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◇10.大ピンチ(焦)【挿絵】

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 身を乗り出し、画面を食い入るように見て、自分の日本語力に欠損がないことを確認した上でもう二回テキストを読みなおし、大封はさらに青ざめる。
「……どういうことだ、これは」
 勿論、何度読んだところで内容は変わらない。それどころか、画面右下には彼と彼女をあざ笑うかのように減り行くデジタル時計が表示されていた。
 タイムリミットまで、四分四十秒。
 二人には何のタイムリミットかさえわからない。わからないが、しかしこの数字を呑気に見過ごせるはずもない。
「おい! どうするんだ!」
「……」
 りんごは口を開けて呆然としている。傍らで焦りと苛々を募らせる大封を気にも留めず、ただ漫然と画面を眺めている。これが感情を一ミリも外に出さない、りんごの本来の思考スタイルであることなど、彼には知る由もないが。
 大封は再びタイマーに目をやる。
 四分三十秒。
「おいッ!」
「……ん」
 ようやく彼の言葉に反応した彼女は、上の空気味のまま口を開く。
「しまったな」
「チッ」
 どこか反応の鈍いりんごに舌打ちして、大封はズボンのポケットからシルバーカラーの携帯電話を取り出した。
「東条、これでテメエの携帯に電話をかけろ」
「へ?」
「いいから早く!」
 声を荒げる大封に言われるまま、彼女はそれを受け取る。そしてそのまま自身の携帯電話の番号を入力し、通話ボタンを押した。
「ほい」
 りんごのバッグからバイブ音が響きだしたのを確認し、大封は携帯電話をひったくる。
「こっちは任せたぜ」
 そして次の瞬間、彼は回れ右、りんごに背を向け走り出す。
「どこ行くのさ!」
 りんごはあっという間に遠くなり行く後姿に声を飛ばすが、彼は振り返らない。一直線に前方のビルへとかけていく。
「……携帯を取れってことか」
 横目で彼を追いながら、りんごはけなげにも震え続ける自分の携帯電話を開き、通話を開始した。
 一方で大封は、身体の操縦を本能に任せて全速力でひた走る。
『こちら留守番サービスセンターです』
「冗談言えるくらいには冷静みてえだな。俺が安心したところで一回死ね」
『辛辣だね。で、何か考えがあるわけ?』
「なくはないぜ」
 時間がないことを意識してか、いつもの口癖も飛び出ないりんごに大封は早口で告げる。
「何がどう爆発してくれるのかは知らねえが、犯行予告の画像、ヒントがあるならそこだ。今向かってる」
『なるほど』
「監視カメラ、止められるか?」
『それくらいならお安いご用さ、もうほとんどシステムは制圧してるからね』
「なら今すぐ頼む!」
 傾けられるだけ身体を傾け、彼は開きっぱなしの自動ドアをくぐる。椅子にどかりと座って舟をこぐ警備員を素通りし、無機質なライトで照らされる簡素な廊下を、大封は左に向かって駆け抜けていく。
『大封君』
「どうした!」
『さっきからちらちらと平仮名でノイズが混ざってたんだけど、今度はまとまって文章がある。多分前のやつの続きだと思うよ』
 やっぱりそうか。
 自身の予想が的中したことに、彼は内心笑みを浮かべた。
「あの文章だけでさようならはありえねえよな、鼠小僧……!」
 さして複雑でもない建物内を走り回って部屋を幾つか通り抜け、そして彼は目的地へと辿り着く。
「……よし」
 何の装飾もない打ちっぱなしのコンクリートの天上、照明が四隅に一つずつ。薄暗くだだっ広い空間。胸ポケットから手帳を取り出し、数秒肩で息をしてから、彼は再び電話を耳に当てる。
 リサイクルできるゴミは、圧縮された後、ここからさらに別の場所へと移される。その再利用資源を一時保管しておく場所がこの一室だ。
「読みあげてくれ」
 本来ならば分別されてそのまま別の処分場に運ばれるのだが、住民の怠惰が余計なひと手間を増やしてしまっているともいえた。
 よく通るりんごの声が、受話器越しに流れ出す。
『いちゃいちゃするカップル猫が二匹、アメリカかぶれの夫婦鼠が二匹、そいつらを売り飛ばしてやろうともくろむ悪い人間が一人いました』
「……」
『彼らは全員ヒール島からジャスティス諸島に渡りたいのですが、あいにく二人乗りのボートが一隻しかありません』
 そして耳は受話器の向こうに集中させたまま、大封は目前の光景に息をのまされる。
『猫は自分でボートを漕ぐ事ができず、なおかつ猫は人間が見張っていないと鼠を捕って食べてしまいます』
 アルミ缶をコンテナのように圧縮したものが二つ、キャスターのついた台車に乗せられていた。その台車の持ち手には長めの紐が結び付けられている。そしてスチール缶を圧縮したものが二つ並んでいた。これは何にも乗せられておらず、取っ手も紐も装着されていない。
『さあ、ジャスティス諸島に渡してください』
 それらが、無表情な部屋の左端に集められている。
 そしてそれぞれ、アルミ缶を圧縮したものには鼠の耳のようなものが、スチール缶のものには猫の耳のようなものが取り付けられている。右端には、場違いなほど真っ赤なスプレーを使って、ポップかつ華やかな字体で『ジャスティス諸島』などと描かれたドアが見えた。
「……ご丁寧なこったぜ」
 つまり。
「ようはリアル船渡しゲームをやれってことか」
 すぐそこまで迫る夏の気配が、湿度の高い部屋の空気を一掃よどませている。
 勿論、人間は大封のことを指しているのだ。その首を、汗が一筋伝って制服の襟元にじわりとしみ込んだ。
『そうなの?』
「どうやらな」
 大封はこう認識する。
 これは二人乗りのボートの往復で全員を対岸に渡すゲーム。狼と羊と人間という組合せが一般的だが、ひねろうと思えばいくらでもひねれる問題だ。
 間違えば即ゲームオーバー、つまり爆発。
 条件は三つ。
 一つ目は、一度に運べるのは俺を含めて二つの対象だけということ。二つ目は、猫だけでボートに乗る事ができないということ。三つ目は、猫と鼠の組合せでボートに乗せることも、猫と鼠の組合せでどちらかの岸に取り残すこともできないということ。
 別に難しい問題じゃない。
「……後何分だ?」
 そこまで整理して、肝心の制限時間をりんごに尋ねる。
『ちょうどカップラーメンが一個作れるくらいだね。それで一五秒おつりがくる』
「……」
 大封は口だけで笑った。
「大したジョークセンスだぜ、鼠小僧って野郎はよ」
 そんな時間でこの問題を解けってか。
『私は私でプログラムの解除を急ぐよ、もしかしたらそれで止まるかもしれない』
「……ああ」
 彼は目を閉じて考える。考えて考えて考える。
 もはや彼の世界には彼しかいない。たった一人の孤独の独房で、思考の糸を四方から手繰り寄せていく。簡単なパズルだ、三十秒で解ける。二分あれば移動はできる。大丈夫だ、間に合う、絶対に。
 彼は考える。
 どれほど優れた人間でも、心が乱れれば思考も乱れる。敵は難易度の高い問題ではない。どこまで平静と冷静を保てるか、自分自身が敵だ。
「…………」
 そして
「……いや、待てよ」
 気づいてしまう。
「……おい、ちょっと待ちやがれ」
 そう。
「こ」
 彼は勢いよく左手で頭を抱えた。
「これ――解けねえじゃねえか!」
 そもそも、解き方すら一通りしか存在していない。そしてその解すらも、最後までは辿り着くことのできない不良品。
 まず鼠が二匹で対岸に渡る、そして一匹が戻ってくる。
 この時点で対岸には鼠が一匹。
 次に人間と鼠で対岸に渡り、そして人間が戻ってくる。
 この時点で対岸には鼠が二匹。
 最後に人間と猫が対岸に渡り、この時点で対岸に鼠が二匹、猫が一匹、人間が一人。
 それでおしまい。次の手はない。
 鼠が戻る事も出来ない、人間が戻る事も出来ない。
 おしまいなのだ。
 この条件で船渡しのゲームをやろうとすると、一匹。
 猫が余ってしまう。
「――違う、待て、落ち着け、考え方を変えるんだっ……!」
 滅裂なまでの違和感。絶対にありえないと思っていた事実がつきつけられる。
 ただ、からかわれただけ?
 馬鹿なッ!
「東条!」
『……ん』
「文字はそれで全部なのか!?」
『残念だけどそのようだよ』
 激しくのたうちまわる心臓を押さえつけて、大封は震えそうになる声で冷静になろうと努める。
「……さっき言ってたノイズとやらをつなげたら文章になるとか、そういうことは」
『ない』
 なんでもいい、ヒントが欲しい。
 解けない問題を出すような奴じゃない。
 俺の追っていた鼠小僧はそんな奴ではないはずだ!
 わけのわからぬ敵への信頼、そんなものが彼を諦めの深淵から遠ざける。
「とりあえず読みあげてくれ、何かがそこにあるんだ……あってくれなきゃ困る」
『ん、わかった』
 どこで何が爆発するのか? 彼に検討はつかない。そもそもこんなゴミ処分場を爆破してみたところで鼠小僧に何のメリットもないのではないか。鼠小僧の考えていることが全く読めない。
 そんなことを考えている間にも、時間は減り続けていた。何が起こるかもわからない時限タイマーは、しかし大封の精神を黙々と食らっている。人が恐ろしく思うものは、闇だ。何が起こるかわからないという正体不明そのものを恐れるのである。その意味で、今の大封は何にも勝る、名状しがたい恐怖に襲われている。
「早くしてくれ!」
『む、言うよ』
 一方りんごは冷静だ。
 声だけ聞いている彼は、そう感じてしまう。だが、実際は彼女も相当追い込まれている。ただそれが声や顔に現れないだけ。
 場は、混迷そのもの。
『まひ、と、うみ、すまぎ、うすのまね、こはにう、せもすの』
 手もとの手帳に、大封は聞いた端から書きつけていく。
『以上だけど、質問ある?』
 確かに一見何の意味もなさない文章。
「…………」
 何か、何かあるはずなんだ。
 緊迫。
 静かすぎる部屋は、メリーゴーランドのようにぐるぐると回っていた。その回転が自分の眩暈だと気付いた時、彼はふらふらと壁へ背中を預ける。
「……何か……」
 まひ、と、うみ、すまぎ、うすのまね、こはにう、せすもの。
 後頭部がチリチリと焼けるように熱い。覚えのある感覚に、彼ははっとする。一瞬手もとの文字がブレて、そして。
 ま――ひと――うみすまぎうすのま――ねこ――はにうせもすの。
 浮き上がった。
「ひと…………、ねこ…………」
 そして、アメリカかぶれの鼠。
 稲妻が、脊髄を走り抜ける。
「……ッ!!」
 さあ、ジャスティス諸島へ渡してください。
 彼の頭に、先程のりんごの声がリフレインした。
「……、そうだ、確かに全員渡せとは言ってねえ……! なめやがって!」
 大封は動き出す。
『何かわかったの?』
「ああ……後何分だ!」
『四十五秒だよ、間に合う? 間に合わないなら走って戻ってきたほうが』
「間に合うッ!」
 この問題は、要はどちらの猫を群れから引き離すか、という問題なのだ。
 ジャスティス諸島へ渡るのは、猫だけ。
 一匹の猫だけを、隔離する問題。
 大封は、二つ並ぶスチール缶を圧縮した立方体へと近づいた。一つには三毛猫の耳が、もう一つには黒猫の耳が。右側にある黒猫の耳を付けられた方には、赤いリボンも付いている。
「人が見ていないと猫は鼠を食っちまう――つまりさっきの文章からまず『ひと』の二文字を削除する」
 右がメス、左がオスということなのだろう。
「そしてアメリカかぶれの鼠ってのはつまり、鼠を英語にした『マウス』のこと。人がいなくなったことで『ねこ』の二文字がこの三文字を食う」
 条件は全て、文章のなぞ解きをさせるためのものだったのだ。
 人は勝手に内容を補間してしまう。
 しかしこれは初めから、船渡しの問題ではなかったのである。
「残った文字列は……」
 大封は携帯をコンテナの上に置き、腰をかがめ、
「みぎのねこはにせもの!」
 左側の圧縮されたスチール缶を力の限り持ち上げた。
 猫は鼠を食べてしまう。つまり偽物を置いておき、右側の『本物の猫』を連れていけばいい。
「重っ!」
 予想外の重量に前のめりになりながらも、なんとかそれを部屋の右端へと運んでいく。
『大丈夫なの?』
「……今話しかけるんじゃねえっ……!」
 言いながらも、彼はほとんど右端へと到達していた。
 ジャスティス諸島。
「ぅおらあ!」
 ドスン、とそれを足下に落して、彼は一つ雄たけびを上げる。
「おっしゃあああああ! なめんなこんにゃろおおぉ!」
 すぐさま携帯電話を取り、りんごにそれを報告する。
「タイマーは止まったか!」
『……まだみたいだよ、あと三十秒だけど』
「何だと!?」
 急転直下。
 まだ止まらない。
 そして、彼の足下でカタリと音がする。
 何かが外れた音。
 大封は、恐る恐る、目をやる。
「…………」
 圧縮されたスチール缶。その立方体の一側面が、剥がれ落ちた音だったようだ。
 
 そこから、時限爆弾がこんにちはしていた。

 タイマーは、あと二十秒を切っている。
「んなっ!?」
 これ以上ない、というほどに、大封は青ざめる。もはや蒼を通り越して白に近い。
『どうしたの!』
「こ、こいつが爆弾だ! どうすりゃいい!」
『……! その部屋、順路通りの通路じゃない小さなドアがあるはずだよ、そこから外にでて! 旧処分場に繋がってる連絡橋から山間の谷に投げ捨てればいい! こっちも後ちょっとでプログラムの解除が完了する、待ってて!』
「わ、分かった!」
 急いで重量十五キロはあるだろう爆弾を抱え、大封は目前にあったドアを開ける。ジャスティス諸島、と落書きのされたさびれたドアを。
 残り十秒。
 長い通路を数秒で走り抜けると、そこは暗闇の中、ところどころ穴の空いたぼろぼろの連絡橋へと出る。その橋のなれの果てのすぐ下を、街まで電気を送る送電線が走っていた。眼下には数百メートル下までかなり急な斜面が続いている。
 ただ、大封に余裕はない。
「間に合えッ!」
 力任せに、腕に抱えていた爆弾を放り投げる。
 次の瞬間、タイマーが零を示した。
「……!」
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