再び火曜日
ひとまず学校へ行くことにした。このまま家の中で塞ぎ込んでいるよりはマシだろうからだ。徹夜をしたにも関わらず、不思議と眠気はなかった。むしろいつもより興奮気味である。
小向邸を出る前、利一に電話をかけたが繋がらなかった。電源を切っているらしい。あの変態め。こっちから呼び出したいときに限って行方が知れない。なるべく早いうちにけりを付けたいところだというのに。
「タカオ。申し訳ないけれど、先に行っていてほしい」
「ん、どうした?」
「ちょっと、仕込みをしておく」
「仕込み?」
「保世が真の自由を得るためには、お兄さんと相対する必要がある。おそらく、一筋縄ではいかない」
そう言うなり七後は、通学路からふらりと離れて消えてしまった。なんだか知らんが頼むぜ。
昇降口近くの階段、小向が茅を突き落としたあの踊り場を通って、教室に入る。
「ホヨ、おっはよ~ぅ! あ、またまたイメチェン? うんうん、とってもキュート!」
俺が席に着くより先に、俺の姿を見つけた茅が懐っこく近付く。そして耳元に顔を寄せてきた。ゆるやかな髪が頬にかかる。……今日の茅は無造作ヘアーか。
「えっとぉ……タカオくん? 昨日はごめんね」
「あ、いや、気にするな」
小向が実は小向ではなく、しかも本物の小向が自分を階段から突き落としたなんて、そんな訳の分からない事態に冷静でいられる方が珍しい。むしろ逆に、茅の順応の早さに改めて感心する。
それから少し、茅と他愛のない話をした。そして先生が来てホームルームに入ったのだが……。
高瀬直太がいない。
あいつがいるべき席に、誰も座っていなかった。一週間前から、教室では必ず誰かが欠けていた。先週一杯は茅。昨日は俺。そして今日は、高瀬直太?
「高瀬くんは、午前中は病院へ寄ってから来るそうです。重たい風邪でも流行ってるんですかね? 皆さんも気を付けてください」
先生の言葉はいまいち緊張感が足りなかったが、俺には嫌な予感しかしなかった。漠然とした不安感だ。
高瀬直太のことは心配ではあるが、それはそれとして俺は、授業時間を睡眠に当てて英気を養う。
四限終了のチャイムが鳴った。
「お、小向。風邪はもう大丈夫か?」
昼休みに入って間もなく、後ろから声をかけられた。この声は、高瀬直太だ。
ズキッ
振り返った瞬間、胸の痛みが蘇ってきた。落ち着け。まずは事態をいい方へ考えよう。この痛みがあるということは、まだ小向の心がここにあることの証だ。
さて、それはそれとして、目の前の光景をどう捉えるべきか。高瀬直太の左目には相変わらずの眼帯。一日もすれば取れると言っていたはずのものだ。よく見ると、額や右頬にも傷が増えている。そして何より、高瀬直太の右腕は、ギプスがはめられていて、首からかけた白い布で固定されていた。指先も見えないほどにしっかりと覆われており、相当な深手を負っていることが窺える。
見るからに異常事態。こいつの身に何が起こったんだ?
「な、直太くん、どしたのぉ! 折れてる? 折れてるの?」
「ん? ああ、これか? ちょっと転んだんだ。骨にヒビが入ったみたいなんだよな。カルシウム不足かもしれん。でもまあ、安静にしてたらすぐ治るし、大丈夫だ。気にするな」
大興奮して問い詰める茅に高瀬直太は……気にするな、だと? いくら俺でも、それが事故なんかでないことくらいは直感で分かる。
「気にしないわけがあるか、バカ!」
自分でも驚くほど滑らかに、はっきりと、高瀬直太を叱りつける言葉が飛び出した。高瀬直太と茅は驚きに目を見開いている。
「そんな大怪我して、大丈夫なわけないだろっ! 一人で格好つけるな! お前はいっつもそうだ。他人の身を気にするばっかりで、自分が他人からどう心配されてるのかなんて、ちっとも考えて……」
喋っている途中で、何かが胸の奥につかえているのを感じて言葉が詰まった。小向の身体が、その先を言わせないようにしている? いや、これはそんな感じとは違う。何だ?
気にするな。
あ……これは、俺が朝、茅に対して言ったのと同じ台詞だ。
そして小向の日記にもあった。「わたしの存在が、高瀬くんの負担になりませんように」と。「誰にも気付かれることなく」消えたいと。
なるほど、そういうことか。どんなに苦しくても、他人に頼る癖が無い。それは俺も、高瀬直太も、そして小向もみな同じだ。余計に事態をややこしくすると分かっているはずなのにな。……だったら、まずは俺から変わろう。小向に、手本を示そう。孤独などではないと、今朝自分に言い聞かせたばっかりじゃないか。
胸のつかえが、解けて消える。
「こんな状態のお前に言うことじゃないかもしれないが……今しか、言う時間がないんだ。手遅れになる前に」
「ど、どうしたんだよ小向? また喋り方がおかしくなってるぞ。お前の方こそ、何があったんだ?」
困惑する高瀬直太の袖口を掴み、俺は頭を垂れた。
「頼む。力を貸してくれ。小向を、助けてくれ……」
「た、助ける? そりゃどういう意味だ。それに小向って、小向はお前だろ? 本当に、何があったんだよ!」
「詳しいことを話すなら、場所を変えた方が賢明」
いつの間にか俺の横には、七後が立っていた。七後は高瀬直太と茅にも目配せをし、教室を出た。周りの連中がザワついている中、高瀬直太は俺の手首を掴んで後を追う。
「あ~。みんな、うるさくってごめんねぇ。ちょっと、その、プライバシー的にアレな話だからさ」
茅は委員長らしく、場を軽く鎮めてから俺たちに続いた。
七後に誘導されてやって来たのは屋上だった。普通なら生徒は入れない場所だ。実際鍵はかかっていたのだが、七後がさも当然のように慣れた手つきで、胸ポケットから取り出した太めの針金で強引に開けてしまったので今に至る。
初めて見る屋上からの景色は、見事なまでの曇天だ。朝は晴れていたのにな。しかも雲の動きがやけに速い。
「なあ小向。助けるってのは、どうすりゃいいんだ? お前の身に何が起こってるんだよ」
最後尾の茅が扉を閉めたところで、高瀬直太が俺に問いかけてきた。こいつが訊きたがるのはもっともだ。だがその前に、
「はっきりさせなきゃいけないことがあるんだ。お前が正直に答えてくれるかどうかで、俺の答えも変わる」
「なんだよそれ……でもまあ、いいぜ。何だ?」
「その腕、やったのは誰だ?」
高瀬直太は身じろぎ、目を伏せ、左手でギプスを撫でた。
「……いや、さっき俺、言ったよな? ちょっと転んで、」
「やったのは誰だって訊いてるんだ。答えてくれ」
「高瀬、変な気を遣ってはいけない。語るならば真実を」
七後が俺の意図を汲み取って後押しをしてくれた。おそらく答えも予想済みだろう。高瀬直太はそれを受けて小さくため息を吐いた。ちなみに茅だけは不思議そうに首をひねっていて、事態を呑み込めていない様子だ。
「俺は、黙っていようと思ってたんだが、この際だ。……小向、お前の兄貴だよ」
高瀬直太は腹を括り、悔しそうな顔で話し始めた。やはり利一か。
「日曜日にな、お前らと駅で別れてから、ぶらぶら歩いてたんだよ。そしたら頭の悪そうな二人組の男が、大人しそうな男ともめてるところに出くわしたんだ。それで止めに入ったら、一人は見覚えのある顔だった。それが小向の兄貴だ」
頭の悪そうな二人組には心当たりがある。利一がそいつらと衝突したのはきっと必然だ。あいつは、あの人混みの中で、妹を尾けていたに違いない。
「それで……そうそう。偶然そこに七後も通りかかって、その場はなんとか収まったんだよな」
高瀬直太は首を回し、七後がそれに頷いた。……こいつが現れたのも、多分、偶然ではないような気がする。少なくとも日曜日のは、利一による被害を最小限に抑えるべく、水面下で動いてくれていた結果だろう。あくまで水面下で、だ。
「その日は何もなくて済んだんだが、昨日だな。俺が学校から帰ろうとしてたら、急に後ろから名前を呼ばれたんだ。……そういや、なんであいつは俺の名前知ってたんだろうな? まあ、それはそれとして、振り返ったら小向の兄貴がいたんだ。それから、何も言わずに俺を見てたんだよ。何の用かと俺が訊いても答えないしさ。あ、いや、何か違うな……」
突然何かを思い出したように、高瀬直太は眉をひそめた。
「違うって、なにがぁ?」
「うまく言えないんだが、俺の気のせいかもしれないけど……。小向の兄貴って、本当に俺を見てたのかなって気がしてさ。話してて一度も目が合わなかったような気もする。まるで、俺の後ろに誰かいて、そいつを見ているような感じだったんだよ。でも……他には誰もいなかったしなあ」
また奇妙なことを言う。
「でも、実際にお前は利一から襲われたわけだろ?」
「利一ってのが、お前の兄貴の名前か? まあ、そうだな。しばらくぼーっとつっ立ってたと思ったら、いきなりバールみたいなので殴りかかってきたんだ」
証言の中にある持ち物と行動からして、その男は利一で間違いないだろう。人違いという線はほぼ消えたな。
「さすがにやばいから、俺は全力で逃げたんだ。家が学校の近くで助かったぜ。それでまあ、どうせすぐに治ると思って一晩寝て、今朝起きたら腕がパンパンに腫れててさ。親父とお袋に見付かって、病院に行かされて、このざまってわけだ」
「直太くん。それって、ケーサツとかには言ったの?」
自分の命の危機を半分笑いながら話す高瀬直太に、いつも笑顔を絶やさない茅が心底心配そうな顔をしている。
「いや、言ってない」
「なんでぇ! 直太くんは、ホヨのお兄ちゃんにはなんにもしてないんでしょ? ホヨにだって、変なことしてないよね? なのにいきなりそんなことされるなんて、ホヨのお兄ちゃん絶対おかしいよぉ!」
きっぱりと言い切ってから茅は俺に振り向き、眉をひそめて失言を反省した。
「あ、ご、ごめん、ホヨ……。またあたし、言い過ぎちゃった、かも……」
いくら茅とは言え、昨日のことがある。まだ過敏になっているところがあるのだろう。それに茅は、小向が「お兄ちゃん」に対して持っていた本当の感情を知らない。
「警察権力や司法に解決を委ねるのは、法治国家の国民として正しい態度。だけどそれは、保世の心を救うことには直結しない。所詮は一時しのぎに過ぎないだろうし。最悪、もみ消される懸念もあるのだから」
七後は茅の肩に手を置いてなだめながら言った。
「由花ぁ、もみ消しって、あれ? あの、ドラマとかで、悪い金持ちとか偉い人とかがやってるやつ?」」
「そう、それ。お兄さんがこの近辺で傷害を起こしたのはこれが初めてではない。にも関わらず、表立って捜査が行われたことがないらしい。事前に裏金を積まれていた恐れがある」
高瀬直太が眉をひそめる。
「小向の家ってそんなに金持ちだったのか? まるで漫画だな」
「国内外にいくつも別荘を持っていて、資産を分散させているらしい。幅広い土地に影響力を持つのだとか」
そういうものなのか。昨日見た小向の通帳には……どのくらい残高があったっけ? あいつの本名の方に気を取られて、そっちは憶えてないな。そもそもこの話自体が、利一を警察任せにしたくない七後の出任せな可能性だってある。
「で、お前はそんなのをどうやって知ったんだよ。いち女子高生が知るレベルの話じゃねえだろ」
「人脈。お爺ちゃんの友達に、警察の内部事情に詳しい人がいる。気の合う囲碁仲間。……別荘云々の件は、保世のお父さん本人が酔っ払って話しているのを聞いた」
当然な疑問をぶつける高瀬直太に、七後はしれっと答えた。
「しかし現実問題として、焦点とすべきはそこではない。それよりも先に解決しなければならない問題がある。保世のお兄さんが、精神にある種の異常を抱えているのはほぼ確実。保世もそれを知った上で今までを生きていた」
「そういうものなのか? まあ確かに、初めて会ったときから普通じゃないとは思ってたが。……でも、だったら小向、なおさらあいつをどうにかしなきゃいけないんじゃないか? お前の大好きな兄貴だろ? このままだと、その兄貴が傷害事件で捕まるのは時間の問題だぞ」
高瀬直太はこの期に及んで、自分の身よりも小向の名誉が心配か。しかも当然のことながら、まだ小向をお兄ちゃん大好きっ子だと思っている。……この辺りのことは、そのままにしておこう。そこまで深い事情を伝えるとすれば、それは小向自身の意思で、だ。
だが、高瀬直太の言うことはもっともでもある。利一を止める。どうにかする。これは小向を助ける上で避けては通れない道。そうだ。だからこそ、こいつの協力がいるんだ。
「助けてほしいと言ったのは、そのことについてなんだ。……小向の心は今、身動きの取れない状態にある。利一という大きな壁に阻まれて、前に進めないんだ。小向は一度、兄貴と向かい合う必要がある。それも、一刻も早く。手遅れになる前に。多分……今のお前には俺が何を言っているかは分からないかもしれない。俺の口からは、全てを明かすことは出来ないから」
高瀬直太はもう、俺の喋り方や、俺が「俺」と「小向」を区別していることなどには触れずに聞いてくれている。しかし結局、こちらの肝心な部分は秘密のままだ。なんて虫のいい話だと思いながらも、俺は続けた。
「ただ、確実に言えるのは、利一がお前に襲いかかったということ。そしてそれが、小向にとって一番避けたいと思っていた事態だったということだ」
「保世のお兄さんがまだこの近くに潜伏、徘徊している可能性は非常に高い。さらに悪いことに連絡は途絶え、正確な居場所も不明」
俺と七後の言葉を受けて、高瀬直太は納得したようなしていないような、険しい顔をしている。……それもそうか。こっちは、具体的なことを殆ど話していないからな。
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「俺の傍を離れず、一緒にいてくれ」
男なら一度は言いたい、もしくは言われたい台詞だ。しかしそれは日常の場面でのこと。ここでは大きく意味が異なる。
「それは……いわゆる愛の告白、じゃないよな? さすがにこの文脈だと」
変な方向へ誤解されずに済んで一安心。俺が言いたいのは、利一をおびき出す餌になってくれということだ。おそらく今の奴は、高瀬直太を標的にしている。そうならないように小向は自らを抑えていたわけだが、結果的にはその最悪の状況になってしまった。ならばもう逆に、高瀬直太には目の届く場所にいてもらって、利一が攻撃してくる前に俺が止めるしかない。
「お前に危険を押し付けるみたいで悪いとは思うが、」
「いいぜ。そんなことならお安い御用ってやつだ」
俺の付け足しを遮って、高瀬直太は即答した。
「そんな簡単に、いいのか? 身を守る手段としては、茅の言った通り警察に頼るのが一番だ。それを敢えて、危険な目に遭ってくれってことだぞ?」
「別に、今から総理大臣になれとか、世界征服をしろとか、そんな無茶な話でもないだろ? だったら断る理由は無い」
高瀬直太は、歯を見せて笑った。断る理由が無い? これが、自分に非が無いのに腕を折られ、目を潰されかけた男の言う台詞か? こいつは本物の馬鹿だ。お人好しにも程があるぞ。
「頼む」
だが、それでこそ高瀬直太だ。これでこそ、小向の惚れた男だ! ならば俺もこれ以上、困った顔はしていられない。
「あ、だったらさぁ、あたしもなんか手伝えない?」
「美月は私と共に、別行動で重要任務」
「なにそれ、かっこよさそう! なんだか知らないけど任せてよぅ」
茅は茅で、このペースを崩さずにいてほしいと思う。
放課後は俺と高瀬直太、七後と茅の二手に別れた。放課後まで待ったのは、タイミングを合わせるためだ。利一だって、学校の授業時間くらいは計算しているだろう。
高瀬直太と二人、人目に付きそうなところを歩き回ったり、逆に人通りの少ないところへ入ったりしたが、奴が現れる気配は無かった。あいつならすぐにでも出てくるものと思ったが、読み違えたか? もしかしたら作戦変更が必要かもしれない。でもまだ、学校を出て一時間弱だしな……。
「雨、降ってきたな」
公園のベンチで頭を抱えていると、高瀬直太が手の平を上に向けて呟いた。直後に、俺の頭にも水滴が落ちる。空が黒い。そして瞬きを数回する間に、狙ったような大粒の雨が無数に降り注がれた。
小向にはすまないが、俺は高瀬直太を小向邸へ連れて行くことにした。このまま濡れネズミだと本当に風邪を引くし、公園からは小向邸が一番近い。
雨足は一層強くなり、小向邸に駆け込む頃には、まともに外を歩けないほど風も強くなってきた。窓ガラスが震えている。濡れた髪や制服から滴る水滴で、リビングの絨毯がびしょびしょだ。
半ば閉鎖されたこの家には、俺と高瀬直太の二人きり、か。俺が小向だったら普通にドキドキするシチュエーションだろうが、今は、あの変態がいつ現れるかとドキドキだ。……好きな男を初めて家に呼ぶという人生の一大セレモニーを、俺が勝手にやっちゃって本当にすまんな、小向。不可抗力ってことにしてくれ。
「わるいけど小向、タオル貸してくれないか?」
「あ、ああ、分かった。着替えも上にあるから、ついて来い」
本来なら客人である高瀬直太を玄関で待たせて、俺だけが上がって取ってくればいい話なのだが、今は事情が事情だ。外から見たとき、小向邸に電気は点いていなかったから、利一がここにいるとは思えない。だが、万が一ということもある。暗闇の中、物陰に隠れて、高瀬直太に一撃を加えるチャンスを窺っているとしたら? まして外はこの豪雨だ。小さな物音は紛れてしまう。一時たりとも高瀬直太から目を離すわけにはいかない。
高瀬直太に貸す服は、小向の親父のものを使えばいいか。二人で階段を上がり、まずは両親の部屋を開ける。恐るおそる電気を点けた。見回すが、利一はいない。タンスからシャツとズボンを拝借。
俺の着替えは、小向の部屋にしかない。警戒を解かないまま移動。部屋の電気を点け、見回す。利一の姿はない。これでひとまず安心だ。あいつだったら、妹の部屋の真ん中でつっ立っていそうだからな。さすがにそれは考え過ぎだったようだ。
「なんか……。『女の子の部屋』って感じだな」
興味はあるけど、あまりジロジロ見るのはわるい気がする。そんな思考ダダ漏れの顔をした高瀬直太が、率直な感想を述べた。……小向には、本当に申し訳ない。申し訳ないとは思うのだが、
「じゃあ俺、着替えてくる」
「待て、俺の傍を離れるな」
手渡されたタオルを持って退室しようとする高瀬直太を、俺は呼び止めた。
「利一がどこにいるか分からない以上、お前を一人にするわけにはいかない」
「そ、それは分かるが、ここで着替えろってのか? そ、そ、そりゃまずいだろ! 離れるなってことは、あれだぜ? お前も俺の近くで着替えるってことだぜ? 俺は男子で、お前は女子だ」
「そんなのは百も承知。だがお前の命には代えられん。大体、俺の方はお前に目隠しでもさせれば済む話だ。むしろ、お前こそ慣れない左手一本でちゃんと着替えられるのか? 手伝ってやるから神妙にしろ」
「だ、待て! ちょっと待て!」
迫る俺を、高瀬直太は手をぶんぶん振って拒んだ。こいつの妙な女免疫の無さは、傍から見ると少しもどかしいな。俺には何の下心も無いというに。
「っていうか小向。お前、こないだからキャラ変わり過ぎだぞ! 本当に小向か?」
「……ああ、そうだな。もし小向がまた以前のように戻ったら、そのときは『俺』のことを忘れてくれ。あと、元に戻った後の小向が何を言っても、ちゃんと信じてやってくれ」
「なんだよそれ。急に真面目になって……。まさか、自分は小向の双子の姉だ、なんて言い出すんじゃないだろうな?」
「解釈は任せるぜ」
俺は「タカオ」。高瀬直太は「高瀬直太」。
「とにかく、早く着替えろ。どうしても一人でやりたいんなら、俺は壁を向いてるから」
「ああ、すまん」
俺が髪を拭いている間、しばらくは後ろでもぞもぞしている音がしていた。不意に、高瀬直太の小さな悲鳴が聞こえた。何事かと振り向くと、ズボンを脱いでいる途中でバランスを崩していた。こともあろうに、俺に向かって倒れてくる。
それからは一瞬の出来事だった。ちょっとした弾みや事故で、男が女に覆いかぶさる。ラブコメの定番。使い古されたワンシーンだ。女――ここでは俺のことだ――が、気まずそうに目を逸らす。これもお決まりの反応。
そこでようやく、ベッドの下にいる男と目が合った。
小向利一。
「何をしているのかな?」
どこを見ているのか分からない、梟のような瞳。何を考えているのか分からない、平淡な声。何故そこにいるのか分からない、存在。
背中が寒い。こめかみの辺りがむずむずする。
俺は今日、生まれて初めて、自分の血の気が引く音を聞いた。