「結婚しよう」
いつものように二人きりで俺の部屋にいて、いつも思っていたことを口にした。ただ一つだけいつもと違ったのは、普段はこんなセリフを口に出さないということだ。
年末の大掃除をしていて、学生の頃のアルバムが見つかった。
埃を被ったそれの中に、昔の自分が挟まっている。
「ふーむ……」
写真の中の俺は、楽しそうに学校生活を謳歌している。
今はただの営業マンとして安月給で一兵卒のように扱われ、仕事にやりがいを見出せずにいるというのに――……ああ、昔はよかった。
コタツの上に置きっ放しの携帯電話が鳴った。バイブレーターの振動が、ガタガタとやかましい音を立てる。
『ねえ、高校の時のアルバムってない?』
挨拶もなしに、唐突な質問が受話器越しに俺の右耳を突いた。
「……はあ? 何をいきなり」
『いや、大掃除してたら汚いのが見つかってさあ……カズくんの高校時代の写真を見てみたくなって』
「ちょうどこっちも、大掃除で出てきたのがあるけど……」
俺は立ち上がって、カーテンを除けて窓の外を眺めた。
『じゃあ、それ持ってウチ来てよ」
「嫌だよ、こんなクソ寒い中……」
ガラスを隔てたすぐ近くで、白い結晶が降っている。
『二人でコタツでぬくぬくしようよー』
魅力的な提案だ。……それはきっと、幸せだろうな。
「わかったわかった、行けばいいんだろ」
結局俺は、彼女の誘いに抗えなかった。
二人でコタツに入り、肩を並べて互いのアルバムを眺める。
面白い写真があればツッコみ、興味をひかれた写真については質問する。
「しかしアンタ、どうしてこうバカみたいに楽しそうなのか……」
「その頃は楽しかったんだよ」
思わず口が滑る。
「今は楽しくないの?」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「だよねえ、私がいるんだから」
彼女は屈託なく笑う。
「言ってて恥ずかしくないか? それ」
――人生にはしばしば、嘘をつかなければならない場面が訪れるらしい。
今の生活に満足しているかと問われれば、俺は「ノー」と言いたい。仕事はつまらないけれど、それを打開するために、たった一つの目標に向かって働いている。
つまり、コイツと結婚したいがためだけに――それだけを目標にして、俺は日々自分に嘘をつき続け、下げたくもない頭を下げ続けている。
そしてそれも、結婚資金が貯まった今、そろそろ終わりにしたかった。生活の劇的な変化を望み、プロポーズをしようと思い立ってすでに二週間、俺は機を逸し続けている。
脳は悩みながらも目は写真を追っていた。目に留まったのは、彼女が机の上にトランプのようなカードを広げている写真だった。
「……これ、何してるんだ?」
「ああ、昔、友達の間で占いが流行っててね……タロット占いなんかをよくやってたの」
彼女は懐かしむように言った。
「タロット占い、か。聞いたことはあるけど、どんなものか全く知らないんだよな」
よくよく見れば、写真に映る彼女が手にしているカードは見慣れない絵柄だった。
「適当にカードを並べて、カードの意味から適当に結果をこじつけるとか、そんな感じ」
「カードの意味……じゃあ、お前が持ってる、女の子と地球と、後ろに狼だか犬だかが描かれてるカードはどういう意味なんだ?」
「あ、そういえば――」
彼女は立ち上がってコタツから出ると、薄汚れた小さなケースを持って帰ってきた。
「これも、一緒に出てきたの」
そう言って、カードケースの中から、写真の中のものと同じカードを取り出した。
「『THE WORLD』って、書いてあるでしょ? 『世界』よ」
バカにしているのか、小学生に諭すように彼女は言う。
「そりゃ分かるよ。俺が聞いてるのは、カードの持つ意味ってやつだよ」
「あと、その子は女の子じゃない、両性具有だって説もあるよ」
俺の質問を意に介さないといった様子で、彼女なりにカードの解説を始めてくれたようだ。
「意味はたくさんあるし、状況によっても変わるけど、目的が達成されるとか、生まれ変わるとか、成功、ゴール……あとは結婚なんてのもあるかな…他には――」
彼女が懸命にカードの意味を思い出してくれている傍ら、俺の意識は一つの言葉に集中していた。
「結婚」。そんな意味を持つカードが存在すると知って、俺は彼女に頼んでみた。
「せっかくだし、占ってみてくれよ」
「別にいいけど、アンタこういうのに興味なさそうなのに」
「まあ、ついでというか、試しにというかさ」
本当は興味があって仕方がないくせに素直になれない俺は、また嘘をついた。
せっかくなら自分でやってみろということで、彼女は占いに必要だという二十二枚の山を俺に手渡した。
「ホントは正式なやり方があったはずだったんだけど……忘れちゃったから、とりあえずよく混ぜて」
俺はそれに従い、カードをシャッフルする。枚数が少ないせいでトランプのように上手くいかないが、とにかくカードはバラバラになった。
「それじゃ、上から順番にめくって、私の言う通りに並べて」
最初の一枚をめくり、時計の十二時の位置になるように置いた。
――カードの名前は「THE EMPRSS」。
「この位置は、『過去』を表すの。ここに『女帝』のカードが来るってことは、アンタ、やっぱり学生時代がよほど楽しかったのね」
「ほっとけよ」
続いて、二枚目を四時の位置に並べた。
太陽の絵柄が描かれたカードが、こちらを向いている。
「ここは『現在』。で、『太陽』か……とにかく幸せなカード、かな。成功とか、自信に溢れている、とか……」
とても俺の現在の状況を的確に表しているカードだとは思えないが、所詮は占いだということで、いい加減に聞き流しておく。
「――再会、あといい結婚、とか」
現金な俺の耳は、そのキーワードを聞き逃さない。
それを聞いた途端、太陽のカードが俺を後押ししているように感じた。
「じゃあ、次は『近い未来』を表す三枚目だよ」
ドギマギしながら、八時の方角に新たなカードを並べる。
「……ん?」
一瞬何が描かれているのかが分からなかったが、何のことはない、ただカードが逆さになっているだけだった。
「これは――」
「なあ」
少女の胸に地球が抱かれたカードが、俺の背中を押した。
「何よ」
解説を遮られて若干不機嫌そうに顔をしかめる彼女に、俺は勇気を出して言った。
「結婚しよう」
このタイミングが正しかったのかどうかは分からない。けれど、二枚も結婚を暗示するカードが現れた今、俺は言わずにはいられなかった。
彼女は目を見開いて俺の方を見ている。
「この『世界』のカード、結婚って意味があるんだろ?」
「……え、あ」
今気がついたかのように、彼女は未完成のカードの並びを見た。
「『近い未来』に結婚のカードだ……こういう占いに頼るのも情けないけどさ……勇気、出たんだ。近い未来に結婚、そんで、上手くいく。違うか?」
並べられたカードが正確に意味するところは知らない。けれど人生――特に大事な場面では――嘘やハッタリが必要になることもあるのだ。
彼女はじっと、『世界』のカードを見つめていた。
そして微かに、喜びとも憂いともつかない笑いを浮かべた後、俺の目を見た。
俺は目を見て、改めて言う。
「結婚しよう」
「……うん」
――抱き合う俺たちを、地球を抱いた少女とその後ろの狼が逆さまに見つめていた。