追いつかれた夢の先
どこまでが夢なのか、どこまでもが夢なのか、わからない。
目の前の現実が信じられなかった。自分とは関係のない光景に見えてしかたがなかった。ついさっき、玄関前で「須宮美緒」と名乗った女性が、同じ部屋、家の居間、手を伸ばせばすぐに触れられる場所にいる。
「……」
「……」
時間だけが過ぎていく。お互いに一切の言葉を交わさずに、黙って座っていた。
「信也、開けろ」
「……おう」
呼ばれてやっと、身体が動いた。居間と廊下を繋ぐ襖の扉を開く。両手におぼんを持ったじーちゃんが立っていた。湯気を曇らせる、熱い緑茶が三人分。
「今日は寒かったろ。あんたも、飲んであったまるとえぇ」
「……ありがとうございます……」
こつ、こつ、こつん。
湯呑みが机に軽くぶつかり、小さな音を立てて並んだ。じーちゃんは俺の隣に腰を下ろし、二対一で向き合う形になって座る。まっさきに熱い湯呑みに手を伸ばし、音を立てて茶を啜ると、須宮美緒もまた、俺達の視線から逃れるように手に取った。
「あの……いただきます…………ぁつっ!」
しかし両目を瞑って、一層身を縮める。嫌がらせでもなんでもなく、じーちゃんの入れる茶の濃さと熱量は、初めて口にするには難度の高い代物だ。
「す、すみません……!」
それでもその人は、自分が悪いのだというように、小動物みたいな仕草で頭を下げていた。本当に、あまりにも申し訳なさそうだったので、もしかしたら普段も、こんな感じなのかもしれないと思った。
「……」
そう、どこにでもいそうな、普通の女性。
普通に笑って、泣いて、怒って―――
『そいつは、お前の両親を殺した奴の娘だぞ!』
頭の中、叫ぶ自分の声。十年前のガキが、目の前の女性を指差して非難する。頭の芯が冷えきっていく。自分の未熟な部分が顔を出す。抑えきれず、認められず、その意思に従った。鋭く低い声がでた。
「何の用ですか、今更」
「……ぁ」
相手を射ぬくような視線で睨みつけた。華奢な両肩が大きく震えるのを見て、優越感すら覚えた。
(あぁ、なるほどな)
この世界に明確な悪など、そんな都合のいいものは、存在しないと思っていた。そんなことはない。悪い奴が、自分のことを悪だと、心の底から信じていればいい。だから、今この場で、俺とじーちゃんは、どこまでも正しい。目の前の女性を弾圧すべき立場にある。
「十年も音沙汰がなかったのに」
「……っ!」
須宮美緒の顔色から血の気がひいた。それを見て、心がすーっとした。俺はこの人を許さなくていい。恨んでいい。憎んでいい。
十年前とは違って、力だけで殴り合えば勝てるという思いが、その気持ちを後押ししているに違いなかった。
『そうだ。殴れよ。あの時みたいに。十年前、お前のじーちゃんが、
あの男を、殴り殺そうとしたみたいにさぁ』
心臓が悲鳴をあげていた。
望めば叶う。願えば好きなだけ。
ひたすらに醜い。どこまでも醜悪な自分の心に、吐き気がする。だけど止まらない。
「今になって、言いたいことでもあるんですか」
「……はい」
顔色は青いまま。しかし視線だけはけっして逸らさない。まっすぐな瞳。埋めようのない十年の差を覗いた気がした。相変わらず、自分が子供に思えてしまう。激しく気に食わない。
「人殺しに、用なんて、ねぇよ」
「私は、人殺しじゃありません」
棘を孕んだ言葉。相手を傷つけるだけの言葉が、逆に意思を強くしただけだと知った。毅然と背を伸ばし、凛とした様子で口を開いた。
「私、子供ができたんです。本日はそのことを報告したくて、猪口様の家に、訪問させて頂きました」
「……え」
そう言って、彼女は頭を下げた。再び顔をあげた後でそっと、自分の腹に手を添えた。静かに撫でた。優しく、どこまでも優しく。
「……子供?」
「はい。私は、母になります。そのことを、猪口信也様と、猪口翔也様に知っていただきたかった。本当はもっと早く、別の形で訪れたいと思っていましたが……今日まで、決心がつきませんでした。申し訳ありません」
世界で一番大切なものを、愛しむように。お腹にそっと両手を重ねていた。どこまでもまっすぐに、俺達を見ていた。だけどその眼差しは鋭くはなくて、むしろどこか、ほっとしてしまうような。
なにかを認めかけた時、また、自分の心が悲鳴をあげた。
「ふざけんな! なにを―――!」
「信也、少し黙れ。黙って話を聞け」
半ば立ち上がりかけた俺の肩を、ごつごつしたじーちゃんの手が押し込んだ。ぎし、と心に軋みが生じる。子供みたいに、その横顔に向かって、なんで、どうして、叫びたかった。
「……私の母は、私を生かしてくれました。病弱であったのに、それこそ、自らを殺すように働きました。私を育てることだけに心血を注いでくれたのです。私は、母以上に尊敬できる、強い女性を知りません。そして私もまた、母と同じような女性になりたい」
顔色は青いままだ。怖れと怯えを限界まで孕んだ表情だった。けれど、けっして折れない強さの片鱗を見た気がした。この人の、この想いを俺は知っている。否定はできない。けっして出来ない。
この人は、俺と、同じだ。
俺の目標。憧れ。その人に近づくことだけを支えとして生きてきた。
「お母さんは、今、どうされておられるのかな」
隣から割って入る声。普段とはあまりにもかけ離れた穏やかな声色に、逆に不安を覚えてしまう。
「……母は、もう起きあがることすら出来ず、意識もほとんどありません。もともと、身体がそこまで強い人ではなかったので……」
「そうか……」
いつもの覇気が消えていた。皺の目立つ、普通に年老いた老人のようにしか見えない。そんな姿を初めてみた。
「先日、母の荷物の中から見つけた物があります。小さな鞄の中に、隠すように折り畳まれていました」
それは、丁寧な折目がくっきりと無数についていた、一枚の紙片。開かれたその上には、黒い几帳面な文字がびっしり覆っている。一目で、見覚えのある文字だと理解した。
「猪口翔也さん、私、つい最近まで知りませんでした。私と母を、陰ながら支えてくださった貴方のことを」
―――え。
「本来なら、私共が生涯償っていかなければならない方に……本当に、本当に、申し訳ありませんでした……なによりも、あの時の母を助けてくださり……本当に、ありがとうございます……」
なにを。アンタは、なにをいっている?
どうして泣いている。なんでそんなに涙が流れてるんだ。
そんなこと、あるわけ、ないだろう。
アンタのオヤジが、俺の両親を殺したのに。
なんで、俺のじーちゃんが、あんたらを、助けなきゃなんねーんだ。
「……じーちゃん?」
なにか言って欲しかった。
隣に座っているその人に。俺がただ一人尊敬してきた、ずっと追い続けてきた一人の男に、今の言葉を否定して欲しかった。ふざけるな、と一言の下に、断罪して欲しかった。
ほら、はやく。いつものように、怒鳴り散らせよ。
なぁ。じーちゃん。
「…………」
熱い渋茶を啜っている。
長い、長い、間を置いた後で、静かに口を開いた。呟いた。
「幸せになりなさい」
と。
「ふざけんなぁッ!!」
叫んだ。信じられなかった。立ちあがり、相手を指差して罵倒した。
「誰が……! 誰のせいで! わかってんのかよッ!!」
言葉がまとまらない。ただ、少しでも気を抜いてしまえば、折れてしまいそうだった。自分が信じてきたもの、支えにしてきたもの、これからの目標にするのだと目指してきたもの、そのすべてに。
「信也、座らんかい。相手に失礼だぞ」
「なに、言ってんだ……?」
裏切られたと思った。睨むべきでない相手を、それこそ射殺すように貫いた。
「クソジジィ、こいつが誰だか分かってんのか?」
「信也、よさんか。……すみませんな、孫が失礼を」
「人殺し相手に謝ってんじゃねぇッ!!」
「貴様……!――歯ぁくいしばれッ!!」
瞬間、弾丸のような勢いで、拳が飛んできた。避ける暇もなく、顔面に向かってきた一撃を受け止める。
「……!」
衝撃。両足に力を込め、ふんじばって耐えた。むしろ心の方が折れそうだった。必死に歯を食いしばり、涙が浮かぶのも気にせず叫んだ。
「クソジジィ! 殴る相手が違うだろうがッ!!」
「信也! たいがいにせぇよ! 客人に対して無礼な物言いをしてんのはテメェだろうがッッ!!」
「客人? この女が!? とうとう耄碌しやがったなッ!!」
「黙れッ! お前には分かんねぇのかっ!? この方が、今日、どういう思いでここに来たのかッ!!」
「わかってたまるかッ! こいつは、俺の両親を殺した奴の、アンタの息子夫婦を殺した奴の、その娘なんだぞっ!?」
「口を慎めッッ!!」
もう一度、振りかぶった一撃が飛んでくる。応じるように身体が動いた。畳みを踏みつけ、目の前の鼻面目がけて、まっすぐに拳を出していた。
「……ごっ!」
吹き飛んだ。でかい音が家の全体に響き渡った。
ぴっ、と赤い鮮血が舞い飛び、手の甲に張りついた。
襖が中央から真っ二つになる。その上に、豪快な音を立てて仰向けに倒れた。
「……がは……っ!」
手に痺れが残っている。相手を本気で殴りつけた時は、こんなにも痛みが返ってくるのだと知った。信じられなかった。なんで俺じゃなくて、あんたが倒れてんだよ。
「――翔也さんっ! 大丈夫ですかっ!?」
じーちゃんに駆け寄るその人を見て、再び拳を握りしめた。女であることなど一切関係なかった。ただ、行場のない怒りをぶつけてやりたい。
「信也ッ!」
鋭い一喝。反射的に動きが止まる。憤怒の表情で起きあがろうとしていたが、すぐに膝をつく。苦しげに汗を浮かべながら、手を腰元へと持っていく。
「なんだよ……いつも、偉そうな口を叩いてる癖によ……」
百二十まで生きるんだとか言っている癖に。だけど、本当は、歳相応に弱いんじゃねぇか。
もうダメだと思った。今度こそ、自分の中にある柱が、音を立てて折れてしまった。十年前に誓ったのに。もう、後戻りはしたくないのだと。
「……おい、ジジィ、なにやってんだよ。さっさと立てよ……」
「言われんでも! む、ぐ……っ!」
「無茶しないでください! 横になって。お医者さん呼びますからっ」
「うるせぇ! 余計なことしてんじゃねぇ!!」
「バカ言わないでっ!! 放っておけるわけないでしょ!」
「黙れっ!!」
抑えが効かない。頭では、間違ったことを言っているのだと理解していながら、止まらない。
「自業自得だ! 勝手なことしやがって! なんで人殺しの家族の世話なんてしなきゃなんねーんだ! ふざけんなっ!」
ガキが駄々を捏ねるように否定する。気に入らない、気に入らない、気に入らない。なにもかも、ぜんぶ、この世界のすべてが気に入らない。
「クソったれッ!!」
全力で壁をブン殴った。手の甲が真っ赤に染まる。額を嫌な汗が流れるのも気にせずに、何度も殴りつけた。
「やめなさい!!」
「黙れよ! 誰のせいだと思ってんだっ!」
「今のは貴方の責任よっ! きちんと向き合いなさいっ!!」
「アンタにだけは言われたくねぇッ!!」
自分の言葉が、相手に深く突き刺さったのを見た。それでも怒りの表情を向けてくる。一杯に溢れだした涙を拭いとり、まっすぐに向き合ってくる。
「落ちつきなさい。今、私達がしないといけないことは、なに? 怒鳴り散らすことでも、喧嘩をすることでもないわ。あなたの大切なお爺さんを、病院に連れていってあげる。そうでしょう?」
涙は、あとから、あとから、流れてくる。
嗚咽混じりの声で、意思だけを伝えようとしてくる。
『自分がやったことの、責任を、とれ』
じーちゃんの言葉に直せば『テメェの尻拭いは、テメェでやれ』。
それが出来なければ、俺はいつまでもガキだった。ガキ扱いされるのは、最も嫌なことだった。
「クソジジィッ!」
床上に倒れた自分の祖父を見る。額からは大量の脂汗を流して、苦悶の表情を浮かべていた。それでも目線だけは外さない。
「あとからきちんと、納得いく説明聞かせてもらうからなッ!! でなきゃまた、殴り飛ばしてやるッ!!」
「……スマン……」
「謝るんじゃねぇ! 次謝ったら蹴り飛ばすっ!」
それだけ言って、家の電話を掴み取った。短縮番号に登録してあるはずの、馴染みの個人病院に電話をかける。ボタンを押す直前に、
「信也さん、救急箱はありますか?」
「ある。そこの棚の一番下。湿布も入ってるはずだから」
「わかりました。ありがとう」
顔も見ずに言ってのける。礼を言われたことが心苦しかった。責められているのではないと分かったから、尚更だ。
(……畜生っ!)
頭を真っ赤に染まった血液が流れていく。その熱さに歯噛みしつつ、今すべきこと、最善である手段を必死に探し求める。
「……なぁ、美緒、さん。あんた、車に乗れるか?」
「すみません。私も免許は持っていません……」
「そういう意味じゃない。病院行くのにタクシー呼ぶから、付き添いで乗って行って欲しいんだ。俺もすぐ、チャリで追いかけるから……その、俺は、乗れないんだよ。車」
「わかりました。病院までは私が付き添います。その際に、保険証をお借りしますね。それと信也さんも、その手、すぐに治療しましょう」
「いい。十年前に比べれば、全然マシだ」
「……!」
その一言。相手を見ずとも、全身を切り刻んだと知った。自分にも跳ね返ったからだ。どくどくと、心臓が血を流す。
「――ダメです。私はもう、誰かが辛い顔をするのを見たくないの。だから、信也さんの怪我も、きちんと手当します」
「……え」
思わず、振り返った。
まっすぐな、優しい眼差しがあった。
相手も同じぐらい、恨んでるはずなのに、憎んでるはずなのに。
微笑んでいた。仮初の言葉や表情なんかじゃなくて。
耐えきれず、頬を伝うものがあった。
嗚咽をあげるのだけは、どうにか我慢する。
ふと、穴吹の言葉を思い出す。映画を見に行った、帰り道。
『猪口って、意外と涙もろいよね』
十年経っても、どこまでも、どこまでも、俺は子供だった。