さよならを言うまでの間
どうして彼女の事を思い出すのか、その理由を問われてもよく分からない。
僕と彼女の接点と言えば当時通っていた高校の同級生と言うくらいで、当然男と女の関係なんかじゃなかったし、友達と言えるほどの付き合いもなかった。高校を卒業するとそれからもう連絡を取る事すらなくなったし、大学も別だったため就職して数年も経った今では、思い出の中にだけ存在するようになっていた。
「今度、同窓会やるじゃん、来るんだろ?」
「うん、そうだね」
僕は今でも付き合いの続いている友人からの電話にそう答えた。
それからしばらく他愛のない事を話し、通話を終えると僕はふと彼女も来るだろうか? と思い、だけどもし来たとしてなにを話せばいいのか分からなかったし、またそんなに話したいと思うような事も思いつかなかった。
どうして、彼女なのだろう?
その日、僕は職場の上司と並んで酒を飲んでいた。上司は昔ながらの頭の固い人だった。彼は僕と同期で入った男がどれだけ使えないかと言う事で騒いでいた。きっと僕がいない時は僕の事も悪く言っているのだろう。僕は適当に相槌を打ちながら、それでも内心は、あなたが言うほど同僚の出来は悪くないし、その言い分の半分は見当違いもいいところだ、と思っていた。
「なぁ、どう思う?」
「僕ですか?」
「そうだよ。お前はどう思うんだ?」
その問いかけが実際のところは肯定を求めていると言う事は考えるまでもなかった。それでも僕はそれに答えるまでの時間を置くために「そうですね」と言いながらグラスに手を伸ばし、ゆっくりと喉を鳴らしてから、煙草に手を伸ばした。
「僕は」
ライターに手を取り、揺れるその炎を見ながら、僕は考える。
肯定をするのが正しい。きっと同僚もそうしたからと言って、僕を恨んだりするような事もないだろう。否定なんてするのは馬鹿げてる事だった。
「そっちでいいの?」
ふと彼女の事を思い出す。いつも思い出すのはこういう時だった。その時の彼女はあの夏の空の下で目を閉じていたあの日と全く同じ姿だった。そしてその台詞を口にした。高校生だったその時の僕は、それに沈黙で返していた。その言葉は僕を問い詰めるようでも、責めるようでもなく、ただ純粋に僕の気持ちがどこにあるのかを尋ねていて、そしてその返事を求めていたのは彼女ではなくて、僕だった。僕は当時付き合っていた彼女がいたのだけど、些細な事で喧嘩をしてしまい気まずくなっていた。なので普段は彼女の家へと向かうはずの交差点を左に曲がるところを、右に曲がろうとしていたのだけど、彼女はそんな僕を諭すように右手を上げて、そちらの道を指差していた。
僕は見透かされたようで彼女から目を逸らすけれど、元々彼女は僕の方を見てはいなかった。僕はその様子からここでしばらく悩む事を許してもらえるようだと思うのだけど、実際はそんなに長く悩む事はなく、僕は恋人の家がある方の道へと歩き出していた。
「ごめん、なんかありがと」
「うん、いいよ」
彼女はそれだけ言うと、何事もなかったように歩き出し、僕の視界からその姿を消した。そして僕は、その日から、なにかに迷うたび、彼女の事を思い出していた。
そして彼女は「そっちでいいの?」と言い、僕は自分の中の嘘と本当の気持ちがどこにあるのかを確認する。
「そうは思いませんけど」
上司は、自分の言う事に従わない僕の事を「お前は馬鹿だな」と恨めしそうな目で睨んでいた。
僕も自分の事を馬鹿だと思う。
だけど彼女はあの日のように今の僕に対して微笑んでくれているような気がして、それは僕にとって正しい事のように思えた。
同窓会に参加する事にし、会場に少し遅れてやってきた僕を懐かしい顔ぶれが迎えてくれた。僕は当時仲のよかった連中に呼ばれ自然とそちらに向かい腰を下ろしたが、きょろきょろと辺りを見回して彼女の姿を探していた。そんなに広い会場と言う訳でもなく、皆それぞれに成長して腹が突き出ていたり、化粧が濃くなったり、似合わない服を着ていたけれど、どことなく面影は残っていて、僕はすぐに彼女の姿を見つける事が出来た。
彼女は当時とあまり変わっていなかった。僕はそれに少し安心を覚えるのだけど、彼女のお腹が少し膨らんでいる事に気がついた。そこに比べると顔や腕はほっそりとしていて、僕は彼女が妊娠しているのだと言う事に気が付き、ちょっとした驚きも感じていた。
ふと彼女と目が合う。彼女は僕に微笑みかけ、僕はそれをきっかけとして目の前にあったビールを取って彼女の隣に腰掛けた。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
「元気してた?」
「元気だよ。仕事も、順調とはいえないけどそれなりにやってる。上司に怒られたりもするけど」
君の存在が、今の僕の人生を少し面倒くさくして、そしてそれ以上に充実したものにしてくれる事もある。
彼女は僕の思っている事に気づく様子もなく「そっか、いいなぁ」と溜め息を吐き、まるでその吐き出したものを再び自分の中にしまおうとでもするようにグラスを持ち上げた。
「結婚したの?」
僕はそう尋ねる。彼女のお腹を見てそう聞いた。なんと言うか、僕は彼女のあの日のイメージを今でも新鮮なままこの胸に抱いていたのだけど、それ以外の彼女となると特別思い出せるような事はなく、なにを話したものか分からなかったのでそう言ったのだが、彼女は意外にも首を横に振った。
「してないよ」
「でも、その」
「お腹でしょ? うん、妊娠してる」
僕は二の句が告げずに口を閉じる。きっと彼女は幸せそうな顔をして「そうなの」と言うものだと思っていたし、僕は「そう、おめでとう」なんて言う事になるのだと思っていたため、不意のその言葉にうまい言葉が思いつかず、ただ、先程の溜め息の理由をなんとなく理解する事は出来た。
「君が、悩む事じゃないでしょ?」
「そうだけど」
どうやら彼女は誰でもいいから打ち明ける相手が欲しかったらしい。同窓会と言う場所と、そして僕はそんな彼女にとってうってつけだったのかもしれない。いくら旧友と言っても、日ごろ会う事は殆どなく、まして僕など今が終わればもう彼女と会う事はないだろうし、彼女の身近な人達に言いふらされる心配などなかったのだから。
「不倫してるの、私」
「意外だ、君はそういうのとは無縁だと思ってた」
「そうよね、自分でもそう思う」
彼女は苦笑する。
「きっと罰が当たったのね、神様が怒ったのよ」
「そんな事言うなよ」
彼女は「そだね」と言って目を伏せた。
あの日も、彼女は目を閉じていた。だけど口元は微笑んでいて、その姿はあの爽やかで、どこまでも広がっている青い空と、手を伸ばせば触れられそうな白い雲が広がっていたあの夏の日。
僕は目を閉じて一度深い深呼吸をする。あの時の、澄んだ空気の匂いが僕の中に蘇ろうとする。
「下ろす事にするわ。相手にも迷惑かけられないしね」
彼女は忘れてしまったのだろうか、あの日の事を。
「そっちで、いいの?」
そう言ったのは今度は僕だった。
彼女はそう言った僕を少し間の抜けたような表情で見つめ、そしてややあって笑った。
僕は、その表情を見て、彼女が忘れてはいないと言う事を確認する。
「そう言えば、私、そんな事言ったね」
「うん、言った」
「君は恋人のところに行った」
「君に言ってない事があるんだ」
「なに?」
「ありがとう」
僕は彼女から目を逸らさず、微笑んでみせた。
「彼女と仲直りできた事?」
「もうとっくの昔にあいつとは別れてる」
「じゃあ、なにに?」
「自分の気持ちに嘘をついても、誰かを幸せに出来ても、自分を幸せにする事は出来ない」
僕が僕として生きる事の素晴らしさを、教えてくれたんだよ、君が。
彼女は僕の言葉に「そうだね」と頷くと、通りがかった店員に手を挙げ「ウーロン茶下さい」と声をかけた。
そしてそれからは特にこれといった話をする事もなく、僕は友人に手招きされ、そちらへと移動したため、もう彼女とは殆ど話す事はなかった。そうしている内に終わりの時間がやってきて、僕達は店の外で、別れを惜しむようにそこから動かなかったが、それもしばらくするとそれぞれの帰路へと付く事になった。僕は最後の方まで残っていたのだけど、彼女は明日朝が早いのか、バッグを肩にかけると僕の方へとやってきて「じゃあね」と言うと歩き出していった。
「うん。元気でね」
「君もね」
「さようなら」
僕は彼女の後姿を見送る。もう、彼女と会う事はないかもしれない。
だけど、僕の胸の中で小さく微笑んでいる彼女とはこれからも付き合い続けていく事になるだろう。
彼女がシングルマザーとして子供を育てていく事を選んだ事を聞いたのは、それから数ヵ月後、友人からだった。
僕はそれを聞いても、彼女にその事について話をしに会いに行く事なんて当然なかったし、電話をかける事もしなかった。
ただ、胸の中で微笑んでいた彼女は、僕にそうしたように、自分も、自分の行きたい方向に進む事を選んだのだろうと思い、僕はその彼女には「おめでとう」と伝えた。
夏の匂いがする。
僕の中で彼女はいつまでも微笑んでいる。穏やかに。彼女は僕が交差点に差し掛かり、行き先を迷った時、あの日と変わらない伏し目がちにそう言う。
「そっちでいいの?」
僕も微笑む。そして彼女が僕が行きたい方向を指差し、僕は導かれるように、そして自分の意思でそちらへと歩き出す。彼女の傍を通り過ぎ、そして僕は僕の声がまだ届く距離から彼女に声をかける。
「ありがとう」
きっとまた巡り合う。
さよならは、まだ、言わない。