第六話「脚の声」注:R-15くらい
車を出すとすぐに、信号無視をした原付とぶつかりそうになった。二人乗りの男女がこちらを睨み、因縁を付けるかのように煽ってくる。谷繁先輩はルームライトを消し、アクセルを強く踏み込んだ。バイクの男女は音ばかりうるさいがスピードは出ないようで、しばらく走ると視界から消えた。
暗い車内では、目が慣れるまで里崎の顔をはっきりと確認することは出来なかったが、教室で時折聞こえていた彼女の声が僕の耳をくすぐり始めた。
「狩野君が危ない仕事してるなんて意外だね。私の想像の中では暗くて伏し目がちで、人付き合いが苦手、それでいて動物にだけは必要以上に心を開く、若干可哀相な人ってイメージだったから」
先ほどの銀次郎とのやりとりを思い出し、あながち間違ってはいないと思いながらも訂正はしないでおいた。教室にいる時の彼女よりずっと饒舌なので、何かドラッグでもやっているのかもしれない。あるいは、これが彼女の地なのだろうか。
「何も学ぶべきことなんてない退屈な授業中なんかにさ、クラスの男子それぞれとデートした時のことを妄想して、理想的な恋人は誰かなんて順位をつけたりして遊んでたんだ。狩野君はそれほど悪くなかったよ。上位でもないけどね。自分のやりたいことだけやろうとして人の言うこと聞いてくれなさそうな人は、いくら格好良くても、成績が良くても低評価にしてた」
人の素顔を知るのは億劫だ。僕は今や失われた、里崎の長くて美しかった黒髪を想う。車はいつものようにあまり目立たないよう速度を抑えながら、北へとコースを取っている。
「で、殺しちゃったの? 両親」
「うん」
答えにくい話題を振れば少しは静かになるかなと思ったがそんなことはなかった。
「それで聞いて聞いて、あいつらったらね……」
そこからは今の時代ではありふれた身の上話が続く。僕は適当に相づちを打ちながら、時折同情する振りをした。
里崎が中学三年に上がったのと時期を同じくして、彼女の両親は事業に失敗し、かなりの額の借金を背負った。それが、夜逃げや自殺を考えさせられるほどに巨額でなかったことが、彼女を悲惨な境遇に貶めることになる。
里崎は両親の手により、売春をさせられるようになる。「その方が受けがいいから」という理由で、娼婦めいた服装は禁じられ、長い黒髪を生かした地味な身なりをさせ、その手の女性が好きな客層に彼女を売った。客の要望があれば、両親の前で体を開かせることもした。家のためだと割り切り、客はプラスチックや金属で出来ていると思うことで彼女は耐えていたという。しかし、商売が軌道に乗ることで、客を取る回数が月一から週一になり、要求してくるプレイ内容がどんどん酷いものになってきた頃、彼女は自身を傷つけた。逃げたかったというよりも、休みたかったのだという。黒髪とともに、少女趣味の男たちが口を揃えて絶賛し、唾液まみれにした白く美しい脚を自らカッターナイフで切りつけた。深い傷ではなかったが、傷痕が残るように。もう男どもに賞賛されなくなるようにと願い、何十回も線を刻んだ。
「髪を切ってもさ、ウィッグつけさせられるだけだろうし」
「俺さあ、一生懸命女の髪を誉めまくって口説いてたら、『これウィッグだから』って冷たく言われたことあるよ」
谷繁先輩が悲しい体験談を披露する。
「他に誉めるとこなくて困っちゃったよ」
しかし世の中には彼女の思いもよらない性癖の持ち主がいる。古い言い回しではあるが文字通り「傷物」になった彼女を、だからこそ求める男たちが後を絶たなかったそうだ。
「以前よりも高く売れるんだって」
彼女の脚の傷はカサブタが剥がれる前に男たちの唾液と精液にまみれた。
「こんなの、どこがいいんだろう」
彼女はもう隠すことのない脚を僕の太ももの上に乗せる。赤く走る無数の傷痕に直接手で触れてみても、僕には何の感慨も湧いてこない。
「ごめんね、こいつホモだから」
「ほんと? うわ、なんか嬉しい」どうしてそこで喜ぶんだ。
「勃たないだけ。男には興味ないよ」
「なんだあ」がっかりされても困るが。
「だからかな、学校では目が死んでたよ」
そんな生活についに耐えきれなくなった彼女は担任の橋本に相談する。しかし教師の出来ることなんてたかが知れていた。女子中学生の売春問題程度では警察や教育委員会のようなものは動かせず、里崎家の借金を肩代わり出来るような資産も彼にはなかった。里崎夫妻と彼が談判した結果、彼女の売春行為を当時の週三回から、月二回に変更させた。傷だらけとなった彼女の単価が、以前よりも却って高くなったことが幸いしたという。
そしてその礼として、里崎は橋本に体を預け、橋本も甘んじてそれを受けた。
里崎の話を聞きながら思う。金も知識も体力も足りない中学三年生の僕らが、大人に差し出せるものなんてほとんどないのだ。「ありがとう」の言葉で満足してくれる人たちばかりなら、僕らは傷だらけになんてなっていない。
「売られるんじゃないセックスは、ちょっと気持ちよかったよ。先生はいろんなところが臭かったけど」
しかし橋本は夜道を歩いていたところ、強盗に襲われて殺される。後任の日高は学校以外での生徒の行動については深く踏み込まない主義で、また女性であるから彼女の性的な救いにもなってはくれなかった。
そして中谷の自殺を彼女は目撃することになる。
カッターナイフ一本で自らを殺し切った中谷の姿は彼女には衝撃的だったらしい。橋本の死をはっきりと実感出来ないでいた彼女は、「人は死ぬし、殺せるんだ」とようやく意識し始めた。彼女は刃物を自らを傷つけるためにではなく、自分を苦しめる原因となっている両親に向けて振るうことに決めたのだ。
長い話をしながら、靴を脱いだ里崎は脚の指で起用に僕の股間を弄ぶのだが、そんなことをされても僕のものは左右に動くばかりで、固くなることはなかった。
「逃げなかったよ」
ドラッグをやっていたとしてもとっくに効き目は切れていただろう。話の間中無理やりな明るい演技をしていた里崎が、ふと真顔になって言った。
「お父さんを刺したけどさ、一発で殺せるわけないじゃん。横で寝てたお母さんも起きるし。『逃げちゃうかな、逆に殺されちゃうかな』と思ったのに」
娘を売るようになってから、ともに酒に溺れることが多くなった里崎の両親は、早い時間からでも酔い潰れて眠っていることが多かったそうだ。里崎の振り下ろした包丁は、ベッドで寝ていた父親の首筋を掠めたが、中谷のようにうまく頸動脈を傷つけることは出来なかった。痛みと驚きの悲鳴と共に父親は目覚め、その声で隣に寝ていた母親も起き出した。しかし包丁を持って立つ彼女を見て二人は弁解もせず、まるで何事もなかったかのように二人揃って再びベッドに横になったという。里崎は包丁を構え直し、今度は刃が滑ることのないようしっかりと構えて、父親の腹を刺した。続いて母親の胸を。また父親の首を。痛みを堪えきれずに、寝た振りを二人がうまく出来なくなってからも、彼女は包丁を振り下ろし続けた。
「汚いよね。要するに死にたかったんだよ、あの人たち」
殺したいほどの憎しみを植え付けた相手に自分を殺させる、遠回しな自殺。最初から二人がそうしたかったのか、娘を売る日々を過ごしているうちにそういう気持ちになっていったのかはわからない。里崎は僕をいじるのに飽きたのか脚を引っ込めると、指先を鼻に近づけて臭いを嗅いだ。「臭くない」と残念そうに呟く。僕は彼女の体が柔らかいことをその時初めて知った。
「ついたぞ」いじればあちこち臭くなりそうな谷繁先輩の言葉とともに、車が停まった。