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高瀬直太編 第3話「消失」

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  木曜日

 結局、謎の番号からの再着信は来なかった。だから俺は特にそれ以上気にすることなく、翌日も学校へ行った。
 昇降口近くの階段の一段目に足をかけたところで、見上げると、踊り場をゆっくり歩いている横顔があった。遠くからでも目立つ赤い髪留めと、縁の厚い丸メガネ。
「小向!」
 俺はそいつの名前を呼びながら駆け上がった。しかし小向は俺の声が届いていないのか、立ち止まらない。その割に急いでいるようでもなく、湖面の枯葉みたいに動いている。
「小向?」
 肩を叩いても反応が無い。どうしたってんだ? いつもだったらここで、ビックリ箱か小向かっていうくらいに跳ねてわたわたするところなのに……。
「おい、小向!」
 仕方がないので肩を掴んで強引に振り向かせた。直後に相手と目が合う。
 違和感。
 一昨日はいつもの小向だった。「お兄ちゃん」のことが大好きで、些細なことにも大袈裟な反応をして、たどたどしい喋り方で、見ているこっちが微笑ましくなる。それが俺のよく知っている彼女の姿だ。
 昨日の小向は怯えていた。茅の転落事故を目の前にいながら防げなかった自責の念と、万が一にも茅を失ったらどうしようかという恐怖感とで、ずっと震えていた。
 今日の、俺の目の前にいる小向は? 一言で表すなら、虚無だ。こんな言い方はいかにも漫画的だが、目に光が無い。まるで死人のように瞳孔が開いて動かない。よく見ると顔色も悪いし、口も半開きだ。昨日はずっと怯えていたけど、それさえもまだマシな方だったのだと分かる。悪いものであっても、感情がはっきりしているだけ救いがあった。
「小向? だ、大丈夫か? 茅のことだったら、心配するなよ。昨日病院へ行ってきたけど、あいつは元気だったぞ。二、三日もすれば退院出来るって言ってた。だからお前も元気出せ。なあ、小向。……小向?」
 小向の様子が異常なのは、茅の身を案じるあまりに憔悴し切っているからだと思った。だからいち早く、茅の無事を知らせた。
「…………」
 しかし小向は喜ぶでもなく、安堵するでもなく、ただただ俺の目を見つめるだけで、一声も発しなかった。……いや、それすらも疑わしい。小向の視線の先に偶然俺がいるだけのように感じる。まるで夜空に向かって懐中電灯をかざしているように、俺の意思や言葉の一切が虚ろな瞳に吸い込まれては消えていく。
 そもそも、ここにいるのは本当に小向なのか? 俺より頭一つ分は背が低くて、全身はやや細身で、目がパッチリしている。外見は間違いなく小向だ。俺のクラスメイトで友達の小向保世だ。そのはずなのに、何かがおかしい。
「小向! なあ、小向! どうしたんだよ、小向!」
 俺は小向の両肩を鷲掴みにして、名前を呼び続けた。とにかく、いつもの小向に戻ってほしかった。
 小向の身体が揺れ、バランスが崩れた。


    *


 気が付くと、俺はベッドで寝かされていた。壁に貼られている未成年者喫煙防止ポスターと、カーテン向こうの会話内容――先生が生徒に、適切な睡眠の重要性を説いている――を総合して、ようやくここが学校の保健室であることが分かった。俺はあまりお世話になったことのない場所だ。
 俺が今いるのが保健室だということはどうにか理解出来た。ただ、何故俺がここで寝ているのかがどうにも理解出来ない。
 記憶の糸を辿る。
 階段の踊り場で、魂の抜け殻みたいになった小向を掴まえて揺さぶったことは憶えている。そして目を閉じた小向が、急に気を失って俺にもたれかかってきたことも憶えている。問題はそこからだ。小向の身体を支えようと咄嗟に手を伸ばした瞬間からの記憶が無い。何故、俺は保健室にいる?
 ……それより、小向はどうした? あいつは大丈夫なのか? そうだよ、俺よりも心配すべきは小向だ!
 推測する限り、小向も同じく保健室に寝ている可能性は高いな。こうしている場合じゃない。
 俺は寝起きで重たい身体に鞭打って、布団を跳ねた。その音に気付いた保健の先生がカーテンを開ける。
「目が覚めたみたいね。もしかして最近、疲れが溜まっているんじゃない? 茅さんのことで気に病むのは分かるけど、あなたが無茶してはダメよ?」
「先生! 俺よりも小向は、あいつは大丈夫なんですか!」
 俺は保健の先生に対して、まず小向の安否を確認した。しかし先生は俺の言葉が理解出来ないとでも言いたげな、怪訝な表情を浮かべた。
「……まだ、頭がボーッとしているみたいね。ちょっと待ってて。お水持ってくるから」
 そう言うなり先生は室内備え付けの洗面台に行き、プラスチックのコップに水を満たしてきた。確かに喉は渇いている。貰おう。
 胃の中に水分を送り込んだところで、先生の後ろから一人の女生徒が顔を出した。七後だ。
「寝不足は身体によくない」
 保健の先生も、七後も、俺が睡眠不足や心労で倒れたと思っているらしい。昨日はたっぷり、八時間は寝たはずだけどな。考え事をよくする俺だが、心配性というほどでもないはずだが。
 だがそんなことより、小向がどうなったのかが問題だ。
 ふと視界に入ったのは自分の手。……あれ?
 本日二度目の違和感。
 俺の手、こんなに指が細かったか? 俺の手、こんなにきれいな爪だったか? それに今さらだけど、さっきの俺の声、変じゃなかったか? 妙に高かったぞ? ……俺の身に何が起きた?
 落ち着け、俺。俺、落ち着け。俺が今どんな状態にあるのか、胸に手を当ててよく考えよう。胸に手を当てて……。
 うん、やわらかくて気持ちいい。……じゃない! 注目すべきはそこじゃない! 何故だ? どうして俺におっぱいがある? なんでブレザーのボタンが左右逆に付いている?
 訳が分からない。訳が分からない。訳が分からない。
「保世、顔色が悪い。もう少し休んでいることを勧める」
 俺の表情を読み取った七後が気遣いの言葉をかけてきた。
 本日三度目の違和感。……何回あることやら。
 七後は間違いなく、俺を見据えて話しかけた。そして俺のことを「保世」と呼んだ。聞き間違いか? 俺の聞き間違いだと言ってくれ。
「小向さん、大丈夫? どこか痛いところはある?」
 なんで、保健の先生まで俺のことを「小向さん」って呼ぶんだよ! 俺は「高瀬直太」だろ!
 ……いや、頭でうだうだ考えても意味は無い。確かめよう。
 俺は身体の向きを九十度動かして、上履きも履かずに立ち上がった。うう、足がフラつく。危うく転びそうになったところに、七後が駆け寄って肩を貸してくれた。やっぱりこいつは頼りになるな。この際、素直に甘えるとしよう。
 窓に目を向けると、外はもう茜色に染まっていた。俺は半日近くも寝ていたのか。
 それはそれとして、もつれる足でようやく洗面台に到着する。俺は意を決して顔を上げた。
 鏡に映っていたのは……。
 いや、予想はしていたさ。七後が俺を「保世」と呼んだんだから、こうなっているかもしれないとは思っていたさ。
 でも、こんなことが実際に起こるなんて信じたくなかった。すぐに普通の、いつも通りの生活に戻るものだと信じたかったのに!
「な、なんで……」
 ここで目を覚ましてから、もう幾度となく脳裏に浮かんだ言葉が、とうとう抑えきれずに唇から漏れた。
 鏡に映っていたのは、そう、小向の姿だ。メガネと髪留めこそ外されているが、小向保世の顔だ。俺じゃない。高瀬直太の姿じゃない。
 力が抜ける。
 俺は陶器の洗面台の縁に両手を突いて、膝からその場に崩れ落ちた。七後が背中を擦ってくれる。単純にこの心遣いは嬉しい。
 ともあれ、床のタイルを眺めながら思索を巡らせる。まずは事実を受け止めよう。そうしなければ話にならない。
 俺は小向保世になってしまった。
 分かっているのはこれだけだ。何故こうなったのかは分からない。これからどうすればいいかは、これから考えよう。
 俺の現状を思えば、逆に小向が俺になっていると考えるのが妥当だ。いわゆる、俺がお前でお前が俺で、みたいなものだろう。二人の心――もしくは身体。どっちでも同じことだ――が入れ替わるなんて不可思議現象は漫画やアニメの中だけと思っていたが、俺の身に起こっていることを考えれば事実は事実。
 そうなると、一刻も早く俺の姿をしている小向と話を合わせて、今後の身の振り方を相談するのがベストだ。この際「何故」とか「なんで」は封印した方がいいだろう。
  ガラガラッ
 丁度、誰かが保健室のドアを開けて入ってきた。俺の背にいた七後がそちらを振り向く。
「高瀬、遅い」
「仕方ないだろ。当番で職員室掃除してたら、担任に捕まって急遽進路相談だよ。来年は受験だから今のうち考えとけって。どうせ大した進学校でもないくせにさ。……それで七後、小向の様子はどうだ?」
「目覚めはした。まだ体調は優れないらしい」
「そうか。茅が治っても小向が身体壊したんじゃシャレにならないぜ」
 入ってきた男と七後の会話を、俺は背中で聞く。
 本日四度目の違和感。このフレーズは使い飽きた。
 七後がそいつを「高瀬」と呼んだのだから、保健室に入ってきたそいつは俺の本来の姿をしていると思ってしかるべきだ。そこまでなら問題ない。ただ、何かおかしい。
 早くも封印したはずの「何故」を使う破目になった。
 何故そいつは、普通に俺みたいな喋り方をしているんだ?
 俺はここにいる。俺の人格は、心は、小向の身体の中に存在している。
「おい小向、大丈夫か?」
 そいつは洗面台の前で跪いている俺の背中を叩いて呼びかけた。
 振り向く。
 相変わらずの細目だが眉をひそめているおかげで辛うじて俺のことを心配していると分かる七後と、その横に、顔中の筋肉という筋肉を総動員して俺(小向保世)の身を案じている俺(高瀬直太)の姿。
「まだ本調子には戻ってないみたいだが……、峠は越したようだな。安心したぜ」
 見るだけで、心底安堵していると分かる表情を浮かべている俺(高瀬直太)。俺って、いつもこんな顔していたんだな。道理で考えていることを簡単に読まれるわけだ。
「峠?」
 七後はさっきの言葉の中に引っかかるところがあったらしく、疑問符を口にした。高瀬直太の姿をしたそいつは応答する。
「小向が倒れる直前のことなんだけど、本当に虚ろとしか言いようのない目をしてたんだよ。それに比べたら今は、元気とは言えないが、大分マシになってるぜ」
 そう。確かに小向は、感情の欠片も見えない目と、表情をしていた。
 さらにそいつは俺と目を合わせ、語りかけてくる。
「あ、そうそう小向。今朝も話したけど、茅のことだったら心配し過ぎるなよ。頭の怪我は深くないみたいだし、二、三日で退院出来るってさ」
 さっきからこいつが言っている内容は、今朝、俺が小向に対して感じたり話したりしていたことだ。しかもその喋り方はあまりに自然で、とても小向が俺の真似をしているようには思えない。これはどういうことだ?
 いや、悩むまでもない。普通に考えて、高瀬直太の姿をした男が、高瀬直太と同じ考え方をして、高瀬直太みたいな喋り方をしていたら、そいつは高瀬直太以外の何者でもない。
 だが、小向保世の身体をしている俺もまた、高瀬直太だ。俺が高瀬直太である以上、他に高瀬直太がいるはずがない!
「……お前、誰だ?」
 最も初歩的な疑問が、ようやく俺(小向保世)の喉から搾り出された。そしてこの発言で、七後と俺(高瀬直太)は豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしている。
「何言ってんだよ小向? 俺は、俺だよ。高瀬だよ。っていうかお前、相手のことを『お前』呼ばわりするキャラだったか?」
「見るからにお人好しそうな顔をしている彼の名前は、高瀬直太。保世と同じ二年一組に在籍。出席番号は十二番」
 見るからにって……。俺ってそう見られてたのか?
「見るからにって……。俺ってそう見られてたのか?」
「誰もが彼を、《菩薩》の高瀬と呼ぶ。思い出した?」
 そんなの初耳だっつうの。
「そんなの初耳だっつうの」
「得てして通り名は、当人の耳には入らないもの」
 まあ、この二つ名は七後が今思いついたジョークととるべきだろう。だがそれより、問題はこの高瀬直太と七後のかけ合いだ。
 どこにも不審さや不自然さが感じられない。いつも俺と七後が冗談を言い合っているときと全く変わらない。それどころか目の前にいる高瀬直太は、七後の台詞に対して、俺だったらこう返すという文句を一句違わず口にした。
 じゃあ、こいつは俺だ。高瀬直太だ。間違いない。
 どういうことだ? 落ち着け、俺。俺、落ち着け。事態を簡潔にしよう。分かっていることから、状況を整理しよう。今までのことを総合するとつまり、
 ・小向保世の身体には高瀬直太(俺)の人格が入っている
 ・高瀬直太の身体にも高瀬直太の人格が入っている
 こういうことだ。

 ……俺が、二人いる……?
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