4月1日
4月1日。割れない風船に僕の感情を吹き込んだなら、きっとこの町を覆いつくすであろう悲しみでした。
教室に入るなり放射線状に集中する僕への視線を、あえて言葉にあらわすならば嫌悪でも悪意でもなく「排斥」の一言に尽きます。
臭いものに蓋をする。人を噛む犬は保健所に送る。
それならば僕は?
――その答えが、学校という団体からの排他的な視線なのでしょう。
視線に耐え切れず、僕は目を逸らします。黒板を見ると、教師の誰かが書いたであろう「入学おめでとう」という文字がありました。それさえも皮肉に見えました。
入学式まで教室で待機と事前に連絡を受けていたので、僕は何も見えない聞こえないフリをして自分の机を探します。窓際の席でした。椅子に腰掛けて、机に突っ伏します。
腕で視界が遮られると、かえって周囲の声が耳に届きました。
「本当にこのクラスなんだ……サツジンシャの息子」
「こわーい。怒らせたら誰か殺されるんじゃね?」
無論、意味も無く人を殺したりなどしません。ですが僕の父親が殺人を犯した以上、僕自身も普通の目で見られたりなどしません。
祖父も殺人者です。父も祖父も精神に異常をきたしていたのかもしれません。僕は殺人者の孫でもあり、息子でもあるのです。
僕は殺人欲求のDNAを引き継いでいて、いつか当然のように人を殺すのではないかと周囲の人間は懸念しているわけです。
祖父も父も話したことがありません。僕が生まれる前に死刑になったからです。母はいますが、ストレスで言葉を話せません。兄弟もいません。
一般的に見て僕は「かわいそうな高校生」として見られるか「ただの殺人者の子孫」としてツバを吐かれるかは、今の教室の状況を見れば一目瞭然でした。故に、呆れとの淵を彷徨うような、悲しみです。
「おい、何でここにいるんだよ。ケーサツ行けケーサツ」
茶色い髪を逆立てた、目つきの悪い男が僕の横でそう口にします。僕は突っ伏したまま、聞こえないフリをします。
「シカトか? お前のことビビって誰も手を出さないかと思ったら大間違いだから」
その認識こそ大間違いで、僕自身は普通の高校生として青春を謳歌したい。男は僕の机を蹴り、僕の体は大きく揺れました。さすがにこれ以上ごまかせないと僕は上体を起こし、男に鼻を向けます。
「お? さっそくヒトゴロシ見せてくれんの?」
男は眉を上げます。僕はズレた机の位置を直し、男をもう一度見つめます。
怒りも悲しみもどこかへ行ってしまい、呆れてしまいました。僕が何か喋ろうと口を開いた矢先、聞き覚えの無い声が響いたのです。
「初日からはしゃぐなよ、チキン野郎」
――その声はヒーローという言葉が似合うような男前の声でも、同じく髪を染めて逆立てたような男の声でもありませんでした。
……透き通るような、女性の声。
「ああ?」
男が振り返ると、ショートヘアーの色白い小柄な女性が立っていました。女性は怖気ついた様子も無く、むしろ男に歩み寄っていきます。
教室はざわめき、遅れて他の教室から野次馬が集まってきました。
「ニワトリはトサカが大きい方が男前だけど、アンタはどんなに髪を逆立てても男前じゃないね。頭の悪さは鳥並みだけど」
「なんだ、てめぇ。死にてぇのか」
「……『お? さっそくヒトゴロシみせてくれんの?』」
彼女は一歩も引かず、挑発を続けます。僕は何も出来ず、ただそれを見ていることしか出来ません。
「女が調子乗るなや」
「調子に乗ってるのはどっちだよチキン野郎。ビビってんのは自分の癖に。それとも殺人者の息子を倒してヒーローにでもなる予定だった?」女性は人差し指を立てて、「残念。君は脇役だ」
男が目を見開いて、腕を振り上げた瞬間にチャイムが鳴り響きました。男は振り上げた腕をゆっくり下ろして、舌打ちをした後僕らを睨みながら野次馬の中へと消えていきました。
女性は目を細めて、それを見送った後に溜息を吐きました。
「……ったく、やっぱり人は見た目だよね」
「あ、あの」
「?」
「助けてくれて、ありがとうございます」
女性に言うのもおかしい話かもしれませんが、言わずにはいられませんでした。
「いいよ。君が何者であろうと私には関係ないし」
「あの、別に変な期待して聞くわけじゃないんですけど、何で助けてくれたんですか?」
彼女は散り始めた野次馬に目をやり、鼻で笑ってこう答えました。
「人は見た目、だよ。君は悪い人には見えない」
ツバを吐かれて育ってきた僕にとって、そのような言葉は生まれて初めてでした。心の何処かで花が咲いたような気持ちになり、剥がれ掛けていた感情が潤されていくような幸福感に満たされました。
涙が出そうになりましたが、堪えます。声が少し震えながらも僕は答えました。「ありがとう」
「うん、だからさ」
「?」
「私とこの町の“不思議”を解決していかない?」
奇をてらった告白かと一瞬思ってしまいましたが、僕はまだ彼女の名前さえも知りません。
それでも浮き足立った僕の心はその弾みのまま何も考えず「いいですよ」と答えてしまっていたのです。
その日はそれ以降彼女と話すこともなく、無事入学式を終えて帰路へと足を進めます。鉛色で湿った空が、今にも落ちてきそうでした。