タカオ編 第7幕「人間の証明」
小向の身体が揺れ、どうと崩れ落ちる。
こんな光景、前にもなかったか? あったよな? 俺が暴行魔に襲われて、それを利一が助けに来て……そのときに似ている。
あれ? なんで小向が頭から血を出して倒れてるんだ?
いや、分かるぜ。利一が、小向を、バールで……。
待て。おかしい。何故だ?
結果の是非はともかく、利一の攻撃性はあくまで妹を守るため。それが奴の行動理念であり、俺が理解し得る唯一の人間らしい感情だった。小向の説得なら通用するかもしれないと、ほんの少し期待していた。利一は絶対に小向を傷付けないと、そこだけは信じていたからだ。
「てめえは、いったい、何をやってんだあ!」
俺の代わりに吠えたのは高瀬直太だった。傷だらけの身体を起こし、膝の震えを気持ちで抑えて立ち、拳を固めている。
「それだけは、やっちゃいけないだろ。お前が殴りたいのは俺じゃねえのかよ。相手が違うだろうが……」
「違わないよ。邪魔だから潰すだけさ」
「なんでだ! お前の大事な妹だろ! 守りたかったんじゃないのかよ!」
「そうだよ。でも、保世は二人もいらない。やはり一人で充分だった。……始めからこうしていれば楽だったのかもしれないね」
ああ、梟の眼だ。
「小向が二人? 意味が分からねえ。何言ってんだ、お前は!」
……俺には分かる。不本意ながら、分かってしまう……。
利一は、幻覚に屈した。完全に呑み込まれたんだ。妹を守らなければならないと、ただそれだけを盲目的に想い貫き続けた結果がこれだ。手段と目的が掻き混ざった。いかれてやがる……。
「高瀬君。きみが僕のことを理解する必要は無いよ。友達はいらないと、さっき言ったはずさ」
奴はバールを構え直し、再び高瀬直太に向き直った。
もはや利一を止める術が無い。万策尽きた。
……そう考えたのは、恥ずかしながら、どうやら俺だけのようだ。
痛みに耐えつつ、首をもたげて兄の背を見据える小向の瞳には、まだ光が宿っている。高瀬直太はこの期に及んでも戦意を失っていない。
「高瀬! 伏せて!」
七後に至っては、もう次の一手に転じていた。俺が気付いたときには既に、電光石火の足技でバールを蹴り飛ばしていた。続いてバールが落ちるのとほぼ同時に懐から筒状のものを取り出し、その先端を利一の眼前に突きつけ、容赦無く白煙を浴びせたのだ。……七後が何をやっても驚かなくなってきた。反応し損ねた高瀬直太が巻き添えを食らい、咳を漏らしている。
今の最優先事項は、小向の安全を確保することだ。それは七後と高瀬直太のどちらもが通じて認識しているだろう。だから高瀬直太は、避難勧告される前に部屋の入り口へと駆け出していた。
そこまではまだ良い。
「保世、立てる?」
「だ、だい、じょうぶ。こんな、怪我なんて、どうってことない。こんなので、痛がってたら、高瀬くんに会わせる顔が無いもん。それに、胸の痛みに比べたら!」
片目をつむり、歯を食いしばる小向。
「了解。高瀬、今のうちに保世を連れて離れ……」
小向の肩を担ごうとした七後は、言葉を失い、目を見開いた。無理もない。催涙ガスの類を至近距離で受けたはずの利一が、咳も涙もくしゃみもしていなかったからだ。
「どこへ行こうと言うんだい? これ以上、僕を煩わせないでくれないかな」
利一の左手が、脇を通ろうとする高瀬直太を掴み阻んだ。
「てめえ、化け物か!」
「自分の理解の埒外にあるものをそう呼ぶのなら、そうかもね」
奴は爪が食い込まんばかりの腕力で体勢を崩し、膝蹴りを放った。高瀬直太の顔が苦悶に歪む。
「あ、がはっ……」
「高瀬くん!」
「高瀬君。そろそろ、潰れてくれるかい?」
「お兄さん。あなたの好きにはさせない」
そして、この状況下で何もしない七後ではなかった。何においても利一を無力化させないことには逃げ切れないと判断したであろう七後は……まあ、その、なんだ……。男の最大急所を、後ろから蹴り上げたわけだ。見ているこっちが痛くなるほどに。
しかし、
「由花さん。お行儀が悪いよ」
利一は動じていない。いや、もっと正確に言うならば……。
「効いていない?」
俺の思考と、七後の発言が重なった。
その直後、利一は高瀬直太をうち捨てるや、その反動を活かす動きで裏拳を放った。虚を突かれた七後は回避が遅れ、側頭部への直撃を受けて壁にもたれる。
「由花ちゃん!」
利一は女を殴らないと聞いていたのだが、歯止めを失った今の奴には当てはまらないらしい。
「邪魔をするつもりなら、誰であっても容赦はしない。例え由花さんや保世自身……父さんや母さんであってもね」
「お、お兄ちゃん? どうしてここで、お父さんとお母さんの名前が、出てくるの……?」
まさか、と小向が呟いた。俺もその先を想像した。
「ここ最近、ずっと海外にいるからね。少しくらい発見や連絡が遅れても不自然にはならない。ましてノースカロライナの山奥だから、そう簡単には見付からないよ」
「こ、殺した……の?」
小向は目を見開き、鳥肌を立て、歯をカチカチと鳴らした。
実の兄が殺人犯? それも、親殺し? もしそうだとしたら、世を保つどころの話ではない。小向の信じていた世界が転覆する。取り返しのつかない一線を超えていたとすれば、それは人間が許せる話じゃないだろう。それこそ神や仏の領分だ。
対して利一は悪びれもせず、にこりと笑った。
「なんてね、信じたかい? 冗談だよ。そこまではしない。……でも、僕ならやりかねないと思っただろう?」
冗談にしては悪質が過ぎる。そして本当に、いつ人を殺してもおかしくない男だと感じる。もし人間を、他人を殺せる人間と殺せない人間の二種類に分けるとしたら、利一は間違いなく前者だ。
「ただちょっと、人前に出るのが怖くなる程度には痛めつけたよ。……ああ、心配しなくてもいい。二人とも社長だか会長だか知らないけど、肝心なことは役員任せだったみたいだから、少し心的外傷を負ったくらいで社会的責任や収入は変わらないんだ」
誰も家業の心配などしとらん。お前は親を殴るためだけに、わざわざアメリカ東海岸まで飛んだのか?
「なんで……なんで、そんなことをしたの!」
「気付いたんだ。あの二人が健在である限り、僕は純粋な気持ちで保世を守っていることにはならないんじゃないかって。あの二人に強迫されているのではないと証明するために、僕は父さんと母さんを打ち倒さなければならなかったんだよ」
化け物の理屈だ。
「だけど拍子抜けしたね。いざ踏み出してしまえば簡単だった。鼻を垂らしながら許しを請う姿はとても惨めだった。僕と同じ血の通った人間だとは思えなかった。でもあのとき……どうして父さんと母さんは、僕に謝ってばかりいたんだろう? 僕はそんな言葉が欲しかったんじゃない。反撃の一つでもしてくれれば、僕としても甲斐があったのに……」
利一は自分の左手の平を眺め、握ったり開いたりを繰り返した。
やらかした報復――奴自身はそう考えていないだろうが、結果としてはそうなる――の是非は置いておく。問題は利一が、両親という大きな枷を自力で克服しておきながら、未だに暴走し続けている現状だ。兄妹の歯車が狂った元凶である親との決別を果たしてなお、奴は妹の前に立ちはだかっている。
「本気を出すつもりではいたけれど、あくまで法律が許す範囲で留めておいたのに。……保世、一つだけ確認」
珍しくも息を乱した七後が、小向に問うた。
「お兄さんを、殺しても構わない?」
「え、な、由花ちゃん……?」
「聞いて。なにも私は、怒りや激情に飽かせてこんなことを言っているわけではない」
じゃあ、どういうわけだ? 冗談にしてはあまりに物騒だぞ。
「今のお兄さんは、思想的にも肉体的にも非常に危険。骨を切らせて肉を断つ無謀さのみならず、OCガスや金的にも無反応。特にOCガスは、野生の獣や麻薬中毒患者にも通用するはずの代物。もはや我慢強さの域を超えている。これは比喩ではなく、医学的な意味で、彼の神経系には異常が生じている。外的刺激に対し、正常な防御反応が出来ていない。信号の入出力バランスを欠いている状態。痛みも感じていないと推測される。だから……手加減を出来る自信が無い。お兄さんの肉体に今、どれだけの負荷がかかっているのか確証が持てない」
心と身体は相互作用する。
それに、と一拍置いてから七後は続けた。
「極論を述べるならば、保世の平穏を取り戻すことだけ考えた場合、それが最も迅速」
小向の舞台上から、利一を永遠に排除する。俺も一度は思いつきながら、自らボツにしたものだ。それを提案する七後の言葉は真剣そのものであり、冗談めいた口調は微塵も感じられない。
「……由花ちゃんが、そこまでわたしのことを心配してくれる気持ちは、うれしい。だけど、ダメだよ……」
「大丈夫。ここまでくれば、きっと正当防衛は成り立つ」
「そういう話じゃなくて、お兄ちゃんのことは、わたしにとって大事なことだから……」
そこで小向は息を呑み、再び力強い瞳を見せた。
「とても大事な問題だから、もう、楽な方法で逃げたくないの。もう二度と、心を折りたく、ない」
「……善処はする。とは言え、この状況下でお兄さんを止めるのは困難を極める」
二人がこんなやり取りをしている最中にも、利一は床のガラス片を踏みつけ、ベッドの上に乗りあがっている。高瀬直太はどうにかして距離を取ろうとするも、割れた窓を背に追い詰められる結果となっていた。唯一の救いは、奴の歩みが遅くなっていることだろうか。痛みや刺激を感じなくても、ダメージそのものが消えているわけではないらしい。
さあ、ここからどうする? どうすれば奴を止められる?
「高瀬くん、逃げて!」
身体を張ってでも止める。日記に残した言葉を実行するべく、小向が駆け出した。だが悲しいかな、その非力なタックルでは利一を揺らすことすら敵わなかった。木と相撲をとるが如く、押せども引けども効果が無い。
「……鬱陶しい」
無機質な動作と声で、利一は小向を視界に捉えた。そして腕を高く上げ、自分にしがみついている妹の脳天に肘を落とそうとした。
「保世!」
寸でのところで、七後が小向を引き剥がして床に転がる。
「グッジョブ、七後! そうしたいのは山々なんだけどな、小向、もうここから飛び降りるくらいしか道が無いぜ。……受身、とれるかな。体育の柔道、もっと真面目にやってればよかった」
「軽口を叩いている場合ではない。まだ手はある。高瀬、あれを使って」
「……あれか! そうは言うけどな、七後。やっぱりあんな危なっかしい物は使えねえよ」
「高瀬は誤解をしている。あなたに渡したものはあくまで護身用の市販品。殺傷能力は無く、安全に相手を無力化できる。先に使っておけば、ここまで事態は悪化しなかった」
七後と高瀬直太は、何について言っているんだ?
「使用の頃合いはあなたに一任していたけれど、限界」
「分かった。そこまで言うなら、分かったよ!」
背に腹は変えられぬと判断したであろう高瀬直太は、うまく上がらない左手で包帯を掴み、乱暴にギプスを取り払った。
そんな簡単に外せるものなのか、と考える間も無く、その下から無傷の右手が現れた。しかも、どうやら何かを持っているようだ。これを隠し持たせることが、朝に七後が言っていた「仕込み」か。恐れ入った。パッと見は電気シェーバーに似ているが、わざわざそんなものを用意するわけがない。先に二本の突起が付いている。
「やりたくなかったが、仕方ねえ! 小向の兄貴、恨むなよ!」
高瀬直太は手にしているものの先端を、利一の肩に押し当てた。そしてスイッチを入れると同時に閃光が走り、爆竹のような破裂音が鳴った。利一の身体が跳ねて痙攣した。
スタンガン――漫画やドラマではよく見かけるが、実物を目にしたのは初めてだ。
「八十万ボルト。例え感覚が無くても、神経伝達そのものが阻まれれば動くことは出来ない」
七後が呟いた。事実その通り、利一は自分の身体を思うように動かせなくなっているらしい。足がもつれ、よろめき、ふらついていた。まともに力も入れられないのだろう。その様子は、しばらく前にニュースで見たBSE感染牛を思い出させる。
それでも利一は、がむしゃらに前へ進もうとした。妹の幻を追っているのか、それとも何も見えていないのか、奴は高瀬直太の横を通り過ぎる。その先にあるのは、申し訳程度の手すりと雨降る宙だけだ。
「お兄ちゃん!」
小向は叫ぶが、今さら利一がそれで止まるはずもない。
「おい、そっちは危ねえぞ!」
高瀬直太が反射的に手を伸ばしたが、振り払われた。
倒れるように身を投げ、力無く落ちていく利一。奴はその瞬間、どんな顔をしていたんだろうか。どんな眼をしていたんだろうか。きっと誰にも分からない。