彼は一生忘れないだろう、身体の内側にある烈火の熱さと外側にある気だるい生ぬるさが、そっくりそのまま入れ替わってしまったかのような、そのぞっとするほど気味の悪い感覚を。頭皮の数センチ先に、冷たい鉄の気配を感じる。彼の意識を少なくとも一時間は奪い去っていくであろう、容赦なき鉄の気配を。
彼は、息をするのを忘れた。いや、忘れざるを得なかった。
彼の呼吸は停止させられた。
だけども時は止まらない。次の瞬間、必死の形相を浮かべた胡桃の腕が、電磁銃を携えてりんごへと照準を合わせようとする。しかし、その動作は強制的に中断させられた。
カチャ。
「おっと、そうはいきませんよ」
鳥取登坂の、電磁銃によって。
「とっとり君……どうして」
大封は、登坂に。
登坂は、胡桃に。
胡桃は、りんごに。
そしてりんごが、大封に。
各々、銃を突きつけ合い、睨みあう。
だが。
「……こういう構図は面白いね。撃てば撃たれるという緊張感から、結局誰も動けない。何かの間違いで噛みあうべきじゃない歯車がかみ合ったみたいな、大人数で輪になってやる空気椅子みたいな、無理やり重ね合わせたダンボールの蓋みたいな、そんな感じだ。一番不安定な状況が、実は一番安定してるっていう逆説的な状態」
りんごの声で、クワッドテールの彼女は呟いた。
「ちょうどいい」
放心する大封と腕の震える胡桃を一瞥して、彼女は続ける。
「少し話をしよう」
言うなり、腕で顔を隠しつつ、右側の髪の結び目のゴムをほどいた。左側も同様にすると、まとめられていた束髪がバラバラと中空に放たれる。
すると、量の多かった栗毛は、見る見るうちに色素を失っていった。まるで、汚れた布を流水にさらしたかのように、栗毛からそのマロングレーが急速に抜け落ちていく。
「あー、あー、あー」
発声を繰り返すと、その都度声が少しずつ低くなり、凛とした艶が出はじめた。
「ん、ん。こんなもんかな」
ピッチが落ち着くと、その声は大封には聞き覚えがある。透き通って耳朶を打つ声だ。
そして腕に隠れていた顔がどかされると。
「早着替え、完了」
白い肌に浮かぶ双眸は、真紅の輝き。
「いやあ、疲れた疲れた。りんごちゃんの口調真似するの、大変なのよねえ」
まばらな髪を整えるように首をひと振りして、眼にかかる白髪を左手でさらりとかき上げる。一挙手一投足に華があって、それは彼女こそがこの空間の支配者であることを暗示しているようだ。
「……テメエは……」
横目で、りんごだった彼女の変貌の一部始終を眺めていた大封は、それ以後言葉が続かなかった。彼の思考回路は、もう使い物になっていない。
白髪、白い肌、真っ赤な瞳。彼の連想は、間違っていなかった。
そう、まるで鼠のようだ、と。
もっとも、その姿に鼠本来の弱弱しさは微塵も感じられない。都立高校の制服を着てはいるが、むしろ存在感は、先程までよりもグンと増して迫ってくる。胡桃が息を飲むのが、音のない展示室によく響いた。
「とりあえず、大封君と、あー、そこの君? 胡桃ちゃんだっけ、にはあまり状況ができてないみたいね」
「実際十二時まではもう少し時間があります。種明かしでもしてさし上げたらいいのでは?」
登坂がニコニコしながら口をはさむ。
「だそうだけど。何か質問は?」
「……テメエ、一体、ふざけてんのか」
ようやくの思いで大封が絞り出した文章はぶつ切りで、しかも意味は細切れだった。
「ふざけてるのよ、真剣にね」
「ふざけんな……!」
「謹んでお断りしちゃうわ。私、ふざけるの大好きだから」
言って、彼女は「ふふふ」と花のように笑う。だが、目だけは笑わない。
「一つだけ言っておきたいことがあるから、初めに言うけど」
誰も、銃を構えた体勢から動こうとはしない。動けない。
「鼠小僧は、強盗なんかしないの」
「……」
なんだと。
そう言ったつもりだった大封は、自分の口が空回りしているのに気づき、驚いた。
「鼠『小僧』だからって男とは限らない、ってわけ。つまり、私が正真正銘本物の鼠小僧。そこの登坂君は紛い物、ってことよ」
「紛い物は少し酷いですね」
「酷いのはどっちかしら。勝手に鼠小僧の名前に傷つけてくれちゃって」
彼女の眼が鋭い光を放つ。
「……怖い怖い」
登坂はフルフルと首を振った。
「窃盗十二回、強盗五回――そのうち五回の強盗は模倣犯だった……、鼠小僧の犯行は……同一犯じゃなかったってのか」
オーバーヒートしていた大封の思考回路が、少しずつ回転を取り戻しだす。
「その通り。同一犯じゃあなかった」
「だからこうして、デートの約束をして、待ち合わせ場所を決めたわけです」
「そういうこと。人の恋路を邪魔しちゃだめよ? 胡桃ちゃん、大封君」
ふざけてやがる。
噛みしめる奥歯がきりきりと音を立てるのが頭蓋に響いて、大封は眉根を寄せた。だが、思考回路が復活したところで彼にはその使い道がわからない。
「俺様が愚かにも、そこの本物の鼠小僧に捕捉されてしまったのが、先月のことでした。そう、ちょうど一か月前でしたね。そしてちょうど、このバベルタワーの美術館に忍び込んだ時でした」
「うんうん」
白髪の鼠が相槌を打った。
「正直、殺される勢いでしたね。あのまま逃げていたら間違いなく獲物を奪われていましたし」
「君は賢かったと思うわよ、登坂君。お父上の処に逃げ込んだわけだから」
「俺様も、被害者の元に泥棒張本人が駆けこむことになるとは思いませんでしたがね」
大封の頬がぴくりと反応する。思念の暗闇に浮かぶ蒼白い点と点が、だんだん繋がり始めた。
「父も鼠小僧からの犯行予告を出されたとあっては、自宅でのんびりというわけにもいかなかったのでしょう。その日はバベルタワー二階のオフィスで警備員からの報告を待っていた。そして案の定盗まれたとあって、彼のその縮んだような背中は見るに堪えなかった。そこで俺様はあたかも初めから計画していたかのように、口から出まかせを捲し立てた、というわけです」
「……それがつまり、鼠小僧に盗ませたと見せかけて、実は自分が盗っただけだ、などという戯言というわけか」
「まあ、そんなところではありますね。そして俺様はセキュリティを強化させた。いつかそのうち、ほとぼりが冷めたころにこっそり本物との偽物をすり替える予定だったのですよ」
しかし、そうはいかなかった。
「その前に、私が獲物を横取りしちゃったからね、登坂君の」
白髪の彼女の言葉に、大封は考えを巡らせる。
三日前、銀界の邸宅で事件が発生している。あれも確か強盗事件だった。守護者の捜査資料によれば、その事件に関しても『人間の力ではない』の文字はあったはずである。
獲物を、横取りした?
しかしあの夜大封は白髪の鼠と出会っている。その時絵画など背負ってはいなかった。それはつまり、犯行に向かう途中だったということだろうか。
「それで急遽、招待状を出したというわけです。武力介入よりも、無力懐柔のほうがいいですからね。一つ、話し合いの機会でも持てればと考えまして。まあ、まさかあそこまで速いとは思いませんでしたが」
登坂は何かを思い出すかのように眼を閉じて、しみじみと呟いた。
「……速い? 何の話だ」
「ふふ、ご本人に直接お伺いになればよろしいのでは?」
大封からの質問を受け流すと、登坂は紅眼を見つめる。
「んー、そうだなあ」
考え込むように首をかしげてから、彼女は大封を見る。
「……それにしてもさっきから口が悪いよねえ大封君。私が助けてあげた時は、もう少し紳士的な対応をしてくれたと、そう記憶しているんだけども」
「クソが」
「そんな汚い言葉を吐くのは、この口かしらね?」
その言葉は、数センチのところで、吐息とともに大封の耳に吹きかかった。
「!? なっ……」
「遅い」
瞬間移動。
その四文字熟語が大封の脳裏をかすめるよりも早く、白髪をふわりと浮かばせたまま、彼女の左脚がまっすぐ持ち上げられた。
「がっ!」
そのひざが、大封の脇腹を打ちぬく。思い切りバランスを崩された彼は、右半身から冷たく冷えた床へ倒れこむと、腹を押さえて転げ回った。
「す、すいか君っ!」
「く……はっ!」
「これが答えよ」
だが、大封も銃だけは手から離さなかった。痛みを堪えて、床に転がったままその照準を登坂に合わせ、引き金を引く。
バチチチッ!
激しく弾けるような音と共に、彼の銃から登坂へと稲妻の橋が幾重にもかかった。
「!!」
胡桃を狙っていた照準が、ぶれる。彼女は身体をビクリと震わせて、すぐさま大封の行動の意図を汲んだ。手元の電磁銃で狙いをつけなおし、引き金を引く。再び弾けるような音と、閃光が走り、白髪の彼女の胸を貫く。
視界を揺さぶられるような蒼白い電撃が、二発、痺れる音と共に空間にひび割れを作る。
一瞬の出来事であったが、状況は一変した。
かのように見えた。
「……油断ならないわねえ」
「全くですね。やはり備えあれば憂いなし、です」
しかし熊でも倒せる電磁銃に貫かれたはずの二人は依然、直立不動の姿勢を保ち続けている。
「……!? どういうこと!」
胡桃が声を上げると、銃をホルスターにしまった紅眼が彼女をその視界に捉える。
「これ、なーんだ」
そして、制服の袖をまくりあげた。
「そ、それって……!」
彼女の腕には、白銀の腕輪が装着されていた。それは勿論、電磁銃を無効化する為の守護者の装備。それを見た大封の頭に数日前の一場面が蘇る。
AMSSを使っていた人間の中には、当然守護者もいたはずなのだ。あの時すれ違ったのは、AMSSを使うためじゃなく、この腕輪を調達するためだった。そう考えれば、得心できなくもない。
いや、だがこいつは俺と一緒に東条りんごを演じていたはずだ。あの一瞬でそんな真似ができたのか?
「まあ、早着替えが出来てちょいと足が速ければ、あれくらいは誰にでも出来るものよ。単なるトリックとマジック、というわけ。まあ盗みの才があるかどうかは重要だけどね」
「……」
一応の納得はさておき、彼は思う。では、鳥取は何故立っている? その心の声に従って彼を見上げれば、その足下には見覚えのあるメタリックなボディがあった。
そう、鼠だ。彼には見覚えがある。