「ね、ねねねねね鼠小僧が、でで、でたぁっ!」
耳障りな警報のベルが高らかに異常事態を告げている。
「何?」
続いて、各所にざわめきが起こりはじめる。
「馬鹿な、警備は万全だぞ」
小さな城程もある館には三十人もの警備員。セキュリティは万全である。いや、そのはずであった。
「本当に盗られたのか?」
時刻はジャスト深夜十二時。
「ヤツは今どこだ、逃げたとしても、どうやって逃げたというのだ」
予告状どおりの犯行。
「信じられん、本当にないな……」
騒ぎを聞きつけた館主が駆けつけ、時価で数億円はするだろう絵画が嘘か魔法のように消失しているのを確認する。怒りよりも驚きが先行したのか、太り気味の彼は一つ嘆息して、破られたドアの前でおろおろする警備員に声をかけた。
「おい、まさか君が盗んだんじゃなかろうね?」
「ひぃ、ちっ違います! 爆音に加えて警報が鳴ったと思ったら、もう絵画はありませんでしたっ!」
警備員は見たまま、聞いたままを述べた。
「このドア、まるで蹴破られたかのようだ。こんなものを見過ごすことなどあるのかね?」
彼らの足下には、鉄製のドアがぺしゃんこに拉げて倒れている。
「しかし本当に音しか聞こえなかったんです、本当です!」
引け腰の警備員は弱気な声を裏返らせてわめいた。
「……まあ、犯行については監視カメラを見ればいいが」
部屋に一歩踏み込めば、絵画を最も近くで警備していたはずの大柄な男達は四人とも皆伸びていた。その黒服は乱れているということもなく、血の一滴すら流れていないところを見ると、抵抗した様子がまるでない。
一体何がどうなっているのだ。
もう一つ嘆息して、館主は声を張り上げる。
「とにかく鼠小僧を探せ!」
出会いとは、いつでも突然である。
少年は、日が落ちてもなお脂ぎるようにけばけばしい街の中を歩いていた。角を曲がって、見飽きた景色を視界に入れる。木にも、建物にも、目がチカチカするようなイルミネーションばかり装飾されており、それもすべてが寒色系、すなわち青色ときている。幻想的と言えば聞こえはいいが、全員が全員そう感じるわけじゃない。少年はさらに、歩を早めた。もはや競歩に匹敵するスピードになりつつある。こんな電飾だらけのところに長くいたら気が狂ってしまいそうだ、という彼の持論が彼にそうさせているのかもしれない。
一本道を折れさらに人通りの少ない道へ入り込むと、大型のダンプカーが数台、淀んだ空気を挽き潰すみたいに少年の横を走り抜けていく。それが吐き出す排ガスは、車内で火事でも起こっているのか、と言いたくなるほどに真っ黒だった。少しでも吸い込んだりすれば将来、重篤な病気への引き金になるような気がして、彼は一瞬息を止める。
何がアクアクリアの美しい街づくり、だ。この街が綺麗だなんて論を振りかざすのはこの街に住まない人間だけに決まっている。いや、確かに綺麗といえば綺麗だろう。残念ながら、嫌になるほどに。そして面白いくらい無味乾燥だ。住んでみればわかる。顔だけは人形のように可愛らしいテレビタレントを、よく知りもしないのに好きになるのと同じだろう。少年はふてぶてしく思った。
思いながら、彼は信号の指示に従って足を止め、短く刈り揃えられた頭を掻く。
「……」
なんだかイライラするな。なんだか? いや、理由ははっきりと、はっきり過ぎる程わかっていた。昨今メディアを賑わせている、あの泥棒のせいだ。少年はあの泥棒のスタンスが、とにかく気に入らない。
「チッ」
腹立ちまぎれに少年は、足元に転がっていた適当な石をぽーんと蹴り飛ばした。石はころころと転がって横断歩道の中程で停止する。車が通れば何か都合がよろしくない気がしたが、そんなものは知ったことか、と少年は無視を決め込んだ。
鼠小僧、か。
正義でも気取ってるつもりなのだろうか? 泥棒風情め。加えてふざけた街にお似合いの、ふざけた市民だ。一体全体、今やあの泥棒を支持する奴らまでもが現れ始めている。おふざけは幼稚園のお遊戯会までにして欲しい。そう思わずにはいられない。
蒼く病的に色づいた風が吹いて、彼の頬を生温く撫でる。
すっ、と。
足下で何かが動く感覚。
「……!」
少年の脇をひょっと通り過ぎたのは、小さな猫。仔猫と言ってもいい大きさの黒猫だった。普段そんなものを気に留めるような性格ではない少年も、今は勝手が違う。縁起が悪いとか、そういうレベルの話ではない。
おいおい、まだ信号、赤だぞ。
後ろ足を片方怪我しているのか、ぴょこぴょこと不自然な動きの仔猫は、通常の半分以下のスピードで横断歩道を渡っていく。
当然、その末路は容易く想像出来るし、
「あ」
現在進行形でそうなりつつあるのを少年は今、確認してしまった。
夜になると多く見かける、先程と同じ型のダンプカー。それが猛スピードで走り来るのが嫌でも見えてしまう。あんなのに追突されれば即死だ。猫は勿論、自分自身も。
このままだとまずい。が。危険なのは自分も同じ。一瞬、辺りを見回すが、他に人間はいない。もう夜遅いこの時間帯だ、仕方ないだろう。それに他人に頼るような考え方は好まないのが、この少年だった。
「……しゃあねえ」
駆け出す。
少年はとにかく、駆け出した。背負っていたバックをその場に投げ捨て、猫に向かって一心に走る。少しでも判断が遅れれば、確実にどちらかが死ぬ。心を決めた瞬間に、彼は動き出していた。
目の前で死なれるなんて、そんなのは御免こうむりたい。
十メートル、八メートル、六メートル――手繰り寄せるように仔猫との距離は縮まっていく。このままいけば十分間に合うはずだ。そう思った刹那だった。
「いッ!」
彼は、躓いた。いや、躓いたというよりも、踏みつけてバランスを崩したのである。何を? それは勿論、自分の蹴り飛ばした小石を、である。
「やっべ……!」
ジェットコースターが頂上から落ちる瞬間のような感覚が、背中を駆けあがる。体勢を崩した少年は何とか倒れないように踏みとどまろうとするが、一歩前へ足を出すたびに上体は崩れ、前へ前へと倒れていく。仔猫までは辿り着くだろう。しかし、そこまでだ。猫を抱きあげてダンプカーを避け、対岸まで渡り切るなんてのはどう考えても無理がある。熱烈なまでに身体が熱くなるのがわかった。向こうもブレーキをかけるだろうが、この距離だ。一度倒れこんでしまえば確実に間に合わない。
ダンプカーはクラクションを鳴らしながら、少年が手を伸ばせば届く範囲にまで接近、少年の精悍な顔つきがそのライトに照らされる。
ライトまでご丁寧に青白い。
「くっ!」
マジかよ。こんなところで死ぬのか? こんな、ところで。
……姉ちゃん、ごめん。
少年は目をつむり、その瞬間。
自分の身体がふわりと浮きあがるのを感じた。ただ、それだけだった。
全身を打つような衝撃もなければ、痛みも何もない。ただ、身体がほんの少し持ち上がって、そしてほんの少し移動したというだけ。
目を開ける。少年の目前には道端の植え込みがあった。
「……?」
何があったんだ。
「にゃー」
すぐ脇から仔猫の鳴き声が聞こえてくると同時に、後方ではダンプカーが停止する音が聞こえる。ずいぶんな急ブレーキだったのか、タイヤ痕が長く尾を引いていた。
助かったのか?
少年ははっとする。まさかこれは超常現象じゃあるまい。思いつつ立ち上がり、後ろを振り向く。
「えっと」
胸に仔猫を抱いてそこに立っていたのは、一人の女性だった。少なくとも少年にはそう見える。
「無茶するねえ、君」
澄んだ高い声が、明るく返ってくる。どうやらやはり女性のようだと納得してから、上から下までざっと見て、少年は驚いた。
艶やかな白髪は長くのばされており、肌はアルビノであるかのように白い。身体は見ているだけで不安になりそうなほど細身。簡素な白のタートルネックにジーパン。背丈はそこまで高くなく、少年よりも少し低いくらい。しかしどこか常人とは異なる雰囲気を身にまとっていて、神秘的、というのがぴったりくる。
「あの――失礼ですが、あなたが俺を助けてくれたんですか?」
どうやってこの小柄な体で?
「ああ、私結構走るの速いんだ」
「はあ」
そういう問題ではない気がしだが、しかしそれは口には出さない。
極めつけは眼だ。穏やかな目もとをしてはいるが、その瞳はこの蒼い街には不釣り合いなくらい、赤い。
紅い。
血のような暗さもなければ炎のような明るさもない、真の意味での朱。漆黒の闇に浮かぶ赤は、街灯に照らされてぼんやりと輝いている。少年は眼を合わせて、その双眸に吸い込まれるような感覚を覚える。
この国の人間ではなさそうだ。しかし話す言葉はしっかりと日本語である。
「どうしたの? まずはお礼が筋ってもんだと思うけど」
そういうと、女性はにっこり微笑んで見せた。
「っ! あ、ありがとうございました!」
その花のような笑顔に、少年は顔を赤くしてお辞儀をし、彼女から目をそらす。それこそ、人形のように整った顔から目をそらす。白い髪、白い肌、そして真っ赤な瞳。
まるで――まるで。
「子供とかならともかく、仔猫くらいで飛び出しちゃうかな、普通。そういうの、おバカさんっていうんだけど、世間的には。向こう見ずともいうか。今回はたまたまラッキーだったけど、あんまりこんな真似しない方が身のためだね」
辛辣な言葉は、少年の火照る身体に冷たくしみ込んだ。
「……すいません。そういう性分で」
「周りの人に迷惑かけてない? 私の言えたことじゃないのかもしれないけど。まあ君なら霊界探偵くらいにはなれそうだけどさ」
言って女性は小さく笑った。
「あの、何かお礼を」
「お礼、ねえ。ま、縁があればそのうちまた会うでしょ。ガキからお金巻き上げる趣味はないし。出世払いってことで、また会ったときにお願いするね」
「で、でも」
急に申し訳なさが溢れてきた少年は言いつつ顔をあげる。
「……あ、あれ?」
そして気づく。
「いない…………?」
残ったのは少年と猫と、おっかなびっくりトラックからこちらへ駆けてくる運転手だけだった。
まさかこの日がこの少年、水火大封(すいかたいほう)の運命を変える日だとは、本人は思いもしない。