帰り道の事はあまり記憶に無い。
さっきまでの出来事が夢のようで、駅のざわめきや街の明かりが作りもののように思えた。
駅で時計を見ると、時刻は10時半。
つまり六時間近くも海にいたという事になる。
(六時間、も…たった、六時間…)
家に着いたのはそれから一時間後。
予想外に、家の明かりが点いていた。
ガチャリ
「ただいま…」
アヤは恐る恐る扉を開けた。
玄関には、うなだれたまま座る父の姿があった。
「お父さん…ただいま。」
「えっ?ああ、アヤ…か?」
「うん…遅くなって、ごめんね。ただいま。」
「ああ…ああ、おかえり、アヤ。」
「うん、ただいま…」
気まずい沈黙。
父は別に怒っている様子もなく、むしろ優しい顔で、ただアヤを見つめていた。
「あ、あのさ。」
静寂を破ったのはアヤだった。
「うん?」
「お腹、空かない?」
「え?ああ…そうだな、そういえば、父さん、今日何にも食べてないな。」
そう言ってハハハと笑う。
父を見て、この数日でずいぶん痩せたなと、アヤは思った。
「じゃあさ、何か食べに行こうよ。」
「今からか?」
「お父さんだってお腹すいたでしょ?行こうよ。」
「しかたないな…じゃあ、何処行きたい?」
「そうだな…あたし…カレーが食べたい。」
「こんな時間にカレー?父さんにはちょっと重たいなあ。」
「いいからいいから、きっと元気出るよ?」
「しかたないなあ…」
ガチャリ
二人で外に出る。
いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。
けれど、街の明かりは夜を煌々と照らしている。
「さむ…」
「アヤ、お前、海に行ってたのか?」
「え?どうして?」
「磯臭い。」
「えー、ほんと?臭いとか傷つくなあ…」
「着替えてくるか?」
「…ううん、いい。海の匂い、嫌いじゃないし。」
「そっか。」
「あ。」
「ん?どうした?」
「ううん、何でもないの。さ、早く行こ。」
「おいおい、危ないって。」
アヤは父の手を取って走り出した。
父の手はあたたかく、何だか嬉しくって涙が出そうだった。
曲がり角まで走り、アヤは歩き始めた。
「はあ、疲れちゃった。」
「急に走ったりするからだ。」
「へへ。」
何でもない会話がやけに新鮮に思えて、アヤは笑った。
「ただいま、って。」
「え?」
それからしばらく黙っていた父が不意に口を開く。
「ただいま、ってさ。良い、言葉だな。」
そう言って、照れくさそうに笑った。
そんな父に、アヤは涙がこぼれそうになった。
『帰ってきたんだな』と、心から思った。
「さ、休憩おしまい!また走るよ!」
アヤは再び父の手を取ると走り出した。
「おいおい、だから危ないって…」
「いいから!ほら!」
『まったく』と呟いて父もアヤに合わせて走り出した。
「ねえ、お父さん。」
「うん?」
「たしかにさ、ただいまって、良い言葉だね。うん。」
「なんだよ、急に。」
父は照れ臭そうに頭をかく。
「ううん、思っただけ。」
「そっか。」
「あ。」
「今度は何だ?」
「ううん。」
アヤはクスクスと笑ってまた走り出す。
二人が目指すカレー屋は、遅くまで開いてはいるが12時には閉まってしまう。
『急ごう』とアヤはスピードを上げた。
ふと空を見上げる。
曇ってしまった空は、星も見えない。
「お父さん。」
「何だ?走りながら、しゃべるのは、父さん、ちょっとつらいぞ。」
「カレーライス座って、知ってる?」
「カレー…何だって?」
「カレーライス座。」
「なんだいそりゃ。」
「へへ、ないしょ。ほら、急ごう!」
父はすっかり息が上がってしまっている。
でも顔は笑顔だ。
(そういえば…お父さんと手を繋いだのなんて、すごい、久しぶりかも…)
そう思うと何だか照れ臭くなって、手を離した。
ここぞとばかりに父は足を止める。
ふいに強い風が吹き、雲が流れ始めた。
星々が顔を覗かせる。
アヤはカレーライス座をさがしたが、家々が邪魔してどうしても何処にあるのかわからなかった。
母が見つかったと警察から連絡があったのは、その翌日の事だった。