20.シャイニー・ルーレット
すぐに俺も声を上げようとした。そうしなければカガミにやられるのは……。
だが、吐き気をこらえるように俺は出かけた言葉をそのまま飲み下した。
不毛な言い合いなんかしたって仕方がない。
結局、カガミは二分の一の確率で、俺か雨宮のどちらかをその拳骨で叩き伏せなくっちゃならない。
このまま終着駅まで膠着状態を維持してみたところで、目が見えるようになるのが三日後では一時しのぎに終わるのみ。
だったら、黙っていよう。
俺は四苦八苦して足を組み、カガミを見上げた。やつは戸惑ったように、一歩下がる。
まるでやられることを受け入れたかのような俺の態度に、雨宮が怪訝そうな顔をするが、何もしない。座席に膝をついた態勢のまま、ここは見。
俺がそのままやられれば、それでいいということだろう。
カガミは雨宮をどうするつもりだろう。腕を折るか。足をもぐか。殺しはしないだろうが、ただでは済みそうにない。
本当は、今にも声をあげたい。当たり前だ。
助けてくれ、本物は俺だ、そう言うのはすごくカンタンだ。
だが、カンタンなことを、カンタンにやっていくだけの人生は、嫌だった。
弱い俺がずっと思ってきたことは、それだけだった。
なァ、こんな俺の気持ちがわかってくれるだろう? カガミよ。
格好つけてるわけじゃないが、おまえにやられるならそれでもいいよ。
おまえはこれで自由だ。
ようやく胸の奥でつかえてた苛立ちが取れたよ。
いい気分だ。これはおまえの夢だったんだろうが、俺の夢でもあったんだ。
夢を追いかけて何が悪い?
夢を追いかけました、力が及びませんでした、死にました。
いいじゃないか、それで。
何も悪くなんかない。
カガミが、ぎゅっと拳を作った。
「なぜ、雨宮」
カガミは俺の方を向いている。
「黙っているんですか」
信じてるからなァ。
必ず勝つって。
俺があえて名乗らなかったことで、二つの選択に差ができた。
つまり、運否天賦から少しは駆け引きじみた勝負へと変貌したのだ。
今、カガミの前にひとつのルーレット盤があるとしよう。
そのルーレットとボールは言葉を喋られるのだ。
彼らはカガミが勝つかどうかを賭けている。負けた方は新品と交換させられてしまうのだ。
カガミの耳に明るい囁きが届く。
「俺は今にも投げ込まれようとしているボールなんだがね、実は俺は好きなところに落ちることができる。
さァ俺は赤に落ちるよ。黒には落ちない……君にだけ教えてやる」
カガミはその声に従い、チップを赤に入れようとする。
けれどそこでふと手が止まる。
なぜルーレット盤は黙っているのだろう。
一、真実ゆえに言い訳のしようがないから。
二、真実を語る手段として、沈黙を選んだから。
赤か黒かの二者択一よりは少しばかり面白い。
胸の中で、泥のような、熱のような何かが渦巻き始めた。久々に感じる、溢れ返るほどの高揚感。
全身が血流と神経だけで構成される。体温がどんどん跳ね上がり、頭の奥で何かが膨らむ。
呼吸が荒くなり、口元が緩む。まぶたが限界一杯まで見開かれ、ただ答えを待つ。
日照った乾いた大地で空を見上げ、ただ雨を待つ子どものように。
カガミの中で、今俺が考えていたこととまったく同じ思考が駆け巡っているのがわかった。
そして今、やつは懸命に考えている。
自分ががそうやって悩むことを見越して、雨宮はわざと黙り込んでいるのではないか。
雨宮からすれば、この状況を打破するためにはカガミの失策を狙うほかにない。
手助けしてやりたいのはやまやまだが、もう俺に自分を有利に導く策はない。完全に手詰まりだ。
財布の中の小銭一枚まで賭けちまった後。負ければそれまで、間抜けなオケラ。
結局、必勝法などギャンブルにない。
それでいい。
だって必ず勝てる勝負なんて、きっと飽きてしまうから。
そうとも俺はルーレット。
ただ賭けるやつの答えを見てみたい。
それだけよ。
列車が深い山の隙間を縫うように走り抜け、鉄橋の上を滑っていく。
海面に砕け、跳ね返った光が車内を乱舞する。
その粒子をまとって唇を引き結び、答えを今、下そうとしているカガミは、何よりも美しかった。
勝利の女神。
もし叶うなら。
俺の勝利を祈ってくれ。
胸倉を掴まれ、窓に叩きつけられる。
ガラスが一気に砕け、危うくコンクリート並の硬度になった海面に落ちていきそうになったが、外れかけた窓枠を右手で掴み、なんとか車内に居残った。
ぽたっぽたっ。熱い血が垂れる。信じられない、そんな気配を漂わせ、掌でこぼれるそれを掬い取る。
「いつもそうなんだ……。肝心な、ここ一番に、俺は勝てない」
雨宮は、滴る血と共に、戦意も流し尽くしてしまったようだった。
「一番、大事なときだったのになァ……」
通路にいる俺と、ソファに座るようにして窓に力なくもたれかかっている雨宮の間に、カガミが立ち塞がった。
なんと頼もしく、儚げな背中だろう。
だが守られてばかりではいられない。
俺は立ち上がって、兄弟同然の男を見た。
闘っていれば、時に、信じられないくらい負けたくなる時がある。
もう楽にしてくれ。もういい。闘いたくない。
振り切らなければならないのに、なぜだかその諦めは、奮い立とうとする俺たちの足にしつこくまとわりついてくる。一度絡みついたら絶対に離れない棘。
雨宮は本気だったろう。
すべて俺をハメるために行動していたのだろう。
だが、再会してから俺は、時折やつに奇妙な感情を覚えた。
それは懐かしいもので、その原因は、もしかしたら雨宮の演技力にあったのかもしれない。
しかしそれでも、俺は思う。
やつは、俺を助けてくれた。やつの考えがなければ、カガミはここにいなかった。
だって信じられるか。
雨宮は、カガミの新しい戸籍まで用意してくれたのだ。
当面、学校でカガミはカガミとして生きていくが、卒業後はあらゆるカガミとしての活動はヒバリが受け継ぎ、カガミは完全に自由になる。
その戸籍は苗字こそ違えど、名前も年齢もカガミと同じものだった。
「捜すのに苦労したぜ。まァ苗字は、どうせ変わるんだろうから、なんでもよかったろう。特別ボーナスをもらいたいぜ」
ただ復讐のお膳立てに、そこまでしたっていうのか。
なァ雨宮。
おまえ、負けたかったんだろう。
もう楽になりてぇ、って思ったんじゃないのか。
完膚なきまで負けた後、財布ん中にはした金が残ってるのが、我慢ならなかったんじゃねえのか。
その最後に残ったものを、納得できない生を、おまえはすり減らすんじゃなくて使っちまいたかったんだ。
プライドの高いおまえは否定するだろうが、俺はなんだか、そんな気がするんだよ。
俺はあの日から、勝ちたくなった。
おまえは反対に、負けたくなったんじゃないか。
勝ち続けて、勝ち続けて、何も埋められなくて。
おまえは俺に八つ当たりしてたんじゃねえか。
あの時、うずくまってたのは、俺だけじゃなかったんじゃねえのか。
いったいどこを目指せばいい。
あの頃、俺らは、まったく同じことを考えていたんだ。
それなのにおまえと来たら、平気なフリしやがって。
……それは俺もおんなじか。
俺もおまえも、白黒はっきりさせられねぇ天邪鬼だ。
救いようのねえバカ二人だ。
だから。
鉄橋を超え、トンネルを抜け、草原に出た。
背の低い草がどこまでも続いている。麻雀卓みたいに。
「雨宮ァ」
雨宮は、ようやくといった有様で、顔を心なしか持ち上げた。
唇には、薄ら笑いが浮かんでいる。
「俺はてめえのことなんか、大嫌いだ」
「へっ、鏡見て言えバーカ。俺だって嫌いだ、おまえなんか。とっとと殺しやがれ。どっちがやる? カガミに任せるか? それともおまえが自分で――」
「今殺すくらいだったらな……」
俺はカガミの制止を振り切って、雨宮の胸倉を掴み上げた。拳が震え、雨宮の足が浮いた。
そいつの目玉の奥に向かって、声の限りに吼え叫ぶ。
「あん時とっくに殺してんだよッ……!!」
「――――」
「生きろ雨宮」
涙が溢れた。
我慢する暇さえなかった。枯れていたなんて、嘘のように。
そう嘘だった。死にたいのも嘘、涙が枯れたのも嘘。
だから、おまえのも、嘘なんだよ雨宮。
「おまえは今まで、その強さだけで生きてきたんだ。
だから、弱って死ぬまで、手を抜いて闘うことなんか許されねえんだ。
おまえが不幸をばら撒いてきた負け犬たちに、てめぇ、どの面下げて地獄で会うつもりだ……?
負け抜けなんて許さねえ。
最後まで闘って、それから死にやがれ……!」
「言ってくれるな……」
拳が走り、火花が散った。口が血で溢れる。
だが俺は怯まなかった。
頭突きしかえし、やつを押す。
二つの首が車窓から飛び出した。俺の下に、鬼がいた。
「誰が負けたがってるって? 勘違いも甚だしいぜ。
おまえは昔っから自分の言葉に酔っ払う節があったからな。
そこの怪力田舎娘もそうやってだまくらかしたんだろ?
俺にはわかるぜ」
「へっ、友達ひとりまともに作れなかったくせに。
本当にてめえってやつを見てくれたやつが誰かいたか?
みんな本当のおまえが好きなんじゃない、強いおまえに、憧れてただけだ!」
「黙れこの――」
「うるせえ! 弱くて悪いかよ。嘘ついて生きてくよりよっぽどマシだぜ」
「俺ァ嘘なんぞ――ついてやしねぇッ!」
腹に膝を打ち込まれ、俺の身体が浮き上がった。
そのまま肩から体当たりを喰らい吹っ飛んだ俺を、カガミが受け止めてくれた。
ふらつきながら、雨宮が立ち上がり、ぺっと血の唾を吐いた。
「知ったようなことを――調子に乗りやがって。おまえなんぞとこの俺とじゃ、天と地ほどの差があるんだ」
「けっ、ぶっ飛んでいった左腕が泣いてるぜ」
「てめェッ……!」
「カンでわかるだろ、ギャンブラーなら」
つんつん、頭を小突き、俺は笑ってみせた。
「おまえじゃ俺には、勝てねえよ」
深く長い息を雨宮は吐き出した。
それにはやつの、いろんな気持ちが混ざっていたんだと思う。
窓枠に足をかけ、夕日を浴びながら、やつは笑った。
さっきより、いくらかマシになった笑顔だった。
不敵で、邪悪な、俺の知ってるあいつの笑い方だった。
「いつかケリをつけてやる――。今度ァ手心なんて加えねえ。全力で、一気に、ぶっ潰してやるから覚悟しておけよ」
「ああ、やれるもんならやってみな」
不意に力がつきて、俺はカガミに寄りかかった。
膝が笑っている。雨宮の拳はいつだって効くんだ。
タッ、と軽やかに列車から飛び降りていった雨宮の姿は一瞬で草むらの闇へと巻き込まれていった。
「ちっ、くそったれ」
その闇にきっと俺の声は届いたろう。
「――待ってるぜ」