くそったれ。
その日美しき数多の星々は、コンクリートを這いずる俺たちを見下ろしていた。
「ねぇ星は死なないの?」
あぁそうだこいつは時々哲学的な質問をする。
「夜明け毎に皆死んで、また明日別の星が生まれる。」
「ふーん。屍骸は?」
「消えるんだよ。誰も寂しがらないように、跡形もなく。」
俺もまた哲学的に答えてやる。こんな理屈論を。
たとい車体を軋ませて走るバスのヘッドライトで暗闇を切り裂いても、それは空虚で、それは短い一夜に消えていく露のように儚い気持ち。
それは、星への、こいつへの感傷なのかはわからなかった。
蛍はもう長くない。体のあらゆる細胞が蛍という存在を打ちのめしているのが、夜のネオンサインに照らされている顔色からもよくわかる。このバスのように燃費の悪い心臓が止まるのも時間の問題だと蛍は笑う。
「願いごと決まったか?」
追い抜き禁止、の標識も無視して下手糞なベースのような音を出してバスを抜き去って行く車を横目で睨みながら、もう決まっている、と呟いた。
「言えよ。」
「言ったら駄目だろ。」
そういって薄い眉をすこし上げて苦笑いをした。こいつは笑顔より苦笑いが可愛いなんて可笑しいだろうか。
飲み終わったスプライトの缶を徒に弄ぶ手はまるで骨の上に皮を被せただけのようで、長い睫毛すら重そうに目蓋がゆっくり鏡越しにこちらを向いた。
「あたしは過去になりたくない」
「は?」
「あいつはこうだった、ああだった、とかさ。誰かの言い回しだけど、あれ何様なんだろう。」
「死んだら誰でも過去になる。」
「じゃあ一層のことあたしのことなんて忘れてくれ。」
蛍は前の座席を叩きヒステリーを起こす真似をする。乗用車より大きなこのハンドルは何かに逆らうように重かった。こいつは何にも逆らってなどいないのに。喩え今確実に終わりを告げる運命にも。
ただ一つ、戦うものがあるとするならばきっとそれは、孤独だろう。
冬の夜のやけに密度の濃い鋭い空気がオンボロの窓の隙間から染み入ってきている。
昼間には見えない、太陽はその瞳を逸らしてしまうような黒いペンキをぶちまけた世界。
夜と蛍は似ている。哀しいほどに。そんな底なしの闇を吸収してこいつは生きてきた。
完結
「今何時?」
「一時半。」
今日の日のために満月は必要だった。蛍の願いごとを叶えるために。
この街で一番高い星ヶ丘まで行く。
そしてそこで見た流れ星に掛けた願いは何でも成就する、というものだ。
何でも。
根も葉もない、まるで今週のローカル雑誌の片隅のような伝説。ここは都会ではないから、田舎伝説とでもしておこう。
蛍は今年世間の女の子なら高校一年生なのだが、本人曰く人間十六年生らしい。言っておくがこれは年の差カップルでもなんでもない。俺は春、三ヶ月後に、結婚する。
こいつが短いスカートと見るからに重そうな紺のブレザーの制服を引き摺っていた数ヶ月間をローカルバスの運転手として運んでいただけだ。
平日、確か俺のシフトだと火曜日の昼下がり、まだ太陽が眩しくてすべてがグラグラと煮え立ち、湯気のような蜃気楼の中に朧でいた時、変なやつが乗り込んできた。その時の奇妙な感覚を覚えている。
見かけは普通の高校生だった。でも確かに蛍は違っていた。手から血を流し、白いブラウスに幾つかの斑点を付けていた。
しつこい信号待ちと、自然渋滞に飲まれたバスが止まる度、俺はさっき蛍がしたようにして、蛍を見た。
「病院まで少しかかるかな、大丈夫?」
「あたしは病院で降りません」
きっと馬鹿みたいに口を空けていたんだろう。次の瞬間俺は凍りついた。
「でっかいお世話だ。」
蛍はその華奢な体からは思いつかない程、ガタイのいい声を出した。
そしてその日から蛍の制服姿は見ていない。
後々よく聞いてみると、蛍は喧嘩をしたらしい。理由も忘れてしまうくら些細な事だったらしいのだが、学校をやめるための”素敵な方便”、その、つまり、退学になるためにガラスを派手に割ったらしい。素手で。
何処のヤンキーだよと今なら心から突っ込むことが出来るが、 当時の俺はかなり恐れ戦いた。
その日を境に、こいつは毎日のようにこのちっちゃな街の図書館で降りていた。桜の匂う春雨の日も、稲穂が揺れる秋晴れの日も。そして夏の暑い日にはそれは涼しげな顔で、冬の寒い日にはそれは渋い顔でバスに乗り込んできた。言われてみれば友達と歩いているのも、ましてや男と歩いていることさえも見たことがない。そうだ、蛍はずっと一人だった。
始発から乗り込んだ蛍に「傷は治ったか」と聞いたら「ええ。心の傷は癒えてませんけど」と返してきた。
バスの運転手だって顔くらい覚えるんだぜ、呟いて蛍の顔を始めてちゃんと見た。
端正な顔がにやりと歪んだシュールさが、何となく気に入ってそれから俺達は話すようになった。
今日のことだって、ただあまりにも真っ直ぐな目で俺に頼むから、断りきれなくなっただけだ。
私用でバスを出したなんて聞いたら、俺のデスクにイスは残っていないかもしれない。
でも、今、確実に蛍のエネルギーは死に向かっている。
信号の黄色の曖昧さはこいつにはない。
星ヶ丘までは後信号を五つと角を曲がるだけだった。
「ここの家の夫婦、お婆ちゃんの方が痴呆症だったんだ」
蛍がぽつりと呟く。
「それがなんだ?」
「お爺ちゃんが必死に介護してた。施設には入れないって、もう普通に喋ることもままならない、そんな婆ちゃんをだ」
「大切だったんだな」
蛍はちょっとこっちを見て続けた。
「ある日遠くに住む娘が訪ねた。それで、お婆ちゃんが台所で何か作ってたんだ。
娘は驚いた。お父さんは?どこで何しているの!?今風邪をひいて具合が悪いとか、
多分そんな事を呟いてお粥みたいな、そこら辺に生えているような草を入れただけのものを作ってた。
娘は嫌な予感がした。部屋に行くともう腐り果てたじいちゃんの死体があったんだ。
お婆ちゃんはお粥もどきを持って心配そうに、死体に食べさせていた。
もうばあちゃんの目は見えてなかったんだ。ばあちゃんは言葉も失っていた。
痴呆症になったら人間じゃないとすら言う人もいるけど、
ばあちゃんはいつも精神の混濁の海の中で、お爺ちゃんを愛してた。
それがばあちゃんを繋ぎ止めていた。
ばあちゃんをばあちゃんで存在させ続けていた。」
俺は一々、16歳の戯言なんて聞きやしない。
でも蛍はいつもそうだ。何も考えていないフリをして、誰よりも物事の一番深いところにいる。
目にした全てを心で消化して、映し出す。
こいつは七色つきレンズみたいな物なのかもしれない。
裸の桜の樹が、揺れていた。
自分の存在を誰かに解ってもらうために。
「すごい・・・.星が金平糖みたいだ」
バスは遂に星ヶ丘まで来た。
蛍はマフラーにバスの過度過ぎる暖房に火照った白い顔を埋め、町が見渡せる駐車場までよろよろふざけて走って行く。
星が、降って来そうだ。ピシリと誰にも汚されていない痛い空気。
俺も凍りそうな大地を踏み締めて、ゆっくり歩き出した。
町は月のおぼろの中にいる。みんな一人ぼっち、夜と戦っている。
草木も眠る、何て良く言ったものだ。
「願い事、」
ふいに蛍が熱に茹だされた顔でこちらを振り向けた。
「しなきゃな」
「ああ。凍死する前に、頼む」
そう言って二人で肩をすくめて笑った。
満月の日、三時きっかりに流れ星が流れる。
しばらく座ってネオンの消えた街を見ていた。それは本当に静寂という名に相応しい。
「明日もまたここから朝日が昇って、みんな何かと戦うんだな。」
「制服を着て?」
「常識を着て。うまい事いうぜ俺。」
いつのころからだろう、旨いと習慣になった煙草をくわえて苦笑いしてしまった。
「ああ名言だね」
蛍は怠そうに笑って続けた。
「あたしがいてもいなくても、学校はまた阿保みたいな担任の授業をやる。
年が明けてクラスを変えてまた誰かが誰かに青春な恋をする。」
「青春な恋がしたかったのか?」
蛍の嫌いな俗っぽい言葉だったので、わざと笑って聞き返してやった。
「あんなクソガキ供にあたしの魅力が解るか」
そういって眉毛を上に引き上げた。こいつの癖だ。訳すとどうでもいい、の意らしいが。
若草色のダウンジャケットをくしゃりと軋ませ、フェンスに寄りかかる。
「保健室はあたしのグリーンシートだった。体の弱い人には席を譲りましょう、てね。
綺麗な真っ白いシーツに横たわる度、自分の存在価値が下がっていった気がした。
何かを認められたいわけじゃあない。一人でも良かった。必要とされたかったのかもしれない。」
ああそうか、やっとわかった気がする。 こいつは生まれてからずっと独りだ。
あまりにも言葉を知り過ぎて、ずうっと独りの世界にいたのか。
独りで誰にも見つけられずに、孤独と戦っている。
また蛍のジャケットが音をたてた。今度はずしゃり、と。凍った地面も音をたてる。
蛍がマネキンか何かのように倒れているのを見た。
もう顔は赤くなかった。
今までの朧がゆるゆるした膜を脱ぐ。
眉毛が少し上がって、ああまるでこれは、終わりみたいだ。いつでも其処に在ったもの。どうにもならない。
いつかは必ず、消えていく。
俺はそう遣り過ごして来た、少なくとも。
「あと一時間ちょいか」
不自然な蛍光に光った携帯に目をやった。
蛍光。ほたるのひかり。別れの歌。
もうマネキンと変わらない蛍の骸を抱き寄せて、色んなことに気がついた。
不揃いだった髪はかなり伸びたこと
目の右下、黒子があったこと
華奢な見た目以上、やせ細っていたこと。
蛍を愛していたこと。
子供のように無いもの強請りで涙を流したのは何年ぶりだろう。鼻腔からは鼻血にも似た匂いがした。
苦しみ、痛み、軋むだけの体なんてなくていい。
お前がまた永遠に独りなるのが酷く悲しい。
大切なものは失くして気がつく。だから大切なのに、人は失うまで気がつかない。
きっと人間が食べてしまう動物達ですら、それを知っているのに。
蛍の髪に顔をうずめてただ泣いた。胸に赤く錆つくような涙が、俺を本当に疲れさせる。
星が青白く、ただ静観に俺たちを、街に眠る命を見下ろしていた。
それでも星は、三時になったのをアラームが告げた。
*
腰が痛い。
寒い
冷たい
ああ、これは、あたしの大嫌いな、朝だ。
「ベンチで眠ってた?」
あたしだけが別空間に隔離されたみたいな、そんな奇妙な感じ。
早退した日の帰りのバスみたいな、感じ。
「満月バスはやっぱり田舎伝説だった?」
「いや、そうでもないらしい。」あいつは肩をすくめた。
「アンタ願い事したわけ?」
おかしい。何かが。
だって叶ってしまったら
「ああ。そろそろ朝日が昇るな。」
だって朝日が昇ったら
「「お別れだ。」」
声が重なった。これで三度目。
確か一回目は始めて会った時。二回目はする話を聞いた時。
あいつは歌うように言った。言いたいことがある。結婚するって。
三回めでお別れ? いい根性してるよ神様。
わかってる、どうにもならない。バスは時間通りにしか来やしない。この病気は治りゃしない。
朝日が暗闇を溶かしていく。
町は夢から覚めていく。
わかってるんだよ、どうにもならないことぐらい。
それでも神様、あたしはわかってしまった。
でも、でも、でも。
嫌なんだ。もう独りは、独りきりは。
あたしは多分ぐしゃぐしゃで叫んだと思う。
それは醒めない夢から逃げ出すときの懇願にとてもよく似ていた。白過ぎる朝日が一瞬、ただ一瞬。
暁を切り裂いた光は二人を、この丘を、町を包んだ。
あたしの願い事は確か、
この夜が覚めませんようにだったと思う。
この星が永遠に瞬き続けますように、
だったのかもしれない。
でもあたしの一番の、一番の願い事は、どうにも叶いそうに無い。
常識を着て、どこかの子どもが学校に、サラリーマンが会社に出て行くのをずっと眺めていた。
あたしたちは今いつか覚める夢の中にいる。
多分あいつは、もう夢から覚めたんだろう。
そうしてまたあたしが夢から覚めたならきっと、きっと、会える日が来る。
さあ、家に帰ってよく眠ったら、また病院にいこうと思う。
必要としてくれてありがとう。 泣いてくれてありがとう。
さよならでは括らない。この満月バスの伝説を。
FIN