここ。春奈の涙と涎で、ベットベトになっちゃった。責任とってくれるよな?」
「きゃああああああぁぁぁーーーーっっ!?」
 掴んでいたのは、鳴海さんのふともも。
勢いあまって仰け反ると、倒れていた椅子に腕がぶつかってしまう。
「あ、あ、あっ……!」
 踊る上半身。掴まれる物、掴まれる物、掴まれる物―――。
「ほれ」
「……いやぁっ!」
 鳴海さんが片膝を曲げて、私の前に差し出しました。再び抱きつく格好に。
「ひどいな。あたしよりも、あたしの足の方がいいんだ?」
「バカっ!」
「春奈、こっち向いて」
 反射的に顔をあげてしまうと、そこには満面の笑みで、携帯電話を持っている鳴海さんが見えます。まさか。

 カシャッ!

「待ち受けゲット」
「だ、だめぇっ!」
「春奈の泣き顔、かわいい」
「消去してくださいっ! 今すぐにっ!」
「馬鹿言うな。もう一枚撮らせろ」
「やめてええぇぇーーーーーっ!?」

 カシャッ!

「ダメ! ダメ! 撮っちゃダメッ!」
「ふふふ。さっきあたしの足を掴みながら、置いて行かないで、一人にしないでって言ってた。それも撮れてたら、完璧だったのに」
「いやああああぁぁぁぁぁーーーーーっ!?」
「叫んたところで、夢じゃないからな」
「違うんです! 違うんです! これは絶対、夢なんですっ!」
 あまりの恥ずかしさに、鼻水まで。やだ、本当、もうやだぁっ!
「春奈、じっとして」
「信じてーーっ!」
「わかってるよ。春奈はいい子だ」
「うんっ!」
「だけど時々暴走して、手がつけられなくなる変態だ」
「ちがいますっ!」
「いいじゃないか。かわいいよ」
「嬉しくないっ!!」
「本当に?」
 鳴海さんが上半身を起こして、それから両腕を伸ばしてきます。今度は手に藍色のハンカチを持っていて、目元を拭ってくれて。それは嬉しいのですけれど。
「は、恥ずかしいから触っちゃダメっ!」
「動かない」
「大丈夫ですからっ! 私もハンカチ持ってますからっ!!」
「寝ぼけて押し倒された上に、悲鳴をあげられたんだ。写真を消去して欲しかったら、じっとしてろ」
「脅迫じゃないですかぁ……!」
「事実だよ、次からは気をつけな」
「うぅ……!」
 世界で一番最初に、死ぬほど恥ずかしいと言ったのは誰なんでしょうか。今、正にそんな気持ちです。身体が全部熱くって、特に撫でられているところは、焦げているんじゃないかって思ってしまう。
 数分にも満たない時間だったのでしょうけど、私にとっては、拷問にも近い時間でした。
「はい終わり。綺麗になった」
「……もう絶対に、鳴海さんの前では寝顔見せません!」
「それなら今、しっかり見ておかないと」
「やだっ!」
 両腕で必死に顔を覆って逃げる。足は崩した正座。まともに立てない。
「約束ですっ! 写真、写真消してっ!」
「はいはい」
 鳴海さんが、携帯を直接手渡してくれます。ひったくるように携帯を奪い取って、問題の写真を永久削除。返そうとしたら、そっと頭に手を添えられる。
「最近無理しすぎだよ。気をつけて」
「そこで優しく出来るのがずるいです……」
「ごめんね」
くすくす。鳴海さんの甘い笑い声が聞こえる。
「それにしても、あーあ、もうすぐ期末かぁ」
「私のこと心配してくれるのは嬉しいですけど、鳴海さんこそ勉強しなくて大丈夫なんですか?」
「むぅ……まぁ、それは、ほら……」
 歯切れの悪い鳴海さん。憮然とした表情が、なんだか可愛らしいです。
「わかってるけど。ほら……あたし、勉強とだけは、相性悪いんだよ……」
 いつも強気なのに。そんな顔を浮かべている姿が面白い。また、涙がでてきそう。
「こら、笑うな」
「だって、いっつも偉そうなのに」
「人間には向き、不向きがあるんだよ」
「鳴海さんって、実は強がってるだけなんですね」
「うるさいな」
 そう言われた瞬間に、避ける暇もなく頬を掴まれました。すぐ側には肉食獣の笑み。
「よかった。笑ってくれて。次は容赦しないよ?」
「……はい」
「正直ほっとした。泣いてる顔もかわいいけど、気分は良くないからね」
 この人は、本当にずるい。いつも自分勝手に一歩踏み込んでくるのに、肝心なところで拒めない。
「……鳴海さん、ちょっとだけ、その……いいですか」
「うん」
 背中に両腕を伸ばして、彼女を抱きしめる。恥ずかしいので、胸元へ額をくっつけると、心臓の音が聞こえてくる。
 血が巡っている音。生きてる証。これと同じ物が、私の胸の中にもあるんだ。
「落ちつく?」
「……はい」
 抱き合ったまま。
 心地良くて、また、うつらうつらと、眠たくなってくる。
「聞いていいかな、さっきの夢」
「はい。私、幼稚園に通っていた時のことを、今でも夢に見るんです。全部当時のままじゃなくて、もっと、こう……劣等感みたいなものが、全面に押し出された夢で……中学の時はもっとひどくて、毎晩のように見ている時期もありました」
 誰かに話すのは、初めてだった。不思議と怖くはなかった。
「高校に入ってからも、よく見るの?」
「見る回数は減りました。でも、試験みたいなのが近づくと、見ちゃうんです」
「それってさ……体力テストの途中で倒れた時も、見たのか?」
「えっ? 体力テスト?」
「あったろ。入学してすぐの体力テスト。校庭何周か走って、倒れた日」
ふと思い出した。確かにそんなこともあった。気がつけば保健室にいたんだっけ。
「……確か前日に見てて、寝不足だったと、思います」
「やっぱりか」
「はい……あの、一つ、変な質問をしてもいいですか?」
「いいよ」
「……勉強しかできない人間って、どう思いますか?」
「ダメだね」
 彼女は間髪入れずに答えました。それ以上の言葉はなく、理由も言わず。鋭い刃物で、躊躇わずに両断されてしまう。
「春奈、あたしも聞いていいかな。走ることしかできない人間を、どう思う?」
「……えっ?」
 まっすぐ伸びた綺麗な鼻梁と、鋭い真剣な表情。ふとした拍子に優しくなる瞳の中に、私だけが映っている。
「春奈だけ質問するなんて、不公平だろ。ほら、答えてよ」
「……私は、鳴海さんみたいな人、とっても素敵だと思います。羨ましくって、憧れます」
「へぇ。まるでお姫様だな」
「……お姫様?」
 彼女が笑う。口端を吊り上げ笑う。
「そう。自分の意思が薄くて、甘っちょろい、かわいい、かわいい、お姫様」
 鳴海さんの両腕が私の背中に回される。泣きそうになる私を、力を入れて抱きしめる。イバラの棘を突き刺すように、強く。
「前にも言ったろ。あたしは、外面だけ可愛い女って大嫌いなんだ。どうせ覚えてないだろうから言うけど、春奈が倒れた時、保険室まで運んだの、あたしだよ」
「……鳴海、さんが……?」
「授業が途中で面倒になったんでな。フケるのにちょうどいいやって、最初は軽く考えてただけなんだけど。覚えてない?」
「……えっ、と……」
 言われて、必死に記憶を辿った。思いだせるのは、気がついた時には、保険室のベッドで眠っていたこと。保険室の先生から、他の誰かが、ここまで運んでくれたと聞いたこと。大事を取って午後の授業も休んで、家に帰ったこと。
 誰が運んでくれたのか、気に留めていたはず。でも、大勢の前で醜態を晒した恥ずかしさの方が強くて、早く忘れてしまいたかった。
「……ごめんなさい。私、最低ですね……」
「べつにいいよ」
「でもっ!」
「いいって。あたしだって逆の立場なら、早く忘れたいって思う。あたしは、春奈のことは、忘れなかったけどな」
「……えっ?」
 腕が離れ、優しく笑う。これから、骨すら食べ尽くすからねって、そんな顔で笑ってる。味見するように、頬の上を舌が通っていった。
「ひぅっ……!」
「あの時も、春奈は何度もごめんなさいって、繰り返してた。あたしへの謝罪とかじゃなくて、何かに怯えてるみたいだった」
 顔がますます熱くなる。自分の未熟さに、自分の迂闊さに。
「保険室のベッドに寝かせたら、あたしの体操服つかんで、離してくれなかったよ」
「ほ……本当、ですか?」
「作り話だと思う?」
 首を振る。考えるまでもなかった。嘘だったとしても、嘘でいいと思った。
 次は耳朶を甘噛みされる。くすぐったい。声がでる。
「上手にできなくて、ごめんなさいって、泣いてた。だからあたしも流石に心配になって、人を呼ぼうかと思ったんだけど、」
 彼女が、耳元で囁く。小さな、小さな声で。
「やめた。こいつ、ずるいって思ったからな。こんな風にかわいく泣いて、横になって眠っているだけで、誰かが助けにきてくれるなんて、腹立つって思った」
 首筋を噛まれる。音を立てて吸い取られてく。背中が、ぞくぞくする。くぐもった息が、止まらない。 
「だから、春奈の側にいた。誰も呼ばずに、あたしだけが、春奈の側にいた。そうしたら春奈が言ったんだ。ありがとうって。どこにも行かないでいてくれて、ありがとうって。ずっと忘れらんない。すぐにでも会いに行って謝りたかった。あたしは、お礼言われるような気持ちで、側にいたんじゃないのに」
「鳴海……さん……」
「きっかけはそんなもん。ごめんな、本当は初めて会った時も、名前知ってたんだ。合同体育の授業がある時は、ずっと春奈のこと見てたし」
 ぎゅうっと、また抱きしめられる。耳元でくすくす笑う声がした。
心臓の音が聞こえる。
 私の音と、彼女の音。余裕めいて言ってるけれど、鼓動は同じぐらい早くて、きっと同じぐらい緊張してて、同じこと思ってる。
 目を閉じる。世界が消えた。同じ体温を感じたくて、唇を触れ合わせようと、

『七時十五分になりました。これより、警備員と教師が校内を見回ります。まだ校内に残っている生徒の皆様は、速やかに退出してください。繰り返します。生徒の皆様は、速やかに退出してください』

「…………」
「…………」
 私たちは、お互いに目線を交わらせます。ゆっくりと、適切な距離に離れていく。
「せっかく、いいところだったのになぁ?」
「あ、えと、その……」
 残念なようで、ほっとしたような。
一息ついた瞬間。廊下を歩いてくる足音が聞こえました。
「残ってる生徒はおらんかー! 今から部屋の確認にいくぞー!」
「鳴海さんっ! どいてぇっ!」
「ぐふっ!?」
 押し退けたところが、鳴海さんの顎でした。思いっきり仰け反って、なにか首の骨がいい音を立てた様な気がします。
「もうちょっとで先生来ちゃいますよっ! はやく立って! はやくはやくっ!」
「分かったよ。仕方ないけど、また次回」
「じ、次回って……!」
「時間がたっぷり、ある時に」
 ダメです。もうさっきから、頭がくらくらしっぱなし。倒れそうで、倒れられない。先生が来る前に、せめて部屋を出てないと。
「あれ、置いてくの?」
「……置いていけません」
「ありがと」
 結局、彼女の言われるがまま。やっぱり流されてしまいます。それから私達は二人、廊下を走って、学校をあとにしました。
 鳴海さんは寮生です。私は自宅からの自転車通学なので、二人で一緒に帰れる時間は、そう長くありません。別れ道までの距離が、いつも以上に惜しく思えました。
「寒いな」
「寒いですね」
 今日は、随分と夜風が冷たい。だけどゆっくり、二人並んで帰りたい。
「春奈。無理して寮まで付き添わなくていいよ。早く帰りな」
「いいえ、平気です」
「ダメだ。今晩は予想以上に冷えそうだから。さっきも言ったけど、春奈の身体は疲れてるんだから。いつもより充分、休養を取りな」
「はい……」
「いい子」
 頭を撫でられて、耳元に白い吐息を吹きかけられた。くすぐったい。
「あー、腹減った。寮の飯、不味いんだよ」
「えっ?」
 鳴海さんが空に向かって、つまらなそうに言います。
「野菜とか全部茹でてあるし、全体的に味付けも薄いんだ」
「食中毒とかでたら、大変ですからね。仕方がないですよ」
「でもさ、マズいもんは、マズいんだよ」
「作ってもらえるのに、文句言っちゃダメですよ。鳴海さんは、お料理しないんですか?」
 尋ねると、鳴海さんは真顔で頷きました。
「できない。カップ麺を作る時ですら、危険だから火元には立つなって言われる」
「……お湯を沸かすだけですよね?」
「うん。あたしってさ、不器用なんだよ。足使うのは得意なんだけどな」
「いますよね。不器用なのをアピールする人」
 笑って言って、さしあげました。
「かわいいだろ、あたし」
「はい、とっても」
「……真顔で返すな、恥ずい」
「本心ですから」
 鳴海さんが顔を背けて、無言で歩いて行ってしまいます。照れると分かりやすいです。
「待ってくださいよっ」
 背が高くて早足なので、自転車を押してる私は、駆け足にならざるを得ず。でも運動音痴の悲しいところは、こういう時に限って、
「あ」
「お約束すぎだろっ!」
 よろめいた時、手を差し伸べてくれた。ギリギリでした。
「あ、ありが、」
「この天然記念物が。頼むからあたしの前で、絶滅すんな」
「お礼ぐらい、素直に言わせてくださいっ!」
「いいぞ、さぁ、いくらでも感謝しろ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「鳴海さんって、本当に性格悪いですね!」
「分かりやすくていいだろ。ほら立って。帰るよ」
「……はい」
 本当に分かりやすいから、ずるい。
 鳴海さんは、すごく意地悪で、優しい。
 
 他愛のない話をしているだけで、すぐに分かれ道です。
「じゃあ……また明日……」
「うん、まっすぐ帰りなよ」
 ぺたぺたと、頬を軽く叩かれる。そんなことされたら、ますます離れ難いのに。
「鳴海さんっ! あ、あの、家に、ご飯、食べに来ませんかっ!」
「今から?」
「はい。あり合わせだから、昨日の残り物とか混ざっちゃいますけど。でも味付けは融通効きますし、きっと、寮のご飯より、おいしいの作れますっ!」
 このまま一人で帰りたくなくて、つい、そんなことを言ってしまう。縋るように鳴海さんを見る。
「ごめん、うちの寮って、夕飯の八時に点呼取ってんだ。その時に帰ってなかったら、結構面倒なことになってさ、反省文じゃ済まないんだよ。あたし、前科あるし」
「寮にいなかったんですか?」
「コンビニで買い食いしてたんだ。帰ってきたところを、寮長に見つかってな」
「お腹、空いてたんですね?」
「……うん、まぁ」
「夜中に外を歩くぐらいなら、家に来て。退寮したら、私の部屋あげますから」
「落ちつけ、春奈。暴走してる自覚あるか?」
「わかってます。わかってますけど、他に何も思い浮かばないから……」
 私は、勉強以外、上手にできない。
 どうやったらいいのか、分からない。
「鳴海さん……」
「あぁもう、この天然娘が! あたし、あんたみたいな奴、大っ嫌いだったはずなんだけどなぁっ!」
 彼女は急にそわそわと、辺りを見回して。
「よし、誰もいないな。つーか、見つかったところで、知るかっ!」
 ぎゅうって、抱きしめられます。
 あったかい。とっても、あったかい。
「春奈って卑怯だ。自覚ないのが性質悪い」
 くつくつ笑います。その仕草が、少し照れているのが分かって、嬉しい。
 私も両腕を回して、駄々をこねる気持ちで応えました。
「……明日は、鳴海さんに会えないから、寂しい……」
「うん、明日はとことん走れって、足時計が言ってるからね。休憩した翌日は、やたらと走りたくなるんだよね」
 夜風で冷えた私の頬。彼女の手袋が包んでくれる。
「今は、これで我慢しといて」
 頷きました。でもまだ、帰りたくないと思いました。些細なことでもいいから、繋がりを持って帰りたい。小さな可能性を思いついたのは、その時。
「鳴海さんって、お昼はどうしてますか?」
「昼飯? 学食のパンで済ませてるよ。金ないし」
「お弁当っ!」
「うわっ、いきなりなに?」
「お弁当作ってきますっ!」
「弁当?」
「はい」
 今度こそ、頷きます。
「鳴海さんが嫌でなかったら、お昼だけでも、一緒に食べてくれませんか」
「いや、一緒に食べるのはいいけど。弁当は作るの手間だろ?」
「平気ですよ。了承してくれるまで帰りませんから」
「待て、落ち着け。ほら、足でもさわって……冷たっ!?」
 言われた通り、足を触ります。ぺたぺたと、スカートの中にも手を入れて。
「分かった! あたしが悪かった! 頼むから、その冷たい手で触るな変態っ!」
「はい」
 手を抜いて見上げると、はぁはぁと息の荒い、真っ赤な顔の鳴海さんがいます。
「その代わり約束! 今日は寄り道せずに帰って、風呂入ったらすぐに寝ろ。長風呂も論外。朝も必要以上に早起きすんな。明日顔合わせた時に、少しでも疲れてる素振りがあったら、二度と頼まないからな!」
「わかりました。待ちあわせは、部室でいいですよね」
「うん」
 夜風が冷たくて、さっきまで両肩が震えてたのに。今はすっごく、体が熱い。
「じゃあ、また明日――」
 言いかけた私の唇に、触れるものがありました。優しく長く、吐息が混じる。離れていくのを、呆然として、目で追った。
「……あたし、好きな物は、一番最初に食べる派なんだ」
 真顔で呟かれても。困ります。

 朝、六時を告げる目覚ましは、さすがに堪えました。
「うぅん……」
 身体を起こすと、冷たい朝の空気が身に沁みます。いつもならもう少し、暖かい布団の中で小さくなっていたいところ。けれど今日は違います。
「お弁当、作らなきゃ」
 鳴海さんに言われた通り、布団を一枚余分にかけて、就寝時間を早めたおかげでしょうか。深く眠りについたせいか、悪夢も見ることなく、心地良い目覚めです。上着を羽織って部屋をでるのも、いい気分。
「こんなに楽しい朝なんて、久し振り」
 洗面所に立って鏡を見ると、笑顔の自分が映っています。
 ぬるま湯で顔を洗って目を覚まし、いつもより長い時間、乱れた髪を整えます。
「寝癖残ってないよね……大丈夫、かな」
 ドライヤーをかけながら、角度を変えて何度も確認。くせ毛が目立たなくなったところで、次は肌の手入れ。いつもより幾分念を入れて乳液を塗りました。両手の爪も伸びすぎてはいない。最後に唇へとリップを塗って、
「うん、これでひとまず大丈夫」
 階段を降りて、一階の台所へ移動します。

 冷蔵庫を開けて、食材を並べる途中になって、思いだしました。
「……鳴海さんのお弁当箱、どうしよう」
 代替えの利く物はないかと、お客様用の食器棚を探してみると、ありました。
「なつかしいなぁ、これ」
 デフォルメされたウサギが書かれた、ピンクのお弁当箱。小学生だった頃に、遠足などで使っていた物が残っていました。普段から「もったいないから捨てられない」を連呼しているお母さんに、感謝です。
「また今日から、よろしくね」
 普段使っているお弁当箱は、今日から鳴海さんの物。そう思うと、胸がどきどきする。
「鳴海さん、たくさん食べそうだもんね」
 一度、鳴海さんのことを考えると、手が止まってしまう。
 今は気持ちを切り替えて、料理に集中しなくっちゃ。失敗はしたくない。

 台所に立って四十分。
 居間にある時計を見ると、七時を過ぎていました。そろそろ両親が起きてくる時間です。
 お弁当の盛り付けをしている間に、コンロに置いた鍋の中、くつくつと煮立つお味噌汁の味見をします。
「うん、いい感じ」
 確かめてから、盛り付け作業に戻ります。白ごはんに、たまご焼き、メインは唐揚げ。隣にアスパラガスのベーコン巻きに、ミニトマトにほうれん草と、色取りも意識してみました。
「喜んでくれるといいなぁ」
 二人分で、いつもより手間をかけました。だけどむしろ、お弁当を作るのは、昨日より楽しかったかも。
 鳴海さんがお弁当を食べてくれるところを想像していると、不思議と心が弾みます。
「……はやく、お昼にならないかなぁ」
「まだ早朝よ」
「えっ!?」
 突然声が。慌てて振り向くと、
「春奈、いつもより生き生きしてるわね」
「お、お母さんっ!」
 寝巻き姿のお母さんが、扉の隙間から、こっちを覗きこんでます。
「い、いつから居たんですかっ!?」
「だいぶ前」
「起きてたなら、声かけてくださいっ!」
「だって面白かったんだもの。いつもは黙って、作業するようにお弁当作ってるのに。今日に限っては、鼻歌交えてるんですもの」
「そ、そんなことありませんっ!」
「へぇ?」
 お母さんが、にやにや笑いながら近付いてきます。いつもは使っていない、昔のお弁当箱を一目見るなり、納得、といった様子で頷きました。
「相手はどんな子なの? 格好良い?」
「な、なにを……っ!」
「隠さなくてもいいじゃないの、彼氏できたんでしょ。お弁当一緒に食べるの? はい、あーんとかやっちゃうの? きゃっ、青春って素敵よねっ!」
「……あの、お母さん」
「お母さんも若いころはね、人目を忍んでいろいろやったわ。そう、いろいろ。うふふ」
 一人勝手に、赤くなっています。時折こんな風に、自分の世界へ飛び立つ困った人なのです。
 三分経ち、現実に戻ってきたところを見計らって、声をかけます。
「お母さん、聞いて」
「なぁに?」
「私に、彼氏なんていません。好きな男の子もいません。本当です」
「えー、うそー」
 疑わしげに、じーっとこちらを見てきます。
「あれー?」
 呟いた後に、眉をひそめました。
「本当に、彼氏ができたんじゃないの?」
「何度でも言います。違います」
「残念だわ。春奈は嘘ついても、すぐ顔にでるものね」
「はい。だからお母さんの勘違いです」
「じゃあ、このお弁当箱は誰の?」
「……それはっ!」
 言葉に詰まってしまいます。なんて言おう。
「……と、ともだちの……?」
「自分で疑問形になってるわよ」
「う、うそじゃないですよっ! 最近、仲が良くなった人なのっ!」
「ふぅん」
「本当ですっ!」
「はいはい」
 お見通しよといわんばかりに、笑わないでください。でも、それ以上は深く追及されなかったのが、救いでした。
「朝ごはんの準備手伝うわ、一人じゃ手間でしょ」
「遅いですよ。もうほとんど終わってます」
 思わず溜息をこぼした後は、毎朝変わらない、少し慌ただしい朝が過ぎていきました。
5, 4

  

 気持ちが急いていました。約束をしているのはお昼なのに、いつもより随分早く、学校に着いてしまいました。
「まだ三十分もある……」
 ホームルームが始まるまで、どうしよう。
 校舎に入ってもすれ違う生徒の姿はありません。私よりも早く学校に来ているのは、朝練のある運動部の人達だけでした。
「そうだ、鳴海さん来てるかも」
 鳴海さんの「足時計」の明確なリズムは、私には分かりません。けれど一つ確かなことがありました。
『――休憩した翌日は、やたらと走りたくなるんだよね』
 鳴海さんが、部室に二日続けて来たことはありません。今日は「足時計」の言う通り、一日中、走りまわってるはず。
「朝練、来てるよね」
 二階の渡り廊下から運動場を見ると、陸上部の人達が見えました。運動場のトラックを凄い勢いで走り抜けていったり、校庭の一部を用いてハードルを飛び越えたり、長い棒を利用して、高跳びなどの練習をしていたりします。いつも思うのですが、どうしたらあんな風に手足が動かせるんだろう。でも、鳴海さんの姿は見当たりません。
「……いない」
 見つからない。どこにも、彼女の姿が見えない。そう思うと、胸が痛い。
「鳴海さん、どこ……」
 昨日までは、こんなにも彼女のことを想わなかった。惹かれていることに気がついてはいたけれど、日常にちょっとした変化が訪れるだけで、満足だったのに。
 今は、こうして姿を探して、見つからないだけで不安に駆られてしまう。お昼休みに会える約束もしているのに、心臓がぎゅうっと縮まっていく。
「もしかして、あそこに、いるのかな……」
 そんなはずないって、分かってる。でも、まだ時間があるのなら。階段を上り、反対側の棟へと向かいました。
 
 放課後、毎日通っている文芸部の部室は、変わらずそこにありました。鍵をしめて帰ったから、ドアノブに手を添えても開かない。
「……そっか。鳴海さん、鍵を持ってないんだよね」
 初めて会った時に、合鍵を作ってと言われ、断りました。けれど今、もう一度作ってと言われたら、私はなんて応えるのだろう。
 部室の鍵を用いて、部屋に入ってみます。
 予想は裏切られず、誰もいません。
「……やっぱり変だ、私」
 身体の調子はいいのに、朝からずっと熱っぽい。念のために、家を出る前に体温を測ってみたけれど、平熱でした。
「鳴海さんが、悪いんですよ……」
「誰が悪いって?」
「ひぅっ!?」
 心臓が壊れたかと思ったぐらいに、飛び跳ねました。振り返る前に、両腕が左右から現れて、胸の上で交差する。
「なにしてんの」
「鳴海さんこそ! なんでここにいるんですかっ!?」
「今日は長距離の気分だったから、ずっと外を走ってたんだ。そん時、何気なく廊下を見上げたら、見えた気がした」
「それで、運動場にいなかったんですね」
「もしかして、探してくれてたの?」
「は、はい……」
「そっか」
 回された腕に、力が込められます。
 心臓が叫んで、今すぐに、どうにかなってしまいそうでした。
 振り返って彼女を抱きしめたい。だけど、このままでもいたい。
 どうしよう。動けない。
「んー、柔らかい。なんか変な気分になりそ」
「な、鳴海さんっ!」
 胸を揉まれながら、後ろから首筋にキスされる。吸い付くように音を立てられて、背中がぞくぞくした。甘い声がでそうになって、鳴海さんの腕に噛みついた。
「春奈、痛いよ」
「だ、だってっ!」
「あーあ、しっかり跡ついちゃった」
 鳴海さんの腕が離れていく。余裕めいて笑う声を聞きながら振り返る。向き合った。
「春奈は、いつもこんな早くに学校来るの?」
「いえ、今日は特別で……」
「あたしが昨日言ったこと、忘れたの」
「覚えてます。確かに、いつもより早起きはしましたけど。でも夜は暖かくして、早く寝ました。鳴海さんのおかげで、朝はいつもより楽だったぐらいです」
「怖い夢は見てない?」
「はい」
「うん。昨日よりも大丈夫そうだね。よかった」
「……ありがとうございます」
 私は、誰かに気を使ってもらったことが少ない。むしろ勉強ができるという理由だけで、些細なことで頼られることが多かった。だからこんな風に、素直な気持ちを向けてくれる鳴海さんの心が、とても嬉しい。
「……好きです。鳴海さんが、好き」
 言葉が自然に出てくる。言ってしまうと、鳴海さんが焦って目を逸らした。
「……もうすぐ予鈴なるから。あたしも、そろそろ戻らないと」
「照れてる」
「うるさい、今のは春奈がずるい。不意打ちだろ」
 口元に手を添えて、真っ赤です。可愛い。
「不意打ちじゃなかったら、いいんですね。私、鳴海さんのことが、大好きです」
「……じゅーぶん、不意打ちだろ、それ以上言うと、本当にどうかするからな」
「しても、いいですよ?」
「わかった」
 きつく抱きしめられて、そのまま唇を塞がれる。これで二度目。
「ん……」
 昨日と違って、舌を絡み合わせてみたり、歯の裏側を探ってみたり。腕に力を込めて、彼女のぬくもりを感じながら、熱い吐息に身を委ねた。
「……」
「……」
 どちらからともなく、そっと口を離せば、くぐもった吐息が漂った。身体中が熱い。
「慣れると、病みつきになっちゃいますね」
「……春奈って、実は相当やらしい子?」
「はい、やらしい子です。鳴海さんもっと頂戴」
「やめて。理性壊れるからやめて」
 鳴海さんが言った時、十分前の予鈴が鳴りました。キン、コン、カン、コン。今日はここまでというように、終わりの合図。
「春奈、行くよ」
「はい……」
 少し残念に思っていると、鳴海さんが突然、私を抱き寄せてくれる。
「もう一回だけ、しよ」
「いいですよ、目を閉じますね」
「いや、そこじゃなくて」
「……えっ?」
「ここ」
 鳴海さんが意地悪に笑って、自分の「足時計」を、指で示してみせました。
「ここに、痣をつけてよ」
「……鳴海さん、本当に負けず嫌いですね」
「やられっぱなしは、悔しいからな」
「わかりました」
 跪いて、キスをする。下から見上げると、ちょっと驚いた顔してる。
 もう一度、舌でなめて、吸い上げて。それから少し噛みついた。しっかり赤く染まったそこを見て、胸が熱く込み上げてくる。
「できましたよ。反対側の足にもしましょうか?」
「いや……春奈ってばやっぱりやらしい。理由聞かれたら、なんて答えればいいの」
「素直にキスされたって答えてください。私も首の後ろのとこ、そう言いますから」
「……あーもう、わかった。あたしの負け。ほら、今度こそ行こう、遅刻するよ」
「はい。次はお昼ですね」
「昼は普通に、飯食うだけだっ!」
「鳴海さんって、攻められると弱いですよね」
「うるさいよ」
 憮然とした表情の彼女が愛しい。
 今度こそ立ち上がって、部室の鍵を閉め、部屋を後にしました。
 朝からずっと楽しみだった、この時間。
 今日は暖かいです。もうすぐ冬の到来を告げるような気配はありませんでした。ただ、一つ残念なことをあげると、ここが約束していた部室ではなくて、人気のある学校の中庭だということ。
「春奈、料理上手いな。すごくおいしいよ」
「本当ですか、よかったぁ……」
 私の隣で、鳴海さんが、お弁当を食べてくれています。望んでいた言葉を聞いた瞬間に、早起きしたのが報われたと感じます。
「正直、本当においしい。これもそんなに味付け濃くないのに、寮の飯と全然違う」
「味付け、もう少し濃い方がいいですか?」
「いや、これでいい」
「そういえば鳴海さんって、食べられない物とかありますか?」
「生の魚だけは苦手。刺身とか寿司とか、ダメなんだ。焼き魚ならいけるんだけど」
「それじゃあ、お弁当のおかずになりそうなのは、大体大丈夫ですね」
「だな。それにしても春奈、普段から弁当作ってるの?」
「はい。私、小学生の時から夕飯担当でしたから。朝ご飯やお弁当も、家族交代で作ってます」
「偉いな。あたしは親に任せきりだった。うん、春奈偉い。勉強じゃないことだって、できるじゃん」
「でも好きじゃなかったんです。それこそ必要だったから、普通にやっていたことで」
「それ、贅沢だよ」
 こっちを見て、小さく笑われてしまいます。その笑顔に、私は気付かされました。
「私、好きなことを探していたんじゃなくて、自分にしか出来ないことが、やりたかったんですね」
「わかるよ。あたしも走ることは好きだけど、他人を見下したい感情は混じってる。それも含めて走ることが好きなんだ。ゴールテープを切った瞬間は、本当に気持ちがいいからな」
「一番を取る、瞬間ですね」
「うん、春奈もさ、自分に自信持ちなよ。一番は狙うんじゃなくて、勝ち取るんだよ」
「じゃ、じゃあ……」
 顔から湯気がでる。今、この瞬間に言いたかった。
「わ、わたし、鳴海さんの一番ですか……?」
「んぐっ!?」
 鳴海さんの、箸を持つ手が止まります。水筒を手にとって、直接口をつけて飲みほしていきます。
「だ、大丈夫ですかっ!」
「……」
 こっちを向いてくれません。
 里芋の煮物をぷっすり刺して、口元へ運んで。無言でもぐもぐと。
「おいしい。これ好き」
「あ、ありがとうございます……」
 ぷすりと、今度は別の人参を突き刺して。もぐもぐと。
「足りない。春奈の頂戴」
「はい」
 目を合わせてくれません。お箸だけ器用に動かして、私のお弁当箱から、お芋をぷすり。
「おいしい」
「あの、気に障ったら、ごめんなさい……」
「いや、そうじゃなくて」
 今度はふりかけを塗した、白ご飯を食べていきます。私もつられて、自分のご飯を啄ばみます。私、鳴海さんの一番だなんて、調子に乗ってたのかな……。
「あのさ、春奈、食べながらでごめん」
「はい……」
「そういう事、ここで言わないで。なんか口に入れてないと、我慢できない」
「えっ?」
「次は二人だけの時に、もう一回言って。きちんと返事するから。そうだな。今度は春奈の部屋で、どう?」
 顔が赤くなる。花咲くような気持ちだった。
「鳴海さん」
「なに?」
「……家の合鍵、必要ですか?」
「作ってくれる?」
「はい」
 今日はあたたかくて、幸せ。
 思い出す。彼女と初めて出会った時のこと。
「……これから、あの部室使えなくなるらしいんですけど、もう、必要ありませんよね」
「え?」
「次からは、私の家に、来てくれるんですよね」
 鳴海さんの頬に、一粒のご飯粒がくっついていました。それを指にとって、口に運ぶ。
「……鳴海さんの、味がしますね」
「そーいうこと言わない」
 顔を赤らめる彼女を見て、追いかけた。
「はる、なつ」
「いいよな、響きが」
「大好きです」
 私達は二人、静かに微笑んだ。
 胸ポケットの中で、小さく音を立てた鍵が、よかったねと、そんな風に言っていた。
7, 6

  

 *2 姫宮秋のこと。

 鳴海さんはとても人気があるらしいと分かったのは、二人でお弁当を食べた翌日からのことでした。
『夏野さんと付き合ってるの?』という意図を尋ねる人達が、私の周りに現れるようになり、下手に言葉を濁そうとすると、一部の方は率直に『女同士ってどうなの』と尋ねてきました。
(どうなのと言われても……)
 下駄箱には手紙が差し込まれていたり、付箋が貼ってあったりします。稀に『私の好きな先輩も女性なんですが相談に乗ってくれませんか』といった物(私にどうしろと)や『夏野さんと別れてください。男に取られるならまだしも女に取られるとか納得いきません!』(納得いきませんと言われても……)といった敵意のある内容も含まれました。
正直煩わしいので内容問わず即座に破棄していますが、そういった代物は増える一方でした。

 お昼休み。二人で一緒にお弁当を食べ初めて三日目。鳴海さんが、少し不安そうな瞳で私の方を見つめます。
「ごめん。なんか余計な気苦労負わせてる?」
「全然平気です。むしろ鳴海さんからそんな風に言って頂けるとは思いませんでした。良心とかあったんですね?」
「ひどいなー。まぁ、あるんじゃないの。春奈専用のがさ」
 言いつつ、逸らした表情に朱を浮かべたまま、再びお弁当を食べていく。
「まー、あたひ、そこりゃの……んぐ。あたし、そこらの半端な野郎より、段違いに格好いいからな。恨まれても仕方ない」
「自分で言いますか」
「事実だし。今日の朝も、近所の鼻垂れ連中が指差してきてさ。『イケメンがスカート穿いてるぅ!』なんて言いやがるから、全力ダッシュで捕まえてブン殴ってやった。百メートル高校全一をナメたらどうなるか、身の程知らずのチビ共に叩き込んでやった」
「……ご近所の小学生と、本気で張り合わないでくださいよ……」
「だって、許せなかった」
 憂いを込めた格好良い表情で、鳴海さんが告げます。中身は乙女なんです。
「スカートの似合う女は許さん……」
 うろんな眼をして、私の脚とスカート部分をねめつけます。
「あ、あんまり見ないでくださいっ!」
「大体さ、なんでこんなヒラヒラしてんの。意味なくない?」
「ちょっ! 捲らないでくださいっ!」
 慌てて両手で押しつけ、上目遣いに睨みつけました。
「あ、なるほど。今みたいな顔が見たかったのか、なるほどなぁ」
「鳴海さんの変態……!」
 言うと、さらに意地悪な顔になって眼を細めました。口元も歪めて。やらしいです。
「春奈は綺麗なのに。もっと生足見せたらいいのに」
「それ以上言うと、明日からお弁当抜きです」
「ごめんごめん」
 謝ってなんかいない素振りで、鳴海さんの細い指先が、私の頬の上をなぞっていく。彼女の熱が伝わってきて、あったかい。
「春奈のご飯は、あたしを幸せにしてくれるよね」
「必要以上に褒めても、なにも出ませんよ」
「本気なのになぁ」
 冗談めかして笑う鳴海さん。わざとらしく両肩をすくめる仕草も絵になってしまう。
 鳴海さんの掌が、頭に添えられる。
 髪を撫でてくれる指先はとっても細くて、うっかりすれば眠ってしまいそう。
「気持ちいい?」
「……はい」
 自分の心臓が動いている音が聞こえる。眼を閉じてしまいそうになった時、お昼休みの終わりを告げる、予鈴が聞こえてきます。
「そろそろ戻ろうか。お弁当ご馳走様」
「あっ、あの、まだ、デザートあります!」
 慌ててもう一つのタッパーを開きました。
「おっ、兎リンゴ。可愛い」
 くすくす笑いながら、
「じゃ、いただきます」
 爪楊枝で兎をぷすり。口元に運んでいく。なんでもないその仕草に、心底見惚れてた。
「……私、鳴海さんに恋してる……」
 思わずこぼれた言葉は、大好きな人にも不意打ちだったみたいで。鳴海さんの口元から膝の上へと、兎が跳ね落ちていく。
「……びっくりした」
「鳴海さんが好きです。大好きです」
「ありがと」
 鳴海さんがもう一度、顔を赤くした

 学校の授業ほど楽なものはありません。既に理解の終わっている授業内容については、聞いている素振りが見える程度に意識を傾けていれば充分でした。余った意識の分だけ、鳴海さんのことを考えてしまいます。
(今日は、一緒に帰れない……)
 彼女の足時計は、今日は走れと言っているらしいです。仕方がないので、美味しい物を買って帰ろうと思いました。
(……明日はどんなお弁当にしよう)
 明日も兎のリンゴを入れてみようかな。
 ぼんやり考えていた時、今日最後の授業を終える音が鳴りました。
「――では、本日はここまで」
「起立!」
 号令に合わせて立ちあがり、その後は教科書を鞄に詰め込んでいきました。
(……そういえば)
 鳴海さんと知り合う前は、私は、どんな風に、生きていたのだっけ。
 ふと周りを見れば、男子、女子、男女混合、いくつかのグループがあちこちに形成されていました。そのどれにも私は所属していません。
 そうでした。私は、一人でした。
「藤原さんっ」
「…………はい?」
 とんとんと、後ろから肩を軽く叩かれて、現実に引き戻されます。
「また、ぼーっとしてました?」
「すみません」
「いえいえ」
 私のすぐ後ろにいたのは、姫宮さんでした。クラスで最も小柄な彼女は、笑うと、とても可愛らしい方です。鳴海さんがライオンみたいな猛獣だとすれば、姫宮さんは……えぇと……チワワ? とにもかくにも愛らしい方です。
「藤原さん、この前の約束覚えてますか?」
「えっ?」
反射的に問い返してしまうと、子犬の耳と尻尾がしょんぼり垂れて見えました。
「覚えてないです? ちょっと前に、お昼一緒にしてくれるって言ったのに」
「あっ、はい」
 思い出しました。鳴海さんと初めてお昼をご一緒した日でした。四階の踊り場で、生徒会のお知らせを張り替えている姫宮さんに出会って『今日は鳴海さんとお昼を一緒にするので、また今度誘ってくださいね』という具合の返事をしたような。
「藤原さん、あの日から毎日中庭で、鳴海さんと一緒なんですもん」
「ごめんなさい。今度、ご一緒しましょう」
「はい! あ、あとっ! 今から、ちょっとお時間頂いても大丈夫ですか?」
「え?」
 姫宮さんは、まっすぐに私を見上げていました。混じり気のない綺麗な瞳。鳴海さんと同じ、意思を持った瞳。
「お手数は、かけません」
「はい、大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
 沈みかけた校舎の中、姫宮さんは、優しく笑いました。
 
 姫宮さんは廊下を歩いているだけでも、学年問わず、頻繁に声をかけられていました。
「姫ちゃーん! かえろーよー!」
「ちょっと用事あるからごめんねー」
「あきら~、骨っこあるよ。ビスケットもあるからほれおいでー」
「私、犬じゃないです先輩っ!」
「お、生徒会役員のチワワ君ではないかね。どちらへお出かけだね?」
「蹴り飛ばしますよ先生っ!」
「――そこを行く幼女っ! アメ玉あげるから悪いお姉さんについてきなさいハァハァ!」
「幼女言うなァァーーっ!」
 姫宮さんは何度も怒った声をあげながら、その度、慌てて私の方を振り返ります。
「か、勘違いしないでね藤原さんっ! 私はこんな風に声を荒げるキャラじゃないんだけど、周りの人達がとても個性的な人達ばかりで仕方なくっ!」
「はい。姫宮さんは好かれてますよね」
「……うぅ、微妙に伝わってないよーな」
 がっくりと肩を落とす姫宮さん。反対に彼女に声をかける人は皆、一様に笑顔になるのが印象的でした。彼女はいつも一生懸命で、それが自然と滲み出てるから。
 恐らく皆さん、共通の認識を抱いていることでしょう。例えるならば、正に、そう、
「回し車を、延々と回し続けるハム……」
「え?」
「すみません口が滑りました」
 とにもかくにも、姫宮さんはとても魅力的な人物なのでした。
 姫宮さんは生徒会室の前で足を止めました。鍵を用いて扉を開けて、しん……と冷たい空気だけが漂う部屋の電気をつけます。
「今日はお仕事の予定がなかったので。ここなら邪魔が入りませんっ!」
「……邪魔?」
 不思議に思いつつ、後ろ手で扉を閉めました。閉ざされたカーテンの隙間から、沈みかけた西日の光が差し込まれています。
「ふ、ふじわら、さん……」
「はい」
 部屋の中央で向き合います。姫宮さんの顔が、朱に染まっているように見えました。何度も繰り返して息を吸い込み、吐き出して、愛らしくも美しい瞳が、まっすぐ見上げてきます。
「そ、率直に、お願い申しあげますっ!」
「お願い、ですか?」
「(こくこく)」
 姫宮さんが小刻みに頷きました。舌は噛んでいないみたいで、ほっとします。
「私に出来ることでしたら、お聞きします」
「な、夏野さんは駄目なので別れてっ!」
「えっ?」
 大好きな人の名前が、姫宮さんの口から飛び出しました。とくんと心臓が一度高鳴る。もしかして、姫宮さんも鳴海さんのことが好きなんでしょうか。
 彼女の顔色はさらに赤くなって、涙で潤んでいきます。私の手を取り、さらに間近で。
「夏野さんは確かにイケメンです! 女とは思えない程にイケメンです!」
「……そ、そうですね」
「しかもっ! 顔の良さと身長の高さと足の長さ、三点セットをパーフェクトに兼ね揃えたホスト系『色女』です!」
「ホ、ホスト系……」
 確かに、男性用の上下スーツを着て、得意気に前髪なんかをかき上げつつ、
『今夜どう?』
 なんて歯の浮く台詞を言ってれば、普通にホストに見えるかも。胸ないですし。それに軽薄だし、意地悪だし。いやらしいし。
 だけど。
「ごめんなさい姫宮さん、お断りです」
「はう! ど、どーして……」
「私が、彼女のことを好きだからです」
 まっすぐ射ぬき返します。怯む姫宮さんを、だけど容赦なく見据える。引けません。そして姫宮さんも、ぎゅっと唇を絞って、私を変わらず見上げます。
「ふ、藤原さんはっ……!」
「はい」
「可憐な乙女なんですっ!!」
「……え?」
 思わず、気が緩んでしまいました。
 えっと、なに。可憐な、乙女?
「藤原さんは私の憧れなんですっ!! ホスト系の俺様野郎との恋愛なんて、絶対絶対、認めませんっ!!」
「あ、あの……?」
「それでも、それでもっ! 藤原さんが夏野さんのこと好きってゆーならっ!!」
 しゅんしゅんと、全身から水蒸気を発してしまいそう。くりくりとした瞳が、私を捕えて離さない。
「わ、私だって、負けませんっ!」
一歩、姫宮さんが前に出て、両手を伸ばす。指が触れ合って、絡まり合う。火照った掌の熱が、私の頬にまで伸びてくる。
「ひ、姫宮さん……?」
 胸が高鳴る。身動きがとれない。逃げられない。
「にゅーがくっ、しきっ、のっ、ひっ、に、ですねっ! ふじわりゃさんと、再びっ、お会いした時かりゃ! りゃりゃりゃっ!?」
 舌を噛んでしまいそうな姫宮さんに、はらはらどきどきする。観覧車程の巨大な回し車の内側で、全力で無限ループしている、けなげな生き物の姿が浮かんでしまう。
「は、はうあうあぁぁ~!」
 彼女の瞳の中で、一杯に涙が溜まっていく。それでも決して零れ落ちない。
「ふ、藤原さんっ!」
 最後の一呼吸。決意を滲ませて、姫宮さんは告げました。
「わたしは、ずっとっ!」
「二年七組、出席番号三十二番、蒼月(そうつき)沙夜(さや)さんのことが」
「とってもとっても! 大好きでしたっ!!」
「まぁ、嬉しい」
 姫宮さんが、ぱあぁっと花が咲くような顔になりました。
「ほ、本当ですか! 嬉しいってことは……つまり……あれっ?」
 なんだか今のやりとりは、ちょっとおかしくなかったですか。第三者の介入がありませんでしたか。そんな風に私を見つめて。
「…………」
「…………」
 首を傾げる姫宮さん。頷く私。
 私達は手を取り合い、二人揃って扉の方へ振り返りました。
「ごきげんよう、アキラさん」
「……さ、沙夜ちゃん……?」
「今日は生徒会のお仕事はなくってよ」
 沈みかけた夕陽。照らし出された綺麗な女性。艶やかな長い黒髪と、淑やかな笑顔が、とても印象的でした。
「生徒の為にある教場を、私用目的で扱うとは好ましくありませんわね。鍵を返して頂こうかしら?」
 片手でさらりと髪を梳き、印象的な微笑を深めつつ、私達の方を見ます。
「そちらの貴女、アキラさんと同じクラスの藤原春奈さんね。噂は聞いておりましてよ」
「……は、はじめまして」
 優しくも、どこか威圧感のある声でした。姫宮さんと手を離して頭を下げた後も、蒼月さんと名乗った女性は、なにかを試すように私の方を見ています。
「藤原さん。よければこの後、少しお時間を頂いてもよろしくて?」
「……え?」
「ダ、ダメっ! 私が先約なのっ!」
 ぎゅっと、姫宮さんの両手が回されます。抱きしめられた、ぬいぐるみみたいな格好になってしまう。
「アキラさん……まったく、もう……」
 蒼月さんの嘆息は、子供の我儘を聞いたお母さんの雰囲気でした。
「それじゃ、仲良く三人でお茶でも飲みながら、お話しません?」
「だ、だからっ!」
「アキラさん、お姉さんがケーキを御馳走して差し上げてよ」
「きゅっ!」
 ケーキという単語を耳にした途端、姫宮さんの口から奇妙な声が漏れました。両手から力が抜け落ち、私を見上げてくる瞳は、キラキラ輝いています。
「藤原さん、あ、あのですねっ!」
「は、はい?」
「よかったら一緒にお茶しません!? べ、べつに、ケーキが食べたいわけじゃないんですけどねっ!」
 姫宮さんは、素直で可愛い人でした。
9, 8

  

 携帯で時間を確認した時、六時前でした。既に陽は沈んでいます。
「ここ、女子寮からも近いし、ケーキもおいしいし、いいお店なんですよぅ~」
「アキラさん、はしゃがないの」
 お二人に連れてこられた喫茶店。
 店内は広くはなく、カウンター席の他にテーブル席が四つ。照明は意図的に薄暗く、代わりにそれぞれの机の上から、ほんわり明るい光が漂ってます。アンティークのランプを模した置物が、緑や青といった別々の光を放っていました。片隅に置かれたレコード台からは、英語でない外国の曲が流れてきます。
「面白いお店ですね」
「でしょー」
 少し遅くなる旨を母にメールで告げてから、そういえばと思いました。
「寮の門限は大丈夫ですか?」
 聞くところによれば、姫宮さんと蒼月さんも、鳴海さんと同じ寮生とのこと。
「本当は六時なんですけどね。皆、部活動なんかで遅くなっちゃうから。暗黙の了解で、夕飯が出来る七時が門限です」
「なるほど」
 四人用のテーブルに、私の隣には姫宮さんが、向かいの席には蒼月さんが座っています。
「改めて自己紹介させて頂きますわ。二年七組、出席番号三十二番、蒼月(そうつき)沙夜(さや)と申します」
「一年一組の藤原春奈です。あの、蒼月さんって、ウチの高校の生徒会長ですよね」
「えぇ」
 にっこり。微笑むその表情が、壇上で彼女を見た時の記憶と重なりました。
「沙夜ちゃんさぁ、私と藤原さんの後つけてたんでしょ。狙ったようなタイミングで出てきてさ!」
 姫宮さんが言うと、蒼月さんの微笑みが、さらに色を濃くします。
「ふふ、もうアキラさんったら……。生徒会室を私用目的として利用したのにお咎めもなく、しかもお茶とケーキまで御馳走されて。それでもわたくしをストーカー等とおっしゃるなら」

 これが貴女の最期の食事になりましてよ。

「ま、真に申し訳ありませんでしたっ!」
「うふふふふふふふふ」
 流暢に言葉を紡ぐ蒼月さんに対して、素直に頭を下げる姫宮さん。彼女の扱いを完全に心得ている風でした。
「アキラさん。浮気を許すのは一度までよ」
 さらりと告げた台詞に、私は少し驚いてしまいます。
「お二人は恋人なのですか?」
「こっ!? ち、ちがっ、違いますよっ! 誰がこんな腹黒女と!!」
「良い響きですわね。コイビト。強いて言うならば、それ以上の関係……」
「藤原さんっ、間に受けないでっ! 私達は単なる幼馴染みですっ! それ以上でも以下でもありません本当にっ!」
「あら、まぁ、」
 蒼月さんが口元に手を添えて、絵になる仕草で首を傾げました。そして「ぽっ」と頬を赤らめ身を捻り、
「ひどいことおっしゃるのね。同じ屋根の下、部屋の下、ベッドの下で毎晩ご一緒しているというのに……」
「沙夜ちゃんっ!! それは違っ……!」
「……嗚呼、新しい屋根の下、二人で超えた、初夜の翌日のことを思い出しますわ……カーテンの隙間からこぼれる朝焼け。眼をこすりながら立ちあがる貴女。まだ甘い眠りに浸っていたかった私の肩を、意地悪するように軽く揺さぶるの」
 おもむろに取り出される、なにかの機械。スイッチを、カチリ。

『ねぇー、沙夜ちゃーん。私のパンツが行方不明だよぅ~』

「ちょーーーーーーっ!?」
「ミルクティーとチーズケーキ、お持ち致しました」
 計ったようなタイミングで、姫宮さんが注文したケーキセットが届きました。
「……ぁ、ぅ」中腰の体勢で力なく「……はい、私です」と呟く姫宮さん。
「ごゆっくりどうぞ」
 後ほどして、私が頼んだココアと、蒼月さんが頼んだロシアンティーも届きます。
 ふぅ、と息を吹きかけ一口。
「あっ、おいしい」
「紅茶も最高ですわ」
「うっうっ、ひどいよう、おいしいよう、ひどいよう……一応、誤解を招かない様に言っておきますと、私と沙夜ちゃんは同じ女子寮の相部屋で、二段ベッドを共用しているというだけの関係なんですぅ……」
「あ~ら、アキラさん、パンツの説明が抜けていましてよぉ?」
「……パンツというのは、その……パンツを探していたという事実でして……」
「正確に言ってさしあげますわ。お馬鹿なリスは衣類を一纏めにせず、やたら細かくわけてダンボールに詰め込んだせいで、何処にパンツを埋めたのか忘れてしまったという事態に陥ったの。そして朝日が昇った早朝に、青春まっただ中の女二人が、ダンボールをバタバタ開けては閉じてを繰り返し……」
「詳しく説明しないでいいから! 沙夜ちゃんなんて大っきらい! あと、部屋に録音機を仕掛けるのやめてって言ってるのにっ!!」
「お姉さんは心配してさしあげてるのよ。ケーキ一口頂いてもよろしくて?」
「フォークで『ぷすっ』といくよっ!」
「アキラさんになら本望ですわ」
 溜息を零して、諦めたようにケーキを差し出す姫宮さん。蒼月さんが一口食べて。
「藤原さんも一口いかが?」
「私のケーキだよ沙夜ちゃん」
「わたくしのお金ですわ」
 意地悪しつつも、可愛い妹を見るような蒼月さんのお言葉に、私も甘えました。
「あっ、おいしいです」
「でしょでしょー」
「アキラさん、だからはしゃがないの。ごめんなさいね藤原さん。この子、思い込んだら一直線で、壁にブチ当たるまで止まらない、闘牛仕様ですの」
「バ、バカじゃないもんっ! 牛でもないよっ! チワワでもないからねっ!」
「いい加減自覚なさい。貴女は無駄に空回りする事が多過ぎよ。だからいつまで経ってもお馬鹿さんですのよ」
「うぅー」
 しょんぼりする姫宮さん。手はしっかりとケーキと口の間を往復していましたが。
「まぁ、夏野とかいう馬鹿女に比べれば、可愛げがある分、ずっとマシですけれど」
 優雅な仕草を保っていた蒼月さんが、不意に告げた名前。
「藤原さんもご存じでしょう、夏野鳴海」
「は、はい……知ってます」
 棘のある言葉に、マグを落としそうになってしまう。蒼月さんがにっこり笑う。
「それから、カップラーメンなる品を御存じかしら?」
「え? ……か、かっぷらーめんですか?」
 質問の意図が見えず、戸惑いながらも、私は小さく頷きました。
 カップ麺。私はあまり食べたことはありません。家ではご飯を作るのが当番制になっているし、父も母も普通に料理がこなせる人なので、お世話になる事は稀です。
「あぁ、女子寮の伝説になったアレね」
「……伝説?」
 隣から姫宮さんが、ぱくぱくケーキを食べながら、こくこく頷きました。
「お湯を沸かして三分って合い言葉があるじゃないですか。夏野さん、あれを勘違いしたみたいなんです」
 はぁ~。と蒼月さんが大きな溜息をこぼします。
「カップ麺に『水』を入れて、直接ガスコンロの上に置いて炙り出しましたのよ。今となっては馬鹿話で済みますけど、その場にいた私達は、心底肝を冷やしましたわ」
「…………あ」
 そういえば以前、言っていた。初めて二人一緒に帰った日に、
「……カップ麺を作る時ですら、火元に立つなって言われたって……」
「夏休み前でしたねー。寮長が沙夜ちゃんに変わったばっかりだったよね」
「そうよ、まったくもう。寮長の就任一週間で、あわやのボヤ騒動……わたくしの輝ける学生生活に、あっさり汚点をベタ塗りしくさってくれて……許すまじですわ夏野鳴海っ!」
 ゴゴゴゴゴ、とでも擬音が聞こえてきそうな雰囲気なのに、「にっこり」を維持している鋼の表情がとても恐ろしいです。
「し、仕方ないよ! あの時って精進料理みたいなメニューが続いてて、皆お腹減ってたんだから! むしろ夏野さんのおかげで、直訴状が通ったぐらいだしっ!」
「いいえっ! それだけではありませんわ! 夏野と言えば只でさえ風紀を乱す存在である上に、昨日の夜はアキラさんのことを愛人にしてやるなどと言いだしてっ!」
「はもぐっ!?」
「えっ!」
 自分の手元がカチャリと、存外に大きな音を立てました。微かに冷たくなる指先を感じ、隣でフォークを咥えたまま固まる姫宮さんと視線が被ります。
「ひがいまふっ! ひがうのあれはっ!」
「アキラさんったら、やっぱり牛の如く夏野の部屋に突撃して、」
 再び取り出される録音機。スイッチを、カチリ。

『夏野さんっ! 藤原さんとお付き合いしてるんですかっ!』
『どうかなぁ。そうだ。姫なら愛人にしてあげるよ?』
『あ、あいじんっ!?』
『三角関係より良いと思うけど』

「ななな! なんで知ってるのというか何処から撮ってるのっ!?」
「偶然、扉の前で聞き耳を立てていたので」
 にっこり。
 優雅に微笑む蒼月さんは、けれど震える指先でマグを掴んだ後、紅茶をごくごく一息で飲み干していく。
(…………鳴海さんの、バカ……)
 そして私自身も、心に波が立つのを感じ、ココアを一息で飲み干します。熱はたっぷり籠っていて、舌の上を焦がしていく。
「あ、あのあのっ! そういえば、期末試験が来週ですよねっ!」
 姫宮さんが、ちょっと慌てたように言います。そして私の方を見ました。
「よかったら、今度、勉強を教えてくれませんかっ!」
 翌日の放課後。姫宮さんと、それから鳴海さんも一緒に、図書室に訪れました。部室の鍵は既にお返ししているので、もう使えません。
 試験が近いこともあって、利用する人の数は目に見えて増えてきました。百席近く座れる余裕あるスペースが、ほぼ満席です。
 長机の上には教科書をはじめ、各自の参考書、辞書、ノート、ルーズリーフが広がっています。それから極めて限定的な空間に、枕と毛布が一セット。飲食は禁止なので水筒はありません。
「……たりぃ~、超~、ねみぃ~……」
 枕の上に綺麗な顎を乗せて。私がまとめたノートを退屈そうに見ている、とても迷惑な人がいました。
「はるにゃぁ~、ここぉ~、わかんない~」
「甘ったれた声を出さないでください」
 ぷすり。彼女の手の甲をシャーペンで軽く突いてあげました。
「痛い。ねぇ、春奈の家で二人っきりで勉強しようよ。そっちの方が捗るって絶対」
「……」
 そんな状況になったら、絶対真面目にしないでしょう。周りに迷惑にならない程度に声を潜めて応えます。
「分からないところ、何処ですか?」
「ここ」
「その問題はさっきの公式を応用すれば解けます。後はお一人で考えてください」
「春奈冷たい。あたし今回の結果やばかったら、留年だぞって言われてんのに」
「頑張ってくださいね。鳴海さんが留年したら、私もまた一年生やる羽目になります」
「おっ、付き合ってくれるの?」
 鳴海さんは笑顔。私はもう一つ溜息。
「本音を言えば避けたいので、頑張ってくださいと言ってるんですよ」
「そういうことなら仕方ないな。春奈の為にいっちょ頑張ってみるかな」
「……」
 ぷすり。
「痛い。なんで刺すのさ」
「なにか納得いかなかったので」

 鳴海さんは再び枕に顎を乗せて、つまらなそうにノートと向き合っていました。しばらくして「あぁ、なるほど」と一人頷いて、
「ありがと春奈。たぶん理解した」
「はい」
 ぺらりと、やっぱり退屈そうに次の頁を捲るのでした。失礼ながら、鳴海さんは意外と頭が良かったりするのです。メモを一切取ることなく、私が書き込んだノートや問題集に目を通すだけで、しっかり内容を把握していきます。走るのと同じく、さらりと天才肌を見せつける、ある意味性質の悪い人でした。
(というか真面目に勉強してれば、留年なんて絶対にしないどころか……)
 学年一桁の順位も、普通に許容範囲だと思うのですが。
(本当に面倒な人なんだから……)
 走る事以外においては、極端に面倒臭がるのが鳴海さんです。ただ、留年に片脚を突っ込んでいる現状では、さすがに焦りを感じている様でした。なんだかんだ言いつつ、そこそこ真面目に頑張ってます。これなら大丈夫かなと思ったその時、
「……藤原さん、ちょっと見てもらって宜しいですか」
「あっ、はい」
 鳴海さんの反対側。右隣の席に座っている姫宮さんから声がかかります。鳴海さんとは対照的に、試行錯誤した跡が分かる、びっしり書き込みの入ったルーズリーフ。
「さっき分からなかった問題を、自分なりに考えてみたんですけど、考え方合ってるか、ちょっと自信がなくて……」
「えっと、待ってくださいね」
「あっ、これじゃ見辛いですよね、ごめんなさい。説明させてください」
「はい」
 姫宮さんの側にある参考書には、付箋がびっしり挟み込まれています。
 姫宮さんはご自身のことを「私って馬鹿なんで、時間かけないとダメなんです」と笑って言うのですけれど、そんなことありません。本当に馬鹿なのは、出来るのにやらない人。挙句の果てに、留年とかいう現状に自らの首を突っ込んでる人なんですよ?
「……なんか、春奈から念が飛んできた」
「気のせいです――はい、姫宮さんの考え方で間違いありませんよ」
「よかったぁ、ありがと藤原さん。おかげで勉強も捗ります」
「いいえ。私の方こそ説明下手でごめんなさい」
「そんなことありません。すっごく、すっごく助かってますっ! ……あ、すいません、声大きかったですね……」
 慌てて声を潜める姫宮さん。
 私の言葉が謙遜でないことは、私自身が一番知っている。だから、そんな風に言ってもらえると、とっても嬉しい。
「また分からないところがあったら聞いてくださいね」
「はいっ。考えても考えても、どーしても分からなかったら、教えて頂きますねっ」
 姫宮さんの表情に、可愛らしい笑顔が浮かびました。やっぱり素敵な人です。鳴海さんが『愛人』にしたいという気持ちも、わかりますよねぇ?
「……やっぱ春奈から、ぴぴっと飛んできてるんだけど……」
「気のせいって言ってるでしょ」
「ふーん……。まぁ、お姫が可愛いのは分かるけど、程々にな。春奈の一番はあたしなんだから」
 鳴海さんがお得意の笑顔を浮かべています。しかしそれも『ゴス!』っと、脳天に英和辞典の角を落とされては、維持出来ないようでした。
「……いっ、て……!」
「ごめんあそばせ。手が滑りました」
 鳴海さんの向かい側に、相も変わらずにっこり笑う、生徒会長こと蒼月沙夜さんの姿がありました。そして、
「こら沙夜、静かに。真面目に勉強されてる皆さんに迷惑だわ」
 蒼月さんの左隣――私の正面に座る人。三つ編で眼鏡をかけた、学園生徒会の副会長さんが座っています。名前を日比谷(ひびや)昴(すばる)さん。背筋を伸ばし、凛とした佇まいです。
「ごめんなさい夏野さん。沙夜は時々箍が外れて馬鹿やらかすから」
「そうそうわたくしったら、つい、うっかりと、千頁越えの英和辞典を投擲してしまいましたわ。おもむろに角が当たるように微笑性を加えた上で。ふふふふふ」
「アンタね……いい加減にしなさいよ?」
 顔を持ち上げ、蒼月さんを睨みつける昴さん。眦には迫力がありました。あの蒼月さんさえも笑みを止めます。
「なによぅ……」
「なによ、じゃないでしょ」
「あぁ、日比谷先輩、格好良いですぅ……っ!」
 甘い声が、私の右隣から聞こえてきました。姫宮さんの『一途スイッチ』が押されたみたいでした。
「胸がきゅんとして、くらくらしそうです私! 静謐に勉強していらっしゃる御姿は、文学少女の雰囲気が致して素敵なのに、本気モードで滲ませた気配は、孤高の豹の如き気高さ。あぁ、文武両道とは正に日比谷先輩のことですぅ~!!」
「あ、ありがと」
 昴さんが困ったように苦笑を浮かべ、どうにか言葉を紡ぎました。
「文学少女って言われたのは初めてよ。あと、もう少し静かにね」
「は、はいっ、ごめんなさい」
 顔を朱に染めて、どこか夢を見ている様に呟く姫宮さん。ほんわり甘い香りが漂ってきそう。
「あぁ……私の隣には藤原さん、斜めお向かいには日比谷先輩。綺麗な乙女達に囲まれて、私、超幸せぇ~」
 両頬に手を添えて、何処かへ旅立ってしまいそうな有様でした。私の左隣の人が、とても不満そうに身を乗り出します。
「お姫、あたしだって乙女だぜ?」
「夏野はともかく、わたくしを無視しないでくださるかしら、アキラさん」
「二人は美人ですけど、私の乙女象には入らないんですー」
 姫宮さんが容赦なく斬り捨てました。
鳴海さんは不貞腐れて、「どーせあたしはイケメンだよ」と真顔で呟き、蒼月さんも色濃い笑顔を返してきました。
にっこり。
「ア・キ・ラ・さん。わたくしが乙女でない理由を、是非ともご教授して欲しいところですわァ……」
 蒼月さんが微笑むと、姫宮さんは「びくっ!」と小動物の様に硬直し、私の腕にくっついてきます。昴さんが嘆息しました。
「沙夜は腹黒過ぎ。よね、秋ちゃん」
「(こくこくこく!)」
「まぁ、ひどい誤解だわ。わたくし清廉潔白に生きているのよ。生徒会長に選ばれたのだって、一重に信頼あってこそですわ」
「主張すればするほど、嘘っぽくなるから止めときなさいって」
 漫才でもしているかの様に、胸元に軽く平手を繰り出す日比谷さん。
「なによ、貴女だって……」
「後で聞いてあげるから。今は真面目に勉強しましょ。点数取らないと築いた信頼も崩れるわよ」
「む……」
 告げた後、蒼月さんも黙って手元を動かしていきます。阿吽の呼吸というのでしょうか。見ているだけで自然と「お似合い」と思えるような先輩達でした。
(……私達も、こんな風に)
 来年の今頃には、もっと距離が近づいていると嬉しいな。少しどきどきしながら、隣にいる鳴海さんを振り返ります。
「ぐぅ」寝てました。
「鳴海さん起きて」刺しました。
11, 10

  

 期末試験の答案が返却された、その日のお昼休み。姫宮さんがとってもいい笑顔で、私の側に駆けよって来ました。
「藤原さーん! 私、今回の期末はすごーく出来が良かったんですー! 勉強を教えくれた藤原さんのおかげですーっ!」
「姫宮さんの努力の結果ですよ。おめでとうございます」
「ありがとー! 藤原さんは、テストどうでした?」
「全部満点でした」
「へ?」
 姫宮さんが、目を見開きます。
「ま……満点って、全部、百点とゆーことですか?」
「はい。勉強だけが取り柄なので――お弁当、何処で食べましょうか」
 私が言うと、姫宮さんが口元に指を添えて考えます。お弁当を一緒にするのは今回が初めてです。
「今日は風が冷たいですしねー。出来れば静かで、お茶なんかが出るところ……やっぱりあそこしかないでしょうっ!」
「……もしかして」
 なんとなく、行き先に予想が出来た時、
「いたっ! 春奈っ!」
「あ、鳴海さ――」
「留年回避したぞーーっ!!」
 超高校級の脚力を持ったその人が、全国共通の合言葉『廊下は走るな』の言葉を無視して飛び込んできました。
「ちょ、夏野さん危な――はごわァっ!?」
 姫宮さんが慌てて避けようとして、壁に激突したみたいです。私も下手をすれば吹き飛ばされそうでしたが、力強く抱擁されて、そのままくるりと一回転。
「やったよ春奈! あたし赤点一つも取らなかった! 追試が無いよ超褒めてっっ!」
「落ちついてください。それが普通です」
「いいや、あたしとっては快挙だね。こんなの人生でもう二度とないかもしれないぜっ。追試のない土日なんて夢みたいだ! 春奈、週末ドコ行く? 夜は春奈の家に枕持って押し掛けるから一緒に寝ようね!」
「お願いですから落ちついて」
 鳴海さんは、飛び跳ねそうな勢いで悦んでいました。二人きりで囁かれても恥ずかしい台詞を、あろうことか校舎の廊下で大声で叫びます。私は途中から諦めて、されるがまま。
「春奈、愛してるよ」
「……わかりましたってば。次回からはご自身の力で頑張ってくださいね」
 正直言うと、すぐに眠りこけてしまう鳴海さんを起こすのは、ちょっと大変でした。
「どうしようかな。シャー芯で頭をぷすぷすされるのも快感になってきちゃったしね」
「残念なこと言わないでください」
 ぺしりと頭を叩きます。鳴海さんは幸せそうに「ははは、痛いなぁ」と、ネジが緩んだように笑うだけでした。まったく仕方のない人でした。
「春奈ともう一回、最初から一年生やるのもいいかもなって思ってたんだけど」
「冗談に聞こえませんよ」
ちょっと睨んでみます。鳴海さんは笑って「ウソウソ」と言うのですけれど、何処までが嘘なのか、全然分かりません。
「一緒に二年生になろうね、春奈」
「次は同じクラスだと嬉しいですね」
「いいね。でも、居眠りしてるところを刺すのだけは勘弁してよ。地味に痛いから」
 鳴海さんが面白そうに笑った時でした。
「くぁ~! 甘い! 甘過ぎですっ! 私の側でいちゃらぶ空間を作らないでくださいというか、むしろ混ぜてくださいっ!」
 復活した姫宮さん。可愛らしい手が、私の制服の裾を掴みます。うるうると緩む瞳はやっぱり小動物みたいで愛らしい。
「お姫。嫉妬する前に自分の相手を見つけなよ」言いながら、姫宮さんのほっぺを「ぎゅっ」と伸ばす鳴海さん。
「むにー! うにゃい! にゃつのひゃん、ちょー、うにゃいでふぅ~!」
「ははは、可愛いよ姫、今度猫耳とかつけてみるかい?」
 鳴海さんが楽しそうに言います。私もぼんやり想像してみました。姫宮さんの猫耳姿。
 結論が出るまで、たいした時間はかかりませんでした。
「ありですね……」
「藤原さーーんっ!?」
 夏野さんと視線を交え、週末の予定が一つ出来たねと頷き合いました

 私達は校舎の階段を上り『生徒会室』と記された教場の前に辿り着きました。
「いいんでしょうか。先日も蒼月さんが私用目的に使うなと……」
「はいっ! 学び舎を共にする乙女達が、親睦を深め合うという崇高にして偉大なる目的があるから全然大丈夫ですっ!」
「お姫って時々、無茶言うよなぁ」
「イケメンは黙っててください」
 姫宮さんが頬を膨らませた後、鍵を用いて扉を開きました。
(あれっ?)
 室内から、妙に暖かい風が吹き流れてきたと思った時でした。
「……沙夜ちゃん……?」
 唖然とした姫宮さんの声が届き、
「――生徒会室の私用目的は禁止だと告げましたはずよ。アキラさん?」
「私達が言えた義理じゃないでしょ」
 中には学園代表のお二人が、お弁当の包みを広げておられました。しっかり暖房もかかっていて、居心地いい空間と化しています。
「なにここ、昼寝するのに超良さそうなんだけど。くそっ、枕持って来るんだった!」
 本気で悔しそうな鳴海さん。食べること、寝ること、走ることで一杯一杯でした。
「ほらほら、入口で突っ立ってないの。こっちに来て座りなさいな三人共。山吹色のお菓子もございましてよ」
 いつのまにか立ちあがって手招きしている蒼月さん。相変わらず「にっこり」です。含みのある淑やかな笑顔でした。日比谷さんが苦笑を浮かべるのも相変わらず。
「鍵は閉めておいてね。先生方に知れると面倒だからね」

『コ』の字を描く机の上に、五人分のお弁当箱が並びました。部屋に備えてあったポットから、紙コップにお茶を注ぎます。
「……あの、今更ですけど、いいんですか?」
「よろしくてよ。会長権限で認めるわ」
「騙されないでね藤原さん。この女は調子のいいことを言って、他人に全責任を押し付けるのが得意技なのよ」
「まぁ、昴ったら。藤原さんは有能な方ですのよ。不必要な人材を斬り捨てるのでしたら、まずは夏野が妥当でしょう?」
 にっこり。底が知れない微笑を向けられて、夏野さんがつまらなそうに告げます。
「あたしは犠牲になってもいいのかよ」
「貴女は少し痛い目を見なさい」
「沙夜言い過ぎ。ごめんなさいね夏野さん」
「……あ、べつに」
 鳴海さんが、一息で毒気を抜きとられたみたいになってしまう。日比谷さんの微笑みも違う意味で底が知れません。これもある種の飴と鞭というのでしょうか。
「あぁ……肉食系イケメンを巧みに調教する日比谷先輩……素敵ですぅ」
 姫宮さんは相変わらず、日比谷さんのことが大好きです。若干怪しい単語が出たことは聞かなかったことにします。

 座る席は以前、図書室で勉強をしていた時と同じでした。左隣に鳴海さん、右隣に姫宮さん。向かいの席に日比谷さん、蒼月さん。
「さぁって、今日のお弁当の中身はなーにかなー」
 鳴海さんが歌うようにお弁当箱を開きます。あっ、と小さく声を挙げたのは姫宮さん。
「すごい手が込んでる。これ、冷凍食品とか、全然使ってないんじゃないですか?」
 キラキラした瞳で、姫宮さんが私のお弁当箱を覗きこんでいます。
 私は勉強以外の事であんまり褒められたことがないから、正直気恥ずかしい。
「あら本当、すごくおいしそう」
「むむ……卵焼きの厚焼き具合がパーフェクトだわ。やるわね藤原さん」
「……あ、ありがとう、ございます……」
 褒められると胸がくすぐったくなる。
「実際、すげー美味いもん。ところで姫、冷凍食品ってなに? カップ麺のこと?」
 鳴海さんの発言に、ピシリと場の空気が凍りました。
「あれ? あたしなんか変なこと言った?」
「……あの、鳴海さん。スーパーに入ったことありますか?」
「ないよ? あたし食べるの専門だし。それにお弁当作るって柄じゃないしなー」
 ピシピシピシリ。
 空気が一瞬にして絶対零度まで下がりきりました。
「……藤原さん。夏野さんにお弁当なんて勿体無いですよ。この人は道端に生えてる雑草でも食わしときゃいいんですよ」
「土下座なさい夏野。会長命令よ」
「切腹するなら介錯に付き添ってあげる」
「あ、あれっ? なんであたしがイジメられるわけ?」
 鳴海さんが縋るように私の方を見てきます。肉食獣の瞳がいつもより弱そうに見えるのは、お腹が空いているせいもあるのかも。
「鳴海さん、残さず食べて心の底からおいしいって言ってくださいね。そうしたら許してあげます」
 そう言うと、三者一様に溜息をこぼされて『甘い』と告げられてしまいました。
 壁にかかった時計を見ると、お昼休みが終わるまでまだ少し余裕がありました。もう一杯、お茶を貰おうかなと思った時でした。
「時に藤原さんは、放課後は何かしら活動をされていますの?」
「……いえ、自習をする程度です」
「あたしの足時計と都合のつく日は、一緒に寄り道したりするけどな」
「はい」
 こくんと、鳴海さんの言葉に頷きます。
「まぁ、勿体ない。そこの男女の彼女なんかお止めになって、我が生徒会の一員として、青春を共に謳歌しようではありませんか」
「えっ?」
「か、会長ぉっ! 私は大賛成ですっっ!」
「ありがとうアキラさん。昴は?」
「素直に人手が欲しいのは事実だけどね」
「そう。素直に有能な人材が欲しいの。アキラさんに任せると『何故か』最初より仕事が増えたりしますもの。ふふふ」
「そ、そこまで失敗してないもんっ!」
「えぇ。そこまでは、ね?」
「……はぅ」
 蒼月さんのにっこりで、姫宮さんの反論を封じます。次いで窺うような視線が、私の方へと突き刺さりました。
「えっ、と……」
 言葉に詰まる私を見て、真っ先に助け舟を出してくれたのは、日比谷さんでした。
「ごめんなさいね。いきなり性急な物言いになってしまって。時間がある時でいいから、少しだけ考えてみて。勿論、夏野さんの彼女を止める必要もないわ」
 悪戯めいて言われてしまって、頬が熱くなるのを感じてしまいます。視線を誤魔化すように左へ向ければ、鳴海さんもどこか楽しそうに笑っていました。
「あたしはやってみるのもいいと思うよ。春奈は姫と組めば、上手くやれそうだしさ」
「夏野さぁんっ! 今この瞬間に私の好感度は急上昇ですよぅっ!」
「愛人になりたかったらいつでもおいで」
「そ、それはまた別問題っ!」
 頭からしゅんしゅんと湯気が立つぐらい顔色を染める姫宮さん。勢いよく手を振って、それから息を吸って、吐いて。
「あ、あのねっ、藤原さんっ!」
 明るいお陽様みたいな笑顔が、私の前にありました。
「私が、今ここに居られるの、藤原さんのおかげなんですっ! だからね、一緒にお仕事が出来れば、とっても嬉しいですっ!」
 そう告げた彼女の顔は赤くて、本当に可愛らしくて。私もつられて赤くなりました。

 放課後になって、鳴海さんと一緒に校門を出ました。
 午後の授業の間、ずっと悩んでいたことを彼女に告げました。
「あの、昼間の話なんですけど」
「うん?」
「生徒会のお仕事、私も、その……」
「あぁ、やってみるの?」
「……はい。まだ迷ってるんですけど」
 以前の自分なら、きっとお断りしていたと思う。引き受けたら鳴海さんと一緒に帰れる機会が減ってしまうし。
「……どうして迷うのか、いえ、引き受けようと思ったのか、自分でもよく分からないんですけど……」
 正しい答えの出ない設問は苦手。最良の行動が分からない時は、一歩引くのが私の生き方でした。
 それが、少しずつ揺らいできてる。
 自分の中で起きている変化を感じとってはいるものの、上手く処理出来ないことが、やっぱりもどかしい。
「ところでさ、お姫といつから仲良しになったわけ。実はちょっと妬けるんだけど」
 冗談めいて言う鳴海さん。でもそれだけ気にかけてくれてるんだと思うと、やっぱり嬉しい。
「同じクラスですから。時々お話することはありました。……私は、その、あまり人と深く付き合ったことがないんですけれど……」
「うん、春奈はいつも一人であの部室にいたよね」
「はい」
 私はクラスでも浮いている。声をかけてもらえば返事をするけれど、自分から輪の中に入ろうとは、あまり思わなかった。孤独が好きだとは言い切れないのだけど、少なくとも一人で時間を過ごすことは、辛くなかった。
「……姫宮さんとは入学試験の時に、偶然席が前後していたんです」
 筆記用具を忘れて困っていた姫宮さんに、予備の筆記用具をお貸しした。それだけのことだった。通っていた中学も違ったから、試験が終わった後で軽く自己紹介をして、校門を出て、すぐに別れた。
「正直に言うと、入学式の日には、姫宮さんの名字すら忘れかけてたんです……」
 でも、姫宮さんは違った。

『お久しぶりですっ! 藤原春奈さん!』

 同じ制服を着た彼女は、凄く華やかな笑顔で私の名前を呼んでくれました。同じクラスなのが分かると、また喜んでくれました。
「姫らしいなぁ。あたしは推薦だから試験なくて楽だったけど」
 鳴海さんが微笑む。その横顔はとっても優しかった。
「姫はあたしと同じで馬鹿正直なんだよ。そんで打たれると弱いんだ。明るく見えるけど、中身はすごく繊細で脆いんだよね」
「分かる気がします」
 姫宮さんは極度の緊張に弱い。一途な行動に思えるのも、周りを見る余裕がなくなってしまっているのかもしれない。
 試験の日、私が筆記用具を手渡した時にも涙を湛えていた。泣き出す直前だった。あの時、試験が始まる少し前、側にいた生徒の一人が『小学生が混じってる』と囁いたのだ。
 ただでさえ張り詰めた空気の教室で、見知らぬ他校の生徒達から、好意的でない衆目を集めてしまった。その環境の中で、彼女は最後までやり遂げた。
『――私って馬鹿なんで、時間かけてやらないとダメなんです』
 姫宮さんは努力を惜しまず、そして投げ出さない人なのだろう。私みたいに、特別な理由もなくて、漠然と作業をする様に生きている人間とは違う。彼女の瞳はいつもまっすぐで、眩しい。
「きっと姫宮さんにも、鳴海さんみたいな夢や目標があるんですよね……」
 そう思うと寂しい。姫宮さんが羨ましい。
 私は自分に自信がない。自信の柱となる『なにか』が存在しない。自分がどうすべきなのか、理想が見えてないんだろうと思う。
「――春奈、肩震えてるよ」
「……ごめんなさい」
「また、色々考えちゃったんだろ」
 頷いて、足が止まります。自転車のハンドルに添えた手の上に、鳴海さんの掌が重なっていました。
「一つ面白い話してあげようか」
「……面白い話、ですか?」
「うん。姫がこの高校を選んだ理由、本人から聞いたことない?」
 私は首を振ります。
「恋がしたかったんだってさ」
「えっ?」
 意外な言葉に、思わず聞き返してしまう。
「恋?」
「そうそう。姫ったらさ。大真面目な顔で『恋がしたくて高校生になった。家を出て寮で暮らした方が、ちょっと大人っぽくて素敵だと思いました』っつって、大真面目な顔で語るんだぜ。やー、あれ聞いた時は、姫には悪いけど笑った笑った。はははっ」
 思い出したのか、鳴海さんが口に出して笑います。私も一緒に、可愛らしくも一途な姫宮さんの想いを知って、顔が綻ぶのを抑えられませんでした。
「あたしらの高校、偏差値高いじゃん。姫は中学三年の夏まで平均ギリギリしか取れなかったんだってさ。でもそこからすげー頑張ったらしいよ。予備校の先生がイケメンだったからって。単純だよなぁ」
「はい。でも素敵です」
「うん。姫は基本惚れっぽいんだよ。入寮の初日にあたしと顔合わせた時も、真っ赤になってさぁ。必死に自己紹介する様子が、もう超可愛かったなっ!」
 くぅ、と握りこぶしを作る鳴海さん。私も想像して笑ってしまいながら、けれど少しだけ心がざわめいた。
「だから、姫宮さんに『愛人にする』なんて言ったんですか?」
「うん。必死な顔で春奈との関係聞いてくるからさ。姫も春奈のこと好きなんだって思ってさ。それならあたしの愛人になれば、三人とも幸せになれるだろ?」
「……なんでそうなるんですか」
 本気でそうだと疑わない鳴海さんの眼差し。呆れつつもやっぱり惹かれてしまう。
「あたしは、一番じゃないと気が済まないの。春奈からも、姫からもね」
「鳴海さんは、我儘です」
「うん」
 重ねた掌に、少し力が籠る。
 身体が熱かった。ひどく熱っぽい。
「私も姫宮さんのことは大好きです」
「そ、三人で幸せになろう」
「許しません」
 鳴海さんを見上げる。
 逸らさずに、まっすぐに。
「私だって、我儘なんですよ。鳴海さんが私の一番じゃないと、気が済まないんですよ」
 重ねた手が震えました。
「……鳴海さんには、私だけがいればいい。鳴海さんが、私以外の人を好きになることが許せません」
「それは困るなぁ。あたしも結構惚れっぽい性格だからね。どうしよっか?」
 鳴海さんが口の端を吊り上げて笑う。私の言葉を待っているのが分かるのに、なにも言えない。上手に言えない。
「…………」
 今この瞬間も、これからこの先も。
 ずっと、鳴海さんの一番でありたいのに。
「……大好きです。どうしようもなく、好きで好きでたまらないです……鳴海さんがいてくれたらいいんです。でも……どうすれば、いいのか、わからなくて……」
 言葉が出ない。どれだけ勉強が出来たところで、私の口から出てくるのは子供じみた『お願い』でしかなかった。ひどく情けなくて、悲しくて、惨めだった。
「……ひっ……ぅ……」
 抑えきれなくて、瞳の中から感情が滴り落ちそうになる。子供みたいな声が出そうになって、喉元に押し返す。
 姫宮さんは、あんなに小さい身体で、けっして泣いたりしなかったのに。私は弱くて惨めでみっとも無い。死んでしまいたい。
「春奈」
 鳴海さんが、仕方のない子だねって笑いながら、頭を撫でてくれる。
「今、じっとしてらんない気持ちでしょ」
「……」
 頷きました。それだけ、どうにか出来ました。
 ぺたぺたっと、鳴海さんの両手が私の両頬を覆う。風に揺れる彼女の髪が触れていきます。
「走ってごらん。行き着く先なんて考えなくていいからさ。もう走れないって倒れたら、あたしが拾ってやる。そんで、隣で添い寝してあげる」
 心が軽くなる。最後に少し冗談めかして言ったけど、きっと本気だった。真摯な言葉が胸の奥に響いて、墜ちてしまいそうな気持ちを救いあげてくれる。
「あたしが、春奈を応援してあげる」
「……はい……」
 鳴海さんに会えてよかった。好きになってよかった。
 ゆっくりと。湿った熱の吐息は、深くて、熱くて。離れたくない。貴女を何処までも追いかけようと、心に誓う
13, 12

  

 それから私は、生徒会の仕事を手伝うことになりました。仕事は主に、『廃部』扱いとなった部室に関するもので、廃部になる部活動のリストを作って、増え過ぎていた部活動の数を縮小させることが主でした。
 部活動によっては『合併』することで名前を変えるものもあり、空いた教室の何処を利用するか等の取り決めもあります。生徒と教師の双方の合意を得ないといけないので、蒼月さんはよく『中間管理職は辛いですわ』と嘆いていました。
 それから、大きな部活動からは、活動に必要な物品の要求もあって、それについての予算申請も混じったりと、色々あります。
「――えっと、そういった要素に関しての用紙について、少し、手を加えて作成してみたのですが……どうで、しょうか……」
 放課後の生徒会室。ぼんやりした薄暗い部屋の中、プロジェクターを用いて表示された映像には、生徒会で使っているノートパソコンと同じものが映っています。
「お、おおぉ……っ!」
 パソコンを操作しているのは姫宮さん。その後ろには蒼月さんや日比谷さん含め、生徒会の方々が集まっています。
「なにこれすっごい! 自分で入力しなくても、ボタンおしたらガッてなったり、ヒュッて勝手にやってくれるっ!」
「アキラさん。もう少し知能指数の高い発言をなさい」
ぺちり。叩かれた頭を、日比谷さんがすぐさま撫でます。姫宮さんの顔が「ほにゃっ」と緩みました。
「藤原さん、これってパソコンの機能で作ったの?」
「は、はい。お父さんの古いノートパソコンを借りて、作ったものを持ってきました」
 日比谷さんの言葉に頷きます。すると今度は後ろで見ていた人が、顔をあげます。
「エクセルでマクロを組んで作ったんですね。綺麗で見やすい。……あぁ、新規の用紙を作成する、フォーマットまで用意してくれたのか。これなら応用が効く」
「は、はい。今まではワードで、全て手作業で用紙を作成されてたようなので。これなら入力作業も楽かなと」
「……えくせる? わーど? まくろ? ふぉーまっと?????」
 姫宮さんの頭の上で、はてなマークがくるくると回っています。
「つまり、藤原さんの作ったコレを用いれば、アキラさんのうっかりミスが激減するということですのね?」
「はい。内容の誤字や脱字、金額の桁数の間違い、レイアウトのズレ、印刷時における端切れ等は防げると思います」
「素晴らしいわ藤原さん! これでアキラさんによる紙の無駄遣いが減りますわね!」
「えぇ、経費の著しい削減に繋がりそう」
「すごいぞ! 地球環境にも優しいぞ!」
「泣きべそかく姫ちゃんが見られないのは、ちょっと寂しい気もするけどねっ!」
 わぁぁ……っと、場が活気づきます。
「ちょ! なんで皆してそんなに盛り上がるんですかっ!? 私だって、そんなには間違えないもんっ……えっと、入力が終わったら、決定ボタンは、これ?」
 ぽんっ。

『注意:内容に誤りはありませんか?』

「はうっ!? なんか出てきたぁっ!?」
「あっ、それエラーチェックです。入力に間違いらしい箇所があれば表示します。文字が赤くなったころです」
全員の注目が、パソコンの画面とプロジェクターの画面に集まります。
「あぁ、ここ。部員人数が本当は15名なんだろうけど、155名になってる」
「テスト入力した部員の名前が、ひmみやになってるよ姫ちゃーん」
「日付が四十一日て。ありえねーわな」
 皆さんが赤字を指摘します。エラーチェックも正常に機能しているようでした。
「ア・キ・ラ・さ・ん・っ!」
「ひぎょっ!?」
 蒼月さんが両手の拳を握って、姫宮さんの頭を「ぐりぐり」します。にっこり笑顔です。
「痛い痛い! 沙夜ちゃん痛いっ!!」
「貴女はどーして、平然と失敗を繰り返してくれるのかしらねぇ~。今まで無駄にした紙の枚数を覚えているのかしら~?」
「ごめんなさいいいい! おつむ潰れちゃうからやめてええぇぇ!」
「お黙りなさいハムスター」
 ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり……。
 刑執行は、たっぷり十秒ほど行われました。白い湯気をぷしゅ~と立てて崩れる姫宮さん。何処かスッキリした表情で、こちらを振り返る蒼月さん。
「藤原さん」
「は、はいっ!」
 ちょっと怖かったです。
「こちらの用紙。生徒会で採用致しますわ」
「あ……」
 認めてもらえた。勉強しか取り柄のない私でも。鳴海さん以外の人にも。
「これからも宜しくお願いね」
「は、はいっ」
 その瞬間、私の中で。なにかがふわりと、花開いたような気がしました。
 ちなみに私の作成した簡易プログラムは、『ハムスタにも出来る資料作成』という名称が与えられ、役員の人からは『ハムさく』と呼ばれることになりました。
 *3 春、夏、秋、

 季節はすっかり冬になりました。風は一層冷たさを増し、時には雨ではなく雪が降ります。朝方は、布団の中に潜っていても、程良い空気の冷たさを感じて、中々抜け出せない。
(……あたたかい……)
 居心地の良いまどろみに、ぼんやり支配されてしまいそう。目覚ましが鳴るまでは。
「……と、起きなきゃ」
 空気を裂くような目覚ましの声。いつもは聞くのが辛いはずのそれが、今日に限っては福音のようにさえ聞こえます。
「えい」
 ぺしりと頭を叩いて止めた後、布団から起き上がります。
 土曜日の週末、朝の八時半。
 平日よりも、幾分か余裕のある朝に目を覚ました私は、朝の身支度を整えた後で階段を下ります。
(まずは朝ご飯。)
 自然と足取りが軽くなってしまうのは、鳴海さんとの約束があるから。今日は三週間ぶりのおでかけでした。
「ふふ」
(お昼前に、鳴海さんと駅で待ち合わせ。)
 先週、先々週と陸上の大会があって、鳴海さんは他県まで出向いていました。普段なら応援に行くのですが、私も生徒会の仕事を手伝うようになっていて、顔を出すことが出来ませんでした。
「えいっ」オムレツ卵をくるんっ。
(まずはバスでお店に移動して。鳴海さんのお買い物にお付き合い。)
「るるる~」
(その後はお茶飲んで、映画見て。)
 先週の休日は、空部屋の片付けでした。掃除を含めて丸一日、蒼月さんの指示の下で身体を動かしました。私は体力がないので足を引っ張ってしまったのですが、その分姫宮さんに助けられました。
『私、体力だけはありますからっ!』
 机を三個同時に運ぶ姫宮さんに、生命の神秘を感じずにはいられませんでした。 

 チン、と音がして、トースターから焼き立ての食パンを取り出します。出来たてのオムレツとサラダをお皿の傍らに添えます。
「いただきます」
 サクっとした感触と一緒に、口の中で広がっていくマーガリンの香り。お昼のお弁当は基本的に白ご飯が入るので、朝食はパンが中心でした。基本的に同じ食パンを買っているので味は変わらないはずなのに。今日は、何故だか、とってもおいしい。
(えへへ)
 早く、会いたいな。鳴海さん。
 お買い物、お茶、映画、鳴海さん。
(夜は、どうしよう。夜は、どうしてくれるんだろう。鳴海さん……)
 少し、その、少しだけ。その。
 はしたない、うぅん、幸せな、想像、
 して、みたりして。

「……じーっ」

 どよん、とした薄暗い空気と視線。突然現れたその気配に、思わず身構えてしまう。
「……娘よ、楽しそうぢゃね……」
 物陰に隠れるようにして、隣の部屋からこっちを見ているその人は、
「――お、お父さんっ!?」
「お母さんもいたりして」
「ひっ!?」
 物陰から半身を出して、どよん、としているお父さんの後ろから、目を輝かせたお母さんが現れます。
「お、起きてたなら言ってくださいっ!」
「だってー、楽しそうにお料理してるの邪魔したら悪いと思って。ねー、あなた?」
「……なんたることか……いかんぞそんな。あぁ、あぁ。お父さんは――!」
「あなた五月蝿い」
 鳩尾パンチ。お父さんが「ぐふぅ」とお腹を抑えて膝をつきます。さらに後ろから「えいっ」と足蹴にするお母さん。悲鳴をあげて倒れるお父さん。
「な、なにを……ひぎぃっ!」
 踏みつけ。
 お母さんは両手を腰に添えて、眉をひそめて屍を見下ろしました。割と容赦がないよねと思います。
「もー、喉渇いちゃったわ。春奈、熱いお茶を煎れて頂戴」
「わかりました。お父さんは?」
「お父さんもアッツゥ――!?」
 ぎゅ、ぎゅっ。
 屍を踏み越えてくるお母さん。なにも死者に鞭打つような真似をしなくても。
「春奈。お母さんとっても嬉しいわ。せっかく美人に産んだげたんだもの。ところで相手はどんな子?」
「言っておきますけど、彼氏が出来たわけじゃありませんから」
「はいはい。春奈は面食いだものね。きっと顔だけは格好いいんでしょーねー」
「…………」
 危うく肯定しかけました。
 新しくお茶を煎れた湯呑みを、お母さんの前に置きます。お父さんはまだ身悶えているので、しばらく後で良さそうでした。
「まっ、お母さんとしては、生真面目な娘のうっとり具合を見れて大満足だわ」
「はいはい、よかったですね」
 誤魔化すようにそっぽを向く。お母さんの意地悪なところは、私の好きな人と似ているかもしれない。
「何処の誰なのか知らないけど、ウチの娘を乙女にしてくれて、感謝だわ」
「……おとーさんわぁぁ~」
「あなた五月蝿い」しゅっ。
「おごっ!」命中。
 ポットの近くに置いてあったコーヒーシロップが、お父さんの眉間で痛そうな音を立てました。手首の捻りだけで、そちらを向きもしないのに、今まで外したところを見たことがありません。
「春奈ったら、最近とってもいい顔してることが増えたものね。表情だけじゃなくて、顔色も明るくなったわ」
「……私、そんなに変わった?」
「えぇ、とっても良い方向にね」
 お母さんが微笑んでくれる。最近のことを思い返してみると、一つ思い当たる節がありました。
(……そういえば、最近あの夢を、見てないかもしれない……)
 期末試験があったし、慣れない生徒会の仕事も、結構な負担になっていたはずなのに。
 最後に、夢を見たのは、あの日。
 大切な物が出来る、その直前。
(そっか……)
 あの頃よりも、今は、自分にちょっとだけ自信が持てるようになったから。今日という日が訪れるのが、待ち遠しくてたまらなかった。

 約束の時間、十五分前。駅前の南口に着いた時には、既に鳴海さんの姿がありました。ブラウンのファーコートに、ジーンズに、スポーツシューズ。カジュアルな格好がとても似合っていました。柱を背にして、少しけだるそうに携帯の画面を覗きこんでいる姿なんて、艶のある男性にしか見えません。
 ふわ、と端正な顔が持ち上がる。携帯を持った逆の手を軽く振ってくれる。
「春奈」
「すみません、お待たせしました」
「全然。まだ十五分前だよ。なんか、待ち切れなくて、春奈も?」
「はい!」
「よしよし、いい子だね。あ、そのスカート初めて見る。とっても似合ってるよ」
「ありがとうございます。鳴海さん、こういう女の子っぽいの、好きですよね?」
 いつかの仕返しも込めて言ってみる。目を細めた肉食獣の笑みが戻ってくる。
「大好きだよ。今日は倒れないでね」
「はい。私も素直じゃない鳴海さんが大好きです!」
 心が温いのを通り超えて熱くなる。綺麗な顔に見惚れかけた時には、手が私を捕まえている。
「じゃあ、移動しようか。あたしの行きたいお店、住宅街の方にあってさ。まず電車で二十分ぐらいかかるけど大丈夫?」
「はい」
 鳴海さんが頷いて、携帯をしまう。私の歩幅に合わせて歩いてくれるところとか、電車を待つ際に冷たい風が吹いた時は、さりげなく気遣ってくれたりする。
「最近調子どう? 生徒会の仕事は辛くない?」
「はい、楽しいですよ」
 告げると、少し優しい顔になってくれる。
「そっか。姫や沙夜の奴も言ってたよ。随分助かってるってさ。特に沙夜は、他人に滅茶厳しいとこがあるからね。素直に褒めること少ないんだよ」
「いえ、本当に、そんなに難しいことしてないですから」
 やっぱり褒められるのは気恥かしい。
「沙夜ってさぁ、なんつーか、人を転がすのが上手いだろ。姫なんてしょっちゅう『ころころ』されてるし」
「あはは、確かに」
 蒼月さんの掌で『ころころ』されている姫宮さんを想像して笑ってしまう。でも私達も、彼女に上手に『転がされて』いた。
「あいつはさ、人の得て不得手を見抜いて配置すんのが上手いんだよな。言い方悪いかもしんないけど、言い様に使われてるはずなのに、悪い気がしないだろ?」
「そうです。そんな感じ。あと副会長の日比谷さんが緩衝材になって、上手に吸収しちゃう感じです」
 言うと、鳴海さんは深く頷いた。
「そーなんだよなー。二人とも高校に入ってから知り合ったらしいんだけど、息合い過ぎだろって感じ」
「はい、本当に」
 静かに進むバスの中、私達はいろんなことをお話しました。
 生徒会のお仕事の他にも、鳴海さんの足時計の調子、朝の食事のこと、今日行くお店や映画のこと。いくら言葉を口にしても、全然足りない。交わす言葉が等しく大切な、愛しいものだと思えるのです。
 
 電車を降りて、駅の構内を鳴海さんと二人で歩きます。近場では一番大きな駅で、左右に飲食店やお土産用品のお店なんかも並んでいます。休日ということもあって、行き交う人の数も多く、避けようとしてつい、ふらりと足がもつれそうになってしまう。
 人混みは苦手です。
「春奈、手繋ぐ?」
「ごめんなさい、助かります」
「春奈はどこでも、平気でこけるからね」
 手を添えると、鳴海さんと離れずに進んでいける。つい、嬉しくなって微笑んでしまう。人混みも、時にはいいかもしれません。
「――あれ?」
 不意に鳴海さんの足がぴたりと止まります。視線が、改札を出る手前にあった、喫茶店を見つめています。
「どうかしました?」
「あ、いや……」
 なんでもないよ、というような笑顔で振り返ります。けれどまたすぐに、硝子窓の先、喫茶店の中を見て、彼女の足は動かなくなる。
「鳴海さん?」
「ごめん……知り合いかもしんない。ちょっと待って」
 言って、携帯を取りだしました。繋いだ手が離れていく。
 鳴海さんは私に目もくれず、手元の携帯を素早く操作します。再び、視線が硝子窓の先にある店内に向きます。 
 窓際に座っていた女性客――ブラウンのコートを椅子にかけ、黒のタートルネックを着て文庫本を読んでいた人――が、顔をあげます。私達の視線に気がついたように、こちらを見上げました。
「やっぱ、ユミさんだ!」
 その瞬間、初めて見ました。
 鳴海さんの心からの笑顔を、見てしまいました。
 いつもの格好良い、少し気取った感じや、含みのある様子なんて一切ない。私と同い年の『女の子』の顔を浮かべて、
「うわー、すげー偶然!」
 鳴海さんがひらひら手を振ると、窓の向こうの『ユミ』さんも、少し驚いた様子で見ていました。すぐに席を立ち、コートとバッグを持ってレジへ向かいます。
「あっ! 店出なくていいのにっ!」
 駆け足になって、鳴海さんが喫茶店の入り口に向かう。その時も全然、私の方を振り返ってはくれなかった。
(……ユミさんって、誰だろ?)
 人混みの中に置いていかれたくなくて、慌てて鳴海さんを追います。少し、胸が痛かった。

 暖房の効いた喫茶店の店内。さっき見た窓際の席に、私達は座っていました。
「ユミさん、少し髪伸びた?」
「えぇ、気紛れに伸ばしてる。ナルは相変わらず短いのね」
 親しみを込めた呼び方に、胸がざわつく。少なくとも私の知る限り、鳴海さんをそんな風に呼ぶ人はいませんでした。
「あたしはさ、こっちの方がモテるんだよ」
「女の子から?」
「そうそう」
 向かいあって笑う二人。どうしてか、すごく落ち着かない。渇いてもない喉を水で潤してしまう。
 失礼にならないように、ユミさんを注視する。歳は二十代前半ぐらいかな。特別、美人というわけでもない。……なんていうか、取りたてて上手く言えないけど、普通の人。歩くだけで人目を引く鳴海さんとは、釣り合わないよね。
(……私、何考えて……)
 初対面の人を、そんな風に判断する。良くないことだと思うのに、心のどこかで声が囁いている。私の方が、綺麗だし。そんな風に思う気持ちが止まらない。
「――ナル。こっちの子は、ナルの友達?」
 少し細められた瞳が私を見つめる。言葉に『含み』があったと感じてしまうのは、きっと気のせいだ。
「そう。あたしの高校の友達」
「…………」
 ぱち、と世界の灯かりが落ちた気分。落ち付いて隣を見れば、全然気取った様子のない鳴海さんが、嬉しそうにこっちを見ていました。べつに、そうだよね。うん。
「は、はじめまして。鳴海さんと同じ高校の、藤原春奈と申します」
「雪白(ゆきしろ)冬美(ふゆみ)です。大学生です。よろしくね」
「確か二回留年して、今年で六年生だっけねぇ」
「余計なこと言わないの。バカナル」
 ちょっと怒った顔をしてから、冬美さんが言います。
「ナルは確か寮生だったわよね。藤原さんも?」
「いえっ、私は実家からの通学です」
「そっか」
 冬美さんは一つ呟いて、マグを手にします。私が頼んだココアと、鳴海さんが頼んだレモンティーも運ばれてきました。目の前に置かれた白い湯気を、ぼう……っと見てしまう。
 どうにか前を見ると、余裕のある笑顔が目の前にありました。
「藤原さん。私達はなんでもないから安心してね」
「え?」
「そこのイケメン女は性格歪んでるから。藤原さんの泣きそうな顔を見て、内心ほくそ笑んでるだけよ」
 冬美さんの言葉に改めて隣を見ると、そしらぬ顔でお茶を飲んでいる人がいました。目が笑ってます。
「なんのことか分かんないなー。友達じゃないなら、あたしらがどう見えるって言うんだろうねぇ。春奈?」
「藤原さん。ココア顔面にぶっかけてやると、多少スッキリするわよ」
「冗談。あたしの顔に火傷なんて出来たら、何人の女の子が泣くか分かってんの?」
「高校生になってますます調子に乗ってるわねぇ……えい」
「いてっ、レザーブーツで蹴るのマジやめて」
「相変わらず、生意気な足時計ね」
 冬美さんの口から出た言葉。この人も、鳴海さんの足時計のことを知っているんだ。
「さぁ、藤原さんトドメよ。どーんとココアを頭から被せてあげなさい」
「……どーん、と」
「そうそう。ナルは顔だけはいいから、ココアも滴るいい女になるわよ」
「ユミさんやめて煽らないで。春奈は思い詰めちゃうと、やりかねないから」
「失礼な事言わないでください」
 鳴海さんが割と本気で身を引くのを、ジト目で睨みつけます。冗談だってことぐらい分かります。分かってますから、手の甲を抓っておきました。
 強めに。ぎゅう~っと。
「痛ぁっ!」
「いい感じ」
「どうも。ところで冬美さんは、鳴海さんとは、どういったご関係だったのですか?」
「ご関係、ねぇ」
 頷かれました。さっきから胸が針を刺したように痛いです。
「行き倒れてた野良犬にうっかり餌あげちゃって。懐かれちゃっただけよ」
「へー、あたしの顔に見惚れてた癖に、そういうこと言うんだ」
「はいはい。ご飯食べた後で『あたし、本当はもっと甘えて、優しくされたいんだ……』なんて恥ずかしい台詞吐かれたら、拾わざるを得ないでしょ?」
「う、うるさいな! 中二病入ってたんだから仕方ないだろ!」
「『あたし……走るのが最近辛いんだ。なんか、みんな、本当のあたしを見てない……』」
「すみません! コーヒーすげぇ熱いのを砂糖たっぷりでお願いしますっ!」
 鳴海さんが本気で顔を赤くして、半立ちになって手をあげます。いつもの余裕が全然ありません。必死です。
「春奈お願い! 今の黒歴史は忘れて聞かなかったことにして!」
「……あ、はい」
 たまたま周りの席が空いていたので、会話の内容は、他のお客さんには聞こえていないとは思うのですが、それにしても必死です。
「あの、というか、行き倒れてたって、どういうことですか」
「言葉通りよ。女子中学生が深夜に、フルマラソンの距離を飲まず食わずで走って、公園で意識失って倒れてたのよ」
「なんでまた……」
 呆れたように言う冬美さんに、私も鳴海さんの方を見ます。珍しく苦しそうな表情をしてました。
「……あん時は、あたしも色々、必死だったから」
 両肩を縮めて小さくなってしまう鳴海さん。必死だったって、走ることが? 走ることをなによりも愛していて、自由に走る悦びを知っている貴女が、どうして。
「ナル、足時計、また止まったりしてない?」
「大丈夫。ユミさんにネジ巻いてもらってから。絶好調だよ」
「そ、良かったわね」
 初めて知った。足時計って止まるんだ。
 そんなの、私知らない。ネジってなに。
「ナルと会ってから、そろそろ二年?」
「だよ」
 どこか拗ねた表情を浮かべる鳴海さん。私の全然知らない彼女の顔色。冬美さんはどこか懐かしそうに、くすりと一つ笑う。
「ナルに出会ってなかったら、私は今も、家の中で腐ってたでしょうね」
「……まだ、あそこに住んでんの?」
「えぇ。貧乏学生だもの。毎日の食費は変わらず六百円よ。時々贅沢しちゃうけど」
 鳴海さんが小さな声で「そっか」と呟いたのが聞こえました。
「まぁ、そんなわけでね藤原さん。ちょうど今ぐらいの季節にね。朝焼けが昇る公園で、残念な中学生と大学生が顔を合わせたの」
「あたしは残念じゃないし」
 鳴海さんが不満げに、運ばれてきた熱いコーヒーへ口づける。そしてまた、熱さに顔をしかめた風にする。
「もう二度と、止まる気はないしな」
「強くなったわねぇ」
「うん」
 いつもの得意気な口調の中に、確かな嬉しさが滲んでいた。素直じゃない鳴海さんの、素直な心の色。彼女の瞳は、私ではない人を映している。
 胸がどうしようもなく急く。
 鳴海さんは。貴女は。
(……この方のことが、大好きなんですね……)
 遠く離れた距離を、二年かけた今でも、追いかけてしまうぐらいに。

 三週間ぶりの週末は、思い返したくないほどに、散々な結果となりました。喫茶店を後にしてからは、心がどこかに飛んでいた。
「――はい、はい、そうですね」
 彼女の言葉に曖昧な相槌を繰り返し、買い物している時も、何にも興味が湧かない。書店に入った時なんて、ぼんやり参考書を手に取ってしまうぐらいでした。
 映画の内容もさっぱり頭に入ってなくて、頭の中でひたすらに、喫茶店での会話を反芻してました。
「どしたの、春奈?」
 挙句の果て、業を煮やした鳴海さんから、冗談混じりに引っ張られた頬。
「触らないで」
 手を払いのけて、そんな風に告げるほど、余裕が無くなっていました。そういうプライドの高いところ、変に意地を張り合うところだけ、私達はよく似ていた。
「……なに怒ってんのさ」
「分からないんですか」
 気がつけば、口論になっていた。
「鳴海さんはご飯食べさせてくれる人なら、誰でもいいんでしょう」
「は? なにそれ。もしかしてユミさんのこと引き摺ってんの?」
「引き摺ってるのは貴女でしょう!」
「ちょっと待って。落ち着け馬鹿」
「バカは鳴海さんです! 好きなんでしょう! さっきの人のこと!」
 言うと、とても怖い顔になりました。
「怒るぞ。あの人は、恩人なんだよ。好きだからとか、そういう単純に割り切れる関係じゃねーんだよ」
「じゃあ私のことは、単純に割り切れる関係なんですねっ」
「いい加減にしろ……あーもう、面倒くせぇ。送るから帰れ」
「一人で帰りますっ!」
 鳴海さんを置いて、一人で早足で歩いていたら、早速駅の構内で躓きました。
「……運動音痴」
「~~~~っ」
 いつのまにか、後ろにいた鳴海さんの手をべちべち叩いて、電車に乗りました。帰りの三十分間、一言も言葉を交さず、じっと俯いているのは、すごく苦痛でした。
15, 14

  

 月曜日の朝に、生涯で初めて寝坊をしました。
 一度は目覚ましを止めたものの、起きあがる気力がさっぱり沸かなくて、居心地の良いお布団でうとうとしていたらしいです。お母さんに起こされて、慌てたところでどうしようもなくて。
 間が悪いことに朝食当番は私でした。大急ぎで食パンを焼くのが精一杯。お弁当を作る時間なんて、あるはずもなかった。

 お昼は学食でパンを買うことにしました。お財布を持って、普段は利用しない食堂に一歩踏み入れると、そこは戦場でした。
 整然とした列など存在せず、男女関係なく怒号が飛び交い、貴重な食料を求める生徒達。理性を失っているのかと思いたくなる程の弱肉強食っぷりでした。
 入口で、雰囲気に圧倒されていると、
「――これ以上進むとやられるぞ、馬鹿」
 いつもの声、掴まれた腕。だけどその声はひどくつまらなさそう。
 鳴海さんが立っていました。咄嗟に『ごめんなさい』と言いかけて、その手にあった菓子パンを目に留めてしまう。
「……今日のお昼ご飯は、それですか?」
「最初から期待してないよ」
 鳴海さんってば本当に、意地悪が上手。理性の糸を、簡単に切り跳ばしてくれます。
「そうですよね。まさか昨日の今日で、当然のようにお弁当を要求する方が、いらっしゃるはずないですよね」
 鳴海さんが怖い顔になる。身が竦む。
「ネチネチ遠まわしに言わないでくれる。ウザいから。勝手に機嫌損ねといて、よくそういう事が言えるよな」
「原因を作ったのは鳴海さんでしょう」
「昔馴染みに偶然会って話しただけで、そこまで言われるとかマジないわ。ところで春奈、今日はドコで食うの」
「鳴海さんの居ない場所です!」
「あっそ。んじゃこのパンやるよ」
「えっ?」
 二個あった菓子パンを、両方とも押し付けられた。
「あ、あの! 一個で……」
「お姫にでもあげたら。じゃあね」
 それだけ告げて、戦場に突っ込む鳴海さん。男子生徒すら蹴り飛ばしてました。

 五分後、私は生徒会室で、延々と姫宮さんに愚痴をこぼしていました。最低だと分かっていながら、抑えきれなくて。
「――お弁当、作る気はあったんです。二人分。本当です。鳴海さんに謝るつもりで、日曜日に一杯美味しい物買い込んで、下拵えだって済んでたのに……!」
「うんうん。あのイケメンだって分かってますよ。分かってなかったら、後でスーパー殴り飛ばしてやりますので、ご安心をっ!」
「はい……でも……」
 今日に限って寝過ごすなんて、ありえない。
「……どうして……」
「だ、大丈夫ですよ藤原さんっ! 落ち込んだ時こそ、ご飯を食べましょうっ! わ、わぁ~い、このカレーパンとメロンパンっ! 超美味しそう~っ!」
「…………」
 今日は、蒼月さんと日比谷さんの姿は見えませんでした。鳴海さんも当然、いません。
「どうしよう。鳴海さんに本気で嫌われたらどうしよう。明日から声かけてもらえなかったら。ううん、もう本気で嫌われてますよね。私最低です。死ぬべきです……」
「藤原さんっ!?」
「……できれば外傷を残さず綺麗に死にたい……やっぱり睡眠薬がベスト? 帰りに薬局……あ、インターネットの方が確実でしょうか。帰ったら早速オークションサイトを片っ端から探してみます……あぁ、また自分のことばっかり……そうだ、樹海に行きましょう。富士の樹海へ。私体力ありませんから。あっさりこけて崖の上から『ころころ』転がり落ちていきますよ。百年後ぐらいに、遺骨が見つかったりして……ふふっ……」
「藤原さん! 顔がマジですっ! 生きて! 強く生きてっ!」
「……鳴海さんのお役に立つことが幸福なんだって解っていながら、ご迷惑をおかけして……嗚呼、今日は空が青いですね。ちょっと風に当たって……」
「ダメエェェッ! ここは四階ですぅぅっ! 藤原さんは綺麗なんだから、私の眼が黒いうちは、そんなひどい死に方はさせませんのですよぉぉぃっ!!」
 姫宮さんが、私の制服の裾をぎゅっと掴みあげます。姫宮さんは力持ちの小人さんなので動けません。なんと言いましたか。
「指輪物語に出てくる……ホビット……?」
「せめてフェアリーと言ってぇぇ~! あぁもう! ドワーフでもレプラコーンでもホビットでもレッドキャップでもいいです! とにかく姫宮工房のトンカツを食べて、パワー溢れちゃってくださいそいやぁぁッ!!」
「んくっ!」
 姫宮さんに、手掴みした豚カツを一切れ、無理やり口の中に押し込まれました。勿論冷めてしまっているのだけど、冷凍なんかじゃないことは、しっかり分かる味の良さ。
「どーですっ! 美味しいでしょ?」
「は、はぃ……」
「これは自慢なのですが、女子寮で揚げ物料理を面倒がらない乙女は、私だけですよ」
 パワフルな彼女の笑顔に、お腹の中を漂っていた黒い気持ちが溶けていく。
「ふふふ、こちらのキュウリのお漬物も、どーですか。手掴みで、がっ! といっちゃってくださいっ」
「……はい。頂きます。ありがとう、姫宮さん」
 さすがに、がっ! とはいきませんでしたが、一切れ手に取らせて頂きます。
「……!」
 ぱりっと、口の中で砕けた小さな音。うっすら香る塩味が絶妙でした。舌先に、不思議と残る甘い感触が癖になりそう。
 なにこれすごい。お漬物ってこんなにも、
「お、おいしい……!」
「ふっふっふ。漬物は姫宮家の女に伝わる十八番ですからねぇっ! この味に落ちない人間はいません。女子寮では中毒者が続出中で、マイ漬物壺を求める乙女が急増中なのですよっ!」
 胸を張る姫宮さん。確かに『マイ漬物壺』を持つ女子校生は、珍しいかも知れません。それにしても、本当においしい。
 ぱり、ぱり、ぽり、ぽり。
「と、止まりません……っ!」
「ささっ、お茶をどうぞ藤原さん。熱いから気をつけてくださいね~」
 姫宮さんから頂いた濃いめのお茶にも、すごく合います。
 ぱり、ぽり。ぱり、ぽり。
「落ちついたら、週末のこと話してください。午後の授業なんてサボタージュすればいいのですからねっ!」
「……いえ、そういうわけには……」
 ぱり、ぽり。ぱり、ぽり。
「いいえっ! 乙女の深い傷心を癒やすのに、微積分で解を求められますか!? トムとメアリーの極めてどうでもいい日常会話からヒントがもらえるとでも!? 斜面を滑り落ちる物体Aの摩擦抵抗力がどーしたっ!?」
「……あ、あの、姫宮さん……」
 それはちょっと無理があるような、というか論点がズレて来ているような。
 あぁ、それにしても、お漬物おいしい。
 ぱり、ぽり。かり、ぽり。しょり。もうちょっと、もうちょっとだけ。
「……これ、なにか危険な成分が入ってませんか。麻薬的な」
「フフフ、ハマッちゃうでしょう。沙夜ちゃんですら、この魔力には逆らえないのです」
 きらーんと、姫宮さんの瞳が怪しく輝きました。そして机の下に隠されていた、一回り大きなタッパーが現れました。
「おかわり、ありますよ?」
「…………」
 タッパーの中身は、さらにぎっしりと詰まったキュウリのお漬物。
 姫宮さんの眼が、絶好調にキラキラ輝きはじめました。眼は口ほどに物を言うとはよく聞く話。文字が好けて見えました。

『コイ・バナ! しま・しょう!』

「さぁさぁさぁ! 私でよければ遠慮なく話をお聞きしますので! さぁさぁさぁ!」
かぱっとタッパーの蓋を開く姫宮さん。反射的に手が伸びそうになります。姫宮さんが私の胸中を見透かしているように、ぱり、と一口咥えてみせました。喉が無意識に、ごくんと唾を飲み干してしまう。
「……お話を聞いて頂けますか、姫宮さん」
「ばっちこーいですよぅ! さぁさぁ食べて! お漬物もどんどん食べてっ!」
 ぱり、ぽり。ぱし。ぽし。嗚呼美味しい。
 心折れ、週末に鳴海さんとお出かけした際のことをお話しました。

 冬美さんという、鳴海さんの旧知の方と偶然お会いしたこと。そして鳴海さんは、その人とお話をしていた時、とても優しい顔になっていたことも。
「――正直言って、悔しかったんです。思い知らされたんです。私は、鳴海さんのこと、なんにも、知らなかったんだ……って」
「あのイケメン許せませんね! それでそれでっ? 冬美さんってどんな人!」
「はい、その、普通の女性でした。大学生で、六年生とおっしゃってました」
「えー、留年しちゃったわけですかね?」
「……院生ではないらしいですし、たぶん」
「とゆーことは、私達より……あ、あ、あああああああああああああああああっ!!」
「ひ、姫宮さんっ!?」
 突然でした。もしかして、なにか御存じなのでしょうか。
「八歳上って……鬼ちゃんと同い歳だ……」
「お、おにちゃん?」
 誰だろう、というか、人なのでしょうか。
 不安に思って見ていれば、姫宮さんがタッパーから、がっ! とお漬物を一掴みされました。静謐な部屋の中で、ぽきぽきもりもりぱきぱしぱりぃ、と弾幕のような音が響きわたりました。

 昼休みが終わり、一時間が経過していました。
「ひどい、ひどいよ!。なんでなのぉ!」
「……あ、あの、そろそろ落ちついて」
「うあ~ん! 歳上だってことぐらい、私も分かってたのにぃぃ! 分かってたけど! 私本気だったのに……っ!」
「ひ、姫宮さん。あの……」
「あ~、もうお漬物ないぃ~。うぅ……手がべたべたするぅ……」
「ウェットティッシュありますので」
「ありがとー、でねっ、でねっ!」
「……はい」
 いつのまにか私は、必死に彼女を慰める役回りに変わってていました。ハンカチを取り出して、大粒の涙を拭き取ります。
「鬼ちゃんセンセェ~~!」
 突如、姫宮さんは、ぶわっと滝のような涙を溢れさせ、声を荒げて号泣し始めたのでした。
「鬼ちゃん先生のバカァー! 愛想なんてなくて、昭和的教育しか出来ないセンセーの相手なんて、私しかいないでしょ~~っ!」
「そ、そうですよね。姫宮さんは素敵な女性ですよ。あの、だから泣かないで……」
「ありがどおーーー藤原さあああああん!」
 姫宮さんは、延々と『予備校の先生』のことを語り続けていました。
 以前鳴海さんにこっそり教えて頂いた、勉強を頑張れた理由である方らしいです。
 鬼木剛という男性は、名前に相違なく厳しい先生だけどイケメンで、ハリセンで頭を容赦なく叩くという、昭和的教育方法を強要するのだけど、ふとした際に見せる優しさが素敵なのだそうです。
 受験に合格したら告白しようと思っていたのだけど、受験の数日前に、先生は予備校を止めて、来年から私立中学校の教職員になってしまうことを姫宮さんに告げます。実は付き合っていた彼女もいて、十二月に籍を入れ、今年の六月には挙式をあげられたのだそうです……といった情報が頭に入力されていく。
 さらに一時間が経過しました。
「鬼ちゃんセンセってばね! 『俺の奥さんは、向こうみずなところが、ちょっと姫宮と似てるな』って。なにそれ、別の意味で殺し文句って感じですよねー!」
「で、ですね」
「出席しましたよ! 結婚式! 初めて見た鬼ちゃんセンセのスーツ姿が、もう超素敵で、お嫁さんも凄い綺麗で、私ブーケ手渡しで貰って、そりゃーもー泣きましたよおうおうおうおう!!」
「はい。私も泣きそうです姫宮さん」
 ぐすんと、大粒の涙がぽろぽろスカートの上に零れ落ちていく。
「……その時、なにか、初めて、諦めみたいなものが浮かんで、でもでも、やっぱりまだ大好きなんです……」
「わかります」
「うっく、えっく、一番が良いんですよぅ。でも届かないんです。どうしようもないんです……」
「……はい、一番以外、いりませんよね」
 私は頷いた。それだけは確信して、強く強く頷いた。姫宮さんの頭に手を添える。細くて柔らかい毛先が、指の間をすり抜けます。
 姫宮さんは恥ずかしそうに微笑んで。
「藤原さん」
「はい」
 ぽつ、ぽつ、告げました。
「……私ね。受験日の直前に、鬼ちゃんセンセに勝手にフラれて、受験の日も筆記用具忘れるぐらい緊張してて……しかも小学生がいるとか言われて散々でした……でも……」
 涙に濡れた姫宮さんの顔が持ち上がります。綺麗でまっすぐな眼差しでした。私を捕えて離してくれない。
「藤原さんが、私を、助けてくれました」
ハンカチを手にした掌に、そっと被せられて、息が詰まりそうになってしまう。
「前にも言いましたけど、あの時、筆記用具を貸してくださった藤原さんが居なければ、私は、今ここにいません」
「……私でなければ、他の方が」
「うぅん、皆緊張してて、自分のことで一杯一杯でしたよ。困っている人に手を差し伸べて、もし自分だけ落ちたら惨めだっていう気持ちもあったはずなの。でもね。その時に当たり前のことを、当たり前に出来たのは、あの時、藤原さんしかいなかったんです」
 姫宮さんが、優しく、優しく笑う。
 私が鳴海さんを見るように。鳴海さんがあの時、彼女を見ていたように。
「入学してからもずーっと、藤原さんのこと気になってました。だからね、正直言っちゃいます。藤原さんって美人だけど、クラスで浮いちゃってますよね」
「……はい。私は基本、一人が楽だと思っていましたから」
「うん。それでね。そんな藤原さんのお側にいたら、私までハブられちゃうと思うと、怖かったです。私馬鹿ですし、基本馬鹿っぽく振舞ってますけど、単に臆病なんです。好きな人と二人きりでいるより、好きじゃない百人と混じってた方がいい……軽蔑します?」
 姫宮さんは震えてた。臆病なハムスターみたいに、窺うみたいに、ふるふる震えてた。
「しません」
 嘘じゃない。気休めでもない。だから、私も逸らさず彼女に告げた。
「姫宮さんの周りにいる人達は、皆さんよく笑ってますよね。もし姫宮さんが、本当に思慮の浅い人であれば、誰も笑いかけたりしません。貴女はいつも一生懸命で、今もこうして、本音で向き合って話してくれる。姫宮さんが素敵な人だから、みんな笑いかけるんです」
 口元が自然と微笑んだ。
 ふわふわした、姫宮さんの髪を梳いていると、彼女も一緒にほころんでくれた。
「……ありがとう」
「はい」
「えへへ、嬉しいなぁ」
 外では天頂にあった太陽が、少しだけ蔭りを見せ始めていました。室内の空気は少し冷たさを増しているはず。なのに身体は熱い。
 一つ、喉を鳴らす。それから、
「……私は、藤原さんのことが好きです。大好きです」
 落ちついた声で、告げられました。
「乙女の友情を通り越え、百合的な意味で惚れてます。愛しちゃってます」
 真顔の姫宮さん。顔は真っ赤。
 私もきっと、赤くなって頷いている。
「夏野さんと違って、『美女美女』というお似合いのカップルにはなれませんし、よく見たところで、仲の良い姉妹以上には見られないと思うのですが……が、がが、ががが……」
「姫宮さん気を確かに!」
「うぅ……せめて身長があと二十センチ欲しいというのが本音ではあるのですが、でも私、お料理は得意です! おいしーお漬物も作れます! 惚れた相手には、中毒症状を起こす漬物を毎食提供させて頂く所存ですっ! 至れり尽くせる自信がありますですっ! 藤原さん! 私の一番になってぇーーッ!!」
「きゃっ!?」
 回し車を全力で吹き飛ばす勢いで、姫宮さんの華奢な身体が飛びこんでくる。机を三つ同時に運ぶパワフルな身体は、私をあっさり椅子から転がり倒してしまう。
 床の上。息が僅かに止まり、彼女と二人絡まるように倒れ込んでしまいます。瞳を開くと、
「……藤原さん、綺麗、です……」
 上から柔らかい髪の毛と、見開いた瞳の輝きが降ってくる。軽く、音にすれば「ちゅ」という程度に軽く、唇が触れ合って。
「っ!」
 ぱくぱく。心臓が大きな音を立てていく。
 私がごめんなさいと言う前に、
「せ、せきにん! とら、とれ、とななきゃ……っ!」
「……え」
「ま、まずは……私の鼻血が藤原さんの制服を汚しちゃう前に、脱ぎ脱ぎしなきゃ……」
「脱がないでください! 落ちついて!」
「ぱぱぱ、パンツは引きだしの二段目! 二段目に入ってますからぁっ!」
「意味が分かりません!」
「藤原さん! 私もう、やらずに後悔する恋よりも、やって後悔する恋がいいっ!!」
「それは犯罪です!!」
「将来は留置場から漬物送らせて頂きます」
「責任という言葉を拡大解釈しすぎだと思いますっ!」
「ふ、ふふ……ごめんなさい。漬物を過剰摂取したせいで、身体がいう事を……」
「本当になにか入ってたんですかー!?」
 危うい瞳で、姫宮さんが私に圧し掛かる。ぷち、ぷちんと、指が、制服のボタンの上を滑っていく。はぁはぁと熱い息が首元に。
「ちょ……!」
「ふ、ふふ、ふふへへへ……」
 逃げないといけないと思うのに、全身が床に張りついたように動かなくなる。
 誰か誰かと呼び続ける。声にならない声はいつしか、あの人の名前になっていた。
「……なにやってんの」
「鳴海さんっ!」
 入口の扉が、いつのまにか開いてました。小脇に枕と毛布を抱えた鳴海さんが立っています。彼女もまた、授業をサボって寝床を探し求めていたようです。
「早速浮気とはね。やってくれるじゃない」
「ち、違いますっ!」
「そーです! これは合意の上です!」
「合意してませんっっ!!」
「春奈は隙多過ぎるんだよなぁ」
 すごーく呆れたような、それでいて冷めた様な瞳で、私達を見下ろす鳴海さん。姫宮さんとの間で、視線がバチバチ。
 しゅ、と枕が飛んできました。
「うぶふぅっ!?」
「あたしに勝てると思ってんのか。素直に冬眠しとけハムスター」
「くぅ~っ、負けないのですうう~っ!」
 姫宮さんが体当たりします。彼女は小柄で鳴海さんは長身なので、ちょうどお腹の辺りを、頭でぐりぐりする格好になります。
 なんというか、小型犬が『遊んで~!』と言っているようで、大変可愛らしかったです。
 休み時間に、鳴海さんと姫宮さんの『じゃれ合い』を聞きつけた先生によって、私達は三人共、生徒指導室に連行されました。
「授業サボってなにしてたんだ」
「乙女の事情です。それ以上は言えません」
 姫宮さんがそう繰り返し、黙秘を続けていました。しかし放課後になって、蒼月さんと日比谷さんが様子を見に来てくれた際に、
「アキラさん、お姉さん達がケーキバイキングに連れていってあげましてよ」
「沙夜、私は何も言ってないんだけど」
 彼女は『きゅうきゅう!』と迷いに迷った挙句、ぽつりと『愛について語りあっていました』と告げました。その言葉を聞いた蒼月さんは、
「浮気は許さないと言いましたわよね」
 にーっこり。
 晴天の空の下、一輪の白い花がこっそり咲いたような、慎ましくも麗しい極上の笑顔でした。
「さ、沙夜ちゃん……怒ってる……?」
「あら、どうしてそう思うの?」
 蒼月さんは笑顔で、姫宮さんの首根っこを引っ掴み、変わらぬ笑顔で告げました。
「先生、アキラさんのご指導はわたくしの方で個人的にたっぷりねっとり、二度と朝日を迎えられない程度に仕置きしますので、今日のところは見逃してくださいませ」
「……う、うむ」
 冷や汗を垂らしながら、先生が頷きます。
「では皆様ごきげんよう。うふふふふ」
「安心して秋ちゃん。いざとなったらギリギリのところで止めるからね」
「ギリギリになる前に止めてくださあああああいいいぃぃぃ………ぃ……!」
 ずるずる、とそのまま首根っこを掴まれ部屋を後にする姫宮さん達。日比谷さんが丁寧に一礼をして扉を閉めました。
「……まぁ、今日のところは大目に見る。二人も帰ってよし」
 気力をすべて削がれたという風に先生が告げ、私と鳴海さんも、頭を下げて部屋を出ました。

「…………」
「…………」
 既に下校する生徒もまばらになっている中で、私達は黙って進みます。
 交わすべき言葉は沢山あるはずなのに。呼び慣れた名前を一つ告げるのすら、息が苦しい。
「春奈」
「鳴海さん」
意を決して呼びかけたのは、同時でした。
『…………』
 俯いて、沈黙してしまうのも。
 私達は足を止めて。急く心臓を落ちつかせながら、言葉を繋きます。
「……な、鳴海さん。今日は、その、足時計は、なんて……」
 返事が届くまでに、少しの時間がありました。もしかすれば、そのまま何処かへ行かれてしまうかと思って、怖かった。
「走れって。土曜も日曜も全然走らなかったから」
「そ、そうですか……」
 じゃあ今日はここでお別れ。
 一人で帰りますね。
 今日は、一人で。
 明日は? 明後日は?
 不安が募る。これからもずっと、一人で帰路につく自分を想像して両足が震える。息が纏まらない。気がおかしくなりそうだった。
「でも今日は、春奈と帰る」
 鳴海さんがそっぽを向きながら言いました。私と同じように、声を震わせていました。一生懸命に告げてくれる。
「あ、あたしの足時計はだなっ! あくまで速く走るためでっ。気分良く、最高の気分で走れるための目安みたいなもんでっ……今、こんな気分で走ったって全然……っ!」
 鳴海さんの息が荒い。
 フルマラソンの距離だって、一番に走りぬけてしまうその人が、短い言葉を口にするだけで消耗してる。
「は、春奈と一緒にっ、いきたいとこがあるんだけど! 着いてきてくんないっ!?」
 同じように顔が赤い。
 同じものを、瞳の中に見ている。
「……その、家に帰るのが遅くなるかもしんないけど……」
「お、遅くって……どのぐらい……」
「下手したら、深夜とかになっちゃうかも」
「し、深夜って……あの……」
「着いてきてくれるなら、ちゃんと責任持って送るから」
「責任!?」
 白状しましょう。
 私はその瞬間、すごくすごく、やらしーことを想像いたしました。勝手に頭の中に浮かんできた生々しい絵に、くらりと視界が揺れました。訳が分からなくなりました。
「……わ、わたしで、いいんですか……?」
「う、うん。春奈じゃなきゃ、嫌」
 先程暴走した姫宮さんに、落ちついてくださいと言っておきながら、不覚にも自分が『脱ぎ脱ぎ』してる絵を浮かべます。姫宮さんのお漬物パワーが、私にも効き始めたのでしょうか。
「お金も少しかかると思うけどさ。大丈夫かな。あたしの方で出してもいいよ」
「ダ、ダメですダメダメッ! ちゃんと半分出しますっ! レシートって出るんですかねっ!?」
 ぐっと身を寄せます。鳴海さんがびっくりした様子で、半身を逸らします。
「……いや、そりゃまぁ、伝えたら領収書は出ると思うけど……」
「そ、それじゃ行きましょう! お母さんに朝帰りする旨をメールで伝えておきますねっ!」
「え、朝帰り?」
「だって! もしかしたらすごく長引いちゃったりするかもじゃないですか! 鳴海さんしつこそうだしっ!」
「……えーと、別にたいした事があるわけじゃなくて。同じ景色を見たいんだけど……」
「景色より鳴海さんが見たいです!」
 言って、私達はまた二人、しばらくの間、ぽかんと見つめあっていました。
「……ちょい待ち、なんかあたしの言いたいことが上手く伝わってない気がする。春奈、今なに考えてんの?」
「……えっと、鳴海さんと……べ、ベッドで……いちゃいちゃ……」
「はぁっ!?」 
 鳴海さんが『ぽかん』とした表情になりました。基本格好良い人なので、口を半分開いた間抜け顔でさえも、素敵です。でも、その後はすぐに、お得意の意地悪な顔になります。
「春奈は、いやらしい子だね」
「えっ!」
「そぉかそぉか、春奈はそぉいう事、考えちゃったんだ」
 いつもの八割増しで、意地悪度が増した鳴海さんが、ぎゅっと迫ってきます。
「あたしと、そういうことしたいの?」
「……ぁ、ぅ」
 くつくつ笑う鳴海さんに、壁際まで追い詰められしまう。咄嗟に左を見て、右を見て。廊下に誰もいないことを確かめました。それから両腕を伸ばして、彼女の背に回しました。
「鳴海さんとなら、したいです……。そしてこの前の週末はごめんなさい。鳴海さんとの大切な時間を無駄にしてしまってごめんなさい。今日、朝寝坊して、お弁当作れなくてごめんなさい。パンを貰ったのにお礼を言えませんでした。ありがとう、それから、ごめんなさい」
 鳴海さんの胸に顔を埋めて。歯を食いしばって、泣かないように耐えて。
 鳴海さんの腕も、身体が折れてしまいそうなぐらい、私の背に回される。
「ごめんね」
「ごめんなさい」
 二人、その言葉を。
 ただ、ただ、繰り返しました。

 校門を出た私達は、二人で駅までの道を歩きました。自転車は学校に置いています。明日も学校だから、次の週末でいいよという鳴海さんの言葉に、私は首を振りました。
「本当に遅くなっちゃうよ」
「望むところです」
 力を込めて鳴海さんを見上げると、困った風に笑われてしまいます。
「春奈ってば、意外と頑固だよね」
「意外どころか、すごく頑固者ですよ。融通なんて効かないんですから」
 繋いだ手も、簡単になんて離してあげないのですから。鳴海さんは「あーあ、面倒くさい」と言いながらも、嬉しそうに笑ってくれました。私に合わせて歩いてくれました。
 電車の中、最初は学生や社会人で溢れていましたが、都心部から離れるように乗り継いでいけば、いつのまにか、一車両私達だけ。降りた駅も無人駅でした。丁度やってきたバスに乗れば、こちらも私達と、一組の年配のご夫婦が乗っているだけでした。
 一番後ろの席の隅っこに、私達は肩を並べて座ります。
「……少し街中から離れるだけで、すごく静かな場所になっちゃいましたね」
「そう。こんなに静かで寂しい場所になるんだよ。意外と誰も気づいてないもんだけど」
「でも、たった一人でも、誰か、いてくれると違います」
「うん」
 ゆらゆら揺れるバスの中、窓際に座る彼女の肩に、そっと身体を預けます。
「ところで、私達は何処に行くんでしょうか」
「今更?」
「はい。鳴海さんと仲直りが出来たのが嬉し過ぎて、今まで聞くのを忘れてました」
 彼女の隣はとっても居心地が良くて。心の中一杯に、幸せが溢れてくる。あまりにも心地良過ぎて、うとうと、してしまう。
「眠たい?」
「はい」
「目的地、確かバスの終点だから。眠っても大丈夫だよ。あたしも少し眠ろうかな」
「では、おやすみなさい鳴海さん」
「おやすみ」
 そして手を離すことなく、私達は眼を閉じました。

 夢を見ています。
 同じ夢を見続けています。
 ひたすらに、まっすぐな道がありました。
 ひたすらに、ただ走り続けました。
 速く、高く、長く。走れば走り続ける程に、心の中を気持ちの良い風が吹きぬけてゆきます。足の中から聞こえる音に従って、前へ前へ、何処までも何処までも、駆け抜けていきました。
 なんて気持ちがいいんだろう。
 走ることは幸福そのものでした。私という生き物は、世界を走る為に生まれてきたのだと、心から思えました。けれどいつからか、私の周りを無数の影が取り巻くようになりました。その内の一つが、私を指差します。
『素晴らしい、才能だ』
 誰もが私を囃したてました。最初は照れながらも、その『才能』という言葉を受け取っていました。私の気持ちを同じように受けとめてくれたのだと、そんな風に思っていたのに。
『お前は化け物か』
 揶揄もされ、嫉妬され、次第に影の存在が苦痛になりはじめました。これは違う。私の求めたものじゃないと、輪から外れて一人気ままに走っていれば、
『真面目にやれ』
 そんなことを言われるようになりました。自由に。ただ前へと進むことが、叶わない。
 走ることだけを、なによりも愛していた。だからこそ、私は最速であったのに。
 だけど結局、素直に従ってしまったのです。表面では強がっていても、本当は人から見放されるのが怖かったし、見くびられるのも癪でした。
 私は真面目に走り続けました。そうして、精緻な足時計は狂っていきました。ネジの幾本かが抜け落ちてから、しばらく経った日のことです。
『なんだ、ここまでか』
 人も、時計も、なにもかも、私を見限った。
 世界が、真っ暗になった。まっすぐに続いていた道は、見えなくなった。
 私は狂った獣のように、悲鳴をあげます。何も見えない暗闇の中を駆け出しました。もう一度時計の音を取り戻す為に、ひたすら走り続けました。見つからなければ、それは自分が死ぬ時だと思いました。怖かった。恐ろしかった。
 時折囁く、小さな音を求めて、必死に、懸命に、走り続けました。誰にも期待されなくていい。自分自身の為だけにひた走り、
「…………!」
 脳味噌が真っ白になり、心臓が持たないと悲鳴をあげ、肺が酸素を求めさせろと訴え、手足が痺れ、感覚を失っていく。
 なにも聞こえない。止まれない。苦しい。
 風が冷たく纏わりつく。汗も涙も一緒に流れていく。
 残されたネジが、馬鹿になったように回る。ぐるぐる回る。どんどん緩んでいく。
 もうすぐ、私の足は腐って、抜け落ちてしまうのでしょう。

「――春奈、起きて」
 変わらずゆらゆら、揺れるバスの中でした。心臓が激しく悲鳴をあげていました。息苦しくて、全身が怖いぐらい冷え切っていて、歯の根元が噛み合わない。
「……鳴、海、さん……っ」
「大丈夫だから。落ちついて」
 だけど唯一、繋いだ掌だけが温かい。隣を見ると、潤んだ瞳が見えました。空いた方の手でそこへ触れると、少し冷たい感触が残りました。
「泣いてるんですか?」
「うん」
 鳴海さんの涙を見たのは、初めてでした。
「怖い夢だったね」
「……はい」
「なんか、すっげー狭い部屋に閉じ込められて、死ぬまでここで頑張れとか言われた」
「私は、大事な物を失くしてしまいました。死んでも走らなきゃって……」
 ぽろぽろと、涙が自然と溢れてきました。あんなに楽しかったのに。目的も目標もなく、意識も夢も憧れもなく、ただ走ることだけが幸せだった。
「鳴海さん。走ることは、辛いですか」
「うん。辛いね」
 鳴海さんの両足に、触れました。
 そして、小さな音を聞いたのです。

 ……カチ、コチ、カチ、コチ……。

 正確に時を刻む、針の音。そっと力を込めて、囁きました。
(――貴女と、貴女の大切な人を、私も、愛しています)
 きゅっと、見えないはずのネジを巻く。
 足時計はもう一度だけ、応えるように音を立てて、止みました。
「聞こえた?」
「はい、聞こえました」
「よかった」
 鳴海さんがくすくす笑う。優しい女の子の顔で。
「あたしはもう、春奈の隣じゃないと、眠れないかもね」
「はい。また怖い夢を見たら、今度は慰めてください」
「いいよ――あ、そろそろ降りなきゃ」
 鳴海さんは、終点なのに降車ボタンを押しました。それから自分でも「次でおりまーす!」なんて言うのだから。
「私も一緒に降りまーす!」
 大きな声で告げました。それから手を繋いで、お金を払ってバスから降ります。
「鳴海さん。ゴールはどっちですか?」
「この先だよ」
 二人で並んで、歩いていく。
 願わくば、貴女と二人で、どこまでも。
17, 16

  

 *4 夏野鳴海、雪白冬美のこと。

 実家を出て四年。最初こそ一人暮らしを始めてからは「転がるなよ転がるなよ。気を抜いたら持ち直せないぞ」と自分に言い聞かせて頑張っていた。
 去年、大学三年目の春、頭のネジが緩み始めていた頃合いに、気紛れに買った宝クジが当たってしまった。まさかの一等賞だった。
 通帳の入金額に『\15,000,000』と記帳されたのを見た時は、ギャグかと思った。
『実はドッキリでした』というオチよねと震えながら、試しに五十万引き落としたら、本当に五十万出てきて、心臓が止まるかと思った。
 そこからは、もう、転がるというレベルじゃなかった。急転直下だった。
「……これだけあれば、しばらくは、なんもしなくて、いいわよねぇ……」
 安易な考えにハマって、酒に溺れる日々を費やす私。大学には行かなくなり、連絡が届いた実家の両親からは『なんばしよっと!』と地元弁で怒られ、対して私は『学費なら自分で払っちゃるけ文句なかろ!』と地元弁で逆ギレした。気がつけば四季は巡り、大学四年生になった時、すべての授業に出席しても、卒業単位が足りないという状況に陥っていた。
 致し方ない。致し方ないと思わざるを得ない。それが大学四年生時、今から二年前の私の現状だった。
「……明日なんて、来なければいい……」
 ぼうっと昇る朝日を見る。
 考えが行き止まってしまう。夢とか目標とか、そんな大層なものはなかった。日々、なんとなく生きていた。息を吸うのも面倒くさい、でも死にたくはないという、虫以下の思考で生きていた。
 ご飯を作るのも面倒くさい。いや、ご飯を食べるのも面倒くさい。でもお腹が空くから食べる。ぼぅっとしながら、お箸を動かすのも面倒くさい。そんな風に、次から次へと考えるのを放棄する。機械的に食事をする。息を吸う。

 その日、コンビニで買った弁当を近くの公園で食べていた。
 私の座るベンチ、斜め前の茂みが微かに揺れた。
「葉っぱって、光合成して酸素撒き散らすだけでも、すごい役に立ってるよね……私なんて息吸うだけで、環境汚染してるのに……偉いなぁ葉っぱ。立派だな、葉っぱ。……それに比べて私は……」
 末期だった。もうずっと誰とも会話すらしていなくて、軽く鬱だった。
 がさがさがさっ。
「……?」
 目の前の葉っぱが、突如不自然に揺れた。 
「…………」
 仮にもこの辺りは都心から離れていて、実家同様、田舎染みたとこで、この公園も『緑の森』とか大層な名前がつくだけあるんだけど。
だからってまさか、熊や猪が出てくるわけは……ない、よね……?

『最近、この辺りで野犬が人をうんたら』

 公園の入り口に、そんなことが書かれた紙きれを、チラッと見たような気もする。背筋が寒くなり、弁当を囮にして、退散しようとした時だ。
 がさがさがさーーっ!
「ひっ!」
 茂みから本当になにか飛び出してきた。私は情けない悲鳴をあげながらも、飛びだしてきたなにかを、必死に見据えた。
「…………へ?」
 現れたのは少年だった。朝焼けを背後にしたその子は、そろそろ冬になろうかという時期に、袖のないシャツとハーフパンツだけを着ている。よく凍死しなかったね。などと思う。
「……ぁー」
 だりぃ、とでも呟きそうな不機嫌極まりない声は、けれど存外に高い。薄茶に染まった短髪をがしがしと乱暴に掻き毟る姿は、どこか野性的で格好良い。身長は、女子で平均ぴたりの私と同じぐらい。けれど顔には確かな幼さが残っていて、まだ成長期を終えていない具合の美少年だ。たぶん、中学生なんだろうなと検討をつけてみた。あとはぐんと身長が伸びれば、ティーンズ雑誌の表紙だって飾れそうだ。今でも充分モテているのだろうけど、将来が楽しみな顔だった。
「……腹減った……」
 美少年がぽつりと呟いた。たぶん、無意識だったとは思う。
「…………」
「…………」
 私の手元、食べかけの弁当に視線が止まる。純粋に潤んだ瞳が、露骨に肉を見ていた。
「あのさー」
「な、なに」
「それ、美味そうだね?」
「……さぁ、味なんて分かんないわ」
 素直に言った。その時の私は、なにを食べても、食感が違う程度にしか感じられなくなっていた。
「ふーん、じゃあ、くれよ」
「なんでよ!?」
 遠慮容赦がない。同時に美少年のお腹が「きゅう~」っと鳴った。さらに切なそうな表情を浮かべて、「あぁ……もう、ダメだ……死ぬ……」とか言う。
「最後に腹一杯、飯食いたかったな……具体的に言うと食べかけの唐揚げ弁当とか」
「あんた性格悪いわね」
「うん。よく言われる。顔が良いから許してもらえるけど」
「自分で言うかっ!」
 こいつ、絶対人生ナメている。私が言えた義理じゃないんだけど。
 仮にもお金だけはある。あるのだからと自分に言い聞かせて、弁当を差し出した。
「食べていいわよ」
「マジで!」
 言った側から、美少年の表情に花が咲く。本当に綺麗だった。これだけの仕打ちを受けても、吸い込まれるように見惚れてしまう。女の子特有の柔らかい線さえ透けて見えそうだった。髪を伸ばせば、それこそ女の子に見えたかもしれない。
「いっただきまーすっ! あ、隣座っていい?」
「どうぞ」
 美少年はどかっとベンチに座り、もんのすごい早さで手を動かしていく。見ているこっちが噎せそうになった。けれど、なんていうか、本当に、
「美味しそうに食べるわねぇ」
「うん! 超美味い! 腹減ってるかんな!」
 綺麗な笑顔がすぐ目の前にある。無邪気に笑う眼差しに頬が熱くなりそう。美少年は箸を持つ手を止めないまま、にこにこ笑って言う。
「喉渇いた。おねーさん。お茶」
「……」
 さすがに拳骨を見舞ってから、近くの自販機でお茶を買った。

 お茶を買って戻ってくるまで、数分もかからなかったと思う。なのにお弁当はすっかり空になっていた。ペットボトルのお茶も、言葉通り一気に飲みほして、ぷはーっと、爽快な息を吹きこぼす。
「ごちでしたっ! いやー、生き返ったっ!」
「お粗末様。ところであんた、なんなの。家出でもしてきたの」
「だったら泊めてくれる?」
「帰れ」
「えー、いいじゃん、いいじゃん」
 怖いもの知らずの馬鹿みたいに明るい表情が、不覚にも可愛いと思えてしまう。そしてもう一度「きゅう~」と同じ音が鳴り響いた。美少年がまた切なそうな顔になる。
「……あー」
「もしかして、食べ足りないの?」
「全然足りん。あたし、成長期だからな!」
 歯を見せて笑う。昇る太陽みたいに眩しい。しかし妙にひっかかった。
「……ちょい待ち。今なんて言ったの?」
「あん?」
「いや、あたし、って言わなかった?」
「うん?」
 訳が分からないという具合に首を傾げられる。たっぷり三秒ぐらいした後に、いきなり眉をひそめられた。怒った顔も可愛いな畜生とか思っていたら、今度はニヤリと、肉食獣じみた不敵な笑顔が浮かんだ。
「おねーさんは、男と女、どっちが好き?」
「えっ?」
 ニヤニヤと、正面から綺麗な顔が覗き込んでくる。よくよく見れば、美少年の肌に吸いついていたシャツの胸元が、僅かに膨らんで見えなくも、ない。
「……お、女の子?」
「ぴんぽん」
 貴女と同じですよ、という感じに人差し指を向けられる。わざとらしく格好をつけた演技さえ似合うのだから、始末に困る。
「おねーさん、さぁ、お金、もってる?」
「……え?」
 その台詞は、将来、ろくでもない奴になるだろうと思わせるには、ぴったりだった。
「後でちゃんと返すからさー、ご飯、奢ってくんないかなー?」
 ニヤニヤ笑いながら、そんな事を言う。
 本当に、性格の悪い『美少女』だった。
「おねーさん、名前、なんて言うの。教えてよ」
「……」
 直感があった。私は昔から、人よりも犬猫に好かれる性質だ。コイツに名前を教えたりしたら、絶対家までついてくるという確信がある。
「あたしはさ、夏野っつーの。十四歳だよ」
「……雪白よ」
 流石に下の名前は教えられないし、年齢だって明かすつもりもない。それでも告げてしまったのは、たぶん寂しかったんだと思う。
「じゃ、ご飯食べにいこうぜ。雪白さん。奢ってくれたら下の名前も教えてあげるよ」
「あんた、本当に何様よ」
「中学生だけど?」
「うっさいわ」
 そして私達は、二十四時間営業しているファミレスに入ったのだった。
 一人きりでない食事は、不覚にも楽しかったし、ご飯もとても美味しかった。

 案の定、美少女は飯をたらふく食った後に、家に勝手に落ち着いた。いつのまにか家の合鍵を持ち出されていて、本当に野良猫が居ついたかの如く、週末にひょっこり現れるようになった。家の扉を開けると同時に、いた。
「あー、ユミさんおかえりー。ご飯まだ~? 腹減ったぁー!」
「帰れよ」
 怖い物知らずのイケメン中学生は、ナルシストの面が多分にあったので、ささやかな抵抗も込めて「ナル」と呼び捨ててやった。そしたら、ますます懐かれてしまったけれど。
 ナルは、雑誌にも乗る有名人だった。とは言っても、流行のファッション関係ではなくて、陸上関係、スポーツ関連の雑誌だ。あくまでも、その時は、その程度だった。
 中学生の全国陸上記録を、短距離、長距離、高跳びなど無関係に、中二の分際で、次から次へと記録を塗り替えていた。最初こそ地元のローカル番組に、極稀に取り上げられる程度だったが、噂を聞きつけた全国区のテレビ局からも、取材要請が来るようになったらしい。確かにこの外見と性格なら、他の意味でも「見映え」が良かったのだろう。
「もう大変なんだよねぇー、みんな五月蝿くてさぁ。あたし、まだ中二なのに、陸上で有名な高校からも、バンバン推薦なんか来ちゃってさ~」
 凡人の私は「はいはい」と流すしかなかった。けれど彼女の瞳には、確かに憂いの光が混じってもいた。
 なにせ深夜に、中二の女子が、自宅からフルマラソンで、ゴールも設定せず、ぶっ倒れるまで走り続けたのだ。そこまで彼女が追い詰められたのは、単なる思春期だけの問題であるのか、凡人には分からない。
 そしてもう一つ分かったことは、ナルは、意外と乙女だということだ。
 沈んだ表情で、ベッドの上を、枕を抱いてごろごろしながら、ポツリと言った。
「……あたし、もっと、女の子っぽかったら、良かったのに……」

 爆 笑 し た 。

「な、なんで笑うんだよぉっ!」
「だ、だって……あははははっ。お腹、よじれるゥ……っ!」
「こ、このっ!」
 枕ミサイルを顔面で受けても、笑いは止まらなかった。
 今でも思い出せば、人混みの中でも、何処でだって、うっかり顔がニヤけてしまう。そしてあの時、本気で不貞腐れたナルに、私は真面目に言ってやった。
「あー、笑った笑った。じゃあさー、高校は女子寮があって、制服の可愛いところを選んだらいいじゃない。可愛い女の子に囲まれてたら、あんたもついでに可愛くなるわよ」
「……マ、マジでっ!?」
「マジマジ」
 奴はその時、本気でびっくりした顔をしていた。
「決めた! あたし、可愛い女の子がいる高校に行くっ!」
 瞬間、腹筋が壊れるかと思った。
 あんたが一番可愛いわ。

 ナルは本当に気紛れな猫だった。高校生になったら、さっさと制服の可愛い女子寮に入ってしまって、それきり顔を出さなくなった。たぶんそっちの方が居心地が良くなったんだろう。いいことだ。
 青臭くて、馬鹿で、一途で、子供で、乙女で。
どうしようもないぐらいまっすぐな感性に、私も昔はこんなところがあったよねと、懐かしく思えた。恥ずかしくて死にそうにもなったけど。
 もう一度、人生やってみようかなとか思えたのは、悔しいがナルのおかげに違いなかった。
私は六年目にしてようやく、大学が卒業出来そうだった。料理の腕前が多少なりとも上がったのは、食うだけの分際で、味に散々文句をつけた奴のおかげだ。
 就職先は真面目に探していなかったので、決まってない。まぁ、やりたいことがなかったし、そのうちなんとかなるだろう。駄目人間なので、基本楽観的に考えている。

 たまには都心の方に買い物に行こうと思い、電車を降りて、駅内の喫茶店でお茶を楽しんでいた時だ。ふと窓の外側に、やたら格好良いイケメンがこっちを見て笑っていた。隣には、とても綺麗な女の子を侍らせていた。
(……どこのお姫様を捕まえたんだか……)
まさか中身、男の子じゃないわよねと疑ったけど、女の子だった。
「――あたしの高校の友達」
 ナルが言って紹介してくれると、その子は、ものすごく寂しそうな顔をして、
「…………」
 不安そうに見上げてきた。なんだか気位の高い、ペルシャ猫みたいな女の子だなぁと思った。邪魔をしちゃ悪いかなと思い、さっさと切り上げて、予定通り買い物をして帰った。
家に帰って一息つこうとしたら、ナルから電話があった。
『――春奈と喧嘩した。ユミさんのせいだ。どうしてくれんの。責任とれ』
「知らんがな……」
『だってぇ』
 珍しく泣きそうな声だったので、付き合ってあげた。途中で、ナルは春奈のお弁当はとっても美味しいんだと繰り返し自慢し、月曜日は食べられないかもしれないと告げ、
『あたし、明後日は餓死してるかも……』
「言いたいことはそれだけか。おつかれさん」
『あ、ちょ!―――』
 電話を切った。付き合ってられるか。
 
 二日後の月曜の夜。バイト先から帰って、ナルが倒れていた公園を通った。ここを通れば家に着くのが二分短縮出来るので、日常的に使っている。けれどその日は、余計に時間を食うはめになってしまった。ベンチに、バカップルがいたせいだ。制服を着たままなので、家に帰っていないことは明らかだった。
「――じゃあ、鳴海さんと冬美さんは、ここでお会いしたんですね」
「そーそー、思い出の場所だよ」
「……私も思い出、欲しいです、鳴海さん」
「仕方のない子だね、春奈は」
 頭と耳と全身が痒かった。
 二人ともすごく見映えがいいので、下手に絵になるところが最悪だ。もしかして撮影班でもいるんじゃないかと疑った。
 ナルがキスをしようして振り返り、目が合った。それからわざとらしく笑み、見せつける様に唇を重ねた直後に、
「あれぇ、ユミさん奇遇だねぇ~」
「……え?」
 ペルシャ猫の彼女も振り返る。いえいえお構いなくと逃げ出すも、ナルは素早かった。奴は手癖が悪いが、足癖の方も最悪なのだ。あっさり前に躍り出られ、逃げ道が消える。
「ユミさーん。今から女二人で夜道歩くのも危ないしさぁ、お家にお邪魔していいかなー、いいよねー? まぁ、鍵は持ってるんだけどさ」
 性格の悪い美少女は、わざとらしく絵になる仕草で、指に鍵をひっかけ回してみせる。今も昔もあまり変わってはいなかったけど、私が取りえなかった手を、最後まで繋げなかった掌を、今はしっかり握ってくれる彼女がいる。
 その姿を嬉しく思う反面、ほんの少し、寂しいなと思った。

18

五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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