第五話「閉店間際に来るもの」
閉店間際に来るものは人ではない。
相変わらず乏しい今日の売り上げを二階にいる細山田店長に報告し、店内清掃を始めた頃、人の気配もないのに自動ドアが開く。チタチタと床を鳴らして近付いてくるのは、夜の闇から抜け出してきたような黒い体毛に覆われたラブラドール・レトリバーだ。飼い犬だった頃の唯一の名残であるボロボロの首輪には、子供のものらしい拙い字で「銀次郎」と記されている。
うぉん、と軽く吠え、今日の食事を催促してくる。どうせ売れる見込みのない、賞味期限の切れたツナ缶を開け、紙皿に乗せて床に置いてやる。毎日のようにやってくる癖に、最後の一線は越えさせないとでもいうように、僕が皿から距離を置いてからでないと食べ出さない。撫でさせてはくれない。
保健所の役人たちは行き倒れた人間拾いに忙しく、野良犬に構っている暇はない。
僕は愛犬家というわけではない。店の前のごみ箱を漁られるよりはずっとましだし、他店と違い夜九時に閉まるこの店は、閉店間際に強盗に狙われやすい。僕の前任者のアルバイト店員も、レジの中にあったわずか五万円の現金を守ろうとしたために病院送りになったという。銀次郎が強盗退治に役立つか保証の限りはないが、少なくとも強盗側からすれば、大型犬の徘徊する店を襲おうとは思わないだろう。
里崎の失踪から一週間が経つ。彼女が買い占めていった生理用品はいまだに補充されていない。
学校にやってきた刑事は、日高から里崎のことをしばらく聞き込んだ後、僕らクラスメイトへはおざなりの調査しかしなかった。あまり熱心とは思えない彼の態度に、里崎の両親にあったであろう「殺される理由」を想像出来た。
銀次郎はモップを見ると敵意を剥き出しにする。食事を終えた彼は、僕が店内をモップで拭いている先々に回り込み、モップを睨み、うなり声をあげる。けれども僕が進むと後ずさりして、棚の裏に回り込む。こちらから本気で追いかけてしまえば、闇雲に反撃されて喉を掻ききられるかもしれないと思い、からかい切れないでいる。
シャッターを半分下ろすと銀次郎はいつも素直に外へ出て行く。鞄を取るために一度カウンターに戻った僕に、「うおぉ」と、今度は犬のものではない、聞き覚えのある声が届いた。
「この店はとうとう犬相手に商売を始めたのか?」
腰を曲げて店内に入ってきたのはいかつい顔をしたやくざ風の男だが強盗ではない。僕のもう一人の雇い主である谷繁先輩だった。
噛みつかれた様子もなく、銀次郎の吠え声も聞こえなかったので、やはり番犬としては心許ない。それとも先輩は僕の知り合いと見越して、危険な人物ではないと判断してのことだろうか。それはそれで間違いなのだが。
「携帯に繋がらんから直接来たよ」
鞄に入れっぱなしだった、先輩とのアルバイト用に貰っていた携帯電話を取り出すと、電源が切れていた。
「これ、充電してもすぐ電池が切れるんですよ」
「じゃあしょっちゅう充電しとけばいいだろ」
「店に電話をくれたらいいじゃないですか」
「嫌われてんだよ、悪いことに子供を巻き込むなってな。自分だって人のこと言えないくせに」
谷繁先輩が見上げた先では、細山田店長がきっと今夜も何らかの違法行為にせっせと勤しんでいる。自身の生活費だけではなく、僕へのアルバイト代も稼ぐために。
「今日、これから行けるか?」
「いいですよ、別に」
谷繁先輩は叔父の元に出入りしている、あまり筋のよろしくない人たちの一人だ。ギャンブル仲間や商売女たちとは違い、小説のネタになりやすい人たちの話などを持ってくる、いわゆる情報屋である。それだけでは大した金にならないので、危ない橋を渡る別の商売にも手を出している。僕が彼に誘われたのは、同じ中学出身だったからというのもあるが、先輩の顔が怖いというのも要因の一つだった。
「客がびびっちゃうんだよ。依頼者なのに被害者みたいな面しやがる。だから狩野は、気楽に客の話を聞くとか、他には作業を軽く手伝ってもらうくらいでいいよ。一回手伝ってくれたら三万あげるから」
僕が誘われたのは先輩の言ったようなことだけではなく、顔の割には寂しがり屋である彼の性格のせいでもあったのだけれど。
なんかくれ、という先輩に、銀次郎にあげたのと同じツナ缶を放る。
「いやもっとこう、豚まんとかさあ……」
「そんなの置いてないです」
店の前に駐車してある黒のハイエースに向かう。この辺りの街灯には壊れているものが多いので、銀次郎ほどではないが、夜の中に溶け込んでいる。目を凝らしてみれば、銀次郎のような黒犬ばかりではなく、黒猫、黒狸、黒人間などがそこら中に隠れていて、僕や先輩を獲って喰らおうとしているのかもしれない。
後部座席のドアを開くと、今夜の依頼者である女性の姿が見えた。まだ若く、僕と同年代くらいに見えるな、と思った瞬間、「狩野君?」と声をかけられた。ルームライトに映し出された女性は、ショートカットで茶髪、派手な化粧で長い睫毛に大きな目、ピアスの穴を空けるのに失敗したのか、耳たぶが赤く腫れ上がっている。こんな人は知らない、と思ったが、よく見ると丸い鼻に見覚えがあった。
「里崎さん?」思わず声をあげる。里崎は自分から正体をばらした癖に、しまったという顔をした。
「知り合いか? まあいい、出るぞ」
先輩はそう言ったものの、すぐにはエンジンがかからず、イグニッションキーを三度回した。
ヘッドライトの先には黒猫も黒人間もいなかったが、さっき店を出ていった銀次郎の後ろ姿が見えた。店に来ている時とは違い、これから何かを喰い殺しに行くようなその姿は少しばかり恐ろしく、そして美しかった。