トミノの地獄 一
0.
――――――『可愛いトミノのめじるしに』。
1.
東郷沙耶は奇怪な女だ。
メンヘラ、米で特別なプログラムを受けていたIQほにゃららの稀代の天才、
黒魔術をやっている、菅原教授の『お気に入り』、猫殺し、超能力者、いや実は宇宙人。
妙な噂に事欠かなく、またそれに見合った謎を持つ大学の『アンタッチャブル』。
兎に角やる事成す事常人離れしていて、身に纏う気品は他人を寄せ付けない。
京雛を思わせる整ったその造形も相まって、女は本日とて恰も女帝のように君臨しているのである。
東郷沙耶は奇怪な女だ。
そして、
「もう少し美味しそうに食べたらどうだい、境君。
君のその表情は、作って下さった給仕の小母さん達にあまりにも無礼と言う物だろう。
そもそも日々の糧は、この世の終わりのような面で取るものではなかろうに」
先の五月に起こったとある出来事により、――真に不本意ながら――俺の唯一の友人となった女でもある。
「…………」
三限が始まり、昼休みの時分よりかは幾分か落ち着き始めた大学食堂の端で、
靴下のような味わいのかけうどんと、水分過多と言わざる得ないライス大をかっ込んでいれば、
背中越しに小鳥の囀るような麗しい声が聞こえてきた。
眉根が寄った。
サカイは、俺の苗字である。
「……俺の勝手やがな」
俺か、俺ではないサカイ君か。
背後の女が声を掛けた可能性を考えるよう、走り始めた思考――いや現実逃避を何とか剥がして、俺は吐き棄てるように言った。
ぬるく、適度な酸味と塩っ気がある、まるで赤子の涎のようなうどんだしをすすると、
背中越しに今度は嘆息が聞こえてくる。
憂鬱な女神の吐息を思わせるそれに遅れ、横でギギィ、と鈍い金属の金切り音が響いた。
嫌な予感ばかりした。
「然もありなん」
嗚呼矢張り貴様か。そして断りもなく隣に陣取るな。
薄ら寒い予感の通り、声の主は東郷沙耶であり、それに声を掛けられたのは俺であったのだった。
東郷が腰を落ち着かせる過程で、金糸、ではなく、腰まで届く長い黒髪の一本が、はらりと頬に掛かった。
俺はなるべく頑固な表情を作ってから、声質を堅くさせて呻く様に言った。
「何かないんか」
「いい天気だね」
「午後から下り坂や。あと俺の気分もな」
「ああ、そう。ご一緒してもいいかい」
「……どーぞ」
「どうも」
これが毎度の、一連の流れである。
そしてメンヘラ、米で特別なプログラムを受けていたIQほにゃららの、ええい、エトセトラエトセトラが、
他人(冴えない男)に声をかけたという事実と、それを目撃した事によって騒然となる回りの空気も、毎度のことなのだ。
俺は今、口に含んでいる米以外の苦味を舌で確かに感じた。
――毎度乍、自分の影響力を解ってやっているのではないかお前は。
のど仏までせりあがって来た溜飲を再び腹へ下し、深まった眉根に思わず苛つく。
岸辺を探す漂流者と成った俺の視線が、東郷の手元にある古ぼけた本に止まったのは、その時である。
「それ何や」
興味本位で言葉が口をつついた。
問われた東郷は、幽かに微笑んで、お世辞にも保存状態が良いとは言えないその本をめくった。
「ああ、これかい? 大叔父――菅原教授が薦めてくれてね」
態々呼称を言い直したところに、東郷の律儀さが透いて見えるようだった。
俺は特に何の感慨もなく頷き、白湯の入った椀を持つ。
啜ると、ズズゥとなんとも爺臭い音が響いてきた。
その間に、東郷は目当てのページを見つけたようである。机上に広げたそれを指しながら言う。
「これだ。この詩」
見やる。
「――トミノの地獄?」
題からして、おどろおどろしさが漂って来ていた。
白湯で口の中を濯ぎ乍そう問うと、
「うん。これ、中々グロテスクで綺麗な詩だよ。
ボクはこれから意味を噛み砕いて行く所なんだ」
どこか浮ついたような口調で東郷が言った。
それから女は静かに本を閉じ、目も閉じる。
「砂金から。」
――トミノの地獄が収録されているこの本は、砂金、と言う表題らしい。
嫌な予感ばかりした。
トミノの地獄。
ネットだか、テレビの怪談話だかで聞いた事がある。
嗚呼、確か、この詩は――
『姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
鞭で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。』
東郷が諳んじている。
この女のことだ。一文字一句に到るまで相違あるまい。
驚愕的な暗記能力と凛とした声によって、トミノの地獄廻りが始まる。始まってしまう。
降って沸いた感想は――おぞましさだろうか。いまわしさだろうか。それとも。
「…………」
『叩けや叩けやれ叩かずとても、無間(むけん)地獄はひとつみち。
暗い地獄へ案内をたのむ、金の羊に、鶯(うぐいす)に。
皮の嚢(ふくろ)にゃいくらほど入れよ、無間(むけん)地獄の旅支度(たびじたく)。』
それまで右手でくゆらせていた椀を置き、俺はゆるやかな動作で手を上げた。
力無く、忘我とし、我ながら年老いた猫を思わせる仕草だった。
『春が来て候、林に谿にゃ……!?』
ぱん。乾いた音がしかし軟々しく、した。
――東郷の口元に俺の右手がかぶさっている。
次の瞬間、カッと開かれた東郷の目が、攻め立てるように俺を見る。
黒いルビー。『トミノ』の瞳だ。俺は何故だか確信した。
「……与太話やけどな。」
だからそれを振り切るように言った。酷く心細かったのだ。
俺は続ける。
「たしか、全部読むと死ぬ、って言われてる奴やろ、それ」
「読むと死ぬ?」
東郷は素っ頓狂な声をあげて言葉を繰り返した。
「凶事が起こる、親しい誰かが死ぬ、他にも色々言われとるみたいやけど」
「――――――ああ。なんだ、都市伝説の類かい。
ま、君のような男から、言霊や呪いなんて言葉が出てくるとは端から思っていなかったけれど」
「……おおきに」
「しかし。ふぅん。それは中々興味深い。けれど――気に入らないな」
それから、視線を落とし、手元の本――砂金だ――をぱらぱらとめくり、
「……いいかい、境君。詩っていうのはね、収録された前後の詩とも、内容は関連してくるものなんだよ。
だから、一つだけを取り上げて、そんな変な噂を付随させると、
この詩が本当に伝えたかったことが、たちまち読み取れなくなってしまう。
それは、詩の鑑賞方法としては、間違っているとは思わないかい?」
饒舌に、しかし幾らか憮然そうな面持ちで言った。
東郷は正論を翳すのが上手い。
胸にすんなりと落ちて来た女の言葉を、俺は口中、僅かに残っていた白湯と一緒に飲み込む。
「だから与太話や言うて、」
東郷は俺の言葉を待たずに切り出した。
「なあ、正太郎君」
「嫌や」
俺も間髪いれずに返した。
東郷は面を食らったような表情で一瞬、俺を見た。それからゆるゆると息を吐いて、嘆く。
「ボクはまだ何も言ってやしないじゃないか。
まったく、話の腰を途中で折るなんて君と言う奴は酷いね。」
「――お前がそう言う言い方するとな、不思議な事に俺が碌な目に合わへんねん!」
「ほう、経験が生きたね」
「………………コトリバコの一件、忘れなや」
「君も些事に拘る」
「君も些事に拘る。ね。ハ、あれを些事やと!?」
激昂のままに立ち上がりそうになった俺の腰を、東郷の細い腕が静止する。
屈強な男がそこに居たならば、簡単に縊り殺されてしまいそうなこれのどこに、こんな力があったというのだろう。
俺を見る東郷の瞳は、怖気がするほど真摯だった。
しかし此処まで来て引き下がる訳にも行かない。俺は睨み返した。
「正太郎君」
「…………」
「明日から九月の大型連休に入るだろう。御あつらえ向きだとは思わないかな」
「…………」
東郷は笑った。
「調べてみたくないかい? トミノの地獄の、都市伝説の真偽について」
それから静かに佇まいを治して、一本指を俺へ向ける。
――――……い、一万。一万か。
くそあま。その程度で揺らぐか。そう伝える為、幾分か目つきを鋭くさせると、
意図を機敏に感じ取った東郷は、人を馬鹿にしたような顔つきと、それにそぐった口調でこう言った。
「勘違いしてもらっちゃ困る。一桁違う」
俺は無言でくそあまの右手を握った。
きゅうと力を込めると、恐ろしく低い東郷の体温に、自分のそれが奪われていく。
『また一つ大事な物を失った』と感じる一方で、俺は図らずも、東郷の手触りを堪能してしまったのだ。
――肌理細やかで、陳腐な表現になるが、白魚のような手だった。骨ばった俺の物とは月と鼈である。
「この世は不思議なことが溢れているのだよ、境君」
ぼんやりとそんな事を思っていると、眼前の偏屈屋は、如何にも愉快だという表情を作ってから、
何時もの口癖、いや、自らが信条とする言葉を告げたのだった。
――かくしてこれが、俺の人生において、覚え得る限りで「最悪な九月」、
東郷曰く「予言の自己成就の如何について」――「トミノの地獄」の談。
その一端となる。