「今度は何おしゃべりしよっか?」
草汰の気持ちを知る由も無く、綾子はにこにこと楽しそうに話す。
話題は何気ない、他愛の無いものばかりだったが、話せば話すほど記憶が戻ってくるのを草汰は感じていた。
プロフィール的な事はもちろん、今の自分の生活やそれこそ忘れていた様な小さな頃の記憶。
そして、自分が何故ここにいるのかという事。
(この子に、伝えなくちゃ…)
そう強く思う反面、この笑顔の少女に真実を伝える事が本当に正しいのかと不安になる。
自分は由香の笑顔を曇らせたく無くてここへやってきた。
しかし、その事が綾子から笑顔を奪っていた。
もし今真実を伝えれば、せっかく笑顔になった綾子をまた哀しませてしまうだろう。
いや、その時は遅かれ早かれ、いずれやってくるのだ。
(僕は…)
草汰は卑怯な自分を呪った。
そんな時、不意に静寂が訪れる。
何となく話しかけづらい空気が二人の間にあった。
(そういえば、記憶が戻ったら病院に行く約束だったな…)
空を見上げると、流れ星。
明るい夜だ。
(病院に行って、自分が幽霊かどうか調べてもらうかな…)
下らない考えだと草汰は少し笑った。
気持ちが少しだけ軽くなる。
「もしも、さ。」
「うん?」
草汰の言葉に綾子が向き直る。
「もしも、だけど。」
「うん。」
「このまま記憶が戻らなかったら、って…」
「え…?」
「君は、もうしばらくしたら帰ってしまう。だろ?そうしたら僕は…病院に行く。」
「…うん。」
(そうしたら…お別れだ…)
「病院はきっと、寂しい。」
「うん…」
綾子は寂しそうにうつむいた。
自分が守りたいと伸ばした腕が、ことごとく相手を傷つけてしまっている。
「ごめん…ね。」
「…ううん。」
草汰は心から謝った。
本当は、もっともっと謝りたかった。
いや、謝らなくてはならなかった。
「そういえばさ、何か手掛かりになる物とかは持って無いの?」
「え?」
そういえば考えもしなかったと、草汰は思わず立ち上がった。
「ポケットの中とか、何か無い?」
「えっと…ちょっと待って…」
もう記憶はすっかり戻ったのだから探す必要は無かったが、一応調べてみる。
しかし身元のわかるような物は見つからなかった。
「ごめん…何にも無いみたいだ。」
「そっか…」
再び沈黙。
綾子は草汰を潤んだ目で見つめている。
「寂しかったらさ。」
「ん?」
「寂しかったら、あたしの事、思い出してよ。あたしも、そうするから。」
「…うん、そうするよ。」
忘れたくても、草汰に忘れられるはずが無かった。
(けど…)
けれど、綾子はそうではいけない。
忘れて、幸せになって欲しい。
「でも、きっと、君は僕を忘れてしまうよ。」
「どうして?」
少しむきになった様な草汰の口調に、綾子は眉をひそめる。
「見ず知らずの人間と、ほんの数時間話しただけじゃないか。若い君は、すぐに忘れてしまうよ。」
「そんな…それならあなただって同じじゃない。見ず知らずのあたしと、ほんの数時間話しただけ。条件は一緒よ。そしたら、あなたもすぐ忘れちゃうの?」
「僕は…僕は忘れないよ。」
(忘れるわけが無いじゃないか…)
「どうしてよ。なら、あたしだって忘れないわ。」
「うん…」
草汰をまっすぐに見つめる綾子の瞳には、強い思いが浮かんでいる様に見えた。
そこには、あの大人しい女の子の面影は無い。
(僕も、強くならなきゃ…)
「実は。」
「え?」
思い切って草汰は口を開いた。
喉がカラカラで痛いくらいだった。
「実は、色々思い出してきたみたいなんだ。」
「ほんと?」
綾子は本当に嬉しそうに目を輝かせた。
草汰の決心が揺らぐ。
「うん。何をっていうわけじゃないんだけど、だんだん頭がすっきりしてきたって言うか…」
「…良かったぁ。もう、はやく言ってくれれば良かったのに。」
「ごめん。何て言ったら良いか…怖くて…」
「…名前は?」
「名前は…ごめん。」
『また逃げてしまった』と草汰の胸が痛む。
「じゃあ…歳は?」
「28。」
「あたしとちょうどひと回りだ。」
ハハっと綾子は笑った。
胸の痛みは増すばかりだ。
「どうして海に落ちたのかは、思い出した?」
(言わなくっちゃ!)
しかし、思いと裏腹に声が出ず、草汰は目を逸らした。
「言いたく、無い?」
「…ごめん。」
「ううん。」
あまりの情けなさに、草汰は消えてしまいたくなる。
綾子が何か話しかけてきているが、何も聞こえなかった。
(何か、言わなくちゃ…)
「…お母さん、見つかるといいね。」
「…ばか。」
考え無しに口にした言葉に、綾子は一粒涙をこぼした。
その綾子の髪を、草汰は何も言えずにそっと撫でる。
あったかい。
そう、思った。
「立てる?」
「…大丈夫。」
綾子が立ち上がろうとして少しよろける。
「大丈夫?」
「…大丈夫、です。」
何となく余所余所しい雰囲気になり、お互いに目を逸らした。
「待ち合わせしなくても、また、会えるよね?」
「え?」
突然、綾子が草汰の腕を強く引いた。
眼は真っ赤になっている。
「また、会えるよね?」
草汰はまた何も言えず、ごまかすように月を見上げた。
月は眩しいくらいに輝いている。
「じゃあ…帰るね。」
「うん。」
「ちゃんと、病院行くんだよ。」
「うん。」
「病院、一人で行ける?」
「子供じゃないんだから。」
「そうだね。」
ハハっと、二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ…あたし、帰るね。お父さん、心配しちゃうし。」
「うん。」
「じゃあ、ね?」
「うん、バイバイ。」
「…バイバイ、なの?」
「え?」
草汰がつい口にした言葉に、綾子の笑顔がまた曇る。
そしてまくし立てる様に話し始めた。
「あたしは、おうちに帰るけどさ、あなたは…あなたは何処へ帰るの?」
「どこ、って…?」
「病院は…この後行くのよね。その後よ。その後。一生病院にいるわけじゃないでしょう?」
「それは…わからないけど…」
「ばか!ねえ、もしも記憶が戻らなかったら…ううん、もし記憶が戻ったとしても、幽霊のあなたは、何時か、何処へ帰るの?」
「そう、だな…幽霊だから、あの世かな?」
「やっぱり!」
「やっぱり…って?」
「急に、怖くなっちゃったの、ほんとに、もう二度と会えないんじゃないかって、お母さんみたいに…どっか行っちゃうんじゃないかって…」
そう言うと、綾子はまたぽろぽろと泣き始めた。
(言ってる事が、めちゃくちゃだよ。)
草汰は思わず苦笑しながらも、満更でない気分の自分を心底最低だと思った。
「大丈夫、冗談だよ。」
「…どれがよ、どれが冗談なの?」
「あの世に帰るって。」
「…じゃあ、何処に帰るの?」
「生まれ変わって、この世にさ。」
「…ほんと?じゃあ、また会える?」
「うん。」
(そうだ…いつかまた会って、本当の事を…)
考えながらも、それが自分のエゴでしかない事を草汰はわかっていた。
ただ、独りよがりに、離れたくなかった。
「じゃあさ、『バイバイ』じゃなくて、『またね』だね。」
「うん。」
「…またね?」
「うん、またね。」
「…うん!またね!」
綾子は笑顔でぶんぶんと手を振りながら歩いて行った。
足元を気にしながら、それでも見えなくなるまで草汰に手を振り続けていた。
見えなくなるまではほんの数分だったが、草汰にはそれが永遠にも一瞬にも感じた。
「ふう…」
ひとり、ため息をつく。
それは白く空気を霞ませる。
(寒いな…)
すっかり戻った感覚は恐ろしいまでに、寒さや痛み、空腹や疲労感を伝える。
もしも、まだ生きているのだとしても、今すぐにでも死んでしまいそうな気分だった。
(嘘、ついちゃったな…)
さっきまでの自分を振り返る。
本当に、最低な嘘ばかりをついた。
保身や自分の欲望ばかりを考えて、自分は綾子に何をしてあげられたというのだろう。
(生まれ変わって、か…)
「…またね。」
草汰は小さく呟いた。
その時、流れてきた雲が月を隠した。
海岸は闇に沈む。
ざ………ざ………
ただ、波の音だけが冷たい空気を震わせていた。