「さ、着きましたよ。」
そう言って草汰が立ち止まったのは、海沿いの道路が街中へとカーブしたところで、海へと向かう細い歩道を下りたところにある磯であった。
そこは道路からは見えず滅多に人のこない、草汰の秘密の場所だった。
「すごい…まさに冬の海って感じね。」
由香の言葉通り、海はやや波が強く、まさに『冬の海』といった様子だった。
風が強いのは感じていたし、道路からも海は見えていたが、近くで見ると思った
以上に荒れている。
『冬の海』としては最高かも知れないが、磯遊びには向かないだろう。
「濡れるのは、ちょっと嫌ね。」
由香が苦笑して言う。
二人が立つ、道と磯との境界部分から波打ち際までは10mも無い。
飛沫がここまで飛んできている。
「場所、変えますか?」
草汰は由香の顔を覗き込む様に、少し背を曲げ済まなさそうに言った。
風に二人のコートの裾が乱れる。
コートに隠れて今まで見えなかったが、由香は膝丈の黒いスカートをはいていた。
「ううん。あ、じゃああそこ行きましょうよ。」
そう言って由香が指さしたのは、海を正面にして右手側、ぐるっと回る形で突き出した岬――というより丘だった。
突端まで距離的には二三百m程だろうか。
高さは一番高い所で10mくらいではあるが、踵のある靴で登るには、ちょっとつらそうな坂に見えた。
「危ないですよ。」
草汰は他に提案できる様な場所は無いかと辺りを見渡した。
しかし由香は小さく首を振る。
「いいの。登ってみたいわ。」
『早く』と言う様に丘の方へと一歩踏み出す。
草汰はひとつため息をついて、首筋を掻いた。
「じゃあ…手を離さないでくださいね。」
由香の手をぎゅっと掴み、草汰は丘の方へ歩き出した。
小さく『ありがとう』と呟き、由香はそれに続いた。
「ちょっと…ツラい、かも。」
丘の中腹に差し掛かると、目に見えて由香の足取りは遅くなった。
息も大分あがっている。
「まだ半分くらいですよ?」
振り向いて草汰が言う。
こちらは余裕そうである。
足元は石から土に変わり、周りには木々がまばらに生えている。
道の端はすぐに崖だったから、二人はその木々を縫うようにして歩いていた。
「創くんは、若いからよ。あたし、もう、若くない…」
確かに二人はひと周り年齢差がある。
しかし、それにしても体力が無さすぎるのでは無いかと草汰は首をひねった。
だから思わず、
「運動不足なんじゃ無いですか?」
と冗談混じりに聞いてしまった。
「そんな事無いわよ…」
由香は大きく息を吐いて立ち止まった。
手を繋いでいる草汰も自然と足が止まる。
「大丈夫ですか?」
深呼吸をしている由香に草汰は聞いた。
由香は照れくさそうな顔をして草汰の手を放すと、手近な木にもたれかかった。
「大丈夫よ。ちょっと、寝不足なだけ。」
その言葉に、草汰は何となく胸のもやもやが消えていくのを感じた。
それは今朝由香と会ってから、ずっと感じていたものだった。
(由香さんも…眠れなかったんだな…)
「…どうかした?」
「え?」
由香に声をかけられ、草汰は顔をあげた。
一瞬ぼうっとしてしまったらしい。
草汰は慌てて笑顔を作り手を振った。
「ああ、いえ、何でも無いです。」
不自然な様子に、由香も眉をひそめる。
居心地の悪い沈黙が流れた。
「創くんさ…」
沈黙を破ったのは由香だった。
「どうして…今日、あたしを誘ってくれたの?」
「え…?」
真剣な目で、由香は草汰を見ていた。
こたえは決まっている――はずだった。
しかし、草汰は次々に頭に浮かぶ言葉を飲み込んだ。
『愛』?
『憧れ』?
『心配だったから』?
どれも何か違う気がする。
じゃあこの気持ちは?
自分は由香とどんな関係になりたいのか…
「ごめんなさい。」
黙り込む草汰に、由香は小さく謝った。
「創くんを責めるつもりじゃ無いけど…何で、あたし来ちゃったんだろう…」
ぽろぽろと涙が零れる。
さっきまで二人とも笑顔でいたのに、『何て不安定な状況だろう』と草汰は思った。
非日常的で、有ってはいけない状況だと。
「ごめんね。ううん、むしろ、ありがとう。」
由香はそう言って笑った。
「上まで登ったら、帰りましょう。」
草汰は、ぎこちない笑顔でこたえた。
丘の頂上は教室程の広さで、そこだけ木が生えていなかった。
まるでサスペンスのラストシーンの様だと草汰は思った。
「あんまり、崖に近づいちゃダメですよ?」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから。」
由香の足取りは疲労から少しふらついている。
崖に近づこうとする由香の手を、草汰は心配そうに掴んだ。
「大丈夫だってば。ちょっと覗くだけだから。」
そう言って由香は崖の下を覗き込んだ。
物凄い高くまで登った気分でいたが、磯の方を見るとそこまで高くは感じなかった。
「ちょっとだけですよ。」
草汰はふと道路の方を見た。
車の数が大分増えた。
自転車や徒歩で行く人もちらほらと見える。
『何時だろう』と腕時計を見た。
(あれ?)
電池が切れたのか、時計は六時を指して止まっていた。
小さく舌打ちをして、草汰は時計を外しポケットへと入れた。
「きゃっ」
その時、強い風が吹いた。
それに混じって、由香の悲鳴が聞こえた気がして草汰は振り向く。
由香の体が、不自然に崖の向こうへと傾いていた。
「由香さんっ!」
考える前に体が動いた。
大丈夫、距離は一二歩しか離れていない。
必死に両手を伸ばす。
届いた。
抱きかかえる腕に、由香の重みを感じる。
次に、体が宙に浮く感覚。
「あ…」
どうにか踏ん張ろうと足を動かすが、もうそこに地面は無い。
片手で由香を支え、手掛かりを探そうともう一方の手を必死に振った。
しかしその手は空気をかき混ぜただけだった。
「―――っ!」
由香が何かを叫んだ。
しかし風の音がうるさく、草汰には聞き取れない。
(嘘じゃないか…)
人間は死ぬとき、今までの人生が頭の中を駆けていくと聞いていた。
しかし草汰は冷静に、ただ眼下に迫る海だけを見つめていた。
「お母さん…」
冬の海は、二人を厳しく受け止めた。