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高瀬直太編 第11話「届かなかった言葉」

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『ごめん』
 本文にはたった三文字、謝罪の一言が表示されていた。何故七後から謝られるのか分からない。まさか俺、高瀬直太だけでなく七後にも変なこと言ったのか? ……だとしたら、謝るのは逆に俺の方だよな?
 一応電話してみよう。
『……保世?』
 四回目のコール音の後で繋がった。
『ごめん……』
 俺が事情を訊ねるより先に、七後はメール文と同じ台詞を小さな声で呟いた。
「な、なんで、由花ちゃんが、謝るの?」
『……私の気持ちの問題』
 なんだかすっきりしない返事だな。もうこうなったら、少し突っ込んで質問した方が良さそうだ。
「あ、あのね。こんなこと聞くと、おかしいって、思われるかも、しれない、けど、わ、わたし、あの後、どうした、のかな?」
『あの後、とは?』
「わたしが、駅で、高瀬くんに怒鳴って、それから……。じ、自分でも、信じられないんだけど、それから、どうやって、家に帰ったか、お、憶えて、ないの」
 それからしばらく七後は無言だった。ただでさえ読みにくい意図が、顔が見えないから余計に分からない。
「もしもし、由花ちゃん?」
『……本当に、保世は憶えていない?』
「う、うん」
 俺の記憶が欠けているのは事実だ。すると七後はまた少し黙ってから、今度ははっきりと言った。
『明日、ゆっくり話をしたい。そのときに。今日は、おやすみ。身体には気を付けて』
 そして俺の返事を待たずに通話を切った。もう一度電話をして問い詰めようとも思ったが、七後はあれで頑固な奴だ。今日のところは何も話してくれないだろう。だが、話の雰囲気からして何かを知っていそうだ。明日を待とう。
 それまでにすることは、そうだな……高瀬直太にちょっとフォローの電話でも入れておくか。
 と、思ったのも束の間。アドレス帳に高瀬直太の名前が無いことに気付く。それもそうだ、教えてないからな。だとすると、ここで電話をするわけにはいかない。どうしたものか、などと頭を悩ませていると、手に持っている携帯が震えた。茅からの電話だ。
「み、美月、ちゃん?」
『もしもし、ホヨ? だいじょぶ? 車にひかれたりとかしてない? っていうか、こうして喋ってるんだから大丈夫だよね。今どこ? 家?』
「あ、うん。家に、いる」
『よかったぁ! ちゃんと帰れたんだ……。ぼーっとしてたみたいだったし、心配だったんだよぉ。だからたまらず電話しちゃった。迷惑じゃない? 時間ある?』
 茅の声には心底からの感情がこもっている。少なくとも俺はそう感じる。だから心配されているのが俺でも、小向でも、純粋に嬉しさが込み上げてきた。
 それはそれとして、やはり聞くべきことは聞かねばならない。俺は「ありがとう」を言った後で、さっき七後にしたものと同じ質問を茅にもしてみた。
『え? あ~、そうなんだぁ。放心状態ってのはよく聞くけど、そんな感じなのかなぁ? 憶えてないってのはすごいね。ま、あたしも階段のときのあれがあれだから、ひとのこと言えないんだけどね。それで、えっと、そうだなぁ……』
 茅は電話越しに、うーん、とワンクッションを置いてから話を続けた。
『ホヨが直太くんの手を払って、走り出したの。そこまではホヨも憶えてるんだよね? でもその後すぐに止まってしゃがみ込んじゃったのよ。周りにいっぱい人が歩いてる真ん中でね。んで、由花がホヨに駆け寄って、あたしと直太くんも行って、どうしたんだっけ? あ、そうそう、あたしらが行ったときにはもうホヨはゆらっと立ち上がって、そのままふらっと歩き出してたの』
 相槌を打ちつつ、茅の言葉から状況を整理する。通行人の中で座り込んだというのは、おそらく俺が走りながら身体の重さに耐えかねて目を閉じたときのことだろう。そこまでは分かる。だがその後、俺は意識も無いのに立って歩き出した? それで家まで?
 そんなことがあり得るのか?
「美月ちゃん、そ、それ、本当?」
『ほんとだよぉ。あたし、ホヨにウソ言ったことないもん。えっと、それでね、あたしと直太くんはホヨのこと呼んだんだけど、ホヨったら振り向いてくれなかったじゃない? けっこう大きな声で言ったつもりなんだけど、聞こえなかったのかなぁ?』
 振り向いてくれなかったじゃない? と確認を求められたところで、俺にはそこの記憶が跳んでいるのだ。
『あ、そっかそっか、そうだよね。憶えてないからあたしが喋ってるんだっけ。それであたしと直太くんはホヨを追いかけようとしたんだけど、由花ったらどうしてか止めるのよ。今は刺激を与えないでほしい、頼むからそっとしてあげてって、そんな感じのこと言ってた。あたしはあんな様子のホヨは初めてだったから心配だったけど、由花は一番ホヨと付き合い長いし、由花が言うならってことにしたの』
 七後が、茅と高瀬直太を、俺から遠ざけた? 何故? 何のために? やはり七後は、小向に関する重要な事実を知っている?
『あたしが見たのは、そこまでかなぁ。由花はすぐどっか行っちゃったし。もうこれからデートって雰囲気じゃなくなって、あたしと直太くんもそこで解散しちゃったから』
「ご、ごめんね。邪魔しちゃって」
『うぅん、いいのいいの。そりゃま、残念っちゃ残念だけどね。でもそれでホヨに自分を責めてほしくないなぁ』
 声からだけでも、ほころぶような茅の笑顔を想像出来た。俺は改めて、小向はいい友達を持ったものだと安心しつつ、せっかくだからもう一つ質問をした。
「そ、そうだ。美月ちゃん、高瀬くんの、電話番号、し、知ってる、よね? お、教えて、くれるかな? 高瀬くんには、ひどいこと、言っちゃったから。あ、謝り、たくて」
『いいけど……あ、ホヨは直太くんのケー番知らないんだっけ? ちょっと待って。えっと……、…………。うん、それじゃ言うよ。いい?』
 茅がゆっくりと読み上げる番号は、俺自身には馴染みのものだった。しかしこうして第三者から聞いておかないと、小向が高瀬直太の番号を知っている理由が生まれない。
「あ、ありがと。ちょっと、高瀬くんと話して、くるね」
『うん、そうしなよ。あ、そうだホヨ……』
「ん?」
『……あれ? あたし今、何言おうとしてたんだっけ?』
 おいおい。
『あはは、ごめん。あたしも変だね。忘れてよ。思い出したら言うから。そ、れ、じゃ、明日学校でねぇ』
 少しの間を置いて通話は切れた。俺は一息吐いてから高瀬直太に電話をかける。……、……、……繋がらない。
 時計を確認して納得した。いつもの高瀬直太なら晩飯を食べている時間だ。後でかけ直そう。その前に、俺も腹を満たしておくか。


 部屋を出ても、家の中は真っ暗だった。どうやら利一はいないらしい。もう寮にでも帰ったかな。
 台所の食卓には「朝ごはんは冷蔵庫に入れてあるよ。暖めて食べてね」との書き置きがあった。炊飯器にはご飯も残っている。……まあ、あれだ。利一は利一なりに妹の身を案じているのだろう。あまり食べ物を粗末にするのもよくないし、食ってやるか。
 電子レンジの中で回る鯵の開きを眺めながら考える。これまで何度考えても正解が出ない設問だ。俺に起こった異常事態の原因は何か。決定的な何かが足りない。本当に答えが見付かるのかさえ不確かだ。
 それはそれとして、一通りのおかずを温めてご飯をよそい、箸を付けた。
 ……何だ? ご飯を噛んでも砂みたいで味気が無い。魚は、血の臭いがして気持ち悪い。どうにか飲み込んでも、胸に不快感が残る。火は、ちゃんと通っているみたいだが、もしかして腐っていた? 味噌汁はまあ飲めるがやっぱり不味い。泥みたいだ。ホウレン草のおひたしを口に含んだところで、とうとう身体が拒絶反応を示した。瞬間的に、口の中の食べ物を汚らしい異物であるかのように感じ、そのまま食卓に吐き捨てた。喉が熱い。腹が痙攣する。俺は堪らず椅子を倒して立ち上がり、流し台に走って、胃の中が空になるまで身体の命令に従った。涙が出る。咳が止まらない。
 口をゆすぎ、肩で息をしながら流しを洗う。何故だ。食材が傷んでいたのか? あれ全部がまさか? それとも、利一が俺に毒でも盛ったとか? いやいや、それこそまさかだ。意味が分からない。だったら何だ! 病気か? そう言えば、昼から何かおかしかったな。だとしてもせいぜい胃潰瘍くらいであることを祈るぜ。若くしてガンとかじゃないだろうな?


 残した料理を全て苛立ち紛れにゴミ箱へ打ち捨て、俺は空腹のまま部屋に戻った。そして改めて高瀬直太をコール。今度はすんなり繋がった。
「も、もしもし、高瀬くん?」
『そうだけど。……その声、ひょっとして小向か?』
「う、うん。急にごめんね。今日、わたしのこと心配してくれたのに、怒鳴っちゃって、それを、謝ろうと思って。ば、番号は、美月ちゃんに、訊いたの」
『ああ、そうなのか……。確かに小向があんなこと言うのは予想外だったから驚いたけどな。いや、でも、俺の方こそお前の気持ちとか考えなくてわるかったよ。お前にもいろいろと事情があるんだろうし。あ、それより、お前は大丈夫なのか? なんか今日のお前、あのときとそっくりだったぞ』
「あ、あのとき?」
『ほら、小向、この前学校で倒れたろ? その日のお前の様子と、今日のお前がふらふら歩いていった様子が、似て見えたんだよ。心ここにあらずって言うのかな』
 ……そうか、そうかもしれない。だとすれば小向も、あの虚ろな目になる前に、俺が感じたものと同じ胸の痛みや身体の重さに苛まれたのだろうか。
『まあ、本当にお前が平気だって言うならいいんだけどな。それは置いといて、俺からもちょっと小向に聞きたいことがあるんだが、いいか?』
「うん。な、なに?」
『七後から教えられはしたけど、やっぱりお前からも聞いておきたいんだ。嫌なこと思い出させるかもだからわるいんだけどさ。昨日の夜、犯人をメッタ打ちにしてた男は、小向の兄貴なんだよな?』
「そ、そうだよ。どうして、そんなこと、聞くの?」
『……あ、いや、別に、ただ確認したかっただけだ。それともう一つ』
 高瀬直太は俺の問いかけに少し言いよどんだかと思うと、別の質問で話を逸らした。
『こないだの電話、あれ、何の用だったんだ?』
 訊かれている意味が理解出来なかった。こないだ? 確かに俺は一時間くらい前にも高瀬直太に電話をしたが、普通はそれを「こないだ」とは表現しない。
『ほら、お前が学校で倒れた日の前だよ。だから水曜日の今頃か? 俺あのとき風呂入ってて出られなくてさ。誰の番号だか分からなかったから折り返しをしなかったのはすまん。今これにかかってる番号と同じだったから、あれ、小向だろ?』
 ……待て、待てまて。そうだ。あのとき、風呂から出ると知らない番号から着信があったのは憶えている。それが、小向からだった? どうやって? いや、方法は問題ではない。今日の俺みたいに誰かから番号を聞けばいいだけのこと。
 問題は……何故?
 あのとき、俺が小向になる前日に、小向は俺に何を伝えようとしていた? 言い換えれば、あいつが初めて俺に電話をしたその翌日に、俺は小向になったんだ。これは何を意味している? きっと何かはあるはずだ。でも何が!
「……分からない……」
『分からないって……お前のことだろ?』
「ち、違う」
 高瀬直太の言っている「お前」は俺ではない。
『お前、やっぱりあの辺りからずっと変だぞ。俺に、っていうか俺たちに、何か隠してることあるだろ?』
 隠し事がある。否定は出来ない。言葉に詰まる。
『小向……。お前にはお前の考え方があるし、事情があるだろうよ。もちろん誰にだって隠し事くらいあるさ。それは仕方ねえ。でもそれが悩み事とかだったら、やっぱり誰かに相談するのが手だぜ。俺はもちろん力になるつもりだし、俺に話せないことでも、茅とか、七後とか、本気で親身になってくれる友達がいるだろ?』
 正論だ。立場が逆なら、俺も同じことを言っただろう。だが俺の状況を誰にどう説明すればいい? それに七後は、いや七後こそ、大事なことを知りながら黙っている節がある。誰を信じればいい?
『まあ、俺がこんな偉そうなこと言えた義理じゃないんだろうけどさ。とにかく、元気出せよ。また明日な』
 黙っている俺の態度をどう受け取ったのか、高瀬直太はやや沈んだトーンで喋って通話を切った。
 俺はしばし呆然とする。
 四日前に小向が俺に電話をしていた。いや、でも、俺が小向になったその日に携帯をチェックしたが、発信履歴に高瀬直太の携帯番号は無かったはずだ。現に今も、履歴には四日前の発信なんか……無い。もちろん無い。
 ここで、はたと気付いた。履歴なんか、簡単に削除出来る。出来てしまう。するとここで持ち上がるもう一つの疑問。何故小向は、俺に電話したという事実を隠しておかなければならなかったか。誰かに見られないため? その誰かとは? 誰だ?
 明白だ。一人いる。夜中の三時に妹の部屋へ入り込んで、携帯を覗き見る偏執的な「お兄ちゃん」がいる。問題は、問題は……。脳みそが熱い。何だ? どうもこの前からずっと、大事なことを考えようとする度にこの感覚が訪れて、思考が中断されている気がする。これもそうか? 小向の身体がそうさせるのか? それとも何かの病気か?
 ちくしょう!
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