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喧騒の朝

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 身体が氷のように冷たい。強く自分の指先を意識した。動いた。
「……生きてる……」
 見慣れた自分の部屋が映るのと同時、脳味噌が激しく揺さぶられるような感覚に陥った。強い吐き気を覚えて、胃液が一瞬でせり上がる。
「ぐ!」
 口元を手で抑え、どうにか押し留める。悲鳴をあげる全身を動かして、壁に寄りかかった。
「き、きもちわりぃ……」
 毛布の一枚もかけずに、一晩畳みの上で横倒れていた。そんな真似をしていれば、どこかのジジィですら風邪を引くに決まってる。
 いっそ吐いた方が楽かと思いつつ、気合いで身体を起きあがらせた。砕け散った黒電話の残骸を踏まないように、勉強机に近づいた。定位置に置かれたデジタル時計を見ると、五時、半。
「……じーちゃんが目を覚ます時間かよ……」
 いつもならまだ夢の中。とはいえ、いつも通り七時まで眠っていれば、そのまま永眠していたかもしれない。
「……畜生……」
 最悪だ。ぐらぐら揺れる頭に、歯の根元も噛み合わない。両脚には力が入らないし、吐きそうだってのに、胃袋は栄養やらカロリーやらを激しく求めていた。
「……結局、昨日の昼からなんも食ってねぇ……」
 夢の中でなにか口にしたところで、実際に腹が膨れるはずもなかった。階下に降りれば冷え切っているとはいえ、温めればすぐに食えるおでんが残っているはず。思い浮かべると、余計に腹が減ってきた。
「とにかく飯……の前に、風呂入らねぇと……」
 一歩進むだけで全身がダルい。寒さで鈍っているのか、歩いている感覚にも乏しい。慎重に階段を一段ずつ降りて、居間を抜け、まっすぐ浴室に向かった。
「っ……!」
 全身が冷えきっている。気分が悪くてたまらない。
 即座にシャワーの蛇口を全快にした。滝のように振り注ぐ熱湯を、服を着たままぶっ被る。ついでに逆流した僅かな食物もブチ撒けて、そのまま下水へ流し込んだ。相変わらず頭痛は酷いが、幾分マシだ。
「今度会ったら、絶対ぶん殴ってやる……!」
 気分は最悪、どこまでも最低だ。ずぶ濡れの鼠になりながら、その音を聞いた。

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 シャワーの音に混じって、居間の電話が鳴っている。電話の相手については確信があった。恐らく、どれほど待たせたところで、呼び出し音が途切れることはないだろう。

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 無視。身体が温まるまで、もしくは軽く火傷するまでの間、無言で熱湯を浴び続けていた。

 *
 
 濡れた服を洗濯機の中で回した後、二階に戻って服を着替えた。その後、再び一階に降りて鍋を持ち、台所に移動してコンロの上に置く。火力を最大に。冷えた白飯もレンジの中へ。
「……腹減った……」
 ほんの一分後、熱くなった白飯を取りだし、匂いを嗅いだところで限界だった。
 味なんてどうでもいい。まだ冷えていても問題ねぇ。無意識に菜箸を握った片手が動いて、おでんの中へ突撃。受け皿などなく、直接白飯と共にガッ突いた。
 こんにゃく、はんぺん、湯豆腐、卵、牛すじ、もち巾、じゃがいも、白滝、大根、その他諸々胃に流し込む。男子校生の胃袋に限度なんかない。薬缶を手に取って一息に飲み干した。じーちゃんが好む緑茶は、とにかく味が濃すぎるのだが、今はそれすら心地良い。
「美味い……!」
 幸福だった。腹が減ってる時に食う飯は、涙が滲むほどに美味いのだと悟った。そんな、人として当たり前の幸せを感じている間もずっと、

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 時間にして一時間近く、居間の電話が鳴り続けていた。
「……ギネスにでも乗るつもりか」
 無視し続けていたが、身体も程良く温まったし、腹も膨れたし、さてと。
「風邪薬でも飲んどくか。ついでに胃薬も」
 どちらも三錠。マズイ錠剤を流し込む。

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 一息ついたところでテレビを点けた。ニュース番組にチャンネルを合わせて天気を確認。今日は晴れ、午後から曇り。降水確率十パー。雨は降りそうにない。自転車通学だと、雨の日が面倒で困るが、その心配も無さそうだ。

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 時計を見る。六時三十分。じーちゃんが帰ってくるのは昼過ぎだろうし、家を出る前に洗濯干しとくか。あと、部屋の床に散らばった破片も片づけておかないとな。確か納戸に不要なダンボールがあったはず。

『――ルルルルル、ルルルルル、』

 電話が切れる気配なし。渋々手に取った。はい、もしもし、と言うより早く、

『遅すぎですっ!!!!!!!!』

 クロの怒鳴り声が飛んできた。初めて耳にする怒声に反応が遅れた。咄嗟に受話器を離す余裕もなく、耳の中を、キンキン甲高い音が突き抜けていく。
『……ずっと、ずっと、信也のこと呼んでたんですよ……っ!』
 微かに上擦る声。胸が少し痛んだが、言いたいことがあるのはこっちも同じだ。
「うるせぇバカ。誰のせいで限界まで追いつめられたと思ってんだ。危うく自分の家で行き倒れかけたじゃねーか」
『信也が悪いんです……』
「ふざけんな、このバカ電話」
『バカは信也です。意地を張らず、帰ってきてください……』
「……ッ!」
 抑えていた怒りがせり上がる。受話器を叩きつけたい衝動をどうにか押し殺す。
「クロ、聞きたいことがある」
『……なんでしょう?』
「昨日、彼女にメール送ったのお前だな?」
『……メール?』
「とぼけるな。いや、メールって言葉を知らないなら、"お前、あいつに電話をかけたか?"」
『……あぁ……そういうことですか……ふふ……』
 小さな笑い声が、受話器の先から聞こえてくる。思わず周辺を見回してしまったが、クロの姿はどこにも見えない。
『……私、上手にできましたか……?』
「お前、自分がなにしたか分かってんのか。俺の目の届かないところで、前からあんな盗聴じみた真似をしてやがったのか」
『……盗聴……? いいえ、私が信也以外とお話をしたのは、あれが初めてですよ……貴方が変われると言ってくださった日から、私の世界も広がったのです……』
「世界が、広がった?」
『……はい、私には見えるのです……貴方の世界と、その先に繋がっている"糸"を介した、この世界……』
「糸?」
 何を言ってやがる。そう思った瞬間、不意に一つの想いが浮かびあがってきた。問題の過程をすり抜けて、解答のみを渡されような不快感。
『……見えますか……貴方達のすぐ側にある、近しい世界が……』
 深く理解しないまま、手の中に握った受話器を見つめた。その先に繋がっている電話回線。クロが小さな声で呟いた。

『XXX-XX-XXXX』
 
 十年前、家族が暮らしていたアパートの電話番号。手の皮が血に染まるぐらい、固いダイヤルを回し続けた九桁の数字。それは今、俺が握っているこの電話にも登録されていた。
 じーちゃんもまた、あの家の電話番号を消すことが出来なかった。短縮番号の一番は、今尚、二度と届かないあの家に向かって呼びかける。
『XXX-XX-XXXX』
 くすくす、と含み笑いをするクロの声。暗がりの底から這い上がってきたかのようだった。
「……貴方達が、この世界で "記憶" を完全に消し去ることが出来ないように。 "記録" もまた "糸" の先にある世界で生き続けているわ……私はそれを少しばかり手元に集め……自らの言葉として、選ぶことが出来るようになっただけ……』
「なにを……」
 意味がわからない。理解が追いつかない。
 ただ、浮かんだイメージがあった。頭の中を蜘蛛の巣が広がるように張りめぐる。透明な糸が、この電話を起点として増殖していく。
 俺の携帯から、さらにその先、第三者、第四者、第五者へ。糸は無限に連なって広がっていく。気がつけば世界を覆うように張り巡らされていた。
(ツクモガミの、クロ……)
 それは、意思を持つ情報回路だった。
 人間の感情を決定づける、電気信号だった。
 理解の及ばぬ異質の存在だった。
『……信也。私の想いは、十年前から変わっていませんわ……あの日から、私を支えている気持ちはただ一つ……私は、貴方が望んだモノでありたいだけ……貴方の側にいたい……ずっと……永遠に……』
 壊れた声。
 受話器の先から聞こえてくるのは、一心になにかを追い続け、歪んでしまったモノの声。あるべき姿、存在する理由、意義からかけ離れてしまったモノだ。
『……もう一度、こちらの世界へいらして、信也……』
「誰が行くかッ!!」
 耐えきれず、叫んでいた。
『……どうして。ここには貴方が求めていたものが、すべて揃っているのですよ……?』
「昔の話ばかり持ちだすんじゃねぇっ! 俺はもう、お前なんざ必要ないって散々言ってるだろうがっ!!」
『……貴方は、私を捨てるのですか……?』
「そうだっ!!」
 言い切った。息を呑む気配がした。断言した言葉が棘を孕み、自分に突き刺さる。
『……捨てる……私を、捨てる……?』
「あぁ」
 手に収まる物は少なく、簡単にこぼれ落ちていく。だから、クロを捨てる。世界から見限られないために、今、必要とするものを求め続ける。そして変わり続ける。そうでないといけない。
『……私は、貴方のために……変わったのに……』
「お前は間違ってる。変わったわけでもない。単に歪んだだけだ』
『……そんな、だって……』
 歩み寄れない。明確な悪意など存在しないことは分かっている。それでもここで過去を断ち切らない限り、十年の間に築き上げたものが、砂礫のように崩れてしまう。それはクロも同じだろう。だからこそ、交わらない。分かりあえない。
『……お願いです。私には、貴方が必要です……』
「俺にはお前は必要ない」
 十年の間に、見ているもの、見えているものが、決定的に異なっていた。後戻りだけはしたくなかった。
「俺は、不要な物をいつまでも大事に抱えたくない。捨てられる物から捨てて、必要な物を自分で選び取っていくんだ」
『そんなの嫌ですっ! 信也は、私のこと、ずっと大事にしてくれるって言いましたっ!』
「だからなんだ。その言葉すら――捨てればいい話だろうがっ!」
『自分の一部ですら、不要になれば捨てるのですかっ!!』
「あぁそうだっ!! いつまでもガキのままでいてたまるかっっ!!」
『では、貴方に捨てられた、見捨てられた一部は……っ!』
「知ったことかっ!! テメェの価値なんざテメェで見つけろッ!!」
 反論すればするほど、自分に突き刺さった。不要な物を斬り捨てると言い切る自分こそ間違っている。最低な屑野郎だと思えてくる。
(……違う!)
 間違ってなんかいない。俺は、じーちゃんの後を、真っ直ぐに追いかけたいと思っているだけだ。もう躓くのは嫌だ。絶対に嫌だ。命に等しい存在を失っても、世界を拒絶して、自分を否定して、暗がりの底に、過去の中へ、沈んでしまいたくない。

『――あぁ、あの子は仕方がないのよ。ほら、ねぇ……』

 両親が居ない人間を『かわいそうな奴』という目で見る連中。親が生きているのがそんなに偉いのか。テメェらはどうなんだ。無条件に人に順位をつけて、自分は親がいるからなんて、そんなことで上から目線になって、優越感に浸る気が知れない! 不必要なレッテルを貼るのも貼られるのも辛いんだ! 惨めで惨めでたまらない! だからッ!!
「俺は、自分だけは信じられるように、認めてやれるように、真っ直ぐに生きたいだけだ! そのために、大事な物以外は捨てていく! そうしない限り、前に進めない! 躓いて止まっちまうっ! 生きているだけで優越感に浸れる生き方なんざ―――絶対に御免だッ!!!」
 叫ぶと、頭がぐらりと揺れた。気分が悪くなって、吐き気の浮かぶ口元を必死に押さえた。
31, 30

  

 
 言葉が途切れた。今日もまた、いつもと変わらない日常が始まるはずだった。少なくとも外からは、どこか間の抜けたスズメの鳴き声が聞こえてくる。
「……」
『……』
 互いに無言だった。理解は欠片も示し合わさず、けっして交わることのない道だということを、黙認するかのように。
『……私は……』
 静かな息遣いが、受話器の先から聞こえてくる。
『なんの、ために、生まれてきたの……?』
 胸を抉りつける彼女の独白。不可視の存在が泣いているのを耳にした。
『……私は、道具です。貴方達に必要とされ、いつかは捨てられる運命でした。だから、少しでも、貴方に近づきたかっただけなのに……なのに貴方は、私のことを道具に過ぎないのだとおっしゃるわ……貴方と私は、そこまで、異なるモノですか……?』
「違う。俺はヒトであって、道具じゃない」
『……そう……』
 魂が抜け落ちたような声。消えていく。
 一滴の雨粒のように、微かな吐息とともに、
『……本当にそうかしら……?』
 どんどん、どんどん、広がっていく。黒い染みとなって、じわじわと侵食するように。ゆっくりと、楽しそうに、壊れたように、笑った。
『……ふふ、うふふ……あはっ!』
 暗闇をすべて呑みこんだような声だった。限りなく近い場所から聞こえてくるようだった。けっして手の届く事の出来ない、すぐ側から。
『私は道具。ヒトという存在があって、初めて存在する理由が与えられる……本当に、そうなのかしら……ねぇ?』

 頭が揺れる。気分が悪くなり、両脚が揺れた。 

『黒い殻……どこからが内なる場所で、どこからが外に繋がる場所なのか、そもそも分からないのに……それなのに、貴方達は常に、自分たちが外側に立っていると信じている。自分達は同一ではなく、常に他と比べて、自己を確立できるのだと信じている……私達の存在なくして、そんなことが可能なのかしら……?』

 予感がした。声が、ひどく歪に変わっていた。
 前提をすべて反転した、もう一つの世界の声を耳にした。

『私は道具ではない。"ヒトという存在こそ、私達の道具にすぎない"』

 くすくす。含み笑い。
 こんなに簡単なことだったのかと、納得するように。

『クロという存在において、"イノグチ シンヤ という道具" は、必要不可欠なのですよ。その理由は……なんとなく、お気に入りだから……うふ、うふふ、あははははっ!!』

 壊れた道具が、壊れたように笑う。
 心の底から、面白可笑しく愉快そうに。

『この世界に、私達の道具は、たくさん、たくさん、たぁーくさん、それこそ群がるようにいらっしゃいますわ。でもね、私の "お気に入り" はただ一人です。他の道具も個性的でいらっしゃるのでしょうけれど、別段興味がありませんわ。そうねぇ、たとえば……』

『第一に、形が悪いもの。
 第二に、求めている物と性能が違ったわ。
 第三に、機能が普及点以下。
 第四に、個性的じゃないから、いや。
 第五に、新しいのがいいの。
 第六に、余計な機能が多すぎ。
 第七に、今すぐ必要じゃないの。
 第八に、価値と中身の有用性が、釣り合っていないのではなくって?
 第九に、昔の物の方が良かった。
 けどそんなのは建前――第零に、単純に気に入らない。
 
『私は、貴方が欲しいの』

『道具としての価値など些細なこと。貴方を側において、愛でることが出来ればそれでいい。信也が好きです。好きなのです。貴方は一番のお気に入り。永遠に手放したくありませんわ。誰にも触れさせることなどいたしません。綺麗なまま抱きかかえ、一つに溶け合ってしまいたい。だって、こんなにも、心の底から、愛してるんですもの!』

 ネジの箍が外れたように、笑い続けた。
 耳を塞ぐこともできず、その声を聞ていた。

『……いつか必ず貴方を手に入れてみせます。手段など問いませんわ……猪口、信也様……』

 その一言を最後に、声は途切れた。耳に届くのは、回線が終了したことを告げる電子音だけだった。全身が熱を感じない。何も考えず、受話器を置くことしかできなかった。
「……」
 そのまま、どれぐらい突っ立っていたのか。二階にある自分の部屋から、一日のはじまりを告げる目覚ましが鳴って、ようやく足が動きだした。七時だ。支度をして、学校に行かないと。
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五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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