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008_ラプラスだけが知っている

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ラプラスだけが知っている

 プロローグ

・量子コンピューティングが描き出す未来(DB Society 2018年9月号抜粋)

『量子コンピューターが実用化された現在は、処理速度・記憶容量の面において半導体を基盤としていた時代とは隔世の感がある。例を挙げるならば10億件のレコードから対象の1件を抽出する場合、従来であれば各種テーブル設計を考慮に入れる必要があったが、現在では何も考えずとも瞬間的な処理が可能となっている。これはレコードが1兆件・1000兆件であろうとも同様だ。
 どれほどの負荷を与えれば処理に遅延が生じるのか? 正直なところ我々もその限界を把握できていない状態なのである』

(Sunacle co.ltd データベースシニアアナリスト John.H.Barrack)

  *  *  *

 一般庶民にはいまだ縁遠い存在であったものの、2019年には政府系を始めとする各種研究機関に量子コンピューターが導入され始めていた。前述の引用にも示されている通り、同技術の確立後はデータの処理速度が飛躍的に向上し、夢物語でしかなかった構想が次々と現実化への道筋を辿っている。
 その代表的な例として引合いに出されるのが『監視カメラのネットワーク化、並びに人物認識の即時化による治安向上プロジェクト』と銘打たれた事案である。各地に設置された監視カメラをネット回線で繋ぎ、有事が発生した際には全映像データから必要な情報を瞬時に抽出できるシステムを構築する――それがこのプロジェクトの目的であった。
 誰が、いつ、どこにいたのかを連続的かつ高精度で把握できることから、国家による監視に利用される危険性やプライバシーに関する問題についての指摘も為されていたが、2008年の経済危機以降、窃盗・恐喝などの身近な犯罪が増加していたこともあり、当時の世論調査では8割以上がこのシステムの導入に賛成という結果が出ていた。
 2021年からモデル地区での運用が開始された同システムは想定以上の有効性を示し、犯罪の検挙率は前年同月比で46%の増、2ヶ月後には犯罪発生率においても78%の減という驚異的な結果を導き出した(ただしシステム導入に伴って該当地区の警察官が増員された影響は意図的に除外されている)。
 社会不安が増す昨今において、該当プロジェクトの成功は世間・行政から広く歓迎されるものであった。この成功が、量子コンピューターに関連した他のプロジェクトの推進に一役買うこととなったのである。

 第一章

 前園雄善(まえぞの ゆうぜん)はパイプ椅子の背もたれに身を預け、ディスプレイに映し出されるシミュレーターの分析結果を険しい表情で眺めていた。その顔は54歳という年齢とは不釣り合いな若々しさが保たれている。張りのある白い肌にはシミひとつ無く、整髪料をつけたことのない真っ黒な髪は小学生男子のように刈り揃えられ、視力矯正のみに特化した黒縁の眼鏡には洒落っ気というものがまるで無かった。年相応に見えるのは眉間に刻まれた深い皺だけで、子供の顔にマジックで落書きをしたような違和感がある。
 雄善は刻々と変化するグラフ化された分析結果を微動だにせず見つめていたが、大きなため息とともに緊張感を解くと両手で自分の腿を勢いよく叩いて立ち上がった。彼の身長は160センチに満たず、やや張り出した腹のあたりは安物のベルトに締め付けられている。ジーンズの中に裾を収めたチェックのネルシャツはあちこちに皺が寄っていた。

「駄目だわー。ぜんぜん数値あわねーよ。高八卦くーん、そっちどーおー? やっぱさー、ハード的な障害とかでデータ抜けてんじゃねーのー?」

 雄善は研究室の奥でサーバーの動作確認をしている高八卦耕ニ(たかはっけ こうじ)に向かって声を上げた。この部屋は名称こそ研究室と呼ばれているが、元々は少子化のあおりを受けて破産した大学の一教室である。黒ずんだ木製の壁に囲まれた研究室は、広さこそ十分に確保されているものの、照明設備が貧弱で窓も北側にひとつしかない。そのため昼間であっても全体的に薄暗く、とりわけ図書館の本棚のように並んだサーバー用空冷ラックのあたりは光がろくに届かない状態だった。

「こっちは問題ないですよー。やっぱりデータ連携の部分じゃなくて、根本的なところで何か問題があるんじゃないですかねー」

 高八卦は真っ暗な空冷ラックの影からのっそりと姿を現し、出っ歯の目立つ口元に本人の意思とは関係のない笑みを浮かべて答を返した。高八卦の頭頂部は見事に禿げ上がっていて、その不足分を補うかのように後ろ髪が伸ばされている。

「でもさ、探索範囲を絞った時はいい精度出てたじゃない。蠅の飛ぶ軌道まで完璧にトレースできてたでしょ? それが範囲を広げた途端に狂うんだから例の『4本柱』がうまく機能してないんだって」

 雄善の言葉に刺々しさが混じり込んだ。自らが構築した理論部分にケチをつけられたと感じて臍を曲げたのだ。始末が悪いのは本人がいたって無自覚な点である。

「うーん、素粒子数は大まかに統計取ってるんですよ。総数は正常時と変化がないですし、計算上でもおかしいとこないです」
「だったら何が原因なんだよ! 理論として破綻がないのは明らかだろ! 理論が完璧なら間違ってるのはデータだろうが!」

 雄善はバシバシと机を叩きながら喚いた。こういった癇癪を起こすのはいつもの事で、高八卦は表情を変えることも無く雄善に近づき、手にしたノートパソコンに表示させた分析画面を示した。

「それなんですけどね、ちょっと見て頂きたいんですけども、取得データをいろんなカテゴリで分けて適合率を出してみたんですよ。そしたらほら、ここです、ここ。対象物別分析のところ」
「ん……人に関する部分の予測適合率が異様に低いね……」
「そうなんです。距離別でも時間別でも大した違いは出なかったんですが、対象物別では突出した異常値がはじき出されてきたんですよ。根本の理論に問題はないと思いますけど、人の行動に関する部分で詰め切れてないところがあるんじゃないですかね」

 微妙に発言のニュアンスを変えつつ、高八卦は自分の仮説を伝えた。雄善は腕を組み、しばし考えを巡らせてから口を開く。

「これさ、人の行動部分に絞って予測と実測のずれをある程度類型化できる?」
「40分ほどもらえます?」

 高八卦の良好なレスポンスに、雄善の表情は自然とほころんだ。

「早過ぎ、早過ぎ。3時間くらいかけて頂戴よ。高八卦くんが分析してる間が僕の休憩時間なんだから。もうすぐ昼だし、のんびり食べてからにしよ」

 高八卦の肩を満足気にぽんぽんと叩く雄善は、先ほどの癇癪など欠片も心に留めていないようであった。

 雄善と高八卦は国家プロジェクトのひとつである『将来事象予測シミュレータ(仮称)』の開発に携わっている。『将来事象予測シミュレータ』とは一般的に言うところの『未来予測システム』と同義だ。
 このシステムは、任意の基準時点における、対象範囲内の物質運動すべてを素粒子レベルでデータベース化し、発生しうる未来を予測するものである。例えるなら、ビリヤードにおいてどの程度の強さ・角度で手玉を突けば9番ボールがポケットに落ちるかを計算する行為に近い。完璧な予測をしようとすれば、ビリヤードという限定された状況下であっても必要なデータ量は膨大なものとなる。ボールの重さやラシャの摩擦抵抗といった基本数値に加え、ボールに付いた傷の有無・キュー先に塗るチョーク粉の量までも考慮に入れなければならない。
 これが物理現象すべての予測となれば、必要なデータ量は天文学的に増加する。10年前であれば明らかに実現不可能な処理であったが、現在では量子コンピューティングによって速度の面では技術的なハードルを超える事が可能となっている。あとはどのようにして必要なデータを取得するかが問題となるが、その点については雄善が専門であった。
 元々、雄善は某国立大学において助教授職に就き、素粒子物理学を専門としていた。気紛れでへそ曲がりでプライドの高い雄善は、大学内で煙たがられ孤立していた。当然、学内で繰り広げられる派閥争いで器用に振舞える筈もなく、旧態依然とした大学組織内では雄善が教授職に就く道は閉ざされていたも同然であった。
 そんな状態に嫌気が差していた雄善は、素粒子の反射を利用した未来予測シミュレーターについての論文を教授を通さず学会に発表、同時に量子コンピューターを利用したプロジェクトのバブル状態になっていた文部科学省へも売込みの書面を送付した。運良く文科省から声のかかった雄善は、教授を無視したことで完全に居場所の無くなった大学を辞め、このプロジェクトに全精力を注ぎ込むこととなったのである。
 一方、高八卦はシステム畑の人物である。地震発生時における津波の伝わり方をシミュレートするシステムを手掛けた際、流体力学のアドバイザーとして参加していた雄善と出会った(雄善が専門とは違う分野でアドバイザーをしていたのは、評価に繋がらない仕事を押し付けられたためである)。
 気難しい雄善に対し、高八卦はいつも貼り付いたような微笑みを絶やさず、相手の話をよく聞き、必要と思えば柔らかな物腰で理論的な反論をした。雄善にとっての高八卦は得意分野こそ違えど、自分の話を理解し現実化への道筋をつけてくれる存在であり、高八卦にとっての雄善は身につけたスキルを遺憾無く発揮できる課題を提示してくる刺激的な人物であった。しかし2人の関係において最も重要なのは、妙にウマが合ったという点に尽きる。2人は初対面の時からお互いを長年のパートナーのように感じ、システム完成後も頻繁に連絡を取り合っていた。
 膨大なデータを取り扱う未来予測シミュレーターにおいて、量子コンピューティングの技術は必要不可欠なものである。しかし最先端技術である量子コンピューターに関して、国は十分なノウハウを得ていなかった。雄善は高八卦に協力を打診し、既にリタイアを選択肢に入れていた高八卦は一も二もなくこの話を承諾した。金銭面では既に一生を遊んで暮らせるだけの余裕がある高八卦は、雄善と共に前人未到のシステム構築ができるこのプロジェクトを最後の仕事として選んだのである。それが2年前、雄善が52歳、高八卦が45歳の頃であった。

 すっかり機嫌をよくした雄善は冷たくなったコーヒーを鼻唄まじりに啜っている。子供のように単純な雄善の感情表現に気が緩んでしまったのか、高八卦はつい口を滑らせてしまった。

「じゃあ、昼ごはん食べてからにします。審理官来るまで、まだ日にちありますしね」

 高八卦の『審理官』という言葉を聞いた途端、折角直った雄善の機嫌は瞬く間に悪くなっていく。余計な発言に気付いた高八卦の口元が僅かに引き攣った。

「ああ……もうそんな時期か……。今度いつ来るんだっけ、あの能面ブス」
「ちょうど2週間後ですね。5月29日の水曜日」
「鬱陶しいな、くそっ! あんな小娘にいちいち進捗状況を説明するなんて、無駄以外の何物でもねーよ! 口を開けばカネ! カネ! カネ! あれ絶対彼氏できねーよな。きっとさ、毎日毎日ゴミだらけの部屋でひとり淋しくコンビニ弁当とか食ってんだよ。そんでどんどん無駄に年も食っちゃってさ、いよいよ選んでられなくなって金だけ持ってるカバみたいなのとくっつくんだよ。もう、目に浮かぶね。首とか皺々になった能面ブスがさ、仲良くカバと並んで満面の笑みで結婚写真とか撮って浮かれてんの。それで恥ずかしげもなく年賀状にその写真使ったりしてさ『私たち結婚しました』なんて書いてあるんだよ。あー、笑うわー」

 努めて、何でもない風を装った高八卦だったが、感情のスイッチが入ってしまった雄善は堰を切ったように『審理官』への不満と誹謗を口汚く捲し立てる。

「確かにそんな感じですよね。仕事一筋みたいな。でも耳が痛いですよ。私もひとりの部屋でコンビニ弁当ばかりですから」
「なに言ってんの。高八卦くんなんて、その気になればよりどりみどりでしょうが。お金いっぱい持ってんでしょ? 私も民間行っときゃよかったわ」

 高八卦は話の矛先がずれてきた事に内心ほっとしていた。

「いえいえ全然ですよ。ほとんどフリーでしたから年金もあまり貰えそうにないですし、孤独な老後に備えておきませんと」
「年金ったって70からしか貰えないし、どうしろってんだろうね。それもこれも政治家と官僚どもが揃いも揃ってボンクラなせいなんだよ。誰も彼も目先の損得しか考えてないんだからさ。霞が関には能面ブスみたいなのがうじゃうじゃしてんだろうなー。あー、やってらんねーですわ、まったく」

 雄善は頭の横でばたばた手を振りながら、研究室で唯一の窓に近づいていった。風薫る5月であるにも関わらず、窓の外には荒れ放題の畑が見渡す限りに広がり、低い屋根の民家がぽつぽつと点在するばかりである。
 そんなうら淋しい景色の中、雄善の視線の先にはひときわ異彩を放つ建造物が聳え立っていた。表面を漆黒に塗装された巨大なポールが、投擲された槍よろしく地面に対して斜めに突き刺さっているのだ。
 ポールと地面との仰角は60度に固定され、地表に出ている部分は116メートルの長さがある。この見慣れない建造物に近づいてみれば、地面に寝かされた同様のポール2本が斜めに突き出したポールを挟み、直角を成すように接続されているのに気が付くだろう。計3本のポールが描き出すのは正四角錐の頂点であり、まるでピラミッドの一角を切り出したかのような印象を見る者に与えた。
 この建造物はプロジェクト関係者から『4本柱』と呼ばれていた。『4本柱』とは同様のポールが研究所を中心として、東西南北の4ヶ所に設置されているところからついた名称である。各ポールは研究所から等しく5キロの距離を取った地点に配置されていた。
 雄善はがたつく窓を力づくで開け、漆黒のポールに熱い眼差しを送った。各ポールの先を伸ばしていけば、前述の印象通りこの地に巨大なピラミッドが描き出される。
 仮想的なピラミッドは素粒子を捉える入力デバイスである。ポールから出力された電子線は隣接するポールとの間で制御され、仮想的ピラミッドの壁面・底面に膜状の感知面を作り出す。ピラミッドの中心に位置するこの研究所からは、特定のパターンを組み合わせた素粒子が数限りなく放射されていた。
 直進する素粒子は様々な障害物と衝突を起こしながら、入力デバイスである仮想的なピラミッドの壁面・底面へと到達し感知される。取得した到達パターンは量子コンピューターサーバーに集約され、研究所から感知面までの間に障害物が存在しないと仮定した場合に予測される到達パターンと比較が行われる。その差異を分析する事でピラミッド内の物理的状態を把握する事が可能となるのだ。
 この時用いられる理論が、雄善の提唱した未来予測シミュレーターの骨子であり、予測の元となる基礎データを収集する4本柱は、このプロジェクトの根幹を成すものであった。

 雄善はポールを見つめたまま黙り込んでしまい昼食に出る気配もない。高八卦はそんな雄善の背中をぼんやりと眺めている。サーバー用空冷ラックのモーターが深夜の冷蔵庫のような音を立て、研究室を無音よりも深い静寂へと包み込んでいった。
 小さな窓からゆるい風が吹き込み、雄善の輪郭を揺らす。やがて雄善は、半ば独り言ででもあるかのように話し始めた。

「近視眼的な奴らはさ、未来を完璧に予測するシステムができるなんて信じようともしないのよ。頭ごなしに否定して、前例の無いものにカネは出せないっておしまいになるだけ。
 だから今回のプロジェクトも地震予測・気象予測なんかのバカでも分かる餌で予算引っ張ってきてるんだけどね、本当は未来なんて全部わかる筈なんだよ。高八卦くんがこの先どんな嫁さんを貰うのかとか、私がどんな死に方をするのかとかもね。
 この世界の物理的運動――それは人の神経を流れるパルスなんかを含めてだけれども、基準となる一点において、すべてのベクトルと相対的な位置関係を把握することができれば、あとはただの計算なんだよ。人の意思さえも素粒子レベルでは刺激と反応の単純な組み合わせに過ぎない。おそらく未来はすべて確定しているんだ。
 私はね、高八卦くん、すべては運命じゃないかと思っているんだよ。為すべき事を為すべき者が為す。ただそれだけなんだとね。
 そして今、私は強く運命を感じている。素粒子論を学んだこと、量子コンピューター技術の進化、高八卦くんと出会ったこと、国家戦略のニーズ。それらすべては結びつき、ひとつの革新が世に生み出されようとしている。
 即ち! 時は満ちたんだよ! 高八卦くん! 200年の時を経て、このシステムの由来である『ラプラスの魔』は蘇るんだ。私と高八卦くんの手によってね」

 雄善は語るに連れ興奮の度合いを増していき、高八卦に振りかえった時には、強く握りしめた拳を振り乱しているほどだった。高八卦は雄善の真っ直ぐな視線に困惑し、はにかんだ様子で目を逸らすと、つるりとした自らの頭頂部を撫でた。

 18世紀から19世紀にかけて活躍したフランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラス。彼は、世界に存在するすべての原子の位置と運動量を知ることができれば、未来は過去と同様にすべてが確定したものとして認識することができるだろうと自著に記し、その主張は後世『ラプラスの魔』として知られることとなった。
 雄善がこのプロジェクトによって目指しているもの、それは完全に未来を予測できるシステムの構築である。システムの完成が『ラプラスの魔』を実証することに他ならないことから、雄善はこのシステムを『ラプラス』と呼んでいた。当然、公式な名称ではなく、高八卦とのやりとりにおいてのみである。

 高八卦は、腕を組んで満足気な笑みを浮かべている雄善と、その背後に控える巨大な漆黒のポールにちらと目を向けた。光沢のあるポールの表面はうららかな日の光を受けて眩く輝いていた。
9, 8

  


 第二章

 5月29日、研究室は重苦しい空気に包まれていた。簡素なテーブルを間に挟み、雄善と高八卦は国の予算審理官である西條遥(さいじょう はるか)と向かい合って座っている。不機嫌な態度を隠そうともしない雄善は、身体を斜めにして足を組み、右手の人差し指でテーブルをコツコツコツコツとせわしなく叩き続けていた。
 西條はこのあからさまな態度を完全に黙殺し、高八卦の作成した追加報告の資料に目を通している。黒のストライプスーツを身に纏い、背筋を伸ばして資料に見入る姿はコーディネイトされたマネキンのようである。顔の造作は幼い部類に入るのだろうが、その表情からは動揺や苛立ちといった感情を読み取ることができず、26歳という年齢に似つかわしくない落ち着きぶりは対峙する者に緊張感を与えた。
 資料には報告書提出の時点で原因が特定できずにいた『人の行動における予測と実測の著しい乖離』について記載がされている。プロジェクト発足当初、外部の刺激に対して自発的な反応を返す生物の行動予測は第一の壁であった。この点については大量データから類型パターンを導き出す能力に長けた高八卦により、刺激と反応の間にある相関関係が解明されている。刺激の強さと影響を受ける個体の神経系の状態さえ把握できれば、そこから導き出される反応は単純な物理運動と同様に予測することができた。
 今回、人の行動について予測と実測の間にずれが生じた原因は、他の生物に比べて人間の神経系が複雑であり、かつ個体差による違いが他の生物に比べて大きい点にあった。統計的な手法から誤差のない法則を導き出すにはサンプルデータが不足していたのだ。
 雄善たちがサンプルとして取得できるのは、四方に設置されたポールを直線で結んだ際に描き出されるピラミッド型の内部だけであり、地表面の面積で言えば、一辺が約7キロメートル程の正方形内に限られてしまう。この地域では過疎が進んでいるため、該当エリアの人口は2000人に満たない状態であった。

「頂いた資料内容は把握しました。対応策についてお聞かせ下さい」

 顔を上げた西條の口調は淡々としていながらも耳に入りやすく歯切れがよい。迷いの無い言葉から強い自信と高い知性を窺い知ることができた。

「対応策もそこに書いてあったでしょ。『相当数のデータサンプルが必要である』って。黙々と何読んでたの? 読んでるふりしてただけなんじゃないの?」

 片や雄善は中途半端なチンピラ同然の口ぶりで西條に食ってかかる。普段着のままでだらしのない姿勢を取っている雄善は西條とは対照的であった。

「『相当数』では具体的な数量が不明です。また『データサンプル』とは何を指しているかが不明瞭です。人の神経系に関するサンプルだとは推測できますが、必要な精度が不明なため現状設備で対応可能であるか、もしくは別の方法を検討せねばならないかが判別できません」
「これは報告書でしょ? 概要を伝えるのに具体的な数値なんかいるの? 実験結果数値の一覧表も載せとかないと駄目なのかな? ねぇ?」
「この報告書は進捗状況・問題点の把握が目的ですので、本題から外れた数値は必要ありません。先ほども申し上げましたが、今回の場合は発生した事態にどう対応するかが問題となります。解決に要する規模・期間は必要予算に影響を及ぼしますから」
「またカネか! 経費ばかり強調してるけどさ、少しはこのプロジェクトの経済効果も試算してもらいたいもんだね! 高八卦くんが一般化した刺激と反応の関係なんかは、あちこちの分野に取り入れられてる筈だけど?」
「ご希望であれば後ほど試算結果をお伝えさせて頂きますが、その件は今回の問題と関連がありません。まずは想定されている対応策をご確認させて下さい」
「あのさぁ……随分とバカにした言い草じゃないの? そもそもプロジェクトの……」
「まぁまぁまぁ……。この件はもともと私の見通しの甘さから発生した問題ですから」

 頭に血が上った雄善を高八卦が止めた。

「そういうことじゃなくてさ、私は人に対する態度ってものを問題にしてるんだよ。彼女の態度は尊敬すべき研究者に対する国の態度を雄弁に物語っているんだ」
「ええ、確かにそれはそうなんですけど、これから審理官にご相談する内容が内容なんで、ちょっと私に話をさせてもらいたいんですけど、駄目でしょうか?」
「……いや、別に駄目な理由はないよ。好きに話したらいいじゃないか」

 雄善は拗ねたように呟くと腕を組んでふんぞり返ってしまった。軽く頭を下げ、西條に顔を向けようとした高八卦に対して、雄善は突如何かを思い出したかのようにその袖を引く。不思議そうな顔で振り返った高八卦に雄善は耳打ちをした。

(こうやってればさ、何か言われてるって勘繰るよね)

 高八卦は頷きながら愛想笑いを返すのみだったが、雄善は得意満面な様子で西條にちらちらと目をやっては、底意地の悪い笑みを浮かべて囁き続ける。それでも二言三言話すと気がすんだのか、雄善はすっきりした顔になって再び椅子にふんぞり返った。困惑の色を目の端に滲ませつつ、ようやく高八卦は西條へと向き直った。

「ええと、それでは私の方から対応策についてお伝えさせて頂きますね。先ほど審理官の仰っていた『相当数のデータサンプル』に関する具体的な数量とその内容についてですけれども、結論から申し上げると、必要なデータサンプルとは脳を含む全身のCTスキャン画像になります。これは任意の部位を確認できる全走タイプですね。指定サンプル数としては10万件が希望です」
「かなり大規模ですね。『刺激に対する反応の相互関係が想定以上に複雑であった』と先程の追加資料にありましたが、その解決にこれだけの量のサンプルが必要なのでしょうか。全走タイプのCTは一般的になっていますが、医療行為以外の用途で使用することは禁じられています。研究用に提供されたデータをご用意するとしても5000件が精々です」
「ええ、内容的に無理があることは承知しています。あくまでシステム面からの要望になりますので。ただですね、残念ながら現状ではこの内容と件数でぎりぎりなんです。今の状態は予算で例えますと、何にいくらかかるかは捉えられるんですが、個々の事項がどの省庁に紐付けられるかがわからないようなものです。逆の言い方をしますと、関係性さえ明らかにできればこの件が問題になることはもうないでしょう」
「仰ることは理解できますが、割り当てられた予算から考えて一遍にご要望を満たすことはできません。段階的に対応させて頂くことになるかと思います」
「はい、それで結構です。ご無理を言ってすみませんが、よろしくお願いいたします」

 高八卦は普段よりも感情のこもった笑顔を西條に向けた。過去、雄善たちは4本柱の建設時や生物の反応パターン分析時に、プロジェクトの規模からすれば過大と思える要求を出している。特に4本柱建設時の要求は、雄善たちの望む精度をそのまま実現しようとすれば、必要経費が当初予算の3倍を超えるであろう無茶な代物であった。
 西條は愛想のない物言いとは裏腹な柔軟さでそれらの要求に答えてきた。予算の増加は最小限に抑えつつ、雄善たちの要求を最大限考慮する対応であったと高八卦は考えている。予算の融通に関して高八卦は西條に強い信頼を置いていた。
 一方、西條に対する雄善の評価は酷いものである。柔軟さはその場限りのごまかしと映り、足りない部分を高八卦が必死で尻拭いしているという認識を持っていた。

「ちょっと待ってよ。段階的ってどういうレベル? さっき研究用データは5000件って言ってたよね。残りの9万5000件はどうするの? 医療用データを転用する手続きを取るの? でもそれって各個人に承諾を取るしかないよね。そんなことできるの?」

 前述の認識から、雄善は我慢しきれずに口を挟んだ。困り顔の高八卦など目には入っていない。西條は変わらぬ口調で雄善に答えた。

「その方法は現実的ではありません。過去2年分の医療データは保存されていますから絶対数は10万に届くでしょうが、ご指摘の通り各個人の承諾を得ることは非効率です」
「じゃあ、あらたにデータ提供するボランティアでも募るの? おまけに健康診断をつけたりしてさ。金と時間がどれだけかかるか分からないけど」
「それも無理でしょう。費用が莫大になりますし、国民の健康に関する施策は厚生労働省の管轄です。我々文部科学省が立案できるものではありません」

 雄善は西條の回答を鼻で笑い、高飛車な態度で言葉を続けた。

「では、是非ともお聞かせ頂きたいですね。段階的と仰ったからには、次の一手も考えていらっしゃるんでしょう? 研究用データをかき集めた後、どのような方法で必要なサンプルをご提供して頂けるのか! 具体的な方法と期間をご教示頂きたい!」

 雄善が鬼の首を取ったように言い放つ。それに対し、珍しく高八卦が正面から異を唱えた。

「雄善さん。いまお伝えしたばかりなんですから、そこまで要求するのはちょっと違うんじゃないでしょうか?」

 高八卦の言葉に雄善は目を丸くした。個人的な感情を多分に含んではいるものの、雄善にしてみればプロジェクト遂行のために必要な進言を行っているだけという認識がある。高八卦から異論が出るなどとは夢にも思っていなかったのだ。
 一方、高八卦はこのやり取りをプロジェクトの存続に関わるものだと位置づけていた。プロジェクト後半に差しかかっての追加要求である。どこまで押し、どこで引くかの計画を立てるのは勿論の事、希望が満たされず開発が止まってしまう場合を想定し、プロジェクトにどういった付加価値をつけ、次年度予算を確保するかまでを考えていたのだ。
 西條の反応は予想以上に穏やかなもので、段階的な対応を行う言質も取った。口先だけで切り捨てられる可能性もあるが、現段階では望外の成果である。それを雄善の一時的な感情――目の前で耳打ちをして喜ぶような――で台無しにされる訳にはいかなかった。
 相反する思惑は雄善と高八卦の感情を揺さぶり昂ぶらせる。思いの丈を先に言葉にしたのは、やはり雄善であった。

「高八卦くんはそう言うけどね、もう他の部分は完成なんだから、あとはサンプルの有無にかかっているんだよ。サンプル数は絞りに絞った結果なんだろ? 80億の人類すべての行動がたったの10万件で類型化できる。彼女はその点を理解していないんだ」
「それを言うなら、私たちはこのプロジェクトの予算規模に対して法外な要求をしている点を考えないと駄目だと思いますよ。にも関わらず、審理官は真摯にご対応して下さってるじゃないですか。それなのに具体的な方法と期間を言えなんてのは、あまりにも失礼ですよ」
「研究者が予算を気にしてへーこらしろってのかね? 必要なものは必要なんだから、そこははっきりさせとくべきなんだよ。それを何だね。高八卦くんはへらへら笑ってぺこぺこするだけじゃないか。私たちは国からカネを恵んでもらう物乞いじゃないんだよ。額面通りの価値しかないカネから、より価値のある生産物を生み出してるんじゃないか。そういう自負が足りないよ、高八卦くんは」
「そんな話はしていないでしょう。雄善さんはすぐ話を大きくしてごまかそうとする。私が言っているのは、審理官に具体的な要望を伝えたのはついさっきなのに、それに対する具体的な方法と期間を言えなんて無理でしょうということなんですよ」
「無理ってこと無いだろう。段階的に対応するって言ってるんだからさ、次の段階の話を具体的に聞かせてくれって言ってるだけだろ? 何でそんなにつっかかってくんの?」
「ですから、いま伝えたばかりなんですし、段階的ってのはその後のことはこれから考えるって意味なんですよ。雄善さんこそどうしてそんなにこだわるんですか。普通、そういう意味だってわかるでしょう?」
「いや、わからないね。それなら以降のことはこれから考えるって言えば済むことだろう? 段階的っていうのは最後までやることが決まってるけど、順を追って進める必要がある時に使う言葉だ。もしくはちゃんとやるように見せかける時に使う言葉だね」
「そんな屁理屈を言わないで下さいよ。本当にどうしてそうすぐ話を逸らそうとするんですか?」
「逸らしてないだろ! 君の下らない問い掛けにひとつひとつ答えてやってるんだろうが! 高八卦くんは単に自分が正しいと思う答えじゃないから満足してないだけだ! 自分が口にしたことを冷静に思い返してみればいい!」

 雄善は顔を真っ赤にして言い放った。高八卦も冷静さは失っていないものの、そっぽを向く雄善に眉根を寄せていた。

「あの、高八卦先生」

 2人の口論を静観していた西條が口を開いた。西條の存在を思い出し、高八卦は慌てて取り繕おうとする。

「いや、大変お見苦しいところをお見せしました。たまにあるんですよ。議論がついつい白熱してしまいまして」
「いえ、それは構いませんが、高八卦先生は一点思い違いをされています」
「……と、申しますと?」
「10万件の全走CTデータはご用意いたします。都合上、具体的な方法は今の時点でお伝えできませんが、期間は2ヶ月から遅くとも3ヶ月でお渡しできると思います」

 事もなげに話す西條を高八卦は呆けた顔で見つめた。そっぽを向いていた雄善も西條に向き直る。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。5000件分を2ヶ月後に……という話ではなく、10万件のCTデータを2、3ヶ月で用意できるということですか?」
「そうです。5000件分に関しては手続きが済み次第お渡ししますので1週間ほどお待ち下さい」

 高八卦は言葉を失った。10万件の全走CTデータを3ヶ月で集めるとすれば、1日1000件超ペースで取得していかなければならない。物理的・予算的な制約から考えて、高八卦には不可能としか思えなかった。

「面白い! お手並み拝見させて頂きますよ。約束通りにデータを頂けたなら、私どもも今年中に結果を出すことをお約束いたします」

 思いを巡らせる高八卦をよそに、雄善は実現根拠の無い約束を高らかに宣言する。

「期待しています、前園先生」

 話が終わったとみなしたのか、雄善に答えた西條は、既に資料を含む手荷物をグレーのレザーバッグにしまい終えていた。儀礼的な挨拶をして研究室を出ていく西條を雄善は珍しく研究室の外まで見送った。一方、高八卦は混乱した頭を前方に倒し、パイプ椅子に力無く身体を沈めていた。

「能面ブスもあれでなかなか話が通じるようになってきたじゃないか。な! 高八卦くん! 変に遠慮なんかしちゃいかんのだよ。お互いに思うところをぶつけ合い、最大限の結果を出すことこそがプロフェッショナルに課せられた使命なのだからね! 今日はいい勉強になっただろう、高八卦くん!」
「……そうですね。完全に私の一人相撲だったようです」
「なあに、気にすることはないよ。これからはもっと大きな視点でものを見るように意識すれば問題ないさ。そうすれば世界はより広いものだと分かるんだからね」

 高八卦は奇妙に歪んだ笑みを浮かべた。複雑な感情を抱く高八卦をよそに、雄善は胸を張って窓辺に立ち4本柱を真っ直ぐに見つめる。迷い無く我が道を進む雄善の姿を見ていると、高八卦はたった今まで感じていた胸の鬱積が薄らいでいくように思えた。

「ほらほら高八卦くん、能面ブスがせかせか歩いてるよ。駅までかなりあるのに歩いていく気かな? たまにはポケットマネーでタクシーでも呼んでやればよかったな」

 高八卦は上機嫌な雄善の言葉に思わず吹き出すと、パイプ椅子から立ち上がって窓辺に並んだ。窓から見下ろす景色には、競歩選手のような勢いで遠ざかっていく西條の姿があった。

 第三章

 西條とのやり取りから2ヶ月が過ぎ、季節は夏へと移り変わっていた。冷房の効いた研究室では雄善がひとりWebブラウザと向き合っている。
 2か月前の時点でも同様であったが、システム開発が実装の段階に入ってしまうと基礎理論担当の雄善は検証以外にやることがなくなってしまう。データ受入時の準備や処理の最適化を進める高八卦に対し、雄善は興味を引く論文をインターネットで読み漁る日々を送っていた。勤務時間が決まっている訳ではないので、最終的な結果に繋がれば何をして過ごそうと自由である。極端な話、何かしらの理由をつけて長期の旅行に出ることも可能であった。
 しかし雄善は、住居としているこの研究所からほとんど出かけることがなかった。雄善にとっての最良の娯楽は思考することであり、そのための環境がもっとも整っているのはこの研究所に他ならないからだ。
 そもそも雄善は思考の枷となるもの、例えば社会的な人間関係や家庭を築くことを積極的に排除してきた人物である。このプロジェクトはそんな雄善の到達点であり、極論してしまえばこのシステム――ラプラスの完成こそが雄善の生きる理由なのである。であればこそ、データ待ちで開発が止まっている現在の状態は、雄善にとって非常に腹立たしいものであった。

「……高八卦くん、遅っせーな。どんだけ道混んでんだよ。外はうるせーし、落ちつかねーよな、まったく……」

 雄善はひとり毒づき、PCの時刻表示に目をやった。午前11時を過ぎた今も高八卦は研究所に姿を現していない。自宅のマンションから車で通勤している高八卦は、普段、判で押したかのように9時50分には研究所へやってくるが、今日は道が混んでいるために遅れそうだという連絡が既に入っていた。
 この界隈で道が混むなど通常では有り得ない。雄善は舌打ちと共に立ち上がるとせわしなく窓の前へ移動し、そこから見える町の様相を忌々しげに睨みつけた。
 窓の外では長い列をなした車が大渋滞を引き起こしていた。交通整理用のホイッスルは絶え間なく吹き鳴らされ、苛立ちを抑えきれない一部の輩は、あちこちでけたたましくクラクションを鳴らしている。喧騒の中で前進も後退も出来なくなった車列の脇では、道の隙間を埋め尽くす程の人の群れが、同じ方向に向かってぞろぞろと歩みを進めていた。
 巡礼者のような人々が目指す先には、黒々と輝く北側の『4本柱』が雲ひとつ無い青空に向かって頭を伸ばしている。シンボリックな印象を抱かせる漆黒のポールの根元には、今日から3日間の予定で開催されるロックフェスティバル用のステージが設営されていて、このあたり一帯は早い時間帯から爆音が鳴り響いていた。

「こんな騒がしいもの、何がいいんだろうねぇ……」

 雄善は芝居じみた大きなため息を吐いて窓に背を向けると、PCの前に戻ってパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。気がそがれた雄善は、目と鼻の先で開催されているロックフェスティバルについて検索を始めた。
 やる気無く頬杖をついた雄善は公式サイトの情報を漫然と読み流していく。演奏中のアーティストや熱狂する観客たちの画像が、映画のスタッフロールのように画面の下から上へと流れては消えていった。
 25年以上の歴史を持つこのロックフェスティバルは、開催場所の変更を2ヶ月前に急遽発表した。確かに、これまでの会場では交通の便が悪く、女性や年少者には厳しい環境であるという意見は以前からあった。その点、雄善たちの研究所付近であれば、都心からも比較的近く、過去に大学があったことから鉄道を始めとした公共交通機関も利便性がよいままとなっている。用途を知らなければ謎のオブジェにしか見えない4本柱も、こういったイベントの象徴として立派に機能することだろう。
 しかし、開催直前の慌ただしい会場変更に対して、裏に何かあるのではと訝しむ向きも多かった。新規で運営に関わるようになったイベント会社が発言権を得るために会場変更を強く主張しただの、かねてから会場移転を主張していたグループが、現状維持派を無理矢理追い出しただのといった、想像の域を出ない話がネット上でまことしやかに囁かれていた。
 こうした噂話も含めた、公式以外の情報にも雄善は目を通し始める。その中には来場者が現在の様子を動画でネット配信しているものもあった。

「ん? これは……」

 雄善は画面に顔を寄せて目を細める。表示されている動画は、駅を下りた来場者が駅前に設置された銀色のゲートを通り抜ける様子を映したものだ。
 今回の会場変更に伴い、チケットの電子化も実験的に行われていた。来場者はICチップの埋め込まれた小さなベルトを手首に巻き、会場とその周辺に設置された認証装置のゲートをくぐる。一度認証を行えば、4本柱の根元に設営された各ステージへの入退場は勿論のこと、会場となるこの町を周回するシャトルバスの利用や駐車チケット・キャンプ用チケットの有無なども、一括で管理することが可能となる。
 雄善が注目していたのは、認証の際に使われている装置――認証用ゲートであった。立ったまま通り抜けることのできる認証ゲートは、奥行きが50センチ程の銀色のトンネルになっている。雄善はこの認証装置に関する動画や資料を集め始めた。

「いやー、遅くなりまして申し訳ありません。道がここまで混むなんて予想外でしたよ。バッテリーが上がっちゃうんじゃないかと冷や汗が出ました」

 高八卦が汗だくの顔で研究所に姿を見せた。時刻は間もなく正午になろうとしている。ハンカチで汗を拭く高八卦には目もくれず、雄善はディスプレイに見入っていた。雄善が集中しているのは久しぶりだと思いつつ、高八卦は乾いた喉を潤そうと備え付けの冷蔵庫に近づいていく。

「あれ? 高八卦くん、いつの間に来たの?」
「たった今です。遅くなってすみませんでした」
「丁度いいや。屋上行くから一緒に来てよ」

 言うが早いか、雄善は高八卦の答えを確認することも無く、足早に研究室を出ていってしまう。呆気に取られながらも高八卦はその後を追った。その手には冷蔵庫から出した烏龍茶の缶が2つ握られていた。

  *  *  *

 雄善と高八卦は屋上にある給水塔の上に立っていた。ここは町を一望できる高さを持ち、東西南北のポール下に設営された4つのステージすべてを視界に収めることができる。直射日光の降り注ぐ中で、雄善は物置から掘り起こしたねずみ色のキャップを後ろ前にかぶり、手にした双眼鏡で北側のステージに目を向けていた。
 一方、高八卦はあちこちに隙間の空いた麦わら帽子を頭にのせ、首筋に伝う汗を拭きながら雄善の挙動を眺めている。年代物の麦わら帽子も、雄善が物置で見つけて高八卦に渡したものであるが、ささくれ立った麦わらの先が頭頂部を刺激し、お世辞にもかぶり心地がいいとは言えない代物であった。
 4つのステージからはエネルギーの固まりであるかのような爆音が響き渡り、中心地である研究所にまでその音は届いている。ステージに向かって真剣に双眼鏡を覗く雄善に対して、もしや好きなアーティストでも出ているのではないかという疑念が、暑さでぼんやりとした高八卦の頭をよぎった。
 意識が朦朧とし始めた高八卦は冷蔵庫から持ち出した烏龍茶の缶を開け、乾いた喉へと流し込む。この炎天下の中で2時間以上も車に閉じ込められ、研究所についた途端に直射日光の降り注ぐ屋上に直行である。烏龍茶の缶はあっという間に空になってしまった。

「高八卦くんはさ、このイベントで使われてるチケット認証装置って見たことある?」

 雄善は双眼鏡を覗いたまま、唐突にそう訊ねた。

「実物は見たこと無いですけどネットでは何度か見ましたね。結構、大がかりな装置だった覚えがありますけど」
「あれさ、開発中の移動式CTだよ。5秒程度で全走データが取れるタイプ。ばれないようにカムフラージュはしてあるけど、あのタイプは照射部が独特だからね。現物を見て間違いないと確信したよ」

 雄善は双眼鏡を顔から離し、高八卦に向かって自慢気に語った。その口ぶりは、なぞなぞが解けなくて降参した相手に正解を教える時の子供のようである。

「はぁ、CTですか。でもまた何でわざわざそんなことを?」
「高八卦くん、暑さで頭ボケちゃってるんじゃないの? このイベントの入場者数はトータルで何人?」
「ええと……去年は14万人くらいだったかと思うんですが……あっ……」

 高八卦は当然の結論に辿り着く。雄善は言葉を続けた。

「10万超の人出と、なぜかそこに設置されているCTスキャン装置。もしこれが我々と何の関係もないただの偶然だったら、僕は鼻からスパゲッティを食べてみせるよ」

 得意満面な雄善に対して、高八卦は首を傾げた。

「うーん、つまりどういうことなんでしょう? 国がプロジェクトのために動いてくれたってことでいいんでしょうか?」
「だとしたら、大変心強いんだけどね。現段階では、本人に無断でCTデータを取るという脱法行為を国主導でやるほど、ラプラスの期待値が高いとは思えない。さっき調べてみたんだけど、CTデータの収集については文科省から入札が出てたよ。それを落札したのが、このお祭りの運営に今年から絡んでるイベント会社」
「ああ、成程。そのイベント会社が入札を見つけて、小金を稼ごうとしたわけですね」
「ところがそれだと理屈が合わない。会場変更が発表されたのは6月11日で、この時に認証用ゲートの写真も出ていた。そしてCTデータに関する入札が公告されたのは6月27日。小金を稼ごうとするなら原因と結果が逆なんだよ。
 さらにおかしな所がもう1点。高八卦くん、この案件の落札価格はいくらだと思う?」
「落札価格ですか? ちょっと見当つきませんけど、1件100円として1000万ですから、入札ということも考えて600万から700万くらいでしょうか? 単価設定でかなり変動がありそうですけれども」
「9800円」
「え?」
「9800円なんだよ、落札価格。単価設定がどうこうのレベルじゃないんだよね。つまり利益が目当てじゃないってこと」

 高八卦は自分が宙に浮いているような覚束無さを感じた。四方から鳴り響く爆音が、どこか遠い場所の出来事のように思える。呆ける高八卦に対し、雄善は学生を指導する教授のように語りかけた。

「論理的に考えてみようか。一連の流れからして、イベント会社がCTデータの件を知り得る立場にいるのは明白だ。さらに落札価格の異常な安さから、単純な利益が目的ではないことがわかる。脱法行為であることから、国が組織だって糸を引いているとも考えづらい。それに値するだけの見返りがないからだ。
 ここで基本的な問題に戻ろう。CTデータが手に入ることで利益を得るのは誰か? まず第一に僕と高八卦くんだ。そして僕はこの件に関与していない。高八卦くんもしてないよね? となると残るのは誰だろう?」
「審理官……ですか?」
「その通り。プロジェクトを成功させれば実績になる。逆に失敗すれば出世の妨げだ。彼女、偉くなる気満々だからね。動機としては説得力があるんじゃないかな。まあ、仮説の1つだよ。この仮説が正しいと証明するためには、彼女とイベント会社に繋がりがあるかを確かめればいい。データが来るまで僕は暇だし、ちょっと調べてみようかと思ってる」
「調べる? わざわざですか?」

 思わず高八卦は尋ねた。雄善が研究と関わりの無いことに労力を費やすのが信じられなかったからである。雄善は心底、機嫌のよさそうな顔をして高八卦に答えた。

「高八卦くん、これは取引用のカードになるんだよ。万一、予算を削られるような事態になった時、審理官の秘密を握っておけば交渉を有利に運ぶことができる」
「……それは脅迫ではないでしょうか……?」
「人聞きの悪い。これは政治的取引というやつだよ」

 雄善はそう言って、再び双眼鏡を覗いた。探偵の真似事などすぐに飽きるだろうと高八卦は反射的に思う。そんなことができるなら、雄善はもっと器用に立ち回ってきたはずだ。おそらくは暇を持て余しているだけなのだと高八卦は結論付けた。

「雄善さん、私、そろそろ戻りますね。これ、だいぶ温まっちゃいましたけど、飲んで下さい」

 高八卦は開けていない方の烏龍茶を雄善に差し出した。雄善は些か不服気な表情でそれを受け取る。

「どうしたの、急に? 何か急ぎで片付けなきゃいけないことあったっけ?」
「いえ、急ぎというわけではないんですが、今のお話だと、受け取るCTデータはこのイベントの来場者なんですよね? せっかくラプラスのデータ取得範囲に対象者がいるので、どうせなら属性タグを自動で付けるようにしておこうと思いまして。生データのままだと、後で分類設定が面倒なんですよ」

 高八卦からすれば、背後で誰が暗躍していようと、データ取得に違法行為があろうと、対象のデータを受け取れさえすればよかった。プロジェクトが中止にならなければ、政治的な駆け引きになど興味はない。
 雄善は缶の飲み口を開き、一気に飲み干した。息をつく端から、顔や首筋に玉のような汗が浮き上がる。

「じゃあ、僕も戻るか! 用は済んでいるし、落ち着いてみるとここは暑くて堪らん」

 雄善は缶を潰そうと手に力を込めたが、スチール缶を潰すことは出来ず、何事もなかったような顔をしてごまかそうとしていた。

「ところで、よく認証用ゲートがCT装置だって気付かれましたね。結構、一般的なものなんでしょうか?」
「ああ、それは一時期、CTを徹底的に調べていたからだよ。4本柱の仕組みは基本的にCTと同じだからね」

 気まずい間を埋めるための質問だったが、返ってきた答えに高八卦ははっとさせられた。確かにこの4本柱は巨大なCTと同じ仕組みだ。感心する高八卦の横で、雄善は突然、空き缶を給水塔の下に放り投げた。缶が石畳にぶつかって跳ねる音がする。ぽかんとする高八卦に雄善は言った。

「梯子下りるのに邪魔でしょ。高八卦くんも持ったままだと危ないよ」

 ポケットに入れていくつもりだったが、高八卦は雄善に倣って空き缶を放り投げた。空き缶は石畳の上を小気味よく跳ねて転がった。

「お、この曲は聞いたことがあるぞ。オアシスだったかな、懐かしい」

 耳に届く演奏に雄善が呟く。グリーンデイじゃないですか? という言葉を高八卦はぐっと飲み込んだ。
11, 10

  


 第四章

 夏の盛りには轟音を立てて稼働していた年代物の冷房装置も、九月の半ばを過ぎる頃には、めっきり使われなくなり、昼下がりの研究室は緊張を覚えるほどの静けさに包まれていた。雄善は自席の周辺に資料となる書籍を積み重ね、関心を抱いたネット上の論文と向き合っている。一方、高八卦はサーバエリアに篭り、ラプラス完成のボトルネックとなっている『外的な刺激に対する人の反応』について、一般化のための分析を続けていた。
 ここ一ヶ月ほど、傍目には二人がまったく同じ日々を繰り返しているように見える。しかし実情は逆で、高八卦の分析は日一日と完了に近づいていたし、雄善にしても、形になる結果がなかなか出ないことに対して癇癪を起こすでもなく、基礎理論の発展であったり、実用化の際に問題となりそうな事項の洗い出しといった地道な作業を淡々と押し進めていた。高八卦が自らの仕事に全力で取り組むことは、プロジェクトに対するこれまでの姿勢からして至極当然と言えたが、刺激の乏しい作業に対して、雄善が不平不満を並べず、その処理に当たっていることは、非常な違和感を覚えるものであった。
 この変化は、八月中旬に西條から渡されたCTデータと、ラプラスで取得したロックフェスティバル来場者データとの一致が確認されたことに端を発している。雄善は『イベント会社と審理官の繋がり』について、あの夏の日の屋上で宣言した通り、裏付けを取ろうとしたのだ。
 結論から言えば、雄善の行動はまったくの徒労に終わる。だが、この件をきっかけとして、雄善と高八卦の絆は以前よりも強くなり、ラプラス完成に対する意識を、より高く、より具体的なものへと変質させた。通常考え得るアプローチでは、このような変化に至ることはなかった筈である。プロジェクトにとって、そして、雄善と高八卦にとって重要な転換点となる特別な日は、それこそラプラスでなければ予測不可能なほど偶然に、二人の元へ訪れたのである。

  *  *  *

「間違いないですね。審理官から頂いたCTデータはロックフェスティバルの来場者と一致してます」

 ロックフェスティバルが終了した一週間後、高八卦はVPN回線を通じて受領した十万件のCTデータについて簡易的な解析を行い、雄善が待ち望んでいたであろう結果を伝えた。平静を装っていた雄善であったが、口の片端が不自然に吊り上がり、底意地の悪い笑みが満面に浮かんでいる。その表情は、さながら子供向け番組の悪役のようであった。

「ま、状況証拠からすれば当然の帰結だろうね。……よし、では、僕も動き出すとしますか!」

 雄善は物置から見つけ出したナップザックを背中に背負い、ハンチング帽を深々とかぶった。

「じゃあ、高八卦くん、分析の方は任せたよ。その間に僕は、交渉の切り札を手に入れてくるからね」

 高八卦にそう告げると、雄善は意気揚々と研究室を出ていった。このプロジェクトが発足して以来、雄善が一人で研究所を出るのは初めてのことである。高八卦と二人で出かけたのも、四本柱構築の進捗確認時など数える程しかない。高八卦は一抹の不安を覚えつつ、正門へと向かう雄善の後ろ姿を、研究室の窓辺から眺めていた。

  *  *  *

 昼前に出かけた雄善が、怒り心頭の体で研究所に戻ってきたのは午後五時頃である。乱暴に開かれた扉の音に驚き、高八卦が慌ててサーバエリアから出てみると、そこにはパイプ椅子にどっかりと座り込んだ雄善がいた。鼻息を荒くし、握り締めた右の拳で自らの腿を何度も殴っている。頬は紅潮し、唇は怒りで震えていた。
 高八卦は開け放たれたままの扉を静かに閉め、床に投げ出されたナップザックを空いているパイプ椅子の上に置いた。テーブルの上には、雄善が買ってきたと思われるケーキの白い紙箱が――これだけは比較的丁寧に――置かれていた。

「高八卦くん」

 雄善は視線を逸らしたまま高八卦に呼びかけた。高八卦は柔らかな所作でパイプ椅子を引き寄せると、雄善の正面から少し脇へずれた場所に腰掛けた。

「はい、なんでしょう?」
「世の中なんてさ、ロクなもんじゃないね」
「……そうですね。私も世間一般に対しては、あまりいい思いをしていないですから」
「白々しい。高八卦くんは愛想ふりまいてうまくやってるじゃないの。金になる技術と人当たりのよさは、預金通帳に0をいくつ並べているのか教えてもらいたいもんだね」

 噛み付いてくる雄善に対し、高八卦はいつもの薄い笑みを貼り付けたまま視線を下げた。その表情は怒りを表すでもなく、雄善を責めるでもなく、ただ微かに強張っていた。雄善は一瞬だけ高八卦の表情を盗み見たが、すぐにまたそっぽを向いてしまった。
 雄善と高八卦の間にしばしの沈黙が生じ、研究室に冷房装置の低い動作音が響いている。居心地の悪い時間は、張り詰めていた雄善の意識に後悔と戸惑いを呼び起こす。既に表情から緊張を消し去っていた高八卦は、そのタイミングを見逃さなかった。

「審理官とイベント会社の繋がりは掴めたんでしょうか?」

 雄善は高八卦の問いにすぐには答えず、高八卦から目を逸らしたまま、腕を組んでパイプ椅子の背もたれに寄り掛かっていた。雄善が短い答えを返したのは、落ち着きなく体を揺さぶり、薄い髭が伸び始めた顎を撫で、固い髪を乱暴に掻き回した末でのことだった。

「……何もないよ。それ以前の問題だ」
「それ以前の問題……ですか?」
「高八卦くんはさ、電車の切符買うのに、自販機で小銭が使えないって知ってる?」
「ええ、先日、電車を使う機会があったので、その時に知りました。ここ最近は、現金の使えるタイプが少なくなっているみたいですね」

 雄善の質問は怒りの原因に繋がるものであると考え、高八卦は刺激の少ない言葉を選んだ。現金の投入口を失くし、モバイル機器、または非接触型カードによる支払いがメインとなった自販機は、少なくとも二年前には一般に普及している。高八卦はその時期を意図的にぼかした。

「普通はさ、現金が使えないなんて思わないじゃない。そういう特殊な状況を作るんだったら、少なくとも一目でわかる案内を目立つ場所に出すべきなんだよ。流通している貨幣が使えないなんて、極めて異常な状態だとしか言いようがない」
「そうですね。私もこの前、戸惑いましたよ。自分の番が来たのに買い方がわからなくて、駅員にやり方を聞いてから並び直しましたからね」

 『駅員』という単語を耳にした途端、雄善の顔つきが険しいものに変わった。雄善はいまだ高八卦に視線を向けておらず、腕組みをほどかぬまま貧乏ゆすりを始めている。高八卦は次の雄善の言葉を黙って待った。

「……僕も高八卦くんと同じような状況だったんだよ。自分の番になって、いざ切符を買おうとしたら、操作方法がわからない。説明書きでもないかと調べていたら、後ろで誰かが『早くしろよ』と言ってきた。振り返ったら結構人が並んでてね、誰も彼もが困ったような迷惑そうな顔で僕を見ていたんだ。ああいう時の人の顔って、なんなんだろうね。ちょっとでも距離を取ろうと首引いてさ、正面から向かい合いたくないのか体は斜めにしてさ、それでも僕が変なことするんじゃないかと心配で、目だけはじいっとこっちを見てるんだよ。みんながみんな関わりたくないって顔でさ、誰一人『どうかしましたか?』の一言もないんだよ。不気味だったね。
 『すまないが、切符の買い方を教えてくれ』って言ってやればよかったんだろうね。後から考えればいい方法なんて幾らでも思いつくんだ。だけど普段はそんなことに脳細胞を使っていないからね」

 雄善の口調が次第に熱を帯び始めた。時折、高八卦は水を差さない程度に頷いてみせた。

「そして、薄らボケた駅員は、切符の買い方を聞いた僕に開口一番『今時、現金なんて使えないよー!』とのたまったんだよ! 臭い唾混じりにね! 彼はサービス業という言葉の意味に考えを巡らせたことはないんだろうな。『困ったなー、現金かー』なんて、僕を苛立たせる以外に意味のない独り言を呟きながらウロウロして、駅の隅に置かれた現金対応機を案内するまでに10分を要したんだからね! 真空管のひとつでもあれば、彼より遥かに役立つロボットを作る自信があるよ、僕は!」

 頭に血の上った雄善は、この数時間で味わった不愉快極まりない出来事を、次々と並べ立てた。女性専用車両に乗り込んでしまい、物腰の丁寧な車掌に連れられ、移動させられたこと。その車掌がしばらく雄善を見張っていたこと。登記所の若い職員が勝手のわからぬ雄善に対して、鼻であしらうような態度を取ったこと。結局、登記簿は閲覧できなかったこと。などなど……。
 話すうちに日は完全に沈んでしまった。立秋を過ぎたとは言え、日の長い夏の盛りである。雄善は優に二時間を超えて話し続けていた。
 やがて溜まった鬱憤もさすがに吐き出し終えたのか、雄善の気勢は次第に弱まっていった。脱力し、パイプ椅子に背中を預けた雄善は、高い天井を仰ぎ見ながら、力無く呟き始めた。

「……僕もね、わかってるんだよ。どれもこれも大したことじゃない。これしきのことで心を乱してしまう自分を情けなくも思う。
 僕はよく癇癪持ちだの気難しいだの言われてきたけどさ、少なくとも関わりの薄い相手に対して理由もなく噛み付いたりはしないよ。だけど世間一般の方々は、関係性が希薄であればある程、簡単に鋭い悪意を突き付けてくる。後腐れのない相手であれば、ただ気に入らないという理由だけでも、驚くほど効果的に悪意を剥き出しにしてくるんだ。
 表面を繕い、争うべき論点を避け、平均化された意思だけが、細胞分裂を続けるアメーバのように世間に広がっている。僕はそれがずっと気持ち悪かったし、愚かだとも思っていたから、全力で振り払ってきた。その選択は間違っていないという自負があるよ。
 だけどね、平均化された意思というやつは、あちこちに蔓延っていて、ことあるごとに徒党を組んで僕を否定しにかかってくるんだ。『こんなこともできないの? あなたはこれまで何をしてきたの?』って感じでね。
 人と繋がっているという安心感のために、多大な労力を費やす人々からすれば、僕は排除すべき異端なんだろう。結局、僕もくだらない争いに巻き込まれて、無駄な労力を使っているんだ。本当に……疲れるよ……まったく……」

 雄善は天井の一点を見つめていた。当然ながら、そこに気を引く何かがあるわけではない。だが高八卦には、雄善の視線の先にあるものが微かに見えた気がした。揺らぎ、ぼやけたものであったが、それでも、雄善と同じものが見えたという確信があった。
 そんな高八卦の胸の内にまるで気付くこともなく、雄善はふいに鼻で笑うと、斜に構えた様子で目だけを高八卦に向け、こう言った。

「まあ……、こんなこと、高八卦くんに言っても通じないか。面倒なものとお上手に付き合うのは高八卦くんの十八番だもんね。せいぜい僕を上手に転がして下さいよ」

 高八卦の背筋が凍った。

「どういう……意味ですか……?」
「言葉通りの意味だよ? 高八卦くんは、基本、周りがバカに見えてるんでしょ? 本音隠して上手いことやって、おいしいところは頂きますってスタンスじゃない。素晴らしいと思うよ、そういうの」

 雄善から剥き出しの悪意を浴びせられた高八卦は表情を失くし、俯いたまま、ぴくりとも動かなくなった。強い緊張のために身体は強張り、頭は異様に冷えている。見るものすべてが温度を失くし、世界中の音が消えたように思えた。
 長い長い沈黙が高八卦と雄善を包みこむ。雄善は手を顎に当ててみたり、腕を組んでは外したりと、ばつの悪そうな動きを繰り返し、ちらちらと高八卦を盗み見ていた。しばらくして、落ち着きのない雄善の様子にようやく気付いた高八卦は、咄嗟にこう思った。

 ――笑わなければ

 高八卦は、無理矢理に顔を上げ、引き攣りながらも笑顔を作ろうとした。今の言葉を冗談にしてしまえばいい。雄善が癇癪を起こすなど、珍しいことではない。いつものように笑えばいい。いつものようにしていればいい。高八卦は心の中で繰り返した。
 だが、高八卦の精神はそのロジックを受け入れなかった。笑みを作ろうとした高八卦の目から、一粒の涙が流れ落ちたのだ。高八卦の頬を伝う涙に気付き、雄善は目と口を丸くする。驚愕の表情を浮かべる雄善と視線が合った高八卦は、張り詰めていた気持ちが弛んでしまい、堰を切ったように溢れ出す涙を止めることができなかった。
 高八卦は両の手の平で顔を覆い、恥じ入るように俯くと、わずかに肩を震わせながら、声を殺して泣いた。雄善は、自分の悪戯で誰かを傷つけてしまった子どものように、ただ戸惑い、高八卦を見るばかりだった。

「……冗談じゃないですよ」

 顔を上げないまま、高八卦が呟いた。

「……もう七年ですよ。なんで今更そんなこと言うんですか。……あれだけいろいろ話してきたのに、私はまだ世間一般のひとりなんですか?」

 絞り出された高八卦の言葉は、雄善の臓腑に重く染みた。時が止まったかのような研究室に冷房装置の唸りが響いた。
 やがて、高八卦は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら顔を上げた。視線は上に向け、顔の前で合わせた両手は鼻と口を包み込んでいる。口を隠したまま、高八卦は自分に語りかけるかのように話し始めた。

「……私だって、世間一般にいい思いなんて持ってないんですよ。私がやりたいことや、正しいと思うことは、なかなか他人に理解してもらえない。きょとんとされたり、機嫌を損ねられるのが殆どなんです。仕方なく周りに合わせるんですけど、大抵の大きな組織は機能不全を起こしている上に人間関係のくだらない問題がある。そんなの相手にしたくないじゃないですか。
 だから私はフリーになったんです。相手の要望さえ満たせば、自由な立場でいられる。仲間内で足を引っ張られることもないですし、技術力を身につければ、それに応じたレベルの仕事も回ってきました。
 ……でも、つまらなかったんですよ。技術レベル云々ではなくて、理念を感じる仕事がなかったんです。私が三十ぐらいの頃は何でもかんでも効率化で、単純作業を自動化するような案件ばかりでした。そんなのはパターンがある程度決まってますから、手垢のついた方法を引っ張ってくれば、誰でもできます。私は要求のタイプを一般化して、仕様さえ聞けば八割方システムが出来るフレームワークを作りました。おかげでお金はどんどん入ってきましたよ。でも結局、私の仕事は利害調整とトラブル対応ばかりになってしまったんです。そんなことをしたくないからフリーになった筈なのに、何をやっているんだろうなって思いましたよ」

 高八卦は頭に思い浮かぶままを口にしていた。普段であれば、目的に沿った内容であるか、相手に理解できる内容であるかなどを、頭でチェックしてから話すのが癖になっている。心に思うことと話す言葉が、完全に一致している感覚は、高八卦を常になく饒舌にしていた。

「雄善さんと出会ったのは、何年もそんな状態が続いて、人生はこんなものだと諦めていた時期ですよ。覚えてますか? 顔合わせが終わって、持参したシステムのプロトを確認してもらった時に、いきなり雄善さんは『あんた、頭悪りーな。もの作る人間が、いい歳して御用聞きみたいな仕事してんじゃねーよ』って言ったんですよ。頭をガツンと殴られた気がしましたね。
 雄善さんの言葉は、世間なんて大したことはないと思っていた私の高慢を、ぶち壊してくれたんです。改めて周りを見てみれば、先を見ているのは私だけではなかったし、私よりもずっと先が見えている人もいた。私は自分の高慢を恥じて、勉強し直しました。しばらくして『あんた、結構やるじゃない』って雄善さんが言ってくれたのが、本当に嬉しかったんですよ。
 あの案件が終わった後も、ちょくちょく雄善さんと会ってお話したじゃないですか。『高八卦くんと、また何かできたら楽しいだろーなー』ってよく仰ってましたけど、私も同じ気持ちだったんですよ。雄善さんとの仕事は生活の手段じゃなくて目的でした。いえ、夢と言ってもいいくらいです。
 だから雄善さんがラプラスの開発に私を誘ってくれた時、本当に、本当に嬉しかったんですよ。前人未到の案件を雄善さんと一緒に進めていける。こんな素晴らしいことは他にない。夢が現実になったんです。
 そういう思いで私は今日まで働いてきました。雄善さんの癇癪に苛立つことだって勿論ありましたけど、私は雄善さんと働きたかったんです。
 ……そういうの、雄善さんにはこれっぽっちも伝わってなかったんですね。きっと雄善さんは、私と計算機の区別もつかないんでしょうね」

 高八卦は大きく息を吐き出した。止まっていた涙が、また流れ落ちていた。
 思うがままを話した。冷静になって思い返せば、恥ずかしく感じるであろうという自覚もあった。だが、後悔はなかった。あったのは、もしもこれで雄善に拒絶されたとしたら、たとえラプラスが完成したとしても、それは最早、高八卦が追い求めていたものではないし、これから先、この二年間ほどの充実感を味わうことは絶対に無いだろうという確信である。
 絶え間なく動作していた冷房装置はいつの間にか止まっていた。しんとした研究室に、高八卦が鼻をすする音だけが際だって響いた。

「……ごめん」

 ぽつりと雄善が言った。素っ気ない一言が、ごつごつとした違和感を持って高八卦にぶつかる。やがて、その無骨な言葉は薬が効くように溶け広がり、高八卦の緊張を解きほぐしていった。雄善は黙って席を外すかもしれない。思いは鼻で笑われるかもしれない。そうした懸念がすべて杞憂となった安堵によって、高八卦は脱力し、深い吐息と共に顔を伏せた。
 こうした感情の機微が正しく伝わる筈もなく、高八卦が俯いたことを否定的な感情の表れと取った雄善は、慌てた様子で言葉を継いだ。

「確かに今日の僕は少し度が過ぎていたかもしれない。それは謝るよ。でも、なんで今更そんなことを言うのかって点については、そっくりそのまま返させてもらいたいね。
 高八卦くんと計算機の区別がつかない? そんなことあるわけないっての。基本的に僕は人そのものより、人の持つ能力の方に興味があるけどさ、高八卦くんとは個人的な話だってたくさんしてきたじゃない。出身が三重で、車は白のMPV。僕と一緒でお酒は飲めないし、コーヒーはブラック派だ。あと甘いもの、特にケーキが好きなんだけど、恥ずかしくてなかなか買いづらいって言ってたよね? それを思い出したから、ほら、今日はお土産に買ってきたんだ。苛ついていたから、ラインナップに自信はないけど、まあ、高八卦くんが好きそうなのを選べたと思うよ。
 ……その……なんていうのかな、さっきのはあれだよ、ほら……例えば能面ブスのような一般人とでも、高八卦くんは如才なく振る舞えるだろ? そういうことに対するひっかかりのようなものが、あまりよろしくない形で表に出てしまったんだ。勿論、そんなにいつも気にしているわけではないよ? ほんの少しだけ頭の中にこびりついていた感情の残りカスのようなものが、実に悪いタイミングで削げ落ちてしまっただけなんだ。だから、あれが隠していた本心だ、なんて思われると非常に心外なんだよ。
 例えば高八卦くんがボケてしまって、いろんな面で今ほどのパフォーマンスを出せなくなったとする。将来なんて何がどうなるかわからないけどさ、それでもきっと僕は、高八卦くんと一緒にいたいと思う気がするんだ。もうさ、ひとりでいる時よりも、高八卦くんといる時の方が、僕は僕なんじゃないかって思ったりするんだよね。どちらかと言えば、こっちの方が本音なんだよ。言葉にするまで僕も自覚なかったけどさ、感情の方向性はそっちなんだってことぐらいは伝わってくれててもいいんじゃないかなって思うわけだよ。何といっても、もう七年なんだからね」

 高八卦は俯き、目を閉じていた。手を変え品を変え語られる言葉は、その全てが高八卦に向けられている。このまま意気消沈した風を装って、雄善の捻り出す言葉をもう少し聞いていたい気さえした。
 だが高八卦は、雄善が話に詰まった頃合いで顔を上げ、ハンカチで目元を拭いた。雄善にとっては、自分のパーソナリティなど興味の対象外で、癇癪の丁度いいぶつけ場所と考えているのではないか? そういった疑念はとうに消えていたし、これ以上、この心地良さに甘えてしまっては、きっとばちが当たるだろうと思ったからだ。
 高八卦は雄善に顔を向けた。雄善はまだ、高八卦の様子を窺う表情をしていた。

「……こういうこと話すの初めてですね」

 高八卦が言うと、雄善は一瞬だけ思索の世界に入り込み、すぐに戻ってきた。

「……そうだね。しようと思ってするものでもないだろうし」
「この齢で、まだこんな話ができるとは思ってませんでしたよ」
「高八卦くんはこういう話を誰かとしたことがあるの?」
「まあ、子どもの頃には何度か」
「僕はないよ。これが本当に生まれて初めてだと思う」

 言って雄善は淋しげに笑みを浮かべた。高八卦がこれまでに見たことのない雄善の顔だった。

「こういう時だよ。平均化された意思が責め立ててくるのは。僕は違うのだなと思うよ。いい意味ではなくね」
「いいじゃないですか、そんなの」

 さらりと高八卦が言う。

「雄善さんが以前いた大学のような場所なら、枠の中に収まることが前提なんでしょうけど、私も、おそらくは審理官もそんなことは求めていないと思います。審理官は結果さえ出れば文句はないでしょうし、私は言わずもがなです。何より、しばらくしたら雄善さん自身が言うでしょう?『くだらないね』って」
「……間違いないね。明日の朝、いや、今夜寝る前にはその結論に至っていたと思うよ」

 雄善は両手を頭の後ろで組み、パイプ椅子の背もたれに体重をかけると、椅子の前側を浮かせてバランスを取り、子どものように身体を揺らした。

「高八卦くんさ、これからは僕に余計な気を遣わないでよ。そういうの意外とわかるんだ」

 いつもより早口で雄善は言った。

「わかりました。じゃあ、早速ひとつ」
「え? 何?」
「雄善さん、愚痴が長すぎです。これだけ長いこと付き合わされた私の身にもなって下さい」
「いやいや、あれは愚痴じゃないんだって。僕はね、社会構造として誤りがあるんじゃないかってことを問題にしていたんだよ。解決への道筋を示すためにはさ、まず問題点に関する具体例の提示が必要ってのは常識……あー、えーと……そうだね。補足したい点はあるけど、今後、気をつけることにするよ」

 前のめりになり、スイッチの入りかけた雄善であったが、さすがに途中で気付き自重した。会話が止まると、高八卦は自分が空腹であることに気づいた。

「夜も遅くなってきましたし、どこかへ食べに行きませんか? この辺はだいたい閉まってるでしょうから、車出しますよ」
「よし、行こうか! 珍しく高くて旨いものが食べたい気分なんだよ。高八卦くんちの近くの鮨屋、あそこ行こうよ。ボタン海老と白子が絶品だったんだ。前に行ったのはラプラスの開発が始まる前だったから、三年ぶりぐらいかな」
「よく、覚えられてますね。いいですよ、行きましょう。たぶん大丈夫ですけど、一応電話しておきますね」

 予約は問題なく取れ、二人は立ち上がった。

「あ、ケーキ冷蔵庫にしまっておきますね。置きっぱなしだったけど大丈夫かな」
「ドライアイスをたっぷり入れてもらったから、問題ないよ」
「じゃ、明日のおやつに。すぐ行きますから、雄善さんは先に降りてて下さい」
「高八卦くん」

 車のキーとケーキの白い箱を手にした高八卦を雄善が呼び止めた。

「今更なんだけどさ、ラプラスってとてつもないものだと思うんだよ。現在・過去・未来を自由に見渡す力が世界にどんな影響をもたらすのか、僕には想像もつかない。それなのに、僕はラプラスを完成させようとしている。非常に無責任な行為だという自覚はあるんだ。
 けれど、いつか必ず誰かが辿り着いてしまうのなら、その誰かに僕はなりたい。ラプラスは僕たちを英雄にするかもしれないし、歴史に対しての戦犯にしてしまうかもしれない。それでも僕はやろうと決めている。
 ……一度だけ聞かせてほしいんだ。それでも高八卦くんは、一緒にラプラスを完成させてくれるかな?」

 重い問いであった。だが、高八卦はその問題について、既に自分なりの解答を導き出していた。

「ラプラスの与える影響については、私も考えていました。おそらく世間には公表せずに、一部の人間が秘密を握るという状況になるんだと思います。ただ、ラプラスの力は一国が管理するにはあまりにも強力です。もし秘密が漏れれば、戦争の原因にもなり得るんじゃないでしょうか」
「戦争とはまた……スケールの大きな話だね」
「可能性は低くないですよ。物理的な面では、素粒子の放射元と感知面さえあれば、いつ、どこの情報でも手に入れることができるんですから。この研究所の役割を各国の大使館が担い、四本柱の機能を持った建築物を国家施設の周りに作れば、他国の機密情報でも見放題になります」
「……やっぱり高八卦くんは、ラプラスを作るべきではないと思う?」
「作るべきかどうかで言えば、作るべきではないと思います。ただ、さっき雄善さんも言われていたように、いつか誰かが辿り着いてしまうのなら、その誰かになりたいというのは同じ気持ちです。ちょっと調べてみたんですけど、量子コンピューターを使った未来予測は、他のプロジェクトでも進められているみたいなんですよ。例えば、文科省の大須賀氏ってご存知ですか?」
「『監視カメラのネットワーク化、並びに人物認識の即時化による治安向上プロジェクト』の立役者だよね。これが成功したから、量子コンピュータを使用したプロジェクトが爆発的に増えたって聞いてる。ある意味、僕の恩人かもしれない」
「その大須賀氏がいま進めているプロジェクトの目的に未来予測が入っているんです。アプローチの方法が違いますし、進捗は私たちの方がずっと先を行っていますけど、広報用の文書を見る限り、目指しているところは同じみたいです」
「同じ文科省の中で、似たような研究にそれぞれ予算がついてたわけだ。相変わらず非効率だね。こっちに回してもらいたかったよ」
「審理官と大須賀氏は局も違いますし、そもそも審理官は私たちの本当の目的を知らないですからね。そのあたりを踏まえた上で、私からも一つ質問があるんですけど、いいですか?」
「そういうの無しでいいよ、何?」
「雄善さんはラプラスを完成させることが目的ですか? それともラプラスがもたらすであろう変革が目的ですか?」

 雄善は高八卦の質問の意図を掴めず、首を傾げて聞き返した。

「……ちょっと意味がわからないんだけど、ラプラスが完成したら否応なく影響は出てしまうんじゃないの?」
「もしもラプラスの完成が目的なら、私たちだけで成果を確認した後、誰にもラプラスの存在を知らせないという方法があるんです。審理官はラプラスを、ただの『予測装置』だと考えています。過去の事象を確認できることも、未来の的中率が百%であることも知りません。『比較的よく当たる占い』程度に精度を調整すれば、影響を最小限にした上で、国や審理官に対する責任を果たせると思います」
「要するにラプラスを内緒にしておくってことか。そうすれば、僕たちの目的は達成され、能面ブスはシステムの完成を喜び、世界を混乱に陥れることもない……。なるほどね、そういうことなら僕の回答は、完成させることが目的だ。僕は僕自身に胸を張れさえすればいい。……でも、高八卦くんはそれでいいの? なんだか僕の我儘に付き合ってもらってるだけのような気がするんだけど?」
「私も到達点であるラプラスを完成させるのが一番の目的ですから。それに、いずれ雄善さんに相談するつもりだったんですけど、ラプラスの真の力が世に知られれば、私たちはテロ組織などに狙われる確率が高くなると思うんです。もともとの仕様が国公認であれば待遇も違うんでしょうが、今の状況で、ありのままを公にするのはリスクが高すぎる気がします」
「つまり高八卦くんは、むしろ秘密にした方が都合がいいということだね」
「ええ」
「……そうか、こんな簡単なことだったのか。ラプラスはもともと、僕と高八卦くんの間にしか存在していないんだものね。何も世間様を巻き込むことはなかったんだ。
 なら決まりだ! 僕も面倒はまっぴらだし、ラプラスの完成という偉業を二人で噛みしめた暁には、この驚異のシステムを二人だけの秘密にして封印してしまおう!
 僕たちだけの秘密のシステム。その名はラプラス! これはいいね。なんだか血が騒いできたよ。よし、これで何ひとつ心配事はなくなったわけだ! 高八卦くん! 完成させるよ! ラプラス!」
「審理官との約束は年内でしたよね。それなら真の統合テストを三ヶ月後……十一月には実施できるようにしてみせます」
「頼んだよ! あー、今日は何だか大変な一日だった気がするよ。だけど後から振り返れば、今日は間違いなく転換点となる日だったんだろうね。さ、おなか減ったよ、鮨、鮨。ケーキしまうのなんてすぐでしょ。待ってるから早く早く」

 雄善は機嫌よくテーブルを叩いた。高八卦は手際よくケーキを冷蔵庫にしまうと、電灯と冷房装置を切り、雄善と共に研究室を出た。小さな窓から差し込む月明かりが、サーバエリアの黒い量子コンピューターを照らしていた。

  *  *  *

 これがラプラス開発のターニングポイントとなった八月二十日の出来事である。これ以降、高八卦は研究所へ泊まり込むようになり、雄善も様々な論文を読み漁る日々を重ねている。刺激のある論文に出合えた時は、腕組みをしたまま画面を注視し、そのまま一日が暮れていくこともあった。

 そうして季節は秋へと移り、冒頭の状況へと繋がっていく。二人は着実にその歩を進めていた。

 枯葉が舞い、冬の気配が漂い始めた十一月十二日。
 高八卦は運命の日をその手に掴んだ。
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