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16.ビースト・ヒロイン

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 予期していたほどカレーは辛くなかった。どろどろに煮込まれたルーは白米によく溶け込んでいたし、ニンジンもジャガイモも俺が作るときのように拳骨状じゃなかった。つまり、俺は嫌味や冗談のひとつも満足にいえなかったってことだ。

 細長い客間のテーブルに五人が座っている。
 背後にかけじくのかけてある上座には親父さんがにこにこした笑顔を浮かべていた。
 俺はできるだけ野郎の相手を雨宮に任せていたのだが、カガミとヒバリが食器を洗いに台所へいってしまった折にとうとう話しかけられてしまった。
「馬場くん」本物の雨宮がいる場では俺を区別できるらしい。
「すっかりうちの娘と打ち解けてくれたようだね」
 その言葉だけをすくいとれば、物分りのいい父親そのものだった。
「はあ、まあ、お世話になってますよ、いつも」
「ふむ。あの子はうまくやってるかね? 学校になんて行かせたことがないものだから、勉強なんかわからんだろうし、友達だってできまい」
 その物言いにイラっとしたが、俺は口元に手をやって考えるそぶりでごまかした。
「俺も驚いてるんですよ。だいたいどの教科も、読めばわかるみたいで」
 ひょっとしたら、図書館かどこかで一から勉強してしまったのかもしれない。たったひとりで。
「友達もいるみたいですよ」ほとんど俺が全滅させたがな。
 どうして世の中の女子ってのは俺を無条件で嫌うんだろう。おまけに最近では芳野に好かれ始めている気配までするし、泣きっ面に蜂だ。
「友達……」親父さんはその言葉の味を確かめるように口をもごもごさせた。「友達ね」
「馬場くん、ああ、ついでに坊ちゃん。君たちは、友達が必要なものだと思いますか? いや、そもそもよりどころになる他者というものが」
 その唐突な質問に、俺は二の句が告げなかった。代わりに雨宮が胸を張って答えた。
「いらんね。そうなったら戦士としちゃあオシマイだ……誰かのために闘うということは、その誰かを救えなくなったら負けてしまうってことだ。時限爆弾つきの狂人なんぞ、敵じゃあない」
「ほっほっほ」不気味な笑いだ。「それでこそ坊ちゃんです。いや、先代によく似てらっしゃる」
「ふん」
「で……馬場くん、君の答えを聞きたいですな」
 カガミが戻ってきやしないかと廊下に顔を向けた俺の前に、ずいっと親父さんがでかいガタイを割り込ませた。張り付いたような笑顔。
「どうです」
 黒目がちな双眸の奥で、こいつは何を考えているのだろう。
「闘う時、誰も助けちゃくれない」
「そうですな」
「だから友達なんてものは邪魔だ。それは確かです。だがつまらんでしょう」
「つまらない?」
「雨宮のいう、闘うだけの機械みたいなやつらなんてのは、量産できるから大したことないって言ったんです」
 どう受け取ったのか、雨宮がカカカ、と笑う。親父さんはそれを横目に見ながら四角い顎を撫でた。
「不思議ですね。機械になることは簡単ですか? 昔から人間は、より機械的な正確さを求めてきたと思いますが。弱さが強さに繋がると?」
「ただ勝つためには、いらないんでしょうね、そういうものは。でも俺は、弱さを抱えたままであってほしいんですよ。強さにもね」
 女子陣が戻ってき、しかつめらしく向き合った俺たちに怪訝そうな視線を向けてきた。
「何の話をしてたんです?」「僕も気になるなァ」
「いやいや、なんでもないよ、男同士の話だ」
 そうあしらいながら、親父さんは最後に、そっと俺に耳打ちした。
「君は面白い人だ。よし望むなら、いつまでも娘と仲良くしてやってください。
 ――なんでもないったら、空奈。それよりさっき私が淹れた茶はどうだったかね? 先日、知人から譲り受けたものだったんだが――」


 俺は八畳の間にいた。
 すぐ隣にヒバリとカガミの部屋がある。真向かいには雨宮の部屋。このあたりは、肋骨のように、客用の部屋がびっしり詰め込まれているところだった。
 寝巻きに着替えた俺の前には、カガミが正座している。
「父と何を話したんですか」
「べつに? あのカレー絶対レトルトだったよなって話」
「失礼な。天馬が食べたいというから、賞味期限切れのカレー粉まで引っ張り出して作ったというのに」
「ちょっと待ってなんか腹痛くなってきた」
 一晩寝かせたような味だと思ったがもしや年単位か。ヒバリも止めろよ。
 胃を押さえて唸り始めた俺が面白かったのか、目を閉じていて見えなかったが、くすっと小さな声がした。慌てて顔を上げたが時すでに遅し。いつもの鉄面皮が俺を出迎えた。
「なァカガミ」俺は掌でのの字を腹に描きながらカガミに向き直った。
「親父さん、好きか」
 カガミの透明な瞳が、部屋の窓の外へ吸い寄せられる。
「天馬こそ、どうなんですか」
「俺は嫌いだね」
「自分の? それとも――私の?」
「両方」
「そう、ですか」
 俺は血縁というものに情が持てない。
 常にその軽薄さは俺の心臓を分厚く覆っていたが、春先から致命的になってしまった。
 今、俺は、妹の窮地を救おうとは思えるだろうか。
「私の父の話、どこまで知っているんですか」
「殺してやりたいくらいには」
「私の父ですよ? もっとエコヒイキしてはくれないんですか?」
 苦笑気味に発せられた問いに俺は噛みつく。
「俺はおまえだけでいい」
 他はいらん。くたばろうと知ったことじゃない。
 おまえも、そう思わないか。
 だがカガミは何も言わず、部屋を出て行った。
 ひとりでいるには、八畳は広すぎる。


 窓ガラスの向こうで、黄色い血飛沫が散っている。
 星空だ。
 俺は布団から身を起こした。
 静かな夜には不釣合いな音がする。額を押さえて耳をすませた。
 唸り声。獣の。
 立ち上がるとふらっとよろめいた。体に力が入らない。動くことを拒否しているようだ。
 だが、身体なんぞは俺の道具に過ぎない。俺の意思の邪魔をするなんぞ百億光年早いのだ。距離か。
 壁伝いに廊下に出ると、ヒバリと雨宮がいた。ぐらついた俺の脇にヒバリが手を差し込んで支えてくれる。
「大丈夫? 顔、真っ青だよ」
 雨宮が俺のすねをスリッパで小突く。
「どうする」そういって、カガミの部屋を顎で示す。
「どうやら、してやられたようだぜ」
「してやられた……?」
「虎太郎のおっさんだよ。野郎、カガミの茶か何かに薬を混ぜていたらしいな」
「なんの薬だ。カガミは死ぬのか?」
「その逆だよ――」
 襖の向こうから、地鳴りのような叫びが起こった。でかい屋敷ごとびりびりと震える。
 そのすぐ後に、聞きなれたやつの、聞きなれない喘ぎ声。
 俺はヒバリに懇願しようとしたが、やつは力なく首を振った。
「今は無理。天馬が、もっと早く手に入れてくれていれば、なんとかなったかもしれないけど――」
「天馬」
 顔から吹き出した汗が冷たい。俺は雨宮を見た。
「ここから動かないって選択もあるんだぜ。何もなかったことにして、明日の朝を迎えるのも間違いじゃない」
 間違いじゃない、なるほどそうだ。このまま布団にもぐって目と耳をふさげば、明日の朝、俺はちょっと元気の悪そうなカガミに会う。どうした、何かあったのか? カガミは言う。少し気分が優れなくて。そうか大変だな、困ったことがあったらいつでも相談しろよ?
 糞喰らえ。
「俺はいく」
「だろうな」
 言うが早いか、雨宮は襖を開け放った。
 カガミがいた。


 夜具の上に両膝をつき、自らの身体を抱きかかえている。
 呼吸が不連続で、浅くなったかと思えば深く苦しげになる。歯の隙間から息が漏れている。痛みに耐えているのだ。
 四角い窓から入り込む月明かりが、やつの周囲をぽっかりと暗闇から隔離していた。
 その両目は、滲んだように赤い。俺は黒い方が好きだ。
「カガミ!」
 やつは、ハッと俺たちに気づくと、後ずさった。
 鉄面皮なんて誰が言った。やつの顔は恐怖と苦痛で歪んでいた。
「カ――」
 一歩踏み出した俺の足がやつのスイッチを踏んだらしい、窓ガラスをブチ破って、カガミは藪の中へと消えていってしまった。
 雨宮が、窓枠から上半身を出して、手団扇を扇ぐ。
「見たか? 天馬。今のやつの腕。二倍ぐらいには膨れ上がっていたな。あれじゃ見せたがらないわけだ」
「うるせえ黙れ」
「やばいな、あんなので殴られたら死んじゃうぜ、俺たち」
「嫌ならついてくるな」
「いくよ、いくとも。――だがずーっと考えておけよ。自分が今、何してんのか。何をしようとしてんのか、それをな」
 俺は雨宮を無視して藪の中に突っ込んでいった。
 だが、心までそうはいかなかった。



 枝が俺の頬の肉を削り取っていった。
 だが走るのをやめられない。
 雨宮がついてきているのかどうかも分からず、俺は夜の森を疾走していた。
 視界はゼロに等しかった。
 けれど不思議なことに、俺は正しい方向へ進んでいるらしかった。時折前方から唸り声が聞こえる。
 俺は迷わない。必ずカガミに辿り着く。そう、不思議な自信があった。
 走る、走る、走る。
 あの日から、俺は走り続けてきた。自分のために。
 それが間違っていたとは思わない。俺は誰かのためには闘えない。
 だから追っても仕方ないのかもしれない。負けるだけなのかもしれない。
 だが、結局のところ。
 追わないことはカンタンだった。
 だから倒れるその時まで。
 カンタンは、お預けでいい。


 視界が開けた。
 伐採した切り株の群れを埋め尽くすように、不法投棄物が散乱していた。
 頭上に開いた丸い隙間から、満月が覗いている。
 その中央に、小山のような影があった。横転した車に肘をついているそれは、人の形をしていた。
 散らばっている衣服はカガミが着ていたものだ。急な体の膨張に耐え切れず弾け飛んだらしい。
 黄土色になった肌。俺の作ったカレーの具よりもごつごつした筋肉。そいつが身動きするたびに周囲の残骸が崩壊していった。
 長い黒髪だけが、そのままだ。
 ざざぁっ、と横滑りして雨宮が頭上から飛び降りてきた。ショートカットしたらしい。
 雨宮は、口を開けて顎を上げた。。
「驚いた……全身だとこれほど変わっちまうものだったのか。これが本当に……」
 おまえにはわからんかもな、雨宮。
 だが俺にはわかる。どんなに醜くなろうとも、どうしてだか俺にはわかってしまう。
 こいつはカガミだ。
 カガミは、頭を抱えて、うずくまっていた。身を守るように。
 見ないで、そう言っているように、俺には思えた。
「なるほど、虎太郎のおっさん、こいつをおまえに見せつけて、とっとと縁切りさせようって腹だったわけだ。
 望む限り仲良くしてやってくれ、か……。どうする天馬?」
「……」
「おまえは、こいつを好きでいられるか? こんな醜い様を見て?」
「……」
「いつかこいつは、この姿のまま、もう二度と戻れなくなるかもしれない。前例がないからどうなるかなんて俺は知らん。だが、そうなったとき、おまえはどうする」
「……」
「今、やつの意識はほとんどないはずだ。ここでの会話は記憶に残らん。本音を言ってみろ」
「……」
「正直、もう疲れたろう。やめてしまえよ。何もかも」
「くだらねえな」
 俺は卑怯だった。
 左腕がない雨宮は、俺の右の拳を避けなかった。
 よろけた雨宮の唇から血が垂れる。やつはそれを舌でぬぐった。
「てめえらの脅し文句は聞き飽きた。それで俺が変わるかよ。俺の気持ちは変わらない――」

 諦めることはカンタンだ。俺たちは、ずっとそう言い続けて、ここまで来た。
 俺たちは弱いから。
 だから、強くあろうとするんだ。
 死んでも辛くても譲れないものがあるんだよ。

 強いおまえらには、わからねえだろうな。

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