高瀬直太編 第10話「ノイズ」
「保世はちょっとだけここで待っていて」
「う、うん」
歩道橋を下りるなり七後は、唇に人差し指を当てる仕草をして俺を止めた。何をするのかと思っていると、七後はわずかに腰を落として、見事に足音を殺した。そして流れるような足取りで高瀬直太の背後に忍び寄って襟首を掴む。
……何だ、この高等技術を駆使した割に小学生じみたイタズラは。そうか、才能の無駄遣いってのはこういうのを指す言葉なんだな。
ここからでは二人の会話は聞き取れないが、相当驚いた様子の高瀬直太を見れば大体の予想は付く。七後が俺を指差したところで、ようやく向こうも俺に気付いた。
「ここが戦場なら、高瀬は既に死んでいた」
「ここは戦場じゃねえ。毎度毎度、お前の登場は心臓に悪いんだよ。お前は忍者か?」
近寄って聞こえてくる声は予想通り、まあ、いつものかけ合いだ。ただ今日が普通と違うのは、昨日の今日だということ。高瀬直太の左目に当てられた眼帯は痛々しく見えて、嫌でも自分の軽率さを思い出させる。
「ご、ごめん、ね」
俺の口からまず漏れたのは謝罪の言葉だ。だがそれを向けられている当の高瀬直太は、何故謝られているのか分からないように目を丸くした。
「お、『お兄ちゃん』が、ひっ、高瀬くんを、ひっく、その、勘違い、っく、して……」
「ああ、この目のことか? そんなの気にするなよ。目玉が傷ついたわけじゃなし。眼帯だって一応付けてるだけだから明日には取れる」
高瀬直太は歯を見せてにかっと笑った。俺を心配させまいとしたのだろう。それが余計に申し訳ない。胸が痛む。……比喩ではなく本当に、心臓を誰かに掴まれたようだ。息を吸うのも辛い。何故か唐突にしゃっくりが始まった。一体どうした? 小向は何か持病でもあったのか?
いや、今考えるべきことはそれではないか。せっかく目の前に高瀬直太がいるんだから、確認すべきは他にある。
「うっく、た、高瀬、くん。ひっ、いきなりだけど、聞いていい、ひっく、かな?」
「ん、どうした?」
「き、いっ、昨日のことなんだけど、うっく、高瀬くんは、っく、どうして、あそこに、ひっ、いたの?」
「……昨日のってのは、あの、あれだよな?」
俺の問いかけに高瀬直太は口をこもらせた。俺が頷くと高瀬直太は、しばし明後日の方向へ目をやる。
「それは、お前が見えたような気がしたから」
……質問に対して微妙に答えが噛み合っていないような気がする。俺が問い詰めるような顔をしたからか、高瀬直太は取り繕って付け加えた。
「あ、いや、誤解するなよ? 俺の部屋の窓からお前の姿が見えた気がしたんだ。家の前で少し立ち尽くしてから、またふらっとどこかへ行ってさ。まさか小向があの時間に、俺に用があるとは思わなかったけど、その前からいろいろと様子がおかしかったし、万が一のことがあるかもと思って探しに行ったんだよ。そうしたら、あの現場に出くわしたってわけだ」
そうか。あのとき、高瀬直太の家に寄ったとき、見られていたのか。だとすると辻褄は……合うな。
「それより逆に聞きたいんだけどさ、もし俺の家に来てたのが小向だとしたら、お前はどうしてあそこにいたんだ?」
しまった、やぶへび! まさか情報を集めるつもりが、反対に腹を探られる結果に。しかも俺は小向に住所を教えた憶えは無いから、俺が、つまり小向が高瀬直太の家に行くことの合理的な説明が付かない。どうする、俺! 俺、どうする!
「わ、わたし、いっ、高瀬くんの家、うっく、し、知らないよ。ひっ、人違い、じゃないかな?」
どうせ証拠は無いんだ。しらを切ってやれ。
「高瀬。それは本当に保世だった?」
「確実にそう言えるわけじゃないからな。暗かったし。ひょっとしたら俺の見間違いだったかも……?」
運良く七後がこっちの波に乗ってくれたので、話をうやむやにすることが出来た。
「ところで高瀬は、ここで誰かを待っている?」
「誰って……あれ? お前らも茅に呼ばれて来たんじゃないのか? 俺はてっきりそうだと思ってたけど」
「美月が?」
引き続き七後が高瀬直太と会話をする。俺はまた心なしか胸の痛みが強くなったので、無理には喋らず聞き役に徹した。その直後、能天気さ丸出しの声が届いてくる。
「やっほ~ぅ。直太くん、待ったぁ? あっれぇ? ホヨと由花も呼んだの? っていうか、どしたの直太くん、その目ぇ! 事故? ケンカ? ものもらい?」
「私と保世は、高瀬とは別行動中。ここで会ったのは偶然。高瀬の怪我は……悪漢と格闘した名誉の負傷」
小走りで現れた茅は、例によって生足が目立つ服装をしていた。退院したばっかりのはずなのに元気なものだ。寒くないのか? しかも到着するなり早速マシンガントークを展開させる。高瀬直太がどの質問から答えたものか迷っているうちに、七後が横からフォローを入れた。こうして見ると高瀬直太って、茅の押しにはとことん弱いな。
「そうだったんだ……。でもあんまり無理しちゃダメだよぉ? あたしは今朝退院したばっかなんだけどさ、昨日の夜は急患が運ばれてきたみたいでバタバタしてたもん。なんでも、鈍器で頭をボコボコにされてたらしいよぉ。こっわいよねぇ。警察の人も来て何かやってたみたいだし。まぁそんなのはどうでもいいんだけどさ」
ケラケラと屈託なく喋る茅にとっては完全に他人事らしいが、実際は俺も七後も高瀬直太も、その事件の関係者だ。そして三人とも、自らそれを明かして詳しく語ろうとはしない。
「閑話休題。情報を総合すると美月は高瀬一人を誘って呼んだようだけど、デート?」
七後が話題を巻き戻す。その口から出た露骨な単語に、高瀬直太は今さら自分の立場を理解して狼狽した。
「え、デ……おい茅! これってそういうことなのか?」
「そうだよぉ。ま、お試しデートってやつ? 急がなくてもいいとは言ったけど、あたし、待つだけの女じゃないもんね。思い立ったら即行動ですよ。命短しなんたらかんたら」
「しまった、はめられた……」
「ひっどいなぁ直太くん。そこは喜んでくんなきゃ」
「なるほど。美月、そういうことなら私は……特別に応援はしない。興味無いから」
「やぁん由花ったらつれないなぁ。でも、そこがいい!」
何故か腰を小さく振って踊り、テンションをさらに高める茅。手の甲を額に当ててよろめく高瀬直太。冗談なのか本気なのか分からないことを平然と言う七後。そして俺はというと、それらを傍観しながら、
ズキッ
無言。
心臓の痛みと圧迫感が一段と激しくなり、声を出すどころではない。何がどうなっている?
「あたしはホヨと由花も呼ぶなんて一言も言ってないんだから、勘違いしたのは直太くんだよ。あたしが罠にかけたみたいな言い方はやめ…ほしいなぁ。でもでも、ど……よっか? 結局四人………ちゃったしね。せっか……からホ………花も一緒に……? そ…だ、……ね、こないだ………で観た映……………って、そ……続…がいま………るんだって。ねぇ、……………」
視界がたわむ。耳鳴りがする。茅の声が電波環境の悪いラジオみたいだ。足の感覚も不確かになる。俺は立っているのも難しくなり、手近にある柱に寄りかかった。今度は何だ? どうした?
ズキッ
まただ。いや、ずっとだ。この痛み。
「小向、お前顔色………? こな……からずっと調…………た……けど、…院とか………………か?」
胸を押さえて屈んでいる俺の顔を、高瀬直太が駆け寄って覗き込んできた。言葉は半分くらいしか聞き取れなかったが、表情から内容を察することは可能だ。自分に心配されるなんざ御免こうむる。
「だ、大丈夫、だから」
俺は肺の空気を振り絞って答えた。
実のところ全然平気ではないし、こんな状態で強がっても高瀬直太相手には逆効果なのは分かっていたのだが、これ以外に言葉が思い付かなかった。俺の知っている小向は、俺の目の前で苦しそうな様子を見せたことがないからだ。
ズキッ ズキッ
早く、早く治まってくれ。これさえ無ければ普通に、自然に、小向保世として振舞えるんだ。目立つことなく。
だが俺の願いとは裏腹に、身体はますます重く熱くなっていく。周りの雑音は殆ど聞こえなくなった。どうにかこの場を離れようとするが、動けない。辛うじて開けていた目には、高瀬直太の姿が大きく映っている。感覚が覚束ないから定かでないが、高瀬直太が俺の両肩を掴んで何やら喚いているらしい。
ズキッ ズキッ ズキッ
……離してくれ。離せ。一刻も早く、どこか安全な場所へ逃げたいんだ。こんなに人の多いところでお前に気を遣われたくはない。俺を目立たせるな。俺の気も知らないくせに、いつもいい顔しやがって。離せ、離せ、離せ!
「離せよ! 大丈夫だって言ってるだろ! 何も知らないくせに出しゃばるな! 俺のことは放っておけえぇぇえ!」
俺は突如として湧き上がった激情を止める術を知らず、暴れさせるままに吐き出した。同時に俺は高瀬直太の腕を振り払い、背を向け、何かに突き動かされるように人混みへ向かって走り出す。
でも、足が、腕が、心臓が、重い。
深く目を閉じる。
気が付いたら俺は、小向のベッドで横になっていた。外はもう暗い。カーテンを閉めていない窓からは、向かいの家の灯りが見えている。……どうやって小向邸に帰ったのかは憶えていない。多分誰かに運ばれたんだろうが。
しかし今日といい昨日といい、俺が小向になったあの日といい、どうも記憶が途切れがちだ。えっと、確か、七後と歩いていたら、駅前で高瀬直太と茅に会ったんだよな。それで……思い出した。気分が悪くなって、苛立って、つい高瀬直太を男言葉で拒絶してしまったんだ。
頭を抱える。しくじった。今までずっと小向として目立たないようにしてきたのに、これで台無しだ。
いきなり胸が痛くなったことは予期していなかったが、しかしその程度であれほど心乱れたのは何故だ? 俺は自分を、そうそう我を忘れることはない人間だと思っていた。だがあのときはどうにも意識の自由が利かなくなって、まるで自分の身体じゃないみたいに半ば勝手に動いて……。
よく考えたら当然か。この身体はあくまで小向のだ。俺の本来の身体じゃない。だとしたら、あの暴言は小向が俺に言わせた台詞だということか?
まさかあの小向がそんなことはしないだろう、と言いたいところだが本当にそう断言出来るか? あの利一の妹だぞ? 実際問題、あの人畜無害な笑顔の奥で何を考えていたのか、誰にも分からない。高瀬直太に向かって口走った「何も知らないくせに」がそのまま俺にも跳ね返ってくる。自己嫌悪。小向が日頃から感じていたことも、俺が小向になった理由も、俺は何も知らない。分からない。早く、どうにかして、その原因を突き止めなければならない。だが、答えに続く糸口が欠片も見えない。
それとも、答えは意外と近くにあるのか? 実は答えに限りなく近いヒントを既に見付けていて、馬鹿な俺が理解していないだけなのかもしれない。……探偵ドラマの観過ぎか? 第一、これが事件だとして、加害者は誰だ? 被害者は誰だ? まさか俺が知っている小向保世という人格は存在しなくて、俺こそが小向保世本人で、全ては記憶障害になった俺の妄想だというオチにはなるまいな。
……などとベッドの上で悶々としても無意味だ。いや、ベッドの上で悶々と、と言っても怪しい意味じゃないが。とにかく記憶の抜け落ちた部分を確認する必要があるだろう。
俺は鉛のような手足を布団に擦らせて床に降り、腰と膝に力を込めてどうにか立ち上がった。机の上に置いてある携帯にはメールの受信を報せる光が点滅していた。
開いてみると一件。七後からだ。