僕はここまで読むとふーっと息を吐き出し、ノートを閉じた。とても疲れてきていたからだ。
僕は中学生としては比較的文章を読む方だと思っている。なにせ曲がりなりにも趣味で小説を書いているのだ。プロの作品も結構読んでいる。
だが、しかしこのような文章を読むのは初めてのような気がした。読むのは簡単だが、内容が怪奇的だ。そのために頭が疲れる。そのとき突然僕のある言葉が頭をもたげた。僕はなぜかつぶやいてしまった。
「狂人一千里を走る」
僕は自分で言っておきながらこの言葉の意味が分からなかった。いったいどういう意味なんだろうか。そんなことを頭の中で反芻していた。
そんなことをしているうちに叔父が帰ってきた。叔父はずいぶんと不愉快そうだった。叔父はいらだちながら言った。
「全く、くだらないことで呼び出しやがって。こっちも暇じゃないんだぞ」
僕は話題を変えた。
「叔父さん。それよりも源田さんのおじいさんの調査のほうが気になるんだけど……」
叔父はすぐに食いついてきた。結局文中に出てくる医者が帝国大学出というところに僕らは注目した。叔父は言った。
「東北だから東北大かな。あるいは東大かもしれない」
僕たちはすぐにその調査を始めた。意外とあっさりと病院が実在していた事は判明した。
叔父は東大に電話して精神科の人間を呼び出した。そして昔東北に病院をたてた事はあるかと聞いた。すると彼はこう言った。
「私はそんな昔のことは知りません。でもそれならいい人がいるので聞いてください。石橋という人です。もう八十歳ぐらいですが、昔のことについてよく知ってます」
彼は叔父にその人の住所と電話番号を教えてくれた。叔父が電話すると彼はすぐに質問に答えてくれると言ってくれた。僕たちはすぐに彼の家へと向かった
さいわいだったのは彼がもう引退して田舎に引っ込んでいた事だった。彼の家までは数十分もかからなかった。
彼の家は立派な家だった。インターホンを鳴らすと彼は出てきた。耳は悪くなっていないようだ。叔父が挨拶をした。
「山中です。お手数をかけてすいません。お話をさせていただきたいんです」
石橋さんはにこやかに言った。
「いえいえ、暇ですから。大丈夫です。それから私の話は全部先輩から聞いたものですがよろしいですか」
叔父はそれを快諾した。
僕たちは応接室に案内された。僕は尋ねた。
「あの、東大卒の人が東北の精神病院を建てたかどうかを聞きたいんです。戦前の話です」
石橋さんは少し考えてから答えた。
「ああ、そうです。たしかそんな話がありました。わりと有名です」
叔父が僕に言った。
「ではこれが当たりかな」
そのあと石橋さんは思い出したように言った。
「そうそう昔そんなことを聞いてきた人がいました。二十年ぐらい前です。よく覚えてます。その人は小説家でした」
僕は驚いて聞いた。
「小説家ですか。あの名前はひょっとして源田というのではないですか」
石橋さんは驚くように言った。
「え、ええそうです。なぜ知っているのですか」
叔父がその質問に答えた。
「私たちが来たのはその源田氏についてのことなのです。彼はどんな事を聞いたのですか」
「あなたたちとほとんど一緒ですよ。彼のついてよく覚えているのは突然倒れた事です」
叔父はその言葉を確認した。
「本当ですか。それはどうして」
「私が話している途中にいきなり倒れたんですよ。私がきみみしかと言ったら突然倒れまして。まあ幸いすぐに意識を取り戻しましたが」
僕はその言葉の意味が分からなかった。なので質問した。
「なんなのですか。そのきみみしかというのは」
石橋さんは顔を雲らせながら言った。
「ああ、その話はしてませんでしたね。難しい話ですがいいですか」
僕は即答した。
「ええ、もちろん。どうぞ」
「長くなります。まず最初にある治療法を説明せねばなりません。その東北の病院を建てた医師たちというのはよく言えば非常に進歩的、悪く言えば非常に異端だったそうです。それは医師たちの治療法が新しいものだったからです」
「その治療法とはどんなものなのですか」
石橋さんはためらいがちに言った。
「その治療法はとても異常なものでした。人間の記憶を改ざんしてしまうのです。つまり自分はまともだという記憶をむりやり植え付けるのです」
僕は慄然しながら言った。
「そ、そんなことがあるのですか。で、それとあの言葉になんの関係があるというのですか」
「その言葉が偽造の記憶を解除するのです」
「どういう意味があるのですか」
石橋さんは言った。
「私は知りません。なにしろその治療法をしていたのは大昔ですからね。先輩から聞いただけの話ですから」