「病める国・「日本」」作:通りすがりのT
「…あー、なんかきょうUFOが見えたから休みたいんです…」
「話にリアリティが無いわ。それでは医師の診断はもらえないわよ」
「む、ず、かしいですねー、診断を、もらうのも…」
国立病院で準看護士をしている敬美は、親友の綾香の就職の手伝いをしていた。
手にする本は「統合失調症のススメ」。
今年ベストセラーとなり、すでに250万部もの販売冊数となっていた。
「若者が就職するためには、病人であるとの医師の認定が必要である。」
これが、2027年の日本における常識であった。
<自立支援医療法>
現在何らかの理由によって定職を持たず、求職の意思を持ちながら医師の診断
その他の客観的事由によって就業が困難とされる若年者を対象とし、この法に定
めるところの「就業困難者」と認められる18歳から35歳までの若年労働者を期限
の定めない正規労働者として雇用した事業所は、3年間にわたって当該労働者に
かかる賃金報酬・租税公課の7割に相当する金額を事業所に対して給付する。
ただし、当該金額が月額200,000円を超える場合は、200,000円を限度とする。
(民明書房:新・詳細社会保険法詳解「自立支援医療法」より抜粋)
この、後の世において「世紀の悪法」と称された法律が生まれたきっかけは、
絶望的なまでの若年労働者の就業状況の悪化によるところだった。
失業率17.5%。
2024年の日本には、求人がなかった。
誰が悪いわけでもない。少子高齢化の進行した日本においては、高齢者への
老齢年金と医療保険の負担が著しく過重となり、保険料率の度重なる引き上げ
が行われており、この時代においては、すでに税金と社会保険料を合わせた国民
負担は給与の50%を占めるまでに膨らんでいた。
月給20万円に対して10万円の本人負担。
一方、20万円の労働力を有する従業員に対して、諸税公課合わせて30万円の支出を
強いられる事業所。
日本の企業が社会保険料の負担に耐えられなくなって、続々と拠点を海外へと
移転させていくのは時代の趨勢だった。
特に18~35歳までの若年労働者層の失業率は32%にも達し、実際には家庭にあって
求職活動を行わない、いわゆるニートと呼ばれる若年層を含めると、潜在失業率は
すでに50%にも達していた。
働き盛りの2人に1人が働けない国、日本。
誰のせいでもない。日本という国が衰え、老人ばかりになってしまったからだ。
老人を支えるために国民負担が高額になり、その結果、企業は人手をより負担割合
の低い海外へと求めた、その結果である。
雇用は海外に求め、他国に比して割安となった法人税の支払のみを支払うことで、
かろうじて社会的責任を果たす。
日本の大企業は、その大半が外国人によって支配される国際企業となった。
日本に生まれた高学歴高知能のエリート層は、大学卒業と共に国際企業のレールに
従い、ただ日本人の誇りのみを胸にして、皆海外に居を移すのである。
このような未来の無い日本にあっては、若者たちも腐ってしまう。
就職活動を前にした多くの若者が、高校生、あるいは大学生のうちに、あまりにも
厳しい社会の壁にもがき苦しみ、そして精神の病を発症していた。
新東京大学医学部の辛濡姫教授の研究によれば、15歳~22歳の全国の高・大学生の
じつに34%がうつ病の罹患者であり、その最大の理由が、あまりにも過酷な就職状況
の悪化を主因とするものであるとされ、そのレポートは日本の厚生省を震撼させるに
十分なものであった。
未来を担うべき若者に心の病が蔓延し、就業困難者がさらに増えることにより、潜在
失業率はさらに悪化する。
若年層の労働能力の劣化は、日本の企業の更なる海外流出と倒産を招く主因となりかね
ない。
政府は決断した。
これ以上の若年労働力の陳腐化を避けるためには、新規雇用のためのコストを縮減し、
就職の間口を広げるよりほかない。
「若年者の就職難は、社会の病理である」
辛教授の理念がその後押しをした。
医療保険の範囲を広げ、就業の支援を一体として医療保険の対象とする。
社会への不適合を解消するためには、就業による社会経験と報酬の獲得よりほか何の
有効な処方箋はない。
一度合併しながらまた分割された新・厚生省と労働省の共同作業によって生み出された
のが、この活気的な法律だった。
「自立支援医療法」は、このようないきさつにより、3年間の時限立法として成立した。
「あなたのしゃべり方にはリアリティがないわ。もっと、本当に…自分の眼で見たよう
に、自信を持って、嘘を言うのよ…」
「え…でも、私が…猫さんにキスをして、空気を吹き込んだら…どんどんお腹が膨らん
でいって、破裂してしまったのは…事実だよ…」
目線の定まらない虚ろな眼。
綾香の言葉を聞きながら、本のページを懸命にめくる敬美。
「だめよ。その類の妄想はこの本によるところの「統合失調症」の基準には載っていな
いわ。もっとあれ、そう、私は総理大臣の隠し子だとか、誰かに命を狙われているとか、
そういう典型的な事例ってないの?」
「敬美、私、そんな病気じぁ、ないと思うよ…」
敬美には分かっていた。
綾香の病気は、単純に統合失調症として片付けられるものではない。
しかし、彼女には就職をしてもらわないといけないのだ。
彼女の両親…父も母も、すでにこの世にはいない。慢性的な求人不足により失業し、
あるいは奴隷のような労働を強いられた結果、別々に、相次いで自殺してしまったのだ。
生活保護の水準が著しく下がり、事実上ブタ箱のような簡易宿舎と奴隷のような労働に
よる現物給付でしか保護されない現在の日本においては、どんな嘘をついても、彼女は
雇用されなければならないのだ。
雇用されなければ生活の糧も得られないし、健康保険証も使えない。
自立支援医療法は、事業所の自己負担割合を3割に限る代わりに、1年間は解雇できないと
いう制約がある。どんな嘘をついても、一度就職してしまえば1年間は生活できるのだ。
次こそは医師から「統合失調症」のお墨付きを貰わなければならない。
子供のような無邪気な微笑みを浮かべる綾香を見つめながら、敬美は強く心に誓うので
あった。
2027年現在の18歳から35歳までの被用者数は1073万人。そのうち、実に432万人までが
自立支援医療法による国庫補助を受けている労働者である。そのために計上した予算は
実に9兆円。
これ以上の増税余力のない日本国にとって、この負担全てが赤字国債によってまかなわ
れている。
財政赤字を破滅的に悪化させる結果となったこの法律だが、この法律によって雇用された
若年労働者からも、その恩恵をこうむる企業からも、廃止の声が上がるたびに猛烈な反対
に晒され、結局誰一人この無謀な法律を廃止することはできなかった。
診断書だけをもらった「えせ病人」が街に溢れ、他方、本当に病に苦しむものはその画一
的な認定基準によって恩恵を得ることができない世紀の悪法。
2029年度の日本国の累積赤字は、実に2000兆円にも及んでいた。
支払余力を完全に見限られた日本国の国債を購入する海外投資家などすでにおらず、
国債の引き受け先はすでに銀行預金や年金積立金…すなわち日本国民の財産だけに限ら
れていた。
一方、この20年の間に、日本国の物価指数はおよそ20%も下落している。
デフレスパイラル。相対的に現在存在する資産の価値は上昇し、国の借金は数字以上に
膨張する。
資産を持つものはさらに富裕化し、持たざるものはさらに貧しくなる。
言うまでも無いが、過酷な就労条件にあえぐ日本の若者に、そのような財産があろう
はずがない。その全てが国債によって担保されている銀行預金や年金積立金の持ち主は、
ほぼ90%が65歳以上の高齢者であった。
そして、その資産のほぼ全てが国債に変わった今、新たな赤字国債は発行できなくなった
に等しい。
決断は、決して表ざたにされることなかった。
発表のそのときまで、ただ13人の男たちの胸のうちにのみ存在した。
我々はもう、十分生きたのだ。
今必要とされているのは、資本主義でも、社会主義でもない。
新しいレーニンを、必要としているのだ。
新たなケインズ理論を、必要としているのだ。
そのために、日本の未来のために、古い日本を終わりにしよう。
古い「日本」をすべて、道連れにするしかない。
「日本」に処方箋なし。
日本を支えた閣僚たちの、総意だった。
”デフォルトを、宣言します。”
国債の債務不履行と、それに伴う現在の公的年金制度の廃止。
山田総理大臣のそのひと言と共に、「日本」は終わった。
<おわり>