マジでやめちゃう5秒前
「さあ、いよいよ戦いの時がやってまいりました。
ここは東海地方のとある会社事務所。働いているのは社員・パート合わせて40名ほどでしょうか。人数に対してやや手狭な印象のあるフロアです。
改めまして、番組をご覧の皆様こんにちは。本日の実況を務めさせて頂きます田中です。解説は企業内バトルのプロフェッショナル、佐藤さんです。佐藤さん、本日はよろしくお願いします」
「はい、佐藤です。こちらこそよろしくお願いします」
「さっそくですが、佐藤さん、嵐の前の静けさでしょうか。あまり普段と変わらない月曜の朝といった感じですね」
「いやいや、すでに戦いの種は撒かれていますよ。先ほど、この戦いの舞台となる部署で、ベテラン社員が急病のため欠勤するという連絡がきました。要となる社員ですからね。課長から様々な部署にメールが飛び、それに対する反応がぞくぞくと返ってきているところです」
「いま課長の話が出ましたが、この課長、なかなかの曲者らしいですね」
「そうですね。リーダーシップと行動力はかなりのものなのですが、反面、すぐに感情的になり部下に対して暴言を吐くことが多々あります。性格も粘着質で、隣の席の部下がメールを書いていると、背後から一言一句、文章を指示するようなことも日常茶飯事ですからね」
「会社の上層部の間でも問題になっていると聞きましたが?」
「性格が細かいんでしょうね。なにかミスがあるたびに『運用を見直せ。すべて、ぜんぶ』が口癖です。細かなフロー図を要求し、1日かけて書かせた後で自分が1から作り直したりしていますから他部署に比べて残業時間がものすごいことになっているんですよ。経費削減が叫ばれるなかで、これは非常に目立つでしょうね」
「なるほど。さあ、この課長に対するのは下っ端社員の蝉丸さんですね。こちらは『壊されるくらいなら壊してやる』が口癖だとか?」
「それはまた、ずいぶん盛ってますねえ。わたしが聞いたのは『壊れちゃうぐらいなら、逃げてもいいよね?』ですよ。蝉丸くんは基本的にだらしがないんですが、へそを曲げると損得考えずに誰にでも食ってかかるところがありますね。以前の部署では取締役にたてついて、それがもとで部署替えになったという噂もあります」
「なるほど。さあ、こうした面倒な二人の間で、まさにいま、戦いのゴングが鳴ろうとしています」
カーーーーーン!!
「試合開始です! おっとぉ、まずは意外なところからのスタートだ。ベテラン社員の欠勤連絡メールに対して、偉い人から返信がきたぞ。
『○○課の皆様には無理をさせて申し訳ありません。
他の課員の方は体調に問題ありませんか?』
佐藤さん。これはどういうことでしょう? 明らかに個々に対する返信を求めていますね?」
「上層部の間で課長が問題になっているという話がありましたが、最近では暴言がエスカレートし、上層部も『気にはしているよ』というスタンスではすまなくなってきたのでしょう。実際、個別での聞き取り調査なども始まっているようですしね」
「しかしこれは返信が難しいぞ。当然、宛先には件の課長も入っている。ぼやぼやしていると『ぜんぜん大丈夫です! ご心配頂いてありがとうございます! 頑張ります!』みたいな返信が、恐怖の支配下におかれている別の同僚から飛びそうだ」
「蝉丸くんも悩んでいますね。リアクションを求められているのはわかるが、他の同僚に比べると直接の被害は少ない。自分がそこまで先頭に立って動く必要があるのか? しかしメールの宛先には各部署の責任者も入っている。うまくやれば、上が動きやすい状況を作ることができる。いや、これは悩ましい! 悩ましい状況です!」
「ああーーーーっと!!! しかしここで蝉丸へこたれている!! ちょうどいい文章が思いつかないようだあ!! 脳内の! 脳内の文章が『僕たち死にそうです』からうごいていかないーーーーーーっ!!」
「うわあ、ここで蝉丸くんの遅筆が出ましたね。メールを書くのが遅いと何百回も課長に怒られたのが、まったくの無駄だと証明されてしまいましたよ」
「ああーーーーー!! 蝉丸、あきらめたーーーーー!! 返信を放り出して、別の仕事を始めたぞーーーーーー!!」
「こういうところですよねえ。蝉丸くんはこういうところが本当にいかんですよ」
「これは拍子抜け。このまま尻切れトンボで終わってしまうのかあ?
おや? ここで課長動いたぞ!! 隣の席のお気に入り社員に話しかけた!!
『偉い人からメールきてるね。返信しないの?』
佐藤さん! これはジャブですか?」
「ここらへんはさすがですねぇ。課長、このメールの意味と危険性を正しく察知してますよ」
「あっとぉ! 課長、引き続き動きますね。
『お気遣い頂きありがとうございます。大丈夫ですって打っとかないと。なんなら私がみんなの分、まとめて返信しておきましょうか?』
うわーーーー!!! これはなんとも直接的!!!
なりふり構わず潰しにきたぁ!!!!!」
「田中さん!! 蝉丸くん動き出しましたよ!! すごい勢いです!! 返信メールをすごい勢いで打っています!!」
「これはどうしたことだ!! 蝉丸、一心不乱にメールを書き進めている! 課長から画面が見えないのをいいことにYahooニュースを見ていた蝉丸と、音高くキーボードを叩くこの男は本当に同一人物なのか!!! 何がこの男を目覚めさせたというのか!!!」
「蝉丸くん、怒ってますねえ。さっきの課長の言葉に怒髪天のようですよ。課長はメール書くの早いですからね。先に送られたら万事休すです。その前に送信してしまって、何か言われたら『そうなんですかー、聞こえませんでしたー、てへぺろー』で押し通すつもりですよ」
「蝉丸、あっというまにメールを書き上げて送信した!
『お気遣い頂き、ありがとうございます。
仕事が立てこみ、連日深夜までの業務となった月初は、
胸の痛みやめまいなど、体調に不安を感じておりましたが、
仕事に区切りがついた今は、体調も戻りました(後略)』
佐藤さん……これは突貫工事で書いた割に、なかなかいいんじゃないでしょうか?」
「そうですね。批判を前面に出さず、それでいて深夜まで働いていたこと、体調に不安を覚えていたことが自然と伝わるようになっています。このメールに対して課長は注意しにくいでしょう。こんなことを書くなと言うのは、体調が悪くても働けと言うのに等しいですからね。しかし蝉丸くんは、むしろ文句言ってこいと思っていますよ。文句を言われたら、それをそのまま上層部にメールするつもりでいますからね。いや、蝉丸くん、瞬間的には非常に怖い」
「さあ、課長が蝉丸のメールに気付いた! おおーっと! これは、なんとも形容しがたい複雑な表情!! 課長、動けない!!
さあ!! その間に他の社員も動き出した。メールの返信に時間をかけるなという課長の教えが正しく実践されているぞお!!!」
「これはやりましたね。全員、メールの中につらかったというニュアンスが入っていますよ。さあ、これに対して課長はどう動きますかね?」
「課長、動きません。正誤問わず、即断即決のこの男にしては珍しい状況です。さあ、時間だけが刻々と過ぎていく。そして2時間が経過したところで、突如、課長からのメールが飛んだあ!
『(要約)
業務に時間がかかるのは
他部署の協力が得られないことによる影響が大きく、
また当課の課員にも早く帰れるよう
準備を進めておくよう指示は出しておりましたが
実践できていないため自業自得と言える面があるかと思います』
佐藤さん……これは……」
「自爆ですね。これは課長にとって計り知れないダメージになって返ってきますよ。悪いのは私ではない。協力しない他部署と指示に従わない部下が悪い。私は何も悪くないと声高に叫んでしまった。最悪です。ひどい」
「いやあ、まさかこんな展開になるとは誰が予想できたでしょうか。さあ、このまま試合は動くことなく、タイムアップの時間が近づいてまいりました。
おや、課長が動きますよ。
『蝉丸くん、もう帰ってもいいんだよ。胸の痛みやめまいをおこされると困るからね』
ここで安い挑発のストレート! 課長、泥沼に入り込んでいる!!!」
「いや、意外とこれは効果的ですよ。蝉丸くん、安い挑発にめっぽう弱いですからね。『怖いのかよ』とか『逃げんのかよ』なんて言われたら、すぐ乗ってきます。弱い犬ほどよく吠えると言いますが、さしずめ蝉丸くんは、荒ぶるチワワのような男ですからね」
「蝉丸ならぬ、いぬまるくんといったところでしょうか。
さあ、ここでどう出る?
なんと! ここで蝉丸、わざとらしいほどの高笑いだああああーーーーー!!!!
『アッハッハッハッハッハーッ! いやいや、もう大丈夫ですから。体調には十分注意しますんで。いやいやいやいや、アッハッハッハッハッ』
これはどうしたことだぁ? こんな蝉丸みたことないぞぉ!
どうしたんだ、荒ぶるチワワ。
後先考えずに机を蹴る蝉丸はどこに行ったんだーーーーっ?!」
「蝉丸くんは昨日、大阪ですばらしく楽しい1日を過ごしたようですからね。しかも帰宅してからは、たっぷりと睡眠を取り、最高のコンディションで今日の試合に臨んだのでしょう。『からだが勝手に動いた』とかつての大横綱は語ったそうですが、この最後のかわしは頭で考えたのではなく、からだが、防衛本能が勝手に働いたのでしょうね。いや、実に見事です。今日の蝉丸くんは健闘しましたよ」
「そしてここでタイムアップだーーーーーーー!!!!
いやー、開始直後はどうなることかと思いましたが、意外な好カードとなりましたね。佐藤さん、本日の試合について、最後にひとことお願いします」
「今日は蝉丸くんの完勝でした。しかし勝ちが過ぎたような気もしますね。今後、課長は蝉丸くんを完全な敵とみなしてくる可能性がありますよ。安定性に欠ける蝉丸くんですから、いつも今日のようにいくとは限らない。今後は安い挑発に乗らず、かっとした時は心のなかで10秒数えることですね。状況的には課長が完全に不利なんですから。ただ、課長も数々の困難を超えてきた男です。包囲網に対してどう戦うのか、それもひとつの見所になってくるでしょう」
「なるほど。戦いはまだ始まったばかりということですね。
さて、ここで蝉丸氏からメッセージが届いています。
『会社辞めちゃったらごめんね』
だそうです。ごめんねじゃすまないと思いますがねー。三十五歳を超えた男に世間は厳しいですから。
さあ、お別れのお時間となりました。佐藤さん、本日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
「それではまたお会いいたしましょう。さようなら」
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