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小向保世編 第3片「芽生えた想い」

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 《二冊目 572ページ》
 夏休みに入ると、本を読む以外にすることがありません。学校へ行けない時間がやけに長く感じられます。由花ちゃんと遊べる日はまだいいのですが、家にこもっていると、本当に、何もすることが無いのです。
 こんな感覚は初めてです。去年も、一昨年も、ここまで明日を待ち望んだ夏休みはありませんでした。どうしてなのか、よく分かりません。去年までの夏休みは、気が付いたら大した思い出も無いまま過ぎていったような気がします。現に日記を読み返しても、これと言って特別な出来事は見付かりませんでした。塩田くんに会う前のことは、この日記を付ける前の細かいことは、よく憶えていません。
 ベッドで横になって天井を眺めていると、考えることさえも無くなって、時計の針の音がひときわ大きく聞こえました。

 《三冊目 14ページ》
 ようやく夏休みが明けました。学校にいる間は不思議と、気分が安らいでいられました。自分ではそれほど学校が好きだったとは思えません。それどころか、人間関係を一定のまま保つことに気を張らなければいけないので、ちっとも落ち着いていられない場所だったはずです。
 何故、今日に限ってそうなったのか、よく分かりません。

 《三冊目 33ページ》
 以前から、そんな気はしていました。それが表に出ないように押し込めていたのです。でもその無理な押し込めが、限界に達してしまいました。
 学校で、ことある毎に高瀬くんの姿を目で追っているのを、自覚してしまったのです。それも、ただの興味の域を超えて、明らかな好意が混じっていることさえも。
 学校だけではありません。休みの日だってそうです。わたしは、何か偶然でもあって高瀬くんに会えないかと思って、図書館への道を徘徊するのです。
 誰も好きになってはいけないのに、誰にも好きになられてはいけないのに、またしても。所詮わたしは女です。男の子を好きになって、自分の感情をコントロール出来なくなる、わたしの嫌いな女の一人です。人を好きになるということがどれだけ危険なことかも知らずに、いいえ、知っていながらそれでも、気持ちが溢れるのを抑えられないのです。もう限界です。でも、好きになってはいけない。

 それとも、いいのかな? あれからもう三年も経ったし、わたしももう中学生だもの。相手はあの高瀬くんだから、わたしの痛みや苦しみもきっと和らげてくれる。お兄ちゃんも高校生だから、もしわたしと高瀬くんがそういう関係になったとして、いくらなんでも前みたいに無茶なことはしないはず。うん、わたしが難しく考え過ぎていただけだったかもしれない。
 いいよね、塩田くん? わたしも、もう一度、人を好きになってもいいですよね?

 《三冊目 34ページ》
 何も知らずにいれば良かった。何にも気付かない振りを続けられれば良かった。
 夢を見ました。

 階段があります。上も下も端が見えません。神社の石段に似ています。上には、高瀬くんの後ろ姿が見えます。でも追いかけても、追いかけても、差がちっとも縮まりません。駆け上がろうとしても、足が重くて動けないのです。振り向くと、血だらけの誰かが、わたしの足首を掴んでいました。塩田くんです。わたしの足首にも、べったりと血が移っていました。
『俺をこんな目に合わせといて、お前だけ幸せになるつもりかよ?』
『お前なんかが、誰かを好きになっていいとでも思ってんのか?』
『俺はお前のせいで、野球も出来ない身体になったってのに』
 塩田くんの口から、そんな呪いと糾弾の言葉が漏れてくるのです。わたしは恐ろしさのあまり、その場に尻餅をつきました。上を見上げると、さっきまで見えていた高瀬くんの横に、もう一つの人影がありました。遠くからでも分かります。お兄ちゃんです。そしてお兄ちゃんは鉄の棒で、高瀬くんを、淡々と打ち続けるのです。

 目が覚めたときには、汗がびっしょりで、息苦しくて、胸が痛くて、目眩がしていました。これを書く前に、一度、胃の中を吐き戻しました。
 これはあくまで、わたしが見た夢に過ぎません。今さら、塩田くんがこんなことを言うとは限りません。いくらお兄ちゃんでも、あそこまで高瀬くんを傷つけるとは限りません。
 だけど、でも、こうはならないと誰が言い切れるでしょうか。わたしはまだ、塩田くんに許してもらっていません。わたしはもう、お兄ちゃんの考えていることが分かりません。この悪夢が、現実になる確率はゼロではありません。百分の一、一万分の一でも、恐れがあるなら、わたしは自分の気持ちを押し殺さなければいけないのです。
 高瀬くんがこの痛みを取ってくれるかもしれないと期待していたのに、それはあくまで一時的なものに過ぎなかったのでしょうか。いいえ、高瀬くんの気持ちも考えずにこんな一方的に望むこと自体が、おこがましいことだったのです。たった一筋でも、あなたに光を見出したからって、それを手に入れようなどと思ってはいけなかったのです。
 わたしは、なんて浅ましい。

 《三冊目 79ページ》
 今日は芸術鑑賞教室で『オズの魔法使い』の舞台を観ました。とても感動的で、面白いお話だったけれど、ちょっとだけ気になることがあります。
 ドロシーが最初に手に入れた、銀の靴。身も蓋もない言い方になりますが、あれの使い方をさえ知っていれば、かかしやライオンや木こりに会うこともなくカンザスへ帰れたんですよね。
 だったら北の魔女は、銀の靴の不思議な力を知らなかったのでしょうか。それとも、わざと秘密にしてエメラルドの都へ向かわせたのでしょうか。初めに出会ったのが南の魔女だったとしたら、彼女は靴の力を教えてくれたのでしょうか。
 この疑問を由花ちゃんに伝えてみると、由花ちゃんはしばらく黙って考え込んでから「遠回りしないと得られないものもある」とだけ答えていました。

 《三冊目 110ページ》
 今日はなんと、青い目の猫の方から近付いてきました。わたしが恐るおそる手を伸ばしてみると、寄って首をこすりつけてきました。胸がジンと熱くなりました。
 でも、この寒さであかぎれしている指に、短くて硬い毛がちょっと痛かったです。今度から、いつあの子に会ってもいいように、冬場はちゃんと手袋をしようと思います。

 《三冊目 147ページ》
 今からここに書くことは、わたしの妄想です。妄想だと自覚した上で、振り払えられない妄執です。
 いつでも、どこでも、お兄ちゃんがわたしを見張っているような気がします。人混みの中に、暗がりの中に、隠れて潜んでいるのではないかと、そんなありもしない考えが頭にこびり付いて離れません。視線を感じます。町で歩いているときも、似たような背格好の男の人とすれ違うと、思わず後ろを振り返ってしまいます。
 分かっています。いくらなんでも、わたしの行動を最初から最後まで、逐一見張っているなんてあり得ません。実際に後で確認すると、お兄ちゃんにはアリバイがあることがしょっちゅうです。わたしが気にし過ぎなのです。だけど、ほんの少しでも、あり得なくはないという思いがよぎってしまうと、不安が湧いて、拭いきれないのです。
 でも一番の不安は、わたしがそれに慣れてしまうことです。そこにお兄ちゃんがいるという幻覚に慣れてしまって、どうせ幻覚だからと迂闊な行動を取ったとき、もしそれが本当にそこにいるお兄ちゃんだったとしたら? 
 恐ろしいのは現実の中に幻が混じってくることではありません。幻の中に現実が潜んでいることなのです。万全を期すために、わたしはいつでも監視されているのだという心持ちを崩さないようにしなければなりません。

 《三冊目 155ページ》
 学校は好きです。由花ちゃんと話が出来るから。高瀬くんの姿を見られるから。お兄ちゃんがいないと、確実に言い切れる場所だから。
 だけど学校を一歩でも出ると、その反動が襲ってきます。
 今日、高瀬くんを見過ぎてはいなかったか? 誰かと喋っていて、高瀬くんの名前を頻繁に出しはしなかったか? 高瀬くんに話しかけられたときに、露骨に態度を変えはしなかったか? 半日の自分の行動を振り返って、不自然な振る舞いがなかったかと省みるのです。
 うん、大丈夫。今日は良く出来た。目立たずにいられた。だからきっと、明日も大丈夫。
 綿が水を吸うように、じわじわと上って来る不安を、自問自答してどうにか抑え込みます。抑えが効かなくなる前に朝を迎えて、学校へ行きます。
 由花ちゃん、高瀬くん、ごめんなさい。勝手にあなたたちを、精神安定剤として使っているわたしがいます。

 《三冊目 254ページ》
 春です。
 恋は麻薬のようなものだと、誰かが言っていたのを思い出しました。昔に読んだ小説の台詞だったかな?
 わたしもそう思います。
 好きな人の近くにいられれば、幸せな気持ちになります。もうそれだけで全てが満たされたような気になります。例えそれが錯覚だとしても。そして逆に、好きな人から離れれば、またすぐに会いたくなります。最初はただ見ているだけで充分なのに、いつしか独占したいと思うようになります。手に入れたい、手放したくないと感じるあまり、自制が効かなくなります。行き着く先は依存、もしくは破滅。それが自分独りにだけ降りかかるのだったら自業自得だけど、他人を巻き込む恐れもあります。
 だとしたら、恋は罪悪ですよね? 愛は強欲ですよね?

 《三冊目 301ページ》
 それが罪だと分かっていても、やはり気持ちは弱まりません。むしろ日毎に強くなっていきます。
 高瀬くんの声をもっと聞きたい。高瀬くんの肌に触れてみたい。高瀬くんの髪の匂いを嗅いでみたい。高瀬くんの、唇の味を知りたい。高瀬くん、高瀬くん、高瀬くん。

 気が付くと自分の指が濡れている。汚らわしい。自分の卑しさに嫌悪感が込み上げてきます。

 《三冊目 402ページ》
 罪を克服することも償うことも出来ないまま、また性懲りもなく同じことを繰り返そうとする。こんなわたしに、何の権利があるでしょう。わたしは生きている限り、必ず人を好きになる。きっと、恋をし続ける。仮に高瀬くんを諦めても、いつかまた。
即ち、生きることは罪なのです。
 これを自覚した瞬間から、ただの食事すらとても罪深い行為であるように思えて仕方がないのです。だって、物を食べるということは、他の生命を犠牲にして、自分の生命を長らえさせるということでしょう?

 《三冊目 484ページ》
 ――ここから数ページは、修学旅行のことが記述されている。それらのページは全て、小さく折りたたまれた跡がある。おそらく、旅行先でも隠れて書いていたのだろう――

 《三冊目 503ページ》
 ご飯を食べるのがとても苦しいです。砂を噛むように、味がしません。肉や魚は、血生臭さだけを強く感じます。牛乳や味噌汁など、液体のものはまだ平気ですが、それでも気持ちが悪いです。
 最近、およそ三日に一度は、深夜に突然目が覚めます。そうすると必ず、後から猛烈な吐き気が襲ってきます。わたしはお兄ちゃんに、お父さんやお母さんがいるときには二人にも、気付かれないよう細心の注意を払います。由花ちゃんに教えてもらった、足音を立てない歩き方を真似して、息を潜めながら階段を降りるのです。

 《三冊目 526ページ》
 夜のニュースで、大雨で川が増水している映像を見ました。
そのときどういうわけか、自分の肉体を流れる血液が罪で濁り、まるで汚らわしい泥水になっているように感じられました。自分がいつしか人間以下の、汚物を包む皮袋に成り果てているのではないかと考えてしまったのです。
 馬鹿な思い込みであることは自覚しています。だけどその妄念に耐えかねて、お風呂場へカッターを持ち込み、左腕を切りつけてみました。どうしても知りたくなったのです。自分の内側に流れる物が何なのか、開いて確かめたかったのです。刃を当てて引くと皮が簡単に裂けて、ズキズキ痛みました。でも、胸の痛みに比べれば軽いものです。
 傷口から流れたのは、紛れもなく血でした。赤い、人間の血です。わたしはまだ人間なのだと、皆と同じ人間なのだという安心感。それと同時に、失望感。わたしが既に人間まがいの存在だと明らかだったら、そのまま首を切るなり何なり出来たのに。人間なら、簡単に死ぬことさえも許されません。自殺は目立ちます。迷惑をかけます。
 わたしがいなくなったら、由花ちゃんはきっと悲しむでしょう。お兄ちゃんがどうなるのかは想像も付きません。お父さんとお母さんは、どうでしょう。仕事とはいえ幼い子供二人を置いて海外に行っていたような、お兄ちゃんが塩田くんを大怪我させたときには金を積んでうやむやにさせたような大人ですから、もはやどうでもいいです。高瀬くんには、むしろ、何も感じないでいて欲しいです。わたしの存在が、高瀬くんの負担になりませんように。
 いっそ本当に泥水が流れていたら、楽だったのでしょう。

 《三冊目 527ページ》
 特に書くことがありません。久しぶりに、夕飯の献立でも載せようと思います。
 冷奴/牛乳/ヨーグルト/塩せんべい
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