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小向保世編 第1片「世を保つ」

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 ――以下、小向保世の日記から一部を抜粋――

 《一冊目 1ページ》
 はじめに、わたしが日記をつけるようになったきっかけと、その原因をここに書きます。いつかまた読みかえして、思い出すためです。
 始まりは本当に小さなことだったと思います。わたしはもの心ついた頃から、他人と接することが苦手でした。特に、男の子とは、向かい合うだけでも体がキュッとちぢこまりまっていました。理由は小さい頃、変な名前だとからかわれていたからです。生まれつき人見知りだったのもあります。もしかしたら、ようち園の男の子たちは、わたしがあまり自分から友だちを作ろうとしなかったから、わざとからかって話しかけてくれたのかもしれません。もしかしたら、名前のことでしつこくからかわれたから、人見知りするようになったのかもしれません。どっちが先なのか、本当はどうなのか、分かりません。よく思い出せません。女の子たちとも、あんまり楽しくしゃべったことがありません。どうしてかは分かりません。おぼえていません。
 とにかくわたしは、他人に近付くことを怖く思っていました。だからまだ小学校に入る前、わたしはお兄ちゃんに甘えてばかりいました。お兄ちゃんも、わたしを気にかけてくれました。わたしが泣いてようち園から帰ってきたときにいつも、なぐさめてくれたのはお兄ちゃんでした。初めてのおつかいのとき、一緒に付いてきてくれたのもお兄ちゃんです。お兄ちゃんはよく、わたしが困っているときには必ず助けに来てくれると言ってくれました。公園で年上の男の子たちからいじわるをされていたとき、お兄ちゃんがかけつけて来て、男の子たちをやっつけてくれることもよくありました。
 わたしは、お兄ちゃんが大好きだったのです。お父さんとお母さんがお仕事でよく家を空けていたこともあって、わたしにとって一番の心の支えはお兄ちゃんでした。お兄ちゃんだけだったと言っても言いすぎではありません。
 それがいけなかったのだと思います。お兄ちゃんがああなってしまったのは、きっとわたしの甘えのせいです。
 小学校に上がると、わたしとお兄ちゃんが一緒にいる時間はさらに長くなりました。わたしが一年生のとき、お兄ちゃんは四年生でした。それでも、昼休みはいつもお兄ちゃんといたおぼえがあります。もちろん、登下校の時間も同じでした。わたしは、自分の授業時間が終わったら、図書室でお兄ちゃんを待っているのが日課でした。そういうわたしのたいどが、他人とのきょりをさらに大きくしていたのだと、今となってはよく分かります。
 わたしが四年生になったとき、お兄ちゃんは中学生になりました。お兄ちゃんとしかうまく話せなかったわたしに、友だちはいませんでした。
 五年生になってから間もなく、塩田くんという男の子が、わたしに話しかけてきました。最初は怖くて、いじわるをされるんじゃないかと思って、黙っていることしかできませんでした。今までに、こうしてわたしと友だちになろうとしてくれる人はたまにいましたが、わたしにはそれに応えることができませんでした。みんな、ちっともうちとけられないわたしを遠ざけるようになりました。いつもそうでした。別に、一人でいることがイヤなわけじゃありません。それどころか、心地良く感じてもいました。
 でも塩田くんは、他の人とは違いました。どんなにわたしが「おはよう」に対して、目をそらすことでしか返せなくても、塩田くんは何度もわたしにしゃべりかけてくれました。わたしをからかったり、いじめたりはしませんでした。いつの間にかわたしには、塩田くんに怖さを感じなくなっていました。わたしから勇気を出して「おはよう」を言ったときには、さわやかな笑顔をかえしてくれました。
 いつの間にか塩田くんは、わたしにとって、お兄ちゃんと同じくらい大きな存在になっていました。お兄ちゃんのいない学校へ行くのも、苦にならなくなっていました。
 今なら、はっきりと言えます。わたしは塩田くんが好きです。そしてきっと塩田くんも、わたしのことを。
 だからこそ、わたしはこの日記を書くのです。
 夏休みになってからも、塩田くんはわたしを遊びにさそってくれました。塩田くんと二人だけでいることもありました。塩田くんの友だちも合わせて、大勢で遊ぶこともありました。男の子の遊びに付き合うのにはなれていなかったけど、女の子の遊びもあまり好きではなかったので、どちらでもよかったのです。そこに塩田くんがいるなら、どちらでもよかったのです。塩田くんの友だちは、女の子のわたしが混ざることをイヤがっていましたが、それでも塩田くんはみんなと話して、わたしを混ぜてくれました。
 木に登って葉っぱがかみにからまったり、走って転んでひざをすりむいたりもしました。わたしはそれでとても楽しかったのですが、お兄ちゃんは、わたしをそんな目に合わせる塩田くんをあやしんでいたようです。それなのにわたしは、塩田くんに近付くことを止められませんでした。
 だから、わたしが悪いのです。夏祭りの日、神社の石段の脇の木のかげで、塩田くんからキスを求められたとき、小学生のわたしたちにはまだ早いと思いながらも、ことわれなかったわたしがバカでした。お兄ちゃんが後をつけているのにも気付かず、受け入れてしまったわたしがいけないのです。
『何をしているのかな?』
 落ち着いた声で言ったお兄ちゃんの、どこを見ているのか分からないような顔が忘れられません。
 ゆるしてなんて言えません。ただ、あやまらせて下さい。ごめんなさい。お兄ちゃんが塩田くんの頭を、おなかを、何度もなぐりつけているのを、見ていることしかできませんでした。ごめんなさい。塩田くんが血を吐いていても、止められませんでした。あれほど冷たい目で、もくもくと人を打ち続けるお兄ちゃんを見たのは初めてです。止めなきゃと思っても、足がガクガクして、むねが痛くなって、声が出なくなりました。ゆるしてなんて言えません。ごめんなさい。
 塩田くん、おみまいに行くこともできなくて、ごめんなさい。わたしは明日、遠くの町に行きます。九月から、新しい学校に通います。もう二度と、塩田くんみたいな人を出さないようにします。お兄ちゃんに、人を傷つけさせないようにします。わたしは新しい生活をしなくてはいけません。もう二度と、塩田くんと会うことはないでしょう。
 わたしのことは忘れてください。

 《一冊目 9ページ》
 今日は、メガネ屋さんに行きました。遠くが見えにくくなったと、お父さんとお母さんにウソをつきました。
 できるだけ格好わるくて、不細工なメガネが必要です。これから先、男の子たちが、わたしをそういう目で見ることが増えるかもしれません。そうならないように、間違ってもわたしが美人だとか、かわいいだとか言われないようにしなければならないからです。もしわたしの心が弱ければ、また恋をしてしまえば、いずれその人が傷つきます。本当に深くて大きな傷を与えることになります。お兄ちゃんの冷たい目を、わたしはもう見たくないのです。そのために、わたしができる限りのことはしようと思います。
 買ったのは、ふちが黒くて、厚くて、レンズが丸いメガネです。かがみの前でいろんなメガネを試して、顔のりんかくがぼやける物をえらびました。店員さんは、もっときれいでかわいいデザインのものをすすめてくれましたが、わたしにはこれでなければダメなのです。
 でも、メガネをかけていると目がクラクラします。明日か明後日に、別のメガネ屋さんで、度の入っていないレンズを作ってもらいます。

 《一冊目 13ページ》
 明日から、新しい学校です。目立たないようにしなければいけません。でも、一人きりでもダメです。それだと、ようち園のときと同じだからです。好かれてはいけません。きらわれてもいけません。きっと、わたしを好きになる男の子を、お兄ちゃんは傷つけます。もちろん、わたしをいじめる男の子も、お兄ちゃんは傷つけます。わたしが何もしなければ、お兄ちゃんは何もしません。わたしが何もされなければ、お兄ちゃんは何もしません。
 わたしがお兄ちゃんから、他のみんなを守るのです。わたしがしっかりしていればいいのです。
 できるかな? やらなくちゃ。きっとできる。だって、わたしの名前は保世だもの。世を保つと書いて、保世。でも、わたしは自分の名前がきらい。この変な名前のせいでずっとバカにされてきたんだから。
 そうだ。名前を変えればいいんだ。せっかく遠い町に引っこしてきたんだから。読み方を変えるだけなら、どうにかなるかもしれない。前からおかしいと思ってた。わたしの名前、保が音読みで、世が訓読みで、バラバラだもの。じゃあどうしよう。「たもよ」だともっと変。「ほせ」だと外人みたい。
 お兄ちゃんの漢字辞典をかりて調べてみると、ちょうどいいのが見つかった。保を「やす」って読めばぴったり。これにしよう。これにします。
 明日からわたしは「こむかいやすよ」です。
 少しずつ内緒で、卒園式のアルバムや、低学年のときの教科書を捨てていこうと思います。

 《一冊目 23ページ》
 わたしが考える新しい生活を続けるには、どうしても女の子の友だちを作る必要があります。男の子と付き合うことができない以上は、女の子のグループに入らなければいけません。でなければ、また一人です。
 一人はイヤではありません。でも、ダメです。女の子の中にも溶け込まない女の子は、どうしても目立ちます。今日、同じクラスの七後さんを見てて、それに気付きました。七後さんは、休み時間になると一人で、ごの打ち方を研究しているふしぎな子です。
 わたしは女の子と話を合わせるのが好きではありません。どうしてだか分かりませんが、苦手なのです。だけど七後さんには、あまりそれを感じません。明日、自分から七後さんに話しかけてみようと思います。

 《一冊目 34ページ》
 七後さんと一緒にいると、とても楽でいられます。他のみんなと違って、前の学校のこととか、転校してきたわけとか、わたしが話したくないことを全然聞いてこないからです。
 どうして転校してきたのか聞いてくる人には、お父さんの仕事の都合と答えています。お父さんの仕事が何かと聞かれたら、よく分からないと言っておきます。本当のことなんて、言えるわけない。塩田くんやお兄ちゃんのことを話せるわけがない。絶対に、絶対に、秘密にしておかなきゃいけないんですから。
 だけど、そうやって昔のことをかくして人にウソをつくたびに、胸がキュッと痛くなります。この痛みは、きっとわたしへの罰に違いありません。

 《一冊目 50ページ》
 今、朝ごはんを食べる前にこれを書いている。昨日の夜じゃなくて、多分、今日の日が出る前、お兄ちゃんがわたしの部屋に入って、机とかランドセルをあさってた。わたしはねたふりをしてたけど、お兄ちゃんは何を探してたんだろう。前にも同じようなことがあった気がする。そういえば、塩田くんのときも同じだった。夏祭りの少し前、わたしがねてる間に、部屋に入って何か探してた。
 なんで今日? そういえば昨日、七後さんのことを友だちだって言ったけど、まさか七後さんを男の子だと思ってる? また塩田くんみたいなことになると思ってる? 
 それに、この日記。ベッドの下にかくしておいたから見付かりはしなかったけど、このままじゃ時間の問題。
 なんとかしなきゃ。

 今日から、七後さんを「由花ちゃん」と呼んでもいいことになりました。これからはそう呼びます。由花ちゃんも、わたしのことを「やすよ」と呼んでくれます。
 そして、由花ちゃんを家へ遊びにさそいました。うれしくて、まい上がったというのはあります。でも、今朝のことがあるから、早くお兄ちゃんと由花ちゃんを会わせておきたいのです。純粋な気持ちで由花ちゃんをさそっているわけではないので、ちょっと心苦しいのですが、仕方ないのです。
お兄ちゃんは由花ちゃんを見て、少しは安心したようです。今回はどうにかなりましたが、これからも気が抜けません。事実がどうでも、お兄ちゃんが勘違いしたまま動いてしまえば、意味が無いのですから。

 《一冊目 53ページ》
 わたしが学校に行っている間、この日記は、ベッドの下にかくしています。でもこの前から、誰かが、お兄ちゃんがこっそりそれをのぞき見ているのではないかという考えが頭からはなれません。由花ちゃんを部屋に入れたときも、わたしがトイレに行っているうちに見られていたのではないかと、気が気でなりません。気にしすぎだと自分に言い聞かせても、どうにかしなければ、どうにもなりません。

 《一冊目 71ページ》
 日記をどうにかする方法が、ようやく見付かりました。
 図工の時間、木の板で小さな収納箱を作るとき、由花ちゃんが家から金具を持ってきて、自分なりに改造をしているのを見てひらめきました。かくす場所がないのなら、作ればいいのです。
 今度の日曜は、ホームセンターに行きます。

 《一冊目 119ページ》
 久しぶりに帰ってきたお父さんが、好きなドラマの二時間スペシャルを見ていました。わたしは別に好きではないけれど、一緒にそのドラマを見ていました。犯人が人をなぐってころしているシーンを見たとき、とつぜん胸が痛くなりました。なぐられている人の頭から血が出ているのを見て、息が止まりました。作り物だと分かっていても、どうしても、塩田くんのことを思い出してしまいます。わたしがいけないのです。そう考えると、わたしの体はあのときと同じように手足がふるえて、息をするのも辛くなります。
 今も、しゃっくりが止まらないまま、これを書いています。
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