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第六章「新都社でも読まれる小説を書くために」(下)

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「次回は割とすぐに更新予定」と書いておきながら三ヶ月経ちました。「次に書くことは既にもう大体決まっている」という場合、逆に「いつでも書けるのだから。書き出したらすぐ出来るから」と気の緩みに繋がってしまいがちです。ハイスピードで更新すればいいというものではありませんが、仕事として書いている訳ではない分、自分を甘やかしてしまうと際限なく遅れてしまいます。何より自分を律することが連載では一番大事です。ごめんなさい。


<推敲編>

 推敲には時間がかかります。推敲していると気が滅入ります。推敲しても推敲しても誤字脱字を見つけてしまい、自己嫌悪に陥ります。修正した箇所だけ見ると綺麗に仕上がっていても、全体的に見るとそこだけ浮いている、ということもあります。ようやく完成させてアップロードした後、最終確認してみると、何故今まで気付かなかったのだろう、と不思議に思えるような間違いに出くわすこともあります。仕方なく一旦削除して、修正したファイルをアップロードしようとしたら、テンポリオタイムに入っており、エラーが出る、といったこともあります。
 さてそんな推敲作業を、もう少し楽にするために出来ることを幾つか。

・5W1Hを意識する
 いわゆる「Who(誰が)」「What(何を)」「When(いつ)」「Where(どこで)」「Why(なぜ)」「How(どうやって)」というやつです。
 小説は新聞記事ではないのですから、何もこの全てを必ず明記する必要はありません。ですが、「この台詞、誰が言っているのかわからない」と読者を混乱させたり、「何故このような行動をするのかさっぱり理解出来ない」と読者を呆れさせたりすると、読むのを止められてしまうかもしれません。また、作者は分かっていても読者には伝わっていない、というのが起こりがちなのが「Where(どこで)」です。しかし情景描写を書き込みすぎると文章が退屈になりがちです。話の本質に関係のない部分について細かく書くと、そこに何か重要な意味があるのではないかと読者が誤解します。「When(いつ)」に関しても、話の舞台となっているのは朝なのか夜なのか、春なのか夏なのか、晴れているのか雨なのか、ということをある程度決めてから書いた方が奥行きが出ます。繰り返しますが、だからといって「今は朝、季節は夏でものすごく蒸し暑く、灼熱の太陽が地面を焦がし、海水の大半は蒸発してしまった。語り手である僕は十二歳の隻腕の少年で、母は失踪して父親は刑務所にいる。歳の離れた妹が、この星から脱出出来る権利を得られる十五歳になるまで、僕は彼女とこの世界を生かし続けるって決めたんだ」というように書き進めてしまうと、説明口調になり、小説としての魅力が死んでしまいます。
 一旦時間を置き、客観的に読める視点を獲得すれば、「ここ、よくわからないな」という部分が見えてきます。そこを適度に補強していきましょう。

・書き写し推敲
 個人的にお勧めの推敲方法です。
 ある程度原稿を完成させた後、読み返しながら誤字脱字や表現をチェック、というやり方が一般的だと思いますが、この場合、何度も何度も同じ文章を読み返すため、気分が憂鬱になってきます。しかも、部分的に手直ししたところが、全体のバランスを崩してしまうということも起こりがちです。
 書き写し推敲とは、原文を横に見ながら、そのまま一字一句書き写していくことです。一見ただの繰り返し作業に思えますが、原文を書いていた時よりは速く文章を打てるため、表現の被りに気付きやすかったり、文体の統一を取りやすかったりします。書き写していて不快になるような文章なら、それは悪文ではないでしょうか。
 ワープロ普及以前は、手直しして朱を入れすぎた原稿は新たな紙に清書していたことでしょう。先祖返り的な推敲方法といえるかもしれません。
 ただしこの方法は、タイピング速度が遅い人や、逆に速筆過ぎて一回分の文字量が多い人には大変かもしれません。また、どうしたって打ち間違いによる誤字脱字は出てきますから、結局読み直しは必要となります。なかなか楽な道はありません。

・間違いはどこまで許されるか?
 編集者や校正者がいない分、素人が完璧な文章を仕上げて発表するのは困難なことです。軽い誤字脱字は出てきます。それが「Bカップ意外は認めない」「以外と胸あるんだね」といったよくある変換ミス程度ならば読者は軽く流してくれるかもしれませんが、見過ごしていられない大きなミスであれば、「こんなことですらチェックを怠った作者」を見切られてしまうかもしれません。
 次にあげるような例は、読者が二度とあなたの作品に戻ってこない可能性を高くします。

・一人称がころころ変わる。
 例「初めて彼女に出会ったのは私が小学五年生の頃。放課後の校庭で僕は一人ぼっちで二人三脚の練習をしようとしていた。運動会で二人三脚の選手に選ばれたのだが、僕の相方になってくれる人はいなかった。練習の仕方がわからなくて途方にくれる私の前に、隣にある中学校の制服を着たお姉さんが現れた。
『君、さっきから変な踊りしてるけど、大丈夫?』
 心配そうに僕を見下ろすお姉さんを見た瞬間、俺に思春期が訪れた。」

・冒頭でいきなり誤字。
 例「エロスは激怒した。」

・単純な誤変換であっても、それが登場人物の名前である場合、読者に混乱を引き起こすだけでなく、「自キャラも愛せない作者」と読み取られてしまうかもしれません。

・書く際に少し調べれば間違わずに済んだ、事実誤認による誤った記述なども、「こんなことも調べずに書いているのか」と読者の失望を呼びます。

「一つだけ些細なミスはあったが、その他は非常に丁寧に仕上げられた作品」と、「どこにも推敲の跡が見られない、間違いだらけの文章の塊」では、どちらが多くの読者を獲得しやすいかは明白です。100パーセント完璧な文章を仕上げるのは無理でも、98~99パーセント程度の完成度に持っていくのは、当たり前にやるべきことだと考えた方がよいでしょう。
 文章作法について書いたところでも述べましたが、推敲ゼロの文章であっても、読んでくださる優しい読者は存在します。ですがどうしたってその数は少ないし、彼らもいつまでも優しいわけではありません。
 推敲作業を楽しめるようになれば、一歩階段を昇ったことになるかもしれません。それは小説作家として歩む一歩ではなく、マゾヒストへの階段かもしれませんが。
 

<読書編>

 世の中には一冊も本を読まずとも面白い小説を書ける人がいます。
 本を読むとその世界観や文体に影響を受けたものしか書けなくなってしまう、という人もいます。
 だから本など読まなくもいい。
 小説を書くのに小説を読む必要はない。
 といった主張を聞くこともあります。
 もちろんそれで小説を書ける人ならそれでいいと思います。
 ですが私はそのような才能は持ち合わせておりませんでした。小説を読んできたから小説を書こうと思ったし、創作意欲が一番湧くのは、面白い小説を途中まで読んでいる時です(読み終えてしまうと、物語の終結とともに意欲も消えてしまいがちです)。誰かの影響をモロに受けてしまった時は、開き直って作風や文体そのまんまなものを書いたりして、大抵お蔵入りさせます。
 読書は人生の必需品ではありません。物書きにとってすらそうであるかもしれません。私自身がこれまで成してこれたことのちっぽけさから鑑みても、ひょっとしたら全てが間違いであったかもしれません。
 ですからこれから書くことにあまり自信はありません。参考にもならないかもしれません。

・あらゆるものを読む必要はない
「読書が大事」と言われると、古今東西の名作に手を伸ばして読み漁る人がいます。若かったり時間があったりする時の濫読は、その後の読書人生における基準になったりするので否定はしません。ですが「名作と呼ばれているから」といって、「今の自分には全く面白く感じられないもの」や、「当時は名作だったのだろうけれど、時代が変わった現在においては古びてしまった作品」などを無理して読む必要はありません。読むタイミングもありますし、ある程度の読書経験を経てからだとより楽しめるものもあります。
 十歳から八十歳まで、一日一冊のペースで読み続けたとしても、たかだか二万五千五百六十七冊しか読めません。新刊として発行される書籍の点数は年間七万点を超えています。限られた読書枠は、「世間的に売れている」「偉い人が読むべきだとあげている」といった基準に頼らず、「自分にとって重要な、大切だと思える本」に使うべきです。
 そういった眼を養うためにも、ある程度の読書量はやっぱり必要となるとは思いますが……。

・小説だけが読書ではない
 小説を書くのだから小説だけを読んでいればいい、というものではありません。一冊の小説が書かれる場合、大抵の場合作者は参考資料として多くの文献を読んでいます。世の中には小説以外に様々な書物があり、それらを読むと小説とはまた違った刺激を受け取れます。小説と違い、興味のある部分だけを読んでも構わないのです。昨今乱立する新書のレーベルですが、これまでなら本を出すようなことがなかった人たちが執筆しており、文章にこだわりすぎる小説作家のものより読みやすく、ずっと興味深い内容のものもあります。
 前書きでいきなり愚痴を書いたり、見当外れな社会批判をしていたり、やたらと英語をカタカナ化して乱発するような本は、地雷であることが多いので注意しましょう。

・既に物語は書き尽くされている
 多くの物語は既に書き尽くされています。今さらわざわざそこに何か足す必要なんてないくらいに。複雑な家庭の事情やら失恋話やら、書き手にとっては重要な問題であっても、そんなものはごくありふれた話でしかありません。もしあなたが斬新なアイデアを思いついたとしても、過去の作品を繙けば、類似の作品を見つけてしまうでしょう。
 ならばもう書く必要はないのか。小説なんて、自分なんていらないのか、というとそんなことはありません。時代は変わります。読者も変わります。何よりあなたという存在は、過去の書き手といかに似ているところがあろうが、あなたという独自の存在です。ありふれた話であろうと、必ずあなたの色が作品には現れてきます。
 過去に似たような作品が書かれていることを知っていれば、それとは違う要素を入れることを意識して出来ます。しかし読書経験が浅いと、いかにも類型的な話を書いておきながらもそれと気付かないことがあります。
 また、ある程度の読書量がある人に起こりがちなことですが、せっかく斬新な作品を書いても「こういうのは今まであまり書かれていないし一般的でないから駄目だ」と、わざわざ自分色を薄くして、没個性的で凡庸な作品に自作を改悪してしまうこともあります。
 
 小説を書くにあたり、何が正解かなんて答えはこれからも出てこないでしょう。しかし「これはもう古すぎる」「このやり方では書き進められない」「自分はこの書き方が一番性に合っている。だが間違いなく一般受けはしない」といった判断は自分の中で出来ます。自分の書いたものは全て傑作であるという肥大化した自己意識を持ち続けていても、現実とのギャップにいずれ打ちのめされます。他を知るだけでなく、自分を知るためにも、ある程度の読書は必要だと私は考えています。


<鍛錬編>
 
 何事も上達するためには練習や修行が必要です。一球もボールを投げず、素振りもせず、プロ野球選手になった人はいないでしょう。絵を描くにも、摸写だとか、デッサンだとか、色づかいだとか、繰り返し修練し続けなければいけないことがあります。
 ところが小説の場合、目に見えて分かる基準もなく、語彙が多ければいいというものでもなく、拙い文章で書かれているイコール駄作、というわけでもないため、日頃の努力など何もしない方もいます。実作が一番の練習になるのは確かなのだから、それでいいのかもしれません。ですが、たまに思いついた時にちょこっと書いて、すぐに発表、ではなかなか基本的な力は付かないと思います。センスのある人ならそれでも反応を得られます。天才なら努力なしに傑作をものに出来るでしょう。
 ですが残念なことに、才能に恵まれている人というのはごく一部です。そして彼らもいつまでも才能だけでやっていけるわけではありません。
 書くジャンルや目指す方向性により、努力の仕方は人によって違うでしょう。ですので、ここでは私が個人的に「これって文章修行になっていたのかな」と思えることを紹介します。あなたはあなたの鍛錬方法を模索してください。

・書き写し
 私は読書をする際、本によく付箋を貼ります。本に直接何か書き込んだり、読書ノートを作って雑感を書き込んでいったりといったことはせず、「気に入った文章」「新鮮な知識」「面白い言い回し」など、とにかく少しでも気になれば付箋を貼っておきます。
 その後、小説の文章ならそのまま、小説以外なら、内容を簡潔にまとめるなどして、テキストエディタに書き写します。特徴ある文体の作家の小説から数多く書き写した際は、一日中その文体で物事を考えたりもします。
 この行為が実際に役に立っているかは疑問です。校正された文章を書き写すため妙な間違いはないはずなので、それが僅かに血肉となっているかもしれません。
 書き写したテキストファイルを読み返すことはほとんどありません。何かの際に引用するにしても、その本の中で書かれていたから意味があったのであり、一部だけ抜き出しても仕方がないと思えることもあります。余談ですが、この連載では自分の言葉で書くことを意識しているので、数多ありそうな漫画家・小説家の名言を引用するようなことは極力避けています。
 いきなり何か小説を書き始めようと思うとなかなかスイッチが入りませんが、まずこの書き写しから始めると、準備体操代わりになり、スムーズに執筆に移行することが出来ることもあります。
 あまり影響を受けすぎるのは危険なので、好き過ぎる作家の文章などは逆に書き写さない方がよいかもしれません。
 タイピング速度は速くなります。
 

・毎日何かしら書く
 私は以前、一日一編の詩を書くことを三年ほど続けていました。俳句にはまっていた頃は数ヶ月間毎日七句詠んでいました。現在はtwitterでツイッターノベルというものを毎日書いて四ヶ月になります。詩も俳句もツイッターノベルも、その一部を小説に組み込んだり、小説の原案として使ったりもしています。
 しかしこれには欠点があります。一日一編書き続けるのは勤勉なことに思えますが、いちいち完結させてしまうので、長編には繋がりません。事実私は長編小説を書き上げた経験がありません。
 ですからこれを読んでいるあなたは、私を反面教師とするとよいかもしれません。同じ毎日書くのでも、長編を少しずつ書き進めていくのがよいと思います。

・辞書から単語を書き写す
 これも結構長い間やっていました。パソコンではなくノートにペンで。やはり準備体操的な意味合いがあったと思います。辞書を引くと、聞いたこともない、使ったことのない、これからも使いそうにない言葉が色々載っています。英語や慣用句用にノートを分けたりもしていました。
 おそらくこれまであげた中でも一番役に立っていないでしょう。語彙を増やしたいのなら、引いた言葉を用いた文章を作るなどするとよいかもしれませんが、私は背伸びした言葉を使おうとは思いませんでした。

・詩の暗記
 好きな詩を一編まるごと暗記して暗唱出来るようにしていました。今では一部しか覚えていません。あまり長続きはしませんでした。繰り返し暗唱することで詩が色褪せていくから、というよりも、自分の詩作に影響が出過ぎたせいだったと思います。
 好きな短編小説を暗記しようと考えたことも一時期ありましたが、すぐに諦めました。

・その他
 いわゆる「小説の書き方」系の本は、読み物としてはどれも面白く、参考にする部分も多いと思われます。しかしそれらは大抵の場合、成功している作家が自分が成功した経験を元に書いているとか、「自分に弟子が出来たらこういう修行をして欲しい」という願望に基づいて書かれていることも多いので、真に受けすぎるのも危険です。「水の入ったコップを観察して、それを描写する文章を十種類書け」だとか「小説執筆に友情は不要。全ての友人とは縁を切れ」といったこと全てを実行するのは大変です。あなた自身の「小説の書き方」を作り上げるための参考程度と考えるのがよいでしょう。

 あなたが作り上げたあなた専用の方法論も、一作ごとに、また歳を重ねるごとに変えていきましょう。一つのやり方に固執していると、成長の妨げとなります。古びていきます。自分の理想通りに小説が書けることなんてめったにありません。試行錯誤の繰り返しをむしろ楽しめるようになりましょう。
 
 

次回は「更新速度を保つために」
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