タカオ編 第4幕「手を掴む」
こいつのやることは完全に常軌を逸している。理解不能だ。
「小向。お前の兄貴は、妹のベッドの下に潜り込むのが趣味なのか?」
高瀬直太にも見えている。つまり幻覚ではない。利一は、奴は確かにそこにいる! お前こそ何をしているのかと、声を大にして問いたい。
……とは言え俺たちを鑑みれば、雨に濡れて服が若干透けた女と、下を半分脱いだ男だ。ただでさえ言い訳し難い状況なのに、相手が利一となれば説得成功率は皆無。冷静に話をすることすらまず不可能。最悪の遭遇。最悪の上塗りだ。
とにかく、男がいつまでもパンツ丸出しでは様にならない。俺は高瀬直太の腹を軽く蹴って立ち上がらせた。
「やっぱり、ここで張っていて正解だったみたいだね」
同時に、ベッドと床の隙間から利一の左腕が伸びた。そして次は頭、続いて右肩、バールを握り締めた右手……。激しい雨音をBGMにして、まるで地獄の底から這い上がってくる鬼を連想させる動きで、徐々に全身を現していった。恐ろしさを通り越して、もはや美しくさえある。
その様子を、俺は、ただ尻餅をついたまま見ていることしか出来なかった。声を出せなかった。今のうちに高瀬直太に逃げるよう促すとか、利一を止めるべく話をするとか、いっそ攻撃するとか、やるべきことはいくらでもあるはずなのに、そのいずれも、一切実行に移せない。全身がフリーズしている。
一方、ズボンを履き直した高瀬直太は、ここから逃げようとしない。高瀬直太は壁を背にしているから、出来ない。部屋の入り口へ行こうにも、ベッドを越えて窓へ行こうにも、俺と高瀬直太の間に立った利一がそれを阻む形になっている。
「まあ待て。ちょっと転んで変なふうに倒れこんだのは謝るが、やましい気持ちがあってのことじゃない。俺がここにいるのは、変な意味じゃなくて、まあ、ボディーガードみたいなものだ……と言って、聞く耳持つ相手でもないか?」
高瀬直太の弁解中、利一の後ろ姿には変化が無かった。そこには敵意や怒りさえも読み取れない。前から見た表情はどうなのだろう。一体、この男は何者なんだ? 何によって突き動かされている?
大事な場面に限って、どうでもいいことを考察する癖がまた出てしまった。今はそれどころではないのに。俺は何のために高瀬直太を連れてきた? 高瀬直太を危険に晒すためか? 違う。そうなる前に、俺が身体を張ってでも止めるためだ。小向を、利一の呪縛から解くためだ。しかしこの体たらく! 止めるどころか、指一本動きやしない。金縛りでも食らったみたいだ。ちくしょう。最初から、俺では無理だったんじゃないか? よく考えたら、俺の言葉や行動で利一を止められるのなら既に、暴行魔の一件のときに出来ている!
利一の、バールを高く掲げようとする動作が、スローモーションで映った。
暗転。
再び視界が開けたときには、小向の部屋とは違う、しかし見覚えのある場所に俺はいた。無数のベンチ席。目の前には、両手で顔を覆い、縮こまって震えている小向の姿。
そして背後、舞台上にはスポットライトに照らされる二つの人影があった。眼帯とギプスを着けている高瀬直太と、得物を構えて振り下ろそうとしている利一。さっきまで俺がいた光景だ。二つの影は動いていない。DVDの静止画像みたいに、ふとしたきっかけでまた動き出すかもしれない危うさを帯びながら、止まっている。
小向にとって、絶対にあってはならない状況。それが見えてしまったからあのとき、こいつは俺の手を振り払ったんだ。
「こ、小向……小向保世?」
声をかけたが、反応が無い。一度は立ち直ろうとしたのに、また心を閉ざしてしまっている。利一への恐怖。利一が大事な人間に手をかけることへの恐れが、身体の芯にまで深く染み付いているからだ。
克服しなければ、克服させなければ、小向に未来は無い。だが、その一歩を踏み出すことが封じられている。自分と向き合うことは出来たのに、肝心の利一相手には全く動けない。どうすればいい?
「だけど、本当に恐れているのならばこそ、立ち向かう必要がある」
突然現われた七後が、小向の左手を優しく握った。いいタイミングで来てくれたな。……そうか、おもい飴。これが別行動の重要任務か。
「ようやくここへ来られた。今まで何度、あなたを助けようとして踏み止まってしまったか知れない。今まで何百個、飴を費やしたか知れない。……それでもようやく、初めて、ここへ来られた」
「ゆ、由花、ちゃん……?」
「話を聞いてほしい。私は今まで、保世の苦しみを取り除くことが出来なかった。拒絶されることが怖かったから。罪悪感に苛まれてもがいているあなたが、こうして辛い現実を放棄しても、それで痛みから逃れられるのならばそれでも構わないとも思っていた」
しかし、と前置きをして、七後は握る手の力を強めた。
「それは間違いだった。私の不甲斐無さを許してほしい。やはり保世は生きなければならない。このまま消えて無くなることは、私が許さない。苦しみは分かち合える。他人を助けるのに遠慮はいらないのだと、尊敬する人間が身を以て教えてくれたから。まして保世は私の親友。彼は、親友に助けの手を伸ばせなかった私に、もう一度機会を与えてくれた。本気を出してもいいと言ってくれた」
俺のことか?
「保世、舞台の上を見て」
次に七後は小向の横に座り、肩に腕を回し、無言でかぶりを振る小向の頭を上げさせた。
「そこに何が見える?」
「い、いや……」
「言って」
「……お、お兄、ちゃん。と、た、た、高瀬、くん……」
「そう。それが現実。丁度あなたの目の前で、高瀬はあなたのお兄さんによって危害を加えられようとしている」
見れば分かる非情な事実を、敢えて口に出して教えている。言う方も、言われる方も辛いはずだ。これが七後の本気か。
「だけど思い出して。タカオはあなたに何と言った? あなたを普通の女の子だと評したはず」
念のため確認とばかりに俺を振り向いてから、七後は再び小向に呼びかけた。
「ならば考えて。あれが何者であるか。そして知って。あなたと血の繋がったお兄さんもまた、同じくただの青年に過ぎないのだと。鬼でも悪魔でも怪物でもない。決して敵わぬ強大な化け物などではない。あれもまた、どこにでもいる血の通った人間の一人なのだと理解して」
七後は頬が触れるくらいに強く、小向を抱き締めた。
「怖がらなくていい。大丈夫。立ち向かえる。ここにはタカオがいる。現実には、私や美月もいる。高瀬が襲われることに怯えて動けないのなら、私が高瀬を死守する」
「で、でも、」
小向の唇が弱々しく震えている。それに続く言葉を、俺も七後も口を挟まずに待った。
「む、無理、だよ……」
それもそうだ。あの部屋にいるのは俺と高瀬直太、そして利一の三人だけ。しかも利一は臨戦態勢。どうやって七後が守るんだ?
「タカオ。あなたと高瀬は、今どこにいる?」
「小向の部屋だ。そこで利一と遭遇した」
「ならば四十、いや、三十秒でいいから時間を稼いで。その間に必ず駆けつける。最短距離で直行する」
「でも俺、さっき身体が動かなかったぜ?」
「私の期待を裏切らないでほしい」
こう言われたら、なんとか力を振り絞るしかないな。……それにしても、三十秒か。七後がどこにいるのか分からんが、多分、普通の人間なら無理そうな距離を走ってくるんだろうな。
「分かった。やってみる」
「お願いする。……それにしても高瀬、身の危険が及ぶ前に使ってと言っておいたのに」
「なんの話だ?」
「こちらの話……と、訊き忘れていたけど、玄関に鍵は?」
「ちゃんとかけてあるぜ」
「……三十四秒で行く」
ピッキングの所要時間がたったの四秒かよ。
「とにかくこれで解決。保世、私を信じて」
七後はそう言うが、小向も七後のことを信じていないわけではないのだろうが、それでも未だに小向の顔からは不安の表情が消えていない。
「だ、ダメ……」
無理の次は、ダメときたか。
「ダメ、だよ。わ、わたしの弱さが、招いた、結果、だから。由花ちゃんを、ま、巻き込みたくない。迷惑、か、かけたく、ない……」
「迷惑なんかじゃない!」
空気が揺れた。初めて、七後が声を荒げたのを聞いた。
「同情や、哀れみなど、そんなちっぽけな感情で私は動いていない! 私は自分の意志でここにいる。保世の力になれることを誇りにすら思っている。あなた自身は気付かないかもしれないけど、交遊の中であなたが私に与えてくれたものは多い。孤独ではないということが、とても得難く尊いものだと教えてくれた」
「そ、そんな、わたし、そんな立派な人間じゃ、ないよ」
「保世が隣にいてくれたからこそ、私は再び立ち上がることが出来た。だからどうか、自分のことを、他人に迷惑をかけるだけの矮小な存在だなどと決め付けないで。私たちに、あなたの手助けをさせてほしい」
「あ、で、でも、でも……」
「保世。正直に、簡潔に、一片の曇りも無い本音を聞かせて。あなたは今まで、辛かった?」
小向は何度も口を開け閉めし、目を左右に動かして、時間を費やしてから小さく首を縦に振った。
「でも、由花、ちゃん……。悪いのは、わたしなんだよ。どんなに、辛くても、それはわたしの責任なんだよ。それを、言い訳して、正当化しても、そんなの、甘えでしかないじゃない……」
「ねぇホヨ? 話が途中からだし、あたしバカだからよく分かんないんだけどさぁ」
まだ愚図っている小向の横、七後の反対側に、いつの間にか茅が姿を現していた。追いついたと言うべきか。唇に人差し指を添えて、何か腑に落ちなさそうな顔をしている。
「他人に迷惑って、かけちゃいけないの? 人に甘えちゃいけないわけ?」
……いきなり何を言い出すんだこいつは? 常識を打ち破る発言に俺はもちろん、小向も、七後さえも固まった。
「いいじゃん、人間なんだからさぁ。あたしのパパとママ。あと、幸一郎もかなぁ? あ、幸一郎ってのは弟なんだけどね。あたしが生まれてからたくさん迷惑かけた人たちは、あたしをたくさん愛してくれてるよ。それにね、甘えたり甘えられたりってのは、信頼の証なんだとあたしは思うな。だって、嫌いな人に甘えたいなんて、誰も思わないじゃん?」
迷惑が持つ意味を、大前提を、茅は笑いながら無自覚のまま覆した。
「で、でも、それは、家族、だからだよ」
「ん~、そっかなぁ?」
「そう、だよ……。血が繋がってるんだから、愛し合うのは、当然、じゃない」
流れとしてはこのまま茅が通してほしいところではあるが、小向の反論は至極まともだ。茅、どう返す?
「あたし、もらわれっ子だから、パパやママとは血の繋がり無いよぉ。それでも気にせずやってるし、誰かを好きになったり嫌いになったりするのに、家族とか他人とか関係なくない? よく考えたらさ、未来のダンナ様だって、最初は他人なんだよぅ?」
からからと笑う茅だが、その笑顔に似つかわしくない重たげな個人情報がその口から明かされた。俺は真偽のほどを知りたくて七後の方を向いてみたが、肩をすくめられる。
「私も初耳」
「詳しいことは知らないんだけどね。保育園の前に捨てられてたんだって。まぁまぁ、あたしのことはどうでもいいじゃん」
本当にどうでもよさそうだ。当人が全く気にしていない事項だからこそ、七後のレーダーにも引っ掛からなかったのだろう。
「とにかく、ホヨがこれまでなにやってきたか知らないし、これからなにすんのか分かんないけど、それでもあたしは、ずっとホヨのこと好きでいられる自信あるよぉ?」
「ど、どう、して……? わ、わたし、美月ちゃんを……」
「あぁ、階段でのアレ?」
友達に突き落とされるという、トラウマ級の出来事。茅はそれを思い出しながらも、さらっとした態度を崩さず、小向の空いている右手を握った。
「別に恨んでないない。だって、それってよく考えたらさぁ、そんだけホヨが本気でぶつかってきてくれたってことでしょ? うれしいじゃん。男の子同士が、殴り合って友情を深める、みたいな?」
違うと思う。微妙に違うとは思うが、敢えてツッコミは入れないでおこう。思い返せば昨日の風呂場でも、茅の口から小向を責め立てる言葉は一つも出てこなかったな。
「……い、いいの? わたし、ほんとに……まだ、美月ちゃんの友達でいて、い、いいの?」
「もっちろん!」
温もりを受け止めてただただ戸惑う小向に、茅はそれこそ、太陽を彷彿とさせる表情で答えた。改めて、こいつの凄さを垣間見た気がする。
「美月の言っていることにはいくらか論理の飛躍があるけど、その意図に裏や偽りは無い。だから保世、どうか……」
七後は言葉を詰まらせ、目をぎゅっとつむった。その続きを俺が繋ぐ。
「もう一度、立ち上がってくれ。それが七後と、茅と、高瀬直太に対する最大の誠意になる。それに、あれだぞ。このまま手をこまねいていたら、塩田の二の舞だ。また同じことを繰り返さないように、お前は苦しんでいたんじゃないのか? その六年間を、本当に無駄にする気か?」
「い、いや……」
小向は一瞬身体を震わせ、またも否定の言葉を口にした。しかし、含まれる意味はさっきと全く異なる。目にはしっかりと輝きが戻っている。
「……そ、そんなの、いや。もう、いや。大事な人が傷付くのは、いや。傷付けるのもいや。だから、だから……わたしを助けて! 由花ちゃん! 美月ちゃん! タカオくん! お兄ちゃんに、高瀬くんを殴らせないで! わたしをお兄ちゃんから解放して! お願い……みんなを信じるから。もう、逃げないから。わたしも……わたしも頑張るからあ!」
小向が頭を上げた。いい顔だ。その言葉が聞きたかった。七後の本気。茅の許容。そして小向自身の決意。これで大事なものは全て揃った。
高瀬直太は、まあ、あいつが必要になるのはまた後のことだ。今はいい。茅が俺の方を向いて「ひょっとして、きみがタカオくん? う~ん、暗くて顔よく見えないや」などと言っているが、こちらも別にいいか。
俺は小向の頭の上に手を置いて撫でた。なんとなく、そうしたかった。
「今度こそ、利一を止めよう。小向、お前に百倍の勇気を与える魔法の呪文がある。俺はそれで絶体絶命のピンチを免れた実績があるから大丈夫だ。呪文を唱えたら舞台に上れ。役者交代の合図だ。もしこの劇場がお前の心の中なら、舞台の主役はお前以外にあり得ないんだからな」
「……うん!」
小向は数瞬の間を置いてから、力強く頷いた。それを受けて、俺は小向に寄りそう二人にも声をかけた。
「七後、茅。頼む……」
小向が自分を取り戻し、利一の存在に脅かされることのない居場所を掴み取る。そうなったとき、俺はどうなるか分からない。だからこの「頼む」にはそれなりに深い意味を込めたつもりなのだが……。わざわざこいつらには言う必要なかったかもしれないな。七後は多分、口に出さなくても通じている。茅は、伝えるまでもなく体現している。
だから俺は、二人の反応が返ってくるより先に舞台を振り向いた。